一の章
重厚なテーブルに透けるような白さを映し、茶托に乗せた白磁の器が静かに差し出される。
茶托に添えられた細い手指は、白磁に負けず透き通るように白い。
病的な白さではない、健康な張りのある瑞々しさに溢れた白さ。
「どうぞ」
「ありがとう」
優雅な所作で置かれた白磁から静かに眼を上げ、美冬は楓の透き通るような微笑に微笑みを返した。
年齢に不似合いなほど落ち着いた静かな楓の所作に感心しながら、美冬ははにかんだ楓の微笑みから、視線を開け放たれた障子越しに望む鹿威しの鳴る庭に転じた。
手入れの行き届いた庭に春の訪れを告げる緑が芽吹き、陽射しを受けた若葉が眼に優しく、春らしい優しい風に乗り清々しい香を部屋へと運んでくる。
「温かい家ね」
視線を隣で背を真っ直ぐに伸ばして正座している巫結花に向け、美冬は問い掛けるように呟く。
細波のような温かな揺らめきが巫結花の同意を伝え、美冬は頬を緩めた。
巫結花も美冬と同じく初めて訪れたとは思えない、この家に満ちた穏やかな温かさを感じていた。
普通の人なら圧倒されるだろう重厚な門構えや屋敷の大きさに惑わされる事なく、人が棲む家に満ちた温かさと穏やかさを。
家は棲む人の心を反映する。
心ない者が棲む家は、家も他者を阻み、人を寄せ付けなくなる。
家の大きさや豪華さは、美冬達にはあまり意味がない。家は心身を休め、安らぎを与えてくれる場所であり。安らげる家とは、穏やかな温もりを与えてくれる場である。
そして家を作るのは、棲む者達の心のありよう。
少なくとも美冬は、これ程安らげる家を自分の家以外には知らない。
美冬達が安らぎを感じると言う事は、家が美冬達を受け入れた証拠でもある。
「千鶴達には感謝しないと。本当に良い所ね」
微かに頷いた巫結花の意を察し、テーブル越しに座る二人の姉妹に視線を戻した美冬は、柔らかな微笑に自分と巫結花の感謝を込めた。
「そう仰って頂けると、お招きした甲斐があります」
千鶴は柔らかな笑みで首を微かに斜めに傾け、楓はお茶菓子を差し出した手を止め静かな微笑みを浮べた。
千鶴達と美冬らは、午後早くに柏木の屋敷に着いていた。
梓と耕一は暫く留守にした間、締め切っていた屋敷中の雨戸を開けに向かい。初音は美冬達の客間を整える為に席を外していた。
応接間には美冬達と案内して来た千鶴、お茶を運んで来た楓の姿しか無かった。
都会とは言えない隆山でも古くからの家並みが軒を連ねる一角、その中でも大きさ重厚さに置いて群を抜く柏木家の応接間に、いずれ劣らぬ美貌の主が四人。
笑みを浮かべての静かな時間は、春のうららかな陽気と微かな茶と新緑の香りに包まれ穏やかに流れていた。
静かな空気を震わせて、この場に不似合いな電子音が響いたのは、美冬と巫結花がお茶を口に運び一息吐いた時だった。
「ちょっと。ごめんね」
何の音か訝しげに顔を見合わせた千鶴と楓に苦笑気味に断り、美冬は傍に置いた革製のショルダーバックを引き寄せた。
分厚い茶色の革のバックは、手入れの行き届いた革独特の落ち着いた風格を漂わす年代を感じさせる物だ。しかし、お洒落な美冬が持つには不似合いな実用本意の無骨さがあった。
バックのサイドポケットから携帯電話を取り出した美冬は、二言三言言葉を交すと電話を元のサイドポケットに戻した。
「ごめんね。便利なのはいいけど、時と場所を選んでくれないのが難点ね」
「ええ。電源を切れればいいんですけれど、急な用件だと困りますし。ゆっくりしたい時には不便ですよね」
苦笑を浮かべた美冬の謝罪に千鶴が相槌を打つと、美冬はツイッとテーブルに身を乗り出す。
「そうそう首に鈴を付けられたネコの気分。この間なんてトイレで鳴り出すんだもの。イヤになるわ」
「それは困りますよね」
「そうなの、それも朝の七時。相手の方は昼間だったから仕方ないけど。まさかトイレだから後にしろとも言えないしね。便秘になっちゃうわよね」
「は、はぁ。そ、そう…ですよね」
美冬の飾り気のない台詞に苦笑しつつ千鶴が相槌を打つと、美冬はチロッと舌先を覗かせ肩を竦める。
「ごめん、下品だったね。今の柳からで、夕方までには着けるって」
「あっ、それじゃあ柳さん、夕食には間に合いますね」
柳は耕一達と別行動になっていた。
千鶴達や美冬が買込んだ服や荷物を乗せた車を駆り、後から来る事になっている。
千鶴達が初日に買った品物は宅配で頼んであったが、それでも姉妹の買い物だけでもかなりの大荷物だった。
しかも美冬は仕立て直しが必要な物が出来上がるまで待ってから、柳に来るように指示していた。
「うん。思ったより仕立て直しが早く済んだみたいね」
何げなく頷いた美冬は、千鶴がほんの少し申し訳なそうな表情を浮べているのに気付いて微かに眉を寄せた。
「どうかしたの?」
「私達の荷物まで運んで頂いてしまって、柳さんに申し訳なくて」
微かな感情の変化に気付く美冬には、変に隠し立てするのは逆効果だと思い。千鶴は嫌味にならないよう言葉を選んで応えた。
荷物は宅配で送って貰うと一度は断った千鶴達だが、美冬は車を運ぶ次いでだからと柳一人を残して来たのだ。
車を放って置けないのは千鶴にも判るが、一人で車を駆って来る柳に対して、少し美冬の態度が冷たい気がしていた。
しかし美冬の方は、申し訳なさそうな千鶴を不思議そうに見て微かに首を傾げた。
従者や使用人が主人の荷物を運ぶのは当然の事だ。
美冬には、千鶴が柳を気遣う方が不思議だった。
「柳なら気にしなくていいのよ」
「でも、お独りですし」
「もしかして、千鶴達って使用人を使ってないの?」
言って良いのか迷ったような楓の声音に微かな非難を感じ取った美冬は、柳に荷物運びを命じた時に感じた千鶴達のぎこちなさを思い出していた。
使用人を使い慣れた態度ではなかった。
千鶴や楓のそれは、友人や知人に無理を押し付けた引け目を感じているぎこちなさだった。
「ええ。家では雇っていませんけど」
千鶴がコックリ頷き。
美冬は自分の思い違いに苦笑を浮かべた。
これ程の屋敷に留守番さえ置いていないのを不思議に思いながら、旅行中使用人に暇でも出したのだろうと、あまり気に止めていなかったのだ。
「ごめん。人を使い慣れてないと気になるわね。でも柳なら平気よ、使用人が主人の荷物や身の回りの世話をするのは当然だし。それが仕事ですもの。まして柳は、巫結花の従者だしね」
「従者?」
「うん、まあ詳しく話すと長くなるから今度ね。でも、柳は巫結花に仕事を与えられるのが生き甲斐だから、喜んでも嫌がったりしないわ。だから気にしないでね」
コクンと首を横に倒してにっこり微笑み、美冬は柳の話は終わりと半透明の湯飲みを口元に運ぶ。
「でも。それじゃあ掃除や洗濯なんか、全部自分達でするの?」
一方的に話を切られて顔を見合わせる千鶴と楓に、美冬は湯飲みから眼だけを上げて問い掛ける。
「庭の手入れまでは出来ませんけど、大抵の事は。もっとも家の事は梓に任せてあるんですけど」
「じゃあ、食事も梓が作るの?」
「ええ。ああ見えて、梓は料理が得意なんですよ」
湯飲みを茶托に戻した美冬は、感心して眼を軽く開いた。
姉妹と知り合ってまだ四日。
純和風の家にしっくり馴染む楓の落ち着いた所作や礼法に感心していた美冬だが、それ以上に元気で明るいだけかと思っていた梓が家に帰り着いた途端、テキパキと姉妹や耕一に指示を出す手際の良さに感心していた所だ。
美冬は家事全般が苦手だ。
出来ないのではなく、する必要がない。
家に帰れば食事は専門の料理人が作り、身の回りの世話は使用人がする。
使用人を監督する有能な執事もいる。
しかしだからと言って、美冬は家事を軽くは見ていない。
効率よく家を快適に保てるのは、的確な判断を下し指示を与える有能な執事がいればこそだった。
柏木の屋敷は、どう考えても姉妹四人には広すぎ、快適に保つのに姉妹だけで手が足りているとは思えなかった。
学業の合間にこの屋敷を快適に保っている梓の手腕は、有能と言っていい。同じ事を出来るかと問われれば、美冬には出来る自信がない。
美冬の中では、梓の評価がかなり変わって来ていた。
「う〜ん。でもちょっと悪いな」
「お待たせ。部屋の用意出来たよ」
噂の梓が開け放した廊下からひょいと顔を覗かせ、美冬は千鶴と顔を見合わせ頬を綻ばせた。
「えっ、なに? どうかしたの?」
あまりのタイミングの良さに苦笑を浮かべた口元を拳で隠した楓をチラリと見て、梓はキョロキョロと三人の顔を見比べた。
「いま梓の噂をしてた所よ」
「噂ってどんな?」
見上げる千鶴を軽く睨み、梓はどうせ良くない噂じゃないの? と言うように眉を顰めてストンと腰を下ろした。
「梓、家事が得意なんですってね。料理も上手なんだって? 羨ましいわ」
「へへっ、ずっとやってるから慣れただけだよ。でも羨ましいって。美冬さんは、料理ダメなの?」
「うん、全然ダメなのよ。作れるのは、スクランブルエッグとトーストぐらいかな」
照れ臭そうに鼻の頭を指先で掻く梓を見ながら言い、美冬は尊敬の眼差しを注いだ。
「それ料理って言う?」
梓はちらっと横眼を流して、千鶴の、美冬が同じ料理下手で安心したような表情に苦笑を噛み殺した。
「そう言うけどね。まず自分で作る事ってないし、困らないもの」
「じゃあ、普段の食事ってどうしてるの?」
「家では専門のシェフを雇ってるわ。他はほとんど外食、会食とか打ち合わせを兼ねてレストランで食事とかね」
「へぇ、家でシェフ雇ってるの」
専門の料理人を雇っている美冬達にどんな食事を出せば良いのか、梓は両腕を組んで考え込んだ。
「梓」
「うん?」
考え込んでいた梓は、千鶴に呼ばれて顔を上げた。
ホンの一瞬、視線を美冬達に流すと、千鶴は視線を梓に戻した。
「先に美冬さん達をお部屋にご案内したらどうかしら、私達も着替えて来るから」
「うん、そうだね」
美冬達にも着替えてくつろいで貰うように言っているのに気付いて、梓は小さく頷いて返した。
「じゃあ美冬さん、巫結花ちゃん、部屋に案内するね」
「あっ、ちょっと待って」
腰を上げ掛けた梓を、美冬は呼び止めた。
「どうかしたの?」
「うん、私ちょっと勘違いしてて。梓が御料理作るなら、旅行から帰ったばかりで大変でしょ?」
美冬はてっきり料理を作る使用人がいると思い込んでいたのだ。旅行帰りで疲れている梓に食事の用意をさせるのは申し訳なかった。
「大した物は出せないけど、あたしなら平気だからさ」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけどね。それで考えたの」
いったん言葉を切った美冬は、グルッと姉妹三人を見回しにっこり微笑む。
「せっかく隆山に来たんだし、温泉にも入りたいと思ってね。良ければ、鶴来屋で温泉に浸かって早めの夕食ってどうかな?」
「鶴来屋で、夕食ですか?」
「うん。日本の温泉にはまだ入った事ないのよ。そんなに遠くないんでしょ、ダメかな?」
考えるように顎に指を置いた千鶴を覗き込み、美冬はコクンと小首を傾げる。
「車で三十分位ですし、もちろん用意はさせて頂きますけれど……」
少し考えた千鶴は、美冬達や耕一にご馳走を振舞おうと張り切っていた梓を伺うように覗く。
「あたしは良いよ。今晩だけじゃないし、明日なら準備に時間も掛けられるしね」
梓は千鶴に軽く頷いて返した。
「そう? じゃあ、そうしましょうか」
千鶴に異存はなかった。
どちらにしろ帰って来た以上、休暇中とは言え、一度は鶴来屋に顔を出して置かなくてはならなかったのだ。
「決まりね。あ、千鶴」
満足げにうんうん頷いた美冬は、千鶴に眉を顰めた顔を向ける。
「はい?」
「これは、泊めてもらう私達からのお礼なんだから。食事の請求は、私に回してね」
「いえ、そんな。お招きしたのは私達なんですから」
「公私の区別は厳しくしないとね」
「でも、そう言う訳には」
「そうしてくれないと、私達の方が居づらくなっちゃう」
少し厳しくなった眼で見る美冬に引き下がる気がないのを感じ取り、千鶴は微かな息を吐いてコクンと頷く。
「判りました」
「うん。でも値引きならいいからね」
「はい。それじゃあ用意をさせて置きますね」
パチッとウィンクを決め茶目っ気を見せる美冬の仕草にクスっと笑いを洩らした千鶴は、後を梓に任せて着替えようと楓に頷きかけて、ふと梓に眼を戻した。
「梓、耕一さんと初音は?」
「初音は着替え。耕一は先に美冬さん達の荷物、部屋に運ぶって」
「そう。じゃあ、後は任せたわね」
一瞬僅かに瞼を伏せた千鶴は、梓にそう言うと美冬達に笑顔を向けた。
「御自分のお家のつもりで、くつろいで下さいね」
「うん、ありがとう」
軽く手を振って美冬が返すと、会釈した千鶴と楓は連れだって応接間を後にした。
「じゃあ、案内するね」
「ええ。巫結花」
腰を上げる一瞬眼を離した梓が振り返ると、もう巫結花も美冬も立ち上がっていた。
梓は立ち上がる一瞬の気配も感じさせなかった二人の動作に少し驚きながら、美冬達を促し客間に向かった。
「美冬さん、荷物持つよ」
「ううん。梓、お客さん扱いはなし。手伝う事があったら、何でも言ってくれていいからね」
美冬は軽く首を横に振った。
「でもさ」
「いいの。耕一だって、巫結花の家で用事を頼まれてるし」
斜め後ろを歩く美冬の返事で、美冬に顔を向けたまま梓の足は少し遅くなった。
梓も耕一が巫結花の家に出入りしているのは聞いていたが、家の用事を頼まれるほど親しくしているとは思ってなかった。
何となく癪に障った梓はぷいっと顔を前に戻して、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「耕一の奴じゃ、あんまり役に立ちそうもないけど」
「そうでもないわよ。巫結花のお父さんだけど、耕一を気に入ってるのよね」
「あいつ人当たりだけはいいからね。あ、ここだよ……なに?」
部屋に着いて顔を振り向けた梓は、可笑しそうにくすくす笑う美冬を見つけ、障子を手を掛けたまま首を捻った。
「ごめん。千鶴だけじゃないのね」
「なにが?」
自分が笑われている気がしてぶすっとした梓に謝りながら、美冬はますます可笑しそうにくすくす笑い出す。
「梓ったら、可愛い」
「だから何だよ?」
「焼き餅、妬いたでしょ?」
うっと詰まった梓は、自分でも訳の判らない顔の熱さを感じた。
「や、焼き餅なんて……妬くわけが…」
「素直になったら、巫結花が耕一と親しいのが気になるんでしょ?」
自分でも理解していなかった感情を言い当てられ、赤くなった訳に気付いた梓の顔は茹で蛸のように真っ赤になっていく。
「恥ずかしがる事ないわよ。うん、なに巫結花?」
ツイッと肘を引かれて美冬が眼を向けると、肘を掴んだ巫結花はジッと美冬を見上げ、スッと庭に視線を移した。
「ああ。梓、庭を見せてもらってもいい?」
「……うん」
赤い顔を俯かせる梓のぼそっとした返事が聞こえる前に、巫結花はスッと縁側に腰を下ろすとソックスを脱いで白い素足を地に下ろしていた。
「あ、巫結花ちゃん」
「いいの」
慌てて赤い顔を上げ、草履の置いてある上がり框(がまち)に案内しようとした梓を止め、美冬はにっこり笑みを浮かべた。
「大丈夫。巫結花を傷つける物はないわ」
「そりゃ、掃除はしてるけど。石とか鉢植えの欠片とかで怪我するかも知れないし、危ないよ」
「心配ないって。それより部屋に入って着替えたいな」
歌うような抑揚を付けて、美冬は梓を覗き込むとツイッと指でまだ赤い梓の頬を突っつく。
「止めてよ、美冬さん」
「そうね。あんまり苛めて嫌われたく無いし」
嫌そうに指を払った梓に上眼遣いに睨まれ、美冬は又くすくす楽しそうに笑い出す。
二人がそうこうしている間にも庭に下りた巫結花は滑るように庭を横切り、梓の視界から庭木の陰に入って行く。
「嫌ったりしないけどさ」
「本当に大丈夫なの。巫結花は素足の方が気持ちいいのよ」
梓は巫結花が気になったが、美冬を廊下に立たせて置いて後を追う訳にも行かない。
廊下に立ったまま客間を眼で示す美冬は、梓が部屋に通すまで案内されるのを待つつもりのようだった。
「うん、じゃあ」
そこらの道路と違い庭の中なら安全だろう。そう考えて、梓は巫結花を気にしながら障子を開け美冬を部屋へと招き入れた。
応接間を後にした千鶴は、客間から少し離れた廊下で額を押さえ微かな息を吐いていた。
家に帰った安心感からか、美冬達の接客から解放された途端、軽い疲労感を感じていた。
「楓も疲れたでしょう?」
「ううん。姉さんは大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。家に帰って安心しただけ、着替えたら少し休むわ。先にご挨拶してくるけれど。楓、あなたは?」
軽く額を押さえた手で前髪を直しながら千鶴が後ろにいた楓を振り向きながら聞くと、楓はゆっくり首を横に振った。
「着替えてからにする」
「判ったわ。それじゃあね」
廊下の角で部屋に戻る楓と別れ、千鶴は仏間に足を向けた。
線香の香りが漂い来る部屋の障子を開けた千鶴は、仏壇の前に座る先客の人影に入ろうとした足を躊躇いがちに止めた。
静かな親子の対話の邪魔をしたのではないかと躊躇いがちに足を進め障子を閉めた千鶴に気づき、仏壇の前に背筋を伸ばして正座していた耕一は、固く閉じられていた瞼をゆっくり開くと微かに笑みを浮かべた顔を向けスッと腰を引いて座を譲った。
耕一が浮かべた笑みに促され、千鶴は仏壇に向かい線香を上げて両手を合わせた。
両親と叔父に帰宅の挨拶を済ませ、千鶴は静かに瞼を開くと耕一に視線を移した。
「……親父は、賛成してくれるかな?」
耕一は遺影を見上げたまま尋ね、千鶴は耕一を瞳に映しゆっくりと頷いた。
「叔父様も、御理解下さいます」
千鶴の確信した口調に、耕一もゆっくりと頷き返した。
「うん、親父なら判ってくれるね」
「ええ」
ふっと軽くなった耕一の表情に安心して、千鶴も微笑みを浮かべて頷いた。
耕一は遺影を見上げていた面を下げ、足を崩して胡座を組むと、千鶴に穏やかな表情を向けた。
「初音ちゃんは先に来てたみたいで、お供えが上げてあったよ。梓はさっき挨拶してったけど。楓ちゃんは、まだ美冬達と一緒?」
「いえ、楓は一度部屋に戻りました。美冬さん達のお世話は、梓に任せて来ました」
「梓か」
眉を寄せた耕一を見て、千鶴は首を傾げた。
「耕一さん、梓が何か?」
「いや、美冬の方。梓があいつに影響され過ぎなきゃいいけど」
「影響? 二人とも気が合うのか、色々と教えて頂いているようですけど……何か心配でも?」
「俺の心配しすぎだと思うけどね。美冬の話は極端だから、梓には刺激が強くないかと思って」
美冬に付いては梓と直接話そうと決め、耕一は表情に不安を覗かせた千鶴を安心させるよう軽く首を横に振った。
「確かに、あの方の話は極端ですね」
ふっと息を吐いた千鶴は、困ったような苦い笑いを浮かべていた。
梓と美冬は二人とも陽気な性格の為か、歳が近いせいか気が付くと良く二人で話し込んでいた。
いや、ちょっとした質問に立て板に水で返す美冬の話を、梓が聞いていたと言うべきか。
千鶴はたまに相槌を打つぐらいで余り気にしなかったが、耕一は美冬の話にたびたび口を挟んだ。
美冬の話は歴史や経済の例えにしても、死と不審が潜む余り穏やかな話ではなかった。
梓は美冬のからかうような茶眼っ気のある仕草と明るさに誤魔化されて余り気にしていなかったようだが。千鶴は美冬の話の根底にある、コンプレックスのような物を感じていた。
「まあ、それより千鶴さん」
「はい?」
僅かに眼を伏せて帰りの二人の様子を思い出していた千鶴は、耕一に呼ばれて伏せていた眼を上げた。
「千鶴さんも疲れただろう? 着替えて少し休んだ方がいいよ」
「はい、そうします。耕一さんも、少し休んで下さいね」
微笑み掛けて言う耕一に素直に頷き、千鶴の眉は耕一の方がちゃんと休むか心配だと言った風に僅かに曇る。
「うん。一休みしてから、美冬達の様子を見てくるよ」
そのまま美冬達の様子を見に行こうと思っていた耕一は、先に釘を刺されて苦く笑った。
「夕食は鶴来屋で頂くことにしましたから、耕一さんも温泉に浸かって、今日はゆっくり休んで下さい」
「鶴来屋で?」
「ええ。美冬さんが、帰ったばかりで食事の用意も大変だろうからって。でも、費用を自分達に回すように言われるんですけれど」
了承はしたものの、招いておいて美冬から料金を取るのが気が引ける千鶴は困ったように言う。
「まっ、あいつは高給取りなんだし、せいぜい吹っ掛けて遣ればいいよ」
「もう。耕一さん、そんな訳には行きません」
けろっとした顔で二割り増し位でどうかな? と顔を覗き込む耕一を睨んで見せた千鶴は、軽く笑う耕一の表情を見ながらホッと肩の力を抜いた。
「そう言えば、こっちに来ててまだ温泉にも浸かってなかったな。次いでに足立さんにも会っておくか、その方がゆっくり出来るしね」
「はい。じゃあ。足立さんに電話を入れておきます」
「うん。じゃあ」
軽く微笑み頷いた千鶴を促し、耕一は共に仏間を後にした。
仏間を後にした耕一が、今や自室と化した客間で普段着に着替えた千鶴を迎えたのは、しばらくしてからだった。
足立に電話を入れた千鶴から、鶴来屋に美冬達について問い合わせがあった話を聞き、耕一は千鶴と連れだって美冬達の客間に向かった。
同じ客間でも耕一に当てられた部屋は離れの一角。数ある客間の中でも一番日当たりの良い部屋で、美冬達の部屋とはかなり離れていた。
障子を開けたままの美冬達の部屋から聞こえてきた笑い声とぶすっとした声を耳にして、耕一は廊下で微かな溜息を吐いた。
「美冬、またやってるのか? ……巫結花はどうした?」
また梓をからかって遊んでいたのかと苦笑しつつ廊下から部屋を覗いた耕一は、部屋の中を一瞥して巫結花の姿が見えないのに気付いて美冬に尋ねた。
「うん、庭を散歩して来るって。ふふ、楽しいわよ、耕一も加わらない?」
耕一に頷いて返した美冬は、にっこり笑顔で耕一を話に誘う。
「どこが楽しい!」
案の定からかわれていた梓の方は、耕一が来てくれてホッとした表情で、心底楽しそうに誘う美冬に渋面で噛み付く。
「梓、失礼でしょ」
耕一の肩越しに千鶴が顔を覗かせ、軽く睨まれた梓は冷や汗を流しつつ愛想笑いを浮べた。
美冬は気にしなくても礼儀にうるさい千鶴の前で、お客さんを怒鳴り付けて只で済む筈がない。
「千鶴、いいのよ。お客さん扱いしないでって頼んだのは、私なのよ」
からかった上、千鶴に叱られては可哀想だと思ったのだろう。美冬は取り成すように言う。
「ですが、親しき仲にも礼儀ありと言いますから」
少し厳しい視線を梓に向けたまま、千鶴は頬に笑みを浮かべた顔を美冬に向ける。
「礼も過ぎれば無礼になる。とも言うわよ」
千鶴を見上げ、見冬はからかうように言う。
美冬の瞳は千鶴の杓子定規な固さを笑っているように輝いていた。
「程度の問題ですね」
「うん、そうね。だから私が気にしてないんだから、良いんじゃないのかな?」
「そう仰って頂けるのは、ありがたいんですが」
美冬に愛想の良い穏やかな笑みを向け、言外に口出し無用と匂わせた千鶴は微かに首を横に傾げた。
首を傾げた千鶴に横眼で睨まれた梓の方は、ぎこちない笑いで視線を逸らした。
判りたくないが梓には長い付き合いで判ってしまう。千鶴は美冬のいない所で叱るつもりだ。
「どっちかって言うと、美冬の方だろ?」
千鶴に睨まれ縮こまった梓をそろそろ助けてやるかと耕一が軽く美冬を睨んで言うと、美冬は笑いながら顔を上げる。
「あ、判る?」
「梓で遊んでたな」
「え?」
ふふっと笑った口元を片手で隠した美冬と、溜息混じりに言った耕一を見比べて千鶴は首を傾げた。
「耕一の方が怒りっぽいかな?」
美冬は唇に指を当て考えて見せる。
美冬の知っている耕一は、梓より余程怒りっぽかった。ムキになった耕一とよく口論もした。
「千鶴さん、気にしなくていいよ。美冬が梓をからかったんだ。俺もやられたから」
訝しげに見上げる千鶴に、耕一は苦虫を噛みつぶしたような笑顔を向ける。
「二人とも立ってないで座ったら。でもね、脚色はしてないんだけどな。梓ったら信じてないみたいなのよね」
「お前が信じられないような話にしたんじゃないのか? 梓、なんの話だったんだ?」
耕一は不得要領な顔の千鶴を促して腰を下ろし、千鶴を見ないよう視線を逸らしている梓に聞いた。
「うん、豚の脂」
「豚?」
ぶすっと答えた梓の返事で、千鶴はキョトンとした顔になる。
「ああ、アレか? 油紙に豚脂が混ざってたって、暴徒に工場が焼き討ちされた話。それとも植民地の反乱の方か?」
以前聞いた話と同じかと聞いた耕一にううんと首を横に振り、美冬は片眼を瞑って見せる。
「同じ話はしないわよ。もし鶴来屋にムスリム(イスラム教徒)が来て、豚の脂でも使ったら大変よってね」
「エコノミックアニマルの国を、ムスリムが観光するかな?」
最初に日本人の勤勉さをエコノミックアニマルと呼んで蔑んだのは、欧米人ではなくムスリム達だった。
わざわざそんな国に、豚の脂で怒り出すような連中が来るか。と言った渋面を作る耕一に、美冬は軽く両手を開いて掌を上に向け肩を竦める。
「まあね。過激なムスリムは来ないでしょうね」
前にした話を耕一が覚えていたのが少し嬉しくなって、美冬は微笑みながら耕一に相槌を打つ。
「あの? 耕一さん?」
「あっと。ごめん」
話の見えない千鶴に横顔を覗き込まれ、耕一は話し込んだのがばつが悪そうに頭を掻いた。
「イスラム教徒って日本や西洋とは習慣が極端に違うからさ。美冬の奴、すぐに持ち出すんだよ」
「イスラムですか? 私も話には聞いていますけれども。かなり習慣が違うそうですね」
「でもさ、料理に豚の脂使っただけで、美冬さん殺されるとか言うんだよ。いくら何でも大袈裟だろ?」
どうやら叱られずに済みそうな雰囲気になって、梓はホッとして口を挟んだ。
しかし梓が笑って済ますと思っていた耕一は、難しい顔で考え込んだ。
「鶴来屋でか? 殺されるは大袈裟だけど、やっかいな事態にならない。とは言い切れないな」
「そうでしょ?」
耕一の同意を得た美冬は、どう? と梓に頷いて見せる。
「たかが脂でね」
頭をぼりぼり掻いた梓は呆れたように言う。
梓もイスラム教が豚を嫌っているぐらいは知っているが、脂を使っただけで大騒ぎになるとは、とても信じられなかった。
「梓、外国のお客様への対応は難しいのよ」
あまり驚いた様子もなく、千鶴は少し困った微笑みを梓に向けて言う。
「まあ。宗教がらみは、とかく問題が多いからな」
「ええ、欧米のお客様へのマニュアルはありますけど。他も考えておかないといけませんね」
「そうだった。美冬、鶴来屋に行きたいって?」
真面眼な顔で頷く千鶴に向けていた顔を、耕一は訪れた理由を思い出して美冬に戻した。
「うん。温泉でお肌に磨きを掛けようと思ってね」
相変わらずの軽口で返した美冬は、悪戯っぽい笑みで耕一を見詰める。
「耕一も一緒に入る? 混浴もあるんでしょ?」
一瞬ハーレム状態を想像しそうになった耕一は
「……いや。いい!」
悪寒を感じて蒼い顔でぶるぶる頭を振った。
想像しそうになった一瞬で突き刺さった視線が二つ。
恐ろしくて振り返って確かめる気もしない。
「なに考えたのかな? 水着でOKだって聞いたんだけどな」
わざとらしい鼻歌混じりで、美冬は含み笑いを洩らしながら言う。
「悪いけど俺と千鶴さんは先に行くから、梓達と後から来てくれるかな」
早く話題を変えたい耕一は、美冬を無視して真面眼な顔で用件を切り出した。
「それは良いけど。何かあったの?」
美冬も一瞬で真面眼な顔になる。
「情報が早すぎてな」
「まあ、予想はしてたけどね」
「鶴来屋に宿泊者の問い合わせがあったそうでして。予約者リストには載っていませんから、そのようにお応えしたそうですけれど」
予想していた通りの耕一の答えに美冬はふ〜と息を吐き、補足して説明した千鶴に軽く頭を下げた。
「ごめんね。こっちには、それほど有力者っていないから、大丈夫だと思うけど」
「いいえ。大した事じゃありませんから、お気になさらないで下さい」
「うん、ありがと」
「しかし知らぬ存ぜぬで通す訳にも行かないしな。簡単に説明はしといたけど、先に顔出して来るわ」
耕一が軽く言うと、少し思案して美冬は顔を上げた。
「私も一緒に行くわ」
「美冬さん?」
「後で顔を出して知らん顔も出来ないしね。先に挨拶を済ませた方が効率的でしょ?」
訝しげな顔の千鶴にこくんと首を傾げて言い、美冬は耕一に問い掛ける眼を向けた。
「邪魔はしないわよ。柳が来るから、巫結花達は車で来ればいいわ」
美冬の意図を計り兼ねた耕一は、僅かに考えて申し出を受け入れる事にした。
勝手に動かれるより、見冬を眼の届く所に置いておいた方が良い。
「言い出したら聞かないんだよな。お前はさ」
「そうよ」
「じゃあ、俺は巫結花の様子見て来るから。一時間後でいいかな?」
美冬が頷くと耕一は腰を上げ、千鶴も腰を上げた。
「じゃあ、後でね」
軽く手を上げて見送る美冬の意図を計り兼ねたまま、耕一は千鶴と客間を後にした。
三部 九章