六の章


 洗面所で顔を洗っていた梓は、流れる水音に混ざる硬質な音に気づき、鏡に映る情けなく落ち窪んだ目元に溜息を吐き、タオルで顔を拭いながら扉に向った。

 目覚めてから数時間で、梓の精神は軽く数年分の疲れが襲って来たように体を重く感じさせた。

「あっ! あの……」

 扉を開けた梓は口篭もってしまった。

「ハイ。耕一、帰ってる?」

 梓の戸惑いを他所に軽く片手を上げた女性――美冬はこくんと倒した首で、梓と扉の隙間から部屋の中を覗きながら、屈託のない明るい笑顔を向ける。

「えっ? い、いいや。その、まだ…ですけど」

 ほんの数十分前に異常な殺気で脅された人間とは思えない美冬の態度に呆気にとられ、梓はへどもどと口の中で呟きを返した。

「そっか。じゃあ耕一が帰ったら、午後の予定が変更になったからって、伝えてくれる。今日は、耕一を梓達に貸して上げる」
「貸すって? えっ! あ、あの……」

 ハートマークでも付きそうなおどけた仕草で片目を瞑る美冬に、梓はますます混乱して聞き返した。

 さっきの事が原因で耕一を避けようとしているにしては、梓には美冬の明るさが理解出来なかった。

「いま、他に誰も居ないの?」

 梓の混乱を楽しむように小さな笑いを洩らし、美冬は整ったまなじりを僅かに上げ、念を押すように聞いた。

「あの、ベッドルームに妹達が。その……」
「じゃあ。ちょとお邪魔するわね」

 梓の返事を待たずに扉と梓の体の間から身を滑り込ませ、美冬は後ろ手で扉を閉めると梓を正面から見つめた。

「正直なのは良いけどね。もっと堂々としなさい。隠して置きたい事がある時は、特に」

 ビクッと体を震わした梓が眼を逸らすと、美冬は梓の顎を指で掴み、顔を上げさせて瞳を覗き込む。

「眼を逸らすのは一番ダメ。相手に弱みを見せるのと同じよ。いい事、私は忘れると約束したら聞いたりしない。でもね、それには、あなた達が忘れないとダメなのよ」

 美冬の微かに青みをおびた瞳を見つめ返し、梓は頷いていた。

「うん。素直な娘って好きよ」
「み、美冬さん!」

 破顔した美冬にグッと引き寄せられた梓は、自分の頬に当たっている柔らかい物が、胸なのに気づいて両手をばたばた振って抗議の声を上げた。
 梓の抗議も虚しく、美冬は笑いながらぐいぐいその豊かな胸を梓に押し付け。梓が窒息するかと思った瞬間、両手をぱっと放した。

「酷い顔よ。お化粧の仕方、教えて上げようか?」

 げほげほ咳き込む梓を眉を潜めて覗き込み、美冬は涼しい顔でそんな事を言う。

「いいよ。少し休めば平気だから」
「そう? いいわよね、若い娘って」
「美冬さんだって若いだろ?」
「まあね」

 笑って受け流す美冬の軽いノリで、梓は更にぐったり疲れた気がした。

「梓って真面目なのね。気にしなくていいわよ、脅されるのが初めって訳じゃないしね」
「って、前にも?」
「耕一じゃないわよ。圧力団体とか軍隊とか、色々とね。銃振り回して追っかけて来るんだから、もっと始末に悪いわ」

 あっちは信じてくれないしね。と溜息を吐く美冬を、梓は唖然とした面持ちで見つめた。

 軍隊に追い駆けられるって、どういう生活してるのかと、梓はそら恐ろしくなる。

「そんな目で見ないでよね。日本ほど治安の良い国ってほとんどないんだから、軍隊って言っても過激派みたいな物よ。後進国で政変が多いと、もう最低。でも、あっちの方が質の良い石が出るからね」
「ごめん。でも石って? 宝石?」
「うん。サファイヤにルビー、エメラルドとかね。真珠も最近は東南アジア。ダイヤは南米が多いけど。あっちはルートが出来上がってるから、新規に買い付けるの大変なのよ」

 話ながらさっさとソファに腰を下ろした美冬は、軽く上げた手の指だけで梓にオイデオイデをする。
 苦笑を洩らしながら、梓は首にタオルを掛け頭を切り替えようと軽く振る。

 初音に忘れろと言った自分がおたおたして、美冬に注意されてるんじゃ、締まらないことこの上ない。

 ソファに腰を下ろし、首のタオルで額に浮かんだ汗を拭った梓は、忠告通りさりげなく話を合わす事にする。

「美冬さんって、そんな危ない事までするの?」

 宝飾店の仕事と言っても、営業や販売だろうと思っていた梓は、ちょと以外に思って尋ねた。

「以前からの安全なルートはあるんだけどね。安くて良い石が仕入れられれば、利益幅が上がるでしょ? それって、私の功績になるもの。ちょとドジしちゃってね」
「ドジって、盗品だったとか?」
「ううん、反政府組織の資金集めだっただけよ。革命軍って奴。お蔭で国から睨まれちゃった」

 ヒクッと喉を鳴らした梓に頓着せず、美冬はあっさり飛んでもない事を言う。

「そんな顔しなくても平気よ。石に名前が書いてある訳じゃなし、加工しちゃえば判らないもの」
「でも、そのお金って。もしかして……」
「大量だったから、内戦の準備に武器でも買うんでしょうね。冷戦終結で値崩れしてるから、武器も安いわよ。梓もどう?」
「どうって。なにが?」
「銃よ、拳銃。護身用に一丁」
「い、いいよ。警察に捕まっちゃうよ」
「あっ、そっか。日本じゃ携帯許可取れなかったわね。好きそうだと思ったんだけどな。ま、必要ないかもね」

 慌ててブンブン首を横に振る梓を傾げた首でおかしそうに覗き、美冬はころころと鈴の鳴るような声で笑う。

「美冬さん、平気なの?」
「うん? 平気って、銃なら護身用に必要だから持ち歩いてるもの。あっ、国じゃちゃんと携帯許可は取ってあるからね。今は持ってないわよ」

 法律はちゃんと守るわよ。と言いつつ頬を膨らし拗ねてみせる美冬に、梓は首を振った。

「そうじゃなくってさ。美冬さんが宝石買った金で、そいつら武器買うんだろ? じゃあさ、戦争の手伝いしてるようなもんだろ?」

 勢い込んで睨む梓を一瞥して、美冬は軽い溜息を吐く。

「梓も耕一と同じ事を言うのね。でも、それは感情論よ。私が買わなくても、誰かが買うわ。支払った代金で食料を買うか、火器を買うか。それは彼らの問題じゃなくて?」
「でも…」

 一件正しく思える美冬の論拠は、言葉には出来ないが、なにかが違うと梓は思った。
 人殺しの道具を買うのが判っていて、どうして平然と取り引き出来るのか、梓には理解出来なかった。

「梓の言いたい事は判るのよ。人道上の問題でしょ? 自分達の利益の為に多くの命を危険にさらして、良心は痛まないのかってね。違う?」

 もう聞き飽きた台詞を繰り返すように薄い笑みを口元に浮べ、美冬は梓をじっと見つめる。
 梓は言葉もなく美冬を見つめ返し、重々しく頷いた。

「答えは、ノーよ。良心は痛まない」
「本気で言ってるのか!?」

 真剣な美冬の瞳を睨み、梓の声音は硬さを増す。

「梓は、お店で商品を買う時に良心が痛むの? あなたの支払った代金で、何が買われるかいちいち気にする? 私は非合法な取り引きはしていないわ。禁輸項目からも外れていた、私の政府も禁止してなかったのよ。非難されるとすれば、武器を作って売る死の商人でしょ?」
「そりゃ……でもなんか変だよ。あたし達の買い物とじゃ、全然違うだろ!」

 グッと詰まりながら、梓は美冬の言葉に反発を覚えて言い放った。
 言葉の胡麻化し――詭弁にしか美冬の言葉は梓には思えない。

「同じだわ。商品を買えば、税金が国庫に入る。その税金で、国が武器を買うか福祉に使うか。彼らが武器を買うか、食料を買うかも、大局で見ればその違いだけよ。でも日本人て、不思議よね」
「不思議なのは、あんただよ」

 睨み付ける梓を気にした風もなく、美冬はからかうような含み笑いで首を傾げる。

「そうかしら? あなたの国が世界中にばらまいたお金の何割が、軍事費に変わってるのかしらね。国がやる事には無関心なのに個人がやると途端に非難するのって、私にはとっても不思議なんだけどな」
「国? 軍事費? なんの事だよ?」
「おんなじ反応」

 梓が眉を潜めると美冬はふっと息を吐き出し、情けなさそうな顔をする。

「留学したときもそうだった。こういう話をすると、自分には関係ないって顔で、詳しく説明するとイヤな顔するのよね。受け売りの知識で相手を非難しても、自分達の汚い部分は受け入れようとしない」
「だからなんの事だって?」

 美冬の馬鹿にしたような呆れ声に苛々して、顔を突き出した梓は重ねて聞いた。

「経済援助とか言って、お金だけ出してるあなたの国のお話」
「えっ?」
「知ってる? あなたの国が援助と称して出してるお金って、日系の商社に流れ込む仕組みになってるのよ。半分も後進国の援助にはなってないわね」

 話が大きくなりすぎて、梓は口を挟めずにごくりと唾を飲み込んだ。

「高官を賄賂で太らせるだけ。賄賂で太った高官は、自分の良い様に国を作り替えるのにお金を使うわけよ。愛国者に取っては、国をダメにする日本人が嫌われるわけよね」
「でも……」
「うん、でも?」

 意地の悪い目つきで梓の顔を覗き込み、美冬はテーブルに頬杖を突く。

「でもさ、それと戦争の道具を買うお金渡すのじゃ、違うだろ」

 自信なく言う梓を見つめていた目蓋を臥せ、美冬は微かな溜息を吐いた。

「私の家ではね、重工業や電子危機。最近はバイオにも手を出しているけど。兵器部品も扱ってるわ。日系の商社は、上得意よ」
「それが?」
「売るのは部品よ。現地で組み立てるまでは、ただの機械部品。組み立てれば、人殺しの道具。数カ所から分散して運び込めば、禁輸製品にも引っかからないわ。健全を掲げる日本商社の得意技、完全に合法。表向きだけわね」

 にやっと笑った美冬から眼を逸らしそうになった梓は、なんとか睨む視線を向けたまま、同じ日本人だからって自分が恥じる事はないと言い聞かせた。

「自分の責任じゃないって顔ね?」
「そうだよ。同じ国の人間だからって、みんながそうじゃないだろ。他の奴がしてるからって、おんなじ事して良いって理由にゃならないだろ?」
「でも、殺される側には同じよ。日本人が武器を売ったから死ぬのも、私が宝石を買ったから死ぬのもね。次いでに言うと。その利益でこの国は安全を守り、あなたは守られている。私は利益で、自分の会社を守っているわ。反論は?」

 グッと詰まる梓を睨み据え、美冬は口を閉ざす。
 梓はなにかが間違っている気がするのに、そのなにかが判らず唇を噛み締め、拳を握り美冬を睨み返しているだけだった。

「…ホント、梓って耕一に似てるわね」

 不意にクスッと笑いを洩らすと、美冬は睨む目元をなごませぽつりと洩らした。

「でも、耕一よりは修行不足かな。どう言えばいいのか、判らないんでしょう?」

 からかわれているような気がして、梓はグッと奥歯を噛み締め微かに頷く。

「誰かが止めなけりゃ、ずっとそのままじゃないかってね。そう言えば良いのよ。もっとも取り引きに応じなかったから、追い駆けられたんだけどね」
「えっ?」

 下から顔を覗き込みクスクス笑う美冬を茫然と見返し、梓は急に腹が立ってきた。

「な、なんなんだよ。それじゃあ、最初っからそう言えよな!」

 誤解させるような言い方をする美冬が悪いと決めつけると。

「買ったなんて言ってないわよ。梓が誤解しただけよ」

 美冬は楽しそうな笑い声を上げる。

 美冬が欲しかったのは安定したルートであって、取り引きに応じなかったのは、一度っ切りの取り引きで危険を犯すつもりがなかったからだ。
 梓の考える道徳上の問題点とは違う。
 しかし、梓がどう解釈して安心しようと、それは美冬が騙した事にはならない。
 純真でまっすぐな気性の少女をこれ以上悩ます必要もないだろうと、美冬は梓の間違いを是正はしなかった。
 梓より美冬の方が、三枚ぐらいは役者が上のようだ。

「まったく」

 確かに美冬が買ったとは一言も言わなかったの気付き。美冬に感じた嫌悪感が薄らぎ一息吐いた梓は、笑う美冬を横目にしてカップにジュースを注ぎ乾いた喉に一息に流し込んだ。
 生温かくなったジュースは、渇いた喉に粘りつくような不快感を残した。
 少し酸っぱさを増したジュースの苦みが口の中に広がり、喉を流れる液体は喉の渇きを癒さず、喉は更なる渇きを訴える。
 気持ちの悪い喉の渇きに顔をしかめた梓を見て、また笑う美冬の笑い声を背に、梓は冷蔵庫に向う。
 冷蔵庫の中身を見回した梓は、少し迷ってビールからミネラルウォーターのボトルに手を伸ばし、口直しにごくごくと飲み干した。
 冷たい水が渇いた喉を流れる壮快さに小さくほっと息を吐き、梓はもう二本ミネラルウォーターを取り出しソファに戻った。

「ありがと」

 差し出されたボトルを受け取り、美冬は軽く笑みを見せる。

「でも、恨み買ってる点じゃ一緒かな」
「なんで、武器の部品作ってるからか?」

 ボトルに直接口を付けて一口飲んだ美冬は、考えるように首を傾げ、梓の問いに首を横に振った。

「それは私の判断じゃ、どうにもならない。私もM&Aとか色々とやってるからね」
「M&…?」
「M&A。企業買収、吸収合併。平たく言えば乗っ取りよ」

 首を捻る梓にそう言い、美冬は目元で揺れる髪を片手で掻き上げた。

「二つほど小さな会社乗っ取って、今の地位を手に入れたわけ。そうしたら、馬鹿よね」
「馬鹿?」
「経営者がバン」

 美冬は指を顳かみに当てて見せる。

「馬鹿よ。死ぬぐらいなら、最初から経営になんか手を出すんじゃないわよ」

 美冬は感情の失せた瞳と顔でボトルに煽り、吐き出す息と一緒にソファに身を預けた。

「ま、そうは言ってもね。残された家族にとっちゃ、あたしは仇な訳よ。なにをとち狂ったのか、息子ってのが私を狙ってね。警察がうるさいのよ」

 梓はなんと言っていいか迷った。
 梓には、なんとなくだが、その息子の気持ちが判るのだ。
 実際に手を下していないにしろ、美冬のせいで人が一人、死んだのは事実で、それが家族なら梓にも許せないだろう。
 だが美冬の感情の失せた表情と瞳は、投げやりで馬鹿にした口調とは裏腹に自分を責めているように思えて、梓に自分の感情を言葉にするのを躊躇わせた。

「あ、あのさ」
「うん、なに?」
「警察って、その子なにかやったの?」

 暗くなった場に我慢出来ず、梓は恐る恐る尋ねた。

「ああ、二、三発撃たれてね」
「撃たれた……」
「ガードが怪我しただけ。私は無傷だから」

 心配してくれるの。と首をこくんと倒した美冬は、梓に薄く微笑み掛ける。

「なあ、どうしてだ?」
「梓。あなたの質問って、なにに対する答えを求めているのか、判り難いんだけど」

 上がりかけたまなじりを戻し、美冬は優しく言った。

 日本人全般に言えるのかも知れないが、故意か無意識にか質問の趣旨を曖昧に済ます傾向にあるのが、美冬をたまに苛付かせる。
 曖昧な質問に正確な答えなど期待出来ない。
 商取り引きに必要な駆け引きなら兎も角、相手の心中を察して言葉を濁すぐらいなら、最初から質問などしければいいのだ。しかし、それが文化の違いかも知れない、と美冬は嘆息を洩らした。
 少なくとも、梓が自分を気遣ってくれているのは本当らしい。

「ああ、ごめん。あのさ。軍隊に追い駆けられたり、撃たれるほど恨まれたりしてさ。美冬さん、辞めようとか思わないのか?」
「思わないけど なぜ?」

 死ぬ思いまでして仕事をしなくても。と思って聞いた梓のしかめた顔に返って来た答えは、不思議そうな問いかけだった。

「だってさ。普通のOLやってたら、そんな目に遭わなくていいんだろ?」
「だってね。私の家にはそれなりの力があるのよ。勿体ないじゃない」

 からかうように梓の口調をまねた美冬は、梓が眉を潜めると、ごめんと両手を合わせてにっこり微笑み、真剣な顔になった。

「望んでも手に入らない力が初めから在るのよ。私は自分の才能にも自信があるわ。それだけの努力もして来た。昇れる所まで、昇るつもりよ。梓は違うの?」
「えっ? あたし?」
「だって、梓だってお金持ちでしょ?」
「そう……らしいけどさ」
「梓の家って、平和なのね」

 問い返されキョトンと自分を指さす梓を不思議そうに見ると、美冬は盛大な溜息を吐いた。

 今は平和かもしれないが、その代償は姉妹四人に取っては余りにも大きかった。
 なにも知らない人間に、梓は呆れた様な溜息を吐かれる覚えはなかった。

 むっとした表情で梓は美冬を睨みつけると、美冬の瞳は鋭さを増した。

「耕一にしろ、梓にしろ。人が良いわ」
「なんなんだよ? さっきから奥歯に物の挟まった様な言い方でさ!」
「羨ましいなって、感心してるのよ。悪く取らないでね」

 軽く頭を振った美冬は両手を広げ、芝居がかった仕草で頭を下げる。

「耕一も梓も、千鶴から会社取ろうとか考えもしないのね」
「当り前だろ! なんなんだよ、それは」
「家なんか、骨肉よ。親戚中、足の引っ張り合い」
「あっ…」

 少し寂しそうな美冬の顔を見て、梓は耕一の話を思い出した。

(確か、親戚に疎まれてるって)

「耕一から聞いてるみたいね?」

 思い出した途端、気不味さに視線を逸らした梓を軽く一瞥して、美冬は不満げに鼻を鳴らした。

「まったく、あいつは…他の子は、知ってるの?」
「いや、どうかな。昨夜は、あたしだけだったけど」
「じゃあ。良いわ」
「あのさ、耕一も別に悪気はなかったと思うんだ。だからさ……」

 ぎこちない笑いで耕一を弁護した梓は、美冬の遮るように向けられた掌で言葉を切った。

「いいって。私もね、梓達の事を少しは知ってるから。ごめんね、親戚が耕一の身上調査して。あっ、書類はもう焼いたからね」
「身上調査?」
「うん、この事はみんなには内緒にね。私の事も。耕一には、私から口止めしとくから」
「内緒って、どうして?」

 額に手を置き唇を舌で湿らすと、どう言うべきか考え、美冬は少し眉を寄せた。

「誰だって、勝手に調べられるのはイヤでしょ? それに耕一からも口止めされてるしね」
「耕一も知ってるの?」
「まあ、謝らないと気分悪いしね」

 美冬が口元を手で押え決まり悪い顔をすると、梓は不承不承といった顔で頷く。
 隠し事は苦手なんだけどな。と頷いた梓の顔には書いてある。

「ま、さっきの話だけど。私が千鶴で、親戚が耕一や梓だと、私から会社取り上げようとするわね」

 あまり突っ込んで聞かれない間に美冬が話を戻すと、梓は複雑な表情で考え込む。

 今まで考えても見なかったが。梓は兎も角、耕一がその気なら出来るのかも知れないと梓は思った。

「家よりは、梓の所の方が簡単かもね」
「家って、美冬さんとこか?」
「そう。自慢じゃないけどね。私の所って世界中に支社があるから、今の私に動かせるのは、これぐらいかな」

 そう言いながら、美冬は人指し指を動かして見せた。

「指?」
「そう、私が自由に出来るのは指先だけ。全体を動かせる頭までは、まだまだ遠いの。鶴来屋の規模が個人で動かせる限界でしょうね」
「個人で動かす限界?」
「一人で全体を把握する限界って事よ」

 顔をしかめ食い入るように見つめる梓に、美冬は大きく頷いて返す。

「気になる?」
「まあ…ね…」

 梓は語尾を濁し、考え込んだ。

 耕一に経済を教えたという美冬に聞きたい事はあるのだが、話して良いのかどうかの判断が梓には付かない。

「ええと。じゃあさ、今の規模なら耕一と千鶴姉だけでもなんとかなるわけ?」
「いいえ。優秀な補佐がどうしても必要よ。それに守りに入った企業は弱いわ。成長し続けるのが企業が弱体化しない一番の方法だから、千鶴と耕一だけではいずれ手駒不足になるわ」

 迷いながらさりげなく聞いた梓に、得意分野の話に入った美冬は、キッパリと言い切る。

「あの、耕一にさ。美冬さんに経済習ったって聞いたんだけど」
「うん、そうよ」

 上目遣いに覗いた梓が聞くと。美冬はコックリ頷いて首を傾げた。

「どんな事教えたのかな?」
「経済全般、だけど」

 美冬は控え目に聞く梓を見やり、ふふっと笑う。

「聞きたい事があるなら、ハッキリ聞きなさい。大丈夫よ、秘密は守るわ。それに私の家は、観光には手を出してないし。耕一に嫌われたくないから、乗っ取ったりしないわよ」

 美冬に心中を見透かされ、梓はハハッとぎこちなく笑って頭を掻いた。

「じゃあさ。千鶴姉や耕一って、美冬さんから見てどうなのかな?」
「どうって? 経営者として?」

 またまたハッキリしない聞き方をする梓にほっと息を吐いた美冬に、梓はコックリ頷く。

「耕一は未知数ね。シュミレートでは優秀だけど、実戦となると経験不足でしょうね。千鶴は、理解不能」
「理解不能って、千鶴姉を知らないからって事か?」

 美冬は梓を見据え、ゆっくり首を横に振る。

「いいえ。経営者が代われば、経営方針も変わる物なの。だけどね」
「だけど、なんだよ?」
「変わってないのよね。千鶴が会長になる前と後で、経営方針に変化がないわ。前会長の方針を受け継いだだけ」

 急激な経営方針の変更は社内の混乱の元だ。だが、美冬が会って話した限り、千鶴が前会長の方針を受け継ぐしかない凡才とは思えない。
 まして前会長と千鶴では、社内における立場に雲底の差がある。
 なのに何ら手を打っていないのは、美冬には信じられない事だった。

「あのさ。あたし素人だから、簡単に言ってくれるかな」
「う〜ん。私なら反対派を首にして、首脳陣を入れ換えるって事だけどね」
「首って、そんな簡単に出来ないだろ?」

 梓は苦笑しつつ反論したが。

「出来るわよ。私の見た資料じゃ、信じられないけど鶴来屋は千鶴個人の所有物よ。千鶴に反対出来る人間なんて皆無だもの」

 美冬は片手を振って一蹴した。

 耕一には個人情報しか見せていないが、焼却した書類には、鶴来屋の経営状況から株式配分、公開非公開を問わず集められる限りの情報が揃っていた。
 それらから読み取る限り、どう考えても鶴来屋の経営体勢自体が、美冬には不可解だと思える。
 規模、実績とも一部上場を果しておかしくない企業が、株式非公開で個人に株を集中している。
 会社の付加価値として信頼指標となる一部上場を目指すのが普通だというのに、鶴来屋の株式配分は旧体以前で、会社規模と経営形態がマッチしていない。
 株式を非公開にし株の散逸を未然に防ぐのは、M&Aを避けるには有益だが。逆に一個人に集中しすぎるのは、トップの独善による経営を進める結果にも成りかねない。
 例えるなら絶対君主制に近い。
 王が優秀ならいいが、無能なら簡単に潰される。
 しかし、今の千鶴の状況では、それが強みにもなる。

「株を持っていない重役なんて、どうにでもなるわ。適当な理由をつけて追い出しゃいいのよ。でも、日本じゃ無理かな」
「日本と美冬さんトコじゃ違うのか?」
「まあね。欧米は完全に契約社会だからね。求められる能力がなけりゃ、終わりなんだけど。東洋は難しいのよ」

 額に手を当て、もう片手をヒラヒラ振り、美冬はしばし考え込んだ。

「何て言うか、感情が優先するのよね。義理とか人情だとか。こっちが有利な条件を提示しても知り合いだからどうとか言って、契約しなかったりね。能力もないのに役職に就いてるのが、重役の息子だからとかいう理由なんだから。仕事をなんだと思ってるのか、頭が痛くなるわ」
「そっちじゃ違うの?」

 そう言われても、コネがないと就職出来ない話を日常的に雑誌が流しているのを目にする梓には、良く理解出来なかった。
 言って見れば、千鶴も世襲で会長になったのだから、梓にしてみれば家の仕事を家族が手伝うのは当然だと思っていた。

「半分はイエス。半分はノー」
「なんだよ、それ?」
「能力がないとね、社長の息子だろうと周りが黙ってないの。そんな息子を会社に入れたら、社長も無能呼ばわりされるわ。だけどそれなりに能力があって実力者の息子なら、他の人より優遇されるわ。実際、家の親族も馬鹿が大手を振って居すわってるしね。私が実権を握ったら、一番に首にする連中だわ」

 嫌そうに顔をしかめ、美冬は身も蓋もない言い方をする。
 梓は親戚を馬鹿呼ばわりして顔をしかめる美冬を前にして、本気で親戚嫌ってるんだなあ。と、妙な感心をしてしまう。

「役員の半分も首切ちゃ不味いのは判るんだけどね。内部の反感も高まるだろうし、後任の教育も直ぐには無理。でも、二、三人見せしめにすれば良いだけなのにな」

 美冬は真剣に首を捻った。
 役立たずの重役を三人ぐらい見せしめにすれば、表だって歯向かう役員はいなくなる筈。
 千鶴に、それ位の計算が出来ない筈がないのだが。

 実は、美冬は耕一が鶴来屋を手に入れようとしているのではないかと考えた事もあった。
 千鶴に関する書類からは、耕一がそう考えてもおかしくないだけのものが読み取れた。
 経済知識を求める耕一の態度も、美冬にはその方がすんなり納得出来た。
 親戚の間での利益争いは、そう珍しくもない。
 その為、つい先頃までは、千鶴が無能なのだろうで済まし、あまり考えてみた事がなかったのだ。

「梓には悪いけど。どうも、良く判らないわ。千鶴が優秀なのは確かだけど。今一つ、掴み所がないわね」

 軽く眼を臥せて梓に謝罪しつつ、美冬は溜息を吐いた。

 千鶴が悪い人間でないのは確かだ。
 悪い姉に育てられた妹が、こうも素直で真っ直ぐな気性に育つわけがない。
 実際に会って話した千鶴の印象も、美冬にそう告げている。
 しかし、耕一の事で探りを入れて来た時の千鶴。素早く美冬の仕事上の無関係を受け入れた千鶴。
 そして、耕一の前では子供のような千鶴と、短期間に美冬に違う顔を見せた千鶴のどれが真実か、掴み兼ねる所がある。
 そして。
 美冬は浮かび掛けた考えを、首を振って払い除けた。
 今朝の事は忘れると約束した以上、それは考慮には入れない。

「なにか、前会長の方針に拘りがあるのかな?」

 不利益しかもたらさない反対派を野放しにする理由が、美冬にはそれ位しか思い付かない。

 実に馬鹿馬鹿しい理由だが、前任者と苦労を共にした部下を切り捨てられない人間もいる。
 そんな人情論で、美冬には敵を子飼いにする趣味はないが。

「前会長って叔父さんだろ? 千鶴姉が仕事教わったの叔父さんだからさ、それでじゃないの?」
「でもね。状況が変われば、臨機応変は当然なのよ。ね、叔父さんって、どんな人だったの?」
「どんなって。そうだな、父さん見たいに頼り甲斐があってね、優しい人だったな。一緒にいると安心出来てさ。ちょと耕一に似てんだけど。あ、耕一には内緒な、あいつすぐ図に乗るからさ」

 仕事上の事を美冬は聞いたのだが。梓はそんな事には気づかず照れ臭そうな自慢顔で答える。

「お父さんね……まさか、千鶴ってファザコン?」
「ファザ…ハハッ。ま、そうかもね」

 クツクツ笑いながら相槌を打つ梓を他所に、美冬は顎に指を置き眉を潜めた。

 急成長した企業の二代目三代目が会社を潰すのは珍しくない。
 理由は甘やかされた末の放蕩や、才能が受け継がれなかった為などもあるが。他に先代の偉業を過大評価してプレッシャーに潰されたり。成功した方針に拘るあまり社会変化に対応仕切れなかった場合もある。
 叔父を過大に評価した千鶴が、叔父の経営戦略から抜け出せないのなら、鶴来屋が同じ道を辿る可能性は十分にある。

「耕一がいるか」

 ウ〜ンと一つ唸り、美冬は余計な心配だな。と考えを打ち切った。
 自分が教え込んだ耕一が、千鶴の間違いを正せないほど甘くもないだろう。

「へっ? 耕一が、どうかした?」
「ううん、なんでもない。でも梓、気にしてるのは千鶴と耕一の事? それとも自分の将来?」

 オブザーバーの立場に戻り、美冬は話を逸らした。
 答えは梓が見つけなければ意味をなさない。情報と自分の考えは説明した、後は梓自身が考えれば、良い。

「どっちもかな。あたしに役員にならないかって言うんだけどさ」
「自信がない?」

 さりげなく話を変えられた事にも気づかず、重い溜息を吐く梓にちょとした失望を感じながら、美冬は問い返した。

 あまり深く物事を考えるタイプではないようだ。
 梓の様子では、話を逸らされた事にも気づいていないだろう。

「名前だけだって言うんだけど。足立さんが耕一に持ってきた話だし、あたしより耕一がなった方が良いと思うんだけど」

 自信がないとは認めず。梓は意見を求め、美冬に上目遣いに迷った瞳を向けた。

「足立さんって、確か社長さんだっけ? じゃあ、耕一が梓に?」
「うん、そうらしいけど」
「大学入った所でしょ? 時期が早いわね。急ぐ理由は聞いてる?」

 美冬は眉を潜め考える顔つきになった。

 梓はまだ役員にするより、じっくり大学で勉強させた方が良い状態だ。
 人の言葉に潜んだ裏を考えられるほど、すれているとも思えない。役員になっても周りに翻弄されるだけだ。
 大学で人間関係の機微を学ぶ段階の筈だが。耕一が気づいていないとも思えない。
 なにか急ぐ理由が在る筈だった。

「役員の席が空いてるんだって。穴埋めらしいけどさ」
「穴埋め?」

 穴埋めの役員など百害あって一理無し。
 身内を引き入れた千鶴の評価を下げるだけだ。
 ますます美冬は難しい顔になる。

「耕一と千鶴の関係って、公表されてる?」
「公表って。婚約ってこと? まだだけど」

 小さく頷いた美冬は、梓の答えに満足げな微笑みを浮べた。

(きつい事を。流石は、私の教え子ってトコね)

 美冬には耕一の考えが読めた。
 だが、梓には荷が重そうだとも思った。
 才能云々より、性格上の問題だ。

「ま、せっかくのチャンスだし。役員なんて、なりたくてもなれないわよ。なっちゃえば?」
「そんな簡単に言うなよな」

 散歩にでも出掛ければ。と言うような美冬の気楽な言い方にカチンと来て、梓は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「なるのは簡単でしょ? 立場を維持するのは難しいけどね」

 ふふっと梓のしかめっつらを見て笑い。美冬はちょと意地の悪い笑みを添えて見せた。

「やっぱりそうなのか?」
「企業を経営するのって難しいし汚いからね。清廉潔白でいられるほど、経済戦争は甘くないわよ」

 心配顔の梓に真剣な瞳を向け、美冬は忠告とも脅しとも取れる言葉を口にする。

「さっきの話だけど、負ければ自殺する人だっているわ。勝つって事は、そうやって踏みつけにした人の上に立つって事よ。イヤならOLでもやって、大人しく結婚するのが一番良いわ」
「はぁ〜。みんな上手く行く方法ってないのかな?」
「ないわ。きついようだけどね。あなたの所だって、お爺さんが乗っ取りやって大きくしたらしいじゃない。今のあなたの生活って、そうやって踏みつけにされた人達の上に成り立ってるのよ。あなたも良く知ってる筈だけど?」

 微かに首を傾げた美冬は、挑むように梓を見据えた。

「あたしが知ってるって?」

 美冬の瞳に不快感を覚え、持ち前の負けず嫌いが頭をもたげた梓も、美冬を睨み返す。

「乗っ取り、仕掛けられたんでしょ?」

 美冬の一言でカッと頭に血が上り、梓はグッと唇を噛み締め唇を戦慄かせた。

 美冬は、梓が思い出したくもない禁忌に触れた。
 誰も助けてくれない不安。
 不正な嫌がらせに、妹はおろか自分すら守れない無力と屈辱。
 幾ら時間が経っても、子供の時に感じた屈辱感と嫌悪感は消えはしない。

「同じ思いをしたくないなら、力をつける事ね。私は、あなた達に同情はしないわ。あなたのお爺さんに乗っ取られた会社の人も、同じ思いを味わった筈だから」

 梓の様子に頓着せず、美冬は冷たく言葉を継いだ。

「……違う。あれは、そんなんじゃない!」

 ギリッと噛み締めた奥歯の嫌な音を聴きながら、梓は呻くような声を振り絞った。

「違わない。会社を奪われ、社会の底辺に追いやられた家族にとっては同じよ。一家心中しなかった家族がいなかったと言える? あなた達を恨みながら死んだ人間が、いなかったと言い切れる?」
「なに言って……じゃあ、あんたはあいつらが正しいって言うのか!!」

 睨み付ける梓の眼光の微かな揺らぎを見つめ、美冬は平静に言葉を紡ぐ。

「確かに彼らのやり方はルール違反で最低だけど、狙いは正しいわ。これは戦争なのよ。敗者に正義は存在しない。勝たなければ、なにも守れないわ。私を撃った男だけど。彼にしてみれば、あなた達に乗っ取りを仕掛けた連中と、私は同じよ」
「そんなのって……」
「梓、あなたは真っ直ぐ過ぎるの。出来るなら、経営に手を染めない方が良いわ。傷つくだけよ」

 言いすぎたと軽く息を吐き出し、梓から視線を逸らした美冬は、優しく言い聞かすように言う。

 美冬が置き去りにしてきた正義感や実直さを、なんのてらいもなく体で表現する梓を見ていると、つい言い方がきつくなる。
 自分の無くした純粋さを妬んでいるのか?と、美冬は軽く唇を噛んだ。

「あ、…あんた……」
「あなたの生活は水準以上の筈よ。限られた者の裕福な暮らしは、その下にあまたの人達の犠牲があって支えられている。人の上に立つって事はね、そういった人の恨みや妬みを受けながら、自分が守る物を守り抜くってことよ。全てを守る事なんて出来ないわ。確固とした信念と犠牲を払う覚悟が必要よ。それが出来ないなら、やめておきなさい」
「耕一や千鶴姉は違うのか? それが出来るって言うのか?」

 美冬に反発を覚えながらも、梓は美冬の横顔が千鶴の悲しそうな顔と重なり、萎えた怒りを訝しがりながら問うた。

「出来るわね。二人とも、自分自身より大切な物がある見たいだから」

 梓に答えながら、不意に美冬は耕一に経済を教えたのが間違いでなかったか、不安を覚えた。
 耕一なら権力や物欲の虜になる事はないと思っていた。だが、平凡なサラリーマンで終わった方が、耕一には幸せだったのかも知れない。
 美冬と出会わなければ、平凡なままでいられたのかも知れなかった。
 人を踏みつけにするには、彼は優しすぎる。

「耕一や千鶴姉に出来るなら、あたしもやるさ」
「そう。なら、これだけは覚えておいて」

 梓の押し殺した声を耳に入れ、美冬は微かな残念さを覚え息を吐いた。

「自分を大事にしなさい。人は自分の意思でしか生きられない。自分の行動は、自分で責任を持つしかないわ」
「当然じゃない」

 当り前の事を大切そうに言う美冬に眉を潜めた梓は、スッと顔を動かして見つめる美冬の真剣さに息を潜めた。

「当然だけど、それを判っていない人が多いのよ。失敗すると他人の所為にしたがる。情に流されようと、人がどう言おうと、最後に決めるのは自分自身。他の人の意見は参考でしかないわ。なにが正しいか、それは自分で見つけるしかないのにね」
「自分で考えろってか? 耕一にも言われたよ」

 耕一に教えたのが美冬なのが納得出来る言葉に、梓は苦笑を洩らす。

「ええ。人は自分の考えを中心に物事を考える。他の人から見て正しい事が、私にも正しいとは限らない。でも、周りに流されずに自分で判断して行動するのは、現実にはとても難しい事なのよ。後悔だけは、しないようにね」

 お節介が過ぎたと思い、美冬は小さく息を洩らした。

 人の事情にここまで踏み込むのは、耕一以来だった。
 なにか梓を見ていると、危なっかしくてつい放って置けなくなる。

「ああ、判った。良く覚えとくよ」

 一つ頷き、梓は普段は気さくで、真剣な話の時は無表情になる美冬が、耕一と千鶴に似ているのにその時になって気が付いた。
 美冬の話に反発を感じながら、奇妙な親近感をも感じていたのは、その所為かも知れない。

「なあ、美冬さん。どうしてあたしに親切にしてくれるの? 耕一の従姉妹だから?」
「親切ね。かなり嫌われる、きつい事を言った筈だけどね」

 苦笑を浮べながら、美冬は意外に思った。
 梓の気性なら、怒っていても不思議ではない筈だった。だが、いつの間にか、あんたがさん付けに戻っている。

「まあ。でも…美冬さんだってさ、恨まれてる話なんかしたくない筈だろ?」

 ちょと言い難そうに眼を逸らす梓が可愛く見えて、美冬は肩の力を抜きボトルに口を付けた。

 満更、梓も考えてないわけじゃない。考えが感情に追い付いてないだけのようだ。と美冬は梓を見直した。
 感情が先走って、思考を言葉にまとめる前に行動してしまうタイプなのだろう。梓の年齢なら当然でもあるし、経験を積む間に治る程度の欠点だった。
 話の途中で怒鳴り散らして追い出さない自制心も、持ち合わせている。
 最後まで話を聞くだけの度量もある。
 耕一が後々どうするつもりか知らないが、教育方法さえ間違わなければ、世話好きな良い上司にはなれる。
 美冬は梓の評価に少し修正を加えた。

「私が自殺に追い込んだのは事実だからね。事実は受け入れるわ。どんな非難を受けようと、それを選んだのは私だもの」

 ボトルをテーブルに戻し、美冬はクスッと笑う。

「梓に構うのは、出来の悪い妹を教育するみたいで楽しいからかな」
「出来の悪い?」
「うん。巫結花は出来がいいから、教える事ないしな」

 ぶっと膨れた梓の頬を楽しそうに指で突き、美冬はころころと笑う。

「どうせ出来が悪いよ」
「ごめんね。硬い話はこれぐらいにして。ね、梓、ちょと付き合わない?」
「付き合うって。巫結花ちゃんは?」

 美冬は、うふふっと妖しく笑って腕の時計に目を走らせ、こくんと首を倒し梓の瞳を覗き込む。

「もうすぐお昼だしね。今日巫結花の行くところは、私も一緒じゃない方がいいのよ」
「でも、耕一も千鶴姉もまだ帰って来ないしさ」

 ちょと拗ねた様な寂しそうな上目遣いで言う美冬の仕草に、梓はなにか嫌な物を感じて腰を引いた。

「良いわよ。どうせ二人でいちゃついて、時間なんて忘れてるのよ。楓がいるんでしょ? フロントに伝言残しても良いし。梓ちゃん、付き合ってよ。お願い」
「あっ、梓ちゃん?」
(まさかだよな。美冬さんノーマルだよな)

 両手を組んで潤んだ瞳を向けられた梓は、思わずかおりを思い出し、頭を振って絶望的な想像を振り払った。
 かおりの性癖に美冬の頭の切れが加わったら、梓に逃げ道はない。

「一度でいいから、私に似合いそうもない可愛い服とか選んでみたかったのよね。巫結花って、人混み嫌いだから買い物付き合ってくれないのよ」

 梓の狼狽を他所に、美冬は嬉そうに梓を上から下まで眺め回す。

「ちょ、ちょと待ってよ。まさかそれって?」

 いやます嫌な予感に梓の腰が引ける。

「梓って綺麗だけど、ちょと服装が地味よね。明るいフレアスカートとかどうかしら? それとも、健康的にミニで決めたい? スタイルがいいから、体のラインを強調するのがいいかな」
「あ、あたしはそんなの!」
「大丈夫、任せなさい。お化粧もばっちりして、男の子の目を釘付けにするように仕上げて上げるから」

 梓の悲鳴の様な声を遮り、美冬は鼻歌混じりで梓の腕を掴むと扉に引きずって行く。

「で、でもさ。あたしお金持ってないよ」
「あら、プレゼントよ。誘ったんだから当然でしょ」
「当然じゃない!!」

 ずるずる引きずられる梓の叫びも虚しく、梓は二日続けて着せ替え人形を演じる羽目になった。

五章

七章

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