二の章
ガコンという鈍い音に千鶴が視線を下げると、胸にジュースの缶を抱えた楓が、胸にからこぼれ落ちた缶をしゃがみこんで拾っていた。
「…楓」
「………」
肩を微かにピクンと震わした楓は、拾いかけた缶に手を伸ばしたまま、動きを止めた。
コインを入れていた自動販売機に括り付けてあった袋を無造作に取り、千鶴もしゃがむと缶ジュースを拾い始める。
「…大丈夫。心配ないわ」
自分に言い聞かせるように千鶴は呟く。
「…でも、姉さん」
「初音が一緒よ」
そっと不安げな瞳を向ける楓を安心させようと、千鶴は柔らかい眼差しで笑みを向ける。
「…ええ」
安堵の吐息を洩らすとコクンと頷き、楓は首を捻り後ろを振り返った。
千鶴も楓の視線を追い、道路の反対側に大樹の広がりを見せる公園に顔を向けた。
楓がその中を急いで走り抜けてから、まだ十分と経ってはいない。
公園は交通量の増えた道路の向こうで、喧噪とは無縁に緑の闇に包まれ静まり返っていた。
駆けつけた楓に事情を説明したのは、美冬だった。
なおも警戒しつつ楓を見る男(美冬は柳と呼んだ)を、巫結花のボディガードだと紹介した美冬によると。
美冬と柳(りゅう)が実戦稽古をしていた所、美冬が襲われていると誤解した梓が、柳に殴り掛かったらしい。
それだけにしては、その場の雰囲気の異常さを感じ、眉を潜めた楓に耕一も説明に加わった。
顔色はまだ悪かったが、美冬が楓に説明している間に、耕一と千鶴は冷静さを取り戻していた。
美冬達の修めた拳法はスポーツ化した武術と違い、簡単なルールはあっても、実戦稽古となれば大怪我や命を失う事は覚悟の上での殺し合いに近いのだという。
殺し合いはスポーツとは違う。
どれほど真剣に取り組もうと、訓練は訓練でしかない。
死の恐怖と沸き立つ血を押え、瞬時に反応する身体を作り上げるのは、命を賭した駆け引きの中にしかない。
死線と隣り合わせ生き延びた者だけが、本当の強さを身に着ける。
人間としての理性が否定しようと、エルクゥの本能が千鶴や楓にそう囁く。
美冬の方が驚いていたが、二人は理解出来る事を哀しく思いながら、耕一の説明に頷いていた。
そして次に自分のなすべき事を考え始めた千鶴に、耕一は、楓と飲み物を買ってくるように頼んだ。
いや、命じた。
それは命令だった。
いつもの軽い口調で頼みながら、耕一の瞳と気配には千鶴にさえ反論を許さない厳しさがあった。
躊躇う楓を連れ飲み物を買いに向かった千鶴は、道すがら楓に何があったのか話して聞かせた。
それで楓にも、耕一と千鶴の様子が判った。
だが、初音は巫結花と一緒に居る。
そう初音の前で、耕一がなす筈がない。
「姉さん、こっち」
自分の結論に少し安心した楓は、自販機からもう一つ袋を取ると千鶴に口を広げてみせる。
「え?」
「熱いのと、冷たいのが一緒じゃ」
あっと声を洩らすと、苦笑いを浮べた千鶴は熱い缶を楓の広げた袋に移し始めた。
「さあ、早く戻らないと」
そう言って立ち上がった千鶴の足取りは、軽い口調とは裏腹に重い。
「…ええ」
楓も姉の背中を見ながら、頷いて歩き始めた。
無言のまま森を抜け二人が戻ると、浜辺の丸太を半分に切ったベンチで耕一は地面を見つめ腰を下ろし、耕一を囲むように美冬と柳は立っていた。
少し離れたベンチでは、巫結花が初音の肩を抱き座っている。
梓は一人離れた木陰に座り込んだまま、険しい顔で考え込んでいた。
千鶴と楓は期せずして、同時に大きな吐息を洩らした。
席を外している間に何事もなかった安堵。そして千鶴は梓の姿に後悔をも覚えて。
――梓にも気の話をして置くべきだった。
知らず千鶴は唇を噛んでいた。
昨夜、巫結花達が鬼の気を感じ取れるのを話して置けば、梓も軽率な行動を取らなかった筈。
だが、今は後悔より梓の慰めより、先にやる事がある。
楓を促し千鶴は耕一の座るベンチに向う。
何かが狂い始めている事に、千鶴も楓も気づいていた。
梓からはいつもの陽気さが消え失せ、いつもなら梓を心配して側に着いている筈の初音は、巫結花から離れようとしない。
梓の様子は、まだ理解出来る。
千鶴の知る梓の力なら、千鶴は耕一の手を借りる事なく梓の拳を躱せた筈だった。
千鶴が割って入った時の梓は、鬼の本能のまま獣の――エルクゥ本来の力を奮っていた。
自分が無意識に解放した力の結果に梓が思い悩んでも、何ら不思議はない。
しかし初音の様子は、千鶴と楓がうすうす感じていた予感が現実になったのかも知れなかった。
生まれて初めて見る殺し合い。
梓の鬼に加え、千鶴と耕一の鬼までを眼にし、一歩間違えれば千鶴は死ぬ所だった。
それも梓の手によって。
初音の中のリネットが目覚めても、不思議ではない衝撃を受けた筈だ。
直ぐにでも、初音の側に着いていてやりたい。
いつかこの日が来るのを覚悟していた二人の想いは同じだった。
だが、美冬達が一緒の状態では、まだそれは出来ない。
――言い訳かも知れない。
千鶴の頭の隅を言葉が掠めた。
いつかこの日が来る事を覚悟しながら、現実を突き付けられるのを恐れ、初音を避けているのかも知れない。
その半生を、次郎衛門と共に悲しみと罪を共有したリネットの記憶を取り戻した初音が耐えられるのか?
共に支えあった次郎衛門は、もういない。
耕一は次郎衛門ではないから。
――次郎衛門とリネットが共有した半生に?
欺瞞だ。と、千鶴は思った。
梓の言う通り、自分は偽善者なのだろう。
恐れているのは初音の苦しみより、慰め合い慈しまれたリネットの記憶が、耕一にどう働くか。
――嫉妬…なのだろう。
耕一とは違うと思いながら、耕一の中に在り続ける次郎衛門に愛されたリネットへの嫉妬。
ただひとりに注がれた愛情への、胡麻化しようのない羨望。
初音の心配より不安に思っているのは、耕一の中の次郎衛門が蘇ったリネットに向けるだろう想い。
眼を背ける訳には行かない。
もう、逃げないと決めたのだから。
自分の中にどんなに醜く身勝手な感情があろうと、それを認め乗り越えなければ、耕一との暮らしをも失う。
――まだ、踏み出した一歩目にしか過ぎない。
軽く唇を噛み、千鶴はそっと耕一の隣に腰を下ろした。
気を張り詰めた美冬と柳にジュースを勧めた楓は、二人が首を微かに横に振ると、耕一を挟み千鶴の反対側に腰を下す。
「…人、増えてたかな?」
楓が腰を下ろすと、耕一はぼそっと問いを洩らした。
楓と千鶴、二人ともぴくんと体を震わし、下を向いたままの耕一を窺った。
二人が眼にした横顔は、普段の耕一からは想像も出来ないほど無表情だった。
「一人か二人、見かけたぐらいです……」
「そう、さっき浜を走ってる人もいたな。……冷たいのくれる?」
何げない会話の裏に秘められた意味に頷きながら、千鶴は耕一にジュースを差し出した。
この近くには、人気がない。
初音の前でも、耕一はやる気だ。
何かを振り切るように、耕一は高ぶる緊張にからからに乾いた喉にジュースを一気に流し込む。
ジュースを飲む耕一からさりげなく視線を上げ、千鶴は美冬と柳の様子を窺った。
美冬は耕一の正面、耕一のただならぬ気配に緊張した面持ちで、背後の樹に持たれ掛かっている。
柳はあからさまに警戒を強め、耕一の座るベンチと巫結花のベンチの間に立ち、いつでも動ける体勢でいる。
しかし、柳の警戒も無駄な事でしかない。
千鶴同様、楓もまた覚悟を決めていた。
鬼の気が感じ取れる美冬達では、胡麻化しようがない。
道は二つに一つ。
美冬達が梓の力を忘れるか、あるいは………
楓には、耕一と姉だけに背負わす気はない。
「美冬」
飲み干したジュースの缶を地面に置き、耕一は静かに呼んだ。
美冬は電撃に打たれたように硬直した。
静かな耕一の声に含まれた哀願にも似た哀しい響きと、強い力に打たれて。
「忘れろ」
ゆっくり顔を上げた耕一の瞳に見つめられ、美冬は呼吸すらを忘れた。
息が詰まり鼓動が一気に跳ね上がった。
膝から。身体中から力が抜け、持たれた樹に寄り掛り立っているのさえ辛い。
粘つく汗が身体中から吹き出し、急性貧血を起こしたように頭がふらつき眼が霞む。
呼吸を忘れ震える身体が息をしようと、ひりつく喉が微かな喘ぎを洩らす。
美冬が己の身体から力を奪い取ったのが、恐怖だと気づくのに数瞬を要した。
否を言わせない強い瞳。
耕一から感じる強烈なプレッシャー。
人としての本能が告げた。
否と言えば。
言えれば、その後に待つのは……
「それで、貸し借り無しだ」
意識する前に、美冬は喘ぎながら頷いていた。
頷いた後で、頷けたのが耕一が殺気を緩めたお蔭だと気づいた。
そして耕一の影に隠れていた、もう二つの殺気にも。
気づいた瞬間、美冬は耕一に対する自分の評価の間違いにも気づいた。
垣間見た彼らの秘密に触れようとする者は、誰であろうと耕一は排除する。
甘さや情は、先ほどの殺気には一片足りともなかった。
あったのは強い意志と哀しみ。
そしてそれは、千鶴と楓も同様だった。
彼らの中には、誰も踏み込めない。
命を、その存在全てを賭けない限り。
「巫結花」
続いた耕一の静かな呼び声に、巫結花は僅かに顔を上げた。
その表情には、驚愕も怯えもない。
だが、耕一と巫結花の間に立った柳は動けないでいた。
守るべき主を背にしながら、巫結花を守るべく身に着けた一切の技が、無力なのを感じていた。
格が。
己を縛る殺気と、己のそれでは存在自体の次元が違う。
緩められた殺気ですら、美冬同様、己が鍛え抜いたと信じていた精神と身体を自由に出来ない。
戦いに置いて、相手の力を見抜かずに勝つことは出来ない。
命を削り合い幾度となく死線を越えてきた柳には、耕一と自分の間に横たわる力の差が、否定仕様のない現実として認識出来た。
余りに無力だった。
もし、耕一が襲いかかれば、柳には巫結花を守る術はない。
「頼む」
耕一は間に立った柳を無視し、巫結花を見つめた。
耕一の殺気に微動だにしない巫結花の隣から、初音は怯えた哀しい眼を耕一に一瞬向け。
耕一の瞳が微かに揺れた。
凄まじい殺気から巫結花を守るように抱き締めた初音の姿が、耕一の決意を揺らしていた。
耕一に取って永い永い一瞬の後、巫結花は微かに頷き、初音に笑顔を向けた。
耕一は安堵の息を長く吐き、抜き放った刃のごとき殺気を納めた。
耕一が柳を無視した事を訝しく思いながら、最悪の事態が避けられた事を感じ、千鶴と楓も緊張を解き息を吐いた。
納められた殺気に緊張の糸が切れた美冬は、づるづると樹の根にへたり込み。柳は地に膝を突き、二人共に荒い息を吐きながら額に浮かんだ汗を拭った。
柳は汗を拭いながら、己の主を振り返っていた。
主は微笑を浮かべ柳に頷きかけると、初音を安心させるべく初音の背を優しく叩いた。
ホッとした笑みを浮べた初音と、己が身動きすら取れぬ殺気を受けても微笑を絶やさぬ主の姿に柳の身は震えた。
柳とて武術では誰にも引けは取らぬ。
幾多の死闘を潜り、多くの命すらその手で奪ってきた。
その自分ですら無力でしかない殺気のただ中で、主は変わらず微笑みを浮べている。
今までも疑ってはいなかった。
しかし、真の貴人だった。と、柳は確信を深めた。
己が仕える主が真の貴人である感動と、貴人に仕えられる幸運に柳の全身は震えていた。
柳は主に膝を突いたまま向き直り、深く頭を垂れた。
己が無力を詫び、命を賭しても命(めい)を守る事を誓って。
柳には親や身寄りはない。
名さえない。
柳森厳(しんげん)と言う名さえ、高名な武術家にあやかり名乗ったに過ぎない。
巫結花の従者である事が、柳の誇りであり存在理由そのものだった。
耕一はその事を知っていた。
巫結花に命令していれば、柳は主の名誉の為に敵わないと知りつつ、耕一に拳を向ける。
主が脅かされ命じられる屈辱を受けるより、自らの死を持って主の名誉を守ろうとする。
柳は、そういう男だった。
だから、耕一は巫結花に頼んだ。
主が耕一の頼みを受け入れ、柳に命じた。
忘れろ。と、従者である柳は命に服するだけだ。
主が約定を違える不名誉を犯させぬ為。己が巫結花の従者であり続けるために。
巫結花が約した以上、柳は命に代えても今日の事は口にしない。
地面に座り込んだ美冬は、柳よりは複雑な気分だった。
まだ冷めやらぬ恐怖に、後悔と失意が混じり合っていた。
脅かされ傷ついたプライドより、耕一にそうさせた自分が情けない。
美冬は、耕一が簡単に人を脅す人間ではないのを知っていた。むしろそういう人間を軽蔑する男だった。
しかし、美冬に秘密を打ち明けるより、耕一は二者択一を迫った。
いや、友人だから、二者択一を選ばしてくれた。
あの殺気はそう言っていた。
忘れると言えば、二度と口にしないと信じてくれたから、耕一は選ばせてくれたと美冬には思えた。
信じてはくれている。
だが、秘密を打ち明けるほどには信じてくれてはいない。
それが情けない、それが哀しい。
――知りたい。
耕一が。
初めて心を割って話せる友人が、何故自分に殺意を向けるのか?
それ程までして守らなければならない秘密とは、なんなのか?
好奇心ではないと思う。
今になって美冬にも判った。
友人だから、大切な人だから知りたいと思う心。
打ち明けてもらえない、情けなさと苛立ち。
耕一の甘さだと思っていた優しさが、強さの裏返しなのが。
打ち明けられる秘密が大きいほど、受け止める側にも器の大きさが求めれる。
美冬にも、友達と呼べる人間は多くいた。
だが、親友と呼べる友はいない。
聞いて一緒に悩む事も、尋ねて嫌われる事からも逃げて、表面上の付き合いしかしてこなかった。
逃げていたのだろう。
他人の事情を背負い込む煩わしさから、己の心の中を見せる恐れから。
家やバックは関係なかった。
心の問題だった。
人を受け入れる心の余裕を無くしていた。
もっと早く。
昨年、耕一が悩んでいた時に尋ねるべきだった。
そうすれば、耕一の力にも、もっとなれた筈だった。
さかしい知恵と独り善がりな押し付けの知識ではなく、深い心の繋がりを持てていたかも知れない。
だが、今ではもう遅い。
もう、耕一は自分で立ち直っている。
失意の最中に力になれなかった自分には、尋ねる資格も、共に歩む事ももうない。
自分に出来る事は、耕一の信頼に応え、今日の事を忘れ友人として付き合って行くことだけ。
礼を失した非礼を注ぎ、義に乗っ取り友の願いを叶える事だけだろう。
少なくとも、美冬に借りを返すチャンスを耕一はくれたのだから。
そう考えると、美冬の目頭は熱くなった。
耕一と表面上の友人にしかなれない。
それ以上にはなれない自分が、美冬はなぜか悲しかった。
千鶴は座り込んだ美冬に近寄ると、そっとジュースを差し出した。
耕一が信用していなければ、二者択一すら与えなかっただろう千鶴には、他に出来る事などない。
美冬は差し出されたジュースを受け取り、からからに喉が渇いているのに気づいた。
ひりつく喉に冷たいジュースが流れ込む。
一息に飲み干し、顔を上げた先に千鶴の瞳があった。
なぜ悲しいのか、美冬は判った気がした。
千鶴の瞳には労るような優しさと、哀しみがあった。
耕一が時折見せた瞳と同じ光を持った瞳が。
耕一と同じものを見つめ、同じものを感じる瞳。
同じ苦しみを乗り越えた者にしか、持てないだろう瞳。
美冬には決して共有する事の出来ない、重さと深さを感じさせる瞳の光り。
それを自分が持ち得ないことが、悲しい。
耕一に取っての自分は、傍観者にしか過ぎないのだ。
友人として並べても、それ以上にはなれない自分を悲しんでいる美冬がいた。
「…そろそろ」
なんとか笑みを作り、美冬は声を出した。
無理に作った泣き笑いのような顔だったかも知れない。
「えっ?」
千鶴はキョトンとした顔をする。
さっきまで殺気を放っていたとは思えないどこか惚けた千鶴の表情に、今度は自然に美冬の頬に笑みが浮かんだ。
「朝食だけど、どうする?」
「えぇ、もう少しここに居ます」
その問いが梓の一件を忘れた普段の会話である嬉しさに、千鶴は感謝を込め微笑んで応えた。
「そう? じゃあ、先に帰るわ」
「ええ」
膝に手を置き立ち上がった美冬を見ながら、千鶴は美冬を強い女(ひと)だと思った。
友人から殺意を向けられた直後だというのに、どうして微笑む事が出来るのか?
「柳、ホテルに戻るわ。耕一、後でね」
そう言うと、美冬は振り返らずに歩き出した。
歩き出した美冬の後ろ姿を見ながら、千鶴は小さく息を吐いた。
美冬も、耕一を信じているのだ。
あの僅かなやり取りの中で、耕一の持つ悲しみと秘密の重要性に気づき受け入れた。
殺意を向けられた後でも微笑みかけてくれる友人、何も聞かず信じてくれる友人。
それは、美冬の耕一への信頼と友情なのだろう。
――私には、そんな友人はいない。
そう確信できてしまう自分が、千鶴は哀しかった。
千鶴はベンチに戻り、耕一の隣に腰を下ろした。
その千鶴の手を、耕一はそっと握った。
労るように手の甲をなぞる指を見ながら、千鶴は小さな息を吐いた。
哀しむ事はなかった。
一番大切な人は、いつも信じてくれている。
千鶴が眼を上げると、巫結花と柳も美冬の後を追って行く所だった。
梓は相変わらず木陰で座り込んだままだ。
巫結花と柳が美冬の後を追ったというのに、一人残った初音はベンチから動こうとしない。
耕一も千鶴も、まだ迷っていた。
初音に対してどうすべきなのか。
まだ記憶が戻ったのかどうかハッキリしない今の状態では、二人とも動けないでいた。
記憶が戻ったのなら、落ち着くまで耕一と千鶴は見守る事しか出来ない。
だが、記憶が戻っていないなら、避けるような行動は逆効果になる。
「初音のこと、任せてもらえますか?」
俯いて何事か考えていた楓が、千鶴達の当惑に気付き唐突に口を開いた。
「楓ちゃん?」
「姉さんや耕一さんより、私の方が……」
言い難そうに楓は言葉を途切れさせた。
「うん。ごめん、楓ちゃん」
耕一は楓の横顔を見ながら頷く。
初音が記憶を取り戻したとしても、耕一と千鶴には絶対に話さないだろう。
二人の間に割り込むより、自分一人で悩みながらも笑って見せる。
初音は、そういう子だった。
「…楓……」
声を掛けようとして、千鶴は何も言えなかった。
掛ける言葉がある筈がなかった。
楓と初音から、エディフィルとリネットから最愛の人を奪ったのは自分なのだから。
だが立ち上がった楓は、全てを承知したように微笑みながら頷き、初音の座るベンチに歩き出した。
「千鶴さん、梓の事だけど」
耕一は手の甲を指でなぞりながら話題を移し、ゆっくり口を開いた。
「ええ、叱るわけにはいきませんね」
わざと軽い調子で話しかける耕一に、千鶴も勤めて軽く応えた。
「うん。教えて置かなかった俺のミスだし」
「それは、私もです」
少し慌て気味に言いながら、千鶴は耕一の手を握り返した。
「いや、それは……」
「耕一さんの悪い癖です」
反論しかけた耕一は、千鶴の少し硬くなった声に眼を上げた。
「なんでも、自分が悪いと思うのはやめてください」
眼を細め睨むように見つめる千鶴の声は、優しかった。
「…なんか、それって、前に俺が千鶴さんに言った気がするんだけど?」
「えっ? そ、そうでしたか?」
ばつが悪そうに眼を逸らすと、千鶴は視線を地面に落した。
「でも、お願いですから、一人で考え込まないでくださいね」
「うん」
安心させるように千鶴の手を握ると、耕一はゆっくり頷く。
「梓には、私が話します。……あの件も」
「いいの?」
千鶴は顔を上げ真っ直ぐ耕一を見る。
「梓が決める事です。選択肢が増えるだけですから」
「それは、そうだけど……」
耕一は続く言葉を飲み込んだ。
梓の性格では、断る訳がない。
それは千鶴も知っている。
言わなくて良い事を言おうとした耕一は、気弱になっていたのかも知れない。
「耕一さん。たまには、私にも梓の教育を任せてください」
黙り込んだ耕一に、千鶴は頬を膨らます。
「それとも、私じゃ不安ですか?」
拗ねた様に口を尖らすと、千鶴は耕一に首を傾げて見せる。
「せっかくだから、任せるかな?」
苦笑を洩らしながら耕一が首を捻って見せると、千鶴はコックリ頷いた。
「それと梓に体調が悪かったら、すぐに知らせるように言ってくれるかな」
「なにか心配でも?」
耕一の厳しくなった表情を見て、千鶴も真剣に聞き返した。
「柳の掌底は赤レンガ十コを軽く砕く、普通なら即死してる。力を使ってなかったら危なかった」
「そんな」
もし、鬼を使わず梓が殴り掛かっていたら。
千鶴は血が引く思いがした。
「不幸中の幸いだった。もしも具合が悪くなっても、巫結花は気功で体調を整えられる。心配しなくても大丈夫だから」
安心させるように、耕一は手を千鶴の肩甲骨に添わすと力を込めた。
「ええ」
少し擽ったそうに肩をすくめ、千鶴は微笑を浮かべた。
「耕一さんは、少し休んでいてくださいね」
腰を上げると、千鶴は心配そうに眼を細める。
緊張が解けたとはいえ、耕一の顔色は、まだ良いとは言い難かった。
「うん、そうするか」
長く息を吐いた耕一は、歩き出した千鶴の後ろ姿を眼で追う。
強くなった。と耕一は思った。
梓に千鶴と耕一が期待しているもの。
それは千鶴に。いや、千鶴と美冬に欠けているものだった。
以前、美冬について張氏と話している間に耕一が気づき。
千鶴も、最近自分自身で気づいたもの。
梓に千鶴は自分自身に欠けているものを、話す気でいる。
耕一には、そう思えた。
それは経営者としてより、人間として欠けているものかも知れない。
認めてしまうのは簡単だが、自分で自分自身の欠陥を話すのには勇気がいる。
不安に思いながらも、耕一は自分の弱さを認められるようになった千鶴を愛しく思い。
細めた眼で、千鶴の後ろ姿を見つめていた。