三の章


 梓は近づく足音を耳にして、震える唇から息を吐き出した。
 足を止め、隣に腰を下ろした姉のスカートが梓の視界の端に映った。

 ――スカート、汚れるのに。

 ぼんやり、そんな事を考えている自分がおかしかった。

 そうだ、あれから自分はどうかしてる。
 そう梓は頭の隅で考えていた。

 千鶴は腰を下ろしたまま、口を開こうとしない。

 重苦しい沈黙から逃れるように、梓はどうしてこんな事になったのか、思い出そうとした。

 ――こんなつもりじゃなかったの。

 重い衝撃を受けて頭が真っ白になってから、なにかが狂い始めた。
 柳に殴り掛かり、腹部に衝撃を受けて真っ白になった頭の霞が晴れて眼に映ったのは姉の顔だった。

 白くなった顔。
 悲しみとも諦めとも付かぬ瞳。

 姉の頭を砕く所だったのに気づいたのは、その後。

 そして、もう一つの瞳。
 憎しみと怒りの瞳。

 耕一に、あんな眼で見られる日が来るとは思わなかった。

 あの時、確信できた。出来てしまった。

 もし耕一が間に合わなかったら。
 自分は姉を殺し、耕一は自分を殺していた。

 義務で、ではない。
 復讐。だと思う。

 力の抜けた体と、現実を拒否する心が、梓にそれが当然だと告げた。

 麻痺した心の片隅で、誰かが囁いていた。

 ――あれが、あの男の本性。
 ――お前の幸せを奪う者。

 梓には、声の言う事が判らなかった。
 何故、耕一が自分の幸せを奪う?
 間違いを犯したのは、自分なのに?

 ぼんやりした頭は、前に聞いた耕一と姉の話を繰り返し、自分の軽率な行動を責めているのに。
 心の中には、怒りがある。
 耕一に向けられた憎しみに。
 無事を喜び、耕一と抱き合う姉の姿に対する怒りが。

 腹の底から沸き上がる暗く冷たい怒り。
 チロチロと燃える炎。
 いつか感じた怒り。
 遠い昔に感じた怒り。

 ――子供の頃?

 違う。もう一人の梓が否定する。

 同じ事があった。
 遠い遠い昔に、同じ事が。
 何かが違う。
 だが、同じ事が確かにあった筈だった。

 姉の悲しみと諦めの瞳。
 誰かの憎しみと怒りに燃えた瞳に覚えがあった。

 だが、梓は思い出せなかった。

 いつの間に来たのか、思い出す前に妹と美冬の声が、梓の冷静な部分に働きかけた。

 ――練習試合?

 ただの試合。
 そんな事のために、自分は姉を殺すところだった。

 梓は可笑しくなった。

 耕一と姉を心配させ自分が悩んでいるのが、ただ練習を邪魔しただけ。

 泣きたいような笑い出したいような、おかしな気分だった。

 せめて、姉か耕一が何か言ってくれたら。
 そう思った。

 優しい言葉でなくていい。
 叱るのでも怒鳴り付けるのでも良いから、なにか言って欲しい。

 しかし、千鶴も耕一も何も言わない。
 そこに梓がいないように、楓と千鶴はどこかに行ってしまった。

 耕一も美冬と去って行く足音だけを残し、梓には声も掛けてくれなかった。

 梓はノロノロと立ち上がり、耕一達の後を追った。

 これからどうなろうと、自分のしでかした結果を見届けるために、そうしなければいけない気がして。

 立ち上がってから初音の事を思い出し、梓はキョロキョロ辺りを見回した。

 耕一達の向こうのベンチに巫結花と座る初音を見つけ、ほっと息を吐いて、梓は耕一の座るベンチの近くに。
 少し離れた樹の根元に座り込んだ。

 耕一の姿を、梓はまともに見られなかった。
 僅かの間に憔悴した表情。
 肩を落とし、考えるように臥せた顔。

 いま耕一を苦しめているのが、自分の軽率な行動なのが判っている梓には、直視できなかった。

 耕一がどういう結論を出そうと、梓には責められない。

 みんなの心に新たな傷を刻むのは、梓自身。

 選択肢は二つ、いや三つ。
 千鶴と楓が初音を連れて居なくなっていれば一つだった。

 ――まだ、決まっていない。

 そう自分に言い聞かせた梓の耳が物音を捕らえ、ピクリと膝を抱えた身体が跳ねる。

 ――足音。誰の?

 千鶴か楓が戻って来たのかと、そっと顔を上げて覗くと、梓の前を中年の男性が一人浜辺に向って走り去った。
 いつものジョキングコースなのだろう。
 浜に出ると横目で梓を覗きながら、規則正しい足並みで波打ち際を男性は遠ざかって行く。

 微かな物音にも過敏に反応する高ぶった神経を宥め、ほっと息を吐き額を拭う。
 冷たい感触が、トレーナーの中で胸の間を伝っていく。
 まだ早朝の冷たい大気の中で、梓の全身はびっしょり汗で濡れていた。

 汗に濡れた冷たさと逆に、体は熱く動悸がどんどん早くなっていく。

 ――早く。

 緊張に耐えきれない梓の心は、そう叫んでいた。

 無責任だと梓も思う。
 かかっているのは人の命。

 かけさせたのは自分の愚かさだというのに、緊張から解き放たれたいばかりに、心は決断を待ちわびている。

 ――決断?
 ――誰の?
 ――もちろん耕一の。

 そう自問自答した梓は、膝の間に顔を埋めた。

 こんな時にも。
 自分自身が引き起こした事の決断を、耕一に任せている自分の愚かさに、梓は歯を食いしばっていた。

 自分自身で引き起こした顛末すら、自分で解決できない。

 今になって判った。

 何故、昨夜美冬や巫結花にいわれのない劣等感を抱いたのか。
 彼女達は、自分で決断しているからだ。

 自分が誰より劣っているとすれば、知識でも容姿でもない。自分自身で決断を下せるかどうかだ。

 そう思うと、梓の中で闇が震えた。

 姉を助けたいと言いながら、耕一と姉に最後の決断はいつも任せている。
 学生でも、本当に助けたいなら出来る事はあった筈だ。

 家事があるから、家を守れば、学生だから。
 どれも言い訳でしかない。
 楓も初音も子供ではない。二人でも家のことは出来る。
 自分に何が出来るのか、いつも自問自答しながら、学生なのを免罪符にしていた。

 最後には、いつも耕一と千鶴の判断を待っていた。
 自分ではなにもしていない。
 気づかずに甘え続けていた自分の情けなさに、梓は自分自身に対する怒りで、体までが震えた。

 その時、梓は視線を感じた。

 膝の間から眼だけを覗かすと、千鶴と楓が戻って来ていた。
 梓の横を素通りして、二人は耕一の方に向かって行く。

 梓はじっと待った。
 二人が戻って来たことで、耕一が決断を下すのを。

 不意に梓の体が跳ねた、解放された鬼に刺激され。
 だが、鬼は三つ。

 ――妹にも、負けて。

 梓の頬が自嘲に歪んだ。

 耕一の判断次第で、楓もやる気だ。
 楓は自分で決めたのだろう。

 耕一だけに痕を背負わさないために。

 だのに、自分は膝を抱えてうずくまって。

 自分を責めている間に鬼は消え、梓は息を吐いた。

 何も動かなかった。
 鬼が解放され、しばらくして消えた。
 それだけ。

 無事に終った。
 自分がなにも出来ない間に、全部。

 そう感じた瞬間、無力感と脱力感で梓の全身から力が抜けた。

 なぜか涙が溢れてくる。

 面倒を起こしてばかりで、尻拭いをさせて。
 どうして耕一と千鶴は、自分なんかを心配してくれる?

 妹だから?
 従妹だから?

 それなら、余計惨めだ。

 何かを期待され、期待に応えられない自分なら、迷惑を掛けるだけなら居ない方がいい。

 プライド、ではないと思う。
 プライドを持てるほど、何かをして来た気も梓はしなかった。

 泥沼のような重く暗いものが、体中を満たしたように冷たい。
 考えるのも体を動かすのも嫌なほど、心が重い。

 このまま泥人形になってしまった方が楽だ。と梓の頭の隅にぼんやり浮かんだ。

 誰にも迷惑をかけず、ただ座ったままの泥人形に。

 考えるのを放棄しようとした梓を引き戻したのは、足音と視界の隅に移った白いスカート。

 今は隣に座る、黒く汚れた白いスカート。

 一人にして欲しいと思う心と、何か言って欲しい心が、梓の中で責めぎ合っていた。

 一人にされたら本当に泥の塊になりそうな恐れと、口を開けばより深く落ちて行きそうな恐れ。

 どちらも恐ろしく深い、底の見えない暗闇。
 じめじめとした暗くて冷たい、心の闇。

 そこがどんな場所か、梓は知っている気がして、体が恐れに戦慄いた。

 昔、遠い昔落ちた事がある、闇。

 あの時、這い上がったのは………

「梓」

 暗闇に沈み込もうとした梓の思考は、優しく温かな呼び声に引き戻された。

 なぜか心が少し軽くなって、梓は重く思うようにならない頭を少し上げた。

 叱ると思っていた千鶴の眼差しがそこに在った。
 優しく温かい眼差しが。

 見つめる温かな眼差しが、歪む。

 それが自分の流している涙のせいなのを、頭を引き寄せられた梓は、姉の胸を濡らした冷たさで知った。
 涙を擦り寄せた姉の胸の温かさが、なぜか震えている気が梓にはした。

 抱き締める腕も、頭を撫でる掌も震えていないのに、なぜか姉が泣いている気がして、梓は声に出さずに謝っていた。


 湖面を渡る風は、まだ冷たい。
 千鶴は抱いていた梓の頭をもうひとつ撫でると、ゆっくり体を離す。
 湖面からの冷たい風から守るように、梓の肩を抱き座り直した千鶴の頬が、微笑を刻む。
 どこか哀しげな寂しい笑みは、顔を臥せている梓には見えなかった。

 滅多に泣くことのない梓を慰めるのは、三度目だろうか?

 いや、四度目になる。と千鶴は思い直した。

 両親の死、叔父の死。
 そして御正月。

 梓が強いわけではない。
 強がっているだけなのを、千鶴は知っている。

 本当は涙もろくて、誰より優しい。
 そう自分より、ずっと優しい。と、静かに千鶴は息を吐き出した。

「耕一さんも、怒っていないわよ」

 考え込むのから逃げるように、千鶴は言葉にした。
 話していないと、千鶴は、また自分と梓を比べてしまう。

「……どう…して?」

 切れ切れで頼りない梓の問いは、普段からは考えられないほど弱々しい。

「美冬さんを助けようとした梓の行動は、間違ってはいないからよ」
「でも……」

 俯いたままの梓から洩れた声は、続かなかった。

「お忘れなさい。美冬さん達も忘れるって、なにもなかったのよ」

 抱いた肩を強く握り、千鶴は梓の返事を待った。
 梓は納得出来ないのだろう。何も応えようとしない。

 千鶴は梓の沈んだ横顔を見ながら、小さく息を吐く。

 あった事を忘れ無に返すには、梓は正義感が強く真っ直ぐすぎるのだ。
 だから、比べてしまう。
 真っ直ぐな気性を快く思う気持ちと、自分の汚れを見せ付けられる苛立ちが、千鶴に自分と妹を比べさせる。

「他に方法がある?」

 言葉を継いだ後で、千鶴は自分の声に刺さったトゲに気づき、梓から視線を逸らした。
 梓はそんな千鶴にも気づかず、じっと地面を向いている。

「……わかった」

 ぽつりと洩らした梓の答えに、千鶴はそっと目蓋を臥せた。

 梓には他に応えようがないのを知っていて、卑怯だ。と千鶴の内で自分を責める声がした。

 ――耕一さんなら、どう言っただろう?

 頭の片隅を掠めた考えに、頬が緩んだ。
 いつの間にか、耕一がどう考えるかが、千鶴の判断基準になってしまっている。

 現金な者だ。と、千鶴は思う。

 耕一の前は、叔父や祖父の考えが基準だった。
 今では、咄嗟に浮かぶのは耕一だけ。

「これでも飲んで元気を出して、梓らしくないわよ」

 そう言って笑って見せた千鶴は、梓の手に缶ジュースを握らせる。

 そう、今までそうやって元気付けて来たように。
 梓が自分に心配を掛けまいと、無理をしても笑って見せるのを知っているから。

「うん。ごめん」

 千鶴の予想した通り、梓は無理をした笑いで応え、ジュースを口に運ぶ。
 千鶴が考え、予想した通り。

「冷た。この寒い時期に、相変わらず千鶴姉は気が利かないよな」

 少し寒そうに身を震わせた梓から、いつもの軽口が、力なく出て来る。

「もう、なによ。せっかく買って来てあげたのに」

 ぷんと口を尖らした千鶴が横を向くと。梓はへへっと力なく笑う。
 わざと冷たいジュースを、千鶴が持って来たのに気づいた様子もない。

 自分の思い描いたように振舞う梓を見る千鶴の瞳が、不意に陰る。

 最近、千鶴の心の刺が段々大きくなっていた。

 以前は感じなかった痛み。
 妹達にすら、考え計算して振舞う自分への苛立ち。
 自然に振舞うことへの恐れ。

 心のどこかで妹達に気づいて欲しいと願いながら、気づかれれば嫌われるのではないか、軽蔑されないかを恐れる心。
 それらが刺となって、千鶴の心に痛みを引き起こす。

「まあ、あんまり期待しちゃいないけどさ」

 梓の幾分マシになった声に顔を上げ、千鶴は震える唇を開いた。

「…ワザ…とよ」

 千鶴に、ここからのシナリオはない。
 姉にいい様にあしらわれて来た妹の反応など、予想できる筈がない。

「えっ? なにが」

 キョトンと千鶴を見ると、梓は首を傾げた。
 まだ完全に立ち直っていないのだろう。声に張りもなければ顔色も優れない。

「ジュース。…梓がそう言うと思って」
「へっ? なんで?」

 キョトンとした顔のまま、梓は首を傾げる。

 計算して元気付けるような事をした事のない梓に、判る筈がなかった。
 梓なら不器用でも、体中で元気になれと、心配そうな表情で言葉を尽くし慰めるだろう。
 心の、感情の赴くままに。

「切っ掛けになるからよ。梓が私に元気に見せる」

 眼を臥せたまま言うと、千鶴は顔を上げ梓を見つめた。

「それが。私が誰にも信用されない理由」

 千鶴の言葉に眉を潜めた梓は困惑を面に出し、首を捻り出す。

「ごめん。あのさ、なに言ってんのか判んないんだけど?」

 そうでしょうね。と千鶴は息を吐く。

 自分でも最近まで気づいてなかった。
 耕一がいなければ、一生気づけなかった。

「どういう表情で笑って、どう拗ねてみせれば良いか。どう言えば、どう梓が返すか。考えてやってるのよ」

 梓は首を捻り、考え込む。

 千鶴は、そんな梓を見ながらじっと待った。

 計算された行動と、会話。
 心の篭もらない、表面上の作ったやり取り。
 それを梓が、どう受け取るか。


 一方の梓は、首を捻りながら、困惑していた。

 千鶴の考えとは違い、何故今になって千鶴がそんな事を言い出したのかを考えていた。
 耕一から聞いた仮面とか、役割に応じた顔の事だろうとは判るのだが。それが誰にも信用されないのと、どう繋がるのかが判らなかった。

「ごめん。なんで千鶴姉が、自分を誰も信用しないなんて言うのか判んないよ。あたしらだって、耕一だって信用してるのにさ」

 さっきまでの反省はどこに行ったのか、あっさり梓は音を上げる。
 言葉足らずだったと反省しながら、千鶴は肩を落し息を吐いた。

「最初から、話し直すわ」

 どうも計算外の事になると、うまく対応出来ないと思っていた千鶴が、梓が言われた意味に気づいていないと考えても、仕方がなかったかも知れない。

「耕一さんの役員の話だけど。耕一さんは、梓を役員にって」
「あっ、あたしが役員? 鶴来屋の?」

 困惑から驚きに変わった自分の顔を指さす梓に、千鶴は深く頷く。

「ええ、私も考えてはいたのよ」
「で、でも。それじゃ、余計反発食らうんじゃないのか?」
「そうね」

 慌てて言う梓に、千鶴は軽く同意する。

「そうねって。千鶴姉……?」

 千鶴の立場が悪くならないかと反論しかけた梓は、笑みの消えた千鶴の表情に気づき眉を寄せた。

「しばらくすれば、受け入れられるわ。梓ならね」
「あたしなら? だって、千鶴姉でもダメなのに?」

 静かに話す姉の雰囲気がいつもと違う事に気づいた梓は、なにか違和感を覚えた。
 いつもの明るさや軽さが姉から消え失せ、梓には、昨夜美冬が見せたビジネスライクな一面と重なっていた。

「柏木反対派は、叔父様が亡くなるまでは、少数だったわ」
「叔父さんの亡くなるまで?」
「今の反対派は、私を信用出来ない人達。梓が会長なら、反対しないかも知れないわね」

 話しながら、千鶴の頭にもしかしたら。と言う自分自身への疑惑が浮かんだ。
 梓に話さなかったのは、自分の居場所を失いたくなかっただけなのかも、と。

「萩野さんが、良い例ね」
「萩野って? あの、いけ好かないおっさんだろ?」
「いけ好かない、ね。そうね」

 ちょっと眉を上げ、梓は訝しげに千鶴を見つめ返す。

 いつもなら梓の口の悪さに困った様に眉を潜める千鶴が、微かに微笑んでさえいる。

「足立さんが叔父様の右腕なら、萩野さんは左腕だった方だわ。叔父様が亡くなられてからは、反対派の中心でもね」
「叔父さんの左腕? だって、叔父さんの葬式の時だって、ぶつぶつ、ねちねち嫌みったらしくてさ。なんであんなのが、叔父さんの左腕なんだよ?」

 一頻り捲し立てた後で、梓は千鶴から視線を逸らした。

 何かが違っていた。
 千鶴の瞳にも表情からも、なにか感情が抜け落ちたように変化がない。
 悪し様な言葉を責めるでもなく、かといって同意しているのでもない。

「佐久間さんとのお見合いは、足立さんも知っていらした。そう言う事よ」

 足立だけは自分達の味方だと思っていた梓は、聞いた言葉が信じられず、ゆっくり顔を戻した。

「簡単に鶴来屋を佐久間さんに渡すようなら、萩野さんは反柏木派を率いて、鶴来屋の実権を奪う。無事乗り切れば、私の能力を信じて柏木派に回る。叔父様が亡くなった時に、足立さんと萩野さんの間で、計画されていたのよ」
「…どうして、足立さんが?」

 まだ信じられない思いで、梓は呟いた。

 子供の頃から可愛がってくれた足立を、もう一人の叔父のように梓は思っていた。
 足立に裏切られたような気がして、梓はゆっくりと唇を噛んだ。

「足立さんが実権を握っても、萩野さんが握っても、鶴来屋は残るわ」

 抑揚の欠けた声で話す千鶴に、再び梓は固く唇を噛んだ。

「そして、萩野さんが私を認めれば、中核を無くした反対派は瓦解するわ」
「…逆なら、どうなるんだ?」

 チラリと掠めた考えを否定しようと、梓は声を絞り出した。

「足立さんは閑職に回され。後ろ盾を無くした私も、会長を降りるしかなくなるわね」
「なんで足立さんが、そんな博打みたいな真似するんだ?」
「足立さんは、社長なのよ。鶴来屋だけで五百人からの社員と、鶴来屋グループに関連した下請け会社に対する責任があるわ。一気にグループ内の反対派を一掃し、社内をまとめる方法としては、有効な手段よ」
「じゃあ萩野さんは、潰す為に反対派になったって言うのか!?」

 千鶴から眼を逸らし、梓は吐き捨てた。

 汚いと思った。
 仕事なら、真面目に働いて相手に認めさせればいい。
 初めから潰すつもりで仲間のフリが出来る萩野にも、計算して相手を騙せる足立にも、胸が悪くなった。

「ええ、昔風に言うと、二重スパイかしら」

 そんな梓の気持ちも知らぬげに、千鶴は平然と返す。

「千鶴姉、平気なのか?」
「なにが?」
「なにがって? 賢児さんが言ってたんだよ! 下手したら結婚するしかなかったって! 千鶴姉は、知らなかったんだろ!?」
「ええ、最近知ったわ。耕一さんは予想してた見たいね」

 耕一の名を出した時だけ僅かに声に感情を見せた千鶴を、梓は茫然と見つめた。

 ――こんな姉は知らない。
 ――いや、知っている。

 梓の中で、二つの声が責めぎあった。

 梓は知らない筈だった。
 感情や抑揚を無くした声や表情で話す姉など、見た事が無い筈なのに、どこかで懐かしく感じている自分がいる。

「結婚はなかった筈よ。その為に、足立さんが抜け道を用意して置いてくださったもの」
「…抜け…道?」
「耕一さんよ。いざとなれば、足立さんは耕一さんを引っ張り出すつもりだったようね」

 ふっと息を吐き、千鶴は梓から顔を背ける。

「話がずれたわね」
「あっ? ああ。……そうか」

 背けられた横顔を見ながら信用うんぬんの話だったのを思い出し、梓は躊躇いがちに頷く。
 千鶴の横顔が、梓にはまるで人形の面のように見えた。

 ――人形の顔
 ――仮面?

 まさか。と、梓は一瞬思った。

 ――耕一が話した仮面の意味は、言葉のあやじゃ?

「初めは萩野さんも、私を試すつもりはなかったらしいわ。でも、信用しきれなくなった。他の役員の方々と同様にね」
「なんで信用出来ないんだ? それに、どうして今なら信用出来るんだ?」

 梓の問いに僅かに崩れた表情を元に戻し、千鶴は梓に眼を向けた。

「耕一さんが会長になるからよ。萩野さんが信用したのは、私じゃないわ。耕一さんよ」

 そう言うと、千鶴の表情は柔らかい笑みに変わった。
 今までの無表情が、幻の様に。

「もう一つの答えは、今までの私」
「今までって? どうしたんだよ? 千鶴姉、なんかおかしかったよ」

 いつもの温かみを取り戻した姉の眼差しと声音に、梓はほっと緊張を緩め、千鶴の肩を揺すった。

「そう? でも、あれも私なの。もしかしたら、あれが本当の私かも知れない」
「なに言ってんだよ。千鶴姉は、千鶴姉だろ?」

 自嘲するように寂しい微笑みを浮べた千鶴を覗き込み、梓は首を振る。

 認めたくなかった。
 認めたら、今まで一緒に暮らして来た姉が幻の様に消えてしまいそうで。

「梓、作りものの微笑みや温かさでは人を騙せないわ。どこかに違和感が生じるものなの。そして、違和感が積み重なると不信感に繋がり、徐々に膨らんで行くのよ」
「……作った…微笑み?」

 千鶴の肩から手を離し、梓は震える唇で言葉を刻む。

 時々梓も感じていた違和感。
 たまにズレる会話と、姉の表情。
 聞かなくても判った気がした。
 聞いてはいけない気がして、梓の体は震えていた。

「そうよ、作ってるの。どう笑えば気に入ってもらえるか。どう受け答えすれば、人に好かれるか。考えてやっているわ」
「ハッ。ハハッ、嘘だろ? …そんなの…出来るわけ…ない……」

 それが事実なのを知りながら、梓は否定を求め首を横に振った。

「足立さんがね。最近、表情に感情が追い着いて来たって。鋭い人には判るのね。自分でも気づいてなかったわ」

 静かに微笑む姉が泣いているように見えて、梓は軋む心でじっと姉を見つめた。

「人は自分に向けられる感情には敏感だわ。理性や理屈より、感情が大きく判断に影響するのよ。気に入られるように上辺だけを取り繕った作り物の優しさじゃ、空回りするだけで、本心の見えない相手を信用してくれる人はいないのかも知れない。だからね、梓なら大丈夫。いつだって本気だもの、誰にだって好かれるわ」
「…なんで…だよ。嫌われたっていいじゃないか。あたし達は嫌ったりしないよ」
「判らないの。考えて作らないと、どうすればいいのか」

 寂しそうに眼を伏せる姉から眼をそらせないまま、梓の胸から熱いものが込み上げてくる。

 やっと梓にも判った気がした。
 耕一の言った仮面の本当の意味が。
 耕一が一人になっても、守ろうとしたものが。

「どこかが壊れているのかしらね。幾ら習っても、御料理上手くなれないわよね」
「…なんで…さ。…あたし…教えてやる…よ」

 涙でクシャクシャになった梓の顔を掌で拭い、千鶴は寂しく微笑む。

「梓の口癖だったわね。和尚様も仰っていたわ、料理は愛情がこもってないとダメだって」

 首を横に振りながら胸に顔埋めた梓の髪を撫でながら、千鶴は、自分の為に泣いてくれる愛しい妹を胸を胸に抱き締めた。

 今でも千鶴の心が動くのは、妹達と耕一の事だけ。
 他の人に見せるのは、その模倣。

 壊れているのだ。
 感情が、心が。

 子供っぽい仕草もそうだ。
 子供の頃、まだ仮面をかぶる前の記憶の再現。
 良い娘、良い姉を演じた頃の名残。

 妹達に、両親や祖父に嫌われたくなくて、身に着けた演技。

 本当は嫌いだった。
 期待を掛ける祖父が両親が。
 期待を裏切れない自分自身が。

 ――恨んでいたのかも知れない。

 千鶴は梓の頭を撫でながらそう思った。

 鶴来屋や祖父、両親さえ。

 自分一人に柏木の重責を背負わせた祖父を。
 鬼に負けた父を。
 自分達の為には生きてくれず、一緒に連れて行ってくれなかった母を。

 今でも、恨んでいるのかも知れない。
 妹達さえ。
 妹達がいなければ、死ぬ事も出来た。
 だから、こんな酷い事が出来るのかも知れない。

 初音や楓から、耕一を奪って平気でいる自分を、千鶴はそうも思った。

 だが、いま千鶴が信じられる自分の心は、耕一に対する愛情だけだった。

 リズエルの記憶を取り戻すまで、耕一の本当の苦しみも、不安も判らなかった。

 しかし、今なら判る。
 耕一が心配していたのは、壊れた自分の心。
 リズエルの記憶が追い打ちをかける、壊れかけた心。

 こんな。
 こんな壊れかけた心の自分でも愛してくれる。
 耕一がいなければ、リズエルの記憶と共に、壊れていただろう心を抱えた自分を愛してくれる。
 妹達と耕一がいる。

 だから、生きて行ける。

 梓の頭を抱き締め、千鶴は頬を髪に擦り寄せた。

二章

四章

目次