陽の章 三


 ホテル最上階のスカイラウンジ。
 窓際の席で夜景を楽しみながら、千鶴さんと楽しい食事を終え、俺はワイングラスを口に運び目を細めた。
「綺麗だな」
「ええ、本当に綺麗ですね」
 眼下に広がる夜景を眺め、囁きを静かに返した千鶴さんの横顔を眺め、俺は苦笑を洩らした。

 千鶴さんを見て言ったのに、気付いてもくれない。

「そうか。初めてか」
「えっ?」
 小首を傾げ窓から俺に視線を移した千鶴さんは、バックに広がる夜景に黒髪が溶け込み、肌理細かな白い肌が一際引き立ち綺麗だった。
「食事。二人だけって」
「そう言われれば。そうですね」
 少し考え、意外そうに千鶴さんは言う。
「帰りを遅らせて、一緒に居るなんて知られたら。梓はもちろん、楓や初音にも怒られますね」
 可笑しそうに目を細め、千鶴さんは肩をすくめ悪戯っぽくちろっと舌を覗かせた。
「たまには息抜きが必要だよ」
 せめて一日位、家も仕事も忘れて欲しい。と軽く首を傾げて見せると、千鶴さんはきょとんとした顔になった。
「忙しいだろうけど。千鶴さん、自分の時間はちゃんと取ってる?」
 帰ってからでは、中々二人だけの時間を持てないと考え。不似合いだと思ったが、俺はこの場で切り出した。
「自分の時間って?」
「梓達もしっかりしてるし。千鶴さんが、もっと自分の事を考えてもいいと思うんだけどな」

 柏木の血の呪縛で、もう千鶴さんが思い悩む必要はない。
 後は鶴来屋と妹達。
 梓も来年は大学。楓ちゃん、初音ちゃんも二、三年で大学生だ。
 自分の意思で歩き出す。
 もう千鶴さんも、母親代わりを卒業してもいい時期だ。

「妹達が、それぞれの幸せを見つけてくれるのが一番ですから。両親と叔父様の願いでも在りました」
 幸せだった両親や親父との暮らしを思い出したのか、懐かしそうに目を伏せ、微笑みを浮かべた千鶴さんの少し傾げた首の動きに連れ、細い肩にさらりと掛かる長い髪が、夜景の光りを揺らした。
「梓達が望む仕事に着いて、結婚して幸せになるのを見るのが、楽しみなんだろ?」
 揺れる光りを眺め静かな笑みに問うと、ゆっくり頷いた千鶴さんは、優しい母親の顔をしていた。
「俺が言っているのは、そう言うんじゃないんだけどな」
「でも。それじゃ?」
「千鶴さん自身の幸せは? みんなが結婚して、家を離れたら?」
「みんなが家を離れた後。ですか?」
 その日が来るのを想像した事が在るのだろう。千鶴さんは陰った声音で寂しそうに目を伏せた。
「昼間言った、自分の意思で決めるって。あれは結婚に限った事じゃない。何にしても流されず、自分の意思で決めるものだと、俺は考えてる」
「耕一さん、それって? 鶴来屋を継ぐのが嫌って?」
「いいや、まだ決め兼ねてる。俺が言ってるの、千鶴さんの事だよ」
 安心させようと俺は腕を伸ばし、千鶴さんのテーブルに置かれた手に手を重ね言葉を継いだ。
「一度聞こうと思ってた。千鶴さんは、爺さん達が残したから鶴来屋を継いだの? それとも今の仕事に遣り甲斐が在ってやってる? それと、無理し過ぎて無いかと思って」

 俺は答え如何で、鶴来屋グループの実質上の経営を誰かに移す様に勧めるつもりだった。
 経営だけなら千鶴さんがやる事はない。
 オーナーとして、経営を専門家に任せる手も在る。

「確かに最初は、お爺様達が残して下さった鶴来屋です、人手に渡すのが嫌で始めました。でも今では、それなりにやり甲斐も在ります。私は平気ですから」
 重ねた手を握り返した千鶴さんの声音には、俺を安心させる穏やかな温かさがあった。
「うん。それならいいんだけど。ごめん。俺がハッキリしないから。千鶴さんに、余計な負担を掛けると思うけど」

 俺が継ぐと言えれば、一番いいんだが。

「いいえ。気にしていて下さっただけで嬉しいんです。それに耕一さんは、まだ学生なんですから、ゆっくり考えて下さい。他にやりたい事が出来たら、遠慮せず言って下さいね。
私なら、本当に大丈夫ですから」
 言葉道理、千鶴さんは嬉そうな笑顔を輝かせ、俺の手を柔らかな小さな手が包んだ。

 俺が心配しただけで、これ程喜んでくれる。
 千鶴さんの寄せてくれる想いが、俺の心を温かくしてくれる。

「それに耕一さん」
「うん?」
 静かな温かな声に握られた手から目を上げると、千鶴さんの澄んだ瞳が目の前にあった。
「耕一さんが、幸せにして下さるんでしょう?」
 真っ赤に染まった顔でそう言うと、千鶴さんは潤みがちな揺れる瞳で真っ直ぐ俺を見詰めた。
「もちろん」
 真っ直ぐ瞳を見詰め返し、俺は小さく頷き手を包む温もりを握り返した。

 そう、俺が幸せにすると約束した。
 それが、どんな形でも。


「失礼」
 話しに熱中し見詰め合った俺達の横合いから、本当に失礼な声が掛かった。

 この一番いい雰囲気の時に。

 邪魔をした声にうるさそうに視線を上げると、ビジネススーツをビッと着こなした、二十代後半から三十代前半位の男が立っていた。
 男の背後に佐久間が立っているのが、俺の感に触った。
「鶴来屋会長の御席は、こちらでしょうか?」
「そちらがそうだが。貴方は?」
 千鶴さんが離そうとした手を握り直し、俺はすまして尋ね返した。
「私、賢児の兄で佐久間賢吾と申します。萩野さんが、どうも要領を得ないもので。おくつろぎの所を、失礼とは存じておりますが。直接お話を御窺い出来れば。と思いまして」
 弟よりは人間が出来ているらしい賢吾は、俺に丁寧に頭を下げ非礼を詫びた。
「私が柏木ですが。確か、佐久間グループの副社長さんでしたかしら?」
 千鶴さんは俺の方を向いていた賢吾に名乗り、表情と声に厳しさを漂わせた。
「はい。ご存じ頂いたとは嬉しい限りです」
 賢吾は千鶴さんに会釈で応えた。
「実は、萩野さんから本日のお話が在ったのですが。どうも弟が申しますには、あまりお話しも出来なかったと。萩野さんからも要領を得たお返事を伺えず。後日、改めて。と申されるのですが。私どもも世界を飛び回っております関係上、出来れば多少なりとも日時を指定して頂ければと。失礼も顧みず、こうやって、お訪ねした次第でして」

 最初に萩野が持って来た話だと言う辺り、嫌味な野郎だ。 兄貴連れ出す弟もだが、のこのこ出て来る兄貴も兄貴だ。

「萩野が後日改めて、と?」
 訝しげに眉を潜め、千鶴さんはまた手を離そうとする。
 俺は離さず握り締めた。
「はい。弟が何か失礼でもと思いまして」
 チラッと賢吾が後ろに控える弟に視線を走らすと、弟は直立不動になる。

 まるで千鶴さんと梓の男版だな。
 出来すぎた兄を持った弟って、こんなもんかな?
 兄弟の居ない俺には、良く判らないが。

 弟と比べると梓が気を悪くするな。と考えながら、俺は賢吾を観察した。

 乱れた所のない服装、自信に溢れた品のいい優雅な物腰。
 いわゆるいい男に部類されるだろう。
 独身なら賢吾が見合いに来るだろうな。と、俺は弟と見比べた。

「いいえ。弟さんに落ち度はありません。萩野がご迷惑をお掛けした様です。私も席に着くまでお見合いとは、存じておりませんものでしたので。失礼が在ったかも知れません」
 千鶴さんは、にこやかに微笑み頭を下げると、申し訳なさそうな顔を作った。
「ご存じなかった? そうでしたか。それでは、改めてお願い出来ないでしょうか?」
 蚊帳の外に置かれた俺は面白くない。
 一番盛り上がった所を邪魔され。しかも、賢吾はしっかり握った俺達の手を、あからさまに無視している。
「いえ。それは……」
「時間の無駄」
 千鶴さんがチラッと俺に視線を走らせ言い淀んだのに気付き、俺は一言で終わらせた。
「確か従弟の方。と、お聞きしたのですが。理由だけでも、御教え願えませんでしょうか?」
「第一、エスコートしている女性がつまずいても助けられないでは、安心出来ない。第二、鼻緒が取れ困っているのに、なんら対処出来なかった。最後に、自分ではなく、兄貴に話さす軟弱さって所では、どうかな?」
 間髪入れず悪意全開の台詞を口に乗せ、俺は賢吾の反応を待った。
「中々、手厳しいですね。そうまで言われては、引き下がるしかありませんが」
 あっさりやれやれと頭を振った賢吾は、千鶴さんに向き直り穏やかに笑い掛けた。
「出来れば改めて、私とお見合いという事で。いかがなものでしょうか? いえ、最初から私が来れば良かったと、後悔しているのですが」
 俺は自信在りげに言う賢吾の態度に胸が悪くなった。
 言葉だけが丁寧過ぎて、慇懃無礼と取れる。
「弟の次は兄か。随分と馬鹿にしてくれる」
 何か言う暇も無く俺が返すのを、少し困った様に見る千鶴さんを横目に、怒りを抑え賢吾を睨みながら、俺は殴り付けたいのを何とか押さえた。

 ふざけやがって。
 弟がだめなら、自分だと。
 千鶴さんを何だと思ってやがる。

「いいえ、滅相も無い。お見合いの話を聞き、ぜひ私がと思い飛んで参りました。週刊誌等の記事も拝見しておりましたし。お噂も御聞きしておりました。残念ながら、間に合いませんでしたが」
 流石に世界を相手にしているだけは在る。
 殺気を込め睨み付けた俺に平然と賢吾は応え、千鶴さんに目を移し、どうでしょうと尋ねる。
「だめだ!」
 堪忍袋の尾が切れ掛かった俺は、思わず声を上げた。
 俺の声でラウンジの視線が集中したのに気付き、危うく上げ掛けた腰を下ろし直した。

 くそっ、これだけ人が居ると、下手に鬼を使う訳には行かない。

「従弟の貴方の気持ちは判ります。綺麗なお姉さんを奪われる様な御気分でしょう。ですが、こういう事は本人の気持ちが大切です。ここはせめて、お互いを知る機会なりとも、頂けませんか?」
 初めから自分が相手なら断る筈がない。と言わんばかりの賢吾の台詞に、俺の頭に血が昇った。
「馬鹿野郎。この手が見えないか」
 周囲の視線に何とか自制しつつ、食い縛った歯の間から低く洩らした俺は、あやうく出かけた鬼を抑えた。
「いいえ。姉弟同様とお話は伺っております。仲がおよろしいんですね」
 賢吾は周囲に委細かまわず朗らかに返す。
 本気で言っているのか、からかわれているのか、俺は血管がぴくぴく震える額を押さえた。
「耕一さん、落ち着いて下さい。興奮しないで」
 俺がぶち切れる寸前なのに気付いた千鶴さんが、隣に席を移し、握った手に力を込め耳に囁いてくる。
「で、どうでしょうか?」
「だめだ。千鶴さんは、俺の者だ」
 大きく肩で息を吐き、怒りを通り越し賢吾の厚顔さに呆れ果て、俺は異常な脱力感に襲われぼそっと呟いた。
「はっ? それは?」
「もう一度だけ言う。千鶴さんは、俺の者だ。あんたにも弟にも、他の誰にも一切チャンスなんてない。判ったか?」
 もう俺は早く済ませたいだけだ。

 そうでなくても二人だけの時間なんて、そうそうないのに、勘弁しろよ。

「ああ、そうでしたか。これは気が付きませんでした。申し訳ない。残念ですが、今日は引き上げるといたしましょう。失礼いたしました」
 軽く会釈すると、賢吾はさっさと弟を引き連れ背中を向けた。
「……今日…は?」
 疾風の如く引き下がった素早さに気の抜けた俺が、賢吾の台詞に気付いたのは、姿が見えなくなった後だった。
「耕一さん。大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込む千鶴さんに笑い返し、俺はグラスのワインを飲み干した。
「千鶴さん、部屋に戻ろう。ここに居ると、また誰か来そうだ」
 睡眠不足と夜まで食事抜きというのが効いた。
 常にない疲れを感じた俺は、ルームサービスにワインを頼み部屋に引き上げた。


  § § §  


 部屋に戻りワインを口に運び、冷静さを取り戻した頭を押さえ、
「ごめん、千鶴さん」
 俺はソファに深く腰掛け、後悔しつつ口を開いた。
「どうして、謝るんです?」
 面白そうに頬を緩め、隣に腰掛けた千鶴さんが俺の顔を覗き込む。
「仕事絡みに口を出し過ぎた。迷惑にならないといいけど」

 俺と千鶴さんは婚約している訳でもない。
 千鶴さんになら見合いの話は、これからいくらでも来るだろう。
 それに仕事が絡めば、不用意に部外者の俺が口を出せば、立場を危うくするのは千鶴さんだ。
 判っていて賢吾に向かって感情を押さえ切れなかった。
 賢吾の台詞だけじゃない。昼間、千鶴さんが見合いをしてるのを見た時もだ。
 萩野に対した態度も、思慮に欠けていた。
 まだまだ俺は甘い。
 自分がこんなに独占欲が強いとは、思ってもみなかった。

 胸にゆっくりと掛かった温かい重みに、俺は手をそっと伸ばし、肩に手を回した。
「迷惑だなんて思っていません。耕一さんが、あんなに真剣に怒ったのなんて、初めて見ました」
 悪戯っぽくクスクス笑いながら、千鶴さんに胸から見上げられ、
「…そう、かな」
 俺は熱くなった頬を指で掻いた。
「ええ。梓と言い合いをしてる時とは、全然違いました」
 更に追い打ちを掛ける様に、千鶴さんはクフッと笑いを洩らすと俺の目を覗き込む。

 やっぱり卑怯な人だ。
 からかわれてるのが判っていても、その仕草が可愛くて、くすぐったい様な心地好さを感じてしまう。

「どうして、あんなに怒ってたんですか?」
「…そりゃ、あいつが気に食わなかったからで…その」
 しどろもどろに応えると、千鶴さんはますます楽しそうに表情を綻ばせた。
「どうして、気に食わなかったんです?」
「その、弟寄越しといて、だめなら自分がなんてさ。あんまり馬鹿にしてるから……」
 赤くなった顔を横に向け、何とか言い訳じみた台詞を口にすると、クスクス笑いがピタッと止まった。
「耕一さん」
「へっ?」
 クスクス笑いから一転してムッとした声で呼ばれ、俺は顔を戻し、赤い顔が青くなった。
 細くなった目でキッと睨み付ける千鶴さんには、先程までの楽しそうな様子は微塵もない。
「ど、どうしたの千鶴さん?」
「じゃあ。最初からお兄さんの方が相手なら、怒らなかったんですか?」

 そういう風に取るか? 普通。

「あの、千鶴さん。そういう意味じゃ……」
「じゃあ、どういう意味なんです?」
 ぎろりと睨まれ、俺は言葉より行動在るのみと腹を決め、肩に回した腕に力を込め引き寄せ。
「こういう意味」
 開いた片手を膨れた頬にあて、
「あっ…んっ……」
 唇を塞いだ。
「…んっ…んぅ…もう」
 そっと唇を離すと、千鶴さんは赤い頬で下から俺を睨んだ。
「…耕一さん、何処で、こんな胡麻化し方覚えたんです」
 怒った声で言いながら、千鶴さんの目が優しくなっているのを見逃さず。
「千鶴さんにしか、しないよ」
 微笑みながら言うと、千鶴さんはますます顔を赤らめ、俺の胸に額を押し付けた。
「もう」
「誰が相手でも怒ってた」
 髪を撫でながら正直に言うと、小さな声が聞こえた。
「……嬉しいです」
 声に応え俺は両の腕で、ぎゅと柔らかい体を抱き締めた。
「しかし佐久間もだけど。萩野は不味かったな」
「どうしてですか?」
「俺って、会社に関しては部外者だしさ。相手は、会社で顔を会わす重役だから」
 もぞっと胸の中の頭が動き、千鶴さんはきょとんとした顔を上げた。
「部外者って? 耕一さん、どうしてです?」
「へっ? どうしてって」
 俺の方が千鶴さんの問いに首を捻った。

 親戚とは言え会社の役員でも社員でもない俺が、部外者なのは当然だ。

「私、お話ししませんでしたか? 叔父様の遺産ですけど」
「遺産? 保険と預金ぐらいだったと思うけど」

 確かに鶴来屋の社長兼会長代理にしては、少なかったよな。

「ごめんなさい。株です」
「株?」

 そんなの在ったか?

「耕一さん。何処から卒業までの学費や生活費が出ると思っていたんですか?」
 千鶴さんは、苦笑気味に眉を潜め笑いを洩らした。
「そりゃ、預金か何かで預けたんじゃないの?」
「株券を売却した利益です」
「えっと、それって?」

 そういや、親父も爺さんの遺産継いでるのか。

「鶴来屋の株です。亡くなられる前に、名義を私に変更なさっていました。私の持っていた株と併せると、鶴来屋の全株の三分の二を軽く越えます。その支払い代金から、仕送りと学費に充てる様に成っていました」
 クスクス笑いながら言った千鶴さんを見ながら、俺はやっと納得がいった。

 それだけの株を握られたら、だれも千鶴さんを退陣させられない。
 その辺りに、長瀬が疑いを持った理由も在ったか。
 親父が他の株主を集め半数を越えれば、千鶴さんの会長就任は無くなる。長瀬は、それで親父が俺に継がせたがったと考え、名義の移っていた千鶴さんを疑ったか。

「でも、あの株は叔父様の遺産ですから、耕一さんが受け継ぐのが正当です。卒業までは御預かりしますけど。その後は、お返しします。役員になるか、株を保有して配当だけを受け取るか。耕一さん次第です。どちらにしても、鶴来屋の大株主ですね」

 柏木から鶴来屋を奪えないよう配慮して在るのか。
 それなら萩野も、佐久間の資金が在っても千鶴さんを抱き込む位しか手がないな。
 八年前も株を持つ親父が鶴来屋に戻れば、千鶴さん達の持つ権利を手に入れても、誰も鶴来屋を自由に出来なかった。 そう言う事か。

「じゃあ鶴来屋は、完全に同族会社って事かな?」
「はい。鶴来屋の規模だと、少し異常な株の配分ですが。後は梓達に少し。残りを足立さんと役員の方々が保有なさっています。耕一さんが株を手放さない限りは、同族会社ですね。もっとも非公開株ですから、買い手は限定されると思いますけど」
 俺は片手でさらさらと流れる髪を梳き、千鶴さんの背中に回した手に力を込めた。
「そんなの考えもしないから、今のままでいいよ」

 一つ心配事は減った。
 鶴来屋に関しては、株を握っているなら心配は無い。

「卒業までです。私達の事は気にしないで、耕一さんの将来の為に役立てて下さい」
 優しい声が胸の中から、気遣わしげに耳朶に届いた。
「千鶴さんの名義のままでいい。親父も、それが一番いいと思ってした事だろう」
「耕一さん、叔父様は……」
 俺は言い掛けた千鶴さんの頭をそっと抱き寄せ、言葉を塞いだ。
「判ってる。万が一にも、株が分散し無い用心だろ」

 税金対策と、俺が鬼に飲まれ死んだ場合の用心の為にも、親父は名義を千鶴さんにして置いたんだろう。

「だから、今のままでいい。千鶴さん、頼むよ」
 言葉を塞いだ理由に気付いたのだろう。小さく頷く感触が胸をくすぐった。
「ところで、梓の受験、もう直ぐだよね?」
「ええ、そうですけど?」
 腕を緩め髪を梳きながら尋ねると、千鶴さんは胸から俺に目を向けた。
「俺達の事。みんなにも言って置いた方がいいと思うんだ。楓ちゃんの他は、まだ知らないのかな?」
「いいえ。楓にも、まだ」
「そうなの?」

 話したのは鬼の話だけか?
 あの態度は、知っていたからじゃなかったのか?

「足立さんには、話した方がいいな」
「でも足立さんは、当然耕一さんが鶴来屋を継ぐと思われますよ」
 俺は胸から顔を上げた千鶴さんを見詰め、迷った不安そうな顔に微笑みかける。
「さっき佐久間に言ったから。萩野から足立さんに伝わる前に、話しておいた方がいいと思う」

 迷いが、俺が継ぐか継がないか決め兼ねている所為なのは、判っている。
 足立さんが継ぐと思い込めば、俺が他の仕事をしたいとは、言い出し難くなると考えての事だろう。

「それは、人伝に聞くよりはいいと思いますけど」
「反柏木の萩野から聞かされたら。足立さんも、あまりいい気持ちはしないだろうし。俺も一緒に行って話してみる」

 株を握っていても、千鶴さんの味方は多い方がいい。

「耕一さん?」
「継ぐ、継がないは、何とか保留にして貰うとして。みんなには、梓の受験が終わってからの方がいいだろうな」

 梓が反対するとは思わないが。

 気が付くと、千鶴さんは胸の中からジッと俺を見上げていた。
「千鶴さん? どうかしたの?」
「反柏木って。どうして耕一さんが知っているんです? 昼間も佐久間グループを、よく知ってる見たいでしたね?」

 不味かった。
 つい、俺が知らない筈の鶴来屋の内情を話していた。

「相田響子さん。覚えてるかな?」
 小さく頷いた千鶴さんが表情を曇らせたのは、事件の事を思い出したんだろう。
「彼女が千鶴さんの記事書いた時、耳にしててね。経済関係にも明るい見たいだ。佐久間の事も、リゾート行く時にっていろいろ教えてくれた」
 仕方なく手の内をさらすと、千鶴さんは、ほっと息を吐き俺の胸に額を付けた。
「外部にまで知られているんですか? それで萩野さんの事を心配していたんですね?」
「まあ、ちょと大人げなかったしね」
「すいません。耕一さんにまで、御心配をおかけして」
 千鶴さんの微妙に掠れた声の弱々しさが、細い肩を抱く腕に力を込めさせた。

 三ヶ月程会わない間に、確かに千鶴さんは変わっていた。以前からの穏やかさや優しさに変わりはない。
 しかし俺は、しっとりとした落ち着きと同時に、垣間見えていた儚さ脆さが表面に出て来たのを感じていた。

「千鶴さん、それこそ他人行儀じゃない」
「でも、耕一さん」
「他に何も出来ないんだから、心配位させてよ」
 見上げる千鶴さんの額にはらりと落ちた髪をそっと後ろに流し、俺は揺れている瞳を見詰めた。
「……耕一さん」
「遠慮しないで。俺に出来る事があれば、何でも言ってくれていいんだから」
 俺が言うと、千鶴さんは目を伏せ、逡巡してから思い切った様に口を開いた。
「……あの。…じゃあ、もう少しでいいんです。家に来て貰えませんか?」
 遠慮がちに言う千鶴さんの愛らしさが、俺の悪戯心を刺激した。
「初音ちゃんが、寂しがってるから?」
 俺が尋ねると、千鶴さんの伏目がちに落とした瞳が少し開かれ、切なそうに潤んだ。
「耕一さんったら…また…そんな」
「俺、千鶴さんから聞きたいな」
 微笑みを浮かべ俺は言う。
 千鶴さんは頬を薔薇色に染め、静かに目を伏せた。
「寂しいのは、私です」
 嬉しくなった俺は、答えの替わりに千鶴さんの肩に回した腕で抱き寄せ、滑らかな頬に片手を添え、甘い吐息を吐いた唇に唇を重ねた。

陽の章 二章

陽の章 四章

陰の章 三章

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