四の章


 土が柔らかい。
 木の根を避け踏み締めた黒い土が、柔らかく足を受け止め足跡を残す。

 楓は足を剥がすように地面から上げ、また一歩初音に近付く。
 足に粘り付く土の重さが、心の重さのようだ。と楓は思う。

 リネットは蘇っている。そう楓は確信していた。

 耕一の殺気から巫結花を守るように抱き締めた初音の瞳は、驚きでも恐れでもなかった。

 懐かしさと悲しみ。そして、寂しさ。

 楓には、それが何なのか、判ってしまう。
 ずっと鏡の中にあった瞳と同じ瞳の光。

 伝えられない想いと、狂おしく求める心が生み出す葛藤の光。

 あれから俯いてしまった初音は、一度としてこちらを見ようとしない。

 耕一に任せてくれと言ったが。初音に取って何が良いかなど、楓にも判らない。

 だが同じ想いを抱き、一歩先を歩いている自分が初音の力なれる筈。いや、姉として、一人残される悲しみをリネットに与えた自分が力にならなくては、と楓は思う。

 柏木楓とエディフェルは、別の者であると同時に同じ者だから。

 苦笑を浮べかけ、楓は表情を引き締めた。

 そう、割り切れる筈などないのだ。
 自分自身の過去を。

 割り切るのではなく。
 動き出した時間と、新たな記憶が癒してくれても。
 過去を認め、現在を認めた先にしか、未来はやって来ない。
 耕一も知っている筈だった。
 割り切ったと言いながら、耕一は次郎衛門の知識や力を使っている。

 過去を認め、現在に生かし、未来に向うために。

 真に次郎衛門を嫌悪し記憶から消し去ったなら、耕一は次郎衛門の知識も力も使いはしない。

 記憶を。
 姉が記憶を取り戻していなかったから、耕一は割り切れと言い続けたのだろう。

 記憶にない過去は、割り切れるから。

 足を止め眼を逸らしたままの初音から、楓は後ろをそっと振り返ってみた。

 耕一は楓を見ていなかった。
 優しい瞳と誇らしそうな笑みで、初音でも楓もなく、その瞳に千鶴だけを映して。

 たぶん、姉も記憶を取り戻しているのだと楓は思っていた。

 あの日。
 御正月に耕一が帰りを伸ばした時、そう確信した。
 その前後、千鶴の様子はおかしかった。
 初音と梓は耕一と喧嘩でもしたのかと心配していたが、楓に不安はなかった。

 そしてそれは正しかった。

 姉には耕一がいるのだから、不安をいだく必要はない。
 でも、初音には……

 眼を初音に戻し、楓は歩みを早めた。

 前に立っても俯いたままの初音を見下ろし、楓は胸を打つ動悸を抑えようと息を吐き出した。

「…初音」

 隣に腰を下ろし、楓は静かに妹を呼んだ。

 ピクリと肩を震わした初音は、オズオズと顔を上げる。

「…あっ、の………」

 上げた顔にぎこちない笑みを浮かべた初音は、なにか言いたげに楓を見ると、眼を逸らし再び俯いてしまう。

 その初音を見ながら、自分の口下手を、楓はこの時ほど恨めしく思った事はなかった。
 明るく何でもないように話しかけた方が良いのかも、と思いながら。その言葉が出て来ないのだ。
 出て来ない言葉に自分まで沈み込みそうで、楓は初音の頭を抱き寄せ、ぎゅっと胸に抱き締めた。

「…かえで…お姉…ちゃん……?」

 初音は躊躇いがちに不安そうに姉を呼んだ。

 楓は何も応えられず、胸に抱き寄せた頭を優しく撫でる。
 掌で、幾度も幾度も。

 身体を固くしていた初音は、撫で続ける掌の温かさと規則正しい鼓動に安らぎを求め、徐々に身体から力を抜き両腕を楓に回していた。

 それだけで、初音にも判ってしまった。

 胸に抱き頭を撫でてくれる姉が、もう記憶を取り戻していた事が。
 鼓動と一緒に伝わる心が、楓の不安と悲しみを初音に伝えていた。

 巫結花の与えてくれた安らぎとは違う。
 心の中で謝り続ける楓の心の痛みが、懐かしい。
 優しく温かい心に混じった哀しみと痛み。
 心を震わし柔らかく包みながら、微かな痛みとやるせなさをも与える鼓動が、初音の中に染み込む。

 あの時も、同じだった。

 エディフェルがリネット達より、次郎衛門を選んだとき。
 一族を捨てたとき、残される姉に、妹に謝っていたように。

 エディフェルは、自分の運命を悟っていたのだろう。
 掟を破った末、辿る運命。
 自分の我が侭が、姉妹をも巻き込む運命の渦を。

 エルクゥが、リネットも知らなかった温かな心。
 次郎衛門がエディフェルに与えた優しい温もり。

 その心で、エディフェルも妹に謝っていた。

 初音は判った気がした。
 リネットが次郎衛門を頼った理由が。

 エルクゥであったリネットには判らなかった。
 次郎衛門と出会ってからも、次郎衛門の心に住み続ける姉をリネットは憎んでいたのかも知れない。
 憎しみと悲しみに心が曇っていたのだろう。

 エディフェルが次郎衛門と出会わなければ、リネットもまた出会えなかった。
 そんな簡単なことにも、気づかないほどに。

 この温かさの正体に。
 心を震わす柔らかく温かな心に引かれ、リネットは次郎衛門を頼った。

 ぼんやりと心の内に湧いた考えに初音は涙を流していた。

 後悔はない。
 一族を滅ばした悲しみも、後悔すらも。
 温かく優しい心が満たしてくれる安らぎの前では、薄れてしまう。

 独り善がりで、身勝手な心。

 だが、リネットを責めることは初音には出来ない。

 自分の中にも同じ傲慢さがあるのに気づいた今では、初音には責められない。

 姉を、千鶴を羨み、憎む自分を知った後では。

 行き場をなくした心が、初音の涙になって流れ落ちる。

 エディフェルもリネットも、次郎衛門を愛しただけ。
 他の誰より、他の何より。自分自身より。

 リネットもエディフェルも千鶴も責められない。

 初音の軋む心を癒すように、楓は頭を撫で続けていた。
 掛けられる言葉もなく、胸に抱いた頭を撫で、小さく震える体と心を抱き締め、楓も泣いていた。

 同じ心と哀しみを抱きながら。

 初音には、過去を整理する時間すらない。

 リネットの目覚めは、そのまま報われない想いを知る時。

 耕一は、もう千鶴を選んでいる。
 思い出した耕一が愛してくれる夢に戯れる時間が、初音には、リネットには夢見る時間すらない。

 残酷だ。と楓は思う。

 報われぬ想いなら、叶わぬ夢なら、何故思い出さねばならない。
 想い出は時の中で風化し、いつかは笑えるのかも知れない。
 だが、思い出さなければ、過去に縋ることも、より苦しむ事も無い。

 もっとも大切な想いが、もっとも妹を苦しめる。
 その痛みと辛さ、悲しみと寂しさが楓には判る。

 だから、自分が力になりたい――なれると思う。

 同じ苦しみと寂しさを先に乗り越えた者として、姉として。いや、同じ人を愛した女として。

 でも今は……。

 楓は初音の頭に頬を擦りよせ、包み込む。
 初音も楓にしがみ付き、腕の力を強める。

 抱き合う姉妹に言葉はなかった。
 互いを固く抱き締め、姉妹は静かな涙を流した。

 湖面を渡る冷たい風が、抱き合った姉妹を優しくなぶる。
 肌寒い風が、互いの温かさを確かめさせるように頬を冷やして行く。
 涙で濡れた頬を冷やし、体を冷たくさせる風が、心の温かさを二人の間で鮮明にしていく。
 温め合う心だけが、そこに在るように。

 初音の体の細かな震えが徐々に収まるのを待って、そっと楓は顔を上げた。

 頭を撫でていた片手で自分の頬の涙を拭い、楓はもう一度初音の髪を撫でる。
 ゆっくりを梳くように。
 静かに慈しむように。

 幾度か楓の手が動き、初音はそっと赤く充血した眼を上げた。
 恐る恐る、怯える子犬のようにゆっくり。

 微かに首を傾げて初音の眼を覗き、楓は静かに微笑んだ。
 初音はぎこちない笑みを受かべ。
 その初音の頬の涙を、楓は細く白い指で拭う。

「……彼女、幸せだった?」

 静かな柔らい声に初音は目蓋をゆっくり閉じ、

「…うん、幸せだったよ」

 そう楓に応えた。

 一粒零れた初音の涙を細い指が拭う。

「そう」

 目蓋を開いた初音に瞳には、ゆっくり頷く楓の微笑みがあった。

 目蓋を固く閉じ、初音は再び楓の胸に顔を埋める。
 胸の内に溢れる熱いものが、なんなのか判らないまま、初音は楓を抱き締めていた。

「…初音…少し休んだ方が良い。ホテルに戻ろ」

 初音の背中を撫でつつ楓が言うと、初音の頭が胸の中で小さく縦に動いた。
 ゆっくり初音と一緒に立ち上がった楓は、初音の肩を抱きながら、木立越しに見えた耕一に軽く頷いて見せる。
 立ち上がった二人に気づいた耕一も、軽く頷き返し、そっと息を吐いた。

 楓はそのまま浜辺の方に歩き出した。
 少し躊躇いを見せた初音も、直接公園出口に向うと、耕一の前を通るのを思い出し、楓にしたがって歩き出す。

 なにも言わず避けるようにしては、心配を掛けるのが判っていても、まだ耕一の顔をまともに見られる自信が、初音にはなかった。

 浜に回り込み出口に向う二人は、千鶴と梓の側を通りかかり足を止めた。

 千鶴が梓を慰めているだけだと思っていた楓は唇を噛み、初音は楓を見上げた。
 梓も千鶴も話に集中していて、楓達に気づいていない。

 初音には千鶴の話が良く判らなかった。
 誰だって。初音だって嫌われたくなくて、友達に笑って見せたり話を合わせたりする。
 だのに、どうして梓が泣いているのか?
 どうして楓が、辛そうな顔で足を止めたのか?

 楓がこのまま進むべきか迷っている間に、梓は千鶴にすがり泣いていた。

 楓は胸の前で握った拳をぎゅと握り直し、ある決心を固めて足を進めた。
 初音は躊躇いながらも楓に着いて歩き出す。

 足音に気づいた千鶴が顔を上げると、初音は胸元を握り眼を臥せる。
 初音の反応に少し寂しそうな表情をした千鶴を見たのは、楓だけだった。

「千鶴姉さん、先に戻ります」

 楓が声を掛けると、梓は驚いたような顔を上げ、腕でごしごし顔を拭う。
 千鶴は小さく頷いただけだった。

「梓姉さんも、戻って休んだ方がいい」

 顔を背け顔を拭っていた梓は、ちらっと楓を見る。

「あたしは、もう少し話が……」
「休んでから」

 強い調子で楓に遮られ、梓は顔を楓に向けた。

 二度目だ。と梓は思った。

 梓を見つめる楓の強い意思を持った瞳は、楓が千鶴を責めた時に見て以来だった。

「話はそれだけよ。梓、よく考えてね。誰の為でもない、自分自身の将来をよ」
「でも、千鶴姉……」

 千鶴に話の終わりを告げられた梓には、まだ聞きたい事、言いたい事があった。
 だが、初音が眼を臥せたまま居辛そうに楓の陰に隠れるようにしているのを見て、言葉を途切れさせた。

「私も少し疲れたの。また後でね」

 千鶴にそう言われ、梓は不肖不精に頷く。

「梓姉さん、先に戻りましょ」

 再び楓が梓を見つめながら口を開く。

「あ、ああ」

 梓が立ち上がるのを確認すると、楓は初音を連れて先に歩き出す。
 後を追おうと歩き出した梓は、楓が耕一に頷きかけているのを見て納得した。

 千鶴の事は、耕一に任せろという事だと。

 ゆっくり立ち上がる耕一と眼が合った梓は、自分でも判らない不愉快さにスッと視線を逸らし、足を速めた。

 どうして眼を逸らしたのか。
 耕一と眼が合った瞬間、胸を掻き毟った嫌悪感がなんなのか判らないまま、気が付くと梓は逃げるように楓達の後を追っていた。



 走り去る梓の後ろ姿を見送り、耕一は静かに今まで梓の座っていた場所に腰を下ろす。
 遠慮がちに肩に掛かる重みを感じ、耕一は千鶴の手を握った。
 耕一が握り返された手を握りなおすと、肩に掛かる重みがゆっくりと増す。

「…良かったんでしょうか?」
「足立さん? それとも萩野さん?」

 千鶴は、耕一の問いに微かに笑った。

「やっぱり聞いていたんですね?」
「…ごめん」

 鬼の聴覚を使い話を盗み聞きしていた耕一が、ふっと吐き出した息に乗せて謝ると。肩をくすぐる髪の感触が、横に振られた首の動きに連れ、耕一の頬をなぶった。

「落ち着いたら、梓の事だから怒るだろうな」
「ええ。でも、半分は事実です」
「悪い面ばかりだけどね。梓にやらせたくない?」

 首を捻った耕一が千鶴を覗くと、千鶴は小さく頭を振った。

「いいえ。一番悪い状況を教えておきたかった。それでも梓がやると言うなら、反対はしません」
「梓は余計やるって言うだろうな。でも……人を信じられなくなったら?」

 躊躇いがちに尋ねた耕一から、千鶴は眼を臥せて視線を逸らす。

「足立さんか萩野さん、どちらかは鶴来屋に残ってもらわないと、柏木の影響力が弱まる」
「……はい」

 小さな声で応えた千鶴を見ながら、耕一はほっと息を吐いた。

 耕一にも試された千鶴の気持ちは痛いほど判るのだが、柏木の手に鶴来屋を残そうと画策した足立と萩野が出した精一杯の妥協案なのも判っていた。
 柏木の手に鶴来屋が残るなら、千鶴に固執する必要はない。
 株さえあれば、耕一でも梓でも。いや千鶴達の子供でも、彼らが残っていれば実権を取り戻せる。
 むしろ足立が、千鶴に普通の女性の幸せを望んでいるのを知っている耕一としては、彼を責める気にはなれないでいた。
 足立も萩野も共に自分の築き上げた地位を賭、考え抜いた結果なのだ。
 事実、萩野は独断による佐久間との接触で、次の役員会で表舞台から、裏に回されることが決定していた。
 恐らく萩野が表舞台に立つ事は、もうないだろう。
 萩野の失脚で中核を失った反対派は、鳴りを潜めるだろう。
 賢治亡き後、反対派に回った者には足立が働きかけている。
 次の役員会で耕一の役員就任と千鶴の婚約を同時に発表し、不穏な噂を払拭すると同時に、元柏木派を引き込む。
 足立にとって、鶴来屋の内部を固める今が絶好のチャンスなのだ。

「千鶴さん」

 少し言い方がきつかったかと、耕一は繋いだ手を握りそっと呼びかけ。静かに眼を上げた千鶴を見つめ、表情を柔らげる

「足立さんは、信用出来るよ」
「それは、足立さんが精一杯やって下さっているのは、判っているんです」

 足立の力添えで、なんとか会長としてやって来られたのは、千鶴にも判っていた。
 だが今回は、方法に納得が行かない。
 噂を消すために、耕一との婚約は両親が決めていたが、耕一の大学卒業まで内密にされていたというものだが。
 自分の為に耕一を利用するようで、千鶴には納得出来なかった。
 そして、耕一にその理由を聞かれた時どう言えばいいのか、重く心にのしかかっていた。
 耕一が千鶴を気遣い美冬に口止めしたように、千鶴もまた、耕一を気遣い言い出せずにいた。

 足立が千鶴から耕一に話すように言った訳ではない。
 足立はもっともらしい口実をつける気でいた。だが、千鶴は、耕一に嘘を吐きたくはなかった。
 足立が多忙を極める役員会間際までの二週間、千鶴の休暇を承認した背景はそこにある。

「うん。でも、さっきの言い方だと、梓は多分、足立さんの事、誤解するんじゃないかな」

 千鶴の気も知らず、耕一は口調がきつくならないようノンビリ言う。

「…そうですね。説明不足でした」

 シュンとした千鶴の様子で、耕一は少し首を傾げた。
 てっきり試されたことを根に持っているのか、他に思惑があって話を省いたと耕一は思っていた。だが、シュンとした千鶴の様子は、そのどちらでも無さそうだった。

「まあ、幸い楓ちゃんが一緒だから、フォローしてくれるだろうけどさ」
「…はい」

 シュンと頷くと、千鶴はそのまま俯いてしまう。
 耕一は握った手を離すと腕を肩に回しぎゅっと抱き寄せ、俯いた千鶴の顔を下から覗き込む。

「で。千鶴さん、なにを隠してるの?」
「えっ! いえ…べつに……その」

 覗き込まれた眼を臥せると、千鶴はもごもごと口篭もる。

「千鶴さんは、隠し事があると大事なとこで惚けるんだから、判るって」
「惚けるなんて、酷いです」

 頬を膨らませ上目遣いに睨んだ千鶴には、いつもの迫力がなかった。

「じゃあ、俺に隠してる事って無い?」

 睨む瞳を耕一が見つめ返すと、千鶴はそっと溜息を吐いた。

「判りました。…実は………」

 千鶴は足立から聞かされた役員会でも発表内容を、ぽつぽつと語った。
 親の決めた許嫁として公表する理由も含めて。

「…ごめん。…その噂なら、知ってる」

 気不味そうに耕一が言うと、千鶴は眼を丸くする。

「知ってるって? 耕一さん、どこで?」
「いや。その、偶然小耳に挟んで」

 まさか美冬の身上調査でとも言えず、耕一は曖昧に濁す。

「しかし足立さんも、良く考えるよね」

 どうやって知るのか、耕一の情報量の多さに小さく溜息を吐く千鶴を横目に、耕一は取り繕うように言葉を継ぐ。

「耕一さん、平気なんですか?」

 嘘のなれそめに平然としている耕一を上目遣いに睨み、千鶴は問う。
 本当のなれそめなど、誰にも話せる筈も無いのだが。

「前にも言ったけど、好きになる切っ掛けは関係ないしね。表向きそうした方がいいなら、俺は良いよ」
「でも……」

 不満そうに見上げる千鶴に首を傾げてみせ、耕一は宥めるように抱いた肩を手で撫でる。

「千鶴さんと結婚出来れば、俺はそれでいいの」

 ポッと頬を桜色に染めると、千鶴は顔を臥せる。

「私も……」

 恥じらいながら応える千鶴をだらしなく緩んだ顔で、耕一は眺めていた。

「でも、足立さんがその気なら、ちょっと不味かったかな?」
「不味いって、なにがですか?」
「今頃噂になってるだろうと思ってさ。鶴来屋のサロンで、こういう事したから」

 言いながら耕一はもう片腕を回し、包むように千鶴を抱き締める。
 先日鶴来屋のサロンでアルバムを渡された時、千鶴が涙ぐみ、そうしたように。

「もう、耕一さん」

 ちょっと恥ずかしそうな声を出しながら、耕一に身を預けた千鶴は擽ったそうにクスッと笑う。

「千鶴さん」
「はい?」

 抱き締めたままの耕一に呼ばれ、千鶴は顔を上げ耕一の少し迷った瞳を見て小首を傾げた。

「俺の考えの方が、足立さんより汚いかもしれない。でも、判って欲しいんだ」
「役員を引き受けなかった理由ですか?」

 小さく頷く耕一を見ながら、千鶴は静かな笑みを浮べた。

「どんな話を聞いても、私は耕一さんと一緒です」

 そっと耕一を抱き返すと、千鶴は耕一に持たれ掛かる。
 耕一は背を後ろの樹に預け、千鶴の髪を撫でながら話し始めた。

三章

五章

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