二の章


 微かな寝息を立てる初音にシィーツを掛けて、千鶴は暖房を強めに調節してからベッドルームの扉を静かに閉めた。

 美冬は初音を泊めると言ってくれたが、夜中に眼覚めて一人だけ美冬達と一緒では戸惑うだろうと、千鶴は初音を部屋まで抱いて帰って来ていた。
 初音の気遣いとは別に、こう言った千鶴の気配りも、初音の幼さが抜けない一因かも知れない。

 千鶴が閉めた扉からソファに眼を移すと、楓に起こされた梓が、欠伸を噛み殺して片手で押えた頭を振っていた。
 首に巻いたスカーフを抜き、千鶴は小さな溜息を吐いた。

 千鶴達が帰って来ると、梓は缶ビール片手にソファで眠り込んでいたのだ。姉妹だけならまだしも、家族同様とはいえ耕一が今日から一緒に泊まるのだ。
 そもそも耕一に泊まるように言い出した梓が、ソファでバスローブをまとっただけのしどけない姿で寝ていれば、千鶴でなくても頭が痛くなる。
 飲みすぎた上に風呂で暖まって、眠いのは判るのだが。もう少しは女らしい恥じらいとか、女性としての自覚を持ってもらいたい。
 梓にそれを望むのは無理なのか? そんな半ば諦めにも似た情けなさが、千鶴に吐かせた溜息だった。

 千鶴は視線をベッドルームの対角にある扉に移した。
 視線を向けた部屋には、耕一がいる筈だった。
 耕一は結局、美冬達の部屋に戻って来なかった。

 今朝の朝食の席で、千鶴達はホテルの支配人の訪問を受けた。
 昨夜出迎えられなかった非礼を詫び、朝食はサービスさせて頂きたいと告げた支配人は、白髪混じりの髪を綺麗に整えた物腰の柔らかな折り目正しい好人物だった。
 千鶴から耕一を紹介された支配人は、足立だけでなく耕一の父とも面識があり、耕一に亡き前会長の面影があると微かに口元を綻ばせた。
 急な宿泊にベットまで運び込ませた無理を詫びた千鶴は、支配人に耕一のベットも運び込んでもらえるように頼んだ。
 軽く頭を下げただけで、支配人は千鶴の頼みを快諾した。
 宿泊客のプライバシーに興味を持たず守るのもホテルマンの役割の一つだが。ホテルマンとしての年輪を感じさせる支配人も、耕一が巫結花の名を告げ、代理として部屋の予約を確認したのには、微かに眼を開いて驚きを示した。

 美冬達が同じロイヤルスイートだと判って、千鶴には支配人の驚きを理解出来た。

 ロイヤルスイートクラスでは、その宿泊費の高額さだけではなく、宿泊客は限定される。
 上階に位置し数部屋しかないのだから当然だが、室内は主室の他、寝室、応接室、バスルームの他、予備に数室が設けられ、その広さはカクテルパーティが開けるほどだ。
 調度品や家具、照明から内装まで、全てがホテルの威信をかけ厳選されている。

 超一流のホテルでは、ロイヤルクラスの宿泊には信用のおける紹介者を必要とする。ホテル側でも客を選んでいるのだ。
 事実、琵琶湖に向かい半円形を描くこのホテルでは、湖面を望むロイヤルスイートは二部屋しか存在しない。
 その二部屋に一週間単位で宿泊する客が、どちらも耕一の知り合いでは、支配人も鶴来屋の前会長の息子とはいえ、只の学生に見える耕一の人脈の広さに驚きを隠せなかった。

 一流と呼ばれるホテルマンは、紳士録に記載された著名人を始め、旧華族や名家等、各界の一流人の名と顔を記憶する事が必須条件とされる。
 千鶴の顔と名を記憶し、一流と認められた支配人の記憶の片隅にも、耕一の名はなかった。
 支配人は秘匿を言い渡された巫結花の情報も知っていた。 鶴来屋会長の従兄弟にして、巫結花の代理を務める耕一の名を知らなかったのを自らのミスと受け止め、支配人の頭には、その時点で耕一の顔と名が印象深く刻み込まれていた。

 ちなみに鶴来屋では、グループの会長である千鶴が直接出迎え、部屋まで案内するのはロイヤルクラスの宿泊客だけである。
 ロイヤルの宿泊客への対応は、それ程に泊める側に注意を必要とする。
 一般客を軽視しているのではない、ロイヤルに泊まる宿泊客は、財界人や政治家、その家族も多い、彼らの持つ社会的影響力を考えての対処である。

 そして鶴来屋には、ロイヤルの上にもう一部屋。ここ数年来、使用されない部屋が存在する。
 鶴来屋が天皇陛下を御迎えした貴賓室である。
 高級旅館「鶴来屋」が、隆山の一地方旅館から、一躍全国に名を馳せ、日本屈指の旅館と名実共に認められた事を記念する部屋であった。

 抜き取ったスカーフを両手で握り、耕一の部屋に向おうかと思案した千鶴は、思い直してソファに向った。

 すぐ戻って来ると考えていた耕一が戻って来なかった事で、千鶴は少し不安を感じていた。
 美冬の前で恥をかかされたのを耕一が怒っているとは思ってはいないが。神経を張り詰めていた耕一の様子を思い出すと、すぐに追い駆けた方が良かったと千鶴は後悔していた。
 少しして耕一が戻らなければ、千鶴は部屋に帰るつもりだった。しかし、美冬と話し込むうち、気が付くと耕一が部屋を出てから二時間以上が経っていた。
 慌てて帰って来たものの、千鶴はそれほど心配はしていなかった。耕一は梓と飲んでいるのだろうと高を括っていたのだ。だが、部屋に戻ると梓はソファで寝込み、耕一の姿はなかった。

 梓がバスローブ姿で寝ていたのも、千鶴には気に掛かっていた。
 部屋は暖房は効き適温に保たれているが、山と湖に囲まれた三月の半ばでは、温度の変化は激しい。
 普段の耕一なら梓に毛布ぐらい掛る筈だ。と、千鶴の胸に微かな不安が疼いていた。

「楓、もういいわよ。お風呂は?」
 千鶴は先に楓と梓を部屋に帰してから耕一の部屋に行こうと決め、梓を起こすように頼んだ楓に話しかけた。
「少し怠くて」
 千鶴に少しぼやけた瞳を向けた楓は、ゆるゆる首を横に振る。

 美冬と別れて姉妹だけになった途端、慣れないアルコールの酔い冷めも手伝い、楓は気が抜けて疲れが一気に押し寄せていた。
 気さくで明るい性格の美冬が相手でも、人と話すのが苦手な楓は、意識しなくとも知らず知らずに緊張していた。
 身体の節々が酷く怠く、頭が少し重い。
 風邪の引き初めみたい。と、楓は思った。

「そう? 大丈夫よ、お酒が抜けて疲れが出てきたんでしょう。温かくして、一晩寝れば治るわよ」
 少し苦笑気味の千鶴は、明るくそう言った。
 千鶴も初めて飲んだ時はそうだったが、一晩寝れば頭も身体もスッキリしていた。
「そうなの? それじゃ、お休みなさい」
「ええ、お休みなさい」
 素直に千鶴に頷き、楓はベットルームに向う。
「梓、大丈夫なの?」
 楓がベッドルームに向かうと、千鶴はまだボッーとしている梓に聞いた。
「うん。……少し寒い」
 カクンと頷いた梓は、自分の両肩を抱くと身を震わす。
「当り前です。こんな所で寝ているなんて、耕一さんも一緒なのに、なんて格好なの?」
「ああ、そうか。耕一が風呂入ってから、寝ちまったのか?」
「耕一さん、お風呂なの?」
「さあ? 帰って来て直ぐだったけど。どれぐらい前になるのかな?」
 大きな欠伸をしながら梓は立ち上がると、ぼりぼり頭を掻く。
 独り暮らしの男の子を見るような気持ちになった千鶴は、長い溜息を吐いた。

 梓の育て方だけ、間違ったのかも知れない。と、千鶴は心の中で少し後悔していた。

「早く着替えてお休みなさい。そのままじゃ、本当に風邪を引くわよ」
 梓のだらしなさを叱る気も無くした千鶴が言うと、
「千鶴姉、風呂入るんだろ? 戻しといて。お休み」
 梓はバスローブをソファに脱ぎ捨てる。
「梓、こんな所で……」
 慌てる千鶴に軽く片手を振り、梓はさっさと部屋に入って行く。
 梓の背中を見ながら、下着を着けるぐらいの分別は持ち合わせているのね。と、千鶴は呆れ顔で洩らした。

 千鶴は肩で一つ息を吐き、手にしたスカーフをバスローブと一緒にソファの背に架け直してから、耕一の部屋に向った。
 扉を小さく二度ノックして、千鶴は返事を待った。
「耕一さん?」
 反応のない扉に呼びかけてみる。
 扉の前で暫く待ったが、部屋の中から返事はなかった。
 ノブに手を掛けゆっくり回すと、扉は何の抵抗も感じさせず音もなく開く。
 部屋の中を覗き込んだ千鶴の瞳は、カーテンを開け放った窓から、闇夜の仄かな星の瞬きを受けた寒々しさを映しだした。
 ひっそりと静まり返った部屋からは、人が居た気配は感じられない。
 千鶴は電気が付いていないバスルームも覗いてみた。
 しかし、当然のように耕一の姿はなかった。
 ソファに戻った千鶴は腰を下ろし、途方に暮れた。

 耕一が昨日借りていた部屋は、今朝引き払っていた。この時間では、バーもレストランも閉まった後だ。
 美冬達の部屋は、丁度千鶴達の部屋と左右対称の端と端になる。耕一と行き違いになる筈がない。
 耕一の帰りを待つ方が確実だし、探そうにも千鶴には探す当てがないのだ。
 少し寂しくなった千鶴は、梓が並べていた缶ビールを掴むと口に運んだ。
 生ぬるい缶ビールの苦さに顔をしかめた千鶴は、お風呂に入って、まだ耕一が帰っていなかったら探しに行こうと決め、立ち上がった。
 やっぱり一緒に戻れば良かった。などと呟きながら、千鶴はとぼとぼとバスルームに入って行った。



 バスルームで千鶴がぼやき続けていた頃。耕一はホテル裏の岸辺で、湖面を渡る湿気を帯びたそよ風に冷やされながら、胡座を組んでビールを飲んでいた。
 風呂にでも入って気分を変えようとした耕一だったが、熱い湯の中で逆に嫌な事ばかり思い出してしまい、気晴らしに冷たい夜風に当たりに来ていた。

 美冬と出会った頃が、耕一に取って最悪の時期だった。
 むしろ美冬と出会い、最悪だと思っていた状況より、更に悪い精神状態がある事を知った。
 いつかは、耕一も平気で話せるかも知れない。
 しかし、まだ耕一は、それ程人生を達観出来る程、自分自身に自信を持ち合わせてはいなかった。


 秋の始め隆山から帰った後、耕一は鬼の力の制御法を探し始めた。
 心理学や宗教書、雑誌、週刊誌まで、精神世界に少しでも触れたあらゆるものをむさぼり読んだ。
 耕一は寝る暇を惜しんで読みふけった。

 その頃の耕一は、眠る事を恐れていた。

 隆山から帰った耕一の見る夢は、エディフェルに集約されつつあった。
 眠ると、次郎衛門はエディフェルを求めた。
 夢の中でエディフェルと出会い、満ち足りた幸せな時を共に過ごし、最後は腕の中で息を引き取る。
 次郎衛門は泣き叫んだ。
 それが、眠るつど繰り返された。
 繰り返される夢の中では、耕一は次郎衛門自身だった。
 エディフェルのしなやかで柔らかい身体を抱き、夢のような幸福な時間を過ごし、そして地獄の責め苦のような慟哭を耕一は次郎衛門と共に味わった。
 出会いながらエディフェルを拒否する耕一を、責めさいなむがごとく、夜毎出会いと魂を引き裂く別離は繰り返された。

 エディフェルを愛した次郎衛門を受け入れていれば、耕一は直ぐにも隆山に取って返し、楓に想いを打ち明けていただろう。
 過去と現在を繋ぎ、耕一も次郎衛門も望む幸せが、楓を愛すれば、それで手に入る。夜毎の悪夢は消え、夢に見た幸福な時間を取り戻せる。
 止まらない涙を両腕で抱いた膝に擦りつけ、夜明けを待つ生活は、終わりを告げる。
 たった一言、楓に想いを打ち明ければ、錬獄の日々は天国の日々に変る。
 一人泣く事も、空虚な寂しさに震える事もなくなる。

 その考えは、耕一には甘美な誘惑だった。
 エディフェルならば、次郎衛門の犯した過ちを許してくれると耕一には思えた。
 柏木を五百年に渡り苦しめた鬼の呪縛も、鬼を滅ぼしたのも、エディフェルへの次郎衛門の想いの深さに他ならない。
 例え真実を知っても、受け入れ温め合ってくれると、耕一には思えた。

 しかし、耕一にはそれは出来なかった。

 耕一は、リズエルと千鶴を切り離して考えていた。
 夢の中でエディフェルを殺したリズエルを、耕一は千鶴だと認めたくなかった。
 リズエルと千鶴を切り離した耕一には、楓とエディフェルも、また別人だった。
 次郎衛門の想いを受け入れ、楓に耕一の想いとして伝える事は、同時に耕一自身と千鶴への裏切りを意味した。そして、耕一自身と千鶴にだけではなく、耕一自身の安息の為にエディフェルとは別の意思を持つ楓に想いを伝えるのは、楓に対しても残酷な裏切りに耕一には思えた。
 楓に中のエディフェルが、耕一の中の次郎衛門を求めても、それは楓が耕一を求めているのではない。

 だが……楓自身が耕一を求めてくれるなら。

 眠れぬ夜と一人膝を抱える生活に疲れ果てた時、耕一の中にはいくたびかそんな考えが浮かんだ。
 その度、耕一の頭の中に青白い月の光に浮かぶ千鶴の泣き顔と、赤く濁った瞳が浮かび上り、耕一は考えを追い払った。
 もう二度と千鶴の抜け殻のような姿を見るのは、血のような涙を流す瞳を見るのは、耕一には耐えられなかった。

 その時の耕一には、それが次郎衛門の犯した過ち、柏木の呪縛を一人背負った千鶴への愛情なのか贖罪なのかと問われれば、答えられなかっただろう。
 耕一には、まだ次郎衛門の罪を、柏木耕一と分けて考えるほどの器用さは備わっていなかった。
 リズエルとエディフェルを千鶴や楓と切り離して考えながら、自分自身と次郎衛門を切り離して考えられない耕一の精神状態は、罪の意識に捕われ既に異常だったのかも知れない。
 その時の耕一に考えられたのは、せめてこれ以上悲劇を繰り返さないよう、鬼の制御法を探す事だけだった。

 それは千鶴とエディフェルの間で揺れ続ける心を胡麻化し、答えを先送りする為の現実逃避だったのだろう。
 制御法を追い求める間だけは、耕一は次郎衛門の夢を忘れていられたのだから。

 当初、鬼の意識は二重人格ではないかと心理学を当たった耕一は、共通点は多いものの、少し違うものだと結論づけた。
 二重人格では、多くの事例が主人格と副人格は別々に行動している。しかも互いを意識しない事例の方が多い。
 しかし鬼の意識は、確実に主人格を侵し行動しようとしていた。
 夢の中で徐々に主人格を侵し、行動の自由を得ようと働きかけていた。
 まして女性は、鬼の意識に侵されてはいない。
 二重人格に性別は関係なかった。
 いやむしろ、情緒不安定期の女性の方が多かった。
 耕一自身否定したかったが、二重人格と見るより、内に潜む内的欲求が、別の意識の形を取り発露した結果と取る方が理にかなっていた。

 人もまた動物であり、暴力や性への欲求を持っている。理性と言う名の檻で閉じ込めているだけだ。
 戦争という極限状態におかれた人々の残虐性を見れば、鬼の血を好む欲求は、人の内にも潜んでいると考えられた。
 そして、暴力や血を好む欲求は、女性より男性に強いとされている。
 つまり、人が本来持つ残虐性や暴力、性的欲求が鬼の血を持つ男性ではより強く。鬼という意識の形を取って、深層心理に潜む欲求が表面化される。
 鬼は別の人格ではなく、もう一つの自分自身の顔だ。耕一はそう考えた。
 そして過去の記憶の中で、エルクゥの男達が統制の取れた行動を行っていた事が、その証拠になる気がした。
 エルクゥの男達は統率者の元、掟を作り社会を構成していた。同族の千鶴を襲った鬼のようには、鬼の本能に振り回されはしないのだ。
 それは鬼の本能に振り回されるのは、人と鬼の混血で、なおかつ男性だけに限定されている事を示していた。

 だが耕一は、そこで行き詰まった。

 それでは、狩猟者としての意識が説明出来ない。
 狩猟者の自覚を、鬼が持っている理由が説明出来ないのだ。
 柏木に生まれ知識のあった耕一の父や伯父なら兎も角、耕一が夢で見た鬼は、自分が狩猟者だという知識を、誰から教えられたわけでもないのに持っていた。

 そして、耕一は次郎衛門の意識も。

 そこで転生に鬼の意識の秘密を求め、耕一は宗教を当った。
 しかし、宗教ではたいした成果はなかった。書いてある内容も宗派により違えば、死後どのような罰を受けるというものが大半を締めていた。
 まして特定の血筋のみに受け継がれる転生など皆無だった。

 幾多の可能性を探り、耕一は宗教から西洋魔術、神秘学、オカルトを巡り、更に気功に至った。
 西洋魔術では、精神体と肉体を別て考える知識を見つけ。
 神秘学、オカルトでは、心理学で言う集合的無意識の考えを取り入れた。

 耕一は、次郎衛門の記憶にあったヨークに集うという言葉を手掛りに。鬼の転生は、エルクゥが死後に精神体としてヨークに留まり、更に鬼の血を持つ者にヨークが転生を促す役割を担っているのではないかと考えた。
 だが、それも鬼の本能の制御には利用出来そうもなかった。肝心のヨークがなければ、調べようがないのだ。

 推論を半ば諦め、耕一は実践に移った。

 理屈が判らないなら、本能や理性をコントロールする方法を捜そうとしたのだ。
 座禅を初め、各種瞑想法を試し、最後に気功を学ぼうとした。
 しかし、街の小さなサークルや研究会では断られ続けた。
 耕一の気が、異質で強すぎるというのだ。
 だが、耕一は逆に強い関心を引かれた。
 鬼の気が判るなら、気を制御する事で、鬼の本能を抑え込めるかも知れないと考えた。
 しかし問題もあった。
 多くの人が集まる有名な研究会や組織では、鬼の強い気に興味を示す人間がいるかも知れない。
 強い気の正体や、血に潜む鬼を他人に知られる危険は冒せない。まして人間ばなれした力で有名に等なっては困る。
 常人とは違う事は、秘密にする必要がある。
 鬼の気が判るなら、尚更、なるべく眼立たないように極秘に習う必要があった。

 そこで耕一が眼を付けたのが、資料を調べに行った大学で噂に聞いた留学生だった。
 図書館で顔見知りになった司書が、凄い美人留学生が拳法の達人で、昼間はキャンバスで気功をしていると、熱心に気功関係の資料を調べていた耕一に話してくれていた。

 他の大学の留学生で、あと一月程で帰国する。
 友人も少なく、毎日キャンバスで一人気功を行っているという。
 他校生だ、不味くなれば連絡を絶てばいい。留学生なら帰れば、再び日本に来るかどうか。
 美冬は、耕一が気功を習うには打ってつけの人物だった。

 早速耕一は美冬を捜し始めた。
 さほど苦労せず、耕一は美冬を見つけた。
 噂通りの大人びた美人が、一人キャンバスの芝生の上で座り込んでいれば、イヤでも眼に付いた。
 美人で近寄り難い気難しい女性だと聞いていたが、耕一は気にも止めなかった。
 肉感的な美冬とはタイプが逆だが、耕一は美冬より千鶴の方が綺麗だと思った。それに気難しくとも、避け続けていた頃の楓の冷たい瞳を思えば、嫌われようと蔑まれようと気にはならなかった。
 そしてそれ以上に、既に女性に関心を示す余裕を、耕一は失っていた。


 吐き気のする思い出に浸っていた耕一の背後から、ジャスミンの芳香が忍び寄った。
「今度は逃げないの?」
 からかいの中に混ざった寂しさが、耕一の胸には痛かった。
「すまん。美冬」
「いいよ。嫌われて当然なのに、耕一は友達でいてくれる」
 スッと流れる動作で耕一の隣に腰を降ろした美冬は、寂しそうな笑いを洩らした。
「まだ気にしてるのか? 頑固だな」
 呆れ顔の耕一は、美冬の横顔に視線を向ける。
「日本ではどうか知らない。でも、私の受けた教育では許されないの」

 美冬は気功を教える条件として、学生で溢れ返る大学の正門前に耕一を連れ出し、手を突いて頼めば教える。と、そう言ったのだ。
 美冬も本気で言ったのではない。
 怒るか呆れて帰ると考えての事だ。
 それまで美冬に教えてくれと来た中に、真剣に気功を習おうという者はいなかった。
 ところが耕一は、美冬の言葉が終る前に膝を折り両手を突いて頭を下げていた。

 これには、美冬の方がショックを受けた。

 美冬の受けた教育では、公衆の面前で女性が男性を辱め貶めるのは、不徳の極みとされる。
 そしてその男性の徳が高ければ高いほど、罪科は大きい。
 使用人や蔑まれて当然の相手なら兎も角。もし美冬が家で男性に手を突いて頼め等と言えば、家名を汚したとして一族の恥さらしとされただろう。

 耕一は気にするなと言うが。最初、美冬には教える気はなかったのだ。
 礼には礼を持って接すを旨として、美冬は育てられた。
 礼を持って教えを請うた相手を、ただ悪戯に辱める行為は許されるものではない。
 まして、美冬には教えられなかったのだ。
 美冬は耕一に一生掛かっても償えない借りを作ったと考えていた。

 耕一はキッと顔を向ける美冬の真剣な瞳に、諦めたように頭を掻く。
「俺の周り、頑固な女ばっかだな」
(千鶴さんといい、楓ちゃんといい。初音ちゃんは特別として、梓が一番素直なのか?)
 耕一は小さく息を吐き出し、あの梓が一番素直なのか? と心の中でぼやいた。
「思想の自由よ」
「あのな……。おい、どうして俺がここにいるのが判った? 千鶴さん達はどうした?」
 波の音に耳を澄し目蓋を閉じた美冬は、薄く静かに笑っていた。
「巫結花が教えてくれた。…耕一」
「なんだよ。千鶴さんは部屋に戻ったのか?」
 ゆっくり首を傾げて美冬は微笑み、薄闇の中で妖艶な赤い唇が言葉を紡ぎ出す。
「戻った。恋人をさんだなんて、千鶴が可哀想」
「いいんだよ。長年の習慣なんだから」
「ああ、そっか。ベッドでは別なのね」
 ギョとなった耕一はふんと正面を向き、手に持ったままだったビールを喉に流し込む。

 軽く性的な言葉を口に乗せるが、美冬は決して軽薄な女性ではない。むしろ古い貞操観念と潔癖さを持ち、周囲の状況に合わせる柔軟さも持ちあわせている。
 学生時代から友人達に話をあわせた結果、かなりの耳年増であり、性的な話題にも抵抗感がなくなっただけだ。

「図星ね? 耕一は、反応がストレートで嬉しいわ」

 クスクス笑う美冬の勘は正しい。
 それも、耕一が千鶴を呼び捨てにするようになったのは最近の事だ。
 今更名前だけで呼ぶのが恥ずかしいとか、照れ臭いというより。千鶴さん、耕一さんと言う呼び方が、呼ぶ時も、呼ばれる時も、しっくりと違和感なく耕一には馴染んだ。
 愛し合った後、いつまでも初々しい千鶴の恥じらう可愛らしさに、いつの間にかさんが抜けていただけで、耕一も意識して使い分けているのではなかった。
 もっとも、これに関しては美冬の言い分が正しい。
 千鶴の方は、さんなどといつまでも他人行儀に呼ばれるより、呼び捨ての方が良いと思っていた。
 美冬と耕一が互いに相手を呼び捨てにしていると、千鶴は、自分より美冬の方が耕一と親しく感じて、多少なりと嫌な気持ちになっていた。
 千鶴自身には、耕一さんという呼び方を改めるつもりはない。亡くなった母も、父を呼ぶときは敬称を付けていたのだから、千鶴は男性に敬称を付けるのは当然だと受け止めていた。
 良い意味でも、悪い意味でも、千鶴は良家のお嬢さん育ちだった。

「美冬、お前な。俺を、からかいに来たのか?」
「いいえ。心配しないで、彼女には話さない」
 ぶすっと耕一が横眼を向けると、美冬は片手で髪を掻き上げ、大きく広げる。
 広げた髪が微風に揺れ、ジャスミンの香りを放ちながら流れるさまは、肉感的な赤い唇と張りのある肌を妖しく引き立て、見るものを魅了する。

 耕一は気にも留めていないが、美冬は耕一を誘惑しているようにしか見えない。

「久しぶりなのよ。そんなに張り詰めないで」
「悪い。鋭いんでな。なにか気が付くんじゃないかって、気になって」
 苦い笑いを浮べた耕一は、明るさを装った声を美冬に向ける。
「うん。知性的で聡明だわ。勘も鋭いわね」
「って。おい、なにかばれたのか?」
「ううん。気功と、私が耕一を巫結花に紹介したって話しただけ。オーラ占いで盛り上がってたの」
 なにか千鶴が気づいたのかと慌てる耕一に微笑みを向け、美冬はゆっくり首を横に傾げる。
「凄く綺麗で整った大きな気だったわ。耕一も負けてないから、安心なさい」

 気は色と共に形も重要とされる。
 卵型に身体を覆うものがもっとも良いとされ、知性、霊性が高いほど大きく広がる。
 美冬は千鶴の気は高い知性と霊性を表しているが、耕一も負けていないから安心しろと言っているのだ。

「昔の話だ。もう気にしてない」
 美冬の言葉が自分の持っていた劣等感を差しているのに気づいて、耕一は美冬から顔を背けビールを煽った。

 千鶴に対して持っていた劣等感を美冬から隠そうにも、美冬は耕一がもっとも自信を無くし、打ちひしがれていた姿を知っている人間だった。
 耕一が一番思い出したくない自分自身を知られている、教師でもあり友人でもある美冬に否定してみても。美冬は自分の中にある感情を認める柔軟さが大切だと、説教を始めるだけなのを耕一は知っていた。

「どこが気にしてないの? 一線で働けるだけの知識は教えたわよ。自信がないの?」
 眉を潜め困った顔になった美冬は、耕一の手からビールを奪い取る。
「今ならなんとかなるさ。問題はこれからだ」
「ふふん。欲が出て来た?」
 低く呻いた耕一の暗さとは反対に、美冬は嬉そうに取り上げたビールを唇に運ぶ。

 耕一が美冬から熱心に学んだのは、主に内部批判への対応策だった。だが、美冬にはそれが不満だった。

 当初、守りばかり考える耕一に美冬は言ったものだ。
「弱みを作らなければいい。敵を潰せば良いだけよ」
 細心の注意を払い、リスクを避け。
 そしてチャンスを逃さない。
 その為に必要なのは情報だった。

 誰よりも早く情報を掴み、有効な手段を練る。
 批判を避けたいなら先んじて手を打ち、敵対者を封じ込めれば良いのだ。
 批判を受けるような隙を見せる方が問題だ。
 そして、敵に回った者は徹底的に叩く。
 誰もが、敵に回りたくしなくなるように。

 それが美冬の考えだった。

 鶴来屋会長の千鶴が恋人と判って、耕一の偏った知識の求め方も、内部批判から恋人を守る為だと理解した美冬だが。より大きく取り引きを広げ、成長させるのが企業人のあり方だというのが、美冬の仕事に対する考えだった。
 耕一が企業人として鶴来屋を成長させるつもりなら、美冬に取っても、耕一は将来良いビジネスパートナーになる可能性がある。
 その程度には、美冬は耕一の才能を評価していた。

「どこまで大きくすればいいのか、見当も付かないってトコだ」
 ぽそぽそした耕一の話し方は、嫌だが仕方がないと言うような、諦めを含んでいた。

 鶴来屋の成長を、耕一はあまり望んでいない。
 企業が大きくなれば、それだけ敵は増え、足元をすくおうと狙う連中を増やす事にもなる。
 鶴来屋は現在の規模で守り、柏木の隆山での影響力を維持出来れば、後は千鶴達と平凡に暮らせればいい。
 そう耕一は考えていた。
 しかし、鶴来屋は成長し続ける必要が出来たのだ。
 千鶴達と、耕一自身の将来の為にも。

 投げ槍で嫌そうな耕一の様子に不安を覚えた美冬は、耕一の顔を覗き込み。
「冷静に判断しないと、全てを無くすだけよ」
 と、声音を強め警告した。
 もう美冬のどこにも、友人の馴れ馴れしさも陽気さもない。
 事実だけを告げる冷徹な厳しさだけが、美冬の瞳と声にはあった。

 耕一の寛大さと優しさを美冬が好ましく思いながら、占いに寄せ千鶴に注意を促したのは、耕一のこういった曖昧な態度にある。
 特に女性にそうだが、優しさと甘さを混同した耕一の曖昧な態度は、ビジネスの社会においては、美冬の眼には足元をすくわれ兼ねない甘さにしか映らなかった。

 冷静な厳しさがビジネスには不可欠だ。
 目標を定めた計画を立て、冷静にリスクと利益を計り、切り捨てるものと残すものを見極め、チャンスを見逃さない必要がある。
 目標も無しに利益を追い求めれば、肥大化した企業は土台から崩れ、全ては水泡に帰す。
 ましてトップに確固とした目標と厳しさがなければ、社員はそれぞれが好き勝手に動き、収集がつかなくなる。
 企業の上に立つには冷静な判断力と行動力の上に、目指すべき目標を示し導く卓越した指導力が求められる。
 トップが甘い顔をしていては、企業の成長はおろか、野心家達を押え切れず内部闘争で自滅するのが落ちだ。

 自分に自信がないから、耕一は他人に冷たく出来ないのだ。と、美冬は考えていた。

 美冬が数カ月前に千鶴達と耕一の間であった出来事を知れば、この耕一に対する美冬の評価は少しは変っていただろう。
 劣等感と次郎衛門の記憶の葛藤に苛まれた三ヶ月で、耕一は従姉妹達以外なら、誰であろうと平然と切り捨てる厳しさと冷たさをも身に着けていた。

「ああ、判ってる。そろそろ戻るよ」
「うん。ああ、そうだ。巫結花から伝言、明日五時だって」
 ズボンに付いた砂を払い耕一が立ち去ろうとすると、雰囲気を一変させた美冬は、親しい友人の馴れ馴れしさに戻り思い出したように陽気に付け加える。
「五時だ? 寝る暇あるかな?」
「寝なけりゃいいのよ。一人じゃないんでしょ?」
「美冬、判ってるだろうけど。あの件も、話すなよ」
 軽口には付き合いきれないという顔で、ジトッとからかう美冬を見下ろした耕一は、取り合えず念を押すという感じのおざなりさで口止めした。
「あの件?」
 口調とは裏腹に鋭さを増した耕一の眼光を認めても、唇に指を当て、わざとらしく問い返す美冬には気にした様子もない。
「書類の件だよ」
「ああ、あれ? どうせ、やっかみか、おもしろ半分でしょ。わざわざ教える趣味はないわ。彼女が知らないとも思えないしね」
 眉を潜めた美冬は、信用出来ない。という風に首を傾げ耕一を見つめる。
「俺が知ってるの、知られたくない」
「まあ、気持ちは判るな。耕一のお父さんも、いい男だったんでしょうね」
「まだ俺なんか、比べもんになるかよ」
「あらら、ファザーコンプレックスまで持ってたの? カウンセラー、紹介しようか?」
 クスクス笑う美冬をげっそりした顔で見ると、耕一は美冬に背中を向け、ホテルに歩き出した。
「千鶴に宜しくね」
「ああ、じゃあな」
 後ろ手に美冬の楽しそうな声に弱々しく手を振った耕一は、こんな所を千鶴さんに見付かったら大変だったな。と、千鶴が探しに来なかった幸運に安堵の息を吐いた。
 遠ざかる耕一の背中を見ながら、美冬は耕一から奪い取ったビールを、ゆっくり唇に運ぶ。
「自信、なくすな」
 缶から離れた美冬の唇から洩れた吐息のような囁きは、耕一にも、他の誰の耳にも届く事なく闇夜の微風に紛れた。

一章

三章

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