十の章


「心配ですか?」

 苦笑を抑えた声に尋ねられ。耕一はホテルを見上げていた顔を、向かい合って座る少女に戻した。
 肩の当たりで切り揃えた細く艶やかな髪を微風にそよがせ、全てを見透かすような澄んだ瞳が、苦笑と共に耕一に向けられていた。

 睨み合う梓と千鶴を残し、耕一と楓は遅い昼食を取りに部屋から降りて来ていた。
 耕一が見上げていたのは、丁度、千鶴達を残して来た部屋の辺りだった。

 ホテル一階のレストランから張り出したテラスで、白で統一された木製のテーブルと椅子が規則正しく並び。耕一達の他にも数組のアベックが思い思いの場所で、春の柔らかい陽射しと湖畔を渡る心地好い風を楽しんでいる。

「梓なりの気遣いなんだろうけど。不器用だよね」
「でも。最初に始めたのは、耕一さんです」

 楓は優しく眼を細めてクスッと笑い。
 不器用は、耕一も同じだと口元を綻ばせた。

「まあ、そうなんだけどさ」

 顔を風上に向け、晴れ渡った午後の陽射しを受けて輝く湖面を眩しそうに細めた目で一瞥した耕一は、静かに息を吐き出した。

「梓は大丈夫そうだし。美冬には感謝しないとね」
「はい。梓姉さん、気分転換が出来たみたいです」

 耕一の横顔を見ながらコクンと頷き、楓も細めた目を湖面に向ける。

「…綺麗」

 細波が跳ね返す光を楽しみ、その向こうに見える霞がかった緑滴る山並を遠い瞳で見上げた楓は、そっと呟いた。

「うん…隆山と…どっちが綺麗かな?」

 返事を期待したわけではない呟きに返って来た問いに、楓は静かにゆっくり首を傾け、そっと唇を指で押えた。

「…どちらも綺麗で、比べられません」

 眼を耕一に戻した楓の頬は微かに赤みを帯び、困った様に視線を下げてしまう。

「そうだね。比べられるわけないよな」

 軽い問いに真剣に考え込む楓の様子が微笑ましくて、耕一の頬が笑みを形作り。楓はコクンと頷き顔を上げ、静かな笑みを返す。

「…でも、やっぱり家が一番落ち着くよね」
「…そう…ですね」

 耕一の呟きから、穏やかに見えるこの瞬間も初音の事を考え続けているのを感じて、楓の表情は一瞬曇った。
 こんな些細な事でも、楓は心からの安息を耕一に与えられない自分を感じてしまう。
 耕一と一緒に春の麗らかな陽射しを浴びて眺める景色が。楓には、なにより綺麗で心が安らぐと言うのに。

 避け続けた夏の日。
 暇さえあれば午睡を貪っていた耕一の姿が懐かしい。と楓は思った。
 近づく事を恐れながら、背負った業の深さを知らず。残暑の陽射しを受けて安らかに眠る耕一の姿を遠目に見ては、安堵と失望の中で感じた穏やかさが懐かしい。
 態度や明るさは変わらなくても、あれからの耕一はいつもなにかを思い悩み考え続けていた。

「楓ちゃん、どうかした?」
「いえ。ちょと」

 陰った表情に気づいた耕一に首を振り、楓は小さく息を吐いて、以前から相談したかった話を切り出した。

「その、進学なんですけど。学部で少し迷っていて」
「うん? 経済に決めてたんじゃなかったの?」
「はい。でも、変えようかと思って」

 以前は鶴来屋で姉の手助けをしたいと経済学部を志望していた楓の相談に、耕一は少し首を傾げた。
 もちろん楓自身の将来の事を、耕一は強制するつもりはない。しかし耕一にも、楓が鶴来屋の経営に参加する事を前提にした計画があった。

「変えるって。この時期に?」

 もう三年に上がるこの時期での志望校の変更は、受験に不利に働かないか、耕一はウゥ〜ンと唸った。

「医学部に進もうかと思って」

 ジッと見つめる澄んだ瞳を見つめ返し、耕一は微かに息を吐いた。

「それは、精神科医になりたいって事かな?」

 楓は眼を逸らさず、こくりと頷いた。
 耕一が居てくれるなら自分が経営を助けるより。耕一が考えた鬼の意識の正体を探り治療法を探した方が、よりみんなの役に立てると、楓自身考え抜いての事だった。

「反対はしないけど。でもね、楓ちゃん」
「はい」
「俺達の為なら、止めてくれないかな。俺達の事より、楓ちゃん自身の将来を良く考えて欲しいんだ」

 心配そうに見る耕一の言葉を反芻して、楓は静かに目蓋を閉じ、胸の上で両手の平を重ね静かに頷いて返す。

「大切な人の為に役立ちたいと思うのは、間違ってないと思います。叔父さんや千鶴姉さん、耕一さんが教えて下さいました」

 はっきりとした声で言い。楓は目蓋を開けコクンと首を横に倒す。

「それに耕一さんが間違っていたら、私だって困ります」
「そう言われるとね。俺も専門家じゃないしね」

 真っ直ぐ見つめる瞳が眩しくて、耕一は照れ臭そうに頭を掻いて苦笑を浮べた。
「それで。千鶴さんには、まだ話してないの?」
「…えぇ」

 見つめていた瞳を揺らし視線を下げた楓の様子に、耕一はおやっと思った。

「楓ちゃんの意思が固けりゃ、千鶴さんも反対しないよ」

 訝しがりながら耕一が励ますと。楓はふるふる髪を横に揺らす。

「それは判っていますけど。でも、医学部だと四年では帰って来れませんし。お休みにも家に帰れるか……」

 耕一も楓の言葉に考え込んだ。
 実習や実験に追われる理系や医学部のハードさは、耕一も聞き及んでいた。楓が本気で医学を志すなら、大学院の研究過程も含め多忙を極めるだろう。
 楓も寂しいだろうが、残された姉妹も寂しい思いをするだろう。

「そうだね。でも、電話でも話せるしね。ちゃんと話せば、みんな判ってくれるって。でも、ちょと残念だな」
「………?」

 訝しそうに見上げる楓に首を捻ってみせ、耕一は視線を楓から少し上げて微笑むと言葉を継いだ。

「楓ちゃんには、梓と一緒に鶴来屋を背負ってもらうつもりだったんだけどな」
「…梓姉さんと私で、鶴来屋を?」

 楓は意味が判らず、問い返して首を傾げた。

「そうですね。楓には、梓を支えて貰いたかったんですけど」

 楓は背中から聞こえた声にビクッと身体を震わし、慌てて振り返った。
 そこには、楓の慌てぶりを面白がるように微笑む千鶴が静かに佇んでいた。

「千鶴姉さん。聞いてたの?」

 ごめんねと言うように首を傾げ、千鶴は静かにテーブルに着いた。

「途中からね。楓ちゃん、気づいてなかったの?」

 背中を向けていた楓が気づいていなかったのを承知で、白々しく惚ける耕一を軽く睨み、楓はほんの少し頬を膨らした。

「盗み聞きするなんて、酷い」
「あら違うわ、偶然聞こえて来たのよ。そうですよね、耕一さん」
「最初は偶然だけどね。そのまま聞いてたのは、どうかな?」

 頬を膨らませる楓を横目に、千鶴が耕一に同意を求めると。自分が知らん顔をしていたのは棚に上げ、耕一はあまり感心しないな〜とばかり、千鶴から視線を逸らす。

「でも。話の途中でしたし」

 当然、耕一は味方をしてくれると思っていた千鶴は、むくれた顔で言い募る。

「言い訳だよな」
「千鶴姉さん」

 耕一ににべもなく返され。楓には上目遣いに睨まれた千鶴は、小さくうっと唸って視線を落した。

「ごめんなさい、楓」

 しぶしぶ謝る千鶴にコクンと頷き返し、楓は改めて医学部に進みたいと千鶴に切り出した。

「医学部は、他の学部より大変だと思うのだけれど。楓は、もう決めたのね?」

 ひとつ頷いて、楓は千鶴の返事を待った。

「楓が決めたのなら反対はしないわ。でもね、楓」
「はい」

 横目を耕一に向け、千鶴はふぅ〜と息を吐き出す。

「耕一さんの真似をして、援助は要らないなんて寂しい事は言わないでね。姉さんにも、それ位はさせて頂戴」
「はい」

 そっぽを向いて渋い顔をした耕一をクスクス笑い、楓はコックリ頷く。

「話も終わったようだし。さあ、食べよう」
「まだ注文なさってなかったんですか?」

 照れ隠しのようにウェーターに大袈裟に手を上げた耕一に千鶴が尋ねると。楓はちょこんと首を傾げた。

「姉さんを待っていたの」
「そうだったの? ごめんなさい。梓ったら、美冬さんに服まで買って頂いていた物だから、少し長引いてしまって」

 申し訳なさそうに謝る千鶴の言葉で、耕一と楓は御説教される梓の姿が目に浮かび、苦い笑いが顔に張り付いた。

「まあ良いじゃない。梓だって、子供じゃないんだし」
「あの子は、まだまだ子供です」

 宥める耕一をピシャッと跳ねつけ、千鶴は不満げな上目遣いで耕一を見上げた。

「気づかなかった私も迂濶でしたけれど。ちゃんと梓が話してくれれば、美冬さんに、きちんとお礼を言えたんです」
「美冬は、そんなの気にする奴じゃないよ。梓が礼を言ったなら、それでいいじゃない」

 まだなにか言いたそうだった千鶴は、注文を取りに来たウエーターの姿に口をつぐんだ。
 楓と千鶴が子牛肉のソティーとコーンスープをパンで頼む横で、耕一は久しぶりだからな。と呟きつつステーキを注文し、同じくコーンスープにパンを頼み、ワインを追加した。
 因みにどれも神戸直送、新鮮さと最高の品質管理を売りにした物だ。
 ウェーターが一礼して立ち去ると、千鶴は胸の前で両の拳を揃えて一気に話し出した。

「耕一さんは、美冬さんとお友達ですからそう言われますけれど。私達は、昨日お会いしたばかりですよ。それにあの服だけじゃないんです。他にももう一着、それに御化粧品を一揃えに靴までなんです。好意で頂いたにしても、高価に過ぎます」
「そりゃまた、豪快に買込んだな。美冬の奴、よっぽど梓が気に入ったんだな」

 頬を赤くして熱弁を振るう千鶴と対照的に、耕一は頬をぽりぽり指で掻き、感心した様に眼を丸くする。

「気に入る気に入らないの問題じゃありません。梓もですが。美冬さんも、少し非常識だと思いませんか?」
「でもさ、美冬が押し付けたんだろ? 梓が買ってくれって言うわけないしさ」
「当り前です。人に物をねだるような子に育てていません」

 キッパリと言い切り、千鶴はほっとひと息吐くと水のグラスを手にした。

「まあ、千鶴さんの言うのも判るけど。美冬の好きにさせてやってくれないかな。あいつ、あれでもかなり落ち込んでるからさ」
「それは……」

 口に運びかけたグラスを止め、企業買収の話か聞こうと眼を上げた千鶴は、楓が一緒なのを思い出し、言葉を切ってグラスを口に運びなおした。

「うん。本当は人情家のクセして、仕事だと理論武装して感情を切り離して考えようとするからね。今度の事は随分堪えてる見たいだ。巫結花のお父さんは、以前から頑なすぎるって心配してたんだけどね。早くも無理が祟ったってとこだな」

 美冬に釘を刺されたのを思い出した耕一は、ここだけの秘密と付け加える。

「まあ、だからさ。美冬もパッと騒いで、買い物でもして気分転換したかったんだと思うんだ。梓は付き合わされただけだろう。千鶴さんも、あまり深く考えないでやってくれないかな」
「そう言う事でしたら。でも、お礼だけはちゃんとしないと」
「…千鶴姉さん」

 黙って聞いていた楓の呼び声に、千鶴と耕一は顔を向けた。

「あの。お礼も兼ねて、鶴来屋へ御招きしたらどうかしら」
「美冬さん達を鶴来屋に?」

 訝しげに首を傾げた千鶴の髪が微風に揺れるのを見ながら、楓は唇を指で押え考える素振りを見せた。

「ええ、初音も家の方が落ち着くと思うの。巫結花さんとも仲がいいから、一緒なら気が紛れると思うし。美冬さん達の都合なら、初音も帰ると言っても納得すると思うの」
「…そうね。やはり家が一番いいのかも知れないわね。初音は帰りたくても、自分から帰ろうなんて言い出す子じゃ無いし」

 視線を落し呟いた千鶴は、顎に指を添え耕一に眼を向けた。

「でも。美冬さん達のご都合はどうでしょうか? いっそ、鶴来屋より家にお招きしたらどうかと思いますけれど」
「美冬達は、安心して休養さえ取れればどこでもいいと思うけど。でも、家に泊めてもいいの?」

 意外な千鶴の申し出に眉を潜め、耕一は聞き返した。
 耕一はいいが。千鶴達は知り合ったばかりだし、今朝の事もある。
 巫結花との約束道理、明日だけ付き合って、後は別行動にしようと耕一は考えていた。

「ええ。私達の誰といても、思い出してしまうでしょうし。無関係な巫結花さんや美冬さんが一緒なら、少しは忘れていられるかも知れません」
「そうか。…そうかも知れないな。判った。食事が終わったら、美冬に話して来るよ」

 巫結花なら初音の助けになれるかも知れないと思い、耕一は頷いて返した。
 幸い巫結花も初音を気に入ってくれている。
 今朝、動揺していた初音を、巫結花が落ち着かせてくれた事に耕一は気づいていた。

「せっかくの卒業旅行なのに、梓には悪いけど。旅行は今度でも出来るからね」
「ええ。みんなで、いつでも出来ますよね」
「もちろん。絶対にね」

 少し潤んだ瞳で確認する様に見つめる千鶴と楓に頷いて、耕一は自分に言い聞かせた。
 いつか絶対に、みんなが揃って楽しめる旅行をしようと。



「あの、耕一さん」

 食前酒に運ばれて来たワインを味見していた耕一は、なにかを思い出したように首を傾げた楓に呼ばれ、グラスから顔を上げた。

「うん。楓ちゃん、どうしたの?」
「さっきのお話ですけど。鶴来屋を私と梓姉さんにって?」

 ああと頷いた耕一は、千鶴に目配せを送った。

「耕一さんは、梓さえ良ければ鶴来屋の女将さんにって。そう仰るの」
「梓姉さんが、女将さん?」

 首を傾げて少し考え、梓が着物を着て旅館中を駆け回る姿が浮かんで、楓は頬が綻ぶのを感じた。

「ええ。梓には企業間の駆け引きは出来ないと思うの。でもね。鶴来屋の中をまとめて引っ張って行く力と、人間的な魅力はあると思うのよ」
「女将は旅館の看板だし、社長と並ぶ両輪だからね。梓と足立さんで、鶴来屋は充分やって行ける。梓の補佐に、楓ちゃんに付いてやって欲しかったんだけどね」

 残念そうに溜息を付く耕一を見て、楓は眉を潜め再び首を傾げた。

「でも。千鶴姉さんと耕一さんは、どうするんですか?」
「楓ちゃん。鶴来屋グループは、鶴来屋だけじゃ無いよ。確かに鶴来屋が基幹だけど。他にも貸別荘、レジャーと言った関連会社がある。会長は、そう言ったグループのまとめ役だからね」
「耕一さんはグループを大きくする為に、大元の鶴来屋を梓に守って欲しいって考えて下さってるの。そしてね。そうね、医学部に進むのなら、楓にも手伝って貰えるかも知れませんね」

 耕一の後を引き取り、千鶴は意味ありげな視線を耕一に向けた。

「医学部なら?」
「うん。鶴来屋は、医療分野に手を伸ばす」

 突拍子も無い耕一の言葉に驚きに眼を丸くし、楓は目蓋をぱちぱちさせる。
 楓の驚きも当然だった。
 旅館と医療では、まったく繋がりのない別の分野だ。

「そうよね、驚くわよね。私も今朝聞いたばかりで、驚いたわ」
「でも、どうして医療に?」

 楓の驚きようを楽しむように微笑む千鶴に、楓は問い掛けた。

「楓、落ち着いて聞いてね。ヒトゲノム計画って知ってるかしら?」

 どこかで聞いた事があるような言葉だった。だが内容までは思い出せず、楓は首を横に振った。

「いま世界規模で人のDMAから遺伝子情報を解析する作業が進んでてね。あと数年で、半分ぐらいは解析出来るって言われてるんだけど。もしこれが完成すれば、人間の遺伝子情報の地図が出来上がる。生物工学や遺伝子治療は飛躍的に発達するだろうね。これがヒトゲノム計画だよ」
「…耕一さん。まさかそれで」

 耕一がなにを言いたいのか気づいて、楓は膝で揃えた手でスカートをギュッと握った。
 そんな物が完成して、人と異なるエルクゥの遺伝子が発見されれば、どうなるか。
 エディフェルが次郎衛門をエルクゥにしたように、人の手でエルクゥの遺伝子を組み込んだ鬼を生み出す危険すらある。

「簡単に発見されるとは思ってないよ。何しろ少数だしね。それに俺達が先に発見すれば、なんとかなるかも知れない。上手くすれば、柏木を解放出来るかも知れないしね」

 白くなった楓の顔を心配そうに覗き込んだ耕一が説明する隣で、千鶴はそっと楓の膝に置いた手に手を伸ばし、上から包み込んだ。

「ごめんね、楓。話すつもりはなかったの。だけど、医学を志すならいずれ気づく事だし、もしもの時の為に知って置いて欲しかったの」
「もしもの時?」

 上から温かく包み込まれた手を見つめ、楓は心配そうに見つめる姉に眼を向けた。

「ええ。もし求められても、私達は献血も細胞の提供も出来ない。いいえ、してはいけないの。今の医学レベルなら、髪の毛一本、細胞の一片からでも、DMA鑑定は可能なのよ」
「血のひと雫も、残してはいけないのね?」
「ええ。もし医学を志すなら、必ず提供を求められるわ。でも、それは常に危険を孕むの。特に医療の現場に残してはいけない」

 余りに無理難題に思える注文を口に乗せ、千鶴は顔を臥せて楓の手を握り締めた。

「ごめんね、楓。無理を言ってるのは判っているの。でも。もしも私達が失敗すれば、私達はあなた達を守って上げられない」
「…姉さん?」

 手を握った姉の手が微かに震えている気がして、楓はジッと千鶴の揺れている瞳を見つめ返した。

「楓ちゃん。俺達はまず病院、そして製薬会社に手を伸ばす。でも、まったく畑違いの分野だ。鶴来屋内部では誰の賛同も得られないだろう。万が一にも失敗すれば」

 そっと伸ばした手を千鶴の背に置き、耕一は迷った様に言葉を切り、息を吐いて楓を見直した。

「俺達は責任を取って鶴来屋を辞める事になる。もしもの時には、鶴来屋本体を無傷で残して、梓や楓ちゃん、初音ちゃんに後の全てを任せるつもりでいる」
「…耕一…さん」

 楓は詰まる喉から、掠れた声を絞り出すのがやっとだった。
 梓の役員就任は姉と耕一が打った布石。
 万が一の時には自分達だけで責任を取り、楓達には鶴来屋が残るように考えた布石だった。
 楓が考えていたより、遠い先を見越した物だった。

「楓ちゃん、そんな顔をしなくても大丈夫だって。まだまだ先の話だし、失敗するつもりは無いからね」

 暗い深刻な顔をした楓に軽く笑って見せ、耕一は千鶴の背を優しく二度叩いた。

「千鶴さんも、やる前から深刻になってちゃ、なにも出来ないよ」
「ええ。そうですよね」

 暗い表情を見せたのを詫びる様に耕一に微笑み、千鶴は額に掛かった髪をなおして楓に眼を戻した。

「まだ先の話ですものね。そうよね、楓がお医者様になる頃には、立派な病院を建てて迎えて上げられるわね」
「姉さん、まだ大学にも入っていないのよ」

 気の早い話をする千鶴に微笑んで首を傾げ、楓は微かに胸が熱くなるのを感じた。
 姉が冗談でも将来の話を口にしたのは、久しぶりだった。

「楓ちゃんが卒業するのは、七年か八年先だもんね。でも、医大って難しいんだろ? 今からで、受験の準備は間に合うの?」
「それは大丈夫です。志望校を精一杯背伸びしましたから、先生も大抵の大学なら平気だって」

 恥ずかしそうに頬を赤くして伏目がちに言う楓を、耕一は改めて見直した。
 成績優秀だとは聞いていたが、三流大の耕一とは偉い違いである。

「…でも。そう言う事なら、遺伝子工学の方に進んだ方が………」

 唇を指で押えて楓が洩らすと、耕一は首を横に振った。

「そんなつもりで話したんじゃないんだよ。大学に入っても、専門過程までは時間がある。焦って決めないで、楓ちゃんが、本当に興味を持ってやりたい事をやって欲しいな」
「でも、耕一さん…私…」

 耕一達の役に立ちたいと言い掛けた楓は、ぎゅっと手を握られ。自分を見つめる千鶴の真剣な瞳に声を途絶えさせた。

「梓にも、私達はなにも強制するつもりはないのよ。道はつけるけど、梓にも楓にも自分で選んで欲しいの。みんなには本当に自分がやりたい事をやって欲しいのよ。楓も私達の事は気にしないで、ゆっくり自分自身の将来を一番に考えて決めなさい。後から後悔だけはしないようにね」
「…千鶴姉さん」

 自分自身の過去を悔いるように話す千鶴の真剣さに、楓は握られた手を握り返し小さく呼んだ。

「道がひとつ違っていたら、私には後悔だけしか残らなかった。その時の現実で精一杯で、未来を考えられなかったの。他にも道はいくつもあった筈なのに。でも、今は大丈夫よ」

 ふっと優しく眼を和ませた千鶴は、そっと握った手を離すと背をしゃんと伸ばした。

「年上の言う事は聞いて置きなさい。これでも、あなた達の保護者なんだから」
「はい」

 胸を張ってこくんと横に首を倒した千鶴に頷き、楓は爽やかな風を頬に受け静かに微笑んだ。

 姉は耕一の示す道を見据え、共に歩む事を選んでいた。
 たとえ辛い道でも、間違っていても、姉が後悔だけはしないだろうと楓には確信できた。
 初音を心配しながらも、楓は心が少し軽くなった気がして、湖畔を渡る風がなぶる頬の感触に目を細め、過ぎ行く風の爽やかさに身を任せた。



「馬子にも衣装だな」
「あら、馬持たずに馬貸すなよ」
「お前らな。梓のは判るけど。美冬、お前のはなんだよ!」

 紳士服フロアの試着室で光沢を持ったグレーのスーツを着せられた耕一は、口々に冷やかす梓と美冬を渋い顔で睨み付けた。

「無知ね。馬を持ってない人は、馬の扱いが下手だから貸すなって、諺」
「って。お前どういう意味だよ」
「耕一さん、動かないでシャンとしていて下さい」

 衿を直していた千鶴に睨まれ、耕一は睨み付けた美冬から眼を上げて背筋を伸ばした。

「着こなしがなってないって事よ」
「そうかな、結構良いと思うけどな」
「服がいいのよ。案山子(かかし)でも似合うかもね」
「それは言える」

 口々に好き勝手を言って笑う二人を睨み、耕一は動けないでいた。
 かいがいしくも鼻歌混じりでスーツにネクタイを合せる千鶴が、少しでも耕一が動くと睨んでくるのだ。

 招待したい旨を告げられた美冬達は、そう言う事ならと最後の一日を買い物に当て、それから隆山に向かう事にした。
 結果として、今度は耕一が千鶴の着せ変え人形を演じる羽目になっていた。

「うぅ〜ん。少し地味かしら」

 唇に指を当て小首を傾げて考える千鶴は実に可愛いのだが。そろそろ三十分が過ぎ、耕一も流石に疲れてきた。

「いや、千鶴さん。それで良いと思うな。うん」
「そうですか? でも、もうちょと彩りが欲しい気が」

 冷や汗たらたらで言いつつも、せっかく千鶴が選んでくれているのに無下にも出来ない耕一は、そうかな。等と愛想笑いで返すだけだ。

「これなんか、どうでしょう?」
「あっ! それ良いかな」
「もう、耕一さん。真面目に選んで下さい」

 おざなりに耕一が返すと。千鶴はぷっと膨れ上目遣いに睨む。

「いや、でも。千鶴さんが選んでくれたのなら、俺はどれでも嬉しいからさ」
「えっ、そ、そうなんですか? でも、そう言って下さるのは嬉しいですけど。やっぱり耕一さんが気にいって下さったのでないと」

 なんとも照れ臭い台詞を吐きながら、だらしなく緩んだ赤い頬で照れ合う二人に、美冬と梓の吐いた呆れた溜息は届きもしない。

「梓。馬鹿らしいから、巫結花達、探そうか」
「そうだな。やってらんないよな」

 げんなりした二人は千鶴と耕一を残し、巫結花達を探しに向かった。

「…耕一さん」

 梓と美冬が姿を消すと、千鶴は小さな声で耕一を呼んだ。
 先程までの明るさは、その声にはなかった。

「うん。避けられてる…のかな」
「…仕方がない。とは思いますけれど」

 寂しそうに項垂れる千鶴の肩を抱き、耕一はゆっくり手に力を込めた。
 いつもなら、初音も千鶴と一緒になって服やネクタイを選んでいた筈だった。
 だが、このショップに着いたそうそう、初音は巫結花と一緒に服を選ぶと告げ、巫結花と楓と連れ立って姿を消していた。
 初音は何げなく振舞っていたが、時折向ける寂しそうな迷った瞳に、千鶴と耕一は気づいていた。

「気持ちの整理が付くまでは、ね」
「ええ。一番辛いのは、あの子です」

 微かに震える肩を抱き締め、耕一は試着室のドアを閉めた。



「…眠れないの?」

 寝返りを打つ布地の擦れ合う音に落ちかけた眠りの縁から引き戻され、楓は静かに目蓋を開け首を巡らした。

「……ごめんね、楓お姉ちゃん。起こしちゃった?」
「謝らなくて良いの」

 半身をベットの上で起こして、しょんぼり謝る初音に首を振り、楓はそっとベットから抜け出し初音のベットの端に腰を下ろした。

「…お姉ちゃん?」

 薄闇の中で静かに見つめる瞳を見返した初音の瞳は、微かに濡れた光を跳ね返していた。

「初音、一緒に寝ていい?」
「…うん」

 初音がコクンと頷くと。楓は初音の隣に体を滑らせ、初音を抱き締めるように腕を回してベッドに横たわった。

「明日は家だから、ゆっくり眠れるね」
「…うん、そうだね」

 楓の胸に顔を埋めるように擦り寄せ、初音は小さな安堵の息を洩らした。

「…楓…お姉ちゃん」
「うん?」
「…ううん、なんでもない」

 小さく首を振る初音の頭を手で撫で、楓は初音が聞きたかったのだろう答えを口に乗せた。

「子供の頃、初めて耕一さんと会って、別れた後から夢で見ていたの」
「…おねえ…ちゃん」
「いいの。……叔父さんに耕一さんの話を聞いていて、耕一さんが夢の人だって思った」

 ぎゅっと楓の胸元で握った拳を握り締め、初音は静かに楓の声を聞いていた。

「だから、いつか耕一さんが家に来てくれたら。そう思ってた。…でもね…耕一さんは、夢の人じゃなかった」
「…えっ? …楓…お姉ちゃん?」

 そっと顔を上げた初音は楓の顔を窺い、微かに首を横に振った。

「耕一さんは耕一さんで、私も私なの。夢の中の耕一さんも、夢の中の私も、現実にはいないの。今の現実には」

 静かに初音の瞳に映る自分を見つめ、楓は微かな笑みを浮かべた。
 哀しく深い。
 叔父を亡くた時、初音が楓の瞳の中に見つけた胸が痛くなるような哀しい瞳で。

「…夢の中の人が…現実なら、耕一さんは消えてしまうもの。私が好きなのは…耕一さん…なの。夢の人…じゃないの。夢の中の人が好き…なのも、私…じゃないの」
「…楓…お姉ちゃん」

 ぎゅっと顔を胸に押し当てる初音を優しく抱き締め、楓は初音の柔らかい髪に顔を埋めた。

「姉さん達も耕一さんもいるの。だから初音、一人で泣かなくてもいいの。初音には、みんなが一緒にいるんだもの」
「……耕一…お兄ちゃんも…同じ事………でも…」

 闇夜に散らばる星を見上げながら聞いた耕一の言葉が、楓の言葉と重なり。ゆっくり顔を上げた初音は、尋ねるように楓を見つめた。
 楓はゆっくりと頷き、胸の中に初音を引き寄せた。

「…泣いて、良いんだよ」

 ポツンとした小さな楓の声に細い嗚咽が胸の中で洩れ、楓は嗚咽を胸に抱き締めながら、透明な雫を滴らせた。



              三部 「春雷、流雲」 完

九章

四部 一章

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