五の章


 公園を出て道路を横切り、ホテルへと帰る浜辺を歩きながら、三人の姉妹の間に声はなかった。
 ただ無言で歩く。
 前を歩く妹達が繋いだ手をぼんやり見ながら、梓は後ろから着いて歩いた。

 初音に元気がないのを、自分が起こした一連の騒動のショックだと梓は思っていた。

 初音に謝り慰めるには時間が経ちすぎ、元気に明るく振舞うには、梓自身が疲れていた。
 頭にぼんやり霞が掛かり、重く濁った心が体を重くする。

 梓の黒く濁り沈んだ心の底で、チロチロと燃える炎が精神を蝕む。

 何故なのかが、梓にも判らない。

 悪いのは自分の筈なのに、耕一を見ると炎が冷たく胸を焼く。
 重く暗い闇が舌を伸ばす。
 その闇から、なにかが這い出すように胸を掻き毟り、自分が自分でなくなるような不安感に苛まれていた。

 三人はホテルの部屋まで無言で通し、梓はソファに崩れるように座り込んだ。
 初音をソファに座らせた楓は、電話を掛けるとすぐソファに戻り。初音を安心させるように、その小さな手を握り直す。

 しばらくすると、扉を叩く音がした。
 楓が立ち上がり扉を開けると、ボーイがワゴンを押して入って来る。
 楓がワゴンを部屋に入れたボーイを下がらせるのを、ぼんやりした瞳で眺めていた梓は、のろのろと身体を起こした。

 ワゴンには簡単な朝食が載っていた。
 トーストとサラダ。スクランブルエッグにフレッシュジュース。
 普段の梓なら、食事とも呼ばないだろう。

 楓が朝食を頼んだを知って、習慣で体が勝手に動いたのかも知れない。
 それとも、体を動かす事で気分を晴らそうとしたのか、梓自身にも判らない、無意識の行動だった。

 楓を手伝い朝食をテーブルに並べ、三人は少しずつ食べ始めた。
 あまり欲しく無さそうにしていた初音も、楓に勧められるまま、少しづつ食べ始める。
 食欲の無さを胡麻化すようにスクランブルエッグをフォークで突いて、梓も口に運ぶ。
 食事というより、栄養を補給するだけの行為。

「梓姉さん、初音にも話して置こうと思うの」

 先に食事を済ませた楓が、唐突に沈黙を破った。
 租借するようにトーストを齧っていた梓は、いきなり切り出した楓を驚いて見上げた。

「楓?」

 両親と叔父の事かと思い梓は眼を瞬き、楓は微かに首を横に振る。

「美冬さんと千鶴姉さんのことだけど」

 ほとんど朝食に手をつけず、ジュースだけを飲んでいた初音は、手を止めて楓を窺うように見上げた。

「…聞いてたのか?」

 梓の絞りだすような声に頷くと、楓は初音に視線を移す。

「途中からだけど。でも初音も、もう子供じゃない」
「…そう…だな。いつまでも、子供じゃいられないよな」

 小さく嘆息した梓も自分自身にしっかりしろと言い聞かせながら、初音を見てそう言った。

 いま考えなければならないのは、自分自身でも訳の判らない落ち込みより、初音の気持ちの方のだった。
 初音は、人を踏みつけにするには優しすぎる。

「千鶴姉と耕一は、知ってるのか?」
「任せてくれるって」

 千鶴達が任せたのは少し意味が違うが、楓は自分の判断にしたがった。

「そっか。…どっちにしろ、美冬さん達の事は話さなきゃな」
「…あの、お姉ちゃん?」

 二人だけで頷き合う姉達を窺いながら、初音は躊躇いがちに声を掛けた。

「初音、さっきの事だけどさ」

 口を開きかけた楓を手で制止して、梓は初音に話しかけた。

「う、うん」
「美冬さんにも巫結花ちゃんにも、今後一切、あの話はするなよ」
「で、でも。梓お姉ちゃん……」
「鬼を知られちゃいけないんだよ!」

 梓の荒くなった声音にビクッと肩を竦めた初音は、上目遣いに梓を窺う。

「ごめん、あたしが悪いんだ。放って置きゃよかったんだ。でも初音、もう忘れるしかないんだ」

 抑えられず声を荒立てた恥ずかしさと、怯えたように見る初音の瞳から逃げるように視線を逸らした梓が言うと。初音は心配そうな瞳を梓に向け、プルプルと首を横に振る。

「そんなのおかしいよ。梓お姉ちゃんは悪くないよ。美冬お姉ちゃん、助けようとしただけで……」
「ダメなんだよ。力を使っちゃ、助けても助けたことになんないんだよ」

 テーブルを睨んだ梓は抑えた声で初音を遮りそれだけを言い。ジュースの入ったグラスを掴みグッと飲み干し、大きく息を吐き出す。
 なんとか興奮を抑えようとする梓から、初音は助けを求めるように戸惑った瞳を楓に向ける。

「初音、落ち着いて良く聞いてね」

 初音の瞳を楓はジッと見つめ、楓は 口を開いた。

「…うん」

 楓の真剣な瞳を見つめ返し頷く初音を見ながら、無理もないと楓も思う。
 まだリネットの記憶が蘇って僅かの時間しか経っていない。初音も全てを思い出したわけではないのだろう。

「美冬さんや巫結花さんが忘れてくれなかったら。私達は…彼女達を…」

 ただならぬ真剣さに胸の前で握った拳を固くする初音の二の腕を握り、楓は一度固く眼をつぶり高鳴る鼓動を抑えた。

「殺すしかない」

 楓の開いた瞳に、大きく眼を見開きジッと見つめ返す初音の息を飲む顔が大きく映っていた。

「…それしか…ないの」

 細かに震える初音の腕を強く握り、楓は自分に言い聞かせていた。

 自分一人で済むならいい。
 だが、姉や妹、耕一までを巻き込む禍の種をそのままにしては置けない。
 無慈悲でも身勝手でも、禍の種は、芽になる前に摘み取る。

「…そんな、…どうして?」

 初音は信じられないものを見るような瞳で、楓に弱々しく首を振る。

「初音、判る筈よ。鬼が人の中で生きて行くには、鬼の力を知られてはいけない」

 冷たく聞こえるだろうと思いながら、楓は感情を殺し言う。

「あっ」

 初音は小さな声を洩らすと、顔を臥せ肩を振るわせた。
 楓に言われた言葉に多くの瞳が初音に脳裏に浮かんでいた。

 憎しみに燃える瞳。
 蔑みと憎悪に濁る、恨みの瞳。

 リネットに向けられた多くの人々の瞳。

 両腕で自分の体を抱き締め、止められない震えを抑えようとぎゅっと両肩を握り締めた初音は、戦慄く唇を噛み締めた。

 信じたくない言葉。
 信じるしかない言葉。

 どんなに否定しようと、耕一が巫結花に向けた殺意が真実だと初音に教えていた。
 次郎衛門の憎悪に満ちた殺意とも、エルクゥの歓喜に震える殺意とも違う。
 耕一の悲しみと確固とした決意に満ちた殺意。

 しかし、リネットは認めても初音の人の部分はそれを認めようとしない。
 自分達が人として生きるために、人を殺す。
 それでは、なんら鬼と変わらない。
 生まれ変わっても、変わらない宿命。

 人の倫理と現実が千千に入り乱れ、止めようとしても止まらない涙で、初音は小さくしゃくり上げていた。

 変わることのない宿命が悲しいのか、それを理解出来る自分自身を悲しんでいるのか、初音も判らなかった。

 楓は初音の肩を引き寄せると、震える頭を胸に抱き寄せ、そっと髪を撫でた。

「初音。そうならないように、力を使わなければ良いの。美冬さん達も忘れるって言ってくれたから。だから大丈夫だから」

 初音は上目遣いに楓を覗き弱々しくコクンと頷くと、少し安心したように体の緊張を解き楓の胸に顔を埋めた。
 テーブルを睨んでいた梓は、胸に抱いた初音の髪を撫でる楓が、安心した初音の様子に微かな安堵の息を吐いたのに気づかなかった。

 初音が気づく事を、楓は恐れていた。
 自分達がリネットと次郎衛門の子孫であるという事。
 それは取りも直さず。今に続く柏木の宿命が、リネットと次郎衛門によってもたらされたという事だった。
 耕一が味わった苦しみを、初音には味あわせたくはない。
 いずれ気づくにしても、今は余りに多くのショックを初音は受けすぎていた。

「…ごめん、初音。あたしが、馬鹿だったんだ」

 テーブルを睨み圧し殺した呟きを吐き出した梓に、楓は小さくシッと唇に指を当てた。

「…楓?」
「寝てる」

 怪訝な表情を上げた梓に向い、楓は囁きを返した。
 眉を寄せた梓が初音を窺うと、確かに初音から微かな寝息が聞こえて来る。

「梓姉さん。初音をベットまで運んでもらえる? お願い」
「あっ? ああ」

 急に眠り込んだ初音を訝し見ながらコクコク頷くと、梓はそっと初音を抱き上げ、しげしげとその愛らしい寝顔を見つめた。

「ジュースに睡眠薬を、ちょと」

 訝しげに初音の寝顔を覗く梓にそう言うと、楓はさっさと先に立ってベッドルームの扉を開けた。

「…睡眠薬? 大丈夫なのか?」

 妹の素早さに呆れながら、梓は心配そうに初音をベットに運び、そっとシィーツを胸元まで引き上げる。

「即効性だけど、短時間の物だから。大丈夫」
「でも、クセになるんじゃないのか?」

 初音に害のある物を楓が使うとは思わないが、余りにも早く寝ついた初音を不安そうに見て、梓は尋ねた。

「梓姉さんって、古い。今の睡眠薬は色々なタイプがあって、使い方次第なの。後遺症や習慣性はないわ」

 心外そうに眉を潜めた楓に見られ、梓はぼりぼり頭を掻くと大きく肩で息を吐いた。
 そんなの知ってる方がどうかしてるだろ。と、梓は内心で毒づいていた。

「楓。まさか、あたしのジュース……」
「ううん。初音、きっとあのままだと眠れないだろうし。余程疲れていたのね。思ったより早く効いたみたい」

 ハッと思い付いて梓が聞くと、楓はゆるゆると首を横に振って説明した。

「取り合えず、戻りましょう。初音は、しばらくは起きないわ」
「…うん」

 自分のジュースに睡眠薬が盛られていなかったのに安心したのと、平気で睡眠薬を使う妹がなんとなく怖くなって、梓は素直にコクンと頷いて楓の後に続いた。

 初音がショックを受けすぎないように、楓としては万が一を考え眠らせただけなのだが。事情に明るくない梓が楓の取った処置を、やりすぎだと受け取っても仕方がなかった。

「梓姉さん、さっきの話だけど」

 ソファに戻った楓は、梓が正面に座るのを待って口を開いた。

「うん? どっち?」
「千鶴姉さんの話。最初から聴いてなかったから…」

 意図的でないにしろ結果的に盗み聞きした形の楓は、頬を染めて梓から視線を逸らす。

「うん。それがさ……」

 一瞬、話して良いか躊躇った梓だが、楓の意見を聞いてみたくて、ぽつぽつと千鶴との話を語り出した。

「…そう」

 梓の話を聞き終えた楓は、唇に指を当てると軽く目蓋を閉じ、考えを巡らせた。

 ホテルに着いた夜、千鶴が弱音とも取れる話を聞かせたのを訝しく思っていた楓は、なんとなく千鶴の気持ちが判った気がした。だが、二、三、附に落ちない点もあった。

「楓が前に言ってただろ? 千鶴姉が器用だけど不器用ってさ、そう言う事なのか?」
「簡単に言えばね」

 梓の問いに思索を中断した楓は、顔を上げた。

「でも梓姉さんには、千鶴姉さんが、どうしてそんな話をしたかを考えて欲しいの」
「どうしてって。そりゃ、あたしがあんな馬鹿な真似したからだろ」

 真剣な深く澄んだ瞳に見つめられて、梓は居心地の悪さに身動ぎしながら、視線をテーブルに落とした。

「耕一さんも千鶴姉さんも怒ってない。もちろん私だって。だから、千鶴姉さんは話したの」
「怒ってくれた方が、まだマシだよ」

 ふっと息を吐いた梓は、ソファにもたれ力なく首を横に振った。

 あんな話を聞かされるぐらいなら、まだ一時間でも二時間でも怒られる方がマシだった。
 今まで姉の見せていた笑顔や優しさが、作った物だと言うなら。姉のなにを信じたらいいのか、梓は判らなくなりかけていた。
 半年前の梓なら、間違いなく千鶴に食って掛かっていただろう。

 惚けた仕草や失敗。
 千鶴の向ける穏やかな眼差しや、こまごまな事で言い合った日常の暮らしは、一体なんだった?
 それも全部、計算された演技なら。
 姉の――千鶴の本心はどこにある?
 なにを信じればいい?

 しかし、今の梓には、姉を非難出来ない。
 作られた物でも、姉の優しさやおおらかさが、自分達を守って来た事を知っている今では……

「梓姉さんは、柳さんに殴り掛かった後。どうするつもりだったの?」
「後か? 一発食らわせて、美冬さんと初音を連れて逃げる気だったけどさ」

 質問を切り替えた楓に答えると、楓は梓を見つめたまま、こくんと頷いた。
 気のせいか、梓には楓が自分の答えに満足していつように見えた。

「私もそうする。多分耕一さんも」
「でもさ……」
「姉さん」

 結果は皆を苦しめただけだと抗弁しようとした梓は、楓の真剣な瞳に見つめられ、じっと見つめ返した。

「姉さんは間違ってない」
「楓?」

 慰めと言うには余りに強い楓の口調に、梓は眉を潜めた。

「間違ってないの。だから、放って置けば良かったなんて、言わないで」

 怒ったように真剣な表情で見つめてくる妹を見つめ返し、梓は数瞬考え、

「千鶴姉があんな話したのと、なにか関係があるのか?」

 もたれていたソファから身を起こした梓が問い掛けると、楓は視線を落して逡巡して口を開いた。

「条件が同じなら、私も耕一さんも梓姉さんと同じ事をしたと思う」
「……楓と耕一?」

 その時になって、梓は楓が千鶴だけを別にしているのに気が付いた。

「…千鶴姉は助けない?」
「私達か耕一さんが襲われていたら、千鶴姉さんは迷わず助けてくれる。でも、他の人なら…たぶん」

 梓は、わけの判らない不安感に襲われていた。
 楓の言わんとしている事がなんなのか。
 早く聞かなくてはいけない焦燥と、聞くことを否定して耳を塞ぎたいような二つの苛立ち。その狭間で、胃の辺りが重くむかむかしていた。

「間に合わないのが判っていても、千鶴姉さんは初音と一緒に人を呼びに行く」
「それ……間違ってるのか?」

 聞かなくても判っている答えを、梓は否定を求めて楓に発した。

「知り合いを助けられる力があるのに見捨てるのは、正しいの?」

 楓は努めて平静に答え、梓は黙り込んだ。

 殺されそうな知り合いを見捨てるのが、正しいとは梓には言えなかった。
 救う力がないなら仕方ないと胡麻化しも出来る。しかし、梓達には救う力があった。
 禁じられた力でも、人の命と秘密を天秤に掛ける計算は、梓には出来なかった。
 それが青臭い正義感でも、安っぽい英雄願望だとしても、見捨てるのが正しいとは言えなかった。

「梓姉さんは、先に美冬さんを助けることを考えた。でも千鶴姉さんは、先に秘密を守る事を考える」
「楓…」

 口を閉ざした梓に言い聞かせるように、楓は淡々と話した。

「千鶴姉さんを非難してるんじゃないの、事実を言ってるだけ。どちらが正しいのか、私には判らない」
「あたしにも、判らないよ」

 心の中に沸き上がる義憤を抑え、梓は額を両手で抑えた。

 秘密が大事なのは判るが、知り合いの命が掛かった場面で、冷静に考えて見捨てることは、梓には卑怯な行為にしか思えない。
 だが、それを素直に口にするのは、同時に千鶴を非難する事にもなる。

「なんでだ。じゃあ、なにが正しいんだ? 人の命より、秘密の方が重いんなら……」

 どうして、こんな力を持って生まれてきた?
 なんの役にも立たず、両親や叔父の命を奪った力。
 何故自分達が、こんなに苦しまなくてはいけない?

 梓は噛み締めた唇の奥で、声を噛み殺した。

 口には出せない。
 大声で喚けば少しはスッとするかもしれない。だが、姉が苦しみながら耐えた枷を、自分が大声で妹に喚き散らす事は、梓のプライドが許さなかった。

 声に出せない胃の腑を重く締めつける不快感が、梓の体から力を奪い、更に不快感だけを強めていった。

「誰にも判らない。でも千鶴姉さんは、梓姉さんの正義感も、一本気なところも好きなの。私も耕一さんも。もちろん初音もそう」

 ガックリ項垂れて荒い息を吐く梓を不安げに見つめ、楓は言葉を継ぐ。

「梓姉さんに計算ずくで行動するようになって欲しくないから、千鶴姉さんは話したんだと思うの」
「でもな、楓。あたしが考えなしだから、迷惑ばっかり掛けてさ。あたしどうしたらいいんだよ。もう判んないよ」
「考えてないのと計算高いのは違う。梓姉さんは、一番良いと思った方法を考えて、美冬さんを助けようとしたんでしょ?」
「そりゃ、そうなんだけど……」

 ゆらりと顔を上げた梓の眼を覗き、楓は柔らかい微笑みを浮かべる。

「それでいいの。梓姉さんが考えて、一番良いと思ったのなら、私、迷惑だなんて思わない。今度の事は、相手が悪かったの」
「楓、ありがとな。なんか、あんたの方が姉貴みたいだよな」

 少し自嘲気味に無理に笑った梓の言葉に、楓は照れ臭そうに微笑むと、スッと真面目な顔に戻った。

「でも、私には考える事しか出来ないの。だから梓姉さん、判って上げてね」
「なにを?」
「自分から話すのに千鶴姉さん、どんなに勇気がいったか」

 寂しさと不安に揺れた瞳を目蓋で隠して、楓は小さな小さな息を吐いた。

「千鶴姉さんには、望んで手にした物がなかった。なにもかも、私達と家の為だった」

 一度言葉を切り静かに目蓋を開くと、楓はその澄んだ瞳に梓を映した。

「自分の為に、生きてなかった」
「それは、前にも聞いたけどさ。どうしてなんだ? そんなにギチギチに考えなくったって、いいじゃないか」

 不安に揺れる楓の澄んだ瞳を見つめ、梓は楓に自分の中に芽生えた姉への不信を見抜かれまいと目蓋を閉じた。

 人の命まで天秤に掛ける行為が正しいとは思えない。
 まして千鶴にそんな事が平気で出来るとも、梓には信じられない。
 梓に話した時の千鶴は、明らかに自分の計算高い考えを
恥、自分自身を哀しんでさえいた。
 なのに、何故そこから抜け出せないのか。梓には判らなかった。

「大切じゃないから……だと思う」
「なんだって?」
「自分が。自分自身の感情や心が大切じゃないからじゃないのかって、そう思うの」

 首を捻り見上げる梓に悲しそうに陰った表情で告げ、楓はジュースを取り上げると、梓の視線から逃げる様にコップに視線を落した。

「お母さん達が死んだ時に、千鶴姉さんの心も死んだのかも知れない。叔父さんのお蔭で、千鶴姉さんの心も半分は生き返ったと思う。でも……」

 固く目を閉じた楓は、言葉を切ると乾き切った唇をそっと舌で湿らせカップを唇に運んだ。
 唇を湿らす楓のピンクの舌が、訳もなく梓の胸を苛立たせる。

「…姉さんが生き続ける意味は、私達を守る事だけになってしまった」

 十五の少女が母親を演じる為には、自分自身の悲しみや葛藤といった感情を、抑え込む事が必要だったのだろう。
 非業の最期を遂げた両親や叔父の願いの重さが、更に千鶴を追い詰め、感情を押し込めさせたのかも知れない。

「まさか、それが理由だってんじゃないだろ?」
「…梓姉さん」
「じゃあ千鶴姉が自分に正直になれないのは、あたし達が居たからだって言うのか!?」

 固く握った手に爪が食い込む痛みが、梓の苛立ちを更に煽った。

「そんなの、あたしはイヤだよ!! 聞いたよ、確かに千鶴姉が居てくれなきゃ、あたし達生きてこられなかった!! でも、そんなのあたしはイヤだよ!! 枷になってるだけじゃないか!!」

 一気に捲し立てた梓は荒い息を吐いた唇を噛み締め、噛み締めた歯の間から呻きの様な息を洩らした。

「でも私達が居なかったら、千鶴姉さんは生きてなかった。それも確かなの。それに千鶴姉さんは、梓姉さんを羨ましがってる」
「あたしを?」
「自分を抑えて生きて来た千鶴姉さんは、梓姉さんの奔放さも感情の激しさも愛しているわ」

 激昂した梓を宥める楓の声は、静かに梓に響いた。

「わたしや初音には出せない千鶴姉さんを引き出せるのは、梓姉さんだけなの。だから、耕一さんは梓姉さんに後を託そうとした。わたしや初音ではダメなのよ」
「……あたしが千鶴姉に近いって。あたしと千鶴姉が、反対だって、そう言う事なのか?」

 コックリ頷く楓の顔を見つめ、梓は冷静になろうと大きく肩を上げて息を吐いた。

「千鶴姉さんが望んで手にしたのは、耕一さんだけ。その意味では、梓姉さんの方が千鶴姉さんに近いのかも知れない」
「耕一よりだって? どうしてだ?」
「千鶴姉さんは、耕一さんに頼り切ってるもの。今の千鶴姉さんには、耕一さんの意見ならなんでも正しく思えるかも知れない」
「それがなんでいけないんだ? 耕一がしっかりすりゃ良いだけだろ?」
「千鶴姉さんに必要なのは、対等の立場で話し合える人だわ。 足立さんや耕一さんは、千鶴姉さんには保護者に近い。千鶴姉さんが感情をむき出しにして話せるのは、梓姉さんしか考えられない」

 少し眉を潜めた梓は、楓をじっと見つめ話の続きを待った。

「梓姉さんに役員の話を持ちかけたのも、多分そのせいだと思うの。耕一さんが役員になったら、千鶴姉さんは耕一さんに頼ってしまうから。梓姉さんの打算抜きの誠実さが、今の千鶴姉さんには、必要なんでしょうね」
「買い被るなよ。前なら兎も角、最近じゃあたしなんて怒られてるだけじゃんか。それにさ、楓、耕一が会長になるんなら、千鶴姉が無理しなくたっていいんじゃないのか? もう、千鶴姉が好きな事したって良いじゃないか」

 それが一番良い気がして、梓は吐く息に言葉を乗せた。

「好きな事って?」
「なんでもいいさ。千鶴姉がしたいことならさ」
「ないと思う」
「楓?」

 ふっと息を吐いた楓の寂しい声に、梓は怪訝な顔を向けた。

「千鶴姉さんに、やりたい事なんてない」
「そんな筈ないだろ? 今からだって、なんだって出来るだろ?」
「梓姉さん、千鶴姉さんは鶴来屋を辞めないと思う」

 スッと目を上げた楓は、梓を見据え悲しげに首を振った。

「耕一さんの傍らで手助けするのが、千鶴姉さんのやりたい事でしょうね」
「で、でもさ。会社の人って、千鶴姉にあんまり良い感情持ってないんだろ? それなら、耕一に任せて好きな事した方が千鶴姉にもいいんじゃないのか?」

 梓にはそれが一番良い気がした。
 家で料理の練習をしたっていい。
 なにも好かれていない人達の中で苦労しなくても、もう充分過ぎるほど苦労してきた姉が楽をしても良い筈だと思った。

「でも、千鶴姉さんはそうはしない。誰かのためになにかをするのが、千鶴姉さんの存在意味だから。家で耕一さんの帰りを待つだけの生活は、空っぽの自分を抱えて死んでいるのも同じだから」

 楓の言葉にハッとなって、梓さは乾き切った唇を舐めてごくんとつばを飲み込んだ。

「自分自身が大切じゃないって、そう言う事か? じゃあ、千鶴姉の幸せってなんなんだよ? あたし達や、耕一のためにって生きるのが幸せだって言うのか? 自分自身の夢や希望はないって言うのか!?」
「そうよ。千鶴姉さんは、そうやって生きて来た。これからも、そうでしょうね」

 訳の判らない感情の渦に流されて睨み付ける梓の眼光にひるむことなく、楓は平静に言葉を紡いだ。

 今までは妹達を、これからは耕一を守り支える事で、千鶴は自分自身をも支えていくだろう。
 悪く言えば他者に追随するだけで、自己の存在理由を他人任せにした生き方。
 良く言えば、愛する者のために尽くす生き方かも知れない。
 そして、千鶴の生き方を楓には否定するつもりはない。
 妹達に独り善がりな愛情を押しつけただけではなかったのかと、千鶴自身思い悩もうと。楓は、それが自分達を守って来た姉の深い愛情の賜物なのを良く知っていた。

「でも梓姉さん、犠牲だとは思わないで。千鶴姉さんは、苦しんでいるから」
「判ってるよ。だからあたしに話したんだろ? あたしが同じにならないようにってさ」

 梓にも判りかけてきた。
 なにが自分をあんなにも悲しくさせたのか、姉に縋り付いて涙を流させたのか。
 胸を掻き毟られる様な悲しみの正体と、体を震えさせた怒りと焦燥の原因が。

「自分を嫌ってるんだろ? 千鶴姉は、計算しないと動けない自分が嫌いなんだろ?」

 役割と感情との二律背反。
 それしか考えられなかった。
 自分の行動を否定しながら、役割りを果す為には行動を肯定する自分自身を姉は嫌っている。

「ええ。自分のして来た事が自己満足じゃなかったか、千鶴姉さんは悩んでいるみたい。自己犠牲に浸って、不幸に酔っていただけじゃないかって」
「馬鹿だよ。なんだって、そんな事で悩むんだよ」

 楓には、体を震わせる梓の呻きに答えを与えることが出来なかった。
 その答えが、耕一と楓の過去に大きく起因している事を楓は知っていた。

「梓姉さん、少し休んだ方がいいわ」
「あ、ああ」
「私、初音に付いてるから」

 良い置いて楓は、両腕で頭を抱えた梓をソファに残してベッドルームに向った。

 扉を閉め、楓は大きく息を吐いた。
 その頬を流れた涙が、冷静さを保つ限界だった事を窺わせる。
 初音の眠るベッドの脇に座り込み、楓はごしごしと目を擦った。
 シーツから覗く初音の手を握り、楓はそっと頬を初音の寝顔の隣に添わし、規則正しいの寝息を耳に静かに目蓋を閉じた。

四章

六章

目次