一の章


 ――……だ…れ…?
 ――…どうして?

 幾度も繰り返した問いを、幼い心がまた繰り返す。

 ――…どう…して…泣いてるの?

 ――答えが返る筈はないのに。
 ――だって、…夢だもの。

 実態のない闇に浮ぶ震え続ける身体を。
 自分の胸に顔を埋め嗚咽を響かす男をもう一度、胸に抱き寄せてみる。
 幾度も繰り返した空虚な喪失感だけを味わう、手ごたえのない虚しい行為を。

 ――…どうして…胸が痛いの?
 ――…どうして…哀しくなるの?

 いくら力を込めても、感じられない腕の中の温もりに。
 男の人だとしか判らないのに、ひどく懐かしく大切に感じる腕の中の者に、なにも出来ないもどかしさと哀しさが。
 胸を切り裂かれる切なさが、心を軋ませる。

 ――もう夢だって、判ってるのに。

 ――……でも……だれの夢?
 ――…あたしの…夢じゃないの?

 ふっと湧いた疑問が、切ない悲しみを紛らわそうと答えを求める。

 ――…千鶴…お姉ちゃん?
 ――…梓お姉ちゃん?
 ――それとも……楓…お姉ちゃんの?

 姉の寂しげな瞳を思い描いた瞬間、胸に抱いた男が不意に動いた。

 ――…あなたは、だれ?


 ゆっくり開いた眼を眩しい光に射られ、再び閉じた瞼を擦りながら、初音はベッドの上で半身を起こした。

「……また………」

 ――顔、見えなかった。

 初音の呟きは最後まで声にならず、小さな拳を握った胸から洩れた溜息に混ざった。

 今年に入ってから、時々見るようになった夢。
 泣いている男の人を抱き締めている夢。
 初音の胸を、張り裂けそうに哀しく切なく締めつける夢。
 いつも男の人が顔を上げようとすると、霧が掛かったようにぼやけて消えてしまう。

「…お姉ちゃんじゃ…ないよね」

 隣のベットで眠っている楓に、初音は小さく問い掛ける。
 しかし、静かな寝息を立てる姉から、返事はなかった。

 鬼の血の力か、初音はたまに姉達と同じ夢を見る事があった。
 主に梓の夢が多い。
 初音や梓は教えられていないが、千鶴と楓は、初音が夢を同時に体験する事を知ってから、力の強まる満月期には睡眠薬を使うか、なるべく意識を閉ざしていた。
 それでも、たまに初音は悪夢にうなされる。
 千鶴は自分の夢の影響だろうと考えていた。
 父や叔父の鬼に苦しむ姿は、悪夢以外のなにものでもなかった。
 いまだに千鶴は、うなされる事があった。

「…着物…だったもの、昔の人だよね」

 唇を指で押えそっと呟いた初音は、楓を起こさないよう静かにベットから抜け出した。
 窓際に立ってカーテンの隙間から洩れる光を受け、眩しさに目を細めながら息を吐き出す。

 夢の中で見知らぬ懐かしさを抱き締めながら、同時にいつも誰かの視線を感じる。
 憎しみ、悲しみ。そして、僅かに羨望を感じさせる燃えるような瞳。
 昔から良く知っているような気がする、憎悪に満ちた瞳。
 その瞳が見つめているのは、胸に抱いた男性。
 初音には、その視線が霞が掛かったように夢を儚くしている気がした。

 カーテンの隙間から外に目を向けると、晴天の広がる空から眩しい光を受け、湖面が光を散らしていた。
 初音は陽の光を受け綺麗な空気を胸一杯に吸い込みたいと思った。だが、高層にあるこの部屋の窓は開くようには出来ていない。
 そのまま踵を返しベットルームを抜け出す。
 もの悲しいもやもやした気持ちをすっきりさせようと、初音は散歩に出掛けることにした。

「あれ、初音も起きたのか?」

 初音が顔を洗いにバスルームに入ると、もう先客がいた。

「おはよう、梓お姉ちゃん。早いんだね、旅行中ぐらい、ゆっくり寝てればいいのに」

 重い気持ちを気付かれないよう、初音は精一杯の笑顔を梓に向けた。

「おはよ。いつも早いからさ、身体の方が勝手に起きちゃうんだよ」

 ごしごしタオルで顔を拭き、梓は大きく伸びをする。

「せっかくだから散歩でもしようと思ってさ。初音もどう?」
「うん。あたしもお散歩しようと思って。千鶴お姉ちゃんは?」

 梓は一瞬眉を潜めると、クルッと背中を向け、もう一度顔を拭き始めた。

「…こんなに早く、起きるわけないよ。楓は?」
「あっ!…うん、楓お姉ちゃんもぐっすり寝ってるよ」

 この部屋の一室に昨夜から耕一が泊まっていたのを思い出し、初音は慌てて言うと赤い顔を洗い出した。

 そう、昨夜喉が渇いて起き出した初音が見たのは、明け方見た夢とは違い、夢ではなかった。
 楽しそうに言い争う姉と耕一も、抱き合った二人も……

 初音は火照った顔を水でばしゃばしゃ洗い、自分が犯した恥ずかしい行為を忘れようとした。
 妹でも誰でも、覗き見していい筈がない。
 そう自分に言い聞かせ、初音は胸につかえた名状しがたい気持ちを、罪悪感だと言い聞かせた。

 沈み込みそうな気持ちを大きく吸った息に乗せて吐き出し、初音は鏡に写った自分の顔に笑顔を向けた。

「お兄ちゃんとお姉ちゃんにも、ちゃんと笑えるよね?」

 鏡の中で微笑む初音に問い掛け、頷き返した初音は、パジャマを着替えると、散歩に行く旨をメモに書いてテーブルに置き、梓と朝と散策に出発した。



 ホテルの背後から横に広がる湖畔沿いの浜辺は、横に長く伸びるフェンスの中が私有地になっていた。
 人気のない浜を、時折寄せる波の音に耳を傾けゆっくり歩く。
 スッと息を吸い込むと、湖面を渡る湿った風に冷やされた空気が心地好く胸を満たす。

「匂いがしないね」

 爽やかな風と心地好い波の音に気持ちは晴れたものの、磯の香がしないのが少し寂しくて、初音はぽつんと洩らした。

「そりゃね。いくら大きいったって、湖だもんな」

 梓も少し物足りなさそうに、深呼吸を繰り返す。

「それにな」

 チラッとフェンスの方に視線を移し、梓は小さな溜息を吐く。

「うん」

 初音も梓がなにを言いたいのか気付き、こくんと頷いた。

 梓の視線の先。フェンスの向こうには、四車線の湖岸道路が走っている。
 早朝とあって交通量は少ない。
 しかし暮らして来た環境が静かなせいだろう、初音と梓には、波に混ざる車の音だけでも、かなり耳障りに感じる。

「このまま真っ直ぐ行くと、公園があるって。かなり大きいらしいから、そこまで行ってみようか?」
「うん」

 初音はコックリ頷き、二人は浜辺をぶらぶら歩き出した。

 ホテルのフェンスを抜け一度道路側の歩道に上がると、木立一杯に緑の葉を繁らす公園は、すぐに見えてきた。
 フェンスの切れた場所に湖岸を横断する有料道路の橋が行く手を遮るようあり、橋を挟んだ反対側に公園はあった。
 なにかの史跡を公園にしたらしく、案内図を横目に過ぎると樹木が鬱蒼と立ち並ぶ森に、緑の清涼な香が色濃く流れ。繁る葉に遮られた緑の闇の中、木漏れ日がカーテンのの襞の如く霞みに映える緑を揺らしていた。
 山懐に抱かれた地に育った梓と初音には、樹木に囲まれた森は珍しくもないが、小鳥の囀りと光が作り出す幻想的な光景は深い安らぎを与えてくれる。
 一抱えもある樹木を見上げながら進んでいた森の中ほどで、梓と初音は足を止めた。
 鳥や獣ではない、奇妙な声が聞こえたのだ。

 早朝の森に響いた鋭い奇声に、初音は身を竦ませ梓の腕を握った。

「…梓お姉ちゃん」

 そっと腕を握った初音を安心させようと、梓は初音の肩に手を置き力を込める。

「大丈夫だって。どっかの馬鹿がはしゃいでるだけだよ」

 馬鹿にしたように梓が鼻で笑って見せると、初音は少し安心したように息を吐く。
 余裕を見せて呆れた様に大袈裟な溜息を吐き出し、梓は初音を伴い歩き出した。

 初音には笑って見せたが、梓の勘が普通の声とは違うと言っていた。
 なにより聞こえた声には力があった。
 鬼のような圧倒的な力ではないが、並の人間のものでもない。

 小鳥の囀りが消えた森を、初音を促し抜けようと歩き出した梓の足は、知らないうちに早くなっていった。

 見知らぬ土地への不安が、梓の焦燥を誘っていた。
 何処にどんな危険が潜んでいるか判らない。
 早朝の鬱蒼とした森の中。
 梓もまさかとは思うが、腕の立つ犯罪者や変質者の類が居たとしても不思議はない。
 過敏すぎるのは判っているが、緑に囲まれ視界を遮られた薄暗い樹木の圧迫感。旅行先の不安と過度とも言えるテレビや週刊誌から得た都会での犯罪事件の情報が、梓に危機感を与えていた。
 梓一人なら、相手が拳銃でも持っていない限りどうにでもなる。だが初音が一緒だと話は変わってくる。
 初音の安全を第一に考え、梓は早く森を抜け開けた場所に出ようとしていた。

「梓お姉ちゃん!」

 初音に森を抜ける寸前鋭く呼ばれ、梓は足を止めた。
 聞き返す必要はなかった。
 森を抜けた浜辺で対峙する二人が、梓にも見えていた。

 一人は見事な肢体をスリムジーンズとTシャツに包み、長い髪をポニーテールにした切れ長の瞳を細めた女性。
 今一人は、痩身の体躯をトレーニングウェアに包んだ酷薄な双眸を光らせる男性。

 女性は梓と初音が知った顔だ。
 昨夜とは髪型が違うが、美冬に間違いなかった。

 異様な殺気を孕んで、二人は睨み合っていた。
 ジリジリと動く爪先。
 呼吸すら感じさせない、静かな息。
 どちらも油断なく相手の出方を探っている。

 ふっと美冬が息を吐いた瞬間。
 初音には男の姿が消えたように見え、梓はその動きに目を見張った。
 梓の瞳が捕らえた男の動きは、常人を越えていた。
 美冬が息を継ぐ前に、男は瞬時に間合いを詰め懐に踏み込んでいた。

 美冬が見せた隙は誘いだった。
 繰り出された右掌底を僅かに身を引いた美冬は、体を捻って避け。美冬の動きを読んでいた男は、掌底は牽制と左手刀を繰り出す。
 手刀を紙一重で躱した美冬は、手刀に体を添わせ伸びきった腕を絡めるように右の突きを放つ。が。男に右手で受け流され、逆に鞭のようにしなる左足が美冬の側頭部目がけ蹴り上げられる。
 絡めた左腕をへし折ろうとしていた美冬は、これも紙一重で避けた。だが、顳かみを掠めた蹴りに軽い脳震とうを起こし、美冬は体勢を崩し男の左腕を放してしまう。
 頭を振りながら素早く下がった美冬の前髪を掠め、男の蹴り上げた脚は踵落しに浜を抉った。

 どちらも本気だ。
 鬼の力により強化された梓の動態視力でも、その動きを捕らえるのがやっと。
 その一撃一撃の持った威力は、充分死に結びつく。
 初めて見る生の殺し合いに、梓のうちに奇妙な既視感と高揚が沸き起こっていた。

 戦う二人の間に沸き立つ炎に懐かしさを、身体の芯を熱くたぎらせる高揚感を。
 奇妙な感覚に戸惑いながら二人を見つめ、陶然とした梓の口の端には、知らず笑みが浮かんでいた。

「…梓お姉ちゃん」

 腕をぎゅっと握った初音の弱々しい声で、梓はハッと現実に立ち戻った。
 なにが起こっているか判らないまでも、初音は異常な気配と腰の砕けた美冬の姿に顔色を無くし、どうすればいいのか、梓に問うような瞳を向けていた。

「初音、あっ……」

 初音に人を呼びに行かせようとして、梓は口篭もった。

 ――間に合わない。

 梓が惚けている間にも、既に美冬は防戦一方になっている。初音が誰か呼んでくる頃には、手遅れになる。

 ――美冬を男から逃がせば、男に一撃を加え美冬を連れて逃げれば。

 素早く梓は考えをまとめた。
 並みの男ではない。鬼を使わなければ、梓では相手にもならないだろう。だが、鬼の力を知られる危険を犯すことにもなる。
 しかし、梓には昨日知り合ったばかりでも、このまま美冬を見殺しには出来ない。

「初音、隠れてろ」
「えっ!?」

 梓は初音の返事を待たずに走り出した。

 死なない程度に手加減して男を殴り倒し、美冬と初音を連れて逃げれば、鬼の力はバレなくて済む。
 人気の多い道路まで出れば、男も追って来ないはず。

 ――あいつに確実に一撃を加えるには。

 走りながら鬼を慎重に開放し、梓は男に殴り掛かった。



 樹木の清涼な香に包まれ、巫結花は半眼に目を閉じ巨木の根元で結跏趺坐(けっかふざ)を組んでいた。

 ――良い気になった。

 巫結花は己が白色の気と触れ合う緑の気の持ち主に賞賛を贈った。
 樹木と同じ色の清涼さを感じさせる気は、気の持ち主の純粋さと清廉な人柄を感じさせる。
 それ故、巫結花には残念でもある。
 この純粋さを保つには、現つは欲と情念にまみれすぎ、過ぎたる純粋さは傷つけられる方が多い。
 一度は現(うつつ)と幽玄の狭間たる仙境に誘おうと試みたが、緑の気の主はそれを望んではいなかった。
 本人が望まぬ以上は詮ないこと。と、巫結花も諦めた。

 ――それも致し方なし。

 緑の気に混ざった紫の気に意識を向け、巫結花は微かな笑みを浮かべた。
 緑と紫の気の繋がりは深く強い。
 持ち主の心と身体、双方の繋がりを示すように。

 現において陰陽揃わば、そは現も仙境となろう。と、不埒にも自らの前に交わりの残照を残す身を現した主の豪胆さに、巫結花は少々呆れもした。

 ――されどそれは、主は承知のはず。
 ――さらば、その良き気に浸るも不徳とはなるまい。

 巫結花は大きな安らぎに満ちた気に自らの気を乗せ、その心地好さにしばし微睡む。
 眩き緑と紫の気の波動は、幾重にも折り重なり引き合い、見事なる調和を奏でていた。

 ――稀有なるかな。

 この二つの気もそうだが、昨夜見た緑を中心に折りなされる気は、まさに稀有と言えた。
 緑を中心に集う鮮やかな色達、紫、青、赤、そして………
 それぞれが緑を核に深く強く繋がっている。

 人が意識しようとしまいと、世は調和の上に成り立っている。
 緑を中心に調和を成したる気の波動は、仙境の調べのごとく美しく、巫結花の心を引きつける。
 仙女の異名を与えられた巫結花にして初めて感じる、眩く美しき大きな流れ。

 ――緑なくしては、調和は崩れような。

 これ程の調和なす気の核たる緑が、集う気の主達に慈愛を現すは自然の理(ことわり)。そう巫結花には思えた。

 ――ならば、たうたうも良し。

 巫結花は気を緩やかな流れより戻し、静かに頬を緩めた。
 この調和が周囲を引き寄せ、いかに大きく美しく花開くか、巫結花には楽しみな流れだ。

 ――ルドラ?

 不意に異質な気が周囲の気を乱し、巫結花は心地好さに緩めた表情を引き締め、眉を潜めた。

 ルドラ――世の全てを破壊する神の暴風。

 異質なる熱き気を、巫結花はそう感じた。
 人が持ち得ない異質にして熱く大きな気、混沌たる始源の如き荒々しき力に満ち溢れた気。

 ――しかし、これは。

 強さも感覚も違う。しかし、その異質さに巫結花は覚えがあった。
 数瞬遅れた緑の気の揺ぎが、異質なる気に気づいたのを巫結花に教える。
 だが、緑の気より先に紫の気が変化を起こした。
 紫の気が朱金の光を輝かせ巫結花の元より遠ざかる。一瞬遅れ緑の気が太陽のごとき光彩を放ち、朱金の光を追う。
 どちらも異質にして強大だが、緑より変化した気は先の二つを遥かに凌駕する。

「神人(かむびと)…か?」

 知らず巫結花の口から呟きが洩れた。

 神人とは、先天的に神仙になれる資質を持つ者の事だ。
 かって感じた気の本質を片鱗すら見極めていなかった。その思いと、有り得ない気の強大さが巫結花に禁を破らせていた。
 五歳より十二年、自ら言霊を封じた巫結花の呟きを聞いた者は誰も居ない。

 しかし、いかに強大にして破壊的であっても気は持ち主の心次第。
 あの者達ならば間違いは犯すまい。そう断じた巫結花は心を静めた。

 気は全ての根源なのだ。
 いかに異質にして信じられぬほど強大であっても、巫結花に取って気を持つものは全て現実であり、存在し得ないものはない。
 ようは使いこなせるかどうかだ、使いこなせれば問題はない。

 息を深く吸い、巫結花は樹木を相手に気を巡らす行に戻った。



 巫結花に鬼の気をけどられる危惧で遅れた一瞬で、耕一は千鶴に決定的な遅れを取っていた
 梓の鬼気を感じてから瞬き一つの間に樹木の間を駆け抜け浜に飛び出した耕一は、一瞬の遅れが致命的になる恐怖に全身が泡立ち、千鶴を追い地を蹴った。



 絶え間ない攻撃の流れが一瞬止まった隙を突き、間合いを取ろうと後方に飛んだ美冬の動きは、そのまま止まった。
 男も追撃しようとはしない。
 二人の動きを止めた殺気は、美冬の向けられたものではなかった。にも関わらず、美冬の中に底知れぬ恐怖を生み出していた。
 本能的な恐怖が身体を凍り付かせ、信じられない殺気に思考は目の前の光景を拒否した。
 ぼんやりとした思考が、突然現れた第三者と男の一瞬の攻防をスローモーションのように美冬の瞳に映す。
 殺気の主の拳は、直線的な素人の動きだった。

 ――ある筈がない。

 拳の達人でも持ち得ない殺気を、素人が放てる筈がない。そう美冬の理性が訴えてた。


 異常な殺気を感じた男は、美冬から梓に注意を向けた。
 背後から走って来た梓は、既に男まで数歩の距離にまで迫っていた。
 鬼を使い一気に距離を詰めた梓の不意打ちは、完璧に成功だった。
 後は一撃を加え、美冬と初音を連れて逃げるだけだ。
 振り返った男に梓は拳を撃ち込む。
 鬼の力を解放した一撃は、手加減はしていても常人が避けられる筈がなかった。
 しかし、信じられない動きで梓が当たると確信した拳を男は紙一重で避け、逆に梓の懐に飛び込んで来る。
 拳を放った腕を脇に挟み、男は掌を梓の腹部に当て短い気合いを放った。
 密着した状態で腹部に気合いと共に気を打ち込まれ、梓は身体の芯に響く衝撃で息は詰り、眼が霞み頭の中が真っ白になっていった。

 美冬は梓が掌底を打ち込まれた瞬間、我に返った。
 カウンターで打ち込まれた掌底の打撃は、内臓破裂を引きおこす。
 梓は死んだ。その確信に、美冬は膝が崩れ唇を噛んだ。

 舌打ちした男は、無防備に梓から離れた。
 突然襲われ仕方なかったとはいえ、殺気は兎も角、動きは素人だった。

 ――不味い事を、殺す必要はなかった。

 梓の死にではなく主人に掛かる迷惑を思い、男は断腸の思いで梓に背を向けた。
 膝が崩れ茫然としている美冬に歩み寄ろうとした男は、総毛立つ恐怖に足を止めた。
 男の瞳が映しだした美冬の瞳も、驚愕に見開かれている。

 背を向けた男の背後で、異常な殺気が急激に膨れ上がっていた。
 訓練された身体が恐怖に反応し、考えるより早く瞬時に前へ転がろうとした。だが、それより早く一陣の風に男は弾き飛ばされていた。
 突然横合いから加えられた力に逆らわず、頭を庇い体を丸めた男は、ぐるぐると転がり勢いを消すとスッと腰を屈めた姿勢で立ち直り。
 突き飛ばした風と殺気の正体を眼にした。

 強烈な掌底に意識を半ば失い、歯止めをなくした鬼の攻撃本能のままに振り降ろされた梓の拳は、二人の鬼に止められていた。
 一人は男を突き飛ばし梓の間に割り込み、今一人は梓の拳を受け止めて。
 梓の拳が起こした衝撃波で長い黒髪を靡かせながら、間に割り込んだ女性の額すれすれで、いま一人の掌で拳は止められていた。

 赤く輝く双眸が徐々に理性の光を取り戻し、梓の拳からは力が抜け、ガクンと膝を折った。

「…ちっ…千鶴…姉………?」

 もう少しで頭を砕く所だった姉を見つめ、愕然と梓は呟いた。
 千鶴は大きく息を吐くと、梓の拳を防いだ主に視線を向け、暗く陰った表情で躊躇いながら眼を臥せた。

「すいません。耕一さん」

 耕一は掴んだままだった梓の拳を離し、千鶴を乱暴に抱き寄せ大きく安堵の息を吐きながら、腕の中の温もりを確かめるように力を込めた。

 浜に出た時には千鶴の力を持ってしても、男を突き飛ばすのがやっとで防御が間に合わなかった。
 耕一が防いでいなかったら、千鶴は額を柘榴のように割られていただろう。
 死を予感した千鶴の顔色も悪かったが、耕一の顔色は蒼白を通り越し白くなっていた。

 身体を痛いほどに締めつける震える腕が、千鶴が咄嗟に取った行動が、耕一に与えた衝撃を伝えていた。

「…ごめんなさい」

 耕一を固く抱き返した千鶴には、他に言える言葉がなかった。

 自分の拳を見つめながら座り込んだ梓と、状況を理解出来ず茫然と耕一達を見る美冬。状況を見極めようと油断なく警戒する男の前で、耕一と千鶴は互いの存在を確かめ合うように強くお互いを抱き締めあった。

 だが、もう一人その光景を見ながら震えている者に、その場の誰一人として、気づいてはいなかった。
 そして、その場から少し離れた樹木の間に居た一人だけが、その震えに気づき足を進める。

 樹木の中の小道を抜け、浜に面した場所に震えの源は存在した。
 そっと震える心と身体を抱き寄せると、ピクリと身体が震え、

「…巫結花…ちゃん?」

 小刻みに震える顔を上げ、初音は怯えた瞳を巫結花に向けた。
 巫結花はそのまま抱き締める力を強め、自らの気で初音を包む。

 ――調和を乱してはいけない。

 それは、なだらかな気に込められた巫結花の意思。
 穏やかに初音の怯える気を包み、慈愛に満ちた白き気が初音に流れ込む。

 初音は巫結花に抱かれたまま、ジッと目を瞑り心地好い流れに身を任せた。
 巫結花のそれは、まるでヨークから感じた心の繋がりが蘇ったかのような、心を直に和ませる安らぎ。

 自分ではない自分の心。
 耕一ではない耕一の記憶。
 千鶴ではない千鶴の記憶。

 梓に殺され掛けた千鶴の姿から受けたショックと、耕一と抱き合う千鶴の姿が、初音の中にあった記憶を呼び覚ましていた。
 獏とした感情と記憶が一気に押し寄せ、整理される事なく初音の中で渦を巻いていた。

 そして、自分の中の感情に戸惑い、初音は自分の感情に怯え震えている。
 ずっと感じていた、胸を締め付け切なくさせる感情の禍禍しさの正体に初音は気づいたしまった。

 姉を羨む、ねたみ嫉みに満ちた感情。
 あそこに居るべきなのは――耕一に抱かれるのは、姉ではなく自分なのだという想い。

 知りたくなかった心。

 一族を裏切った後悔より、姉達を亡くした悲しみより強かった。かって持っていた強い感情。
 愛した人と愛し愛され暮らした記憶。
 幾夜幾年繰り返した抱擁。
 腕の中で繰り返された切ない嗚咽、拭い続けた流れる涙。
 その果てに手に入れた幸せの記憶。

 そして、その愛情が自分ではなく姉に向けられている、自分の中に渦巻く羨望と憎悪……

 ――でも、わたしじゃない!。

 初音の中で、初音の部分がそう叫んだ。
 今の記憶が、かっての幸せを求める心を否定していた。

 悲しみの中で励まし合った姉達との思い出が、兄と慕う耕一と過ごした思い出が。
 初音の中のリネットが求める次郎衛門を、今の初音が否定する。

 認めれば、今の幸せが夢になるから。
 姉達も、耕一も苦しむから。
 知られてはいけない記憶、知らせてはいけない想い。
 みんなと、今を幸せに暮らすには、あってはならない想い出。
 思い出した後悔と狂おしい想いの狭間で軋む心が、柔らかく包む温もりに助けを求め、初音に震える目蓋を開かせた。

 恐る恐る目蓋を開いた初音の前に、引き込まれように深く澄んだ漆黒が広がっていた。
 黒曜石の澄んだ瞳を見つめるうち、初音の中の混乱は徐々に収まって行った。

 ――わたしが…胸に仕舞っておけば。

 巫結花の澄んだ瞳を見つめながら、初音はそう決心していた。

 徐々に落ち着きを取り戻す気を感じ、巫結花は微笑を浮べ柔らかな瞳を見つめ返しながら、初音を両腕で包み込む。

 巫結花の胸に顔を埋めた初音の頬を、止めどない涙が濡らす。
 思い出してしまった後悔か、今では伝える事も出来ない想いの辛さか、初音自身判らない涙が大地に滴り落ちる。

 抱き締めた初音の柔らかい髪を撫でながら、巫結花は視線を浜にそっと流した。

 そこにも揺れ動く気の波動を。
 熱く大きな気を感じる。
 撫でている初音の頭に眼を戻し、巫結花は胸で弱く震える心を抱き断を下す。

 ――あれには、試練こそが必要。

 初音の頭を撫で続ける巫結花に、砂を蹴る足音が近づいてくる。
 初音に気付かれないようそっと顔を音に向け、巫結花は首を横に振る。
 息を切らせて走ってきた楓は、戸惑った顔で立ち止まると、巫結花の胸で泣いている初音から、問いかけるように巫結花に目を移した。

 一人残された部屋で目を覚ました楓は、シャワーで汗を流している最中に梓の鬼を感じて感覚を澄ませ、続いて千鶴と耕一の鬼までを感じ、急いで部屋を後にした。
 鬼の気配を追い公園まで来たものの不意に鬼が消え失せ、あちこち探し回り、やっと巫結花にすがって泣いている初音を見つけた。
 しかし、初音に声を掛けようとした楓は、巫結花に見つめられ、声を掛けてはいけない気になって巫結花をジッと見つめ返していた。

 ――常人ならぬ気を持って生まれれば、その背負う運命(さだめ)も大きかろう。

 楓の迷いと悲しみに揺れる瞳が、巫結花にこの姉妹達が、常人にはない苦難を抱えている事を確信させる。

 楓を見つめゆっくり首を横に振り、巫結花は浜を見るよう楓に眼で促す。巫結花に促され浜を見た楓は、躊躇いながらも脚を動かしていた。
 なぜか初音を巫結花に任せて良い気がして、楓の脚は自然と浜に向かっていた。

 初音も心配だが、浜に座り込んだ梓も、抱き合った千鶴と耕一も。いや、美冬と一緒にいる男の様子も、その場に漂う気配全てが、なにか重大な事態があった事を楓に伝えていた。
 なにがあったのか判らない間は、迂濶に初音に声を掛けない方が良いのかも知れない。浜に急ぎながら、そう楓は自分の行動に理由をつけ、更に足を速めた。

二部 五章

二章

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