凍った時

   陽の章 一


 荒い息を吐いた唇を噛み締め、瞳に浮かんだ諦めを隠す様に瞼が閉じられた。

 ―彼女と同じ澄んだ瞳。

 狂喜のままに振り下ろそうとした手が鈍り、不意に緩んだ唇と穏やかな表情に手が止まり息が詰まった。
 しなやかな身体から激しい動悸が、押さえ付けた膝に伝わる。
 俺の鼓動と重なり、震えとなって心を揺らす。

 …何を…迷う?

 脳裏に死に際の顔を思い浮べ、心の内の憎悪を掻き立て、白い首筋に狙いを定め、俺は再び腕を振り挙げ。

 ―白い肌、肌理細かな……
 …彼女と…同じ。
 彼女と同じ濡れた様な黒い髪。
 少女の面影の強かった彼女が、成長した様な美しさ。
 切れ切れの息が紡いだ言葉が、脳裏を掠めた。

 ……恨むな…と?
 …恨むな。と言うのか?
 ―彼女の願い。
 ……最後の…頼み。
 ……俺は、仇さえも討てない……

 押さえ付けた女が彼女と重なり、俺は固く瞼を閉じた。
 行き場を無くした怒りが胸を締めつけ、心を虚ろな冷たさが凍えさせる。
 膝で押さえ付けた女から離れ、震える膝で幽鬼のごとく身体を起こし、凍える心が上げる悲鳴に歯を喰い縛り、胸を締めつける息苦しさに大きく息を吸った。

 本懐さえ遂げられず、何が侍だ!
 …似て…さえ…いなければ……

 見下ろした女に、愛する女のかんばせが重なる。
 押さえ付ける力が失せ、女の瞼が震えた。
 俺は慌てて目を眇め、訝しげな瞳に侮蔑を込めた目を向ける。

 …惨めな。
 嘲るだけ?
 それが俺に出来る復讐。か?

 自嘲に口元が歪む。
 俺の自嘲を自らへの嘲りと取り、噛み締められた女の唇が不意に緩み、見返す瞳が哀願の光を宿した。

 …まさか?
 殺されるつもり…だった、のか?
 …殺される?
 死ぬ?
 …死に…たい、のか?
 …そう…か……
 …ふっ…くっ……

 喉の奥から込み上げた、今度は紛れもない嘲笑に頬が歪んだ。

 …人狩りが、…後悔、か?
 …くっ…くっ…くっ……

 俺の頬が醜く歪み、双眸が暗い悦びに濡れた。

 ―死んだ方が楽か!!

 弾けた哄笑が辺りの大気を震わせた。

 化け物でも、死にたいか!
 人並みに苦しいか!?
 …死して楽になど…してやらん。
 …楽に…してやる…ものか。
 血濡られた手で苦しめ。
 己の罪に自らを呪え。
 命ある限り苦しみ抜け。
 …それが、…俺の復讐。
 命を奪えぬ、俺の……

 笑う俺を見上げ、女の瞳が陰りを帯び。
 噛み締めた唇を、一筋の朱が濡らした。

 ―彼女と同じ瞳。
 ―同じ瞳が、彼女を殺した悲哀に沈む。

 女に背を向け、俺は胸に走った痛みを振り切り歩み始めた。
 新たな贄を求める為。

 一族を滅ぼしてやる。
 己が一族の滅ぶ様を眺めろ。
 安らぎなど許さん。
 あ奴が子を成せば子を。
 男を愛せば男を殺してやる。
 独り孤独に苦しみ抜くがいい。
 …鬼は鬼の血に蘇る。か。
 ならば、未来永劫苦しむか!?

 湧いた考えに胸に闇が広がる。
 暗く重い悦びが俺の胸を冷え込ませ満たして行く。

 これ程の復讐が在るか!?
 幾たび生まれ変わろうと、一時なりと安息など許すか!
 生まれ…変わる!

 …彼女も蘇り、俺は再び出会える!

 空虚な闇に灯った光りが愉悦を呼び起こした。

 俺が彼女を取り戻し腕に抱いても、あ奴は苦しむのか。
 …くっくっ…くっ……
 我が半身。
 我が心。
 我が心を殺した罪に相応しい。

 心の内の暗い悦びが、俺を狂気に駆り立て。
 俺は愉悦の哄笑を響かせる。

 彼女を奴等ごとき鬼に蘇らせん!

 歓喜に震える心のまま、俺は自分を抱き締めた。

 我が血に。
 我が肉に蘇れ。
 我が血肉の中で、再び一つに。

 狂気が俺に生きる術を与えた。

 …俺の痛み。
 …彼女への想い。
 …思い…知らせて…くれる。
 獲物に滅ぼされる屈辱を味わえ。
 奴等に取って、これ程の屈辱はない。
 奴等の血の一雫たりと残さん。
 血肉を引き裂かれ、焼く尽くされるを待つがいい。
 我が恨み、我が想い、思い知れ!!



 肩を揺さぶられ跳ね起き、俺は小さな身体にしがみ付き頬を擦り寄せた。
 彼女の肌の仄かな香りと、柔らかな温もりでも癒せぬ心の痛みに、俺は頬を濡らす雫を胸に押し付け、更に強く抱き締める。

 ……何故?

 彼女は硬く身体を強ばらせ、抱き返してくれない。

 …何故…いつもの様に、抱き締めてくれない?
 …そう…か。
 …そう…だな。
 すまん。
 俺の身勝手で、お前に縋っている。

「…すまん…リネット。…ガッ、ふ!」
 抱いた身体が震え、頭に鈍痛が走った。
 無様にも殴られた反動で畳みにぶち当った顎の痛みが、一気に頭の靄をスッと晴らした。
「柏木君! 目は、覚めた!!」
 俺は顎と頭をさすりながら、降って来た怒声を仰ぎ。メガネの奥の熾火の様な妖しい光を見つけ、慌ててこくこく頷いた。
「……ゆ、ゆみこさん?」

 そうか、また夢か。

「由美子さんじゃないわよ。うなされてるから起こして上げたのに! 何よリネットって!?」
 仁王立ちで腰に手を当て、赤い顔で睨み付ける由美子さんの剣幕で、俺は力一杯由美子さんに抱き付いていたのを思い出した。
 顔が引きつり、汗が全身から吹き出しそうだ。
「ご、ごめん由美子さん。い、いや。何だろ? 夢に見るなんて、俺も何だかな」
 引きつった笑いを浮べ、自分でも良く判らない事を口走りながら見ると、由美子さんの手には、ディバックがしっかと握られている。

 あれで殴ったのか?

「柏木君? 泣いてるの?」
 少し心配そうに眉を潜め、由美子さんは俺を覗き込む。
「顎打ったからさ。効いたよ」
 俺は慌てて目元を腕で拭い、顎をさすりながら言う。
 少しぎこちない仕草で、由美子さんはふんとそっぽを向く。
「ま、いいけど。柏木君に、外人の知り合いが居るとも思えないしね」
 言いつつ腕を組み、じとっと由美子さんは俺を睨み付けた。
「ごめん、由美子さん。手伝って貰ってるの俺なのに、寝ちゃってさ」
 俺は両手を合わせ、拝んで頭を下げた。
「まあ、年の瀬にやる事も無い暇人だからね。いいけど。それより、柏木君疲れてるんじゃないの?」
 まだ赤身の抜けない顔で、由美子さんはもういいわ。と片手を振って見せる。
「ちょと寝不足気味かな? レポート上げたら、ゆっくり寝るわ」
「うん、その方がいいよ。バイトもいいけど、無理すると身体壊すよ」
「ありがとう、由美子さん。もう一頑張りだから、気合い入れるか」
 軽く笑って座り直す俺を見て、由美子さんはクスッと笑いを洩らした。
「なに? 俺なんか変な事言った」
 腰を下ろし炬燵に頬杖を突くと、由美子さんは肩を竦めメガネの奥の目を細めた。
「うん。まあ、ちょと安心したのかな」
「安心?」
「んっ、とね。夏期休暇終わってから、柏木君すっかり変わったから。バイト漬けなのが信じられない位、成績は上がったし。冗談も言わなくなったよね?」
「そう? 自分じゃ、よく判らないけど」

 鬼になったからだ。なんて言っても信じないだろうな。

 確かに鬼が目覚め、俺は変わった。
 目覚める前の俺では、力も知識もあまりに乏しすぎた。
 力の開放が眠っていた何かを起こしたのか。以前と比べれば、頭に掛かった靄が晴れた様に記憶力や理解力が上がったのが大きい。
 だが何より、俺自身変わろうと努力もして来た。

「柏木君が民間伝承に興味持ってくれて、嬉しいけど。いろんな事に手を出して、全然余裕無さそうだったから。バイトも多いし疲れてるんじゃないかなって、心配してたの。でも、ちょと抜けた所なんか、変わってないわね」
 お姉さん風に眉を潜ませ、無理してない。と小首を傾げる由美子さん。
「抜けた? 酷いな。でも心配してくれて、ありがとう。大丈夫、体力には自信があるし。生活費位は、自分で稼がないと」
「う〜ん、やっぱり変わったかな。そういうの、あたしは好きだけど」
「す、好き?」

 由美子さん、俺が好きだったのか?
 弱ったな、俺には千鶴さんが居るしな。

「意味が違うでしょ。勝手に別の世界、行かないでよ」
 由美子さんは考え込んだ俺に呆れた目を向け、ククッと笑いを洩らした。
「なんだ、違うの? 残念だな」

 そうあっさり否定されると、ちょと惜しい気が。

「あらら。夢にまで見る彼女は、どうするの?」
「まあ。それはそれ、これはこれ。と言う事で。だめ?」
「だめ。夢でも、あたし一人を好きじゃないと」
「やっぱり? 二人とも好き。何て、通じる訳ないか」
 きっぱり大きく頷く由美子さんを見ながら、俺は溜息が出た。

 だろうな、都合のいい言い訳だよな。

「何? 柏木君、深刻そうよ。まさかさっきの娘、ホントに居るの?」
「さあ、どうだろう」
 興味深々瞳を輝かせる由美子さんに愛想笑いを返し、俺は立ち上がり、キッチンにセットして置いた珈琲メーカーのスイッチを入れた。
 キッチンと言ってもワンルールマンションの狭い部屋、背中を由美子さんに向けただけだが、質問に対する拒否の姿勢だ。
「ああ、これ。貸しといたげる」
 ふっと小さい溜息の後。少し無理をした明るい声に振り返ると、由美子さんは古びた本を炬燵に置き、指で差し示した。
 かなり分厚い。

 効く筈だ、あんな物入れたバッグで殴ったのか。

「鬼関係は少ないけど、珍しい本だし結構面白いのよ。でも柏木君。伝記作家か、郷土史家にでもなるつもり?」
 夏以来、伝承や古文書を読みあさる俺に引きずられ、この年末までレポートを手伝わされた由美子さんは、からかい半分に言ったんだろう。
「それもいいかな」
「またまた。生活出来ないわよ」
 あっさり返すと、由美子さんはクスッと笑いを洩らした。

 しかし、それもいいかもしれない。
 何しろ俺の中には昔の記憶がある。
 他の誰も知らない、埋もれた真実という奴が。
 従姉妹達四人を見守り、資料を調べ暮らすのも悪くない。
 いずれ知識が必要になる可能性は在る。書き残して置くのもいい。
 エルクゥ。
 鬼が再び降り立つ日の為。

「由美子さんトコで、スポンサーになってよ」
 最近知ったが、由美子さんの家はかなりの資産家で、学者に資金提供もしている。
「却下」
「即答する?」
「紹介ぐらいなら、いいけどね」
 由美子さんは、首を傾げ可愛く肩をすくめる。
「助かったよ。感謝してる」
 わざとらしく大袈裟に頭を下げた所で、味もそっ気も無い間の抜けたチャイムが鳴った。
「こんな時期に新聞の勧誘は、ないよな?」
 後数日で年号も変わる。わざわざ訪ねてくる友人は居ない。
 首を捻る俺を横目に、由美子さんがスッと腰を上げた。
「いいよ柏木君。コーヒーお願い、次いでにピザでも頼む気ない?」
「そろそろ晩飯時か、いつものミックス?」
 時計に目を走らせ、俺は軽く首を傾げた。
「うん」
 頷き一つで返し、由美子さんは楽しそうに鼻歌交じりで玄関に向かう。
 応対を由美子さんにまかせ、俺はカップを二つ取り出し、カップの割れる硬質な音が部屋に響いた。

 カップの割れる音より先に、俺は身構えていた。
 激しい鼓動が胸を打ち頭に響く。
 一気に気温が下がった様な総毛立つ悪寒。

 …まさか。だがこの感覚。

 俺は慎重に玄関を覗き込んだ。
 玄関で立ったまま、由美子さんの身体が小刻みに震えている。

 すくんで動けないのか?

「…由美子…さん?」
 震えながら立ちすくむ由美子さんの背に、俺は警戒しながら声を掛けた。
 ビクッと身を震わし振り向いた由美子さんは、顔から血の気が引き、メガネの奥の瞳は焦点を定めず膝がガクガク震えている。
 だが俺の意識は、その由美子さんの向こうに見えた人影に吸い寄せられた。

 その人。
 穏やかな笑みを凍り付かせた女性。
 艶のある美しい黒髪、澄んだ瞳、緩やかな曲線を作る頬。 コート越しにもたおやかな身体の線の細さ。
 幾夜も夢に見たのと何ら代わらない彼女が、そこの佇んでいた。

 そのか細い身体から、冷気を放っていたのを除けば。
「千鶴さん!」
 千鶴さんが放心状態なのに気付き、俺は声を上げた。
 向かい合って鬼気を受け、よく由美子さんが気を失わなかった。
 ハッと小さく目を開いた千鶴さんから、ふっと力が消え、由美子さんが崩れる様に倒れ込む。
「由美子さん! 由美子さん!」
 何とか由美子さんが床に倒れ込む寸前、俺は抱き止め肩を揺すった。
「……あ、あれ……あたし?」
 虚ろだった由美子さんの瞳の焦点が、ゆっくり俺に合い。
 由美子さんは片手で額を押さえ、頭をぶるぶる振った。
「貧血だな。大丈夫?」
 由美子さんの記憶が曖昧なのに付け込み、俺は貧血だと決めつけた。
「…そ…う…かな…? 急に気が遠くなって。やだ。ごめんね、心配させて」
 由美子さんは蒼褪めた顔で謝り。千鶴さんに気付くと、えへへと奇妙な笑いを浮かべ、俺の肩に掴まりよろよろと立ち上がった。
「……ごめん。…あたし、帰るわ」
 言うより早く、由美子さんは俺の肩を支えにして、ふらつく足を靴に押し込んだ。
「大丈夫なの?」
 休んでからの方が良くない。と尋ねると、由美子さんは帰って休むから、と頭を振り呟いた。
 放心状態の記憶が無くても、本能がこの場から離れさせ様とするのだろう。
「……あの、表に車が待たせて在りますから。宜しければ、お使いになって下さい」
 しゅんと身を縮め押し黙っていた千鶴さんが、靴を履き終った由美子さんに道を譲り、伏せた目を僅かに上げ恐る恐る口を開いた。
「うん、助かるよ。悪いけど千鶴さん、少し中で待っててくれる。ちょと下まで送って来るから」
 目を伏せたまま頷いた千鶴さんを残し、由美子さんのコートを掴むと、俺はふらつく由美子さんの身体を支え、タクシーに乗せ、運転手に送ってから戻るよう頼み引き返した。
 ドアの前で大きく息を吐き、俺は心を落ち着かせた。

 力で千鶴さんなのは判っていたが、どうして鬼の力を?

「ごめんなさい、耕一さん」
 意を決しドアを開けるなり、入り口に向い正座していた千鶴さんが深々と頭を下げた。
「…記憶も曖昧だから、気にしなくていいけど。でも、どうしたの?」
 出迎えた千鶴さんの心底反省しています。という小さい身体を更に小さくした、しょんぼり項垂れた姿が、俺の緊張を一気に解いた。

 やはり、意識して使った訳ではないのか?

「ごめんなさい。気が付いたらああなってて。私もこんな事初めてで。本当に、ごめんなさい」
 叱られた子供の様な千鶴さんを、可愛い。と思ってしまう俺って、結構意地が悪いな。
「まあ、そんなに気にしなくてもいいよ。それより寒くない?」
 俺は解けた緊張感も在って軽く言いながら、千鶴さんに炬燵に入る様に勧めた。
 炬燵が在るので、エアコンを押さえ気味にしていた部屋は、温かいとはとても言えない。
 項垂れたままこくんと頷くと、千鶴さんはコートを脱ぎ炬燵に座り直した。
 キッチンに向った俺は、割れたカップを隅に寄せ、珈琲をカップに注ぎ千鶴さんの前に置いた。
「あのぉ〜、あの方は?」
 伏目がちに尋ねる千鶴さんの斜め隣に腰を下ろし、俺は由美子さんのディバックが忘れてあるのに気が付いた。
「うん、丁度いいか。明日でも、届ける次いでに様子を見て来るから。千鶴さんは、気にしなくていいよ」
 バックを脇に寄せながら俺は軽く応え、上目遣いに覗く千鶴さんの視線で、間の抜けな返事をしたのに気付いた。
 少し膨れた頬と拗ねた様な視線。
 俺は何となく鬼の力が洩れた理由が判って、少し嬉しくなった。

 ちょとオーバーだけど、嫉妬かな?
 結構気分良かったりして。

「ゼミの友達。レポート手伝って貰ってたんだけど」
 俺は言いながら、苦笑混じりに首を捻って顔を覗き込んだ。
 千鶴さんは頬を染め俯くと、居心地悪そうにもじもじする。
「久しぶりだけど。みんなは、元気にしてる?」
 久しぶりに会って、あまり苛めるのも可哀想になった俺は、気になっていた従妹達の話しを振った。
「えっ? あっ、はい。みんな元気にしています。でも、寂しがっていますよ。特に初音が。御正月には耕一さんが来て下さると思って。みんな、楽しみにしているんですよ」
 変わった話題にほっと顔を上げ、ぎこちなく微笑んだ千鶴さんの声音には、少し責める響きが混ざっていた。

 無理も無い。
 夏以来、幾度か電話では話したが、連休にも屋敷に行かなかった。

「ごめん。バイトが忙しくって。今やってるレポートを出したら、行くよ」

 やはり行こう。
 これ以上、先に延ばす訳には行かない。
 確かめないと。

「…本当、ですね?」
 千鶴さんは、俺の顔を覗き込み確認する。
 苦笑いで俺が頷き返すと、千鶴さんは躊躇いがちに口を開いた。
「…でも、耕一さん。そんなにアルバイトが大変なら……」
「千鶴さん、それは前に話したよね。生活費位は、自分で稼ぐよ」
 話し出した千鶴さんを遮り、俺は先に釘を刺す。

 親父から仕送りが出ていた事を知った俺は、親父の僅かばかりの遺産を学費に当て、生活費はバイトで賄っていた。

「耕一さん、結構頑固ですね。その分、家に来て貰えれば、みんな喜ぶんですけど」
 千鶴さんは表情を曇らせ、小さな吐息を吐く。
「みんな、ね。特に初音ちゃん。梓と楓ちゃんも?」
「えぇ?」
 わざと名前を外した俺の思惑にも気付かず。何故そんな事を今更と言った顔で、千鶴さんは不思議そうに頷く。
「ふ〜ん、そう。千鶴さんは、喜んでくれないか」
 溜息混じりに呟き、俺はぷいと横を向く。
「ええ! そんなぁ〜。耕一さぁ〜ん」
 胸の前で小さな拳を握り慌てる千鶴さんを横目に、俺は腕を組んで続ける。
「いいや。夏から放って置いた俺が悪い。そうか。そうだよな。やっぱり正月も、一人で寂しく過ごそ」
 拗ねた振りを装い様子を窺うと、千鶴さんは頬を赤く染め身を乗り出した。
「そんなぁ。私、嬉しいです。耕一さん、ずっと来てくれないし、電話してもアルバイトで留守番電話ばかり。たまに掛かって来ても、すぐ梓や初音に取られてゆっくり話せないのにぃ。…ひどい…ですぅ」

 や、やばい。

「ご、ごめん。行きたかったんだけど。休みの方がバイト料良くて。ごめんなさい」
 グスグス鼻をすすり出した千鶴さんに、俺は慌てて両手を突いて深く頭を下げた。
「もう。謝る位なら、最初から言わなきゃいいのにぃ」
 鼻をすすりながら、ぷんと膨れた千鶴さんがまた可愛くて。つい、苛めたくなるんだよな。
「はは、いやその。…そう言えば千鶴さん。こんな年末に、どうしてこっちに?」
 旅館という仕事柄、年末は正月客の受け入れ準備で忙しい筈。
 話を胡麻化そうと俺が尋ねると、千鶴さんは何故か神妙な顔になり、俺の顔色を伺う様に俯き加減で上目遣いになった。
「あっ、あの、旅行社の方とかに挨拶周りですけど。…もしかして。お邪魔でしたか?」
「じゃ、邪魔?」
 恐る恐る聞き返され、俺は思わず聞き返していた。

 俺が千鶴さんが来てくれて、喜んでも邪魔だなんて思う筈がない。

「千鶴さんを邪魔だなんて、思う訳ないよ」
「…でも、御正月も来ないつもりじゃなかったんですか?」
 勢い込んで言った俺を、上目遣いのまま目を細めて見ると、千鶴さんは炬燵の上のレポートに視線を走らせ、俺に視線を戻した。
 行くか行かないか迷っていた俺は、図星を刺されどぎまぎと頭を掻いた。
「そうなんですね?」
 千鶴さんは確信した強い口調で言いながら、下から俺の顔を覗き込み、部屋の中をグルッと見回した。
「お部屋、綺麗なんですね。耕一さんが、こんなに綺麗好きだなんて、知りませんでした」
「へっ?」
 千鶴さんが何を言いたいのか判らず、俺は首を捻った。
 部屋ったって寝に帰るだけで、殆ど居ない上。家具だってそんなに無い。
 綺麗と言うより、何も無いと言った方が早い。
「そりゃ、掃除ぐらいするけど?」
 取り合えず、何か言わないと不味いかなって感じで応える。
「やはり、お邪魔だったんじゃ?」
 そう聞いた千鶴さんの視線は、ジッと由美子さんのバッグに注がれていた。
「そんな、邪魔だなんてとんでもない」
 背筋を走った冷たさに、思わず改まった口調をどう取ったのか。顔を上げた千鶴さんの瞳は潤み、胸の前で握った拳もわなわなと震えた。
「やっぱり。さっきの女(ひと)がそうですね!」
 潤んだ瞳で、キッと睨み付けた千鶴さんの迫力に押され。
「えっと。そ、その由美子さんが、どうかしたのかな?」
 思わず身を引いた俺は、再び間の抜けた台詞を口にした。
「耕一さん! ああいう可愛い女がいいんですね!」
 あまりの話の飛躍に頭が真っ白になった俺が、気を取り直す間もなく。千鶴さんは興奮して来たのか、頬を真っ赤に染めた。
「…どうせ年上だし、さっきの女ほど胸も無いし。…あっ! もしかして。メガネがいいとか」

 年末の夜、由美子さんと二人だけの部屋。
 部屋に置いたままのバッグを見る視線。
 部屋が綺麗って、由美子さんが掃除したと思ったのか?
 やっぱり千鶴さん、凄い焼きもち焼き。

「あの、千鶴さん。俺、そういう趣味は無いんだけど」

 しかし、良く観察してるな。

「料理も下手で。梓には、亀なんて言われちゃうし」
 千鶴さんの耳には、まったく俺の声が入っていない。
 梓の毒舌も、少しは堪えてたらしい。
 などとのんびり考えていると。千鶴さんは大きく見開いた瞳から、ぽろぽろと雫を滴らせ始めた。
「えっ! ちょ、ちょと千鶴さん。由美子さんは、ただの友達。本当に何でもないって」
 俺は慌てて千鶴さんの細い肩を抱き寄せ、千鶴さんは俺の胸に顔を埋め、嗚咽を洩らし始めた。
 俺は千鶴さんの頭を胸に抱き、ゆっくり髪を梳き撫でた。

 喜んでいいのかも知れない。
 俺の前だけでも泣ける千鶴さんは、少なくとも抜け殻の様な虚ろな瞳をする事は無いだろう。
 だからこそ、確かめないと。
 …それにしても。
 …こんなに…よく泣くとは…思わなかった。
 由美子さんが応対に出たの、そんなにショックだったのか?

 俺が鬼の制御に成功した後。
 二人になると千鶴さんは、感情をあらわにする様になった。
 柏木の血の宿命。
 その長い間の重荷から解かれ、張り詰めていた気が一気に緩んだのかも知れない。
 俺は不安を憶えながらも、妹達の前で出す事の出来ない表情を見せてくれ、嬉しくも思っていた。

 胸に抱いた温もりと、髪の仄かな香りが俺の中に染み入り。俺は艶やかな髪を撫で、髪の間から覗く可愛い耳に、湧き出る愛しさのまま優しく囁く。
「俺が好きなのは、千鶴さんだよ」
 ゆっくり顔を上げ、千鶴さんは俺に濡れた瞳を向けた。
 濡れた瞳に吸い寄せられ、俺は頬にそっと口づけ。滑らかな頬に手で添わせ、うっすらと開いた唇に自分のそれを重ねた。
「…耕一…さん」
 涙とは別の潤む蒼みを帯びた瞳と、温かな囁きに呼ばれ、俺は細い腰に腕を回す。
「柏木さん。戻りましたけど、どうします!?」
 何とも間の抜けたチャイムのBGMと、近所迷惑な大声で、俺の試みは見事に肩透かしを食らった。

 俺は溜息が出た。
 タクシーに戻って来る様に頼んだのを、心底後悔した。

「千鶴さん、帰していいかな?」
 俺の期待に満ちた問いに、千鶴さんは頬を染めたまま俯いた。
 答えは、それで知れた。
「ごめんなさい。この後、会食が……」
「どれぐらい後?」
「…そろそろ行かないと」
「ちょと待って」
 俺は名残惜しい柔らかな温もりから離れ、ひつこくチャイムを鳴らす運転手に、すぐ行くから下で待てと伝え引き返した。
「千鶴さん、いつ帰るの?」
「ええと」
 慌てて手帳をめくる千鶴さんを見ていると、とても企業トップとは。
「予定は明日の昼までですから。急な仕事が入らなければ、明日午後に帰る予定ですけど」
「明後日は、帰ってすぐ仕事?」
「いいえ。休養も兼ねて、一日余裕は見て在りますから。休み、ですけど?」
 出張なら次の日が休みかも知れないと思った通りの答が、不思議そうに首を傾げた千鶴さんから返って来る。
「じゃあ、今夜中にレポート上げるから。午後落ち会って。明後日、一緒にって。どうかな?」
 俺は大いなる下心を持って提案した。
「えっ? でも午後に出れば、夜には家に着けますけど」
 千鶴さんは、きょとんとした顔で言う。
「その、向こうだと中々二人だけになれないから、半日ぐらいはね」
 相変わらず惚けてくれる千鶴さんの反応に、俺は苦笑いを浮べ単刀直入に返した。
「あっ。えぇ。…はい」
 千鶴さんは僅かに目を見開き、ぼっと真っ赤に染まった顔を俯かせ、消え入りそうな声で応えると、泊まっているホテルのメモをくれた。
 送り出す前に柔らかな唇を堪能し、俺は残された二杯の珈琲を飲みながら、レポートを仕上げに掛かった。

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