四の章


 耕一の話を黙って聞いていた千鶴は、ふっと息を吐くと哀しげに目蓋を臥せ、ゆっくりと開くと耕一に瞳を向けた。
「結局、巫結花は口を聞かなかったけどね」
「やはり、心因性のものでしょうか?」
 考えるように頤に指を置く千鶴に、ゆっくり耕一は首を横に振る。
「いいや。巫結花は話す必要がないと思ってる。実際、俺も巫結花がなにを伝えたいか、判るから」
 耕一は、巫結花が話さないのを当然のように言う。
「でも、会話を交す楽しさだってあります。楓や初音と変らないのに、話せるのに家に閉じ篭もって誰とも話さない。なんて、間違っています」
 少し怒った顔になった千鶴は、耕一に食ってかかる。
「うん、俺もそうは思うけど。巫結花が話してくれないとね。上手くすると、初音ちゃんか楓ちゃんなら、巫結花も話すかと思ったんだけど」
 千鶴の剣幕に苦く笑いながら耕一は返す。
「二人とも、巫結花さんと仲良くなったみたいですけど。話しは、していなかったみたいでした」
 耕一が巫結花が話さないのを当然だとは思っていないのが判った千鶴は、食ってかかったのを恥ずかしがるように少し視線を落すと、眉を潜め考え出した。

 思い返してみると、敷物の上で微笑みあう巫結花達の様子は、千鶴には不思議な光景だった。
 それが自然のように初音が話し掛け、巫結花と楓は微かに頷く。それだけで、三人とも昔から気心の知れた親友のように満ち足りた幸せそうな笑みを浮かべていた。
 しかし、その時の千鶴は、それが自然に感じられてなんら疑問すら持たなかった。
 後で巫結花の事を話す。と耕一に言われてから、耕一が話し出すまで、巫結花の不自然な態度を千鶴は忘れていた位だった。

「そうでした。耕一さん?」
 なにかを思い出したように、千鶴は顔を上げる。
「うん?」
「最初、初音しか巫結花さんに気が付きませんでしたよね?」
 ああ。と耕一は頷き、少し首を傾げ眉を潜めた。

 レストランで初音が気づいた巫結花に、千鶴達は気づかなかった。いや、見えなかった。
 しかし、初音に巫結花の特徴を説明された千鶴達がもう一度良く見ると、確かにそこに巫結花はいたのだ。

「信じられないかも知れないけど、巫結花は気を消せるんだ」
「鬼の気を隠すみたいにですか? でも、姿は見えますよ」
 どう説明したものか少し考え込んだ耕一は、千鶴の顔を見ると部屋の隅にあるミニバーに視線を流した。

 このホテルのロイヤルスイートでは、カクテルパーティなどのさいには、ホテル内のショトバーからバーテンダーの派遣サービスも受けられる。
 ミニバーには、ある程度の洋酒が揃っていた。

 酒が抜け少し喉が渇いて来た耕一は、スッと指を伸ばしお伺いを立ててみる。
 ミニバーを指差して見せる耕一に、千鶴は眼を細めると怖い顔を作ってみせる。
「判った。お茶にする」
 溜息を吐いた耕一は、諦めて言う。

 千鶴に睨まれてあっさり諦める耕一も、案外だらしない。

 千鶴は小さく笑うと、ポットから急須にお湯を御注ぎ、湯飲みを二つ並べ交互に注ぐ。
 耕一の前に湯飲みを差し出した千鶴は、ぽんと手を打つと立ち上がり、部屋の隅。デパートの包みを片付けてある所へ行くと、ごそごそとなにかを探し始めた。
「千鶴さん、どうしたの?」
「ええ、ちょと。あっ!」
 訝しげに首を捻った耕一が尋ねると、曖昧に答えた千鶴は小さな声をあげた。
 なにかと思って耕一は腰を上げかけた。だが千鶴が嬉そうな笑顔で振り返と引き返して来るのに安心して、耕一は再び腰を下ろした。
 戻って来た千鶴は、少し得意そうに小さな箱を耕一の前に差し出すと、蓋を開ける。
「へぇ。綺麗なもんだね」
 箱の中に並んだ薄紅の花に、耕一は感心した声を出した。

 一口サイズの白地に薄紅の花を咲かせた和菓子は、表面にゼラチン質の薄い膜がかけられ、食べるのが勿体ないような可憐さだった。

「それほど甘くありませんから、酔いざめの口直しにちょうど良いと思って」
 そう言いながら、千鶴は箱の中から竹楊枝と和紙を取り出し、楊枝を和菓子の下に差し込み、危うい手つきで一つ持ち上げる。
 そっと慎重に広げた和紙の上に和菓子を乗せ楊枝を添えると、千鶴はどうぞと、耕一に差し出した。

 千鶴の危うい手つきを見ていた耕一は、おかしそうな苦笑を浮べ、楊枝を取り和菓子を半分に切り口に運んだ。
 千鶴は耕一が和菓子に口を運ぶのを、楽しそうに見ていた。

 家ではお茶は楓、食事は梓と初音と、千鶴はなにもさせてもらえない。
 自分が煎れたお茶と、買って来た物とはいえ、耕一の為に自分で用意した物を出せるのが、千鶴には嬉しかった。

「どうです?」
「うん。あっさりした甘さで、美味しい」
 和菓子を食べた耕一が、お茶を飲みながら言うと、千鶴は嬉そうに両手の平を合わせ、ふふっと楽しそうに笑う。
「千鶴さんは、食べないの?」
「えっ! ええ、昼間頂きましたから……」
 実の所、姉妹揃って甘い物の食べすぎで胸焼けを起こし、千鶴は一日二日は、甘い物はやめようと決心していた。
「ああ、そうなのか?」
 少しぎこちなくなった笑いで答える千鶴をあまり気にせず、耕一は和菓子の残りを口に運ぶ。
 にこにこ耕一を見ていた千鶴は、スッと耕一の隣に座り直すと湯飲みを手に取る。
「ごちそうさま」
「ふふ、お粗末さまでした」
「美味しかったよ。…そうだった、さっきの気を消す話だけど」
 一息入れ、耕一は再び話を始めた。
「美冬から聞いた話だと。気を完全に消せば、眼に映っていても、それを人だと認識出来ないらしい」
「そんな事が出来るんですか? それに、初音には見えましたよね」
 とても信じられないと千鶴は耕一を見る。
「うん。赤ん坊とか動物なんかは気づくらしいんだけど。あと、気功師とかね。初音ちゃんみたいに純粋だと、見えるのかな?」
 自信なさげに耕一は首を捻る。

 耕一も、初音が巫結花が見えると言ったのには驚いていた。どう考えても、初音に見えた理由が判らなかった。

「純粋ですか? 固定観念とか、先入観があると見えないんでしょうか?」
「ううん。巫結花なら判るかな。明日にでも聞いてみるよ」
「そうですね。その方が早いですね」
「まあ、俺の受けた説明では、よく影の薄い人って言うよね? 近くにいたのに、声を掛けられるまで気づかなかったとか」
「ええ」
「あれは、気が弱すぎる人だそうだ。逆に気が強い人は、人混みにいても、どうしても眼立つらしい。存在感だな」
 千鶴は湯飲みを両手で持ったまま考え込んでしまう。

 話としては千鶴にも判る。
 どこにいても人目を引き注目を集める人もいれば、真後ろにいてさえ、気付いてもらえない人もいる。
 しかし、それを自分の意思でコントロール出来るのか。まして瞳が映し出していながら認識出来ないなど、千鶴の常識が否定していた。

「それに、鬼の気とは少し違う。俺が鬼の気を隠しても、巫結花達は気を感じている。楓ちゃんでさえ、俺の鬼を感じ取れないのにね」
「美冬さんは、私達みんなの気が強い。と、言われていましたけれど」
「うん。鬼の力が人の気を強化してるんじゃないかと思う。鬼が肉体同様、人の気も強くしているんだろう」
 少し考え込んだ千鶴は、スッと眼を上げた。
「美冬さんには、初音の気が見えなかったそうです。それが、初音の鬼が目覚めていない為なら……」
「そう、そしてもう一つ」
「はい?」
「気は、気で干渉出来るんだ」
「気で干渉?」
 不思議そうに見つめ、おうむ返しに呟いた千鶴に、耕一は説明した。

 初めて耕一が巫結花と会ったさい、巫結花に引かれ耕一が屋敷に入ったのも、巫結花を見るうち怒りと焦りが消えたのも、実は巫結花のした事だった。

 気は、気で影響を与える事が出来た。

 気功医は、患者の病気や怪我で乱れた気に自らの気を送り込み治療する。
 気功医には怪我や病気をした患部の気の乱れが、色の濁りや欠けたように見える。
 その患部に気功医は気を送り込み、自然治癒力を高め健康に戻すと言われている。

 巫結花は耕一の気を気で繋ぎ止め、ちょうど腕を掴み引くように、耕一を屋敷に引き入れていたのだ。
 そしてまた、怒りや焦りで乱れた気を、穏やかな気を送り癒す事で、巫結花は耕一の怒りを静め冷静にもしていた。
 これが後に、鬼同志の意思伝達が鬼の本能を抑えると言う仮説の助けになった。と、耕一は千鶴に話して聞かせた。

「でも鬼の気と、人の気は違うんじゃなかったんですか?」
 話を聞いていた千鶴は、半信半疑で耕一に尋ねた。

 確かに鬼同志は互いを感じ、意思の疎通も可能だが、耕一の話す気ほど自由に出来る物ではない。

「うん、でも鬼同志の感情を伝える力があれば、気と同じに精神に影響出来るんじゃないかって考えてね。あと、二元論も取り入れたけど」
「二元論と言うと。肉体は入れ物で、精神は霊という?」
「千鶴さん、良く知ってるね」
 耕一が驚きに眼を丸くすると、千鶴は得意そうな笑みを浮べる。

 千鶴の言う二元論は、西洋神秘学、キリスト教圏で唱えられたものだ。
 霊が命の根源であり、肉体は霊を包む器に過ぎない。肉体は滅んでも霊は永遠だとし、霊肉二元論と呼ばれる。

「ええ。あれから、少し調べましたから」
 得意そうな千鶴は、にっこり微笑む。

 転生や過去生について、千鶴も少し書物などを調べていた。
 次郎衛門の肉体が滅んだ後も記憶を持つ耕一の言う二元論は、これだろうと千鶴は思った。

「でも、違う」
 耕一は、あっさり否定する。
「ええっ! そんなぁ〜」
 揃えた両拳を胸で握った千鶴は、身をよじってぷっと頬を膨らませる。

 テストで満点をもらった子供が、間違いを指摘され悔しがるようで、実に可愛らしい。

「俺が言ったのは、陰陽二元の方」
 クスクス笑いながら千鶴の肩を引き寄せると、耕一は宥めるように千鶴の頭に頬を寄せる。
「陰陽って言うと。太陽と月とか、男性と女性、表と裏のあれですか?」
 上目遣いに耕一を見上げ、千鶴はむくれた声を出す。

 陰陽二元論は、日本でも馴染みがあるだろう。
 太陽を陽とし月を陰とする。
 万物の生成と消滅の繰り返しから、常に物事に表裏の関係を見る考えだ。

「そう、男と女。千鶴さんと俺みたいにね」
「もう。耕一さん、真面目に話してください」
 耕一がきゅっと抱き締めると、怒った声を出しながらも、千鶴の頬は、ほんのり赤く染まる。
「真面目な話だけど。ちょと話し難いかな」
「話し難いって?」
 耕一が照れ臭そうにキョロキョロ視線を動かすのを見て、千鶴は妙に思い首を傾げて聞き返した。
「千鶴さん、恥ずかしがらずに聞いてよね」
「…はい」
 視線を逸らした耕一が微かに赤い顔で念を押すのを訝しみながら、千鶴はこくんと頷く。
「その、ええと。ちょとごめん」
 なにか言い掛けながら、耕一は口篭りスッと立ち上がるとミニバーに向って歩き出した。

 カチャカチャグラスの当たる音がしたかと思うと、耕一は二つのグラスとウイスキィーのボトルを下げて戻って来る。

「耕一さん、飲みすぎです」
 軽く頬を膨らました千鶴が睨むと、耕一はグラスをテーブルに並べ、眼を千鶴から逸らしたままウイスキィーをグラスに注ぐ。
「そんなに話し難いんですか?」
 眼を逸らし続ける耕一の様子に不安を覚えた千鶴は、気遣わしそうに尋ねた。
「いや。俺より千鶴さんの方が、多分飲みたくなるんじゃないかな」
 軽く首を横に振ると、耕一はボトルを置き鼻の頭をぽりぽりと掻く。
「私が?」
 決まり悪そうに耕一は頷いた。
「私なら大丈夫です。耕一さん、話してください」
 真剣な顔で耕一を見据えると、千鶴は背筋を伸ばし耕一に言った。
「あの、それほど大層なもんでも……」
 対する耕一は実に歯切れが悪い。
「なにを聞いても、私は平気ですから」
 耕一の態度を自分の受けるショクを心配していると取った千鶴は、決意の篭もった瞳を真っ直ぐ耕一に向けた。
「…気功に房中術って言うのがあるんだけど」
「はい」
 腰を下ろし上目遣いに話し始めた耕一に、千鶴はこくんと頷く。
「陰陽交わるを持って和合をなす。とあるんだ」
「交わ…? えっ?」
 なんとなく意味を察した千鶴は肩透かしを食い、キョトンとした顔になった。
「陰陽って、この場合、男と女の事で」
「あっ、あの、ええと……」
 少し照れ臭そうに話す耕一にどう言えばいいのか、頬を染めた千鶴は、おろおろし出した。
「和合って言うのは、情感の高まり。つまり、エクスタシーなわけなんだけど」
「ちょ、ちょと待ってください!」
 慌てて身を乗り出した千鶴の顔は、赤く染まっている。
「うん。やめる?」
「やっぱり、頂きます」
 そう言うと千鶴はグラスを掴み、耕一が止める間もなくクッと喉に流し込んだ。
「千鶴さん、大丈夫?」
 ケホケホ咳き込む千鶴の背を心配そうに摩って耕一が聞くと、千鶴はこくんと頷く。
 その顔はアルコールでか、話でか、更に赤く染まって行く。

 千鶴も性の知識や実践はあるが、相手は耕一だけだ。
 それほど性に開けた性格でもない。
 こう面と向かって露骨に口に出されると、相手が耕一でなければ、千鶴はからかわれていると思って怒って席を立っていただろう。

「大丈夫です。お話を続けてください」
 息を大きく吸い、千鶴は話の先を促した。
「うん。じゃあ」
 耕一はグラスを取り上げ、口に運ぶと話を再開した。
「つまり房中術って、セックスを通して気を練る方法なんだけど。それもエクスタシーの時に、気は最高に高まるわけで」
「…はあ」
 耕一の淡々とした説明に、伏眼がちに視線を落した千鶴は、恥ずかしそうに小さくなっていく。
「呼吸法とか、厳密な決まりがあるんだけど。特に女性のオルガムスが重要視されていて」
「………」
「女性がオルガムスを迎えた時、男女はより深く結合し唇を合わせ、互いの息と唾液を混じり合わせ交換する。つまり、唾液や愛液による結合を、そのまま男女が一体になる方法としているんだけど。それによって、男女の陰と陽が合わさり、大極をなすわけだ。まあ偶然だけど、最初の時って、結構状況が近かったし」
 なるべくなんでもない口調で話しながら、徐々に熱が入ってきた耕一は気づいていない。
 千鶴は真っ赤に染まった両手で顔を隠し、小さくなって身をよじっていた。

 耕一と初めて愛し合った記憶は、千鶴には喜びと絶望が混じり合った複雑で甘美な、一種倒錯した想い出だった。
 耕一と愛し合う最初で最後の機会。
 その後、確実に訪れるもっとも残酷な別れを忘れようと、千鶴はなにも考えず心の赴くまま行動し、欲望に身を任せた。

 耕一に全てを打ち明け受け入れられるまでは、千鶴の中では、恥ずかしさより耕一への申し訳なさと、失う恐れの方が強かった。
 しかし、耕一に許された今となっては、全てに絶望していたあの時なら兎も角。思い出してみると、どれを取っても大胆で恥ずかしい言動ばかりで、千鶴は恥ずかしさで、すぐにも逃げ出したい気持ちだった。

「本当は、接して洩らさずって言って、男は射精しちゃいけないとか。かなり修行を積んだ者でも無理らしいけど。俺達の場合、修行しなくても鬼の力で感情がじか…に伝わ…る……?」
 やっと千鶴が顔を覆い身をよじっているのに気が付いた耕一は、千鶴の肩を抱き寄せ、腕の中に小さくなったその身体を納めた。

 つい話しに熱が入り、余計な事まで話したのを後悔しながらも、耕一は安堵も覚えていた。

 想いを通わせた後に耕一を殺さねばならなかった千鶴には、辛い想い出だと考えて、耕一は今までこの話を避けてきた。
 しかし腕の中の千鶴は、恥ずかしがってはいるが、辛そうではなかった。
 千鶴の辛い過去の痕が、少しづつ癒されて行くのを見る思いで、耕一の千鶴を包んだ腕には、知らず力が篭もっていった。

 両の指の間から千鶴は眼を覗かせ、瞳は耕一のシャツを映し出した。
 シャツを通して伝わる鼓動と温かさが、潮を引くように心を落ち着かせ、千鶴はそっと身を寄せた。
「だから鬼の力がセックスを通して、互いに影響を与えてもおかしくない。そう考えたんだ。まして、その……」
 言い難そうに言葉を切ると、耕一は千鶴に眼を向けた。
「誰でも良いって訳じゃない。気が合う。互いの想いが通じてないと、意味をなさないんだ」
 耕一の腕の中で軽く眼を見開いた千鶴は、顔を覆っていた手を離すと、はにかんだ曖昧な笑みで頷いた。
「まあ、そう言う訳で。気功は実践より、理論の方で成果が上がったかな」
「勘だけじゃなかったんですね」
 感心して千鶴は言った。

 耕一は、鬼の力にいくつかの推論を立てている。
 鬼が男性間の隔世遺伝であり、女性では劣性遺伝化する。
 鬼の覚醒が、精神的な葛藤によって促されるというのも、そうだった。
 事実から導き出された推論には、千鶴も納得は出来るのだが、それは耕一の自らの推論に対する自信。
 裏を返せば、千鶴が耕一へ寄せる信頼に負う所が大きい。
 正直に言えば、いくつかの事実からそれぞれの共通項だけを選び出した推論は、千鶴には勘に頼った部分が多いように思えた。
 理論的な裏づけがないのは、鬼という未知の生物を研究した者がいない以上は仕方がない。だが、勘は重要だが、勘にだけ頼るのは、非常に危険だった。
 しかし、男性の鬼の本能を女性の想いが抑える。という耕一の推論が、ちゃんとした理論体系の元に組み立てられている事で、千鶴は他の推論も、耕一が勘だけで導き出したのではないと思えた。
 たとえ正当科学が認めていない理論にしろ。千鶴が考えていた以上に、耕一は冷静に深く考え抜き、知識と見識を深めていた。

 改めて、千鶴は耕一を見直していた。
「取っかかりは、勘だけど」
 苦笑気味に耕一は答えた。
「なんでも新しい事を始める時は、そうですよ」
 千鶴はふふっと笑う。

 勘だけに頼らず理論を組み立てる重要さを、千鶴は十分承知していた。
 企業を守り更に発展させるべく、経営者として教えられた知識だが。それは経営だけでなく、なにかを始めようとする者なら誰しもに必要な教えだと千鶴は考えていた

「前なら信じられなかっただろうな。常識が役に立たなくなった後だったから」
「ええ」
 軽い溜息を吐いた耕一の呟きが、千鶴には良く判った。

 鬼の血などという非常識をいきなり突き付けられ、悪夢が現実となれば、常識など役には立たない。
 常識の上に成り立った幸せが、いかに脆く砂上の楼閣のように崩れるか、それを千鶴は嫌と言うほど知り尽くしていた。
 祖父から柏木の血の秘密を聞かされていた千鶴でさえそうだ。まして耕一は、二十年間自分の中に隠された鬼さえ知らずに暮らしてきた。
 それも自分の中の鬼の血だけでなく、数百年昔に生きた記憶までも取り戻しては、常識そのものが信じられなくなっても当然だった。
 それが耕一に、常識に縛られずに考える柔軟さを与えたのかも知れない。

 そう考え、千鶴は耕一を見上げた。

 だがそれは、耕一の中で築き上げられた常識さえ崩れ去った不安定な精神状態をも、同時にもたらした筈だった。
 なにも信じられなくなって当然の不安定な精神状態で、千鶴の言葉と行動を元にして、耕一は推論を立てていた。
 千鶴の愛情を疑っていれば、鬼の感情を伝える能力が、本能を抑えるという仮設はなり立たなかった筈だった。

 胸の中に湧いた温かい物が眼元を熱くし、千鶴は耕一の胸に顔を押し付け、固く眼を瞑った。
「美冬と巫結花には、気功以外にも教えられる事が多かったな」
「…あの、耕一さん?」
 美冬と巫結花の名を聞き、千鶴は瞑っていた眼を開け、そっと耕一を窺う。
「うん?」
 耕一は腕の中に眼を向ける。
 耕一と眼が合った千鶴は落ち着きなく視線を動かし、気不味そうに上目遣いに耕一を覗き、また視線を逸らす。
「どうしたの?」
「あ、あの。…わ、わたし、えっと……」
 耕一が声を掛けると、千鶴はもごもごと口篭もる。
 耕一は千鶴を見つめ首を捻りながら、少し待ってみる事にした。
「…あのぅ〜、疑ってるんじゃないんです…けど……」
 ジッと見つめられた千鶴は、耕一の胸に頬を押し付けると、消え入りそうな声で言う。
 シャツを通して、耕一は千鶴の顔の火照りを熱いほど感じた。
「……実践はしてない」
 千鶴がなにを尋ねたいのか気づいた耕一は、憮然と答えた。

 美冬か巫結花に、耕一が房中術を実際に習ったのかが、千鶴は気にかかっていた。
 修行とはいえ巫結花か美冬と、耕一がセックスしていないかだが。

「ご、ごめんなさい」
 慌て気味に謝る千鶴の声で、耕一は大きく溜息を吐く。
「巫結花に習ったのは、基本だけ。美冬には、動作だけ」
 わざとらしい拗ねた声を出しながら、耕一は天井から差すカクテルライトの光芒を見上げた。
「い、いえ、あの。わ、私、信用していますよ」
 慌てて顔を上げた千鶴は、耕一を見上げながら言う。
 天井を見上げた耕一は、なにも答えない。

 顎しか見えない千鶴は気づいていないが。カクテルライトが照らす耕一の顔は笑っている。

 耕一も悪い癖だとは思っているが、千鶴が嫉妬を焼くと、愛されてるなぁ〜などと実感して頬が緩む。
 嫉妬を焼いた後で千鶴の見せる、恥ずかしさと申し訳なさでしょんぼりした姿がまた可愛くて、ついからかいたくなる。
 我ながら意地が悪いとは、耕一も思っているのだが、なかなかやめられずにいた。

「あのぅ〜、耕一さん?」
 答えない耕一を覗き込もうと、千鶴は耕一の肩に手を置くと身体を伸ばす。
 耕一は顔を覗き込まれないよう、横を向いてしまう。
 笑いを抑えた耕一の肩は、微かに震えてさえいる。
「えっ、…あの、怒ったんですか? 耕一さん」
 耕一の身体の震えを怒っていると誤解した千鶴は、泣きそうな情けない顔で耕一の顔を覗き込もうとするが、耕一はまた顔を反対側に向けてしまう。
「昨日も疑った」
 耕一が笑いを抑えたしわがれた声で言うと。うっと詰まった千鶴は、指を組み合わせながらシュンと俯いてしまう。
「由美子さんに響子さん。で、今度は美冬と巫結花だもんな」
「……だって…」
 少しムッとした声が千鶴から返って来て、耕一はちょと意外に思った。
 いつもなら、ごめんなさい。と返って来る。そして耕一が笑顔を向けると、千鶴は照れ臭いような顔でほっとするのだが。
「耕一さん。美冬さんの事、なにも話しくれなかったじゃありませんか。昨日だって、巫結花さんの事しか聞いていません」
 今日は少し様子が違った。
「いや、それは。俺もね、美冬が来てるの知らなかったからさ」
「食事の前に話せました」
 更に語気が強くなる千鶴に、耕一は笑顔の消えた顔を向けた。
「…話そうとは、思ったんだよ」
 ムッと上目遣いに見つめられた耕一は、ぎこちない笑みを浮かべ低姿勢になる。
「でも、話してくださらなかったですよね? なにかやましい事でも、あるんじゃないんですか?」
 耕一の弱腰に力を得た千鶴の追及は、徐々に厳しくなる。
 千鶴の膝で揃えた両の拳は固く握られ、赤い頬は羞恥から興奮に変わっている。
「やましい事なんて、あるわけないだろ」
 耕一も、少しムッとなって言い返す。

 耕一にしてみれば、千鶴の言い分は言い掛かりだ。
 耕一も、食事の前に美冬の事は話すつもりでいた。だが、その時間がなくなったのだ。
 それも食事に遅れたのは、千鶴の衣装選びの為だ。
 しかし千鶴の念頭から、すっかりその事実は消えているようだ。

「だって耕一さん、へんに苛々してるし。態度がおかしかったです」

 千鶴の頭の中では、耕一の美冬への態度が、耕一自身の問題から耕一と美冬の関係に、いつの間にかすり替わっている。

 耕一を信用している千鶴だが、由美子、響子、美冬に巫結花と、こうも耕一の周りに女性。それも美人ばかりが着き纏うと不安にもなる。
 耕一にその気がなくても、みんな耕一を好きなようなのだから、千鶴がやきもきしても仕方がないだろう。

「だからそれは、美冬の奴、耳年増だし。あの通り自信家の上に口が悪いから、みんなに迷惑かけないかと思って」
「ずいぶんと美冬さんの事、お詳しいんですね」
 隠し事のある耕一が取り繕うように言うと、千鶴はぷいっと横を向き言い捨てる。
 横を向いた膨れた頬が、余計に怒らせたのを耕一に示している。
「千鶴さん、本気で怒るよ。俺が好きなのは千鶴さんだって、何度も言ってるだろ」
 強い口調で耕一は千鶴を睨んで見せる。

 千鶴が本気で怒っていないのは、耕一には判っている。
 なにしろ千鶴は、横を向きながらも耕一の腕の中にすっぽり収まったまま、腕を振りほどこうともしないのだから。

「だって、耕一さん誰にでも優しいんですもの」
 横眼を向けた千鶴は、頬を膨らましたまま拗ねた声を出すと、横眼を上目遣いに変え、ジッと耕一を見上げる。
「そんな事ないって」
 言いながら耕一は、千鶴をぎゅっと抱き締める。

 嫉妬を焼かれる度、耕一も、梓の言う通り少しは怒った方が良いとは思う。
 しかし、千鶴に上目遣いに拗ねたように見上げられると、胸を突き上げる愛しさに我慢しきれず、抱き締めてその温かな身体を確かめたくなり、その誘惑にどうしても勝てない。
 頬を寄せた千鶴から香る甘い香りを吸い込みながら、耕一は、どうしても千鶴さんには勝てないなあ。と頭の片隅で考えていた。

「また、そうやって胡麻化すんですね?」
 微妙な甘えを含んだ拗ねた声を出しながらも、千鶴の腕は耕一の背中にしっかり回されていた。
「胡麻化してないって」
 腕を緩め千鶴の顔を覗き込んだ耕一を、微笑みを浮べた千鶴が見上げていた。

 もしかして胡麻化されてるの、俺じゃないのか? と耕一の頭を掠めた疑問は、次の瞬間かさなった柔らかな唇の温かさに押し流された。

「ホント、甘露だ」
「…えっ?」
 離れた唇から洩れた呟きに、千鶴はとろんとした瞳で小首を傾げる。

 気を練る過程で口に溜まった唾液が、気功で重要視される事を、耕一は言葉少なに話した。
 その唾液が、天上の美酒と称される、甘露に例えられる事も。

「甘露ですか?」
 ふふっと笑った千鶴の妖しい微笑みが、耕一の鼓動を跳ね上げさせる。
「もう一度、確かめる?」
 上擦りそうな声を抑えた耕一が静かに聞くと、千鶴は恥ずかしそうに目蓋を臥せコクンと頷く。
 静かに千鶴を抱き上げた耕一は、部屋に向かった。

 部屋の扉が朝まで開く事はなかった。

三章

五章

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