七の章


 重ねた手を握る力が無意識に強くなっていたのに気づいて、千鶴は、静かに強ばっていた体から力を抜いた。

 穏やかな陽射しが降りそそぐ浜辺で木漏れ日を受け、樹木の緑の香を流すように水面(みなも)からの風がそよぐ。
 閉じた目蓋の睫毛を、そよ風が震わせる。
 梢に生い茂る葉が風に揺れ。
 細波のような木漏れ日が、木陰に座る二人の姿を揺らす。

 春の陽気に誘われ、逢瀬を楽しむ二人。
 見るものがいればそう思うだろう。
 しかし背を幹に付け、その腕(かいな)に納めた華奢な体を後ろ抱きにした耕一に身を預けた千鶴は、その場に不似合いな深い深い溜息を漏らした。

「可能性は、否定出来ません」

 耕一の話を考えすぎだと否定したい気持ちと裏腹に、千鶴の口から出たのは、固い声での消極的な肯定だった。

「現実になってからじゃ、手遅れだよ」

 慰めるように髪を撫でる手が動き、千鶴は静かに目蓋を開くと声に眼を向けた。

「予想では十年後で半分、二十年後にはどうなるか。それ以前に気づかれるかも知れない。でも、先に手に入れられれば」
「秘密は、秘密で無くなる?」

 ゆっくり頷く耕一を映した千鶴の瞳は、困惑と疑念に揺れた。

 もし失敗すれば、柏木の秘密は世間に知られる事にも成りかねない。しかし成功すれば、柏木を縛る物は無くなる。
 耕一の考えは、これからの一生を掛けた賭だった。

「不安は判るよ。畑違いだし、鶴来屋本体にも影響するかも知れない。でもね、放って置くわけにも行かない」
「まず。病院ですね」

 目蓋を臥せた千鶴は、顔を正面に戻し小さな声で話し出した。
 耕一の上げた不安要素と逆の、これからなすべき事を。

「鶴来屋で資金援助をしている病院がありますから、そこに誰か送り込みましょう。病院なら、医療関係の情報も揃います」
「うん。それから製薬会社だな 誰か信用出来る人に当てはある?」

 自分の計画に賛同を示した千鶴の言葉に、耕一は静かな感謝を込めて問い返した。

「萩野さんがいいでしょう。外殻団体への出向という事で」
「周りから見れば左遷だな。丁度良いか。名目は、医療を通じて地元福祉への貢献ってとこでどうかな?」

 千鶴はコックリ頷き、少し迷ったように手を迷わせ、耕一の手を握り締めた。

「萩野さんには……」
「いずれ話す事になる。重要性を理解してもらう為にも」

 千鶴の不安を察した耕一は、握られた手を握り返し、静かに目を臥せた。

 耕一の計画が進めば、柏木の秘密を知る人間を増やすのは避けられない。
 千鶴が不安を持つのは当然だった。
 反対される事も耕一は予想していた。
 しかし、不安を抑え反対しなかった千鶴に感謝しつつ、耕一は開いた目の前でそよ風に揺れる髪に顔を埋めた。

「耕一さん」
「うん?」
「美冬さんに話さなかったのは、なにか関係があるんですか?」

 先だって持った疑問を口に乗せ、千鶴は預けていた体を僅かに耕一から放し、ゆっくり振り返った。

 第三の選択肢。
 柏木の秘密を教え、美冬達に秘密を守って貰う。
 千鶴は、耕一がそうするだろうと半ば予測していた。
 有無を言わさず口を封じるのは、耕一らしくなかった。

「あいつのトコから貰った情報だからね。今後伸びそうな有望株ってね。美冬が実権を握っていたら協力して貰えるけど、いまの段階だとまだ教えられないな」
「美冬さんを、信用しているんですね?」

 話して理解してもらう方が、現実的な対処の仕方だった筈。
 美冬は脅されて沈黙するより、反感を覚えて自分で調べるタイプに千鶴には思えた。
 一度約束すれば、その約束を破ってまで調べない。
 耕一と美冬の間に、そう言った信頼関係があるのを、あの一件で千鶴は感じていた。

 首を傾げて覗く千鶴に苦笑を受かべ、耕一はどうかなと首を傾げ返す。

「あいつナイーブだから。口で言うほどクールな奴じゃないし、仕事が絡むと無理して感情を抑えてる所があるからな」
「と、言いますと?」
「ワンクッション置いた方がね。知ってたら情報を利用出来る場面で悩むけど。知らなきゃ、調べてまで利用出来る奴じゃ無いし。免罪符が在った方がいいんだよ」
「………」

 複雑な表情で黙り込んだ千鶴に微かな笑みを向け、耕一は小さく溜息を吐き出す。

「今の日本経済は、外国資本の標的だろ?」
「美冬さんの来日は、その為ですか?」

 問い返した千鶴に耕一は頷く。

「半分はね」
「半分? 後の半分は?」

 少し耕一からぶれた視線で、千鶴は考えながら聞く。

「…保養……その、吸収合併した会社の責任者が死んでね。責任感じてるみたいで」
「…そうですか」

 かって乗っ取りの標的にされ、自殺まで考えた千鶴の痕に触れないか、不安そうに話す耕一に相槌を打ながら、千鶴は静かに眼を臥せた。

 吸収合併と言えば聞こえがいいが、人が死ぬような乗っ取り。
 正当な経済活動の一環なのは理解出来ても、千鶴にはどうしても慣れる事が出来ない。
 祖父が多くの会社を吸収し、隆山一になった鶴来屋グループ。
 祖父の経営手腕を讃え、事業家の鏡の様に心酔する一方。その情け容赦のない事業展開を冷徹だと非難する人もいる。
 会長職に就き内部の事情を知るほど、表向きほど鶴来屋が清廉潔白だとは、千鶴には思えなくなった。
 頭では理解出来ても、心理的な嫌悪感を拭う事が出来ないでいた。
 自分が会長を務める鶴来屋を、心底から好きになれないのは、そのせいもあるかも知れない。

「……耕一さん?」

 自分を抱き締める力が少し増したの感じて、千鶴は臥せていた眼を上げた。

「どうかしましたか?」

 少し辛そうな――他の人間なら気づかないほど微妙に歪んだ表情を向ける耕一に、千鶴は落ち着かない気持ちになり尋ねていた。

「いずれ。まだ先だけど、俺も同じ事をやるかも知れない。いや、そうなる。だから、だからさ」
「気にしないで下さい。子供じゃないんですから、大丈夫です」

 なにを耕一が言いたいのか気づいた千鶴は、ゆるゆると首を横に振った。

 いずれは吸収合併や乗っ取りもやる事になる。だから、千鶴が嫌なら、手伝う事はないと耕一は言いたかった。
 なにを考え付いても、自分一人の力ではなにも出来ないのが、耕一を取り巻く歯がゆい現実だった。
 資金も有能な補佐も無い耕一がなにかやるには、結局、鶴来屋の力を頼る事になる。
 それが、無用の心配に千鶴を巻き込むだけかも知れないのが、耕一には酷く心苦しい。
 もしかすると千鶴を不安にさせるだけで、心配する必要もないのかも知れない。
 その思いが耕一の胸を締めつけ、酷く弱気にさせていた。

「ごめん」

 目蓋を臥せる耕一の頭を、千鶴はさっき耕一がしたようにそっと引き寄せる。

 時々、耕一は子供のような頼りなげな表情を浮べる。
 それも自分自身の事より、千鶴達姉妹の心配をしている時に。
 嬉しい半面、もっと耕一に自分の事を考えて欲しいと千鶴は思っていた。
 もっと頼って欲しいし、一緒に考えたい。
 こうやって、抱いた不安や疑問を話してくれた方が嬉しいというのに、いまだに出来るだけ自分一人で解決しようとする耕一が、少し千鶴には悲しい。
 それが、自分達の為を思っての事だと判っているからなお更。
 以前の自分の役割を、耕一が果そうとしているのが判ってしまうから、悲しい。
 自分の感じている悲しさを、多分妹達に味あわせていたのは千鶴自身だった。

「耕一さん」

 ――だから。

「うん?」
「私は側にいます。いつでも、耕一さんがイヤだと思わない限り。ですから……」
「千鶴さん?」

 静かに顔を上げた耕一を見つめ、ずっと言いたかった言葉を、千鶴は紡ぐ。

「もっと頼って下さい」

 ――もう後悔は、したくないから。

「一人で考えないで、一緒に考えさせて下さい」

 じっと見つめる耕一にそれだけ言うと、千鶴は答えを待つように耕一を見つめ返す。

「…うん。そうさせてもらうよ」

 そっと静かな笑みで耕一は頷き、頭を千鶴の胸に預けた。
 軽い安堵の息を伝えた胸に耕一の頭を抱き、千鶴はそっと髪を撫でた。
 先程、耕一が撫でたようにゆっくりと優しく。
 木漏れ日が揺れ、風が頬をなぶる木陰でゆっくりと流れる時間を慈しむ様に。



 千鶴と耕一が甘い時間を過ごしていた同時刻。
 ホテルから歩いて十分ほどのプレタポルテで、僅かな時間で数えるのも嫌になった溜息を、梓は飲み込んでいた。

 周囲の好奇の視線にさらされ、もし溜息でも吐こうものなら、また美冬にお小言を食らう羽目になるのが判っていたからだ。

「もうすぐだからね。あと、ちょとの我慢よ」
「お客様、こちらで宜しいでしょうか?」
「うん、そうね。肌が綺麗だから、あまりお化粧が目立たない方がね。そう、もう少し薄い方が良いかな」

 盛大にハートマークを付けた美冬の甘い声が、考え深げに店員との間で化粧品コーナーに流れる。

 服の前に化粧と、梓は美冬に化粧品コーナーの椅子に座らされていた。
 実演販売のチャンスと近寄った店員を断り、美冬はプロ顔負けの手際で梓に化粧を始めたのだ。
 初めは困ります等と言っていた店員も、今ではせっせと美冬の指定した化粧品を揃える使いっ走りに変身している。
 それもその筈、美冬が指定した化粧品は最高級と折り紙つきの逸品ばかり。それを惜しげもなく使うのだから、店にとっては上の付くお客だ。
 このまま常連になって貰おうと、営業スマイル全開で美冬の指示に従っている。
 もちろん、使った化粧品は全て買い取りの約束である。

「うんうん、やっぱり綺麗よね。梓、お化粧に併せて、髪も切らない?」
「い、いい。あたしこの髪型、気にいってるからさ」

 べたべたと慣れない化粧品を顔中に塗られ、これ以上遊ばれて堪るかとばかり、梓は焦り気味に首を振ろうとした。

「あぁー! 顔動かしちゃダメだって」
「あがっ!」

 振ろうとした頭を両手でグッと掴まれ、梓は首筋に走った激痛に声を洩らした。

「う〜ん。梓って、運動とかしてる?」
「……陸上…やってたけど?」

 痛みを訴える首の筋を摩りながら答えると、美冬は大きく頷く。

「それで時期外れの日焼けか。基礎化粧品、ちゃんと使ってる?」
「別に、特には……」
「ダメよ。運動選手はね、肌が特に痛みやすいんだから。今からちゃんと手入れしとかないと、二十歳過ぎたら一気に肌の痛みが表に出るんだからね。千鶴は教えてくれないの?」

 怒ったような声で言われ、梓も少し心配になった。
 それなりに清潔には気は付けていたが、化粧品とかはあまり使った事がない。

「千鶴姉は、あんまり化粧ってしないからさ」
「へェ〜。そう言えば、昨夜もお化粧してなかったな。お化粧しなくても綺麗だものね。元がいいと得よね」

 ちょと羨ましそうに言うと、美冬は一頻り手の平で伸ばした化粧水で、梓の顔をリズミカルに指先で叩くように揉み始めた。

「梓も手入れしてない割りに痛んでないな。地肌が丈夫なのね」
「丈夫ってさ。その言い方止めてよ」

 なんとなく面の皮が厚い方を思い描いた梓は、恨みがましい声になる。

「どうして? 良い事よ。東洋人の肌って強いのよ。羨ましいわ」
「美冬さんもだろ?」
「四分の一は白人だからね。白人の肌って弱いのよ。だから瞳が、ね?」

 そう言って梓を覗き込んだ美冬の瞳は、少し青みがかっていた。
 ホテルで間近に見た時は光線の加減かと思っていた梓は、その色に納得して頷く。

「そうなのか? 肌も綺麗に見えるけどな」
「ありがと。でも気を抜くと、染みになり易いしね。化粧品も、使えばいいってもんじゃないし。肌に合わないと悲惨よ。ぶくぶく腫れたりして」
「あの、お客様。私どもでは、肌に優しい化粧品を取り揃えておりまして、そう言った製品は」

 見守る衆人環視の中で、化粧品の逆効用を説明し出した美冬を慌てて遮った店員に、美冬は、あ、そうなの。の一言で済ます。

「基礎化粧は終わり、後はちょちょいのちょいで」

 言いながら頬紅を差し、美冬は基礎化粧に比べるとあっけない程簡単に化粧を終えた。

「鏡見て。どう?」
「えっ、どうって……」

 基礎化粧品で弄り回しても変わってなかったのに、あまりにも簡単に終わった化粧に、梓は半信半疑で鏡を覗き込んだ。

「これ?」

 梓がちょと驚いた顔をすると、鏡の中の顔も驚いた顔をする。
 くっきりした目鼻立ちにスッキリした顔の輪郭。
 見慣れた顔だが、どこか一枚薄皮がはがれたように鏡の中の顔は整って見えた。

「ふふん。基礎がお化粧の乗りを良くするのよ。梓は元がいいから、顔立ちが引き立つように頬に陰影を付けてみたの」
「美冬さん、凄いんだ」

 ちょとボォーとした顔で鏡を矯めつ眇めつして、梓はホォーと息を吐いた。
 少し楓に似た感じの気の強そうな顔が、鏡の中で一緒に息を吐き出す。

「あら違うわよ、梓の元がいいの。元が綺麗じゃなきゃ、どんなに高級品塗っても、無駄よ無駄。お金をどぶに捨てるようなもの」

 化粧品売り場に似つかわしくない暴言に引きつった笑いを浮べる店員を無視して、美冬はカードを差し出す。
 カードを見た店員はホッとした顔でカードを美冬から受け取り、愛想笑いで使っていた化粧品を袋に詰め始めた。

「楓より梓の方が表情が豊かだからね。前髪を上げて、顔をよく見えるようにした方が良いかな。後、目元が引き立つようにするのも良いかもね。でも、目元がきつくならないように、柔らかくぼかした方が優しく見えるかな?」
「……うん」
「どうかした。もしかして、気に入らない?」

 ちょと難しい顔で気のない返事を返す梓を訝しく思い、美冬は心配そうに眉を潜める。

「いや、髪伸ばそうかとも思ってたからさ」
「千鶴みたいに?」

 図星を刺され、梓はぎこちなく微笑み両手の指を付き合わせる。

「長い髪って、大人しそうに見えるだろ? …あたしには、似合わないかな?」
「長いのも似合うと思うけど。せっかくのストレートだしね。パーマ掛けるなら反対かな」

 ウゥ〜〜ンと首を傾げ、美冬は溜息と一緒に考え考え呟く。

「どうして?」
「個人的意見。私ね、ストレートにしたかったの」
「なんで?美冬さんの髪、ふわふわで綺麗なのに」

 背中で波打つウェーブがかった髪を見ながら梓が言うと、美冬は嫌そうなしかめた顔をする。

「だからね、個人的な意見よ。ないものねだり。ストレートって、やっぱり憧れだしね。羨ましいな」
「へぇ〜、美冬さんでもそうなの?」

 美冬ほど綺麗でも、人を羨ましがったり憧れたりするのか。と梓は意外な気持ちでしげしげと美冬を見回した。
 眺め回され、しかめた顔で頷いた美冬は、カードと化粧品を受け取ると服飾コーナーに向う。
 とっくに諦め気分だった梓も、美冬の化粧の腕に見せられ。千鶴に選ばせるよりは、数段マシだろうと後を大人しく着いて行く。
 梓の予想に反し、美冬が入ったショップはアダルトっぽい落ち着いた感じの店だった。
 並んだ服も落ち着いた感じで、シックな上品さが光る美冬らしい服が多い。

「あの、美冬さん。ファンシー系じゃ?」
「うん? 梓、巫結花や初音に似合いそうな服、着たい?」

 悪戯っぽく首を傾げる美冬の笑みに、梓はブンブン音がしそうなほど首を横に振る。

「そうでしょ? 梓には落ち着いた雰囲気で、それでいて地味にならない服が良いと思うの」
「助かった」
「うん。どうして?」

 大袈裟に安堵の息を吐いた梓を興味深そうに美冬が見ると。梓は困った苦笑いを浮べ、昨日千鶴に選ばれた服の話をした。

「初音が着てた服を? それは、梓には無理があるわね」
「そうだろ? 千鶴姉にはさ、センスってもんが欠けてんだよ」
「でも。千鶴が来てた服は、センス良かったけどな」

 おかしそうに笑い、梓は首を横に振る。

「あれってさ。耕一のシャツが緑だってんで、選んだんだよな」
「耕一に合わせたの?」
「まあね。でも、自分の服に関しちゃセンスはいいんだろうけど。どうもね、あたし達だと初音が基準になるみたいでさ、可愛い服着せたがるんだよな」
「まあ、私にもその気持ちは判るけどね」

 少し困った顔で、美冬は可愛い服を選ばなくて良かったと内心安堵の息を吐いた。

 美冬にも、可愛い服を着せたい千鶴の気持ちは理解出来る。
 巫結花に感じる気持ちだが、歳の離れた妹がいれば、着せ変え人形を与えられた子供の様な気持ちで、美冬も服を選びそうな気がする。

「そうなの?」
「梓だって、楓や初音に可愛い服着せたくならない?」
「そりゃ。でもさ、楓や初音はそういう服が似合うからね」
「ま、そうかな」

 要は自分が着たかった服や着られなかった服を子供に選ぶ母親と同じで、変質した自己願望だから、梓にはまだ判らないかな。と、美冬は簡単に相槌を打って梓の服を選び始めた。

 ここでも梓は、美冬のセンスの良さに感嘆の声を上げた。
 美冬が選んだ服は、どれも取り立てて目だった特徴はないものの実に着心地が良く、着て良く見ると襟元やスカートの腰周りなどに工夫が凝らされ、服のラインが体のラインを引き立てる逸品揃いだった。

 美冬が選んだ中から、梓の選んだのは明るい茶色のサテン地のスカート――腰周りからヒップラインまでは細く、裾に行くほど広がったものに、立体デザインで胸を強調した白のシルクのブラウス。
 スカートと同色のベストが胸元はゆったりと、腰周りで絞り込まれ、更にウエストを細く見せる。
 美冬いわく、梓の顔立ちが派手めだから、服はシンプルでも生地の柔らかいボディラインを強調する物がいいそうだ。

 そして美冬が一押しで選んだのが、春らしい新緑を思わせる色のシンプルなワンピースだったのに、梓は少し驚きを示した。
 昨日千鶴が着ていたワンピースを思い出し、少し眉をしかめた梓が美冬に進められて着てみると。ノースリーブの上品な明るさを持った緑が、受けるライトの光の加減で、緑の濃度を微妙に変化させた。
 腰の当たりで引き締り、なだらかなヒップと胸を緑の陰影が引き立てる。
 余りに体のラインが強調されるワンピースに顔を真っ赤に染めた梓に、美冬は白いレースのカーディガンを手渡した。
 ゆったりしたカーディガンの柄が胸元の緑を覆うと、色合いが落ち着き、あっさりとした上品さが醸し出される。

 梓が鏡に見入ってる間に会計を済ました美冬は、信じられない事に、着替えた服を荷物に押し込んでいた。

「恥ずかしいから、着替えさせてよ」

 という顔を真っ赤にした梓の懇願に、

「靴は服に合わせるんだから、ダメ」

 の一言で美冬は応じた。

 盛んに恥ずかしがる梓を引っ立て、次に美冬はワンピース姿の梓に靴を選び出した。

「さっき梓の選んだスカートだと、無難にスエードの茶かな」

 と言って、美冬はショートブーツを探し出す。

「梓。ヒールでどう?」
「あたし、ハイヒールって履いた事なくって」
「嘘」
「ホントだって」

 目を丸くして決めつける美冬に梓は言い返す。

「パーティとかどうしてたの?」
「そんな改まったパーティって、出たことないしさ」
「高校卒業したんでしょ? ダンスパーティってないの?」
「あ、プロムって?」

 映画やテレビなどで知った外国の卒業パーティを思い出した梓が見上げると、美冬はうんと頷く。
 梓は横に首を振った。

「日本じゃ、そんなのしないよ」
「不毛ね。聞いてはいたけど、勉強一筋なわけ?」
「そうでも無いけどさ」

 可哀想と顔に書いて溜息を吐く美冬の眼差しに哀れみを感じて、梓の口からは苦笑が洩れた。

「でもね。ヒールに慣れておかないと後で困るわよ。取り合えず、ヒールとローファで行く?」
「ヒールって履きにくい?」

 見ただけで答えの判るハイヒールを横目に梓が聞くと、当然と美冬は頷く。

「慣れないとね。でもピンヒールじゃないから、すぐに慣れるわよ」
「あんまり履きたくないな」
「でも。公式の場だと、お約束だしね」

 溜息混じりに本音を吐く梓を楽しそうに笑い、美冬は履いてみてとヒールを差し出す。

「げっ! 細い」
「普通よ、普通」

 足を押し込み、立った感じそのままに嫌そうな顔をする梓を、美冬はけらけら笑う。
 梓は流石にちょとムッとした。
 しかし無言で睨むだけで、美冬が苦笑しながらごめんと手を上げたのでなにも言わなかった。

 梓には千鶴や楓同様、美冬にも着いていけない部分がある。
 鬱陶しくなる事もあるが、耕一はまだ梓の持った疑問を説明してくれるだけマシだ。
 だが千鶴となると本気なのか惚けているのか、まともな答えが返ってくる方が珍しく、普段の行動から読み取るしかない。そうなると美冬ではないが、妹の梓でも理解出来ないし間尺に合わない事が多くある。
 耕一いわく、救い様のない不器用も半分は擬態だという話だが、少しはマシになったものの今に至っても治る気配がない。
 あれが擬態で、今朝聞いた話が千鶴の本音だと信じるなら。耕一は、良くもあの姉の心理分析などという頭が痛くなる事をやりながら付き合っている。と呆れるばかりだ。
 梓が耕一の立場なら、多分逃げ出す。
 それほど難解で、耕一には気苦労ばかり多い付き合いに思えるから。妹の梓としては、最近、耕一に頭が上がらなくなって来ている。
 楓に至っては、普段のボォーとした態度とたまに見せる屹然とした態度のギャップが、千鶴以上に難物に思える。
 ほとんど二重人格に近い。
 耕一に言わせると、梓の考えが足りないだけという事になるのだが。梓の名誉の為に言えば、普通そんな事考えて生活するか。と、言う梓の方が、一般的には正論だろう。

 美冬は耕一寄りかと思う。

 明け透けでずけずけ物を言うし、梓には付き合いやすいタイプだが。仕事の話しになると途端に人が変わったようになる。
 どうも美冬には、梓をからかっている気配もあるが、まだ質問に懇切丁寧に答えてくれるだけマシというものだろう。
 でも、この人の多い中でまで、傍若無人、我、我が道を行くは止めて欲しいな。と、梓はハイヒールを試しながら美冬の馬鹿笑いで集まった視線から顔を背け、息を吐き出した。

「うぅ〜〜。なんだって、こんなに爪先が狭いんだ?」

 歩くとよろけそうになるバランスの悪さに先細りのハイヒールの中で足の甲を圧迫する痛みが加わり、顔をしかめた梓が一声唸ると。

「だってスタイル重視だもの。綺麗に見せるには、その代償がいるのよ」

 と。美冬は涼しい顔でにっこり微笑む。

「普段、どんな靴を履いてるの?」
「学校は革靴だったけど。家ではスニーカー」
「じゃあ、しょうがないか。あっちは動きやすさ重視だものね。じゃあさ、ハイヒールは何にでもあう無難な黒。それで慣れてから色々試してみると良いわ。赤とか紫も好きだな」
「紫…ね。やっぱり慣れといた方がいいのかな?」
「そりゃね。足が綺麗に見えるし、ヒップアップにも効果があるらしいわよ」

 言いながら梓を鏡に前に立たせ、美冬は鏡に映った半身を捻った梓の姿に満足げに頷く。

「ね? ヒップから足のラインが綺麗に見えるでしょ?」

 言われて梓も鏡を見る。
 腰のくびれで一度絞り込まれたワンピースのヒップラインが先ほどよりきゅと持ち上がり、スカートの生地を通しても判るほど強調されている。
 足元に眼を向けると、スカートから伸びるふくらはぎから足首に掛けてのラインも、さっきより綺麗にスマートに見える。

「でも。この辺がちょと恥ずかしいかな」

 お尻が大きく見えるのに照れ笑いを浮べ、梓は腰の当たりを盛んに気にする。

「スタイルがいいんだから、恥ずかしがっちゃダメよ。その内、見られるのが快感になるわよ」
「かっ、快感?」
「そう、人の注目を浴びるって、気持ちよくない?」

 それより恥ずかしいよ。と乾いた笑いで答える梓をふふっと笑い。

「まだ十八だもんね。だけど好きな人が出来たら、判るわよ。見て欲しくなるんだから」
「そうなのかな?」
「そうなの。どうでも良い人に見られるのって不快だけど。好きな人に熱い視線で見られるとね。こうポォーと体が熱くなって。綺麗だって言われたら、とっても良い気持ちなんだから」

 少し潤んだ熱っぽい瞳で美冬に言われ、梓は妙に納得して頷いていた。

「じゃ、そう言う事で。少し慣れましょうね」
「えっ! ちょとまさか」
「そ。足が痛くなったら、履き代えればいいしね。まさか、その服でスニーカー履く気?」
「うっ! それは……」

 言われてみれば、ワンピースにスニーカーはアンバランスでよけい恥ずかしい。
 梓は諦めてハァーと息を吐き出す。

「うんうん、良い娘ね。それじゃ昼食にしよっか?」
「…うん」

 美冬はローファを一足買いたし、恥ずかしそうに俯いて歩く梓に姿勢良くして、とか注文を付けつつ飲食街に向った。

六章

八章

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