陽の章 二


 見上げるホテルの窓が、冬の冷たい陽光を煌めかせる。
 最高級と言われるホテルだ。
 一泊でバイト料、何日分かな、等と最近身についた貧乏性が首をもたげる。

「他の高級ホテル見るのも、勉強か?」
 屋敷でも感じるけど。こういう所に来ると、千鶴さんとの住む世界の差ってやつを感じる。
 従姉でもなけりゃ、俺と千鶴さんが付き合う事も無かったかな。
 俺がただの学生、千鶴さんが鶴来屋の跡取り。
 知り合う事もなかったか。
 偶然か必然か、過去が引き寄せたのか。
 それとも血が呼び合うか。

 いけない。
 だんだん運命論者になって来てる。
 もう決めた。
 あれが俺の意思、過去も血も関係ない。
 俺は、俺の意思に従おう。

 正面玄関に歩みを進め、腕の時計を確認する。
 午後二時を回った所。
 二時頃終るって話だったから、そろそろいい時間だ。
 ほぼ半円を描き聳えるホテル内に一歩踏み込むと、二重になった入り口の中は、程よく暖房が効いている。
 高い吹き抜け構造になったロビーを横切り、高級がウリのホテルに合わないジャンバーを脱ぎ、着替えを詰めたバッグに放り込む。

 バッグに一張羅を入れては来たが。
 こういう場所に慣れない所為か、どちらにしろ場違いって感じがする。

 見るからにブランド品の高級スーツを着た人々が談笑するロビー内をざっと見回し、俺は足をフロントに向けた。

 流石に、そのまま千鶴さんの部屋に転がり込む訳には行かない。
 千鶴さんが、俺の名で予約してくれた部屋のチェクインを済ませ。フロントで尋ねると、ホテル内のラウンジでの会食は、まだ続いていた。
 俺はフロントに伝言を残し、ホテルの散策に取りかかった。

 将来を決められない俺には、見て置くのも勉強にはなる。

 従姉妹達を支え、千鶴さんの負担を少しでも減らす。
 それには、俺が鶴来屋を継ぐのが一番だろう。
 千鶴さんが、俺に継いで欲しがっているのも知っている。
 以前はとても勤まらないと思っていた。
 だが今は、何より千鶴さんを矢面から下げたい。
 俺が嫌だと言えば、千鶴さんは鶴来屋を継げとは言わない。
 しかし、ますます千鶴さんに対する風当たりは強くなる。
 前社長の息子で同じ創立者の孫。
 俺と一緒になり、俺が継がなければ変に邪推する連中も出て来る。
 親父の死の疑惑と長瀬刑事の態度、夏に知り合った相田響子さんが調べた情報が、俺に教えてくれた。

 俺と顔見知りになった為、響子さんが鬼に襲われたと確信した俺は、責任を感じ何度か連絡を取り、響子さんと親しくなっていた。
 フリーの記者を目指しているとかで、響子さんは鶴来屋内部の動静まで調べていた。
 親父の死後、警察が他殺の疑いを持った所為もあるが、鶴来屋内部に分裂の兆しが在ると言う。
 足立という現社長以下、祖父や伯父、そして親父に恩の在る約半数を上回る柏木派役員と、僅かに数の劣る反対派役員の二派を形成しているとの事だった。
 千鶴さんが何か失敗をすれば、追い落としの材料は揃っていると言う。
 それが表面化しないのは、度重なるトップの交代による信用問題が大きい。
 それでなくともこの十年、爺さん、伯父、親父と目まぐるしくトップが交代した時期に、週刊誌にも登場し注目を集めた千鶴さんの退陣は、大きな話題を呼んでしまう。
 ゴシップを嫌う客商売だ。飾り程度に考えられている間は、追い落としを狙う連中には、鶴来屋の信用の方が大きいのだろう。

 ホテル内を見て歩いていた俺は、不意に聞こえた声に足を庭園に向けた。

 これも鬼の力の一つだ。
 狩猟者の五感は、力を開放しなくとも俺に影響を与えた。
 最初は息遣いまで大きく聞こえ弱ったが、今では耳を塞ぐ術も身に付いた。

 最上階のラウンジに居る筈の千鶴さんの声が、一階外側の日本庭園から聞こえた気がした。
 午後の日差しに照らし出され、人気のない温かな庭園の中をグルリと見回し、俺は物陰に隠れた。
 別に隠れる必要はなかったが、胸に湧いた暗い気持ちが、俺を反射的に隠れさせた。
 庭園で見つけた千鶴さんは、いつもと違う薄化粧が純和風の景観に良く映え。可愛いより、綺麗と表現が良く似合う姿をしていた。
 落ち着こうと自分の頭を軽く叩き、俺はもう一度覗いて見た。

 千鶴さんは長い綺麗な濡れた様な黒髪を、今日は結い上げている。
 地味に見える藍染の着物が、逆に白い肌を引き立て、落ち着いた大人の色香を感じさせる。
 形の良い唇に薄く引かれた紅。緩い曲線を描く頬のライン、いつもは髪に隠されている細く白い項、華奢な肩も、今にも転びそうな危うい足取りまで。
 全てが、俺の千鶴さんだった。

 だが、その表情にはいつもの温かさがなく、作り物の様に冷たかった。
 彼女一人だったら、俺は迷わず声を掛けた。
 あんな危ない足取りで、感情を殺した千鶴さんを、一人にしておくなど出来やしない。

 俺を暗い気持ちにし隠れさせたのは、隣に居るにやけた馬鹿丸出しの男だ。
 見合いにしては着物が地味だが、他に考えようがない。
 足元ばかり気にしているのか、幸い千鶴さんは俺に気付いていない。

 仕事絡みで、イヤイヤに違いない。
 俺は自分にそう言い聞かせ、男が指一本でも触れたらすぐ飛び出せる体制を整え見守った。

 相手の男は、かなり鈍い。
 普通の感性なら、俺の殺気位感じる筈だ。
 千鶴さんの横顔を眺め、にやけた顔を改め様ともしない。
 俺も千鶴さんの事を言えないな。

 何のかんの言って、見合いをしているのが気に入らない。
 俺もかなり嫉妬深い様だ。
 千鶴さんが相手の男に微笑んででもいたら、男を殴りつけたか。居た堪れずそのまま帰ったか。

 自嘲の溜息を吐きながら見ていると、何かにつまずいたのか、千鶴さんがよろっとよろけた。
 俺は力を変化寸前でセーブし、瞬時に十メートルあまりを駆け抜け、馬鹿丸出し男の反対側に千鶴さんを抱き止めた。
 次いでに、男が千鶴さんに触れ様とした手も叩いてやる。危うく男の手を叩く寸前力を抑えたが、男は手を押え、呻きながらうずくまった。
「千鶴さん、大丈夫だった?」
 刹那に現れた俺を、うずくまったまま手を押え口を開き見上げる男を完全に無視し、俺は千鶴さんに尋ねた。
「……耕一…さん?…大丈夫です。すいま…せん」
 うずくまった男を気にしながら、一瞬戸惑い困った表情で、俺に向かいぎこちない笑みを浮かべた千鶴さんの語尾が、僅かに上がった。
 千鶴さんの視線を追うと、俺が走ると言うより飛んで来た後には、足形が二つくっきり残っていた。
「あの、柏木さん?」
「何だ?」「えっ?」
 男の掛けた声に、俺と千鶴さんの返事が重なり。
 男は俺の視線でヒッと息を飲み。
 俺と千鶴さんは、顔を見合わせ一頻り笑い合った。

「こちら。あら、どちら様でしたかしら?」
 惚けたのか本気で言ったのか。
 千鶴さんはチラッと男を見て言い。俺に向かい、可愛く小首を傾げた。
 この日。俺は初めて千鶴さんの仕事用の顔を、垣間見る事になった。
「賢児です。佐久間グループの佐久間賢児」
 千鶴さんの露骨に無視を表明した態度にも関わらず。佐久間は叩かれた手を恨みがましく振りながら、しなくていいのに自己紹介をする。
「柏木耕一」
 素っ気なく名乗りながら、普段人当たりのいい千鶴さんの露骨な拒否が、名前を聞いて納得出来た。

 このにやけた男が親父と同じ名前じゃ、千鶴さんも無視したくなる。

「千鶴さん、肩に掴まって。そう。ああ、いいや」
「きゃ! こ、耕一さん」
 よろけた時、草履が脱げた拍子に鼻緒が切れたのを幸い。俺は肩に掴まった千鶴さんの背に腕を回し、膝を後ろからすくい上げた。
「…耕一さぁん」
「他に人も居ないし、気にしない」
 小さな声で抗議する千鶴さん胸に抱き、隣に居る佐久間を無視し俺は歩き出した。
 実の所、鼻緒は俺が千切ったんだが。
「あのぉ〜」
「何か?」
「…いい…え」
 無視され何か言い掛けた佐久間は、一睨見で黙らせた。
 俺の肩に赤く染まった顔を伏せ隠し、しがみつく細い腕と柔らかな重みを楽しみつつ。
 俺は、ゆっくり庭園の中央に見える東屋に向かった。

 肩に隠された頬の火照りが俺の頬を温め、髪からの仄かな甘い芳香が鼻をくすぐる。
 匂い袋を身に着けているのか、香の様な微かな香りが白粉の匂いと混ざり合い。胸に抱いた温かさと相俟って、俺を落ち着いた静かな気持ちにしてくれた。
 後ろから付いてくる佐久間が居なければ、最高の気分なんだが。

 小さな池の辺に在る、朱布を引いた台が置かれただけの東屋は、それなりに風情を感じさせた。
 恥ずかしそうに目を伏せる千鶴さんを名残惜しくも朱布の引かれた腰掛けに下ろし、俺は隣りに腰を下ろした。
「ごめんなさい、耕一さん。急に予定外の、顔合わせが入ってしまって」
 所在なさげに周りをうろつく佐久間に聞こえるよう、もじもじと指を弄(いじ)りながら、千鶴さんは決まり悪そうに予定外を強調した。
「顔合わせ? お見合いって、言わないの?」
 ククッと笑いを洩らした俺を、千鶴さんは頬を膨らまし上目遣いに睨んでくる。
「まあ、千鶴さんの着物姿も見られたしな。転び掛けたの話たら、梓に受けるだろうな」
「だめです。耕一さん、それは止めて下さい。梓には、絶対秘密ですよ」
 千鶴さんは慌てて身を乗り出すと、片手で俺の胸を軽く押さえた。
「どうして? あっ、そうだ。正月は、それで盛り上がれるかな」
 胸に置いた手で俺の身体を揺する千鶴さんが可愛く、俺は頭に伸ばしかけた手を肩に置いた。

 結い上げた髪は綺麗で、千鶴さんを年相応に際だたせる。髪から香る、いつもと違う甘い臭いが心地良い。
 襟元から覗く肌理細かな白い項のラインも綺麗だ。
 しかし、気軽に髪に触れられないのは不満だ。

「もう。それにだめですよ。あんな所で、あんな目立つ事をして。もし梓に話たりしたら、許しませんからね」
 やっと気を取り直したのか、お姉さん口調になった千鶴さんが、ぷんすか怒って言う。
「じゃあ、転んだ方が良かった?」
 からかう俺も、すっかり佐久間の存在を失念していた。
「もう、また」
「会長!」
 突然頭越しに無粋な低い声が、俺達の邪魔をした。
「これは、どういう事でしょうか?」
 見上げると、いつの間に現れたのか引きつった顔の親父が、俺達を見下ろしスックと立っていた。
「萩野さん。こちらがお聞きしたい者ですわ。事前の説明も無しに、お見合いとはどういう事でしょうか?」
 仕事の顔に戻った千鶴さんの、冷たさを湛えた声が凛と応え。俺は千鶴さんの変わり身の素早さに苦笑しながら、冷たく冴える横顔を見遣った。
「まあ、仕事の一環と思って頂かないと」
「見合いが仕事? 一昔前の考えだな」
 俺は呆れて口を挟んだ。

 まとまればいいが。
 だめならどうする気だ、このおっさん。

「君は?」
「最近の歳よりは。人の名を聞く時は、名乗ってからって。礼儀、習ってない?」
「鶴来屋常務、萩野だ」
 おっさんは単純にも、ありきたりな挑発に眉間に皺を寄せ怒りを滲ます。
「柏木耕一。多分、父がお世話になった筈ですが。その節は、どうも」
 何か言い掛けた千鶴さんを片手で制止し、言葉に従った柔軟さに免じ、俺は立ち上がり萩野に頭を下げた。
「父? ああ。前社長の葬儀の折りも、お会い出来ませんでしたな」
 おっさんは不愉快そうに眉を潜め、俺を上から下まで値踏みする様に眺め回す。
「それは、連絡が遅れたからで。耕一さんに責任は……」
 制止が間に合わず、千鶴さんの言葉を聞いた萩野は、千鶴さんを僅かに伏せた目で見ると、ふっと馬鹿にした様に息を吐いて見せた。
 俺に途中で手で遮られ、困惑した顔を向けた千鶴さんに笑い掛け、俺は心の中で舌打ちした。

 俺を庇って千鶴さんが言ってくれたのは嬉しい。だが、この手合いは、遅れた連絡の所在を追及したがるもんだ。

「身内に葬儀の連絡も満足に出来ないでは。困りますな」

 ほら来た。

「それだけ深く悲しんでいた。萩野さん、貴方も人の子なら判る筈だ。列席出来なかった、俺が問題にしない以上。貴方が口を挟む筋では無い。と思いますが」
 事実とは違うが、今更千鶴さんの言葉を否定すれば付け込まれる。
「まあ。会社は、そんな感覚で動かさんで貰いたいんですがね」
 萩野は不愉快そうに鼻を鳴らした。

 俺は不快な気分の中、萩野の名を思い出した。
 響子さんに聞いた、反柏木の音頭取りだ。

「千鶴さん。佐久間との事は、役員会の意向が在って進めてるの?」
「それは……」

 従弟と言っても部外者だ。
 予想道理、千鶴さんは視線を下げ言葉を濁した。
 これで何を言っても俺の憶測で済む。

「じゃあ、萩野さんが勝手に進めてるのかな? 足立さんも知らない? ま、どっちにしても、見合いじゃ仕事に関係ないかな?」

 響子さん情報が役に立った。
 女性誌だけあって、リゾート関連の情報はやたら詳しい。
 佐久間は大規模リゾート開発で大きな収益を上げている。国内より海外事業での展開が広い。
 問題は、その開発が強引かつ環境団体の非難を浴びている点にある。
 鶴来屋は確かに地方としては大きいが、とても世界相手の規模はない。もし見合いが成功しても、吸収されるだけだ。
 萩野の独断先行だろう。

「私は、会長に相応しい相手を」
「仕事って言ったの、萩野さんでしたね?」
 俺は睨み付ける萩野を睨み返し、視線に殺気を込めた。
「政略結婚ですか? 古い、な」
 俺があからさまに馬鹿にしたのが頭に来たのか、殺気に押されたのか、萩野の顔が赤く染まった。

 命のやり取りを生業にして来た殺気だ。
 鬼を解放しなくとも、並の相手なら黙らせられる。

「前社長の息子でも、余計な口出しは……」
「では、同じ柏木として言わせて貰う」
 顔を引きつらせ何か言い掛けた萩野を、鬼の気を加え睨み付け。息を飲んだ萩野に向い言葉を継いだ。
「柏木の者は、全て自らの意志で決める」
 僅かに身を引いた萩野に二の句を継がせず、俺は更に威圧する殺気を強め表情を引き締めた。
 視界の隅に映る千鶴さんは、俺の態度が知らない男の者に見えたのだろう。
 唖然とした顔を俺に向けていた。

 慣れたと思っていたが……

「貴方の御心遣いは有難い。だが無用な配慮だ。以後遠慮して頂こう」
 最後に一瞬鬼気を開放し睨み付け、萩野を解放した。
 流石に海千山千のおっさんだけはある。
 鬼の気までを受けながら、気を失いもせず青い顔で舌打ちしつつ背を向けた。
 俺は萩野と後を追う佐久間を見送り、姿が見えなくなると腰を下ろし、千鶴さんに笑いかけた。
「二人共、帰って行った」
「耕一さん。あれは、ちょと」
 長い溜息を吐き、千鶴さんは弱い笑いを浮かべ非難する視線を向けた。

 確かに、奴の記憶の所為か台詞が時代劇見たいだったな。

「もしかして。千鶴さん、あんな叔父さんが好み?」
 内心自分の台詞に呆れながら、俺は意外そうに目を丸くして、千鶴さんに聞いた。
「違います!」
 千鶴さんは拳を握り、ムキになって否定する。
「懲らしめて置かないと。次は、梓辺りに話しを持って来る」
 優雅な着物姿で子供の様に赤い頬を膨らませるアンバランスさについ笑いを洩らし、顔を下に向けながら横目で覗くと、はっとばつが悪そうに千鶴さんは顔をそむけた。
「…それは…そうなんですが……」
 ちらりと俺を見て、また溜息を吐く千鶴さん。
「梓なら、相手蹴飛ばして帰って来るかな?」
「梓なら、やりますよね」
 千鶴さんはクスッと小さく笑いを洩らし、遠くを見る少し焦点のずれた瞳を向けた。
「耕一さん。御爺様に似て来た見たいですね」
「小さい頃会っただけだから、そう言われてもね」
 胸を冷え込ませる痛みを押し殺し、俺は笑って返した。

 慣れないもんだ。
 千鶴さんだからか?
 親父の次は、爺さんか、次は……

「御爺様、普段は温和で優しい方でしたけど、仕事には厳しい方でした。意気込んで家まで来られた方が、御爺様にお会いして青い顔で帰られたものです。萩野さんを見ていて、思い出してしまいました」
 懐かしそうに話しながら、千鶴さんは小さく笑みを零した。
「どっちかな。温和で優しい方? それとも怖い方?」
「えっ?」
「俺が似てるの?」
 考える様に首を捻ってちらっと千鶴さんを覗くと、頬を赤くして千鶴さんは視線を下げた。
「怖い方か」
「…耕一さんは…優しいです」
 溜息混じりに洩らすと、千鶴さんは視線を下げたまま、ちらりと俺を横目で覗き小さな声で言った。
「爺さんも、あの手で相手脅したのは考えられるかな。あれなら相手は、半分も言いたい事が言えない。並の人間なら気を失うか」
 千鶴さんの素直過ぎる反応に笑いを洩らしながら言うと、千鶴さんは少し寂しそうな顔を上げた。
「耕一さん……割り切ったん…ですね」
 千鶴さんは鬼の宿命を割り切れない重荷に感じているのだろう。小さく呟くと視線を落した。

 柏木の宿命を割り切ったのを責められている様に感じ、俺は胸に抱いた虚しさを押え込んだ。

「部屋に行こうか? ここじゃ、また戻って来るかも知れない」
 言いつつ俺は平静を装い、千鶴さんに手を貸し部屋に向かった。


  § § §  


「へぇ〜、これってスイート?」

 いい部屋だ。
 三間で構成される部屋は、ベッドルームだけでも俺のマンションよりゆったりしている。
 採光にも気を使っているのだろう。ガラス越しに差す陽光が、部屋を均一に照らし出し、暗い影を感じさせない工夫が凝らされている。

「ええ。でも、そろそろここも改装かも知れませんね。内装が古くなって来ていますから」
 考え深げに言う千鶴さんは、経営者の顔になっていた。
「千鶴さん。その着物、家から持って来たの?」
 俺はソファに腰を下ろし、向いに座った千鶴さんに尋ねた。
「いいえ。萩野さんが着て下さいって」
 目を細め千鶴さんを眺めていた俺は、おっさんの顔が脳裏に浮かび、また不愉快になった。
「それは。早く脱いだ方がいいな」
「…どうしてですか? …似合いません?」
 千鶴さんは寂しそうに着物に視線を落とし、拗ねた鼻に掛かった声を出す。
「良く似合ってる、とても綺麗だ。けど」
 本当に千鶴さんは、いくら見ていても見飽きないほど綺麗で、華やかに美しかった。
「けど?」
 素直に俺が褒めないのが不満なのだろう。上目遣いに睨む千鶴さんのご機嫌は、斜め気味だ。
「あのおっさんの手が、触れたと思うと」
「耕一さん。なにも、そこまで毛嫌いしなくても」
 苦笑いを浮かべた千鶴さんは、また着物を見やる。
「面の皮は厚そうだったな」

 着物が気に入ってるのか?

「有能な方では、あるんですから」
「有能ね。何が狙いなんだか」
「どうしたんですか? 萩野さんにもでしたけど。何か変ですよ。…やっぱり、怒って…います?」
 視線を下げた千鶴さんの語尾が、囁く様に小さくなる。
「怒るって? 千鶴さんを怒ってるんじゃないよ。あのおっさんが気に喰わないだけだからさ」
 下から覗く様に見られ、俺は八つ当たり気味だった態度を反省して、声を和らげ首を傾げた。
「いえ。あの、…お見合い…ですけど……」
 上目遣いに恐る恐る聞かれ、俺はどう応えたらいいのか、言葉に迷った。

 怒ってないと言えば、千鶴さんがどうでもいいみたいだ。
 怒ってると言えば、千鶴さんを信じて無いみたいだ。

「ごめん。仕事がらみなのは判るんだけど。少し」
 諦めて俺は正直に応えた。

 これじゃ、まるで拗ねた子供だ。

「いいえ。席に着くまで知らなくて。ごめんなさい」
 少し嬉そうな顔で、千鶴さんは申し訳なさそうに眉を潜めた。
「もう気にして無いから。千鶴さんも気にしないで、ね?」
「はい」
 軽く言うと、千鶴さんは微笑んで頷いてくれた。

 でも悪いのは俺だ。
 俺が千鶴さんと付き合っているのを、梓達にさえ話さないから。俺がハッキリしないと会社の重役に見合いを持って来られたら、千鶴さんも断り辛い。

「あの、耕一さん。昨日の方、どうでしたか?」
「あっ、うん。来る前に寄って来たけど。大丈夫、元気そうだった」
 昨夜の由美子さんの様子が気になっていたのだろう。不安そうに聞かれ、俺は考えを打ち切り笑って応えた。
「そうですか? 良かった」
「一瞬だったから。気が遠くなったのしか、憶えて無かった」
 深く安堵の息を吐いた千鶴さんに、気にしなくてもいいと頷き掛ける。
「変に恐怖が残ると、精神的な痕になって残りますから、心配だったんですけど」
「梓には遠慮がないのに?」
 心理学をかじった所為か、千鶴さんの医者の様な言葉を皮肉ってみる。
「梓は、堪えませんよ」
「そうかな? 千鶴さんを本気で怒らすの、怖がってるみたいだけど」
「耕一さん、判ってはいるんですけど。いつも甘い顔ばかりじゃ、あの子調子に乗るんです」
 寂しそうな息を吐き、千鶴さんは視線を下げた。

 姉妹と言っても、五つも年が離れた母親代りだ。保護者としては、怖がられるのが寂しくても、梓に合わせてばかりもいられないだろう。
 梓にもう少し思慮分別が備わっていれば、千鶴さんの手助けを頼めるんだが。
 やはり、いざと言う時の鍵は梓か?

「梓も千鶴さんの気持ちは判ってるよ。それ程馬鹿じゃないだろ?」
「そうだと嬉しいんですけど。あの子、私には突っかかりますから」
「梓なりの愛情表現だよ。あいつ、意地っ張りだからな」
「耕一さんにも、突っ掛かりますよね」
 ちゃんと判っていても、誰かから言われれば安心出来るのだろう。可笑しそうに表情を崩した千鶴さんは、首を傾げ俺を覗き込んだ。
「俺も梓に好かれてる?」
「ええ、とても。初音や楓にもですよ」
「一人、抜けたよね?」
 千鶴さんの頬が、一人抜けたに赤く色付き、俺は緩み掛ける頬を引き締め身を乗り出す。
「そんな、言わなくても」
 俺は何も応えず、真剣に千鶴さんを見詰める。
「耕一さん!」
 ますます赤くなった顔で、もじもじと千鶴さんは視線を逸らす。
「…わたし…も」
「私も?」
 見詰められる視線に、諦めた様に呟いた続きを促す。
「……好き」
「俺も、好きだよ」
 はにかんだ笑みに頬を緩め顔を近づけ、赤い頬に手を添え軽く閉じられた紅に唇を触れ合わせ。俺は理性を振り絞り、触れ合うだけの軽い口づけで済ませた。
「……千鶴さん」
 俺は唇を離し小さく名を呼んだ。
「…は…い?」
 少しとろんとした瞳で、千鶴さんは僅かに首を傾げた。
「俺が明日一緒だって、連絡した? 急だと困るかも知れない」
「…まだ…ですけど。耕一さんがいつこられても、困るなんてありません」
 急に現実に引き戻され、ぷっと頬を膨らまし俺を睨んだ千鶴さんの目が、他人行儀は止めて下さい。と、言っていた。
「まあ、電話入れとくから。その間に着替えてよ」
「どうしても。この着物、脱がせたいんですね」
 駄々をこねる子供を見る様に目を細め、千鶴さんは溜息混じりに言う。

 本音は俺が脱がせたいけど。千鶴さん、変な所で堅いからな。

「シャワーでも浴びて。それから軽く食事って思ったんだけど。だめかな?」
 俺は首を傾げ、甘えた声を出して見せる。
「耕一さん?…もしかして。お昼、まだなんですか?」
「レポート上げて。すぐ来たから」
 はははと笑うと、千鶴さんの視線がじとっと注がれた。
「朝は、ちゃんと食べたんですか?」
「いや。ま、その……」
「耕一さん。ちゃんと食事は、しているんですか? まさか、いつも気が向かないと食べない。何て言うんじゃ、ないでしょうね」
 身を乗り出した千鶴さんは、強ばった声を出す。
「いや。バイト先で、弁当とか出してくれるから。そう、それに夜は、友達と居酒屋に。何て……」
 ひたっと張り付いた視線が、死んだ母さんを思い出させ、俺は言葉に詰まった。
「…つまり、まともに…食べてないんですね?」
「いや。だから弁当や外食で済ませてるだけで。その…あのさ…」
 慌てて言う毎に千鶴さんの目が怖くなる。
「……着替えて…来ます」
 ぽつりと呟き千鶴さんは立ち上がった。
「千鶴さん、本当にちゃんと食べてるから。こんなに元気だから。本当」
 俺が背中に言い募ると、ゆっくり千鶴さんは振り返った。
「さっとシャワーを浴びたら、すぐ戻ります。…あっ、耕一さん」
「うん?」
 緩やかに微笑んだ千鶴さんに呼ばれ、俺はほっと息を吐き返事を返した。
「覗いちゃ。だめですよ」
「覗かない」
 にっこり笑って釘を刺し、千鶴さんは小さめのトランクを手にシャワールームに消えた。

 千鶴さんの姿がシャワールームに消えると、俺は早速電話を入れた。
 電話に出たのは、有難い事に梓ではなく初音ちゃんだった。
 梓と違い入らぬ詮索をしない初音ちゃんは、千鶴さんの帰りが一日遅れるのを、急な仕事の一言であっさり納得してくれ。俺の訪問を手離しで喜び、ごちそうを作って待ってる。と言ってくれた。
 電話を切ると、俺は固く目を瞑り心を落ち着かせ。
「…三ヶ月…か」
 小さく息を吐き、足をシャワールームの向けた。

 覗かないとは言ったが、入らないとは言わなかった。
 わざわざ念を押す辺りが、可愛いな。と勝手に解釈し。俺は後ろめたさを振り切り自分を納得させた
 俺の朝食兼昼食は、結局夜になったが。

陽の章 一章

陽の章 三章

陰の章 二章

目次