三の章


 静かに開いた扉から洩れた光が、カクテルライトだけが照らす部屋を縦に切り裂く。
 ソファから光の源を振り返った千鶴は、逆光の中に浮かぶ黒い影を認め、ホッとした顔で扉を閉めて近づく耕一を迎えた。
「ごめん。遅くなって」
 申し訳なさそうに頭を掻いた耕一は、テーブルを挟み千鶴の正面に腰を下ろした。
「いいえ。私達もさっき帰ったばかりですから」
 微笑んで首を横に振った千鶴は、少し目を細め
「でもこんな時間に、どちらにお出掛けだったんですか?」
 と、僅かに声に咎める響きを含ませた。
「ちょと、散歩にね。下の湖岸で涼んで来たんだけど……」
 美冬と一緒だったのが少し後ろ暗い耕一の返事は、尻すぼみに小さくなる。
「もう、まだ夕涼みには早いですよ。風邪を引いたらどうするんです」
 少し怒った顔になった千鶴は頬を膨らますと、子供を躾けるように耕一を軽く睨む。
 こういった時の千鶴の叱り方には、耕一は母親を思い出してしまう。
「ごめん。ちょと酔い冷ましにね」
 耕一は子供に戻ったような気分で、千鶴に言い訳しながら愛想笑いを浮べ謝るのが常になっていた。

 どう見ても、耕一はマザーコンプレックスも持っているようだ。

「でも、冷えませんでしたか? まだ風が冷たいんじゃ。そうだわ。お風呂で暖まってから、休まれた方がいいんじゃありませんか?」
 思案顔になった千鶴は、パッと耕一に眼を戻すと、そうした方がいいと頷きかける。
「いや。あの、風呂はさっき入ったからさ」
 風呂と酒を交互に繰り返しては、いくら頑丈な耕一と言えど、たまったものではない。
 少し弱腰の耕一が風呂は良いと言うと、千鶴は心配そうに眉を潜める。
「そうですか? でも、湯冷めしたんじゃありませんか?」
「湯冷めと言えば……」
 耕一は千鶴を上から下まで見回し、ジッと千鶴の顔を見ると言葉を切った。
「な、なんです? どうかしましたか?」
 ジッと見つめられた千鶴は、頬を赤く染めると聞き返しながら顔を臥せ、上目を耕一に向ける。
「風邪引くの、千鶴さんじゃないかな?」
 そう言って立ち上がった耕一は、バスローブをまとっただけの千鶴の隣に座り直した。
「あ、あの。お風呂から上がったばかりで……」
 赤い顔を俯かせた千鶴は、もごもごと口篭もる。
「こうしてれば、湯冷めもしないし。俺も温まるから、一石二鳥ってね」
 千鶴の背に腕を回し、耕一はぎゅっと抱き寄せる。

 抱き寄せた千鶴の髪からはシャンプーの香りが、バスローブの間からは、ボディシャンプーの香り。二つの香りに乗り、湯上がりの千鶴の肌の温もりが耕一を包み込む。

「あら、同じバスローブを着てても、梓は湯冷めしたみたいですけど……」
「梓? あいつ、服着てなかったっけ?」
 千鶴が耕一に持たれ掛かりながら意味有りげに語尾を消すと、耕一は意外そうに聞き返す。
「ええ、バスローブを着て寝ていました。気が付かなかったんですか?」
 むくれたような声音を出しながら、耕一に寄り掛った千鶴の頬は緩んでいた。
「うぅ〜ん。惜しかったかな?」
 残念そうに言う耕一は、本当に気が付いていなかった。

 梓のバスローブ姿は気にも留めなかった辺り、耕一の千鶴と梓に向けた関心の違いを如実に物語っている。
 梓が知れば、あたしは女じゃないのか。と、一波乱は必死だっただろう。

「一石三鳥ですね?」
 寄り掛った肩から頭を上げ、千鶴は耕一の横顔を見上げて尋ねた。

 千鶴には、耕一が梓に関心を払わなかったのではなく、払う余裕を無くしていたように思えた。

「どうして判るの?」
 微かな溜息を吐いた耕一は、否定しなかった。
「胡麻化したい事があると、耕一さんは、特別優しくなるんですから。判ります」
 耕一が胡麻化そうとしなかった事で安心した千鶴は、耕一の肩に頭を戻し頬に笑みを浮かべていた。

 耕一が胡麻化していたら、千鶴は不安になっていただろう。
 しかし、耕一は胡麻化さなかった。
 今は話せなくても話せるようになれば、耕一は話してくれる。
 特に今度の話は、空白の三ヶ月を知る美冬が絡んでいる。 千鶴には耕一の古傷に触れ、再び押し広げるような予感があった。
 過去を詮索して古傷を抉るより、痕が癒え痛まなくなってから話を聞いても遅くはない。
「いいんです。話せるようになったら、話してください」
 たとえ話してもらえなくても。今が大事で、過去は重要ではないと、千鶴は美冬と話している間に考えられるようになっていた。

 千鶴に視線を向けた耕一は、穏やかな笑みを浮かべる千鶴を瞳に映し、
「うん。いつかね」
 千鶴の肩を抱いた手に力を込め、耕一は力強く頷いた。
 いつかは、軽く話せる日が来ればいいと願いながら。

 しばらくそのまま千鶴を抱き締めていた耕一は、そっと腕の力を抜いた。
「巫結花の事、話して置かないとね」
 そう言うと耕一は、なにから話したものかと思案顔になった。
「気功を習ったお話の他は。美冬さんから紹介されたとしか、聞いていませんよ」
 耕一の考えの助けにと、千鶴は美冬から巫結花の話はなかった事を告げた。
「じゃあ、紹介された経緯から話すよ」
 気功を習った理由は、もう千鶴には見当が付いているだろうと、耕一は最初から話す事にした。
 千鶴は微かに頷いただけで、静かに耕一が話し出すのを待った。
「美冬に気功を習い初めて、三日目ぐらいかな………」
 記憶を探るように眉を潜めた耕一は、巫結花との出会いを語り始めた。


 その日、キャンバスの芝生の上に横たわった美冬は、唐突に弱音を吐いた。
 美冬は疲れた顔で額を押え、耕一に気功を教えるのは、自分には無理だと言い出したのだ。
 耕一にも、美冬の教え通り出来ていない自覚はあった。
 気を感じてイメージで集中させろと美冬は言うのだが、圧力のような感覚は耕一にも判るのだが、それを集中させるとなると難しかった。

 集中出来ないのではなく、集中させると弾けてしまうのだ。

 向かい合わせた掌の間に気を集中させると、一気に膨れ上がり、水をため込んだ風船が破裂するように急激に掌を跳ね返した。
 この三日間、何度やっても同じだった。
 しかし、耕一もたった三日で諦める訳には行かない。
 耕一は続けてくれるように美冬に頼んだ。

 耕一も困っていたが、美冬は混乱していた。
 弱い気をイメージで集中して、強くするのが美冬の習った方法だった。
 ところが、耕一の気は集中すると大き過ぎて制御出来ないのだから、美冬の習った方法はまったく役に立たないのだ。
 そして美冬は、この三日間で耕一の気に当てられ疲れ切ってもいた。

 気には相性が存在する。
 相性の悪い気と良い気、弱い気も強すぎる気もある。
 耕一の気と美冬の気の相性が悪いわけではなく、むしろ相性は良かった。だが集中した耕一の気は、美冬の想像以上に大きく異質だった。

 気を受け流し、害のある気を無害にする方法も気功には存在した。
 しかし、耕一の気は強すぎて美冬には受け流せなかった。
 美冬は受け流せない気に体調を崩し、耕一に教え初めた夜から微熱が続いていた。
 これは美冬の身体に耕一の気が溜り、溜まった気に身体が耐え切れず熱になった為だ。
 これ以上、耕一の気を受け続ければ、美冬の身体の方が先に参ってしまう。
 だが、美冬には耕一に教えると約束した責任もあった。
 美冬は不本意だが、間借りしている家の主に助力を頼む事にした。
 美冬が拳法と気功の基礎を習った人物だった。

 美冬から教えられる人を紹介すると言われ、最初、耕一は迷った。
 教えてはもらいたいが、人の多い有名な所では困るのだ。
 それを避ける為に、人前で土下座までした。
 なんの抵抗もなく土下座したわけではない、少し前なら冗談じゃないと怒って帰っていた。
 だが、耕一の迷いは、美冬の次の言葉で消えた。
「紹介はするけど。中で見た事、聞いた事は絶対秘密よ」
 なんとも秘密めいた台詞だが、耕一には好都合だった。
 逆に言えば、耕一の事も洩れる危険がないと言う事だ。

 耕一が頷いて返すと、美冬は電話を掛けてから耕一を伴い大学の裏門に向かった。
 裏門で待つこと数分、美冬の前で一台のセダンが止まった。
 車の後部座席に美冬と共に乗り込んだ耕一は、嫌な感じを受けた。
 セダンの運転席と後部座席が、硬質なスモークガラスで遮断されている。

 それもスモークガラスが濃すぎて、後部座席からは運転手の姿もハッキリとは見えない。運転手に車を出すよう告げるのに、美冬は備えつけられたインターフォン兼用の車内電話を使った程の念の入り用だった。
 それだけでも異常だが、更に外見上はこれと言った特徴のないセダンは、走りだすと徐々に窓が黒く変色し外界から耕一達を遮断した。
 防音も完璧なようで外からの音も聞こえない。視覚と聴覚を塞がれ、走る密室に閉じ込められた状態だ。

 いざとなれば鬼の力がある耕一は、さして慌てず窓の事を美冬に尋ねた。
 美冬は耕一の落ち着きぶりを感心したように見ると、電気を通すと色が変わるのよ。と、とぼけた口調で言って退けた。
 肩を竦め悪戯っぽく瞳を煌めかせる美冬が、耕一の問いを判っていてはぐらかしたのは、耕一にも見当が付いた。
 悪戯を楽しむように首を傾げる美冬を、耕一は改めて注意して観察した。

 その時まで、耕一は美冬にまったく感心を払っていなかった。

 改めて見ると、美冬は留学生と聞いていたが、どう見ても耕一には日本人に見えた。
 全体の印象や話す時のジェスチャーの大きさは、日本人とは確かに違っていたが、クリっとした渋茶の瞳、美冬を官能的に見せている小鼻の少し膨らんだ鼻と肉厚の赤い唇、肌の色やウェーブの掛かった背中に届く黒髪も、どれを取っても日本人に見えた。
 くっきりした目鼻立ちに多少日本人離れした彫りの深さが窺えたが、それも注意してみないと、さして気にならない程度だ。

 隣に座っている美冬と記憶から、耕一は美冬の全身像を思い浮かべてみた。

 身長は耕一より頭一つ小さいぐらい。しかし、腰の高さは同じだった気がする。
 そう考えると、脚が日本人離れして長いことになる。
 ジーンズとトレーナーで通していた服装から感じた印象では、美冬の腰は千鶴並に細く、胸は梓よりあった気がした。
 つまり、確かに美冬のプロポーションは日本人離れしている。と耕一は結論した。

 考えているうち、後部座席の狭い密閉空間に閉じ込められた耕一の鼻腔を、美冬から香るジャスミンの芳香がくすぐった。
 ジャスミンの香に誘われ耕一の頭をよぎったのは、そういや千鶴さん、香水つけてなかったなあ。だった。

 肉感的な美女と二人で肩を寄せ合い、狭い空間に閉じ込められた若い男の感想が、これである。
 いかに耕一が、従姉妹達と自分以外に興味を失っていたか、判ろうというものだ。
 その後、車の中で目的地に着くまでの暇潰しに美冬に尋ねるまで、耕一は三日も気功を習っていた美女がカナダから来たのも、日本と中国のハーフなのも知らなかった。

 一方美冬の方は、耕一が尋ねて来た頃には半年の留学期間も終りに近づき、なにかとプライベートな質問をしたがる日本の男子学生には、辟易していた所だった。
 そのせいもあって、余計な事を尋ねようとはせず、気功を習う耕一の熱心さに好感を抱いていた。

 教えを請うのに一切人目を気にしなかったのも、美冬には韓信の故事を思い起こさせ、目的の為には屈辱に耐えられる気骨に感じられた。
 また耕一の気も、大き過ぎはしたが不快ではなく、美冬には心地好かった。
 気の扱いを覚えた耕一となら、美冬は気を通わせ高められる気がしていた。

 先に断って置くが、美冬の考える気を通わすは、恋愛の意味ではない。気の相性の良いものが互いの気を自分から相手へ送り、相手が自分へ戻し、より高め強くする気功の方法である。

 だが、好感を持ち始めると、今度は耕一が美冬自身についてなにも聞かないのも、気功を習い終るとさっさと帰ってしまうのも不満になってきた。
 それに美冬の中では、耕一に恥を掻かせた負い目から来る不安も、耕一に好感を持つほど大きくなっていた。
 耕一は決して卑屈でもなければ、恥知らずでも、まして人に媚びへつらうような人間でないのは、この三日で美冬には良く判っていた。
 その耕一が、悪戯に土下座までさせた美冬を快く思っているとは思えなかった。
 気功を習う為に我慢しているが、さっさと帰るのは、本当は嫌われている為ではないか。と気掛かりだったのだ。
 その為、車の中で明らかな暇潰しに話し始めた耕一に、美冬は喜々としてカナダや、留学してからの日本の感想を話し始めた。
 気功以外の話題で耕一と美冬の間に会話が成立したのは、呆れた事だが、実にこの日が初めてだった。

 美冬の話が気功の現在と過去の比較になった所で、車は止まりドアが外から開かれた。
 主に美冬が話続け、耕一は聞き役に回っていた。
 耕一がこの車内で過ごす間に嫌というほど思い知らされたのは、美冬が博学で無類の話し好きな上、解説好きだという事だった。

 なぜか家族の話をしたがらない美冬に、耕一は気功の起源について質問した。
 その結果、耕一は三皇に始まる古代中国の歴史から、太平道を経て現在まで、中国の歴史と道教の関わりを事細かに聞かされる羽目になった。

 四千年の歴史を要約して聞かせるのだから、大変な知識だと思うが。聞かされる耕一の方は、基礎になる知識が乏しいものだから、聞いているしかないのだ。
 耕一が少し疑問を覚え口を挟むと、美冬は事細かにまた説明を始めるといった具合で、耕一は車を降りた時にはへとへとに疲れ切っていた。
 なにしろ、戦後日本政府が行った賠償問題の処理の問題点にまで、美冬の話は及んでいたのだ。

 気功だけでなく、美冬は政治にも詳しかった。
 あまりの詳しさに歴史か政治が専門か、と耕一は尋ねたが、美冬は軽く経済が専門だと言い、歴史は常識よ。と答えた。
 常識で四千年を淀みなく語られては、日本の近代史さえ危ない耕一は、情けなくて落ち込むしかなかった。

 車から降りグルッと見回した耕一の周りは、広場になっていた。
 広場は十メートル四方位の広さがあり、背後の塀を除いた三方には潅木の茂みが広がり、背の高い塀の曲がり角を隠している。
 塀には門があり。車はそこから入ったのだろう、今はしっかりと門が閉じられていた。
 この広場は家の裏になるらしい。門の反対側には潅木の切れ目から洋風らしい背の高い建物の白い壁が見えていた。

 クイッと肘を引かれた耕一は、白壁から腕を引かれた方に顔を向けた。
 苦笑気味の笑いを浮べた美冬は、耕一から瞳を左側の潅木の茂みに流す。
 耕一が美冬の示した方を見ると、木立が落した影の中に踏み固められた小道が見えた。
 美冬はなにも言わず小道に向い歩き出し、耕一はその後を追う。

 急に無口になった美冬に戸惑いながら、耕一は美冬に着いて小道を辿り家の正面右側に回り込んだ。

 正面から見ると、家が洋館だと判った。
 前庭の中央に噴水を据えた泉を模した池を抱き、瀟洒な正門から泉を回り込む形で車道が続いている。
 正門左右には潅木が植えられ、それが耕一達の歩いて来た裏庭まで続いていた。

 映画に出て来るような洋館だな。と耕一は思った。

 潅木の切れ目から見える塀を確かめ、改めて敷地全体を考えるとかなりの広さだ。
 洋館の背の高さと潅木が距離感を狂わすが、歩いて来た道乗りを考えれば、耕一には柏木の屋敷とそう敷地面積は変らないように思えた。

 地方と都市部の差があるか。などと考えながら、耕一は眼を洋館に向けた。

 白で統一された洋館の玄関の上は、二階部分が張り出しのバルコニーになっていた。
 広い窓が等間隔に並び、ガラスが陽光を受け無機質な光を跳ね返している。

 しゃれた作りで綺麗だが、洋館には重厚さも趣も感じられない。耕一にはなにか空々しい飾り物のように見えた。
 洋館からは人が住んでいる生活感をまったく感じられず、人に見せる為に飾り見栄え良く建てた家のように思えた。

 どうも、馴染めそうもない建物だ。それが耕一の素直な感想だった。
 そして、耕一の感想は正しかった。

 洋館を見上げていた耕一の視界を、スッと影が横切る。
 影に視線を向けると、美冬の背中が正面玄関に向い耕一から遠ざかって行く。

 耕一は溜息を一つ吐き、美冬が車を降りてから口を聞こうとしないのを訝しく思いながら後を追った。

 玄関で立ち止まった美冬は、ノッカーをひとつ叩く。
 美冬に追いついた耕一の前で、扉はゆっくりと開かれた。
 扉を開け顔を覗かせたのは、腰まである黒髪を藍色の紐でまとめた、寝起きのようなぼんやりした瞳をした少女だった。

 その少女が、巫結花だった。

 ぼんやりした瞳を耕一に向けると、巫結花はくるりと背を向け歩き出した。
 巫結花のまとう不思議な気配と、瞳を向けられた時に感じた眩暈のような感覚に引かれた耕一は、知らず知らず巫結花の後を追い洋館に踏み入れていた。
 巫結花に着いて歩くうち、耕一はどんどん家の奥へ、窓のない廊下を徐々に薄れる光の奥へと導かれていた。
 先を歩く巫結花も耕一の後ろから着いて来る美冬も、一言も口を開こうとしない。

 徐々に薄暗くなる廊下を無言で奥へ進む。
 不安を抱いて当然の状況で、不思議と耕一にはなんの不安も焦燥も湧いて来なかった。

 ふいに巫結花が足を止め、スッと横に滑るように身体をずらす。

 耕一の前には、一枚の扉があった。

 問い掛けの視線を送った耕一に、巫結花は微かに頷く。いや、巫結花には頷いたような動作は見えなかった。
 頷いた。と、耕一がそう感じただけだ。

 自分の感じたものを疑いもせず、耕一は扉を開けた。
 鋭利さを感じさせる秋の陽光が、耕一の闇に慣れた眼を一瞬眩ませ。
 耕一は、瞬きしながら扉の向こうを見回した。
 クルッと振り返った耕一は、クスクス笑う美冬と相変わらずぼんやりした瞳の巫結花に視線を送り固く眼を瞑った。

 耕一は怒鳴り付けたいのを必死に我慢していた。

 扉の向こうには、潅木と茂みを通して裏門が見えていた。
 つまり耕一は、裏庭から木立を抜け、家の中を通りグルリと一周させられただけだった。

 美冬のたちの悪い悪戯に、巫結花が荷担したと耕一は思った。
 怒りと屈辱感で震える身体を肩で大きく吐いた息で抑え、耕一はゆっくり目蓋を開けた。

 耕一の忍耐は限界に近かった。
 土下座の次が子供の遊びの相手ではたまらない、耕一には遊んでいる暇や余裕はどこにもない。
 それでも我慢したのは、鬼を制御する当てが他に何もないからだ。

 これで笑って冗談だと言われていれば、耕一の忍耐も限界だったかも知れない。

 しかし、開けた目蓋の向こうで、美冬は真剣な面持ちになっていた。
「この家、どう思う?」
 車を降りてから始めて口を開いた美冬は、真っ直ぐ耕一を見つめた。
「人の住む家じゃない。飾りか?」
 怒りも手伝い、耕一は美冬を見つめ返し辛辣な返事を返した。
 耕一の答えに表情を緩め、美冬は軽く微笑む。
「そう、良く判ったね。本当の家は、あっち」
 スッと腕を上げた美冬は耕一を指差し、耕一は振り返り伸ばされた指の先を見た。

 閉まっていた門が開かれ、巫結花はいつの間に移動したのか門の前で佇んでいた。
 美冬に宥めるように腕を掴まれた耕一は、憮然としたまま腕を引かれ歩き出した。
 先に門から中に入った巫結花を追い、門を潜った耕一は軽い眩暈を覚えた。
 門の中は、今度はまるっきり日本の旧家屋だった。

 金持ちのやる事は理解出来ん。と、耕一は痛くなった頭を軽く振る。
 門の両脇にいた男達に会釈で迎えられ、待っていた巫結花に屋敷に招き入れられた耕一は、見た目とは違い日本家屋ではない事を知った。

 外見は日本家屋だが、畳もなければ飾られた白磁や青磁の壺や皿など、日本人の感覚とは異なっていた。
 耕一は古い日本家屋を板張りに改装し、洋風にしたような感じを受けた。
 屋敷の大きさは、先程の洋館の半分ほど。
 質素だが、人の住む温かさを感じられる屋敷だった。
 簡素でいて珍しい調度の数々は、壺や皿などには興味のない耕一にも、家人の趣味の良さが感じらた。
 しかし、飾られた調度品の珍しさも耕一の不愉快さを払う役には立たなかったが。

 案内された部屋で椅子に腰を下ろした耕一は、腕を組んで正面を向いたまま待った。
 紹介すると言われた人物を待っているのではない、隣に座った美冬が、この思わせぶりな出迎えを説明するのをだ。
 耕一から尋ねる気はない。
 美冬が説明するのが当然だと思っていたし、聞き出すのが面倒なほどに耕一は腹を立てていた。

 テーブルを挟んで耕一の正面に腰を下ろした巫結花は、相変わらずぼんやりした瞳を耕一に向けている。

 正面に向けた耕一の瞳は、嫌でも巫結花を映し出した。
 不思議な事だが、耕一は、この口を聞かないぼんやりした瞳をした少女を見ているうち、怒りや焦りが徐々に薄らいで行くのを感じた。

 その理由も、後に美冬が説明するのだが。その時の耕一は、不機嫌な顔を女の子に向けている罪悪感が、怒りを萎えさせたのだと思っていた。

 美冬から何の説明もないまま無言の時間が流れ、一人の壮年の男性が部屋に姿を現した。
 テーブルを周り耕一と美冬に握手を求めた男性が、この家の主で巫結花の父、張氏だった。

 にこにこ笑い掛ける張氏の求めに応じ、立ち上がり握手を交した耕一は美冬を窺った。
 耕一は美冬が紹介してくれるのを待っていたのだが、美冬は張氏と挨拶をすまし腰を下ろすと、紹介しようという様子もない。
 仕方なくテーブルの上座に腰を下ろした張氏に、耕一は訪問の理由を告げた。
 笑顔のまま張氏は、残念ですが。と、丁寧に頭を下げ断る理由を話し出した。

 張氏の説明では、拳法と気功は密接な関係にあり、拳法を教える中での気功であって、気功のみを教える事はしていないと言う。そして、自分は拳法家でもあるが実業家でもあり、今は個人的に弟子を取ってはいないと言う話だった。
 娘同然の美冬の紹介を断る非礼を詫びる為に耕一を招待し、せめて夕食なりと御馳走したかったのだ。と、張氏は深く腰を折った。

 そう言われても諦める訳に行かない耕一は、なんとか教えてくれるように頼んだが、張氏は聞き入れる気はないようだった。
 その時になって、やっと美冬は口を開いた。

 それまで張氏を名前で呼んでいた美冬が、張氏を小父様と呼び、それでは巫結花が教えるのではどうかと尋ねた。
 それまで終始笑顔を崩さなかった張氏は、驚いた顔で美冬を見ると、耕一に感心したような視線を向け、巫結花に目を移した。
 巫結花は微かな頷きで美冬の提案を受け入れ、耕一は巫結花の教えを受ける事になった。

 耕一には美冬が呼び名を使い別けた理由が判らなかったが。美冬は張氏に仮住まいの客としてではなく、幼い頃から可愛がってくれた小父へ個人的に頼んでくれたのだ。
 後に張氏が耕一に語ったところでは、美冬が個人的な頼み事をしたのは、幼い頃から美冬を知っている張氏にして、初めての出来事だった。
 また、巫結花が誰かに教える事を承知したのも、耕一が初めてだった。
 初めての出来事が続き、張氏は実に上機嫌で夕食を耕一に勧めた。

 張氏が耕一を招待したのは、公私を常に別て考える美冬が、自説を曲げてまで紹介した耕一を、自分の眼で確かめる意味もあった。
 美冬は友人から預かった大切な娘であり、張氏も娘同然に思っていた。
 その美冬が紹介してきたのだ、耕一に興味も湧く。
 そして娘の巫結花は、邪心や害意を持った者には敏感であり、あまり人を寄せ付けようとはしなかった。
 その巫結花までが、耕一を自ら招き入れ、教えを垂れるのを承知した。
 美冬の友情と利害を別て考える頑なさと、親しい友人を作ろうとしない娘を心配していた張氏にとって、耕一は万人に一人の貴重な客だった。

 夕食の席で耕一は、張氏に洋館の一件を尋ねた。
 苦笑混じりに答えた張氏の返事はこうだった。

 張氏自身は華美や贅沢は好まず、太上老君(老子)の教えに従い質素に慎ましくしたいのだが。商売上、取り引き相手の中には、見た目の派手さや豪華さに権威を求め、質素でつつましやかな暮らしを見下す者もいるのだと語り。
 洋館は取引先の方を迎える為の見せかけに過ぎず、親しい者は、本当の住まいであるこちらに招待するのだと、耕一に頷きかけ。
 巫結花がこちらに招いた耕一は、巫結花の客であり、一切の遠慮や気遣いは無用だと、張氏は相好を崩した。
 張氏の言葉に微かに頷いた巫結花もまた、耕一を弟子ではなく、友人と評しているようだった。

 しかし、和やかな夕食後。
 巫結花の出した教える条件が、耕一を悩ませた。

 巫結花は一ヶ月の間、耕一に屋敷に留まるように求めた。 早朝、美冬から動功の動作を習い、昼間は巫結花が静功を教え。夜は、瞑想と早期の就寝を命じた。
 つまり一ヶ月の滞在中、耕一に全ての時間を気功に費やすように指示したのだ。

 大学の講義やアルバイトもある耕一は、無理だと言ったのだが、巫結花は聞き入れなかった。
 大学への通学はなんとか認めた巫結花も、アルバイト。特に深夜のアルバイトを認めなかった。

 自然の摂理に乗っ取った生活が重要だと、巫結花は耕一を見つめた。
 そのぼんやりした瞳は、耕一の生活の乱れを見抜いているかのようだった。

 その頃、耕一の生活は乱れていた。
 深夜に及ぶアルバイトの合間に調べる各種の資料。
 夢を恐れ、我慢出来なくなるまで睡眠を取らず、我慢出来なくなると大量のアルコールを流し込んで眠っていた。
 鬼の強靭な肉体でなければ、とっくに身体を壊し、医者の世話になっていただろう生活だった。
 しかし、アルバイトをしなければ生活出来ないのも事実だった。

 アルバイトで生活している事を説明した耕一に、張氏はそれならばと交換条件を出した。
 張氏が一ヶ月間の生活費を立て替え、後に耕一が返せば良い。今の仕事を失うのが心配なら、張氏がバイト先を紹介するというのだ。
 初対面の張氏からの過分な申し出に驚いた耕一だが、バイト先まで紹介すると言われては、教えてくれと頼んだ方が嫌だとは言えなくなった。
 なにより、気功を習う必要があるのだ。
 深く腰を折り、耕一は張氏の申し出を受け入れた。

 言い出した張氏には、元より巫結花の客である耕一から宿泊費など取るつもりはない。
 張家に迎え入れられた客人が、滞在中の衣食住など一切考える必要はなかった。
 一度迎え入れた客人に不自由な思いを差せる事の方が、張家にとっては恥なのだ。
 あくまで、耕一が滞在し易いように出した交換条件だった。

 そして、両親を亡くしアルバイトで生活していると聞き、張氏自身も余計に耕一が気に入っていた。
 張氏自身、学生時代は見識を広め、世間を知り自立心を養う為と称し、家からの援助を打ち切られていた。
 耕一の気功を習う熱心さを美冬から聞かされていた張氏は、大学で学びながら生活の為に働き、気功まで習おうという耕一の態度に感心していた。
 楽に得られる知識など役には立たない、苦学こそは真の知識に繋がると言うのが、張氏の考えだった。
 まして初めて娘が気に入り、教えようというのだ。
 一粒種の娘に、思い通りに教えられる環境を与えてやりたくもあった。

 そして張氏には、もしやという期待があった。

 張氏の妻は、巫結花が五歳の時に事故で亡くなっていた。
 巫結花の母親が事故で亡くなってからの一時期、不穏な噂が流れた。
 当時日本進出を目論んでいた、黒社会の画策ではないかという噂が流れたのだ。

 張氏と巫結花の母は学生時代に知り合い、一族の反対を押し切り結婚したが。本来、張氏は張家の跡継ぎとして、一族の中から伴侶を迎える予定だった。
 その為、事故を仕組んだ黒社会と一族の誰かが手を結び、巫結花の母亡き後、張氏の妻の座を狙ったのではないかという噂が立った。

 張氏が調べた所では、なんら根拠のない噂だった。
 だが、当時五歳だった巫結花には、母が殺されたという噂だけでも耐え難いものがあったのだろう。
 人を寄せつけず、巫結花は一人部屋に閉じ篭もるようになっていった。
 しばらくは仕方あるまいと、張氏もそっとして置いたのだが。気が付くと、巫結花は父の張氏にも言葉を発しなくなっていた。
 張氏はすぐさま医師を呼び巫結花の精密検査をさせた。しかし、発声器官にも脳にも、何ら異状は発見されなかった。
 神経科の医師もまた、心因性の言語障害ではないという診断を下した。

 巫結花は自分の意思で口を閉ざしている。
 それが医師の下した結論だった。

 それが十二年前である。
 以来、巫結花の声を聞いたものはいない。

 張家は古くからの商家であると共に、拳法宗家として数百年の歴史を持つ家柄でもある。
 本来なら口も聞けぬ娘が長子では、跡継ぎとは誰しも認めなかっただろう。しかし、巫結花の聡明さは群を抜いていた。
 口を聞かぬ以上、巫結花を日本の学校に通わす事は出来ない。
 幸い巫結花は香港に籍があった。
 そこで張氏は優秀な家庭教師を雇い入れた。
 巫結花は早くからその才覚を表し、十七にして大学卒業の資格を修得した。
 また、巫結花のまとう不思議な雰囲気と、その勘の鋭さが相俟って、声を発せぬ事が逆に神秘性を高める結果になった。

 巫結花の勘は当たるのだ。

 巫結花が上がるとした株価は上がり、危険とした企業は業績を下げた。
 いつの間にか、一族の者は取り引きに先立ち、巫結花に意見を求めるようにまでなって行った。
 そうなると誰しもが、巫結花を張氏の後継と認めない訳には行かなくなった。
 反対し、巫結花に一族に不利益をもたらすとされれば、巫結花の意見を信じた一族からの援助は望めなくなる。
 現在では、一族の誰しもが巫結花に敬意と畏怖を抱いていた。

 だが、父の張氏にとっては可愛い一人娘である。
 人並み外れた才能や勘より、人並みでも父と呼び声を上げて笑ってくれる娘を望むのは、親としては当然だろう。

 張氏は巫結花が口を聞かないのは、心を開ける人間がいない為だと、ずっと考えていた。
 美冬の留学時の宿泊先を張氏が積極的に申し出たのも、幼い頃姉妹のように育った美冬になら、巫結花が心を開き話すのではないかとの期待があっての事だった。
 しかし張氏の期待も虚しく、楽しそうに美冬と過ごしてはいても、巫結花は口を開こうとはしなかった。

 半ば諦めつつも、美冬と巫結花、二人が共に気に入った耕一とならば口を聞くのではないかと、張氏は儚い望とは知りつつ期待していた。

 耕一と張氏、双方の異なる儚い希望は、こうして耕一の張家滞在を実現させた。

二章

四章

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