二の章


「どうしたの梓? 静かになっちゃって」

 耕一と千鶴を見送り梓に眼を戻した美冬は、訝しげに首を傾げた。

「あ、いや。なんか訳が分かんない間に耕一も千鶴姉も出て行っちゃったんで」

 美冬の声でハッとして頭を掻いた梓は、ぎこちない笑顔を作った。
 千鶴と耕一が美冬と一緒に先に鶴来屋に行くのは判った梓だが、どうして先に行くのか考えている間に終わった話し合いに置いてきぼりを食った気分だった。

「うん? 私と巫結花の事を鶴来屋に問い合わせた人がいるって事だけど」
「こんなに早く? なんでバレたんだろ?」
「そりゃ、一緒に泊まってて同時に出発したからね。問い合わせは鶴来屋に行くだろうから、社長さんにも先に挨拶しとこうと思ったんだけど。意外に早かったな」

 首を傾げて片手で髪を書き上げた美冬は、そう意外でもなさそう言う。

「足立さんに? じゃあ、温泉に入りたいってのは?」
「それも本当。鶴来屋の料理も食べたいしね。そうだ、梓も一緒に来ない?」

 ぽんと手を打った美冬は梓の顔を覗き込む。

「一人じゃ退屈だし、鶴来屋の中を案内してよ」
「一人って?」
「うん?」

 千鶴と耕一が一緒なのにと言った梓は、くすっと笑らった美冬に首を傾げられ、何となく居心地が悪くなってもぞもぞと身体を揺すった。

「挨拶と事情説明だけなら、すぐ済むわね。耕一達が先に行く必要がないでしょ? 他にも社長さんと何か話があるんでしょうね」
「あっ、そうか。じゃあ、美冬さんが邪魔しないって言ってたの?」

 言われてみれば、顔を出すだけなら夕食の前でもいい筈だった。ちょっと考えて梓が聞くと、美冬はにこりと微笑んで頷いた。

「そう、挨拶だけ済ませば席を外すからって意味。梓になら、耕一達の話もだいたい想像が付くでしょ?」
「……やっぱり…役員の話かな」

 良く出来ましたと小さく手を叩いた美冬の問いに、梓は軽い溜息で応えた。

 まだ梓は返事をしていない。
 自分が役員にならなければ、耕一がなるだろう。その方が良い気がして、返事を出来ずにいた。

「そうでしょうね。トラブルなら、すぐにでも鶴来屋に向かってる筈だし、慌ててる様子もなかったしね」
「うん」

 頷きながらふ〜と息を吐いた梓を、美冬は傾げた首で下から覗き込むように見上げる。

「落ち込む事ないわよ。梓はなかなか優秀よ」
「そうかな。でも、まだまだ耕一には負けてるよね」
「同じ人間が二人いても仕方ないでしょ? 梓に必要なのは自信ね」

 耕一と比べて零す梓を困ったように見て、美冬は額に掛かった髪を掻き上げ背筋を伸ばした。

「それに耕一は、貴方とは比較にならない」
「そんなの判ってるけど……」

 冷たく響く美冬の声音に俯いた顔から上眼を向けた梓は、睨むように庭を見詰める美冬の厳しい横顔に言葉を飲み込んだ。

「彼、笑ってるもの」
「えっ?」

 美冬の呟きが判らず梓は眉を顰めた。

「耕一。彼が笑うの見た事がなかった」
「美冬さん、なに言ってんだよ。耕一ならいつでもへらへら笑ってるじゃん」

 笑わない耕一など、梓には想像も付かない。
 冗談かと思った梓は、明るさの消えた美冬の厳しい横顔を見ながら自分の表情が強ばるのを感じた。

「そうね、まるで別人」

 美冬は呟くように言いながら、梓に顔を向けゆっくりと息を吐き出す。

「人が良いのは相変わらずだけど、笑わなかった。知識も、苦しむ為に求めてるような所があった」
「で、でも」

 美冬の真剣な顔で嘘や冗談を言っていないのに気付いた梓は、思わず開いた口を噤み黙り込んだ。
 何を言えばいいのか、言うべき言葉が見つからなかった。

 違うのだ。
 梓が知っている耕一と、美冬の知っている耕一は。
 ごろごろ寝ているか軽口を叩き合っていた耕一と、いまの思慮深い耕一を隔てた、梓の知らない耕一の事を美冬は言っているのだ。

「今でも耕一は、私にはあまり笑わないわね。特にあなた達と一緒だと。こういう話を、貴方達に知られたくないんでしょう」
「あっ」

 梓は小さな声を洩らし俯いて考え込んだ。
 言われてみれば美冬と話している耕一は、どこか態度が固かった。ホテルで美冬を苦手だと愚痴っていた時の耕一の様子も普通ではなかった。

「思い当たる事がありそうね」
「う、うん」

 ゆっくり頷く梓に微かな笑みを返し、美冬はまた軽く息を吐き出した。

「彼に何があったのか知らない。でも、彼と同じ瞳の人は知ってる。絶望した瞳で、救いを求めてた人」
「…絶望した瞳?」
「底の見えない暗闇みたいな穴よ。覗いたら最後、どこまでも落ちていきそうな、底無しに冷たい闇」

 僅かに眉を寄せ身を震わせた美冬の言葉で、梓はその闇を一度は覗いたのを思い出していた。
 他でもない、耕一の瞳の中に。

「……美冬さんの…知ってる人って?」

 耕一と同じ瞳をした人と言うのが気になって、梓は恐る恐る聞いた。

「自殺未遂……で…すんだ」

 淡々と話していた美冬は、微かに口元を歪め静かに首を振った。

「でも、本人は助かったと思ってなかったな」
「…どうして?」
「妹を殺したの。強盗から助けようとして、誤って妹を撃ったの。死なせろって暴れてね」

 聞いた事を後悔するように俯いて黙り込んだ梓を見詰め、美冬は少し明るさを取り戻した声音で続けた。

「でもね、立ち直ったわ。神に救いを求めて神父になったわ」
「……そう…なんだ」

 微かに安堵の息を洩らして顔を上げた梓に微笑みかけると、美冬は首を横に倒して梓をジッと見詰めた。

「耕一と同じになるには、同じ苦しみを味合わわなければ無理よ。その点では、私も同じにはなれない。それに絶望から立ち直れる人は、少ないわ」

 スッと上げた手で落ちて来た髪を掻き上げた美冬は、優しい儚い笑みを頬に浮かべた。

「いま笑える耕一を、私は尊敬してる。とても素敵だと思うわ。でもね、梓」

 美冬の優しく細めた微かに青みを帯びた瞳を、梓もジッと見詰め返していた。

「耕一を笑えるようにしたのは、貴方達。それは確かね」

 静かに瞼を閉じると、美冬は吐息のような息を吐き出した。

 美冬には出来なかった。
 耕一にも、その前も。

「だから自信を持ちなさい。私にも巫結花にも出来なかった事を、貴方達はやったのよ」
「でも、それは……」
「自信を持つ方法は、二つあるわ」

 耕一を笑えるようにしたのは千鶴と楓だと思った梓の自信なさげな呟きを遮り、美冬は諭すように話し出した。

「一つは自分自身に自信が持てるまで努力を続ける。もう一つは、一番信頼する人、一番大切な人に認めて貰う」
「………」

 ジッと聞いている梓を開いた瞳に映して、美冬は深い笑みを浮かべた。

「耕一は出来ない事をあなたに押し付けたりしない。出来ると信じているから、あなたに期待を掛けている」
「……うん」

 美冬に言われるまでもなく、梓はその事をよく知っていた。
 知っている筈だった。

「よく覚えて置いて。期待されないで努力し続けるのも、誰にも認めて貰えないのも、虚しくて悲しいものよ」
「美冬さん?」
「知識や能力なら、あなた以上の人間はいくらでもいる。でも彼は、あなたの知識や能力ではなく、柏木梓と言う一個の人間性を認めている。そんな信頼は望んでも手には出来ない」

 再び眼を閉じた美冬は、梓の声も聞こえないように言葉を紡ぐと、何かに耐えるように大きく息を吐き出し額を片手で押さえた。

「美冬さん? 大丈夫?」

 美冬がとても辛そうに見えて心配になった梓は、身を乗り出して美冬を覗き込んだ。

「ううん。なんでもないの」

 心配そうに伺う梓に大きく髪を揺らして応えた美冬は、普段の明るい表情に戻っていた。

「でもまあ、急いで決める事ないわよ。まだ若いんだもん、ぎりぎりまで焦らしてやれば」
「あのね」

 いままでと一転して軽く笑い飛ばす美冬に付いていけず、梓は胡座を組んだままひっくり返りそうになった。

「まったく、どこまで本気なんだよ?」
「あら、私はいつだって本気よ」

 恨めしそうな上目遣いで梓が見上げると、美冬は渋面を作って拗ねて見せる。

「……美冬さん…知らないんだよね?」
「うん? 耕一のこと?」

 表情を引き締め真剣な顔になった梓に首を傾げて見せ、美冬は瞳を細めた。
 梓が小さく頷くと、美冬は小さな溜息を吐いた。

「詳しくは知らない。ただ、幾つもの複雑な悩みを抱えているのは、見ていても判ったわ。それにね、いつもそんな瞳をしてた訳じゃないし、知り合って半月ほどは気付かなかったもの」
「そうか……耕一、変わったんだよね。前は暇さえあれば寝ててさ、よく口喧嘩してたんだ」

 梓は少し寂しそうに話した。

 今年に入ってから、耕一は少しでもまとまった休みが取れると柏木の家に遊びに来るようになっていた。
 しかし以前とは違って、昼寝どころかいつも忙しそうに何かをしていた。
 朝も早いし昼間もよくどこかに出掛ける。
 初音や梓が何をしているのか聞くと、卒論の準備で忙しいだけだと言っていたが。

「前の耕一の方がいい?」
「そんなんじゃないよ。耕一は耕一だしさ」
「気持ちは判るわ。寂しいんでしょ?」
「……うん、たぶんそうなんだろうな。言い合っててもさ、なんか前と違うんだよね。置いてきぼりにされたような気がして……」

 僅かに上目遣いに美冬を見上げた梓は、小さくこくんと頷いて話した。
 千鶴にも妹達にも言えない気持ちを、誰かに話したかったのかも知れない。

「千鶴姉も耕一も、楓もだけど、あたしより全然大人なんだよね。たまにだけど、情けなくてどうしようもなくなるんだよね」
「私にも、その気持ちは判るけどね」
「美冬さんが?」

 劣等感などとは無縁だと思っていた美冬から出た意外な言葉で、梓はそっと顔を上げた。

「うん。梓、巫結花が苦手でしょ?」

 美冬が妹のように可愛がっている巫結花を苦手だと言っていいものか。どう答えようか迷った梓だったが、微かに首を傾げて見る美冬には見透かされているようで、俯いて小さく頷いた。

「……うん」

 梓は確かに巫結花が苦手だった。
 あの澄んだ黒曜石のような瞳でジッと見詰められると、何か落ち着かなくなって居たたまれない気持ちになる。

「私も苦手だったの。あの子といると、自分が酷く子供に思えてね」
「巫結花ちゃんといると? でも、妹みたいに可愛がってるのに?」
「うん、いまはね。留学した時は、小さい頃の巫結花のイメージがあったから喜んで来たんだけどね」

 上目遣いに聞く梓に微笑を浮かべた美冬は、成長した巫結花に再会した頃を思い出して、微笑を苦笑に変えた。

「昔から神秘的って言うか、そう言う雰囲気は持ってたんだけどね。微笑してるだけで何を言っても反応しないし、心の中を見透かされてるような気がして落ち着かなくて。裏切られた気分もあったのかな?」
「裏切られた?」
「そう。よく笑う可愛い女の子になってるだろうなって、勝手に思い込んでたの。それが違ってたから」

 くすっと笑った美冬は、上眼で覗く梓に眼を向け首を横に倒す。

「でもね、巫結花は巫結花なのよ。耕一が耕一であるように。どう変わろうとね」
「あ、うん」

 梓は美冬の気持ちが判ったような気がして、こくんと頷いた。
 耕一がグータラだろうがだらしなかろうが梓達には大切なように、巫結花自身が美冬には大切なのだろう。

「巫結花は、私達とは価値観が全然違うの」
「価値観って? そりゃ変わってるとは思うけどさ……」

 それ程おかしくないと言いたかった梓だが、とても言えなかった。
 どう考えても、巫結花は変わっている。

「まず世間の事には関心がないわ。あの子を動かすのは、興味だけね。興味がなかったら、まず髪の毛一筋動かさないわね」

 どう言えば良いか悩んで額に皺を寄せる梓をくすくす笑い、美冬は話し出した。

「え? でもホテルに迷惑がかかるって、出掛けたんじゃなかったっけ?」
「いいえ。耕一や貴方達に迷惑を掛けるからよ。耕一と貴方達を、巫結花は気に入ってるもの」

 梓の勘違いを訂正して、美冬は話を戻した。

「世間体も人の思惑も巫結花には関係ないわ。虚無絶対、それがあの子の眼指す真理だから」
「虚無絶対? 真理ね。なんだか判んないけど、難しそうだな」
「そうね。社会の倫理や経済、人の死や生も越えた無の境地だもの」
「だめだ。あたしには判んないや」

 頭が痛くなってきた梓は、降参と両手を上げて投げ出した。
 宗教じみて来て、梓にはとても理解出来ない。

「私にだって理解出来ないわよ。観念の世界だもの」

 宥めるように言うと、美冬はころころと笑う。

「でも悪い子じゃないからね。そう言う事」
「あ、うん。それは判ってる」

 変わっているけど巫結花を嫌わないでくれと美冬が言っているのに気付いて、梓は深く頷いた。
 梓も嫌ってはいないが、言われてみると苦手意識から巫結花を避けるようにしていたかも知れない。

「でも、美冬さんにも理解出来ない事って、あるんだね」
「私にもってね。理解出来ない事だらけよ」

 美冬にも判らない事があるのに少し安心して言った梓は、溜息混じりで返した美冬を見上げた。

「あたしから見ると、美冬さんて何でも知ってる見たいに見えるけどな」
「そうでもないわ。私のモットーは、広く浅くよ。専門知識は、専門家に任せればいいのよ」
「あれだけ知ってて、まだ浅いの?」

 梓はあれだけ色々知っていて、浅いと言い切る美冬に呆れた。

「浅いわよ。理解するのと覚えるのは違うわ。理解して無くても覚えられるもの」
「そう言うもんかな?」
「求められる知識の質の違いね。私に求められるのは、社会全体を見渡して指示を出すのに必要な知識。個々の専門知識への理解じゃないの。そうね、こう言えば判るかな? 梓が料理を作るには、食材や調理の方法に関する知識が必要でしょ?」
「うん。そうだけど?」
「私は料理が出来ないけど、料理の味と名前は知ってる。だから、梓に何を食べたいか注文は付けられるわ」
「当たり前じゃん?」

 美冬が何を言い出したのか判らず、梓は首を傾げた。

「じゃあ初めて会うお客様を十人呼ぶとしてよ。それぞれの人が好きな違う料理を作ってって言ったら?」
「そりゃ、作るけど。フランス料理とか言われると困るけどさ」
「どうやって初めて会う人の、好きな料理を知るの?」

 おかしそうに笑う美冬を訳が判らずに見返し、梓ははっとなった。
 料理の方法をいくら知っていても、初めて会う相手の好みを知らなければ作りようがない。

「そう言うこと。この場合、私に必要な知識は、十人それぞれの好きな料理の情報を集める知識。梓に必要なのは、私が教えた料理を作る知識。必要な専門知識が違う訳」
「なるほどな。家族ばっかりだから、あんまり考えたこと無かったけど。好みを知らなきゃ作りようがないもんね」
「料理だって美味しく作るには、レシピだけじゃダメでしょ? 自分なりの味付けをするためには、料理への理解が必要じゃない?」
「そうか、そうだよね。みんながみんな、同じ味で美味しく感じるんじゃないもんな」

 ふっと眼元を緩めた見冬は、腕を組んで考える梓を見ながら前髪を掻き上げた。

「梓は耕一に似てるわね」
「耕一に? あたしが?」

 組んでいた腕を解き、梓は自分を指差す。

「ええ。耕一も梓も考える前に感覚で捉える方ね」
「感覚ね? 勘って事かな、でも耕一の奴よく考えてるけどな」
「それが耕一と梓の差ね」
「じゃあさ。考えるようにすれば、あたしも耕一みたいになれるって?」
「さあ、それは判らないけど。梓は何かを感じても、言葉にしたりするの不得意でしょ?」
「うん。そうだと思うけど」

 こっくり頷いて、梓は美冬が話すのを待った。

「耕一は勘を知識で肉付けして形にする。でも、たぶん梓は、考える前に動き出すんじゃないかな? そうするとね、知識がないから形になる前に崩れちゃうのよ」
「勘が崩れるって? 訳が判らなくなるって事かな?」

 美冬は一つ頷く。

「そうよ。どう動けばいいのか判断する情報がないと、何をすればいいのか判らなくなるわ。勘を行動に生かせないの。料理だって加える調味料の量で味が変わるけど、梓はその量を経験って言う情報を元にして、勘で決めるんじゃない?」
「なるほどね。目分量か? でもそれってさ、千鶴姉や美冬さんも一緒じゃないの?」

 どうして耕一と自分が似ている事になるのか、梓には判らなかった。

「いいえ。私は勘じゃなく集めた情報を分析して、ロジカルに考えるわ。情報から得た知識を計算し、弾き出した答えで動くの。勘じゃなく、計算して調味料の量を何グラム加えるかを正確に計る。たぶん千鶴もそう言うタイプね」
「やっぱり良く判んないや。そんなの何となく、これぐらいかなって入れるけどな」

 どう違うのか判らずに頭を掻きながら苦笑いした梓が言うと、美冬はくすくす笑い大きく伸びをして首を捻った。

「そのうち判るわ。自信はなくさなくて良いわよ。普通は、そんなの考えないんだから」
「やっぱり美冬さんや耕一って、特別なのかな?」
「それは当然ね。耕一は兎も角、こんな美女が二人といる?」

 ぼやき気味に言った梓は軽く笑い飛ばされ、大きな溜息を吐き出す。

「美冬さんのその自信が、どこから来るのか教えて貰いたいもんだよ」
「ひ・み・つ」

 指を一本突き出した美冬は、梓の鼻先で振って見せる。

「まあ仕事が出来て綺麗だもんな。周りの人だって期待してるだろうしさ」

 聞くだけ野暮だったな。と梓はぼりぼり頭を掻く。
 周りの信頼と期待が、美冬の自信に繋がってるんだろうと梓は思った。

「必要なのは知識と能力。私じゃない」

 美冬は吐き出すように言い。
 梓が頭を掻いていた手を止めへっと言う顔を向けると、なんでもないと手を振って梓にくるりと背を向けて立ち上がった。

「そろそろ着替えるけど。梓はどうする? 来るならもっと色々と教えて上げるわよ」

 少し美冬の言葉と態度が気になった梓だが、立ち上がって振り返った美冬は、もう愛想の良い普段の笑顔に戻っていた。

「うん……千鶴姉に聞いてみる…初音や楓の事もあるし」

 妙に感じたのは気のせいだったのかなと首を捻り、梓も立ち上がった。
 からかわれるのは嫌だが、美冬といると勉強になるのは確かだ。

「でも美冬さん、何でそんなに色々教えてくれるの?」

 梓は疑問に思っていた事を聞いてみた。
 からかっているだけにしては、懇切丁寧に解説するし、考えてみると嘘は一つもないのだ。

 開けたままにしてあった障子を閉めつつ庭を一瞥していた美冬は振り返ると、キョトンとした顔を梓に向けた。

「あら、何でも教えてくれって言ったでしょ? 忘れちゃった?」
「えっ? そりゃ、言ったけど」

 まさか二日前のレストランでの会話が続いているとは思ってなかった梓は、毒気を抜かれた。

「付き合ってくれてる間は教えて上げるわよ。中途半端は嫌いだからね」
「あ、あの、ありがたいんだけどさ。遊ぶのは勘弁してくれないかなぁ」
「だって、面白いんですもの」

 ふふっと笑った口元を押さえた美冬は、こくんと首を倒しながら障子から離れる。

「おも…しろ…い……」

 こうも正面切って言われると、梓は情けなくて言い返す気もしない。
 完全に美冬に遊ばれている。

「……それと…罪滅ぼし、かな?」
「罪滅ぼし?」

 背中を向けハンガーに掛けたスーツを手を伸ばした美冬の呟きで、梓は誰への何に対する罪滅ぼしなのか首を捻った。

「さっき言った、苦しむ為の知識」
「あ、ああ。耕一ね」

 美冬は着替えながら、背中を向けて話していた。

「私が最初に話を振ったの。旧日本軍の南京虐殺だった」
「え?」
「なんだか耕一ったら、それからそう言った方面の資料集め出しちゃって。旧日本軍の細菌部隊の人体実験やナチスのホロコースト、ポルポト派の大虐殺、果てはCIAの人体実験にKGBの資料までね」

 Tシャツを脱ぎ豊かに波打つ髪を大きく広げた美冬は、独り言のように淡々と話した。

「眼を覆いたくなるような酷い話ばっかり。写真を見れば吐き気を催すような悲惨なものよ。資料を読めば、人間なんて信じられなくなるだけなのにね」
「なんで耕一の奴、そんなもん? 経済だけじゃ無かったの?」
「さあ、理由は知らない。政治経済、歴史、オカルトに西洋東洋の神秘学、宗教、何でも知りたがったわね。特に人間の暗部を調べてた見たい。酷かったな、まるで何かに取り付かれたように調べてた。あんな話を振るんじゃなかった」

 ふっと言葉を切ると、美冬はジーンズを脱ぎスーツを身に纏い出す。
 唐突に黙り込んだ美冬が着替える背中を見ながら、梓には訳が判らなくなっていた。
 耕一がいったい何を考えて、そんな資料を調べていたのかもだが、美冬のアンバランスさにも。
 梓にも美冬が色々教えてくれるのは、耕一に余計な事を教えた罪悪感かららしいのは判った。
 しかし陽気でからかってばかりいるかと思うと急に真剣になり、今度は感情を失せたように独り言見たいに淡々と話し、急に黙り込んでしまう。
 でも嘘は言っていない。
 しかし美冬にからかわれているだけのようにも思えて、梓は今ひとつ本気で信じ切れないでいた。
 掴み所が無くて、本心が見えないのだ。

「あ、梓もドレスアップして、ヒールを履いて来てね」

 ぼんやりしていた梓は、急に髪を波打たせ振り返った美冬の言葉を理解出来なかった。

「ちゃぁんと、お洒落して来なさいよ」
「でも、鶴来屋だしさ」

 もう陽気な笑顔を向ける美冬に付いていけず、梓は軽い頭痛を覚えた額を押さえて溜息混じりに言う。

「いろんな人が来てるでしょうね。いい練習よね」
「練習って? いやあの…パーティーじゃ…」
「楽しみよね。柳にドレス預けるんじゃなかったな」
「ちょっと、美冬さん聞いてるの?」
「水着は鶴来屋で買えるかな? 別になくても良いんだけどな」
「いや、そりゃ不味いって止めといた方が………」
「千鶴がうるさそうだし、仕方ないかな? 思いっきりセクシーなので、耕一の奴、悩殺してやろ」
「頼むから聞いてよ!」
「うふふ、楽しみだわ」
「………」

 何を言っても耳を貸さず一人で盛り上がっている美冬を残して、梓は深い深い溜息を吐いて客間を後にした。
 耕一の冥福を祈りつつ。


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