八の章


「どうだった?」
「どうって、やっぱり恥ずかしいよ」

 フォークを操りながらテーブルの向こうから楽しそうに覗き込む美冬に、赤い顔に浮いた汗を拭う梓の苦い声が答える。

「みんな見てる気がしてさ」
「気のせいじゃなくて、見てたわよ」
「余計やだよ」

 言いながら梓が身を捻って椅子に納めたお尻をチラッと覗くと、美冬は楽しそうにクスクス笑いを洩らす。
 楽しそうな美冬とは反対に、笑われた梓は頬を膨らます。

 慣れないハイヒールに歩くのにも気を使うのに、その上、すれ違う男性が振り返ってはお尻の辺りを見ている気がして。梓は楽しいより、恥ずかしいのと転ばないように足元に気を使うので、このイタリアレストランに着くまでに精根尽き果てていた。

「慣れれば気にならなくなるわよ。注目されるほど梓が綺麗だって事だもの、恥ずかしがる事ないわよ」
「でもな」

 シィーフードスバを器用に口に運び、梓は良い澱む。

 確かに恥ずかしかったのだが、実は不思議と注目されるのがそうイヤでもなかった。
 隣に美冬が居るのに自分の方が見られていると感じると、梓も結構気持ちよかったりした。

「でもって?」
「いや、その。美冬さんに、ずい分お金遣わしちゃったし、良かったのかな?」

 なんとなく正直に気持ちよかったとは言い難く、梓は申し訳なさそうに肩を竦めた。

「気にしなくていいわよ。私の気分転換に付き合ってもらったんだから。それと…お詫びかな」
「お詫び? あたしに?」

 なんの事か判らない梓が首を捻ると、美冬はスパゲッティを突きながらコクンと首を傾げた。

「ちょとね。きつい事言いすぎたし」
「でも、あれはあたしの方から聞いたんだしさ。美冬さんが気にする事じゃないよ」
「ん。でも、ちょとね」

 珍しく歯切れ悪く微笑んだ美冬は、食べかけのナパリタンの皿を脇に寄せると、通り掛かったウェーターにポートワインを持って来るように頼んだ。

「実際には、梓が知らなくて良い事まで話しちゃったしね」
「あたしが知らなくて良い事? ええと、美冬さんの………」

 グラスに注がれるポートワインの明るい朱を細めた目で眺める美冬の表情に、どことなく陰りを感じた梓が上目遣いに尋ねると、美冬はゆるゆる首を横に振った。

「違うけど。それも余計だったな。多分ね、梓が役員になっても大してやる事は無い筈だから、脅かしすぎたと思ってね。ちょと立ち入りすぎたし」
「やる事ないって? 美冬さん、耕一の考えてる事判るの?」

 身を乗り出した梓をチラッと横目で見ると、美冬は手の中のグラスを焦点の惚けた瞳で眺め、小さく頷いた。

「判るならさ、教えてくれないかな」
「でも…ね…」
「情けないけど、あたし判んないんだよ。耕一や千鶴姉がなに考えてるのか。自分で考えなきゃいけないのは判ってるけど。どうしても知りたいんだよ」

 言い澱む美冬にそう言うと、梓はジッと美冬を見つめた。

「情けなくはないわ。判らなくて当然だと思うな」
「でも、でもさ。あたしは知りたいんだよ」

 ジッと見つめる梓の視線から眼を逸らし、ワインで濡らした唇から、美冬は静かな吐息を洩らした。

「楔(くさび)。かな」
「楔?」

 訝しげに眉を潜める梓に頷き、教えるから先に食事を済ますよう言い。美冬はもの憂げに少しづつ舐めるようにワインを口に運ぶ。

「なにから聞きたいの?」

 慌ててシィーフードスパを平らげる梓の様子に微笑みを浮べ、美冬は頬杖を突いてぽそって洩らした。

「なんでも、美冬さんが知ってる事や考え付く事、全部」
「欲が深いわね。知らない方が楽よ。それに私には優しく話せる自信はないわ。厳しい言い方しか出来ないし、梓には納得出来ないと思う。あくまで私の推測で、間違っているかも知れない。それでも良いの?」

 頷く梓の瞳を見つめ返し、その必死とも取れる真剣な瞳に押し切られ、美冬は軽い息を吐き出し話す事にした。

「私ね、貴方達にあまり良い印象持ってなかったのよね」
「えっ? だって……」

 昨日からの親しげな様子を否定する美冬の言葉に首を捻り、梓はナプキンで口元を拭っていた手を止め美冬に目を戻した。

「会うまでよ。昨日、耕一から貴方達が一緒だって聞いて驚いたわ」

 何か飲むと聞く美冬にコークと答え、梓は美冬がウエィターを呼び止め注文するのを見ながら気持ちを落ち着け、美冬が話し始めるのを待った。

「だってね。私は耕一が好きだし、耕一の生い立ちを考えたら、彼がひねくれてないのが不思議なぐらいだもの。耕一の気質も在るだろうけど、亡くなったお母さんが立派な方だったのね」

 叔父の事を言われているのかと思い黙り込んだ梓に軽い笑みを向け、美冬はちょと困った顔をした。

「私の家も古い体勢だから、世襲や因習が多いの。こう言うと聞こえは悪いけどね。梓の所って田舎だし、地元じゃ旧家で通ってるみたいだから、同じじゃないかな?」
「そうだな、そうかもね。なんせ小さな街だし、家の名前を大抵の人は知ってるからね」

 話を変えた美冬の真意が判らないまま、隠す様な事でもないので梓は素直に頷く。

「そう、古い家って血統を重んじるのよ。判るかな?」

 からかうように首を傾げる美冬の問いに、梓は首を横に振った。

「う〜ん、判らないか。私が生まれた時だけどね。周りは男の子を期待したの。直系の血を受け継ぐ男子をって」
「時代劇みたいだな」

 テレビの時代劇の台詞みたいで梓が洩らすと。美冬はそうよね。と、軽く笑った。

「多分、その辺が千鶴の苦労の始まりね。千鶴が男の子だったら、問題は簡単だった筈よ」
「えっと。どうして男ならいいのかな?」
「耕一の名前って、誰が付けたの?」

 梓に答えず、美冬は逆に聞き返した。

「えっと……たしか、お爺さんだったと思うけど」

 うる覚えの記憶を探り梓が答えると。美冬は予想していたように頷く。

「自分の血を引く男の子だもの、当然ね」
「どうして?」
「あのね、古い血筋や企業のトップに多いんだけど。女の子は結婚すれば家を出るでしょ? 養子を貰っても、会社や家は見ず知らずの男の手に渡るわけよ。自分が心血注いだ会社を、他人の、しかも娘を取った男に継がせるのって、男性は嫌がるのよね。どうせなら自分の血を継ぐ男の子に継がせたがるの」

 軽い失笑混じりに言うと、美冬はクイッとワインを飲み、思い出したようにふふっと笑った。

「母が言ってたんだけど。父親にすると、娘って恋人や奥さんより可愛いらしいわ。私が初めて男の子を家に呼んだ時なんて、三日ぐらい父はムスッとしてたわよ」
「へぇ〜、三日も?」

 父さんが生きてたら、どうかな。と、ちょと羨ましい気持ちで梓は聞き返した。

「そう、まだ私が十二歳の時よ。嫁になんかやらんって、ウィスキー煽ってたらしいわ」
「十二って? まだ子どもじゃん」

 楽しそうに笑う美冬につられ、梓も呆れた笑いを洩らす。

「ん。母も呆れてた。でも、お爺さんも同じ様なものよ。父が母に結婚を申し込みに行ったら、いきなり銃口突き付けられたって」
「げっ! 嘘だろ」
「ううん、本当。父は中国人だったし、父の家族も反対してたから。お爺さんには、母が幸せになるとは思えなかったんでしょうね」

 ゆっくり頭を振りグラスにワインを注ぐと、美冬は何かを待つように口を閉ざした。
 梓が首を傾げる横で、先程頼んだコークが運ばれて来て、梓は美冬の沈黙を理解した。

「ごめん。話がずれたね」
「ううん。でも、男って馬鹿だよね。ちょと良いけどさ」

 物騒な話なのに何か優しい感じがして、梓は微かな溜息に乗せ優しく言った。

「でもね。そんな父でも、やっぱり跡を継ぐ男の子が欲しかったみたいでね」
「そうなの?」
「うん。娘としては、複雑だけどね」

 表情を曇らせる梓に気にしてないからね。と、念を押し、美冬は話を戻す。

「だから、あなたのお爺さんが自分の名の一字を耕一に贈った時って。初めての男の子の孫だし、周りは耕一が将来、お爺さんの後を継ぐと思ったんじゃないかな。仮に私の家を例に取ると。お爺さんは本家に男子が生まれない場合を想定して、耕一と千鶴を許嫁にし、将来は耕一に後を継がせる事を考えるわ。どっちも、自分の血を引く可愛い孫だしね」
「でも、父さんがいたしさ。そこまで考えるかな?」
「考えるのよ、それが。私が見た資料の限りじゃ、あなたのお父さんがお爺さんから引き継いだ時は、なんの問題もなかった」

 息を継ぐようにグラスを傾け、美冬は話し難そうに眉を潜めた。

「あなたのお父さんが亡くなった時。周りは順当に耕一のお父さん、その後を息子の耕一が継ぐと思った筈だわ。耕一のお父さんが引退する頃には、千鶴は結婚してるでしょうしね。千鶴は彼らの考慮外だったはずよ」
「でも、実際にはあたし達や千鶴姉がいたしさ」
「うん。問題はそこ」
「って言うと?」
「お爺さんの遺産配分が問題なの。あなたのお爺さんが亡くなった時、法廷相続分を除く全財産が千鶴に渡ってる。同じ孫の耕一にはなにもないわ。孫に遺産を残すなら、千鶴と耕一は同等に扱われて然るべきよ。そうでないと、親族間に後々禍根を残す事にもなるわ。まして千鶴が婿養子を嫌って、自由結婚でもして見なさい。柏木本家は、鶴来屋はおろか、資産の一切を失う事態にも成りかねない。数百年続いた家を守るべき当主がやる事ではないわね。現実に、あなたのお父さんが亡くなって、千鶴が鶴来屋の代表になった。中学生の少女が企業運営など出来る筈もない。不慮の事態とは言え、これは一重にお爺さんの遺産配分のミスよ」

 梓は暗い気持ちで、目を閉じ考え込んだ。

 梓には、祖父が耕一に遺産を残さなかった理由が理解出来る。
 祖父が亡くなる前に耕一の鬼が目覚めた。
 いつ目覚めるか判らなかった爆弾に火が点いてしまった。
 それも、耕一が目覚めたのは、溺れた梓を助けようとしてだった。

「創設当初からの幹部には、晴天の霹靂だったでしょうね。中学生の女の子が、自分達が心血注いだ会社の全てを引き継ぐんですもの。それ位なら、今まで一緒に働いて来た我々にも見返りがあって当然じゃないかって」
「そんな。そんなの千鶴姉のせいじゃないよ」

 ムッとした顔で睨む梓の視線で困った顔になった美冬は、ウ〜ンと一声唸り梓に目を戻した。

「梓、陸上やってたんだよね?」
「えっ? うん」
「梓がキャプテンで、苦労して一流のチームに育てたクラブだったとしてよ。能力も何もない子が監督の子供だってだけで、いきなりレギュラーになったら納得出来ないでしょ?」

 子供を諭す様に優しく美冬は言う。

「そりゃ面白くないけど。全然違うだろ?」
「人の心理は一緒なのよ。それに危険だわ」
「危険?」
「保護者を亡くした中学生に経営権があるのよ。世情に疎い中学生を騙すのなんて簡単でしょ? 千鶴の信任を得たものが会社の実権を握り、私物化するチャンスよ。万が一にも経営権を他社に渡されれば、旧来の幹部は鶴来屋を追われ兼ねないわ。逆に言えば、彼らにも鶴来屋を手に入れる絶好のチャンスだし。いっそ自分が会長にって野心も芽生えるわ」
「耕一だって同じじゃんか。小学生だったんだよ」
「いいえ、違うわね。耕一も遺産を受け継いでいれば、お父さんが耕一が成人するまでの資産管財人になるわ。千鶴と耕一のお父さんが同等の権利を所有し。当然、社会人の耕一のお父さんが実権を握ったはず。会長になって当然の創業者の次男がね」

 不貞腐れた顔でコークをすする梓を、納得はしていないな。と思いながら、美冬は話を続けた。

「それが証拠に、耕一のお父さんが千鶴の後見に付いたら、騒ぎは収まったんでしょ?」
「うん。まあ、そうらしいけどさ」

 叔父が来てくれて騒ぎが収まったのは事実なので、梓はしぶしぶ頷く。

「つまり。彼らが千鶴が代表になる事で危ぶんだのは、自分達の利益と鶴来屋の安定した経営であって、世襲制に反対してではなかった事になるわ。でも、あくまでも私の予想だからね。話として聞いてよね」
「うん」

 納得出来ないと顔中に書いている梓を宥めるように前置きして、美冬は一つ息を吐き出した。

「耕一のお父さんが亡くなるまで、周囲は千鶴自身ではなく、その子供が次期会長になると考えていた筈よ。耕一のお父さんの年齢を考えれば当然だし、千鶴が会長になっても、実権は耕一のお父さんに残ると考えていた筈だわ」
「それじゃ。誰も千鶴姉には期待してなかった?」
「一度は排斥しようとした代表よ。その時反対派に回った連中には、千鶴が自分達を重用するとは思えないでしょうね。それに耕一のお父さんが顕在なら、千鶴が結婚して、その結婚相手が実権を握る頃には、その頃の幹部って定年の筈だしね」
「叔父さんが死んで、思惑が狂ったのか?」

 今更ながら叔父の存在の大きさを感じて、梓はぼんやりとした瞳を美冬に向けた。

「彼らが耕一のお父さんに賭け、築き上げた安定した将来設計は狂ったわね。代わりにチャンスが到来したけど」
「チャンス?」
「そうよ。相手は大学出たてのお嬢さんだもの。能力や経験不足を盾に取って、役員会の総意を取りつければ辞任に追い込めるわ。オーナーが必ずしも役職に就くって決まってるわけじゃないもの。千鶴を役職から外して実権を奪い、実際に会社を運営している自分達が実権を握るチャンスでしょ?」

 美冬は梓の質問に丁寧に答え、話の重さを感じさせない穏やかな笑みを向ける。

「まあ、千鶴を会長職に就かせたのが彼らのミスね。やり方が甘いわ。叩くんなら弱みの一つや二つ事前に揃えて、もっと上手く活用しなくちゃね」

 自分ならもっと上手くやる。と自身たっぷりに美冬は言う。

「……美冬さん」

 ジトッとした目で他人事だと思って、と梓に睨み付けられた美冬は、他人事だもの。等とうそぶく。

「千鶴も会長になるのに、それなりに手札は使ったんでしょうけど。あんまり使いすぎると、逆に一致団結して牙を剥くしね」
「手札ってどういう事かな?」

 聞ける事はなんでも聞いて置こうと思った梓は、美冬のどことなく楽しそうな様子が気に触るのを抑えて聞いた。

「その為に社内監査部があるのよ。誰だって後ろ暗い所はあるもの。会社に実害のない程度の背信は見逃しておいて、いざという時の切り札に使うの。スケープゴートに使うか、裏取引に使うかはその時次第だけど」
「スケープゴートって。生け贄の事じゃ?」

 生け贄と聞き、梓は嫌そうに顔をしかめる。

「そうだけど?」

 一方の美冬は梓の嫌そうな様子をあくまでにこやかな顔で見ると、コクンと首を傾ける。

「例えば、役員会や重役会で重役の一人の背信を暴いて、断固とした態度で処分を言い渡す。自分に逆らうとみんな同じ運命だぞって、見せしめにして脅しを掛けるの。他にも、背信に眼を瞑る代わりに、自分の決議に逆らえないように圧力を加えておくとかね」

 ますます嫌そうに顔をしかめ、梓は長い長い溜息を吐き出した。

 美冬の話を聞いていると、梓には企業経営が飛んでもなく人の道から外れた悪どい行為のように思えてきた。
 弱みを握って脅したり見せしめにするとか、まるでヤクザ映画の世界だ。

「だから、汚いって言っといたんだけど。止めとく?」
「いや、聞いとくよ。今の内に慣れとかないと、急だと胃が痛くなりそうだし」

 ハアと息を吐き出した梓を軽く笑い、美冬はそれではと話を続けた。

「まあ、今は睨み合いって感じかな。頻繁な会長交代は会社の信用を落すし、不景気だからね。今は放置して、千鶴がなにか失敗をすれば、業績低下の責任も取らせて詰め腹を切らす気じゃないかな。逆に業績を上げれば、千鶴の才能を認めさせられるけど。幹部が協力しないと難しいわね」
「でも。だったら耕一が今更会長になっても、同じじゃないのか?」

 梓が首を傾げるように上目遣いに尋ねると、美冬はゆっくり首を横に振る。

「いいえ、彼らだって会社が潰れたら困るわ。それが今の睨み合いの現状を生み出しているんだと思うな。千鶴を追い詰めすぎて、他者に鶴来屋を売られても困るしね。まあ、千鶴が役職を追われても権利を手放さない確信があるから、彼らも強気でいられるんだろうけど」
「確信?」
「いま手放すぐらいなら、お父さんが亡くなった時に手放しているでしょ?」
「あっ、そうか! でも、なんか矛盾してない?」

 混乱してきた頭を片手で押さえ、梓はポリポリと指で掻く。

 潰れて困るなら千鶴に協力してくれれば、みんながすっきり上手く行く気がする。

「う〜ん。不毛な睨み合いな気がするな。それ位なら千鶴姉に協力してくれりゃいいのにさ」
「でもね、一度抜いた刀を納めるのには切っ掛けが必要よ。会長交代は、彼らに刀を納める切っ掛けを与える事にもなる。まして耕一は創業者の孫で、つい先日まで一緒に仕事をしていた社長兼会長の息子よ。お父さんの信用がものを言うわ」
「それならさ。千鶴姉だっておんなじ様に信用してくれたって良いじゃない」

 梓は割り切れない気持ちで拳を膝で握りしめ、唇を噛み締めた。

「彼らはこう言うでしょうね。耕一には、お爺さんやお父さんを思い出させる安心感がある、やはり血は争えないってね。そして耕一の肩の一つも叩いて、お爺さんやお父さんに負けないようにしっかり頼みますよ。ってね」
「なんか、納得出来ないな」
「まだまだ社会は男性優位だからね。同じ年齢でも、女性より男性の方が受け入れられやすいわ。そして耕一が鶴来屋を継ぐのが、周りから見れば、鶴来屋本来のあるべき姿なのよ」

 美冬は千鶴が社内で信頼を無くす原因になった噂には触れず。男女格差が厳然と存在する実態を強調する説明で済ました。
 しかし千鶴が不当に低い扱いを受けている気がして、やりきれない思いで胸がむかむかして、梓の握った拳は膝で小刻みに震えていた。

「世襲なんて、企業構造を歪ませるだけなんだけど。結構納得しちゃう人が多いのよね。会社を作った人の血筋なら仕方ないってね。特に旧家や名家の出だと、年を取った人は、それだけで納得するみたいよ」
「じゃあ、なんで耕一はそうしないんだ?」

 初めの疑問に戻っただけなのに気づいて、梓はギリッと噛み締めた歯の間から再び尋ねた。

「千鶴に解決させたいんじゃない」
「千鶴姉に?」
「そう。いま耕一が会長になって問題が解決しても、千鶴は蚊帳の外よ。会社の人が千鶴を認めたんじゃなくて、耕一を認めて収まっただけだもの。耕一は中途半端な状態で、千鶴に手を引かせたくないんでしょうけど」

 きつい事をするわよね。と長い溜息を吐き、美冬はグラスを傾ける。

 千鶴には期限付きで能力の証明を要求される考えだし、手出し出来ない耕一も辛い筈だが。
 実業家として千鶴を大成させるつもりなら、避けては通れない関門だった。

「じゃあさ。あたしが楔ってのは?」

 どうもまだ良く判らないまま、梓は自分の役割を尋ねた。

「さっきの陸上の話に例えるとね。梓が役員になるとレギュラーに空きはなくなるのよね」
「うん」
「その上、婚約発表で一年後には耕一が入社するのは決定事項。誰かがレギュラーから外されるのは確実。梓ならどうする?」

 言われた通り、梓はクラブ活動を思い浮かべてみた。
 梓がやる事は一つだ。

「そりゃ、外されないように今まで以上に練習するよ」

 至極真面目な梓の答えに満足して、美冬は軽く微笑む。

 他にも二つ選択肢はあった。
 一つは処分される前に同業他社に能力を売り込み、新たな地位を得る。
 この場合、鶴来屋の社内秘の提供を迫られるだろうが。
 もう一つは監督に取り入る――つまり千鶴や梓に取り入って、身の安泰を謀る。
 千鶴は兎も角、梓に取り入るのは簡単そうだ。と美冬は顔を赤くして盛んに首を傾げて考える梓を細めた目で見やった。
 親切の裏にある打算に気付いた時、真っ直ぐ過ぎる性格の梓が傷つかなければいいが。と考えながら美冬は息を一つ吐いた。

「そうよね。役員連中も必死で業績上げようとするでしょうね。自分の身が可愛いもの、千鶴の揚げ足取ってる場合じゃないわ。ましていままで千鶴を誹謗中傷してた連中は、千鶴の後ろに耕一がいるって教えられる訳だし。仮に千鶴を辞任に追い込んでも、耕一が後任の会長になるのは必死。千鶴と反目しても、なんのメリットもないわ。これからの一年は、耕一の就任と同時に首にならないか、戦々恐々でしょうね」
「じゃあ、あたしの役目って?」

 ちょとしたショックを受け、梓はもう一度聞き返した。

 それでは本当に名前だけの役員だ。
 気が軽くなったのと同時に、期待されて役員になれと言われたのではなかったのに、軽いショックを感じていた。

「だから楔。敵対者に心理的なプレッシャーを加え。誰にも邪魔されず、千鶴が自由に采配を振るえるように打ち込む楔」
「そんな事しなくても、耕一がビシッと決めてやりゃいいんだよ」

 大して期待されてなかった腹立たしさも手伝って、梓は腹立ち紛れに言い放った。

「千鶴の今までの苦労が報われないでしょ?」

 美冬は眉を潜め、軽く梓を睨む。

「千鶴姉が報われないって? でも千鶴姉は、もう楽したっていいんだよ」
「お嬢さんじゃ、会社経営はやっぱりダメだ。って言われるわよ? それでいいの?」

 姉の苦労をなにも知らないクセにと梓が口を尖らすと、美冬は冷めた瞳で問い返した。

「どういう意味だ?」
「千鶴が会長になって乱れた社内が、耕一が入っただけで収まればね。最初から千鶴が出しゃばらず、耕一が会長になれば良かったんだって、みんなが思うわ。千鶴には致命的な評価ダウンよ。誰も千鶴の言う事を聞かなくなるわ」

 真っ赤な顔で睨む梓にどう言えば判るのか、美冬は眉を潜め考えをまとめた。

「耕一は、千鶴が才能を発揮出来る場を整えるのに状況を利用するつもりだと思うわ。もちろん、千鶴にそれだけの能力があると信じた上でね」
「でも千鶴姉、また苦労するだけじゃないのか? それ位なら、耕一が役員になってまとめた方が楽だろ?」

 美冬は首を横に振り、ふっと息を吐き出した。

 梓の言う事は、美冬には正論過ぎた。
 耕一が役員になれば、千鶴は楽にはなるだろう。だが、それでは千鶴が苦労して鶴来屋を守って来た意味がない。
 梓の言う楽が、千鶴一人に掛かっていた柏木全ての重責からの解放を意味する事を知るよしもない美冬は、梓の言葉を、姉を思うあまり実業家としての千鶴の将来を考えていない短慮だと受け取っていた。

「千鶴に楽をさせたい梓の気持ちは判るけどね。甘やかすのと、成長を助ける手助けとは違うのよ。耕一が一年間のインターバルを置いて、千鶴に才能を生かせる場を提供する気なら。それはね、耕一が千鶴にその間に社内をまとめ上げる能力があると信じた上での決断だわ」
「じゃあ、耕一は千鶴姉に今のまま頑張らせるつもりだってか?」
「社内をまとめれば、千鶴は確固たる地位を築くわ。誰も、御飾りの会長なんて言わなくなる。あなたの役員就任と婚約発表で、その為の場は整うわ。千鶴の為には、それがベストの選択だと思うけど」

 少し考え込んだ梓は、首を傾げながら美冬を見上げた。

「耕一が役員にならないのは、千鶴姉の為なのか?」
「耕一が役員になると、千鶴の後ろにみんなが耕一の影を見る事になるわね」
「それって不味いの?」
「人によるけれど、耕一が役員になってバックに付くと、千鶴の采配か耕一の指示か判りにくくなるからね。耕一には有利だけど、千鶴には不利ね」

 話ながら、美冬は今朝受け取った情報を吟味していた。
 昨夜千鶴から佐久間の話を聞き急きょ集めた情報だが、観光関係が本来の業務でない美冬も佐久間の副社長の手腕は聞き及んでいた。
 その副社長が自ら耕一にヘッドハンティングを仕掛けたのでは、下手をすると千鶴の功績も耕一に負うと考える者が出て来る可能性は否めない。

「じゃあ千鶴姉、やっぱり仕事は辞めないのかな?」

 楓の言葉を思い出し、梓はぼそっと聞いた。
 千鶴を辞めさせる気なら、耕一がそんな回りくどい手を使うとは思えなかった。

「さあ。別に辞めさせる相手がいないなら、副会長でも作って、耕一がなればいいんじゃない?」

 美冬は梓の問いを、耕一が入れば千鶴か他の誰かか辞める事になるのか? という疑問だと思い、気のない返事を返した。
 結婚しても経営権は千鶴にあるのだから、耕一は婿養子と代わりはしない。そして結婚したからと言って、女性が家に入る必要を美冬は感じてもいなかった。

「あくまで私の推論だし。耕一には、別の考えがあるのかも知れないわ。でも、どちらにしろ耕一は諦めないとね、残念な結果になったわ」
「えっ! 残念って、まさか……」

 美冬の前半の台詞を飛ばし、まさか美冬まで耕一に気があったのかと梓は目を見開く。
 しかし、美冬は軽く頭を横に振る。

「仕事の話。言ったかな? 私、今度極東支社のゼネラルマネージャーになるのよ。耕一に手伝って欲しかったんだけどね」
「あ、ああ。なんだ、そうか」

 ちょとホッとして、梓はストローを咥えコークで乾いた喉を潤した。

 これ以上耕一の周りに女性が増えて、千鶴の御機嫌が悪くなるのは願い下げだ。
 なにしろそのうっぷんばらしが梓に回って来る傾向があるのだから、堪った物ではない。

「完全に意表を突かれたからな。残念だわ」
「意表って。美冬さん、耕一が家と関係あるの知ってたんだろ?」

 耕一が嫌だと言えばそれまでだが、今までの美冬の話では、梓には耕一が鶴来屋に務めた方が自然に思えて首を傾げた。

「言わなかった? 良い印象持ってなかったって」
「そりゃ聞いたな。なんで?」

 何げなく梓が聞くと。驚いた顔をした美冬は、まじまじと梓を見つめる。

「今までの話で判らない?」
「…残念ながら」

 呆れた様に見られ、梓はぎこちなく笑い両手の指を突き合わせる。

「こう言っちゃ悪いけどね。梓、あんまりくよくよ悩まないでしょ?」
「だって、悩んでもしょうがないしさ。それなら出来る事からやった方が良いだろ?」
「前向きね。そういう考えは、好きよ」

 器用にウィンクを決め、美冬は可笑しそうな微笑みを浮べて見せる。

「言葉にすると梓達にはきついのよ。良いの?」

 眉を潜めて見せ、美冬は更に念を押す。

「とっくにきついって。それに、あたしなんでも知っときたいんだ。自分で気づけって言われてるけど、判らない事の方が多くってさ。どんな風に考えるのか、知りたいんだ」
「耕一ね? 真面目過ぎると疲れるわよ」
「頼むよ」

 真っ直ぐ美冬を見た梓は両手を併せて拝む。
 美冬はそれならと顔を上げて口を開いた。

「あのね、私から見ると。耕一って、柏木家から見捨てられた存在なの」
「ちょと待ってよ。あたし達、耕一見捨ててなんて……」

 慌てて顔を突き出した梓を手で制し、美冬は苦笑を洩らした。

「只一人の直系男子の耕一に、御爺さんは財産すら残さない。父親は本家に戻って、残された耕一達は母子家庭同然。完全に柏木本家とは断絶してるわよね?」
「そりゃ……」

 反論はあるし不満だが、梓には美冬に示せる手札がなかった。

「その上別居のまま母親は死に、父も死亡。一流企業の会長兼社長の要職にありながら、生き別れ同然の息子には、ろくな遺産もなし。本家も父親も、意識的に耕一を柏木家から排除したとしか思えないわ」
「叔父さんは、そんな!」
「みたいね。耕一はお父さんを尊敬してるもの。あくまで私の私見よ」

 叔父への非難に頭にカッと血が上って口を突いた言葉を遮られた梓の中で、なんとも言えない不快感が残った。

 祖父と叔父への非難に対する梓の反応の違いに首を傾げ。昨夜の耕一の態度と考え合わせ、美冬は耕一の父親が与えている耕一や梓への影響力の大きさを見た気がした。

「でも客観的に見れば、耕一を排除して得をするのは誰だと思う?」
「誰も居ないよ」

 考えもしないで決めつけ。いまだに不貞腐れている梓の態度に失笑を洩らした美冬は、ムッとした梓に睨まれ口元を押えた。

「居るわよ。それもごく身近にね」
「誰だよ?」

 怒ったように唸る梓を軽く見返し、美冬はそっと囁く。

「千鶴」

 ギョとした顔になった梓を満足げに見ると、美冬は梓を制するように先に口を開いた。

「千鶴の会長職を脅かす第一候補が耕一よ。役員が揃って耕一を押せば、千鶴には抗えないわ」
「どうして! どうして千鶴姉と耕一が………」

 身を乗り出した梓を手で座るように促し、美冬は五月蝿げに前髪を直しつつ横を向き、梓が座らないと話を続けない態度を示した。
 美冬の一拍置いた落ち着いた態度で、梓もレストランだったのを思い出し、しぶしぶ腰を下ろした。

「千鶴は耕一に弱みが多いわ。耕一が父親と離れて暮らしたのは、あなた達の為よね?」
「…うん」
「その耕一を役員が会長に押せば、千鶴は反対出来ない。もし耕一が会長に相応しくない反証も無しに反対すれば、世間は千鶴に恩知らずな暴君の烙印を押すでしょうね。なにしろ、耕一は千鶴達の為に遺児同然の暮らしを強いられ、母親まで亡くしている被害者だもの。耕一を一流の企業人に育てるのが、千鶴に出来る叔父や叔母、耕一に対する恩返しだろう、その為には自ら身を引いても当然だ。世間は、そう考えるわね」

 睨み付ける梓の視線を見つめ返し、美冬は梓に考える時間を与える為、グラスを取り上げ口に運んだ。
 不意に視線を逸らすと、梓は息を吐き出し肩を落とした。

 耕一が自分達の犠牲者だと言われても、梓には反論の余地がなかった。
 鬼の事を教えられるまで。いや教えられてからも、美冬に言われるまでもなく、梓も耕一や叔母に引け目を感じているのは確かだった。
 言えるとしたら。
 耕一が望むなら、千鶴や梓、妹達も、喜んで耕一に鶴来屋でもなんでも譲るだろうという事だけだ。
 だがそんな梓達の気持ちより、目に見える財産や地位と言った即物的な面だけを、美冬は口にしただけだった。
 そして、それが世間が考える現実的な物の見方なのを教えてくれと頼んだのは、梓自身だった。

「警告はしたわよ。聞かない方が良いって」
「判ってる。あたしが頼んだんだ、最後まで聞くよ」

 軽く顔を両手で擦る梓の答えに一つ頷き、美冬は軽く首を振って前髪を直す。

「世間の非難を避けるには、耕一を立てて役職を退き、後見になるしか千鶴に道はないわ。そう考えると、役員連中の狙いも判るんじゃなくって?」
「まさか、……耕一を千鶴姉にぶつけるつもりだったのか?」

 こくんと梓に頷き、美冬は梓の答えに満足そうに微笑んだ。

「私ならそうする。つまり耕一と千鶴の婚約は、彼らの思惑そのものを潰す発表になるわ。彼らは切り札を失い、手も足も出なくなる」
「耕一がそんなのに手を貸すわけないだろ。馬鹿じゃないのか」

 肩を怒らせて梓は言い捨て、グラスを直接口に付けてごくごく喉を鳴らしてコークを飲んだ。

「コークの一気飲みって、体に悪いわよ」

 今までの話が嘘のようにノホホ〜ンと注意する美冬を一瞥して、梓はげっぷが出そうになった口を手で押さえ。美冬は軽い笑いを洩らした。

「でもね、世間はそうは思わないのよ。特に接客業だしね、トップのスキャンダルは集客率に跳ね返る。千鶴が耕一を拒否すれば、鶴来屋自体が崩壊する危険もあるのよ。千鶴が耕一の排除を考えても不思議はないのよね」
「それじゃさ。あたし達と耕一って、世間から見ると敵同志みたいじゃん」

 情けなく肩をすぼめた梓は、頬杖を突くとその上に額を乗せハッ〜と溜め息を漏らす。

「そうよ。実業家レベルで見るとね」
「………」

 にべもなく軽く美冬が答えると、梓は頬杖に乗せた額越しにジトッとした眼で睨む。

「まあ。耕一が気にしてないんだから、いいんじゃない?」
「……そりゃ、そうなんだけどさ」

 他人事だと思ってと考えた梓だが、どうせ他人事だものと言われるのが落ちなので止めた。

「でも、凄いのは耕一よね。良く性格が歪まないもんだわ」
「あいつ馬鹿だもん。そんなの気にもしてないよ。千鶴姉の事ばっか考えてやんの、こっちが呆れるよ」

 ふっと息を吐き出した梓の呟きに頷き、美冬はクスクスと笑う。

「でもね。やっぱり凄いわよ。ほとんど母子家庭で過ごして、苦楽を共にしたお母さんは亡くしてるし。お父さんを恨んでいても不思議はないのに、悪口どころか尊敬してるみたいだしね。よく世を拗ねなかったものだわ」
「そりゃ。……言われてみれば、凄いのかな?」

 美冬に並べ立てられた梓は、なにか耕一が凄く立派な人格者のように感じて、両腕を組んで考え込んだ。

 確かに最近の耕一は考え深く知識も豊富だが、梓の頭に浮かぶ耕一の姿は、馬鹿を言ってはおちゃらけているイメージの方が先に立つ。

「自分に無い物を羨ましがったり妬んだりするのが、普通よ。ひねくれていれば、世の中で自分だけが不幸にも感じるわ。まして同じ祖父を持っていて、方や立派な家に住んで地位と名誉、有り余る財産を引き継ぎ、自分は孤児同然となればね。親族間での財産争いなんて、珍しくもないわ」
「別に財産なんて欲しくないよ」

 不服そうに洩らした梓は、美冬に眉を潜めて睨まれ。思わぬ反応に、ちょと気不味そうに視線を美冬から逸らした。

「お金の苦労を知らないから、そんな事が言えるのよ。明日の食べ物にも困るようになったら、そんな事言えないわ」

 そうかな。と呟いた梓はそのまま考え込む。
 明日の食事の心配と言われても。
 財布の中身と睨み合って献立を考えても、おかずを買うお金に困った事のない梓には、どう首を捻って見ても実感が湧かない。

「少なくとも私から見れば、あなた達と耕一を比べた場合、耕一の境遇の方が不遇よ。同じ孫でありながら、あなた達は有り余る財産を与えられ助け合う姉妹もいる。耕一には、なにもないわ。どこに耕一があなた達を気使う必要があるの?」

 それでも、あなた達を気遣える耕一は凄くない? と、美冬は考える梓を覗き込んで尋ね、こくんと首を横に倒す。

「だから私としてはね。経営の才能が認められたとしても、今更あなた達本家筋の人間が耕一を頼るのは身勝手だし。仮に鶴来屋に誘われていても、耕一にはそれに応える義務はない。だから誘えば私を手伝ってくれるって考えていたのよ。それなりの地位も用意するつもりだったし、才能を試すチャンスですもの、耕一が断るとは思ってなかったんだけど。でも結婚するんじゃ、話す前に計画倒れになったわ」

 俯いて唇を噛む梓に、美冬は誤解しないでね。と言葉を継いだ。

「貴方達を非難しているんじゃないのよ。さっきも言ったけど、耕一が周囲の同情を引くだけの境遇だって言ってるだけ。それは貴方達のせいじゃないし、耕一も気にもしていない。手伝って欲しかった私の希望的観測よ。それに耕一が話した訳じゃないからね」
「…耕一は、そんな事考える奴じゃないよ」

 ぼそっと洩らした梓に笑い掛け、美冬は少し考えるように眉を潜めて目蓋を閉じた。

「そうね。耕一は違う」

 周りにいる男と耕一は違う。と、もう一度口に出さず美冬は呟いた。
 足を引っ張る事しか考えない親戚とも。表面では親切でも、腹の探り合いをしなければならない会社の人間とも違う。
 だから、側にいて手伝って欲しかった。
 なんでも話せる友人として、パートナーとして一緒に働いて欲しかった。
 梓にきつい話を聞かせたのも、もしかしたら知らず知らず、耕一を得られなかった失望が混ざっていたのかも知れない。

「…八つ当たり…かな」

 そう思い至り。
 梓に気付かれないよう、美冬は自嘲気味に呟いた。

 理論と現実の違いが身に染みるまで、一人でやって行けると思っていた美冬だったが。実際に人が死ぬと、胸の中にどうしようもない、やりきれなさが残った。
 その代償が、極東支社のゼネラルマネージャーだった。

「……才能より、耕一の人格を高く評価しているんだけど」
「なあ、美冬さん」
「うん?」

 梓に呼ばれ目蓋を開いた美冬は、ちょと迷った様に見る梓の様子に頬に笑みを刻んだ。

「耕一、あたし達の事って、なにも話さなかったの?」
「昨日まではね」

 少し寂びしそうな顔をした梓に自慢してたわよ。と、軽く答えたが、美冬が梓達に耕一が手を貸さないだろうと考えた理由の一端は、耕一が従姉妹達の話に触れなかったせいもある。
 例の書類を見た後、酷く塞ぎ込んだ耕一の様子を、美冬は耕一自身が知らされていなかった家庭環境に関係があると思っていたのだ。
 逆の意味で、それは正しかったが。

「じゃあさ。耕一と、どんな話してたの?」
「雑談の他は、経済と気功だけ。かな?」

 考えてみると、一月も同じ屋根に下にいたのに色気のない話してたな。そう我ながら美冬は少し呆れた。

「経済機構?」
「ああ、違う。経済、と、気功。そうか。梓、昨日先に帰ったのよね」

 難しそうだな。と呟く梓の間違いを訂正し、美冬はグラスに残ったワインで唇を濡らした。

「気功って。鉄の棒曲げたり、ハンマーで体殴る、あれかな?」
「それは硬気功ね。梓、知ってるの? 千鶴と楓は知らなかったけど」

 へへっと笑うと、梓は両腕を組んで考えるような仕草をする。

「テレビでやってたのを見ただけだけどね。千鶴姉も楓も、バラエティって見ないから、そう言うのに疎いんだ」
「う〜ん、バラエティね。見せ物じゃないんだけどね」

 見せ物感覚の認識なのがちょと悲しい美冬は、軽く唸ってふっーと息を吐き出す。

「あ、そうでも無いよ。雑誌に美容気功ってのもあったしさ」
「まあ、良いわよ。初める切っ掛けはなんでもね」

 嫌そうな息を吐かれた梓が取り繕うと。美冬は気にしないわ。と苦笑いで軽く片手を振る。

「私のは、拳法の応用。耕一と知り合った切っ掛け」
「じゃあ、耕一も気功やってるの?」
「ええ。気の扱いだけなら、私より耕一の方が上だと思うけど」

 少し考えた美冬は、多分と付け加えた。

「へェ〜、耕一がね。あたしも習おうかな」

 興味を引かれた梓だが、耕一に習うのはちょと癪だなと考え眉を潜める。

「耕一には教えられないわよ。先生が巫結花だもの」

 内心千鶴は別だけど。と付け加え美冬はクスッと笑う。

「巫結花ちゃんが耕一の先生だって、その事か?」

 梓は耕一をからかうネタになりそうな話に飛びつき、瞳をキラキラさせる。

「そうよ。だから人には教えられないわ」
「なんで?」

 教えられない理由になっていない気がして、腕を組んだまま首を捻った梓は、微笑む美冬に問いかけの視線を送る。

「巫結花は、私達とは次元が違うのよ。耕一に合った特殊な教え方をしているから、他の人には真似できないわ」
「特殊? なにか特別な事やってるの?」
「あの子のは、気功じゃなくて、仙道だもの」

 苦笑しつつ美冬が説明すると、梓はますます首を傾げる。

「仙道って、仙人になる修行の事だけど。仙人って判るかな?」
「仙人? あの白い髭生やして、霞を食うってか?」

 冗談だと思った梓は、へへっと笑いを洩らす。

「いいえ。最終的には肉体を気と置き換えるから、霞じゃなくて食事そのものを取る必要がなくなるのよ。それに高名な八仙の内には女仙もいるもの、髭は生やしてないわね」

 大抵の人は梓と同じ反応を示す。
 美冬は慣れたもので、素知らぬ振りでグラスを開け、ボトルに残ったワインを注いだ。

「道家は人が神に至る修行だから、拳法家とも気功師とも、巫結花は次元が違うのよ」
「…あの、美冬さん?」

 宗教の勧誘を受けた人が浮べる胡散臭そうな顔で腰を引いた梓の、本気なのかと言った懐疑的な呼びかけに、美冬はにっこり笑い返す。

「なあに?」
「…冗談…だよね?」
「冗談に聞こえた?」

 チラッと真剣な眼を向けた美冬の眼力に押され、梓はブンブン首を横に振る。

 受け入れないのは梓の勝手だが、道家のれっきとした教えである。それを笑われては、美冬も自然と目付きがきつくなる。

「巫結花が今日出かけたのも。一目現代の千女にお目通りをと請われてね、ぞろぞろホテルに押しかけられると面倒だからって、仕方なくね」
「巫結花ちゃんて、そんなに凄いの?」
「道を究める真人の気質を持って生まれるのは万人に一人。それを研ぎ澄ませるのも、また万人に一人。日本風に言うと、生き神様か巫女になるのかしら? でも、私には可愛い妹」

 日本で言う神とは厳密には意味合いが違うのだが。少し怒ったように言い切り、美冬はグッと一息にワインを飲み干した。

「ったく。休暇中に拝み倒すなんて良い度胸よ。巫結花もピシッと断りゃいいのに」

 乱暴にグラスをテーブルに置くと、美冬は小さく溜息を吐く。

「って、梓に言ってもしょうがないわよね。ごめんね」
「う、ううん。それは良いけど、巫結花ちゃんも大変なんだね」
「うん。家では厳重に警備してシャットアウトしてるし、滅多に家から出ないからね。外出したのが判ると押しかけてくるのよ。気を付けてはいたんだけど」

 どこから情報が漏れたのか、美冬は軽い頭痛さえ覚え、明日にもホテルを代えた方がいいだろう。と、額を押えた。
 明日で耕一との約束の期日が終わる。
 巫結花も楽しみにしていた休暇だというのに、ゆっくり過ごす事も出来ないでは、余りに不憫だ。

「ね。私が気功を教えて上げるから、もう少し付き合わない?」
「えっ? 付き合うって」

 急に変わった話に着いて行けず、梓は口にしていたストローを放し顔を上げた。

「うん、どっかの別荘でも借りて移ろうかと思ってね。あと二、三日だけでも一緒にどうかな? もちろん良かったらだけど」
「予定は別にないけど…でも、千鶴姉や耕一とも相談しないと……」

 今朝の事がある。
 耕一は兎も角、千鶴が反対しそうな気がして、梓はぎこちなく笑って即答を避ける。

「それは、もちろん。ちゃんと私から耕一にも話しはするから、考えて置いてね」

 押しつけがましくならないよう笑顔を添え、そろそろ行こうかと美冬は腰を上げた。

「あ、あのさ美冬さん」
「うん、なに?」

 立ち上がった美冬を見上げ、頭を掻きながら照れ臭そうに梓はテヘヘと笑う。

「靴代えて良いかな? 足が痛くって」
「私に断らなくてもいいのに。梓って、律儀ね」

 美冬はクスッと笑い、紙袋から靴を出して梓の前で揃え。
 梓は窮屈なハイヒールから解放された足の指をワシワシ動かし、ほっと息を吐いてから、ローファに足を納めた。

七章

九章

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