五の章


 大きく開かれた窓から望む靄に覆われた山々を、徐々に明るさを増す光がその形をあらわにして行く。
 夜と朝の狭間の薄明の中で、陰鬱な闇を晴らすように、光が湖面から立ち上る靄を晴らしていく。

 まだ夜明けまでは時間がある。
 夜でもなく、朝でもない。
 薄明に浮かぶ曖昧で模糊とした僅かな時間。
 柔らかな光が引き起こす変化を、ぼんやりとした瞳が映し出していた。

 柔らかな枕に背を預け、耕一は山並と湖から陰鬱な闇を払う薄い光が、明るさを増すのを眺めていた。
 全身を包む気怠く心地好い疲労感が、耕一の思考を低下させ。瞳に映る変化を、非現実な夢のように感じさせる。
 ある意味、確かに耕一に取ってこの一時は夢だった。

 一度は諦めた夢。

 しかし、夢ではなく紛れもない現実である事を、身体に伝わる温もりと、微かな鼓動。そして安らかな寝息が耕一に教えている。
 一人では大き過ぎ、二人では少し狭いベッドで、身を寄せて眠る女性に耕一は視線を移した。

 しなやかな裸身を擦り寄せるようにして眠る無防備な姿は、幼い子供が添い寝をした母親の温もりを求め、しがみ付いているような印象を与える。

 そして、その印象は正しい。

 妹達の為、家や会社を守る為。自分の感情を抑え張り詰めた気持ちを緩めた、千鶴本来の自然な姿なのだろう。
 他に頼る者もなく重責を背負わされた千鶴が、一切の責任も不安も忘れ身も心も休める時間が、耕一と過ごす二人だけの一時だった。

 そして、それは耕一も同じだった。

 自信があるように振舞ってはいるが、耕一には千鶴や従姉妹達を守り、鶴来屋を背負って行く自信はなかった。
 今までも自信があった訳ではなかった。
 千鶴が耐えてきた重責に眼を瞑り、自分には無理だと重責を千鶴に背負わせ続けられるほど、耕一は卑怯ではなかった。
 千鶴を安心させ共に生きて行くには、根拠のない自信であっても、耕一自身が自分に自信を持つ必要があっただけだ。
 そして、耕一に自信をを与えてくれるのは、千鶴や従姉妹達が寄せてくれる、信頼と愛情に他ならなかった。

 眠りを妨げないよう気を付けながら、静かに伸ばした指で、耕一は千鶴の額に掛かった髪を直す。
 うっすらと汗を滲ませ額に張り付いた髪を直すと、仄かに開いた唇から吐息のような声が洩れた。
 起こしたのかのと思った耕一は、そっと千鶴の顔を覗き込む。
 しかし、静かな呼吸は規則正しさを取り戻し、千鶴が眼を覚ます気配はなかった。
 安らかな寝顔を覗き込んだ耕一の表情が、穏やかな微笑みを浮べ、愛しそうに髪を指が嬲る。

 ふと耕一は、千鶴があの時の自分の悩みを知ったら、どう思うだろうかと思った。

 情けない顔をするだろうか?
 必死になって、抗弁するか?
 いや。きっと怒るかな?

 そう、千鶴なら怒るだろう。
 どうしてそんな事を考えたのか怒り、理由を知れば申し訳なさそうに自分を責め始めるだろう。
 それが耕一自身の心の問題であっても。

 千鶴に教える必要もなければ、知らない方が良い事だ。と、耕一は静かに息を吐き出し、窓の外で明け行く空に目を向けた。
 空は、かっての耕一の心のように薄い闇の膜を剥がし、明るさを増しつつあった。


 耕一が巫結花の家に泊まり込み一週間が過ぎても、耕一の気功の修行は、あまり進歩してはいなかった。
 巫結花の教え方は、美冬とはまるで違っていた。
 掌に気を集める替わりに、巫結花は自らの気で耕一の気を導いた。
 座禅を組んだ耕一の前に座った巫結花は、耕一に自らの気を送り、巫結花の気を熱として感じた所に耕一は意識を集中させる。巫結花が動かす気を追って、耕一は身体の中で集中する部分を変えて行く。
 それによって巫結花は、耕一に気の動きと感覚を覚えさせようとしていた。

 耕一も気づいていなかったが、美冬の教えで耕一が集中させ手を弾いた気は、耕一自身に気とは異なっていた。
 無意識に耕一は、鬼の力を使っていたのだ。
 それが美冬の感じた異質な気の正体であり。異なった二種の気の正体に興味を持った巫結花が、耕一に教える事を承諾した理由だった。

 巫結花は気の一元論を信じていた。
 気こそ全ての源であり、肉体や精神。この世にある全ての存在は、気の様相の一つに過ぎない。
 気こそは、万物の根源である。

 一人の人間が、その本質である気を二種同時に持つ事はありえないのだ。
 そして巫結花は、耕一本来の気に引かれていた。
 美しく力強い耕一の気は、巫結花には心地好く爽やかに感じられた。だが一方、耕一の隠している気は、今まで感じたいかなる気とも異なり、隠されていてさえ荒々しく強大で、巫結花の恐れをも招いた。
 本来の気を強化する事で耕一の荒々しい気を取り込み、一つにまとめる事を巫結花は考えていた。
 その為には隠された気を強めてはならなかった。本来の気を強めながら、隠された気はそのままにして置く必要がある。
 耕一の十分に強い本来の気を丹田に導き、身体を巡らす事で本来の気を強化し。その強化された気で隠された気を覆い、巫結花はそれを可能にしようとしていた。
 一つになった耕一の気は、伝え聞く先人達の強大で高潔な気さえ上回ると、巫結花は考えていた。

 気功を伝えた先人達。――気の源流は、健康法でも拳法でもなかった。
 その源は、仙人である。
 つまり気功とは、練り上げた気を肉体と置き換え、人が神に近づく方法に他ならない。
 その為に巫結花は俗界から耕一を引き離し、終日の行を課していた。
 しかし、気を練り上げる事を目標とし、人との接触を最小限に止めている巫結花は知らなかった。
 巫結花に気功を習う者が、自らと同じく孤高の高みを望む者だと考え、その道を望んでいない事を。

 そして耕一は進んでいないと思っていたが、巫結花の修行は確実に進んでいた。
 夜は早くに照明を消され、朝は日の出と共に起こされ、耕一は嫌でも規則正しい生活を送る事になった。
 耕一は気の動きを身体で覚えると共に、生活のリズムをも取り戻しつつあった。

 巫結花の課した修行は、昼から陽が落ちるまで続いた。
 その間、耕一は座り続け、巫結花の気の感覚を追うのだ。 これには集中力と忍耐を必要とし、耕一は夜には疲れ切り、ありがたい事に夢も見ずに眠れる日々を送っていた。

 だが、逆に困った事もあった。

 大学以外の外出を禁じられた耕一の話し相手は、自然家人に限定された。
 巫結花の家には多くの使用人と、張氏に教えを請う弟子達がいたが。それらの者達は、耕一が最初通された洋館に住んでいた。
 弟子は取っていないと聞いた耕一は最初訝ったが、この弟子達は、張氏のかっての弟子達が見込ありと送り込んだ師範候補で。それも張氏の目に留まり直接教えを受けられる者は、二十人近く居た弟子達の内、一人か二人に過ぎないと聞き、耕一は張氏が大変な人物であるのを実感した。
 その使用人や弟子達に取っても、耕一は主の客であり、礼を尽くす相手である。
 自然と態度はへりくだったものになる。
 話していても、美冬以外は逆に耕一が気疲れするほど丁寧なのだ。
 気が付くと日の出から昼まで、耕一は気功の動作を習った後、美冬相手に話し込むのが日課になっていた。

 その美冬の知識は、耕一の想像を超えていた。
 最初は気功の論理面について教えられていた耕一だが。ふと美冬が経済が専門だと言っていたのを思い出し、二、三質問した所から話は代わって行った。

 この頃には、もう耕一は響子から鶴来屋の内部情報を手に入れていた。
 その中にあった千鶴の立場の難しさが、耕一に専門家の美冬に質問をさせたのだが。聞きたかったのは、社内で足立しか味方のいない千鶴の立場でも、企業を運営して行けるかだった。
 しかし、専門の話を振られた美冬は、今の日本経済の問題点から、今後あるべき姿までを弁舌爽やかに語り。
 翌日から、経済を耕一に教え始めた。
 それは一般的な経済学とは違い、仮想の企業の経営方針をシュミレートしたゲームのようなものだった。
 違法とされる取り引き方法、成功を納めながら潰された企業の失敗などを元に、仮想企業間で経営戦略を練るゲームだ。
 美冬は毎日新たなゲームを耕一に仕掛け、耕一の犯した失敗と問題点に注意を与えた。

 耕一は知らなかったが日本の座学中心の方法と異なり、これはアメリカのビジネススクールで、実際に使われている現実的な教育法だった。
 ゲーム感感で楽しむ内、経済の知識を増やした耕一は、千鶴の置かれた立場の不安定さと重さ。そしておかしな部分をも発見した。

 企業は多くの役員、重役の総意で動いている。
 経営権を持っていても、実際に企業を動かしているのは多くの社員であり、その上に立つのが役員や重役である。その多くを敵に回しながら会長に就任しても、企業体の掌握は不可能だった。
 いや、むしろ内部の反発しか生み出さない。
 そしてそれは千鶴を取り巻く現実となっていた。

 鶴来屋内の反発と不満をさけるなら、足立を会長に立て、千鶴はオーナーとして経営にタッチしないのがベストの筈。

 この疑問が、耕一に鶴来屋の中枢を柏木が掌握する必要性。――柏木の血の秘密を守る為に必要な、鶴来屋の社会的地位の有用性に気づかせる事になった。
 だが、それでも後に株の所有率について聞くまで、耕一は千鶴の会長就任自体に納得が行かなかった。
 役員の過半数が反対すれば、千鶴の会長就任はなかった筈だった。そして、千鶴が利益の独占を謀り叔父を殺したという噂は、確実に会長就任への反対派を増やした筈だったのだ。

 だが、その疑問は耕一の中で先送りになった。

 巫結花の家に泊り半月が過ぎた頃。
 なんとか耕一も、次郎衛門と自分を別て考えられるようになっていた。
 これは規則正しい生活と、巫結花の課した行の副産物と言える。
 座して巫結花の気に意識を集中し半日を過ごすのは、瞑想と同じ効果を耕一に与え。なにも考えず意識の集中に費やす間に耕一の思考は整理され、完全ではないが現在と過去を切り離し、未来を考えられるようになっていた。

 その日の朝。美冬が耕一の部屋を訪れるまでは。

 その朝も日の出と共に起こされた耕一は、美冬の小言を覚悟していた。
 不健全な生活を送ってきた耕一には、どうしても夜明けと共に起きる事が出来ず、毎朝美冬に起こされては、眉を潜めての小言をもらっていた。

 だが、その日は少し様相が違った。
 不機嫌で苛々した様子の美冬は、耕一を起こした切りジッと床を見つめ、なにかを考え出した。
 耕一はなにか自分がしでかしたのかと考えてみたが、思い当たる事はなかった。
 どうかしたのかと思った耕一が声を掛けると、美冬は突然腰を折って謝り出した。
 いつも唐突な行動を取る美冬だが、簡単に頭を下げる人間ではなかった。
 謝る理由が判らず慌てる耕一に、美冬は書類袋を差し出した。どうやらその中身に、美冬の不機嫌さと謝る理由があるらしい。
 耕一は迷いながら書類袋を開け、怒りを通り越した奇妙な脱力感に襲われ、額を押えて大きな溜息を吐いていた。

 書類袋の中身は、耕一に関する詳細な調査書だった。
 御丁寧な事に、耕一の両親や従姉妹達の物まで入っている。

 溜息を聞きつけた美冬は、必死に弁解を始めた。
 美冬が言うには、耕一を張氏に紹介したのを聞きつけた親戚が勝手にやった事で、自分や張氏は知らなかった事だと説明し、他の書類は処分させたと話した。

 手元にある書類が一部であるのにも驚いたが、耕一は従姉妹達まで調べ上げる、病的とも思える猜疑心の持ち主を親戚に持った美冬を可哀想に思った。
 しかし耕一も、自分だけなら兎も角、従姉妹まで調べられては、それだけの説明では納得出来ない。

 調べた理由を問い質した耕一に、美冬はやっと自分の家族の話を始めた。
 美冬の家は、張氏と同じく政変化の中国を脱出した商家だった。
 香港で財を成し、世界へと散らばって行った。
 だが、その基本的な教えは儒教を元にする。

 儒教は人道を基礎とし、道を納めるを徳とし、徳を持って仁となす。
 現在の利益優先の企業を見る限り、この教えは廃れたようにも思えるが、核としてその精神は生き続けている。

 しかし問題もあった。

 徳を尊ぶあまり家長の権威は絶対であり、子が親に口答えをする事すら不徳とされる。
 これは親族にも当てはまる。
 目上の者が絶対者なのが、かって政治において、この教えが権力者にもてはやされ利用された理由だろう。
 そして、徳は受け継がれるのだ。
 かって儒教を国の教えとした国では、低い家柄の者は徳も低いとされた。
 親の地位や生まれが子供の将来を左右し、優秀な子供は家柄の良い地位と身分を持つ里親を持つのが通例ですらあった。
 これは日本でも良くあった話だが、儒教的な教えが日本に浸透した結果である。

 美冬の母親は、普通の家庭で育った日系二世であり。世界的に広がった経済力を背景とする親族からみれば、地位や名誉とは無縁な徳のない人間とされた。
 その上、美冬の両親もまた、張氏と同じく親族の反対を押し切り結婚していた。
 一族に歯向かい無理を通した美冬の父は、その才覚を持って一族になんとか認められるまでになった。
 しかし、一族の者が進んで受け入れたわけではない。未だ一族に反抗し我を通した美冬の父と母を、心良くは思っていないのだ。

 家長の長子の美冬が、一族から疎まれる理由がそこにある。
 父と母。自分の存在を一族に認めさせるだけの実力を、美冬は手に入れなければならなかった。
 それが、美冬が両親と幸せに暮らすには不可欠なのだ。

 個人の主義主張を尊重する思想と、全体主義的な思想の狭間で育ったのが美冬だった。
 美冬の公私を徹底して別て考える思考は、その相矛盾した思想の狭間で育まれていた。

 そして、美冬が耕一に張氏を紹介した事を口止めしたのは、知られれば親族が耕一を調べるのを予想しての事だった。
 生い立ちや家族構成で、その人間の価値を計れると信じている愚かな親族が、耕一の身辺を調査するのは目に見えていた。
 美冬としては、友人の身辺調査などはしたくはなかった。

 普段の明るさの欠片もなく、しょんぼりと語り終えた美冬に、耕一はなんと言って良いのか判らず、見ているだけだった。
 耕一には理解出来ない話だった。だが、次郎衛門の記憶は、それが事実なのを告げていた。

 五百年近く前の日本では、地位や名誉を求め、家名を守る為に命を掛け。身分の差が、人の優劣を決めていた。
 耕一の常識が否定しても、野武士であった次郎衛門には、美冬の立場は至極当然なものだったのだ。

 困惑している耕一に書類の処分を任すと、美冬は今日は休ませて欲しいと告げた。
 耕一は頷いて、書類の事は気にしていないと告げるのがやっとだった。
 微かに安心した笑顔を見せた美冬は、そのまま部屋を後に出て行ってしまった。

 一人部屋に残された耕一は、書類をどうすべきか考えながら、ゆっくりめくっていた。

 本当は、すぐに処分するべきだった。
 しかし、自分の知らない従姉妹や父の一部とはいえ記された書類から、耕一は眼を離せなかった。
 そして最後の書類だけが、他に比べ分厚かった。
 他が簡単なプロフィールで終っているのに対し、最後の書類には多くの特記事項があり。読み終えた耕一は、書類作成者の悪意すら感じた。

 分厚い書類は千鶴の物だった。
 後で考えれば、企業家の美冬の親族が、同じ企業家の千鶴を調べるのは当然だったのだろう。
 だが、その時の耕一には、自分に見せる為に悪意を持って書かれたようにしか思えなかった。

 それは、耕一には辛い内容だった。
 耕一が疑問に思っていた答えがそこにあった。
 突然の死に疑惑を持たれても仕方がないとは言え、千鶴が叔父を殺したなどという噂が、一朝一夕に出て来る筈がないのだ。
 それが作意でも、根拠のない噂でも。
 警察が調べるほどの広がりを持つ、なにかバックボーンがあった筈だった。
 そして、それは確かにあった。

 書類は千鶴の鶴来屋入社時から始まっていた。
 鶴来屋に入社した千鶴は、叔父の賢治と足立の元で経営を学んでいた。
 特別扱いだが、これはオーナーであり将来の会長であれば、当然だった。
 しかし、柏木を快く思わない者には好都合でもあった。
 千鶴には入社早々から悪い噂が立ち始めた。
 当初誰も信じなかった噂が、やがて真実として広がっていったのは入社後一年近く後。
 耕一の母の死が契機になった。
 性格温厚で微笑みを絶やさない千鶴は、その容姿と将来の鶴来屋会長という地位もあり。大学在学中から賢治を通して、多くの地元企業人や議員から見合いの話が舞い込んでいた。
 しかし、賢治はその全てを断っていた。もちろん千鶴が承諾しなかった為だが、周囲はそうは取らなかった。
 賢治が社長兼会長の要職にありながら、女性を寄せつけなかったのも、更に禍を広げる結果となった。
 美しい姪と、男盛りの叔父。
 まして叔父は、妻と必要とは思えない別居をし、二人とも異性に興味を示さなかった。

 下世話で低俗な噂の種には、それで充分だった。

 理由を賢治と千鶴の男女関係に求めたのだ。
 それでも耕一の母が死ぬまでは、一笑に伏す人間が多かったのは、賢治の清廉な人柄の賜物だろう。

 しかし、耕一の母の死で事情は変わった。

 過労で倒れた耕一の母への同情と、賢治を知る者ほど理解出来ない八年に渡る無意味と思える別居が、賢治と千鶴の関係への不信を高める結果になった。
 そして賢治が妻の死後、千鶴を秘書として傍らに置いたのも、彼らの不信を煽った。

 耕一には、すぐにそれが父が死を予感し、千鶴の教育を早めた為だと判った。そして母の死後、耕一を呼ぼうとした父の真意も悟った。
 死を予感したからこそ、賢治は耕一を手元に招こうとしたのだ。

 だが、そんな事は他の誰にも判らない事だった。
 当の千鶴でさえ、叔父が叔母の死で気弱になっての事だと思い。叔父を心配し、なんとか力になりたいと願っていた。
 しかし周囲は、千鶴の願いと献身を、叔母の死により邪魔な存在がいなくなった為だと取っていた。
 そして賢治の死によって、千鶴の悪評は拭い難くなる。
 妻への罪悪感を拭い切れない賢治が、千鶴との関係を清算し、息子への謝罪に鶴来屋の実権を譲ろうとした為、千鶴が賢治を殺害したという噂に繋がった。

 読み終えた耕一は、書類を握ったまま震えていた。
 耕一が父の招きを受け入れ柏木本家に居を移していれば、噂は、噂のままで消えていただろう。
 そしてまた、噂に決定的な証拠を与えたのも、耕一だった。
 父の葬儀に参列しない耕一の欠席理由は、連絡の遅れとされていた。それを周囲は、千鶴が意図的に連絡を送らせたと受け取った。

 柏木家最後の男性で、千鶴と同じく創立者の孫でもあり前社長兼会長の息子でもある耕一には、表面上鶴来屋の相続に必要な条件は揃っていた。
 悪評を指摘し耕一を傀儡として立てれば、反対派を説き伏せて会長に就任しても、千鶴には実際の経営は不可能だった。
 仮に無理に会長就任を果しても、鶴来屋内での柏木擁護派は、賢治が妻子を置いて柏木本家に来た理由を知っている。
 大恩ある亡き叔父の息子である耕一を押しのけ、恩を忘れ地位や名誉へ執着を示せば、擁護派までを敵に回し悪評を決定的にするだけだった。
 千鶴に実権を握らせたくない者には、可能不可能は別にして、耕一は担ぐには絶好の御輿だったのだ。

 ただ予想外の突然な賢治の死に、反対派には耕一の所在が掴めずにいた。
 その為、意図的に賢治の葬儀に出席させない事で、千鶴が耕一と反対派が接触する機会を奪い。耕一の評判を落とすと同時に自分が会長職に着くまでの時間稼ぎを狙ったと反対派は見ていた。
 耕一が葬儀に出席していれば、千鶴の立場は少しはマシになっていただろう。

 自分が愛し助けたいと願った千鶴を追い詰めていたのが、自分の子供ような父への反発なのを知った耕一のショクは、計り知れなかった。
 それは過去を割り切ろうと決めた耕一を、今度は自分の現在犯した過ちの数々と向かい合わす事になった。
 それを教えたのも、また美冬だった。

 経済戦争に置ける情報の重要性を説いた美冬は、人の言葉の端々や行動に無意識の内に真実がにじみ出る事を教えていた。

 耕一はその日を境に、巫結花の行を終了後。一心に夏にあった全てを思い出そうとした。
 千鶴や楓、梓や初音の言葉を一つ残らず思い返し、住職から聞いた話しを考え抜いた。
 しかし、それは耕一自身を追い詰める作業に他ならかった。

 幼い頃、記憶を閉じ込めなけば。
 父に反発していなければ。

 どれもが仮定であり、現実に役に立たないと知りながらも、耕一には止められなかった。
 耕一自身に力があれば、防げた事ばかりだった。

 その過程で多くの事を耕一は悟った。

 自分を殺さなければならなかった千鶴が、鬼に飲まれた父を放置出来ない事。血の秘密を守る為には、誰であろうと殺さねばならない事を。
 そして、仏壇の前で崩れ去るような儚い姿を見せた朝の光景を。

 あの日まで、耕一は千鶴が朝食を抜いているのを知らなかった。
 三日間も居てだ。
 そして梓の台詞も、まるで今日ダイエットを始めたような、からかい方だった。

 全てがあの日に始まっていた。

 耕一が、千鶴に夢の内容を話したあの日に。
 耕一は、父の死と鶴来屋の重責が千鶴の姿を生み出したと思っていた。
 だが、あれは耕一の夢を知り、耕一の鬼が引き起こす新たな悪夢に怯え、心を引き裂かれた姿だと、耕一には思えた。

 現在、誰よりも大切に思う千鶴に苦しみを背負わせたのが、次郎衛門でも過去でもなく、今の自分の無知と幼さが引き起こした。そう確信した耕一には、もう次郎衛門やエディフェルを振り返る余裕はなかった。
 自分の愚かさを自覚した耕一が、過去を振り切れたのは、皮肉にも千鶴の背負わされた重荷だった。

 そして同時に、耕一は無力感に襲われた。

 自分になにが出来る?

 経営はおろか、知識や才能、どれを取っても耕一は、千鶴に敵うとは思ってはいなかった。
 そんな自分が一緒に居ても、千鶴の足を引っ張るだけで、なにも出来ない。
 自分よりも、知識や才覚に優れた優秀な男はいくらでもいる。

 そう千鶴ならば、どんな男でも好きになる。

 耕一が、そう考え出すのに時間は掛からなかった。
 それは、千鶴に女神のように憧れていた頃から持っていた、耕一のコンプレックスの発露だったのだろう。

 耕一自身気づいていなかったコンプレックス。それを忘れさせていたのは、他でもない鬼の力だった。
 生物として最強の力。
 伯父や父をして成し得なかった力の制御と、千鶴を鬼から救った力への自信。
 しかし、今の社会ではなんの役にも立たない力。
 今の社会で生きて行くには、千鶴には自分より相応しい相手がいる。と、耕一はそうも思った。

 それでも耕一は、まだ姿を消すわけには行かなかった。
 打ちひしがれ自信を喪失していても、いま姿を消すのは。――鬼の制御法を見つけるまでは、千鶴達を放り出し、耕一が一人で逃げ出す事にしかならなかった。

 耕一は失意のどん底で、美冬から経済を習い続け。巫結花から気功を習った。

 巫結花は失意に沈み自信を失った耕一の気から、自分と耕一の望の違いに気付いた。
 耕一の望は現実に根づいたものであり、巫結花の望は精神世界のものだった。

 巫結花は、耕一を現実に即した方向で導く事にした。
 同じ高みを目指す者でなくとも、巫結花に取っての耕一は友人であり、好ましい気の持ち主であった。

 そして美冬も経済を教える内、耕一の中に秘められた才能を発見していた。
 沈み込み自信を失っていた耕一に、美冬は持てる知識と心構えを教え、耕一に自信を付けさせた。
 それは耕一に対して持っていた負い目と、耕一自身を好ましく思う美冬に出来る、精一杯の耕一への贈り物だった。

 こうして一ヶ月を巫結花の家で過ごした耕一は、巫結花の気と美冬の知識のお蔭で、なんとか立ち直っていた。

 まだ迷いながらも、僅かな希望を巫結花と美冬の教えから見いだした耕一は、その後、考えを整理し、いくつかの結論と推論を元に、鬼の血に共通項を見いだし自信を回復していった。

 だが、自信の回復は皮肉にも同時に夢の再訪でもあった。
 それはリズエルを殺そうとし、永劫の苦しみを願った次郎衛門の夢だった。
 仕舞い込まれた筈の記憶が、瞑想により過去を探る試みの内に明確にした記憶だった。

 耕一が真に過去の記憶から抜け出せたのは、まだ数カ月も後の事だった。



 記憶を探っていた耕一は、時計に目を走らせ、少し迷い千鶴から身体を離した。

 もう窓の外では陽が差し始めている。
 約束の時間まで、あと僅かだった。

 そっと離れたつもりだったが、千鶴の瞼が微かに震え、離れるのを嫌がるように胴に回された腕が力を強めた。
「起こして、ごめん」
 焦点を定めないぼんやりした瞳を向ける千鶴に、耕一は小さな声で謝った。
「……耕一さん……もう…朝ですか?」
 眠そうに目蓋を擦る千鶴の寝ぼけた声を聞いて、耕一は笑みを浮べた。
「まだ早いから、寝てるといいよ。帰って来たら起こすから」
「…こんな早くに? お出掛けですか?」
 少し驚いた顔をした千鶴は、眼を擦りながら時計を見ると、耕一に視線を戻しながら尋ねた。
「うん、巫結花達の行に付き合う事になってて」
「行って? 気功ですね?」
「うん」
 耕一が頷くと、千鶴は考える顔つきになった。
「あの。ご一緒しても、構わないでしょうか?」
「いいけど。見てて楽しいもんじゃないよ」
 座ってるだけだしね。と、耕一は言う。
「いいんです。お邪魔はしませんから」
 少し強い調子で言うと、千鶴はガウンをまとい始める。

 耕一がどう言おうと、着いて行くつもりだ。

「シャワーでも浴びて、散歩がてら行きますか?」
 苦笑気味に答えた耕一に頷いた千鶴は、髪を直しながらベットから立ち上がる。

(あの時、美冬と巫結花の助けがなかったら、俺はここに居たのかな?)
 耕一は、そう考え昨日の美冬への態度を反省していた。

 そう、耕一と千鶴が共に望んだ日常がここにはあった。

 千鶴の髪を直す仕草を微笑みながら眼で追い、耕一は千鶴を待って、一緒に部屋を後にした。

四章

三部 一章

目次