一の章


 それは突然だった。
 その日も美冬は留学した大学のキャンバスで、一人で気を練っていた。
 気を練ると言っても、周りから見れば美冬は芝生の上でただ胡座を掻いて座っているとしか見えなかっただろう。
 静かに鼻から息を吸い、口から吐く単調な動作の繰り返しである。
 静かな息と言っても普通の息ではない、何百年も受け継がれた特殊な呼吸法の一つである。
 呼吸法が秘中の秘とされた時代もあった。
 鼻の前に置いたこよりさえ動かさない静かで深い呼吸に乗せ、身体を巡る気を調整するのだ。

 そして気は、人や動物。いや、石にすら気は存在する。
 気は世界を構成するエネルギーに他ならない。
 根源的なエネルギーである気の流れを調整し整えれば、体躯は強靭になり、本来人間の持つ自然治癒力を高める。

 美冬は、そう教えられていた。

 西洋正当科学は否定するが、中国では気功は国に認められ、鍼灸と同じく気功師、気功医という国家資格を与えられる正式な治療法として確立している。
 国に認められた気功医は、医師と協力して病人の乱れた気を調整し病を治している。
 医師資格と同列に考えられ、気功を科学的に研究する専門の国家機関さえ存在する。

 目に見えない気を感じる事から始め、美冬が気に親しみ、既に十年以上の月日が流れていた。
 美冬の行っていた気功は静功と呼ばれる座して行うものだ。これに対し、日本でも広く知られるようになった太極挙に似た動きを伴うものを動功という。
 静功も動功も、供に呼吸に併せ身体を流れる気を調整し、健康増進を狙った物である。
 しかし、美冬の行っている気功は健康法とは少し違い、気を一点に集中させ大きく強くする物だった。

 これを気を練るという。

 本来美冬は動功を好んだ。
 だが日本に来てから、キャンバスでは静功に止めていた。
 美冬の容姿はキャンバスでは目立ちすぎ。周囲の、特に男子学生の好奇の目が付いて回った。
 緩やかな舞踊を思わす動功を行っていると、物見高い観客が集まり集中力を削がれる。
 まして人は、意識するしないに関わらず気を放っている。良い気ならいいが、猜疑と好奇心が入り交じった気は妨害以上に害悪でしかない。
 仕方なく美冬はキャンバスでは、静功だけをする事にしていた。

 行の最中、美冬の練った気は乱入者に乱された。
 乱入者は美冬の側に立っただけだった。しかし、その放つ気は強すぎた。
 十数年気を練った美冬ですら、寒気を覚える強い気だった。
 美冬が感じた気は、なんとか抑えようとされている様子だった。だが、普通の人間なら兎も角、修行を重ねた美冬には、間近にいる強い気を感じ取る事が出来た。
 強すぎる気に美冬は行を断念し呼吸を整え、半眼に閉じていた目蓋を上げ強い気の正体を見上げた。

 見上げた美冬の瞳に映ったのが、耕一だった。

 美冬の邪魔をした謝罪もそこそこに、耕一は気功を教えてくれと美冬に切り出した。
 美冬は最初冗談ではないと思った。
 これほど強い気を持ちながら、気功を習った事もないとは信じられなかった。
 それに留学生の自分に頼むより、今は気功教室なりサークル、日本にも教えている所は多くある筈だった。
 そう教えて断った美冬に首を横に振り、耕一は当たった教室やサークルには、全て断られたと語った。
 美冬にも断った気功師達の気持ちが理解出来た。

 耕一の気は強すぎるのだ。

 健康法程度なら兎も角、これ程の強い気を練り上手く調整出来なければ死に至る。
 気功も秘中とされる段階になると、導師が選んだ弟子に一対一で教えを垂(た)れる。
 選ばれた弟子でさえ気の扱いを誤ると、気が熱となり脳を焼き死に至る。
 死なないまでも、身体中に熱が回り熱に浮かされ続ける事になる。
 耕一の気の強さは、普通ではなかった。
 誰しも他人の生死に責任など持ちたくはない。

 しかし、耕一は美冬に断られてもしつこく食い下がった。
 耕一のしつこさに面倒臭くなった美冬は、一つの条件を出した。
 だが、美冬が諦めると考え突き付けた条件を、耕一はいとも容易く実行した。
 こちらから出した条件である、美冬も今更冗談で済ませるほど恥知らずではなかった。
 こうして美冬は、耕一に気功を教える事になった。
 しかし、美冬が教える事にした一因は、耕一の真剣さにもあった。
 今までも何人か教えてくれと美冬を尋ねて来たが、どれも興味本意か、酷いのになると美冬と知り合いになりたいから。と平然と言って退ける輩までした。
 ただ知り合いになりたいと言うなら、美冬もそれなら気功を習うまでもないと言っていただろう。
 だが、そいつらは事もあろうに雑誌の記事を鵜呑みにして、気功をセックスの道具と勘違いしている輩だった。
 気功を習えば、美冬とセックスが出来ると考えていたのだ。
 そう言った連中には、美冬は懇切丁寧に二度と近づく気が起こらないようにしてやった。
 だが、それらの誰とも耕一は違っていた。
 真剣というより、切羽詰まっていると言った様な追い詰められた眼をしていた。
 教えを請うた師から、生来強すぎる気を持って生まれる者もいると美冬は聞いた事があった。
 気の強さ故に、耕一には何かトラブルがあるのだろうと、あえて美冬は聞きはしなかったが。

「まあ、それで私の手に負えなくて、巫結花を紹介したのよ」
 話しを締め括り、クイッと自分の前髪を引っ張った美冬は、ハァ〜と息を吐いた。

 手に負えない事に手出しして、人に任せるなど美冬には初めての経験だった。
 千鶴達には耕一に出した条件の話は省いたが、美冬は耕一には大きな借りを作ったと思っている。
 未だに耕一に返せる当てもなかった。
 耕一は気にするなと言うが。美冬に取っては、なんと言われようと一生かかっても返せるような借りではないのだ。

「巫結花さんを?」
 ジッと美冬の話を聞いていた千鶴は、あどけない寝顔を見せる巫結花と初音に視線を走らせた。

 口を聞かない事もそうだが、どこか達観した落ち着きようといい、雰囲気といい、確かに不思議な子だが。幼さを残した巫結花の寝顔を見ていると、とても千鶴には美冬以上の力があるとは思えなかった。

「最初は巫結花のお父さんに頼んだの。でも、お父さんの方は拳法が本業で、気功は巫結花の方が得意でね」
「あっ、華僑の拳法家の方って?」
 以前取引先の佐久間から、耕一が華僑の大物と繋がっていると聞かされたのを思い出した千鶴は、美冬に眼を戻して尋ねた。
 しかし、美冬は千鶴には応えずギョとした顔をすると、千鶴に鋭い視線を向ける。
「まさか、耕一?」
 強い圧力を感じさせる低い声で尋ねた美冬には、もう先程からの楽しそうな笑みも、くだけた雰囲気も消え去っていた。
「いいえ、取引先の方からです。耕一さんが気功を習っていらしたのは、由美子さんから聞いていましたし」
 急変した美冬の態度に戸惑いながらも、千鶴は平静に返した。

 常人なら落ち着きをなくす美冬の気迫も、鬼の気に比べればそよ風のような物だ。千鶴や楓にとっては、取り立てて慌てる必要もない。

「どこかしら? 差し支えなかったらでいいわ」
 良かったらと付け足したが、美冬の語調は尋ねると言うより詰問だった。
「佐久間さんですが」
 千鶴は隠す必要を感じなかった。

 佐久間が勝手に耕一の身辺を調査したのだ。その情報をどう使おうと、佐久間に不利に働こうと、佐久間を咎めても咎められる筋合いはどこにもない。

「佐久間? レジャー開発の?」
 美冬の問いに小さく千鶴が頷くと。美冬は眉を潜め考えを巡らせた。
 美冬の知る限り巫結花の家は、佐久間と直接取り引きはなかった。
(調べるとすれば、耕一の線?)
「ごめん」
(耕一の方の問題ね)
「耕一とは、ビジネス抜きで付き合いたいのよ」
「ええ。友人関係にお仕事が絡むのは、嫌なものですものね」
 自分達とは関係なしと結論づけ、緊張を解き相好を崩した美冬に、千鶴も朗らかに返した。

 経済に関わる身として、千鶴も華僑について一応の知識は身に着けていた。華僑は日本とも西洋とも違う、独自のビジネス体系を持っている。謎に包まれた部分も多い。
 自分達の仕事の事情にはあまり踏み込むな。と、美冬は警告しているのだ。
 美冬が友人としての付き合いを望んでいるのだから、相手の事情に巻き込まれていない以上、自分達とは違う倫理、社会に属する相手の事情に踏み込む必要はない。
 それが千鶴の下した結論だった。

 美冬は千鶴の返事に口元を綻ばせ、グラスを取り上げた。
 千鶴の返した返事は、美冬の望んだ答えでもあった。

 グラスを口元に運びながら、美冬は千鶴の聡明さに内心感嘆を洩らしていた。
 気功を教えられなかった美冬は、耕一に経済を教えた。
 耕一は生徒としては優秀だった。
 何より知識を得ようとする意欲があった。だが、情に流され易いのが欠点だった。
 耕一から助力を請われれば、美冬が主義主張を曲げても断れないのを耕一は知っている。
 それだけの負い目を、美冬は耕一に感じていた。
 それを知りながら、美冬の持つバックを利用しようとせず、常に対等な友人であろうとする辺りが、耕一を企業人として見た場合の甘さを示している。
 利用出来るものは何でも利用する位でないと、ビジネスの世界ではトップには立てない。

 しかし、千鶴は違う。

 美冬の言葉の意味を正確に理解した上で、千鶴は仕事と友情は別だと言ったのだ。
 もし耕一ならこう言っていただろう。
「友達だから、困った事があるなら出来るだけ力なりたい」
 友人としての美冬にとっては嬉しい言葉だが、企業人としては失格なのだ。
 耕一が何も持たないなら良い、個人の問題で済む。
 しかし、耕一が美冬と知り合い巫結花に紹介するに当たって、耕一の身元は美冬達の一族により調べ尽くされていた。 耕一の後ろには、鶴来屋という企業がある事を美冬は知り、耕一も美冬達のバックが華僑に属している事を承知している。
 耕一は鶴来屋と自分は無関係だと言うだろうが、それは通用しない。
 未だに美冬達の間では、一族間では同族を重んじ、家長が支配する意識が根強い。
 鶴来屋を支配する柏木唯一の男性である耕一が、美冬と巫結花に尽力を約束すれば、耕一がどう考えようと、美冬達の家では、耕一の親族が経営する鶴来屋の尽力をも得られると考える。
 一族は鶴来屋の名を最大限利用する手段を考え出すだろう。鶴来屋の名前だけでも隆山に根を延ばすつもりなら、利用方はいくらもある。
 企業や家、力を持ったバックを持つ者の不用意な一言は、否応なく周りを巻き込む結果を生む。
 力を持つ者の一言は、それ程重く責任が着き纏う。

 日系企業が海外でトラブルに陥るのも、日本語が持つ曖昧さに起因する事が多いのを考えればよく判るだろう。
 日本語の持つ曖昧表現を外国企業では確定事実と受け取り、契約上双方に誤認を生みトラブルに発展、裁判になった事例すらある。
 ひとつの相づちが、事実確定と誤認された為に起こった事例である。

 もちろん美冬達には、耕一を利用する気はない。
 だが、リスクは避けられるなら避けるに越した事はない。
 友人として付き合っても、仕事上の関係に拒否を示した千鶴の答は、美冬には企業のトップとして理想的に思えた。

 美冬は軽く千鶴を見やり、出会った頃の耕一の様子に美冬なりの回答を求めていた。

 二十三歳と聞いたが、千鶴は二十歳の美冬からみても同じ位か年下に見える。
 美冬に千鶴を印象づけたのは目元だった。
 少し垂れ眼がちの穏やかで温かい眼差し。会う者誰しもが、その眼差しに親しみと心地好い安らぎを覚えるだろう。
 気位の高さや気取った所もない。穏やかに頬に浮かべた笑みが、冷たく見えそうな綺麗で整った顔立ちを可愛らしく優しく引き立てている。
 前髪にシャギーが入っていて背中に流したストレートの艶やかな黒髪が綺麗だ。と美冬は思った。
(カラスの濡れ羽色と言ったっけ?)
 うる覚えの例えを思い出し、美冬は自分の前髪を指に絡めた。
 美冬も黒く長い髪だがウェーブが掛かっている。千鶴や楓もそうだが、巫結花のストレートの黒髪を見ると羨ましくなる。
 ないものねだりだと美冬も思うが、どう頑張ってセットしても、指に絡めた髪はストレートになってくれそうもなかった。

 クルッと丸まった前髪から指を放した美冬は小さく息を吐き、眼を千鶴に戻した。

 だが、千鶴の親しみを覚える眼差しが、時に背筋が寒くなるような冷たさを感じさせるのも気がついていた。
 たおやかに見える千鶴に、見た目とは違う芯の強さがあるのを短時間で美冬は見抜いていた。
 そして、千鶴は聡明で頭の回転も早かった。
 仕事上の関係を断った美冬の少ない言葉を正確に受け止め、美冬の望んだ友人関係を受け入れる言葉を最小限で返した。

 普通のOLやビジネスマンには、真似出来る事ではない。千鶴が並外れた能力と容姿を兼ね備えた女性であるのは、確実だった。
 並の男性では、千鶴に釣り合うとは美冬には思えなかった。

 愛があれば。そう世間ではいうが。
 最初はそれでいいだろう。だが、時が経てば女性の優秀さは、時に男性を圧し潰す。
 男性は自分より優れた女性に時に劣等感を抱く。
 能力が同じでも、性別の差に男性は矜持を傷つけられ深く傷つく。
 男女同権が叫ばれていても、男は強く女性を護る者だという古くから擦り込まれた考えは、そう簡単には深層心理から消えるものではない。
 自分より優れた女性。
 特に愛していれば、男性は自分自身の能力不足を感じ、不要な劣等感に苛まれる。
 愛情を育むにも、相手に見合った能力が求められるのだ。
 互いを高め尊敬しあえる関係でなければ、良い関係は長続きはしない。
 幼くして美冬が教えられた儒学、道教の教えでは、嫁は夫に尽くし家に尽くし、決して逆らわないのが良妻とされる。
 美冬は時代錯誤だと思うし、従うつもりもないが。子が親に口答えするのさえ、不徳の極みとされるのだ。
 男性を立て、出しゃばらず上手く操るのが良妻なのだろう。と、美冬なりに受け止めていた。

 美冬の出会った頃の耕一は、焦燥と不安、深い苦悩と人生を諦めたような空虚さが同居していた。
 しかし一方では、何かを探し求めてもいた。
 恋人の千鶴に劣等感を感じていたなら、耕一の様子も貪欲に求めた知識欲も、美冬には理解出来る気がした。
 二十三歳の若さで企業を支配し、容姿能力とも兼ね備えた千鶴と、才能はあっても平凡でしかなかったかっての耕一では、自分を磨くしか劣等感を払拭する方法はなかったのだろう。

(その頃の自分を千鶴に知られたくなくて、耕一は不機嫌だったんだ)

 千鶴を観察するうち、美冬は耕一の苛々の原因を一人で納得し、急に込み上げて来た笑いに喉を鳴らした。
 考えを巡らせる間に、千鶴に泣きそうな顔で詰め寄られ、ぶざまに慌てる耕一の姿を思い出していた。

(嫉妬を焼いて耕一に食って掛かる千鶴は、子供のようだった)

 美冬から見ても、千鶴が耕一を頼りにし、耕一が千鶴を大切に思っているのは良く判った。
 話に聞く古き良き日本女性の趣と、少女のような顔を併せ持つ千鶴は、良妻賢母を地でやれる女性かも知れない。と美冬は考えていた。
 包み込むような優しさを持った耕一と、少女のような所のある千鶴。
 二人から感じた印象は、美冬には理想的な関係に思えた。

 笑いをこらえ痛くなった腹筋を片手で押さえながら、美冬は、今の耕一なら、千鶴とは似合いの良いカップルだと思った。

 自分を見ながら考え込んでいた美冬が、突然くつくつ身を二つに折って笑い出したのに、千鶴は呆気に取られた。
「あの、美冬さん? どうかなさいましたか?」
 隣で驚いている楓と顔を見合わせ、千鶴はこわごわ美冬に声を掛ける。
 楓はどうすればいいかも判らず、手にしたロケットを握ったまま驚いた顔をしている。

 急に険しい顔になった美冬が笑みを浮べ謝ったと思ったら、今度は考え込み、いきなり身を折って笑い出したのだ。
 千鶴と楓の眼には、奇行としか映らない。
 千鶴はなんとか平静を保っているが、楓はどう対処したらいいのかも判らないでいた。

「ああ、ごめんなさい。ちょと気を抜いたら、酔いが回ったみたい」
「気を抜く? 先程も、そんな事を言われていましたね」
 美冬の言う気を抜くが、千鶴には普段使われる意味とは違う気がした。
「うん。気を調整すると酔わないのよ」
 キョトンとした顔で千鶴が尋ねると、美冬は苦しそうにお腹を押え説明した。

 千鶴が保守的で体面を重んじる女性なのは、美冬も先程のレストランと耕一の一件で理解していた。わざわざ痴話げんかの話を持ち出して女性に恥をかかせる趣味を、美冬は持ち合わせてはいない。

「そういう、ものなんですか?」
 釈然としない面持ちで千鶴は小首を傾げる。

 千鶴達が便宜上気と呼んでいるのは、殺気とか気迫という意味だ。
 鬼を解放すると身体に力が溢れ、周囲に圧力のようなものを発散する。殺意を向けられれば凍える様な殺気が力として感じられるし、鬼同士なら簡単な意思を互いに読み取る事も出来る。
 しかし、美冬の話を聞いていると、どうも千鶴には、鬼を解放した時に感じる気と、美冬の言う気は別のもののように思えた。
 気を練るとか、一点に集中する。調整して酔わないようにするなど千鶴は考えた事もないし、やって見た事もない。
 そんなに便利に使える物なのかというのが、千鶴の心境だった。

「使い方しだいね。第一、人によって感じ方も違うし」
 懐疑的な千鶴の様子に気を悪くした風もなく、頬に笑みを浮かべ美冬は肩をすくめる。

 大袈裟な仕草がゆるくウェーブした髪を跳ねさせ、頬にかかる軽く巻いた髪が、妖艶に見える美冬の微笑みを見る角度によっては可愛らしく見せる。

「感じ方が人によって違う? 圧力とか、そういう物ではないんでしょうか?」
 千鶴は美冬の話しに興味を引かれ、自分達が気と呼んでいる感覚で聞いた。
「そういう人もいるわ。耕一も圧力として感じていたわね。私は、最初は電気みたいな痺れる感じだった。それから熱として感じるようにイメージしたけど。巫結花は最初から色がついた膜みたいに見えたって」
「見える? 感じるだけでなく?」
 ますます判らなくなって、千鶴は身を乗り出した。

 千鶴の感覚では、気は感じる物だと思っていた。
 気が見えると言われても、千鶴には良く理解出来ない。

「だからエネルギーよ。放電すれば電気だって見えるけど、普段は見えないでしょ?」
「ええ。それは、そうですが」
「訓練すれば、見えるようになるけど。感じるだけの人が多いみたいね」
「…命の炎?」
 千鶴と美冬の話を黙って聞いていた楓が、ぽつりと洩らした。
 楓が真剣な顔で握り締めたロケットは、いつしか蓋が閉まりメロディを奏でるのを止めていた。
「そう。そういう感じ、とっても綺麗よ」
 楓の呟きを聞いた美冬は、我が意を得たりと嬉そうに頷く。
「強い気を持つ人は、身体の周りに炎のように広がって見えるのよ。オーラとかプラーナと言う呼び方もあるわね」
 気と同じかどうかは知らないけど。と美冬は付け足し、少しは判り易い、と尋ねるように首を傾げた。
 だが、楓と千鶴は美冬を見ていなかった、互いの顔を見合わせ微かに頷きあっていた。
「気功を覚えれば、制御出来る」
「たぶん耕一さんは……でも…」
「………」
 寂しげに視線を落す楓の肩を慰めるように抱き、千鶴は再び微かに頷いただけだった。

 気と鬼の力に共通点を見いだした耕一は、気をコントロールする事で、鬼の暴走を抑えられないかと考えていた。
 だが、それが可能なら千鶴達にも教えていた。
 可能性はあるが、確証がない。
(だから耕一さんは、私達に話さなかった。)
 千鶴と楓には、そう思えた。

「どうかしたの? 千鶴や楓の気も、とても綺麗よ」
 どこか寂しそうな陰りを落した千鶴と楓の表情が気になって、美冬はわざと明るく声を掛けた。
「私達のですか? じゃあ、美冬さんには見えるんですね?」
 一瞬楓の肩に置いた手に力を込めた千鶴は、表情に落ちた陰りを払い美冬に顔を向ける。
「ええ。耕一の気が強いのも頷けるわ。千鶴達の気も、とても強いわ。血筋なのね」
 そう言った美冬の細めた眼は、焦点の定めないぼやけた瞳になった。
 虚ろな瞳を向けられ、少し及び腰になった千鶴はぎこちない愛想笑い浮かべた。
「あ、あの美冬さん?」
「うん。私、得意じゃないから、こうした方が良く見えるの。…だけど、凄い。千鶴は紫ね、少し赤みがかっているけど」
 溜息にも似た呟きを洩らし、そのまま美冬は千鶴から楓に顔を向ける。
「あ、あの」
「心配しないで、不安になると色が変わるからね」
 虚ろな瞳を向けられ不安そうに千鶴を窺う楓に、美冬は子供をあやすような静かな柔らかい声で話しかけた。
「…はい」
「これも凄い。楓は青ね。凄く綺麗よ」
 静かに目蓋を閉じた美冬は、ふぅ〜と長く息を吐き出す。
「…凄いわ、こんなにハッキリ見えるなんて。生命力が強いのね」
 うっとりと身体から力を抜き呟いた美冬は、目蓋を開き千鶴と楓に顔を上げると瞳を輝かせた。
 美冬の瞳には、千鶴達の身体を繭のように包んだ気が、まさに炎のように輝いているのが映っていた。

 ぼんやり薄く靄がかかったように見えるのが普通で、修行を重ねた拳法家や気功師でも、これほど鮮明に見えるものは僅かしかいない。
 通常ではありえない事だった。

「あの、何か色に意味があるんでしょうか?」
 綺麗な青と言われても意味が判らない楓は、素直に喜んでいいのか、迷った顔で美冬に尋ねた。
「うん、気功とは違うんだけどね。気の色や揺らめきで、その人の持つ性質とか、気分が判るの。取り引き相手と駆け引きする時には、便利よ」
 悪戯を楽しむ顔つきになった美冬は、楓を見つめると妖しい笑みを浮かべた。
「楓の青はね。内向的で頑固なのよ」
「そ、そんな。頑固だなんて、私……」
 慌て気味に顔を突き出した楓は、ハッと突き出した顔を真っ赤に染め勢いを無くすと、そのまま俯いてしまう。
 美冬が楓の性格をズバリ言い当てたのに、楓の後ろで千鶴は感心して盛んに頷いていた。
「でも、良い意味もあるの。青は誠実で献身的。そして知性と精神的な深みを表すの」
「………」
 楓は楽しそうに言葉を継いだ美冬を、恨めしそうに上目遣いに見上げた。
 わざと悪い方の意味から教えて、美冬がからかったのに気が付いたのだ。
 しきりに頷いて感心している千鶴に、楓は横目を向ける。「紫の意味も、教えて下さい」
「え? 美冬さん、私は遠慮させ……」
「紫は凄いわ。神秘的で高貴な色」
「あっ、そうなんですか?」
 楓の仕返しに慌てて美冬の言葉を遮ろうとした千鶴は、一変して両手を胸の前で握り締め、嬉そうに聞き返す。
「ええ。魅惑的な色だと言われているわ」
「神秘的で高貴な上、魅惑的。そんな……」
 ぽぉ〜と赤く染まった頬を両手で押さえ、千鶴は盛んに恥ずかしがる。
「でも、自己否定の意味もあるのよ」
 美冬は大仰に肩を竦めると溜息を吐く。
「えっと、自己否定って……?」
 嫌な予感がした千鶴は、ちょと眉を潜めた。
「自分に厳しすぎるのよね。それに赤が混じると、威圧的で気むずかしい。神経過敏って意味もあるしね」
「うっ……」
 そう言われると思い当たる所がありすぎる千鶴は、ニヤッと笑う美冬に言い返す言葉もなく、ぷっと吹き出した楓を八つ当たりぎみに横目で睨む。
「だけどね。色は精神的変化で変るのよ。それに、それぞれの色に良い意味も悪い意味もあるから」
 睨み付ける千鶴と、睨まれても知らん顔で口元を押さえる楓を苦笑しながら眺め、美冬は両手を振り二人を宥めるように説明を付け加える。
「変わるものなんですか? じゃあ美冬さんは、何色なんです?」
「秘密」
 少し不貞腐れ気味に聞く千鶴に一つ頷き、美冬はふふっと肩を竦め楽しそうに笑う。
「ずるくありません?」
「聞いたのは、あなた達。私は、教えた、だけ」
 わざとらしく言葉を区切って、美冬は聞かれたから応えただけだと強調する。
「それは、そうですけど……」
「初音は判らなかったけど。耕一と梓の色なら判るわよ。それで良かったら」
 不服そうに頬を膨らす千鶴と、上目遣いに睨む楓の御機嫌を窺い、美冬は首を傾げて二人を見回す。
「梓は赤で、耕一は緑よ」
 興味はあるが、耕一も梓もいない所で聞くのはどうだろう。と迷った千鶴と楓の沈黙を、消極的肯定と取った美冬は話し始めた。
「赤は情熱と行動力を表すわ。でも思慮に掛けるのよね。あと、梓の赤には少し濁りがあったから、衝動的で短気、暴力的って意味が入るわね」
 目を丸くした千鶴と楓は、互いの顔を見合わせた。

 情熱と行動、短気で暴力的。
 二人は、梓そのものを端的に表していると思った。

「最後は耕一ね。緑は自由や慈悲、寛大さを表すわ。少し青が混ざっていたから、誠実さや指導性って意味も入るかな?」
「耕一さんらしい色ですね」
 千鶴は耕一に相応しい色に思えて、不機嫌さも忘れ嬉そうに言った。

 以前からの寛大さや誠実さに加え、人を導く指導性も、最近の耕一は身に着けたように千鶴にも思えていた。

「えっと、あまり深刻に取らないでね」
 しかし、美冬は言い難そうに口篭もり、嬉しそうな千鶴にそう念を押す。
「えっと。あの、なにか悪い意味があるんでしょうか?」
 不安そうに聞く千鶴の心配顔を見ると、困ったように髪を指で弄りながら美冬は口を開いた。
「うん。自己や人生への不信、それに執着心や不安て意味もあるのよ。つまり総合すると、自分の大切なものには執着を示すけど、自分自身への不安や不信感から、自分の存在を軽く見る傾向があるの。緑は自己犠牲で身を滅ぼし易いのよ」
 千鶴と楓は再び顔を見合わし、そろって小さな息を吐いた。

 自己犠牲で身を滅ぼす。
 それもまた、耕一そのものだった。
 耕一は千鶴達の為になら、なんでも投げ出すだろう。例えそれが、耕一自身の人生でも命でも。
 しかし、それはもう乗り越えた障害だった。

「耕一さんは、大丈夫です」
 千鶴は自身を持って美冬に言った。
「そう? うん、そうね」
 美冬も千鶴の向けた笑顔なら、耕一は大丈夫だろうと笑顔を返した。
「あの美冬さん。初音は、判らないんでしょうか?」
 毛布にくるまる初音に視線を走らせ、千鶴は美冬に尋ねてみた。

 美冬が初音だけ触れなかったのが、千鶴の注意を引いていた。

「ごめんね。初音のは良く見えないのよ。巫結花なら見えると思うけど」
「いいえ。聞いてみただけですから、気になさらないで下さい」
 申し訳なさそうに肩を竦める美冬に首を横に振りながら、千鶴は初音の気だけ見えないのは、鬼の発現に関係があるのかも知れない。と、考えていた。
「しかし、見事に分かれてるわね。普通、近くにいると影響しあって、同じ色に成り易いんだけど。それも過去、現在、未来。見事に分かれたわ。…っと、未来がないか?」
「他にも、なにか意味があるんですか?」
 美冬の呟きを聞き咎め、楓が興味深そうに聞いた。

 楓には、美冬の呟いた未来がないと言うのが気に掛かった。

「うん。あとこれからの目標と深層心理にある欲求。それに、それぞれの色には、転生観から影響を受け易い時制もあるしね」
「時制? ですか」
 嬉しそうな笑みを浮かべ、美冬は首を傾げコックリ頷く。

 人にものを教えるのが美冬は好きだ。
 興味を持った人間が知識を満たそうと質問し、それに応えられるのは、一種快感に近い喜びがある。

「宗教に近くなるけど。過去と現在、未来は別々ではなく、互いに影響しあうって考えよ。影響されやすい時代を、色で分けたのが、時制なのよ。ええと、楓の青は過去よ。梓の赤は現在。千鶴と耕一は、現在、過去、未来ね」
「紫と緑は、同じなんでしょうか?」
 耕一と同じで少し嬉しい千鶴は、照れ隠しに聞いた。
「いいえ、持つ意味が違うわ。紫は、過去から現在へ至り、未来へ向う意味があるし。緑は過去、現在、未来の間を安定を求め移動する意味……どうしたの?」
 楓はポカンと口を開け、説明する美冬を見つめていた。

 あまりにも、耕一と楓達には当てはまりすぎていた。
 いわば楓のエディフェルは過去だろう。
 過去から現在まで、千鶴は苦しみを背負ってきた。
 耕一は次郎衛門の記憶に、過去と現在に苦しみ千鶴と未来を続く道に至った。
 美冬が見た気の色は、それぞれの現在の状況を的確に表していた。

「楓、そんなに見つめちゃ失礼よ」
 思い当たる事が多すぎて、驚きながら唖然としている楓に千鶴も声を掛けた。
 楓が我に返ると、美冬は困ったように千鶴を盗み見ていた。
「あっ、すいません。ごめんなさい」
 千鶴に言われ美冬が困った顔をしているのに気づいて、楓はぺこんと頭を下げる。
「ううん、いいけどね。興味出て来た?」
「はい。あの深層心理や目標って?」
 こくんと頷いて、楓は尋ねる。
「うん。長くなるから、千鶴と楓のだけね」
 千鶴も興味深そうにジッと聞いているのを確認してから、美冬は言葉を続けた。
「紫は、想像力を鍛えて自分の中の否定的なイメージを変えるのが目標ね。青の目標は、過去に捕われず今を生きる事、そして危険を恐れず、自分の中の真実を確認する事だと言われているのよ」

 美冬の言葉にいちいち頷き返す楓と千鶴の真剣な面持ちに、美冬の弁舌にも熱が入り更に冴え渡った。
 時間も忘れ話し込んだ三人が、耕一が帰って来ないのに気づいたのは、更に一時間以上が経ってからだった。

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