九の章


 肩に掛かった毛布の軽い感触が、楓をふわふわとした浅い微睡みから引き上げ。
 楓は長く細い整った睫毛を震わせ、重い目蓋をゆっくりと上げた。
 薄く開けた目蓋の間から、近すぎて焦点のぼやけた瞳に滑らかな肌色が広がっていた。
 ずれた焦点を合わせようと反射的に睫毛を瞬かせた楓は、軽い寝息に耳を擽られ、淡い桜色の唇をなんとなく眺めながら、いつの間にか初音と一緒になって眠ってしまったのを思い出した。

「……姉さん?」

 微睡みから引き上げた肩の感触を伸ばした手で確かめた楓は、ベットに臥せていた上体を起こしながら、意識せずそっと呼んでいた。
 まだハッキリしない目元を手の甲で擦り、楓は衣擦れの音が聞こえた扉の方に眼を向けた。

「ごめんね、起こしちゃった? ……どうかしたの?」

 扉を開けかけていた手を止め、半身を捻って楓を見た千鶴は、起こしてしまったを申し訳なさげに微笑み。楓の惚けたような表情に気づいて、心配そうに楓の顔を覗き込んだ。

「…ううん。梓姉さんかと思って」

 ふるふると肩の当たりで切り揃えた髪を振り、楓は姉の不安を消そうと務めた。

「そう? 梓なら、美冬さんと一緒の出掛けたらしいわ」
「美冬さんと?」

 少し安心したように微笑む千鶴の口から出た意外な名前に首を傾げ、楓は初音の様子をそっと横目で窺った。

「お買い物らしいけど。……初音、眠れたのね」

 楓の視線を追った千鶴は、初音の寝顔を確かめ、ほっと静かに息を吐いた。

「ええ…少し薬を使ったから」

 千鶴に答えながら、楓はサイドボードに埋め込まれた時計に目を走らせ、眠っていた時間を一時間程度だろうと当たりを付けた。

「もうしばらくは、起きないと思う」
「…じゃあ、やっぱり?」

 言葉を濁して聞く悲しそうな姉の表情から眼を逸らし、楓は静かに目を臥せた。

「…彼女…幸せだったって」
「…そう……」

 囁く様にリネットの覚醒を告げた楓に、千鶴も囁きで返した。
 二人の交した囁きからは、悲しみも安堵も感じ取れなかった。
 ただ事実を告げ、事実をあるがまま受け入れた――そんな感情を圧し殺した声音と裏腹に、千鶴と楓が初音の寝顔に向ける瞳には、深い哀しみと不安が浮かんでいた。

「…楓」

 重苦しい空気に耐えかねたように口を開いた千鶴に楓が顔を向けると、千鶴はにっこり微笑みを浮べた。

「心配してても始まらないわよ」

 無理をして微笑む姉から視線を逸らし、久しく忘れていた痛みを感じた胸を拳で押え、楓はコックリと頷いた。

 いつも変わらない姉の笑顔を見ると、なぜか胸が痛くなるようになったのはいつからだろう?
 その笑顔に励まされ元気付けられていた筈が、その笑顔の向こうの哀しみに、針で刺されるように胸が疼き苦痛にすら感じるようになったのは……。

「…耕一さんは?」
「巫結花さんも急用で出掛けられたらしいの。今日は一緒にいられるそうよ。楓も一緒にお茶でもどう?」

 一度扉に振り返り、こくんと首を傾げた千鶴を見上げて、楓は一つ息を吸った。

「姉さん」
「うん。行きましょうか?」

 千鶴の誘いに首を軽く横に振り、楓は姉をじっと見つめた。

「どうして、梓姉さんにあんな話を?」

 楓の問いに一瞬表情を強ばらせた千鶴は、ほっと息を吐くと表情に陰りを走らせた。

「周囲の思惑や虚言に振り回されないように話して置きたかったの。あの娘は人の裏を考えるような娘じゃないから、親切にされれば喜ぶし、良い人だと思うでしょうけれど。役員になれば、表面上では親切でも、裏では梓の立場を利用する事しか考えない人もいるわ。それにね、時には気に入らなくても、不条理に思えても、自分を抑えて会社を第一に考えなくてはいけない事も在るわ」
「リズエルのように?」

 初音を起こさないように気を付け、楓は小声で更に問いを発し。千鶴はビクッと身体を震わし深い深い息を吐き出した。

 初音も記憶を取り戻した今、梓が記憶を取り戻すのも時間の問題だった。
 楓は今の内に千鶴と話し合って置く決心を固めていた。
 初音の中の記憶は自分自身の中でしか解決出来ない心の問題だが。梓の記憶が持つ激情がどう働くか、楓には自信がない。
 梓の――アズエルの記憶を梓が抑え込み納得させられるのかどうかは、千鶴が過去を。
 リズエルの記憶を乗り越えられたかが重要になる。
 楓には、そんな気がしていた。

「気づいていたの?」

 微かに頷いた楓に弱い笑みを浮かべ、千鶴は弱く髪を揺らした。

「関係ない。と言ったら嘘になるわね」

 曖昧にする気にない楓の鋭い視線に見つめられ、千鶴は諦めたように話し出した。

「そうね。彼女はエルクゥの結束を第一に考えるあまり、致命的なミスを犯した。しょせん限られた個体数しかいないエルクゥなんて、長くは生き残れない異端者でしかないのに。愚かな事だわ」
「でも、それは過去の事よ。どうして姉さんが気にするの? 気にしているから、梓姉さんに話したんじゃないの?」

 身体の前で組んだ両手を握り微かに自嘲の笑みを浮べた千鶴に、楓は視線を逸らさずに尋ねた。

「意識はしてなかったのよ。でも、私が彼女と同じミスを犯したから、梓にはそうなって欲しくなかったのかもね」

 一息付き額に掛かった髪を片手で掻き上げ、千鶴は静かに顔を上げた。

「でも楓、私は大丈夫だから。誤った過去を教訓にする事は、私にも出来るわ」

 正面から見返す澄んだ瞳に頷きを返し、楓はほっと安堵の息を吐いた。

「梓姉さんなら大丈夫。突然で、少し混乱してるみたいだったけど」
「耕一さんにも叱られちゃった。悪い面ばかり強調してって」

 傾げた首の動きに連れ、額に掛かった髪を手で治す楓を見ながら、千鶴はチロッと舌を覗かすと照れ臭そうな苦笑いを浮べた。

「ごめんね、楓。あなたには、心配ばかり掛けてしまって」
「ううん、ごめんなさい。余計な事だった」

 ふるふる首を横に振り、楓は自分の老婆心を恥じるように頬を赤く染めた。

「いいえ。でも楓」
「……はい」

 真剣味を増した千鶴の声に臥せていた顔を上げ、楓は影を落した千鶴の表情に視線を止めた。

「梓と初音をお願いね。…特に初音には、私には……なにも……」

 辛そうに視線を落す千鶴にこくりと頷き、楓は眠っている間も握ったままだった初音の手を離し、シィーツを掛け直した。
 僅かの間、初音の寝顔を瞳に映した楓は静かに腰を上げ、扉の前で待つ姉の方へと歩き出した。



 扉を叩く美冬の中指を折った手の動きを追い、梓の心臓はドクドクと血流を送り出す早さを増した。

 梓達が宿泊するホテルは、ルームキーにカードを使用している。宿泊者全員に渡されたカードを、美冬に引きずり出された梓は持って出ていなかった。
 その為に、自分の部屋に入るのにノックをして中から開けて貰わなければならない破目になったのだが。梓にはそれより自分の服装の方が気にかかる。
 ホテルに着くまで膝の上で途切れた布地を何度か引っ張った梓は、その度、美冬にジトッとした目で見られ、姿勢を直されては、クスクス笑われていた。
 慣れないワンピースで足元はスースーするわ。みんなが自分を見ているようで恥ずかしいわ。で、梓の顔は真っ赤に染まっている。
 その上、フロントに立ち寄った美冬からは、耕一も千鶴も帰っていると聞いている。
 美冬が扉をノックしてから扉が開くまで、梓は死刑台に昇る死刑囚の気持ちで、真剣に逃げ出す事を考えていた。

 短い誰何の後、扉を開けて顔を覗かせた楓は、

「…………」

 えっという顔をしたかと思うと、目を見開いて硬直し。梓は思わず照れ隠しに頭をぼりぼり手で掻いていた。
 そんな梓と楓に構わず、美冬はずいずいと梓の手を引き部屋の中に連れ込むと。

「耕一、素敵でしょ」

 グルッと部屋の中を見回し、ソファに座って背中を見せる耕一に、開口一番、そう言って尻込みする梓を前に押し出す。

「……梓?」

 耕一の向いに座った千鶴は、半信半疑と言った面持ちで首を傾げ。嬉しそうな顔をしてジッと梓を見つめてから、少し眉を上げた難しい表情になった。

「なっ、なに見てんだよ!」

 美冬の呼び声で振り返り、千鶴に遅れて梓に気づいた耕一は、口を半開きにして梓を上から下まで見回し、顔を真っ赤に染めた梓の声で、ハハッと乾いた笑いを洩らした。

「ダメダメ。梓、見られて怒ってちゃ、綺麗になれないわよ」
「で、でも。美冬さん」

 耕一の奴、スケベズラでジロジロ見て。と反論しようとした梓は、美冬に両手で両肩を掴まれ、ずいっと近づいた顔で視線を据えたまま首を横に振られて黙り込んだ。

「女は見られる程、綺麗になるの。常に人の視線を感じて、より綺麗になるのよ。アクターやシンガーを見れば判るでしょ?」
「あたし、そんなの目指してないよ」

 梓の声に耳を貸さず、美冬は梓の後ろに回り両肩を押して耕一と千鶴の前に押し出す。

「どう千鶴。梓、綺麗よね?」
「え、ええ。とても」

 満面の笑みで覗き込む美冬に苦笑いを返しながら、千鶴はぎこちなく頷く。
 その千鶴の視線は梓のバストに集中し、少し体の線があらわすぎない。と言っている。

「ほらね。綺麗だって、耕一はどう思う」
「お、俺? いや、あのな。その、綺麗だと思うぞ」

 千鶴を気にしながら耕一はチラチラ梓を覗いて頷き、あからさまに視線を逸らす。

「そ、そうか…な」

 チラッと耕一を窺い、梓も満更でもなさそうに赤く染まった頬を指で掻きながら、恥ずかしそうに身を捩って盛んに照れる。

「…綺麗だけど」

 硬直から立ち直った楓が、少し梓を遠巻きに見ながらソファの前まで来ると指で唇を押え。赤く染まった頬で、千鶴同様、梓の胸の当たりを凝視する。

「楓、気に入らない?」

 美冬に首を傾げて見られ、楓は慌ててふるふる首を横に振った。

「いえ。梓姉さん、とても綺麗です。でも…その…」

 口篭もりつつ、楓は指で唇を弄り千鶴に視線を流す。

「あの、ちょと服が小さいんじゃないかなって。ねえ」

 楓の視線を受けハッとしたようにぎこちなく微笑み、千鶴は言葉を濁し、楓と顔を見合わせて微かに頷き合う。

「そうかな? せっかくスタイルがいいんだし、年取ると着れないから、着るなら今の内だと思うけどな。耕一はどう思う?」
「お、俺?」
「そう。男性の眼から見ての意見」

 そわそわと千鶴と楓を交互に窺う耕一に、美冬は情け容赦のない質問を浴びせる。
 とても良い。
 特に大きな胸とくびれた腰の辺りが。と、本音を吐けば千鶴と楓が怖い。しかし似合わないと言えば、梓の報復が……どちらにしろ耕一の立場は微妙である。

「…そうだな…その、似合うと思うけど。あっ、いや。ど、どうなのかな?」

 取り合えず無難に取り繕う事にしてハハッと頭を掻いた耕一は、一瞬上がった千鶴と楓のまなじりと。ブスッと睨む梓の視線で、とてつもない間違いを犯した気になった。

「ハッキリしないわね。さっき、上から下まで鼻の下を伸ばしてジロジロ見てたのは誰? 耕一、ちゃんと綺麗だって認めなさい」
「…ジロジロ」
「…不潔」

 忍び笑いでからかう美冬が手をヒラヒラさせると、細くなった千鶴の瞳が剣呑な光を。
 楓の冷ややかな眼差しがチラリと、耕一の背筋に悪寒を走らせ一筋の汗が額を滴り落ちる。

「ち、千鶴さん、お茶貰えないかな。昨日のお茶美味かったなぁ〜」

 反射的に千鶴の懐柔策に出た耕一の言葉に、楓の瞳が一層細くなる。
 私のお茶より、千鶴姉さんのお茶の方が美味しいんですか? とその視線が耕一を責めている。
 だが一方の千鶴は少し視線を和らげ、そうですか、じゃあ。等と言いながら、頬を微かに染めうきうきと腰を上げた。

 四面楚歌のもっとも恐ろしい一角を崩した耕一は、楓の視線をなんとかやり過ごし、梓に小声で話しかけた。

「梓、とっても良く似合ってる。似合ってるけどさ。その…眼のやり場に困る。頼むから、着替えてくれないかな?」
「そ、そうなのか? 眼のやり場に困るのか?」
「お、おう」

 赤い顔で嬉そうに身を乗り出して聞き返す梓の勢いに戸惑いつつ、耕一はぽりぽり鼻の頭を掻く。
 まさか耕一も、梓に向ってこういう台詞を言う日が来るとは、想像もしていなかった。
 実際、身を乗り出した梓の胸元が目の前にちらついて、生唾ものである。本当は、着替えさせるのが惜しいぐらいだ。

「ま、まあ。耕一が頼むんなら仕方ないよな。頼まれちゃな。じゃ、じゃあさ、着替えてくるからさ。ははっ、そうかぁ〜〜、眼のやり場に困るのか」

 早く着替えたかった梓は、耕一のせいにして美冬がなにか言う前にクルッと背を向ける。
 真っ赤な顔で頭を掻きながら軽い足取りで部屋に向かう梓の御尻は、耕一には更に目の毒だった。

「美冬、恨むぞ」
「どうして。彼女、綺麗でしょ?」

 恨みがましく上目遣いで見る耕一をクスッと笑い、美冬は耕一に冷たい視線を向ける楓の肩を叩くと、一緒にソファに腰を下ろした。

「楓、許してやりなさい。男なんて、こんなものよ」

 わざとらしい厭し眼を耕一に送り、美冬は楓に言う。

「お前、俺で遊んでるだろ?」
「だってぇ〜〜耕一と梓って、からかい易いんですもの」

 渋い顔の耕一に大袈裟なシナを作って見せた美冬は、媚を含んだ微笑みに首を傾げるおまけまで付ける。

「それだけか?」
「それだけって? 他になにかある?」
「ないのか?」

 少し真剣な表情になった耕一の声音に眉を潜め、美冬はフゥ〜ンと不満そうに鼻に皺を寄せる。

「例の手紙、張氏?」
「ああ、柳さんが預かってきたやつな」

 無視された格好の楓の前で、耕一と美冬はしばし睨み合った。

「で。どこまで知ってるの?」
「さあてな。らしくない失敗したのと、M&Aにしか触れてなかったな。他に何かあるのか?」

 チッと舌打ちした美冬は額を片手で押え、耕一に視線を据えたまま額に掛かった前髪を五月蝿そうに払う。

「話す事はないわ、結果が全てよ」
「相変わらず、そう言うのか?」
「そうよ。でも、あなたは変わったわよね……プライバシーは守って欲しいわ」
「梓か? スマン、それは謝る」

 小さく舌打ちした耕一は、軽く頷いた美冬に頭を下げた。

「明るくなったのは良いけどね。口が軽すぎるのは、頂けないわね」
「悪かった。あいつ、ちょと落ち込んでたもんでさ」
「利用されるのは好きじゃないな」

 口調こそ穏やかに薄く微笑みながら睨み合う二人の間に口を挟めず、楓は困った顔で助けを求め視線をホームバーでお茶を煎れる千鶴に向けた。
 楓と視線が合った千鶴は僅かに首を横に振り、二人に構うなと楓に意思を示しただけだった。

「利用出来る物は利用しろって、教えられたんでね」
「あら、私の所為なのかな?」
「人の所為にするかよ」

 微かに口元を綻ばせた美冬は、両手の指を組むと背を伸ばしてウ〜ンと一声唸り息を吐き出すと、首を傾げて耕一を見直した。

「そうでしょ? 私だって、人の所為にはしないわよ」

 にこっと微笑む美冬の笑顔を見た耕一は軽く溜息を吐くと、頭を指でぽりぽり掻き出す。

「判ったよ。気分転換ぐらい付き合ってやるさ」
「ん。どうも」

 肩をすくめて首を傾げ直し、美冬は少し眉を寄せて考えると、うふふっと笑いを洩らした。

「じゃ、早速付き合ってもらおうかな」
「おい、今からか? 明日じゃだめか?」
「いいえ。そうね……」

 慌てる耕一に首を横に振り、美冬はそっとプックリした唇に人指し指を置き考えて見せた。

「もう二、三日、私達に付き合ってね」
「ちょと待て!」
「付き合ってくれるって言った」

 慌てる耕一をじっと見つめ、嘘吐く気? と眉間に皺を寄せた美冬は、結んだ口元を綻ばすと寂しげな微笑みを浮べる。

「それとも、傷心の乙女の切ない願いを断ろうって言うの?」
「誰が乙女だ! 意味、判って使ってるのか?」
「あら、試してみる?」

 媚を含んだ視線を耕一に送り、美冬はシャラッと言って退ける。

「た、試すって?」
「私は良いわよ。耕一さえ、その気なら」
「いっ!」

 ガチャンと陶器の壊れる音が響き、恐ろしく鋭い視線に電撃の様に体を貫かれて硬直した耕一の蒼白な面に、ダラダラと脂汗が流れ始める。

「じょ、冗談よ…冗談……あっ、そうだ!」

 さすがの美冬も、一気に高まった戦場のような異様な緊張感に慌てて両手を振って打ち消し、ぽんと手を打って引きつった笑みを耕一に向ける。
 その美冬の顔色も、耕一同様青白い。

「交換条件。耕一の欲しがってた情報、リークして上げる」
「あっ、アレか?」

 場を胡麻化すように身を乗り出し、美冬が小声で言うのに合わせ、耕一も真剣な表情で聞き返す。
 二人とも落ち付かない様子で、緊張を生み出している殺気から眼を逸らし、無理に互いの顔に視線を固定している。

「そう。私個人が掴んだ情報だけだけど」
「珍しいな。裏があるんじゃないのか?」

 滅多に人に情報を流さない美冬の性格を知っている耕一は、うさん臭そうに首を傾げる。

「裏なんてないわよ。あなたは、まだ私の敵じゃないだけ」
「情報を流しても、俺には先手は打てないってか?」

 うんと頷き、美冬は小首を傾げる。

「返事は後でいいか? みんなとも相談しないとな」
「明日にでもここを引き払うつもりなのよ。それで、これから移る所を探すから。…そうね、返事は夕食の時にでも。それでどう?」
「ああ………」

 頷いて返した耕一は、お茶を乗せたお盆を手に、千鶴が戻って来たのに気づき言葉を切った。
 スッと腰を落すと千鶴は穏やかに微笑み、湯飲みをひとつずつそれぞれの前に置いてから耕一の隣に腰を下ろした。

「あっ!」

 腰を下ろした千鶴が小さく声を洩らし口元を手で押えたのに、耕一の体はビクンと跳ねた。

「ど、どうかしたの千鶴さん?」
「いえ。あの美冬さん、コーヒーか紅茶の方が良かったんじゃありません?」

 千鶴が申し訳なさそうに尋ねると、美冬は首を横に振った。

「ううん。日本茶も好きだから、気を使わないで」

 答えながら湯飲みを口に運び、美冬はホッと息を吐く。

「うん、美味しいわ」
「そうですか?」

 両手を胸の前で握り嬉そうに首を傾げる千鶴の様子に、美冬はさっき感じた殺気はどこに消えたのかと、その激しい落差に眩暈すら感じながら引きつりそうな笑顔で頷いていた。

「耕一さんも、冷めない内にどうぞ」
「うん……」

 目の前に置かれた湯飲みに伸ばした耕一の手の動きは、湯飲みまで数cmのところでピタッと止まった。

「…あの、千鶴さん。…これ……」

 耕一の恐る恐ると言った声に、お茶を楽しんでいた楓と美冬は怪訝な顔を見合わせ、耕一の様子を窺った。

「熱い内に、飲んで下さいね」
「……はい…」

 あくまでにこやかな笑顔で返す千鶴の瞳に一瞬浮かんだ光を眼にして、耕一は諦めた様に湯飲みを指先で摘むと、フーフー冷ましながら少しずつお茶を啜り始める。

「耕一さん、どうですか?」
「…とっても…美味しいです」
「……耕一」
「………なんだよ?」
「ごめん」

 湯飲みを指先で挟んで一口啜ってはテーブルに戻す耕一の様子から、その中身が自分達の飲んでいるものとは比べ物にならない熱さなのに気づき、隣で溜息を吐いた楓を横目で見て事情を悟った美冬は小さく謝った。
 素知らぬ顔で湯飲みを口に運ぶ千鶴を横目で盗み見た耕一は、ああと応えただけだった。

「あれ? あたしのは?」

 ジーンズとトレーナーという普段の服装に着替えて来た梓が、美冬の背中越しにテーブルを覗き込みそう聞いたのは、耕一のお茶が少し冷めた頃だった。

「冷めると思って、煎れてないわよ」
「なんだ、千鶴姉。お茶受けも出してないのか?」

 あっと声を洩らし赤い顔を俯かせる千鶴をチラッと見て、ぽりぽり鼻を掻いた梓は、仕方ないなと言いながら踵を返し、昨夜千鶴が出した和菓子の箱ともうひとつの箱を手にした。

「楓、これ良いよな?」
「うん」

 箱を翳して尋ねる梓に、楓はコクンと頷き返す。

「お茶はどうかな? もう一度煎れようか?」
「あっ、私はいいわ。そろそろ失礼するから」

 梓が尋ねると、美冬はスッと立ち上がる。

「えっ、まだ良いじゃん。これ結構いけるんだよ」
「う〜ん、美味しそうね。でも、まだやる事があるから。ごめんね、夕食の席で会いましょうね」
「…そう? じゃあ後でね」

 少し慌てた様に箱を開けて和菓子を見せる梓に小さく手御あわせ拝み、美冬は扉に歩き出す。
 扉に消える美冬の後ろ姿を見送り、微かな溜息を漏らした梓は、美冬が居てくれた方が良かったのにな。と胸の内で呟いていた。

「私、お茶煎れるね」
「ああ」

 ソファから立ち上がる楓に頷き返し、梓は箱から出した陶磁器の小皿を洗面所でさっと洗う。
 洗った小皿を持ってカウンターに行き、和菓子を皿に移しながら、梓はそっとソファに座る耕一と千鶴を窺った。
 美冬が姿を消し、むくれた顔を見せた千鶴を宥める耕一を見ても、胸の中の今朝感じた闇が湧いてこないのにホッとして、梓は和菓子を乗せた小皿を手にソファに戻っていった。

「ほい、どうぞ」

 普段の軽い調子で小皿をテーブルに並べ、梓は美冬が座っていた場所に腰を下ろす。
 少し遅れて急須とポットを手にした楓が梓の隣に腰を下ろし、それぞれの湯飲みにお茶を注でいく。

「梓、美冬に気に入られたみたいだな」

 まともな温度のお茶を啜って一息吐いた耕一は、和菓子を口に運び、梓に話しかけた。

「えっ? そうなのかな」
「ああ。あいつ、友達と連れだって買い物なんてする奴じゃなかったからな」
「でもさ。美冬さん、友達多そうだけどな」

 人付き合いが良さそうな美冬にしては意外だなと思った梓が聞き返すと。千鶴と楓も意外だったのか、揃って首を傾げて耕一を見ていた。

「最初はいいんだけどな。あいつ議論好きだしさ、話題が硬い上、言う事がきついから相手が逃げちまってさ」

 梓はハハッとぎこちなく笑うしかなかった。
 確かに美冬とまともに議論したら、梓も付き合いたくなくなりそうだ。

「硬い話と言うと、やはり経済のお話ですか?」

 手を付けようかどうか、迷った顔で目の前の和菓子を睨みながら千鶴が聞く。

「いいや。環境問題から政治経済、科学に宗教、なんでも」
「……凄いですね」

 耕一の溜息混じりの答えに、眼を丸くした楓が呆れたように呟く。

「まあ、話題の豊富さは凄いな。人にも厳しいけど、自分にも厳しいから、かなり無理してるけど」
「無理って、美冬さんが?」

 梓が聞くと、耕一は和菓子を摘み口に放り込み、うんと頷いた。
 その隣では、もぐもぐ美味しそうに和菓子を頬張る耕一を恨みがましい目で見ていた千鶴が、意を決したように和菓子を二つに切ると口に運ぶ。

「その内判るさ。それより、どうしようか?」
「そうですね。耕一さんは、どうしたいんですか?」

 和菓子の甘さに幸せそうに目を細め、千鶴は湯飲みを口に運びながら尋ねた。

「どうしたもんかな」
「なんの話?」

 話が見えない梓は首を傾げた。

「美冬さんが、もう二、三日、一緒にどうですかって。梓はどうかしら?」
「ああ、それなら聞いた。あたしは一緒でも良いよ」

 千鶴は小さく頷き楓に視線を送る。
 楓はコクンと頷き、伏目がちに視線を落した。

「初音には、後で聞いてみます」
「…うん。隆山に帰って、ゆっくりするのもいいしね」

 湯飲みで隠した口元で微かな息を洩らし、耕一はさりげない視線を千鶴に向け、楓に移した。
 初音の為には、少しでも早く住み慣れた隆山の家に帰った方が良いのかとも考えていた耕一だった。だが、千鶴と楓が耕一に向けた瞳には、肯定も否定もなく迷いだけがあった。
 千鶴も楓も、隆山に帰るのが記憶を取り戻した初音に取って良いのかどうか考えあぐねていた。

「帰るって……もうか?」
「梓の作った飯が食いたくなってさ。梓は、料理だけは美味いからな」

 自分の所為で旅行を切り上げるのかと心配そうな顔をした梓をからかうように耕一が言い。
 梓は怒ったような嬉しいような複雑な顔で耕一を睨んで。内心、いつものように軽口を振ってくれた耕一に感謝しつつ怒鳴り返す。

「耕一! 料理だけってのは余計だろ!」
「誉めてんだろ。なに怒ってんだ?」

 耕一がノホホ〜ンと首を傾げると、梓はにやっと笑う。

「あたしに見とれて、よだれ垂らしてのは誰だよ!? やだねぇ〜、スケベズラ丸出しでさ。ああ、いやだいやだ」

 梓は肩を竦めて厭し眼を耕一に送り、両腕で肩を抱いて汚らわしそうに震えて見せる。

「だれがよだれなんか垂らしたんだ!? 大体な、お前が可愛こぶりっこしても全然似合ってないぞ!」
「なんだと!」
「お止めなさい!」

 睨み合った耕一と梓は、千鶴の一声で顔を付き合わせたままピタッと止まった。

「梓、少しは女の子らしくなったのかと思ったのにね」
「だって、耕一の奴が……」

 ギロリと睨んで言い訳する梓を黙らせ、千鶴は耕一に眼を向ける。

「耕一さんも、梓を挑発するのは止めて下さいね」

 鋭い視線で言葉だけ丁寧な千鶴にこくこく頷き、耕一はお茶を啜る。

「判って下さればいいんです。梓も、判ったわね」
「判ったよ」

 耕一とあたしで態度が違うな。とぼやきつつ、梓もお茶を啜る。

「お腹が空いてるんじゃ、ありませんか?」

 それまで黙っていた楓は唐突に言葉を発し、へっという顔で三人に見られ、頬を赤く染めて顔を臥せた。

「あの、お腹が空いてるから怒りっぽくなってるんじゃないかなって。千鶴姉さんと耕一さん、お食事は?」
「そう言えば、まだでしたね」
「ああ、忘れてたな。梓と楓ちゃんは?」

 言われて思い出したと言うように顔を見合わせた千鶴と耕一は、梓と楓を交互に窺った。

「なんだ。二人とも、なんにも食べずに和菓子食ってたのか? あたしは、美冬さんと食べて来たよ」
「朝食は頂きました」

 二人の返事に耕一は時計に眼を走らせ、千鶴と楓に眼を戻した。

「昼飯にも遅い時間だけど。食べに行こうか?」
「楓も行ってこいよ。初音なら、あたしが見てるから」

 ベッドルームに心配そうな視線を走らせた楓にそう言い、梓は千鶴に眼を向けた。

「千鶴姉、美冬さんに聞いたんだけどさ」
「ええ、なに?」
「ダイエットで痩せる時って、胸から痩せるんだってさ」
「…梓、どういう意味よ」

 千鶴のムッとした顔を楽しげに見て、梓はキヒヒと気味の悪い笑い方をする。

「それ以上痩せたら、無くなっちまうだろ。胸がさ」
「無くならないわよ! 縁起でもないこと言わないでよ!」
「いやいや、判んないよ〜」

 両の腕で胸を隠して睨む千鶴を横目で覗き、梓は手首の先だけを振りながら首を傾げる。

「そうでなくても無いんだから、飯ぐらいちゃんと食って来なって。いくら何でも、背中と胸の見分けが付かなくなると困るからな」
「私、行く」
「…楓…あなた、いまどこ見てたのよっ!?」

 梓と千鶴の胸を見比べ楓が腰を上げると、千鶴は泣きそうな情けない顔をする。

「…別に、どこも」

 千鶴から逸らした赤い顔を俯け、楓は小さな声で答えた。

「うぅ、楓まで酷いわ」
「ち、千鶴さん落ち着いて。梓も、言いすぎだぞ」

 胸で握った拳を震わす千鶴が涙目になると、流石に耕一も傍観を決め込んでいるわけにもいかず。慌てて宥めに掛かる。

「ご、ごめん。そ、そうだよな、人並みはあるよな」

 まさか千鶴が涙目になるとは思ってもいなかった梓は、慌てて言わなくて良い事まで言う。

「…ちょっと自分が大きいと思って」
「いっ!?」

 俯いていた千鶴から洩れたぼそっとした低い声に、耕一の肩に掛けようとしていた手は止まった。

「大きけりゃ良いってもんじゃないのよ。バランスが問題なのよ」
「なんだって? あたしはちゃんと均整が取れてるよ!」
「あら、大き過ぎると。重さで垂れるのよ」
「へん、若いから平気だよ。それに無いよりマシだろ。ひがんでるのか?」
「なんですって!」
「なんだよ!」

 赤い顔で睨み合って唸る二人から身を引き、耕一は仲介役の初音にいない不運を心から呪った。
 くいっと肘を引かれた耕一が目を移すと、腰を落した楓が耕一を見上げ首を傾げていた。

「耕一さん、お食事」
「でも楓ちゃん。放って置くわけにもさ」

 ふるふる首を横に振り、楓はジッと耕一をその澄んだ瞳に映した。

「いつもの事ですから」
「……いつも…の??」

 今にも掴み合いになりそうな睨み合いを続ける二人を指刺した耕一の引きつった笑いに、楓はコクンと頷いた。

「そ、そう。いつもなの?」

 ハハッと乾いた笑いを洩らし、耕一は肩で大きく息を吐いた。

「その内収まります。平気です」
「じゃあ、先に行こうか? 天気も良いし、ガーデンで良いかな?」

 睨み合う二人を残し、耕一は少し恥ずかしそうに目を臥せ、口元を指で押えて頷いた楓と連れ立って一階に向かった。

八章

十章

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