陽の章 四
窓から覗く景色が白く染まり、目的地が近い事を知らせる。
正月を温泉地で過ごす家族連れで埋まった車内を、少し羨ましい気持ちで眺め、目を隣に戻した。
規則正しい揺れが身体を揺するたび、右肩に掛かった穏やかな寝息が心地好く耳をくすぐる。
周りの家族連れの様な楽しい旅行を、彼女はした事があるのか?
俺には母さんが居た。
しかし親父が居たとは言え、彼女達と一緒に住み始めた頃には、既に発現の兆候が在ったと言う。
彼女に、その親父に甘える事が出来たのか?
僅かでも、心安らぐ一時を持つ事が出来たのか?
無垢な少女の様な寝顔を見せる横顔からは、俺には想像すら出来ない時間。重い枷を課せられながら、温かく微笑んで来た彼女の辛さを、窺い知る事は出来なかった。
俺の肩に寄り掛かる細い肩で、一人重荷を背負い。同年代の少女達が両親に甘え楽しい学生生活を送る中。どんな気持ちで妹達を支え、親父の苦しみを見て来たのか。
もう、同じ思いはさせたくない。
もう二度と、心を凍らせたりは。
それが奴の言う業だとしても。
業、罪に対する罰。
白く細い首筋が、無防備に俺の目にさらされている。
たびたび見る夢の名残が、意識では押さえ切れない震えを手に伝え。
俺は小刻みに震える右手を左手で押さえ見詰めた。
「…耕一さん?」
「うん? もうすぐ着くよ」
僅かな身体の震えが起こしたのか、囁く様な呼び声が耳朶に届き、手から目を移し、眠そうに目を擦る彼女に何とか微笑みを作って応えた。
「そんなに眠っていました?」
千鶴さんは俺の返事で慌てて窓から外を覗き、手で口を隠し小さな欠伸をした。
「疲れているんだよ。忙しすぎるんじゃない?」
「いいえ、大丈夫です。ゆっくり眠れましたから」
列車に乗ってから眠り続け、寝顔を見られていたのが恥ずかしいのだろう。千鶴さんは頬を赤く染め、目を伏せ静かに微笑んだ。
「そう? なら良かった」
俺は苦笑しながら手を伸ばし、指で目尻に残る欠伸の名残を拭った。
「えっ? あっ! すいません」
赤く染まった頬でうろたえる千鶴さんの姿に笑いを洩らすと。ぷっと頬を膨らませ、千鶴さんは上目遣いに睨んでくる。
「そんなに笑わなくても、いいじゃないですか」
「笑ってないよ」
「笑いました」
拳を丸めムキになって言い返す千鶴さんの愛らしさが、また俺の頬を緩める。
「ほら。また」
「判った。もう笑わない」
俺はそう言って表情をキッと引き締め、真剣な顔を作った。
「…耕一…さん?」
正面を向いた俺を覗き込み、千鶴さんは眉を潜ませた。
「なに?」
昨日の千鶴さんの真似をして、俺は感情を押さえ冷たく返事を返す。
「…い、いえ」
少し困った顔で、千鶴さんは目を逸らす。
「あの…」
「うん?」
チラッと俺を伺った千鶴さんに気付かない振りで、俺は網棚を見上げ気のない返事を返した。
「…やっぱり。…耕一さんは、笑ってた方がいいかなって」
もじょもじょと指を弄りながら、千鶴さんは恥ずかしそうに言う。
「そうなの?」
俺は追い打ちに溜息を吐いて見せる。
殆ど不貞腐れた、中高校生のノリだ。
「耕一さん? そんなに意地を張らなくても、いいじゃないですか」
肩を揺すり出した千鶴さんの少し不安そうな声で、俺は堪え切れず笑いを洩らした。
「もう、すぐ子供みたいになるんですから」
怒った口調で穏やかに微笑み、千鶴さんはそんな俺を見ていた。
車中が騒がしくなり、俺は隆山温泉駅が近づいたのに気が付いた。千鶴さんと遊んでいる間に、アナウンスを聞き逃したらしい。
網棚から俺のバッグと千鶴さんのカシミアのロングコートを下ろし、コートを千鶴さんに渡す。
下りる準備はそれだけで終わった。
千鶴さんの荷物は、ホテルの宅配サービスで送ったので身軽なものだ。
なぜ女性の荷物は、あれだけ多くなるのか不思議だ。
まあ今回は、着物もあったからな。
乗客の最後尾からゆっくり駅に降り立つ。
都会とは違う、身体の芯まで凍える寒さが身震いを起こさせた。
「…ごめんなさい」
背中越しの小さな声に振り返ると、千鶴さんが俯き加減で小さくなっていた。
「あの、うっかりしてて。コートでも用意してくれば……」
何を謝ったのか首を捻った俺に、消え入りそうな声で言う千鶴さんの頬が赤いのは、寒さの所為だけではなさそうだ。
「大丈夫。このジャンバー、結構暖かいんだから」
俺は、でも。と言い掛けた千鶴さんの背に手を回し歩き出した。
駅を出ると、一面雪に覆われた景色が広がっていた。
白一色に染まった街並みの中、道路上の雪だけが溶かされ、黒いアスファルトをむき出しにしているのが、川の流れの様に目を引く。
黒い流れに沿って足元から視線を上げて行く。
流れの滞った黒い丸い環の端で、鶴来屋の大型送迎バスが、同じ列車で着いた人の群れを飲み込んでいた。
他の旅館に比べ一回りは大きいバスに、楽しそうな家族連れやアベックが次々乗り込んで行く。
「鶴来屋は、盛況だね」
千鶴さんは足を止めた俺の視線を追い、バスターミナルの光景を目を止め、嬉そうにゆっくり頷いた。
「ええ。でも予約のお客様だけだと、まだ満室には余裕があるんですよ」
「正月じゃ、飛び込みは無いだろうな」
「予約のお客様は、ご家族の方が多いですから。和室は埋まるんですが。どうしても洋室に空きが出来てしまって」
温泉で家族旅行なら、やっぱり和室かな?
落ち着くんだろうな。
「一杯ならいいってもんでも無いし。八分目で丁度いいかな」
「耕一さん、実業家には向いていないかも知れませんね」
面白そうに言った千鶴さんを見ると、温かな眼差しで小首を傾げ、穏やかに微笑んでいた。
「会社の方は、満室にならないと不安みたいで。もう少し、余裕を持ってもいいと思うんですが」
「うん。余裕は大事だよね」
実業家か?
「耕一さんは、随分余裕が在りそうですけど?」
「まだ、その日暮らしだからね。卒業したら、そうも行かないだろうけど」
からかいを含んだ千鶴さんの声音に応えながら、俺は腕を組んで考えて見せた。
「でも。やっぱり仕事一筋って言うのは性に合わないかな。家に帰る暇もないんじゃ、嫌だし」
「ええ。みんなと穏やかに暮らせるのが、一番ですから」
千鶴さんは温かい静かな笑みをたたえ、俺に同意を求める様に小首を傾げた。
周りから見れば、旧家のお嬢さんで若くして大企業の会長。知らない人が聞いたら、金持ちの傲慢とも聞こえるだろう言葉が、俺には重く響いた。
「そうだね」
不安なく穏やかな暮らし。
取り立てて幸せでもなく、平凡で慎ましやかな日常。
その一日でも早い訪れの為にも。
「ええ」
にっこり微笑み頷いた千鶴さんは、俺が鬼の血の呪縛を絶った今が、その時だと感じているだろう。
この笑顔を絶やさなくて済めば……
「さてと。それじゃ、みんなの所に急ごうか?」
「みんな、首を長くして待っていますよ」
俺は千鶴さんの肩に手を回し、ゆっくりと悲劇を終わらせる為の一歩を刻んだ。
千鶴さんの足元に注意を払いながら。
§ § §
「生きてたか、ぐーたら三流大生!」
玄関を入った途端、威勢のいい声と上から下まで眺め回す遠慮のない視線が、俺を迎えた。
「よう灰色の受験生。よく言えたな」
「はっ。同じ大学でも、レベルが違うレベルが。楽勝で受かったら、土下座させてやる」
「面白い。落ちたらどうする? 裸踊りでもするのか」
「梓! 耕一さんも!」
挨拶代わりにやり合う俺の背中から、硬い氷点下にまで下がった声が飛んで来た。
俺と梓は顔を見合わせ、互いに相手を責める視線をぶつけ、同時に顔を声の方に向けた。
「二人とも。ちゃんとした挨拶が、出来ないんですか?」
いつもの笑顔で首を傾げた千鶴さんの目が、笑っていないのが怖い。
「耕一お兄ちゃん、いらっしゃい。千鶴お姉ちゃん、お帰りなさい」
何ていいタイミング。
パタパタと音を立てて廊下から現れた救いの天使に、俺は微笑を向けた。
「お久しぶり、初音ちゃん。またしばらく、ご厄介になります」
深々と頭を下げ、ちらりと千鶴さんを見る。
千鶴さんは微かに頷き、梓に視線を流した。
「お、お久しぶり、耕一。少し痩せたんじゃない?」
妙に上擦った声とぎこちない笑みで、梓が決まり悪そうに改まった挨拶をする。
「そうかな? 梓は、元気そうで何よりだな」
二人して乾いた笑い声を上げ。
千鶴さんは満足そうに頷き。初音ちゃんは、不思議そうにぽかんと俺達を見ていた。
「耕一お兄ちゃん、寒かったでしょ?」
気を取り直し眉を寄せた初音ちゃんの心配そうな声で、ぎこちない笑い合いは終了を告げた。
「うん。冬は初めてだからね。こっちは冷えるね」
実際、ジャンバーが役に立っているのかどうか判らないほど、俺の体は冷えていた。
「なんで? 千鶴姉が一緒なんだから。寒いの判ってただろ? コートでもダウンでも、着て来たらいいのにさ」
梓が薄笑いを浮かべ、千鶴さんに横目を向ける。
「えっ、と。それは。向こうは、それ程でも、な……」
「真冬の地元の寒さを忘れてた。なんてね。いくら何でも、無いよなぁ〜〜」
わざとらしく千鶴さんの顔を覗き込み、梓は先に言う。
意趣返しを忘れない奴だ。
「耕一お兄ちゃん、早く入って。すぐお風呂沸かすからね」
「う、うん」
千鶴さんと梓の掛け合いに慣れている初音ちゃんは、二人に構わず、俺の腕を引っ張りどんどん居間に向かう。
「初音ちゃん。楓ちゃんは?」
居間のコタツで丸くなった俺は、ストーブを調節する初音ちゃんに尋ねた。
「楓お姉ちゃん? お昼に出掛けたけど。もう帰って来るんじゃないかな?」
言いながら、ちょこんと俺の隣に座り直す初音ちゃん。
「ね、耕一お兄ちゃん」
「うん。初音ちゃん、なにかな?」
うきうきした顔で初音ちゃんは、えへへと笑い身を乗り出す。
「今度は、いつまで居られるの?」
「う〜ん。二週間位かな」
クリスマスまで頑張ってバイトしたお蔭で、時間は充分在りそうだ。
「初詣、一緒に行けるね」
小さな拳を握り、俺の顔を覗き込む初音ちゃんの瞳は、きらきらしていた。
「初詣か? そうだね。みんなで、一緒に行こう」
俺は初音ちゃんの頭に手を乗せ、ゆっくり撫でる。
「初音ちゃん。友達とは約束してないの?」
「ううん。友達とも行くんだけど。本当は喪中だし。どうしょうかと思ったんだけど」
初音ちゃんは、言い難そうに視線を落とした。
「初音ちゃん、年中行事だからさ。気にする事なんかないよ」
そうだった。親父が死んで、この正月は喪中になるんだった。
それで千鶴さん、年末に挨拶周りか。
忘れてた俺が薄情だな。
「うん。千鶴お姉ちゃんも、いいって言ってくれたから」
相変わらず些細な事にも気遣いを見せる初音ちゃんは、俺が笑いながら言うと、笑顔を取り戻してくれた。
「初音ちゃん、お正月は着物?」
初詣の人混みを歩く千鶴さんを思い浮かべ、一抹の不安が俺の頭を過った。
家に着くまでも、雪道で滑って俺に掴まってたしな。
「うん、家では着るんだけど」
「家では?」
俺は初音ちゃんの微妙な言い回しが引っかかり、眉を潜め首を傾げた。
「梓お姉ちゃんがね。千鶴お姉ちゃんも一緒なら、洋服で行こうって」
毎年それで一悶着在るのは、容易に想像が付く。
梓も苦労してるよな。
「そうだ。じゃあ今年は、俺が千鶴さんの面倒見るよ。それなら着物で行けるだろう」
「面倒って? お兄ちゃん、どうするの」
きょとんと聞き返す初音ちゃん。
「腕にでも掴まってて貰えば、いくら何でも転ばないだろ。せっかくの着物を、家だけじゃ勿体ないと思わない」
我ながらいい考えに嬉しくなる。
千鶴さんと腕を組んで初詣。
しかも周りを、初音ちゃんと楓ちゃんが囲む。
いい、これはいいぞ。
梓は、まあおまけだな。
「あ、うん。それなら大丈夫だよね」
上目遣いに俺を見る初音ちゃんが、何か言いたそうなのに気付き、俺は言葉を付け加えた。
「初音ちゃんも掴まっていいからね。腕は二本在るからさ」
ぽっと頬を染め、初音ちゃんは恥ずかしそうにこくりと頷いた。
可愛いな。うんうん。
千鶴さんと初音ちゃん。
これぞ、まさに両手に花。
「じゃあ。お兄ちゃん、約束だよ。あたし、お風呂沸かしてくるね」
「ありがとう。初音ちゃん」
照れ笑いを浮かべた初音ちゃんが、居間を出るのと入れ違いに、千鶴さんと梓がやっと居間に姿を現した。
「初音ったら。はしゃいじゃって」
嬉そうな初音ちゃんの後ろ姿を見送り、呟いた千鶴さんと対照的に、梓は不機嫌そうに俺を見据えた。
「耕一。まともなもん食ってないんだってな? ちゃんと喰えって言っただろう。まったく、しょうがないな」
何やってんだよ。という顔で、梓は頭を掻き掻き腰を下ろす。
「千鶴さぁん、梓に話したの?」
ちろりと舌を出し肩を竦める千鶴さんは、二人だけの時とは別人みたいだ。
「バイト先で食えると。ついな、自炊するのが面倒でさ」
「バイトバイトって。そういや、どんなバイトしてんの?」
梓は、俺がバイトを理由に来なかったのが不満なのか、不機嫌そうに眉を寄せる。
「いろいろだけど。深夜のコンビニとかだと。余った弁当、安いんだぜ」
「馬鹿か! そんなんじゃ栄養が片寄るだろ。たっくう。居る間に、きっちり栄養付けてやる。楽しみにしてなって」
梓の目が口調と裏腹に優しく細められる。
「ああ、楽しみにしてるよ」
あっさり返すと、梓はヘッと目を見張り、照れくさそうに鼻の頭を掻き掻き宙に向い任せとけって、と、ポツンと呟いた。
着替えて来るという千鶴さんと、台所に立つ梓が部屋を出て暫くすると、初音ちゃんが風呂が沸いたと教えてくれた。
有難く冷えた身体を温め風呂から上がると。いつも使う客間で由美子さんから借りた本を読みながら、俺はうつらうつら微睡みに落ちて行った。
空を赤く焦がす炎を背に、少女は立っていた。
哀しい、胸をやるせなく突く澄んだ瞳。
懐かしい想い。
懐かしい瞳。
焦がれる胸のざわめきが、俺にそっと名を呼ばせる。
緩やかに開く、少女の朱を掃いた唇。
寂しげな少女の微笑みが、俺の胸に熱い想いを満たす。
愛しい。
愛しい焦がれる想いが、俺の手を伸ばさせる。
ふっと伸ばした手の先から姿を消す少女。
俺は伸ばした手を見詰め、張り裂ける胸の痛みに自分を抱き締めた。
無くした半身。
心の半分。
俺ではない俺の心が、狂った様に求め続ける。
いつか、いつか必ず。
待っていてくれ。
今度こそ。
「……耕一…さん」
小さな呼び声が、夢の中のそれと重なり、俺の心を切ない痛みが引き裂く。
「……エ……」
虚ろに開いた瞳に映る姿を認め、俺は出し掛けた声を飲み込み、覗き込む瞳が浮べる切ない光を見詰めた。
「…耕一さん?」
「……あっ。ああ、かえ…で…ちゃん?」
見詰める瞳の光が、不安と期待が混ざりあった複雑な彩りで揺らぎ。やっと夢と現実の狭間から抜け出し、俺は確かめる様に名前を呼んだ。
「…久しぶりだね。…元気だった」
俺は不自然にならないよう目を逸らし、反動を付けて半身を起こし座り直した。
「はい…お久しぶりです」
ぎこちない笑みを浮かべ、こくりと頷く楓ちゃん。
「いつのまにか、寝ちゃったのか」
俺は楓ちゃんに苦笑いで頭を掻いて見せた。
「風邪を引きますよ。冷えますから」
安心した様に微笑む楓ちゃんの寂しい瞳が、俺の胸を締めつける。
「うん。気をつけるよ」
「夕食の支度、出来ていますから」
「ありがとう。すぐ行くよ」
何か言いたそうに俺を見た楓ちゃんは目を伏せ、そのまま立ち上がり、障子を閉める束の間、視線を俺に走らせ歩み去った。
垣間見た彼女の瞳に浮かんだ哀しい光りに、俺は熱くなった目元を両手で覆い。
そのまま仰向けに倒れ込んだ。
「…俺は…柏木耕一だ……俺は」
§ § §
「おっそぉーい! 冷めちまうじゃないか」
居間に入った俺を待ち受けていたのは、梓の怒鳴り声と豪勢な食事だった。
「スマン」
座りながら謝ると、何故かみんなの視線が不思議そうに変わった。
「どうかした?」
「耕一、大丈夫か? さっきもそうだけど、何か変だぞ。いつもなら。わりいわりいとか言いながら、頭掻くのにさ」
真剣な顔で梓が聞き、みんなの視線が俺に集中する。
迂濶だった。
久しぶりに、あの夢を見た所為か?
「耕一お兄ちゃん。頭とか痛くない?」
初音ちゃんまで。
なにか? 俺はおちゃらけて無いと、俺らしく無いとでも言いたいのか。と梓だけなら言ってしまうが。今の状況だと、初音ちゃんまで叱る事になるので止めておく。
「全然平気。俺も、落ち着きが出て来たって事だよな」
すまして言うと、初音ちゃんは胸元に手を置きほっと息を吐く。
「自分で言う辺りが、耕一だな。うん」
梓は妙な感心の仕方を、うんうん頷きながらする。
「梓ったら。耕一さんも、もう二十歳なんですよ。少しは落ち着きが出ても、不思議は無いでしょ」
少し?
不思議?
全然フォローになって無いよ、千鶴さぁん。
不思議って言われるほど俺って、落ち着きがなかったのか。と考えつつ、鰹(かつお)のたたきに舌鼓を打ち、和気合い合いとした雰囲気の中、俺は久しぶりに梓の手料理を楽しんだ。
楓ちゃんが、時折俺に向ける視線が気になりはした。
俺が視線を合わすと、スッと楓ちゃんは視線を逸らす。
楓ちゃんは静かに食事を進め、夏に訪れた始めの頃とは違い。食事が終っても席を立つ事はなかった。
「ね。梓お姉ちゃん、いいでしょ?」
「まあね。耕一がいいんなら。別に、いいんじゃないの」
「梓! そんなに私が着物で歩くと、迷惑だって言いたいの」
食後の一時。
楓ちゃんが入れてくれたお茶を飲んで一息吐いた所で、初音ちゃんが初詣を着物で行く話を初め。梓が難色を示し、千鶴さんが噛付く事になった。
「はぁ〜あ、自覚の無い人はこれだからな。雪道で転んだのは? 人混みに取り残されて、動けなくなったのは? まだまだ在るけど。続けてもいいのか?」
上目遣いの嫌らしい目付きで梓に聞かれ、千鶴さんは、うっと詰まった。
俺としてもこればかりは、梓に同感。
「耕一さん! 何を頷いているんです!」
旗色が悪くなった千鶴さんは目敏く見付け、俺に矛先を変えてくる。
「まあ梓も千鶴さんも、着物で初詣って事でいいじゃない」
「まっ、被害者が耕一だけならいいか」
ふんと鼻を鳴らし、梓は不満げに腕を組んで薄く笑う。
「梓、被害者ってどういう意味なのかしら」
少しばかり本気で怒り始めた千鶴さんの声の調子で、初音ちゃんは少し身を引き、俺は慌てて声を掛けた。
「梓、お前ちょと言いすぎだぞ。俺がいいって言ってるんだから、千鶴さんもいいじゃない。でも俺の腕じゃ、嫌かな? だったら仕方ないけど」
「い、いえ。そんな…嫌だなんて……」
意地悪く聞くと千鶴さんの視線がスッと下がり、頬が仄かに赤らんだ。
「初音は決まりなんだろ? 千鶴姉が嫌なら、あたしか楓か?」
我関せずと傍観しながら楽しそうに目を細め、静かにお茶を飲んでいた楓ちゃんは、梓が視線を走らすと頬を染め、チラッと俺を見て恥ずかしそうに視線を落とした。
「梓と?」
俺が目を細めて梓を見ると、梓の顔もぼっと赤くなった。
「た、ただ腕が空くなってあたしはさ。片方じゃ、バランスが悪いんじゃないかなってさ」
梓は真っ赤な顔で、理由にならない事を捲し立てる。
相変わらず素直じゃないな、腕を組みたいって言えばいいのに。
「あっ、あの耕一さん、やっぱりお願いします!」
梓が捲し立てる間を縫い、千鶴さんが俯かせた顔を上げ、焦った声を出すとまた俯いてしまう。
「そう? じゃあ初音ちゃんと千鶴さんで決まりだ。楓ちゃん、ごめんね。梓も悪いな」
「…い、いいえ」
楓ちゃんは俯いたまま、ふるふる首を横に振る。
「い、いや、あたしは別にさ……」
「そうだよな。運動神経抜群の梓が、転ぶ心配なんて無いしな」
俺は赤い顔のまま言葉を濁す梓に、フォローを入れてやる。
梓はほっとした顔で千鶴さんに横目を向け、
「そりゃそうだ。亀姉とは違うって」
と強がりを言う。
「耕一お兄ちゃん。お姉ちゃん達、着物とっても良く似合うんだよ」
また梓と千鶴さんの間が険悪になりそうなのを察し、初音ちゃんが俺に話を振ってくる。
いつもながら、姉思いのいい子だ。
「うん。初音ちゃんと楓ちゃん、梓も振り袖だよね。みんなも、綺麗だろうな」
千鶴さんの着物姿を思い浮かべながら、俺が真面目な顔で言うと。梓は一瞬目を見張り俯くと、そうかな。と照れ笑いを浮かべ鼻の頭を掻き出し、楓ちゃんはますます赤くなり、小さく肩を竦めた。
「ねえ、お兄ちゃん。みんなもって? 千鶴お姉ちゃんの着物、見た事あるの?」
四人の着物姿を思い浮かべ頬を緩めた俺に、赤い顔の初音ちゃんが、千鶴さんを気にしながら疑問を口にした。
「えっ?」
いけね。
振り袖じゃ、千鶴さんが抜けてる。
千鶴さんの着物姿見たの、ホテルでだけだ。
初音ちゃん、君はなんて敏感なんだ。
お兄ちゃんは、悲しいぞ。
「あの、初音。挨拶周りで向こうで着物だったのよ」
ぎこちなく笑い、千鶴さんが説明する。
見合いの話と転んだの、余程話して欲しくないんだな。
「あ、そうなの?」
「うん。そう向こうでね。千鶴さん、とっても綺麗だったよ」
「ほほぉ〜。見せびらかしに行ったのか? 千鶴姉らしいな」
あっさり頷く初音ちゃんと対照的に、梓はまたも突っかかる。
「…そんな、…見せびらかすなんて」
「俺が行ったら、まだ仕事終わってなかったんだよ」
俺の褒め言葉に頬を染めた千鶴さんから、上目遣いに助けを求められ、俺は何とか取り繕った。
やはり多少後ろ暗い所が在る分、千鶴さんも怒り難いみたいだ。まっ、あれも仕事だっておっさん言ってたから、嘘じゃないよな。
「ふ〜ん? 見せびらかしたくて、わざと時間早く教えたのか?」
「あっ、梓! そんな訳無いでしょ!」
梓の台詞にパッと顔を上げ、千鶴さんは一言言うと決まり悪そうな笑顔を俺に向け、耳まで真っ赤に染め視線を下げた。
「…マ、マジかよ?」
言った梓の方が呆れた顔を千鶴さんに向け、乾いた笑い声を洩らした。
「……姉さん」
「……お姉ちゃん」
楓ちゃんと初音ちゃんも、呆れた目を向ける。
「………」
俺には言葉もない。
はは、まさかね。
苦笑いを浮かべそっと千鶴さんを覗くと、上目遣いに俺の様子を窺っていた千鶴さんと目が合った。
千鶴さんは肩を竦め小さくなった。
……嘘。
…見合いの席に…呼んだのか?
「あ、あの。偶然ですから」
俺の考えを読んだ様に、千鶴さんは上目遣いに俺を覗き込む。
「そ、そう言えば。千鶴お姉ちゃん着物持って行かなかったよね? 向こうで買ったの?」
初音ちゃんが気不味い雰囲気を打破しようと、努めて明るく千鶴さんに尋ねた。
「えっ? ええ。会社の方が用意して下さったのよ。宅急便で送って貰ったから、明日にでも着くと思うわ」
胸を押えほっと息を吐き、顔を上げた千鶴さんは、ぎこちなく微笑み初音ちゃんに応えた。
「耕一も、いい迷惑だよな。だいぶ待たされたんだろ?」
せっかく和やかな雰囲気になりそうなのに、梓は溜息混じりに半眼に閉じたいやらしい目を千鶴さんに向ける。
「いや。まあ、いいんだけどさ」
何か急に疲れを覚え曖昧に梓に返すと、千鶴さんはどう取ったのか、顔を上げヒタッと俺に視線を据えた。
「本当に偶然です! お見合いだなんて知らなかったんです!」
「何を知らなかったって!!?」
「お姉ちゃん、お見合いしたの!?」
「姉さん!?」
身体を乗り出した梓の大声で、慌てて口を押さえた千鶴さんは、初音ちゃんと楓ちゃんにまで身体を乗り出せれ、顔を引きつらせざざっと座ったまま後退った。
あぁ〜あ、自分でバラしてるよ。
「うわぁ〜、凄い事やるな。見合いの席に耕一呼んだのか?」
「い、いえ。だ、だから、知らなかったのよ」
「ねえ、どんな人?」
「それは…あんまり……」
妹三人に壁際に追い詰められ、真っ赤な顔で拳を握り締めた千鶴さんの声は、完全に無視された。
「かっこいい人? 背は高い?」
「千鶴姉、いい根性してるよ」
「…千鶴…姉さん……?」
相手がどんな人か聞こうとする初音ちゃん。
ひたすら感心した様に覗き込む梓。
微妙に興味が在りそうな瞳で見詰める楓ちゃんの三人に囲まれ、千鶴さんは赤い顔を両手で隠し、弱々しく首を振り長い髪を揺らしている。
ちなみに、俺は一人疎外感を覚えていた。
あの年頃の女の子だ、見合いとか恋愛には興味があるよな。
まあいいや。とお茶をすすっていると、クイッと腕が引っ張られた。
「ねっ、耕一お兄ちゃん。相手の人見たの?」
見ると初音ちゃんがきらきらの瞳で、俺を覗き込んでいた。何も答えない千鶴さんから、俺に矛先を変えたらしい。
「初音ちゃん。世の中には知らない方が幸せって、在るんだよ」
俺はしみじみ言った。
俺は一刻も早く兄弟そろって忘れたい。
「耕一…相手見たのか?」
「……耕一さん?」
初音ちゃんに続き、梓と楓ちゃんまで目を輝かせ、俺ににじり寄ってくる。
チラッと覗くと、妹達の包囲を逃れた千鶴さんは、手で胸を押さえ安堵の息を吐いている。
「……聞いたら…後悔するぞ」
「するかよ。早く言えって」
喜色満面、三人の代表で梓が答え。楓ちゃんと初音ちゃんも、こっくり頷く。
「どうしようない、金持ちのにやけた嫌な野郎だ」
「負け惜しみか? 耕一。でも金持ちのボンボンなのか?」
「誰が、あんなの相手にするかよ。兎に角、名前が許せん」
「名前? 変な事にこだわるな。なんて名前なのさ?」
ちらりと三人の顔を覗くと、早く言えとばかり三人とも身を乗り出した。
「どう書くか知らんが。馬鹿面のクセしやがって、親父と同じ賢治だと」
溜息混じりに呟くと、しんと一瞬沈黙が訪れた。
「…にやけた、馬鹿が…?」
「…叔父ちゃん…可哀想……」
「……ひどい」
唖然と呟いた声に頷くと、楓ちゃんまでが一気に嫌そうに眉を潜め、三人はそれぞれ自分の定位置に戻り、何事も無かった様にお茶を飲み始めた。
苦笑混じりに顔を上げると、話のなりゆきを見ていた千鶴さんと目が合った。
千鶴さんは長い髪を揺らし、ふるふると楓ちゃんの様に首を横に振る。俺は首を縦に振り、ほっと微笑んだ千鶴さんに笑い返した。
嫌がっていたのは態度で判ってたから、気にしてないんだけどな。
「ああ、そうだ。耕一は、着物どうする?」
もう見合いの話は忘れた。と、梓は話題を戻す。
「俺はいいよ。普段着の方が動きやすい」
初音ちゃんが、えぇ〜と不満の声を上げ。
「みんなの着物姿を楽しませて貰うよ。初音ちゃんの振り袖、可愛いだろうな」
俺が頭を一撫でして言うと、初音ちゃんは、もじもじと指を弄りながら頬を染め小さくなった。
「さてと。悪いけど、先に休ませて貰うよ」
「何だ? えらく早いな」
珍しく洗い物に立たなかった梓が声を上げ。
初音ちゃんも、うんうんと頷き。
楓ちゃんは、寂しそうな瞳をした。
「悪いな。レポート上げるのに、徹夜続きだったんでな。眠くってさ」
俺は小さく手を合わせ、悪いと頭を下げ立ち上がった。
しょうがないなと言う梓。
ゆっくり休んでね、と言う初音ちゃん。
小さな声で、お休みなさいと言う楓ちゃん。
みんなにお休みと言い部屋を出る俺に耳に、千鶴さんのゆっくり休んで下さい。と言う声が、柔らかく優しく届いた。