六の章
「…耕一?」
横になったソファから、梓は開いた扉の音にもの憂げに頭を上げ、確認するような呟きを洩らした。
「よう、どうした? 照明落して、ムード作りか?」
カクテルライトの淡い光芒に浮かんだバスローブ姿の梓に近づき、耕一は反対側のソファに腰を降ろす。
「ムード作ってどうすんだよ。みんなは?」
「まだあっち。女同士で仲良くやってる」
「なんだ、様子見に来たのか?」
「いいや。ちょと千鶴さん怒らせたんで、逃げて来た」
もぞっと身を捻ると、梓は顔を耕一に向ける。
「千鶴姉を怒らせた?」
「んっ。ちょとな」
テーブルの上に並べられた缶ビールを取り上げ、開けたプルから溢れ出た泡をふっと飛ばして、耕一は缶を唇に運ぶ。
「ワインもいいけど。俺はビールの方がいいな」
「あたしもビールの方がいいや。で、今度はなにやったんだ?」
よっと身体を起こし、梓も缶ビールを手にする。
「楓ちゃんのロケットの代金だけどな」
「うん?」
「実は旅行の付き添いが条件だったんだ。それが、バレちまった」
「そりゃ、怒るって」
呆れ気味の溜息を吐き、梓はビールに口を付ける。
「楓にプレゼントするのに女の子と旅行して、バイトで通るかよ。だけどさ、旅行の話って前に聞いたよな?」
なんだって千鶴姉は、今更怒ってんだ。と梓は首を捻った。
「本当は一週間の予定だったんだ。巫結花の予定がずれ込んで、三日になっちまったけどな」
「一週間だ!? ちょと待てよ。それじゃ、とっくに大学休みなのか?」
「いいや。講義がなかったからさ」
「大学休んでか? そりゃ怒るな」
「せっかくの休みなのに、不味いよな。美冬が帰って来なけりゃ、バレなかったのに」
缶を額に当て、耕一は苦笑混じりに眼を細める。
「ご愁傷さま」
耕一は長い息を吐いた梓を眺め、困った顔をする。
「怒鳴らないのか?」
「いいよ。千鶴姉に任せる」
「元気ないな。そんなにショックか?」
飲んでいた缶ビールから眼を上げ、チラッと耕一を見ると、梓はまた缶ビールに視線を戻した。
「別に」
梓は素っ気なく返したが、声には元気がなかった。
梓は自分でも落ち込んでいるのが判っていた。
鶴来屋の事で千鶴の力になりたくても、まだ学生だから仕方がない。心のどこかで、そう考えていた自分が情けない気がした。
美冬は兎も角、初音達とそう変わらない巫結花までが、実社会で活躍しているのが梓にはショックだった。
しかし、梓の胸にわだかまった暗い感情は、ショックより嫉妬に近い。
梓は人より容姿で劣っているとは思わないし、あまり考えた事はない。
考えないようにしてきた。
自分は千鶴ほど綺麗ではない。そんな事は、子供の頃から聞かされた他人の評価で、梓は嫌になるほど知っていた。
綺麗で優しいお嬢さんの千鶴、元気でやんちゃな男の子のような梓。それが他人から下された梓と千鶴の評価だった。
楓もあと数年もすれば、千鶴に負けず綺麗になるなるだろう。かといって、梓は自分に初音のような可愛らしさがあるとも思っていない。
それが自分だから、考えても仕方がない。そう梓は頭の片隅に仕舞ってきた。
去年、耕一が家に来るまでは。
数年ぶりに会った耕一を好きだと自覚した時から、梓の中で仕舞った筈の姉や妹への嫉妬心と劣等感が、頭をもたげ出した。
耕一が千鶴や楓を綺麗だという度、暗くどろどろした胸の中の濁りに気分が悪くなった。
初音が無邪気に耕一に甘えるのを見ると、素直になれない自分の天の邪鬼さが厭になった。
だが、今更女らしく素直に振舞って、耕一との関係を壊すより。弟のように軽口を叩き合える方が良いと梓は考えていた。
そもそも耕一の前に出ると、嫌味や小言しか口からは出てこなかった。後から後悔したとしても、耕一の前で素直に女らしく振舞う事が梓には出来なかった。
千鶴と耕一が付き合っているのを知っても、梓は仕方ないと諦めるしかなかった。
耕一と千鶴の間に他の誰も入り込む余地のないのを充分すぎるほど知らされては、梓も納得するしかなかった。
耕一も千鶴も、梓には等しく大切な存在だった。
だが、まだ姉だから許せる部分があったのも確かだった。
今の千鶴と同じ歳になる頃には、自分を磨き千鶴に負けないぐらいの知識や教養を身に着けるつもりでもいた。
そして、梓から見ても姉や妹の容姿は飛び抜けていて、梓は自分が世間一般でいう普通ぐらいだと思っていた。
しかし、千鶴や楓に負けず劣らず綺麗な美冬や、初音と比べても可愛い巫結花を耕一から紹介され、梓は少なからず暗い気持ちを抱いた。
容姿だけでも一人だけ浮いているような気がして、梓は普段より陽気に振るまい。美冬も同じ陽気さで応えてくれ、梓の中に湧いた劣等感は徐々に薄らいで行った。
所が、美冬も巫結花も既に実社会でその能力を認められているという。
容姿だけではなく、能力でも劣っているような気になった梓は、再び湧き起こった胸の重さに居たたまれなくなり、飲み過ぎたと偽って部屋に引き返してきた。
自分の力不足を情けなく思う理不尽な劣等感なのは、梓自身良く判っていたが、胸に巣くった暗く重いやりきれなさは、熱いシャワーでも流れ去ってはくれなかった。
「…俺はショックだったけどな」
耕一の呟きを安っぽい慰めだと思った梓は、ムッとして顔を上げた。だが、耕一は梓を見てはいなかった。
手にした缶を両手で握り、真剣な顔で見つめている。
「ショックだった。二十年も生きてて、いざとなったら何も出来ない」
今はあまり聞きたくなくて、低く呟く耕一から梓は眼を逸らした。
「偉そうに、お前に説教してるけど。俺が経済とか社会の仕組み教わったの、美冬と巫結花だ」
「…耕一が?」
「ああ。あの二人、経済が専門でな。特に裏側を良く知ってる」
また千鶴の話かと思い外した視線を、梓は耕一に戻した。
「裏側って? あの巫結花って娘、まだ十七だろ?」
軽い驚きを感じて、梓は唇を歪めた耕一を見つめた。
「二人とも、親族に実力を示さないと、一族の中で生きられないんだってさ」
「一族? 生きられない? 随分大袈裟だな」
また耕一の誇張が始まった。そう思った梓は首を左右に振りビールを口に運んだ。
判り易く説明するためか、耕一は大袈裟な表現を使う事がある。
「あいつらの両親は、一族の反対を押し切って結婚したんだ。代わりはいくらでもいる。家を継げるだけの実力を示さないと、家を追い出される」
「いつの時代の話だよ? 時代劇じゃあるまいしさ」
軽く上げた片手を振り、梓は真剣に聞いて損をしたと言う顔をする。
「そうだよな。俺も初めそう思ったからな」
「本当なのか?」
軽い溜息に混じった耕一の呟きで、本当らしいと感じて、梓は顔をしかめた。
親戚や家族が多い方が楽しいだろうと考えた事はあっても、親戚に疎まれる生活など、今まで梓は考えた事がなかった。
「ああ。巫結花の母親なんて、親族の誰かに殺されたって噂があったらしいからな」
「…噂、だろ?」
梓が恐る恐る聞き返すと、耕一は、噂だ。と小さく呟いた。
「美冬、名字を名乗らなかっただろう?」
「うん」
梓も不思議に思っていた。
美冬も巫結花も名前だけで、名字は教えなかった。
「二人とも、まだ一族に名を名乗るのを許されてない。千鶴さんが居なかったら、名乗ったかもな」
「耕一、謎解きする気分じゃないよ」
ハフッと息を吐いた梓を見ながら、耕一は軽く笑った。
「千鶴さんが鶴来屋の会長なの知ってんだよ。将来取り引き相手になる可能生があるから、仕事上の名前を使ったんだ」
「本名じゃ無いの?」
「そうでもない。中国名と日本名、両方とも本名だ」
梓は少し首を傾げ、耕一の言葉の続きを手にした缶を軽く上げて促す。
「香港の中国返還でカナダ籍に変えたんだけど。二人とも母親は日本人だけど中国系だよ。一族が正式に跡継ぎと認めたら、中国名を名乗るな。美冬の奴、自信家だからな。自分の力を一族が認めるまで、日本名で通すつもりらしい。あいつなりの、けじめだな」
そう言われて思い返してみると、美冬も巫結花も、同じ東洋人でも、日本人とは少し雰囲気が違っていた。
梓はこくんと頷いた。
「だからさ、梓が落ち込む事ないって。二人とも、家を継ぐ為の教育、子供の頃から受けてんだ」
「嫌な奴。それ言いに来たのか?」
「美冬が苦手なんだ。会わせたくなかったんだよな」
ぼやきつつ長い息を吐くと、耕一はカクンと頭を項垂れてしまう。
「耕一が好きそうな美人じゃんか。なにが苦手だよ」
嫌そうに項垂れた耕一は、恨めしそうに梓を上目で覗く。
「美人ってんなら、梓だって負けてないさ」
耕一が美冬に負けない美人だと言ったのが自分だと気づいて、梓は熱くなった顔を背け。暗い照明が赤い顔を胡麻化してくれればいいと願った。
「苦手だよ。あいつは色々知ってる」
顔を背けた梓の様子も眼に入らないように、耕一は手にした缶ビールを飲み干し、クシャッと握り潰す。
その時になって、梓は耕一にいつもの陽気さが欠けているのに気が付いた。
独り言のように呟く話り方もそうだが、カクテルライトの明かりが影を落したぼんやりした瞳も、照明のせいだけでは無さそうだった。
「耕一? どうかしたのか、あんたの方が元気ないよ」
「くそ! さっさと引き上げりゃ良かった。初音ちゃん達、楽しそうだし。千鶴さんはむくれるし、ヤバいな」
耕一は潰した空き缶を屑篭に投げ込み、新しい缶ビールに手を伸ばす。
肩を落とし呻く耕一には、梓の声など聞こえていないようだ。
「ちょと耕一! あんた聞いてんのか!?」
缶に伸ばした耕一の手を掴み、梓は耕一を覗き込む。
「ん? ああ、聞いてるさ。そうだな、飲みすぎだよな」
見当違いの返事を返した耕一を睨んだまま、腕から手を離した梓は、耕一が掴みかけた缶ビールを取り上げた。
「どうせ、美冬さん口説いて振られたんだろう」
それが千鶴にバレるのが恐いんだ。そう思った梓は手にした缶を耕一に突き付ける。
「美冬を? 考えた事もなかったな」
突き付けられた缶を梓の手から抜き取り、耕一はプルを開けた。
「相手にされないからだろ」
「俺じゃ釣り合わないよな?」
プルを開けながら洩らした耕一の呟きに、梓の頭はカッと熱く、胸が黒い冷たい怒りにも似た感情に覆われた。
どこか投げ槍な耕一の言い方は、取りようによっては美冬とは釣り合わないから諦めたとも聞こえる。
「千鶴姉なら釣り合うのか?」
胸に湧いた黒い塊が湧き起こした気分の悪さが、梓の口の端を歪め意地の悪い言葉を吐き出させた。
「釣り合わないな」
「えっ?」
返って来た考えもしなかった返事に面食らった梓は、歪めた口元をポカンと開けた。
気分の悪さも忘れ、梓は一気にビールを煽る耕一を見つめ。自信なさそうに自嘲する耕一の笑みを、初めて見た気がした。
まさか耕一が、自分が千鶴に釣り合わないと言い切るとは、思ってもみなかった。
以前なら耕一が千鶴とは釣り合わないと言っても、梓はこれほど驚きはしなかっただろう。
どこか高根の花のように千鶴に憧れていた耕一なら、ヘラッと笑って釣り合わないと言っても当り前のように感じていた筈だ。
しかし、最近の耕一は過剰とも思える自信を持っているように梓は思っていた。
特に千鶴が一緒に居る時は、梓にも千鶴の方が耕一に頼っているのが判ったし、耕一もどこか悠然としていた。
「悪い、ちょと酔った。シャワー使うぞ」
見つめる梓に視線を合わせず立ち上がると、耕一は梓に背を向けバスルームに向い歩き出した。
「お、おい。耕一」
梓の掛けた声に後ろ手に手を振り、振り返りもせず耕一はバスルームの扉を閉める。
「なんなんだ、あいつ」
閉まった扉を横眼で見ながら梓はビールの残りを流し込み、宙に浮いた釈然としない気持ちでソファに横たわった。
一方、耕一が出て行った後、美冬達の部屋に残った千鶴は、顔を俯かせたままソファで小さくなっていた。
「どうも、その。お恥ずかしい所をお見せしてしまって」
「恥ずかしい? どうして?」
眼を丸く見開き、美冬は心底驚いた顔で千鶴を見つめる。
顔を俯け美冬を見ていなかった千鶴の方は、向けられた視線の圧力を感じ、赤かった顔を更に赤く染め額に汗を浮べていた。
美冬が同席しているのにも関わらず、耕一に詰め寄りヒステリックに叱り付けるのを見ていた美冬が、痴話げんかを見せられ揶揄していると思った千鶴は、恥ずかしさに膝で握った両手の指先までが熱く火照っていた。
「恋人でしょ? 千鶴が怒るのは当然。私の恋人なら、足腰立たなくしてやる」
トンとグラスをテーブルに戻す乾いた音の響きに、千鶴はそっと視線を上げた。
千鶴の瞳が映し出した二つのワイングラスにボトルからワインを注ぐ美冬には、千鶴をからかっている気配はなかった。
「それより、千鶴は部屋に戻らなくていいの?」
片方のグラスを千鶴に差し出し、美冬は小首を傾げる。
耕一は引き上げようと言ったのだが、むくれた千鶴に加勢した美冬が、女同士で楽しむのに男は邪魔だ、梓の様子でも見て来いと耕一を放り出したのだ。
「えっ、ええ。妹達もいますし」
美冬にはからかう気も気分を害した様子もないと見て取り、千鶴は曖昧な笑みを浮べ差し出されたグラスを受け取った。
「ふぅ〜ん。でも、フォローは必要だよ」
「ええ。それは、そうですね」
千鶴は曖昧に美冬に返した。
千鶴も人前で叱り付けるような真似をして、耕一にも美冬にも申し訳なく思う。
つい感情的になって耕一に恥ずかしい思いをさせたし、それで気不味くなるような関係ではないが、早く謝ってしまいたかった。
しかし、千鶴には、それ以上に気に掛かる事があった。
レストランで美冬達を紹介してからの耕一の態度が、おかしいのだ。
変にピリピリしているし、口数も少なくなった。
最初は初対面の千鶴達と美冬達が仲よく出来るか気にしているのかと、それ程気にしなかった千鶴も、耕一が人目の多いレストランで美冬を怒鳴り付けるに至り、そうではない事に気づいた。
耕一が怒鳴り声を上げるのが、まず珍しい。まして女性を公衆の面前で怒鳴り付けるなど、千鶴は考えた事もなかった。
梓や楓、初音も千鶴と同じだろう。
姉妹全員が言葉の内容より、耕一が怒鳴り声を上げた事に驚いていた。
レストランから美冬達の部屋に移る時も、耕一はあまりいい顔をしなかった。千鶴には、むしろ早く美冬達と別れたがっているように感じられた。
部屋に着いてからも、耕一は美冬を監視するようにソファに座り。時折、一言二言口を挟むだけで会話に加わろうとはしなかった。
だが、巫結花と一緒にいる初音や楓には、耕一はあまり注意を払ってはいなかった。
美冬を自分達にあまり近づけたくない。そう耕一は考えていると千鶴は考えていた。
会話の流れを遮るように掛けられた耕一の言葉も、心得たように頷く美冬の態度も、千鶴の想像を裏づけていた。
耕一が千鶴にも未だに語ろうとはしない、三ヶ月間。
夏から秋に移り変わる季節に千鶴の元を去った耕一が、雪に覆われた冬、千鶴の元に帰って来るまで。
その間の一部とは言え、美冬はなにかを知っている。
そして、それを美冬が千鶴に話さないよう、耕一は気を配っている。
千鶴はそう結論づけていた。
「でも、今回の事は全面的に耕一が悪い。巫結花にも千鶴にも失礼よ」
どう話を切り出そうか考えていた千鶴は、溜息のような美冬の声に顔を上げた。
「あの、でも。耕一さん、優しい人ですから」
巫結花を放って置けなかったのだろうと、千鶴は耕一の弁護に回る。
「千鶴は人が良いのね。だけど耕一は、まだ優しさと甘さの区別が付いてない」
千鶴に柔らかな瞳を向けた美冬は、眉を潜め語気を荒くした。
「女性が男性に付き添いを頼むのは、気に入っているからでしょ? 恋人がいるなら、ハッキリ断るのが優しさ。相手に応えられないのに付き合うのは、甘さ。自分が誰にも嫌われたくないだけよ。優柔不断って言うの?」
「耕一さんは、そんな人じゃありません」
千鶴はまなじりを上げ美冬をキッと睨んだ。
いくら耕一の友達でも、こうも悪し様に言われては、千鶴には許せるものではない。
優しさが自分だけに向けられていないのは不満だが、たとえ甘さだとしても、感情を単純に割り切らない耕一の甘さも、千鶴にしてみれば耕一の優しさの現れだ。
「ふふ、まあ相手が巫結花だからいいかな。千鶴が怒ったのなら謝る。耕一が変ったのは、千鶴のお蔭?」
睨む千鶴を一向に気にした様子もなく微笑むと、美冬は肩を大袈裟に竦め問い掛けに千鶴に首を傾げてみせる。
「先程も、耕一さんが変ったと仰っていましたね?」
日本人には見られない大きなアクションに戸惑いながら、千鶴は話の糸口を見つけ、逆に美冬に問い返した。
耕一に直に聞くのが一番だと千鶴も思うが、耕一と千鶴、どちらもあまり触れたくない話題なのは確かだった。
耕一が話してくれるまで待つつもりでいた千鶴だが、第三者から三ヶ月の空白を埋める耕一の様子を聞きたいとも思っていた。
無理に耕一から聞くより、耕一には知られずそっとして置きたい気持ちもあった。しかし、同時にもっとも耕一が苦しんだ時期、なにも知らずに過ごしていた自分を許せない気持ちも、千鶴の中には存在した。
「ええ、変った。でも、詳しくは話せないな」
軽く眼を伏せた美冬は、千鶴の思惑を先取りしていた。
「これ以上、耕一に避けられたくないしね」
軽くグラスを上げ美冬にワインを勧められた千鶴は、一口グラスに唇をつける。
「そうですか。では、話しても問題ないお話は?」
歳に似合わず美冬は相当に切れる。
思惑を先取りされては、千鶴も素直に尋ねるしかなかった。
「そうね。耕一に巫結花を紹介したのは、私だという事。それと、巫結花に紹介したいきさつ。なら、いいかな」
「あの、千鶴姉さん?」
控え目な声に呼ばれ、美冬と千鶴はソファから後ろを振り返った。
千鶴達の座るソファの後ろで、楓が小首を傾げていた。
楓の後ろの敷物の上では、毛布にくるまった巫結花と初音が並んで寝息を立てている。
あどけなさの残る二人の安らかな寝顔は、画家でなくとも絵に残したくなるのではないかと思えるほど、見る者を感嘆させる。
「二人とも、寝ちゃったのね」
「ええ。昨夜は遅かったし」
二人の寝顔に笑みを浮かべた千鶴が言うと、楓は仄かに朱がさした頬で頷く。
慣れないながら、初音と楓もワインの甘い風味にゆっくりと舐めるように少しずつ杯を重ねていた。
たまの旅行だし、ワイン位ならと千鶴も咎めなかったのだが、酔いと疲れで初音は話ながら眠り込んでしまったのだろう。
「起こすのも可哀想だから、暫くそのままにしておきましょう」
「はい」
千鶴に頷き返しソファに腰を下ろした楓に、美冬はグラスを差し出す。
「泊まっていいのよ」
ふるふる首を横に振る楓に美冬がそう言うと、楓は困ったように唇に指を置き千鶴を窺った。
「妹は、お酒に慣れていませんから」
「そう?」
やんわり千鶴に断られた美冬は、差し出したグラスを口元に運びクッと飲み干す。
かなりの酒量を飲んでいる筈だが、美冬には酔った様子すらない。
「美冬さん、お酒にお強いんですね」
少し呆れ顔で聞いた千鶴を口に運んだグラス越しに見ると、美冬はグラスを降ろしながら首を傾げた。
「気を調整してるからね。耕一は、まだ酔う?」
美冬の言う気を調整するという意味は判らなかったが、耕一が最近酔わないのを千鶴と楓は思い出した。
「そう言われて見ると、あまり」
昨年の夏に来た時は、酒が入るとおじさん臭くなると、耕一を姉妹みんなでからかったものだったが。最近では、楽しそうではあるが、あまり普段と変らなくなっていた。
「半年かな? 結構かかったのかな」
「あの。それは一体?」
酔わないのと半年という時間の関係がなにを意味するのか理解出来ず、千鶴は当惑気味に小首を傾げた。
「んっ。耕一と私が知り合った理由」
「お酒に酔わないのが?」
美冬はいいえ。と千鶴に呟き、唇に指を置き一心に美冬を見つめる楓に眼を向けた。
「楓。ロケット、持ってる?」
「え? あっ、はい」
どうして美冬がロケットの事を知っているのか、楓は躊躇いながら訝しげに首を縦に振った。
千鶴は楓にロケットを作ったのが、美冬の家が経営する宝飾店なのを簡単に説明した。
友人に譲ってもらったと耕一から聞かされていた楓は、こくんと頷くと胸元からロケットを取り出す。
一頻りロケットの出来に満足そうに眼を細めると、美冬は楓にオルゴールを聴かせてくれるように頼んだ。
楓の細い指がロケットを開くと、もの悲しい中にも温かさを感じさせる澄んだ音色が流れた。
耕一には怒って見せたが、美冬もこの曲が気に入っていた。
もの悲しさを感じさせる曲に付き物の冷たさがないのが良い。眼を閉じると日本の秋の紅葉が浮かぶ。
紅葉する葉と風の冷たさが冬を感じさせながら、まだ夏の名残を残す温かさが残っている。
耕一の意見は違ったが、美冬は、そう感じていた。
「詩人かな、耕一は」
目蓋を臥せオルゴールの音色に聞き入っていた美冬は、小さな呟きを洩らした。
美冬はオルゴールの曲について、耕一と国際電話で交した会話を思い出していた。
「詩人? 耕一さんが?」
大切に掌にロケットを乗せ眼を細めていた楓は、少しおかしそうに微笑んだ。
隣で音色に聞き入っていた千鶴も苦笑を浮かべた。
二人とも詩人と聞き繊細で儚いイメージが湧いた。
耕一を詩人だとは、楓も千鶴も考えた事がなかった。
「うん、私は夏の名残の温かさだと思う。でも、耕一は厳しい冬を過ごして、花をつける予感だから温かい。そう言ってね」
「生命の持つ強さの温かさ。ですね」
曲にも耕一の願いがこもっていた事に気づいて、千鶴はそっと楓の肩に手を伸ばし、ゆっくり力を込めていた。
季節に例えるなら、今の楓は厳しい冬を乗り越え歩き出した所だろう。
これから春を迎え花を咲かせ、秋を、夏を。そしてまた冬が来るかも知れない。
しかし、冬を越えれば、また春を迎える。
年毎に繰り返す生命の営み。
その中でも、長い年月を経て風雪に耐えて葉を繁らせ花を咲かせる樹木の生命の強さを、楓の名を曲に付ける事で耕一は例えていた。
「詩人かも知れませんね」
呟くように囁いた千鶴にこくりと頷いた楓は、真剣な瞳でロケットを見つめていた。
千鶴は気づいたが、美冬は知らなかった。
耕一が楓に聞かせたくなかったのは、この曲にまつわる話だった。
楓の想いに応えられない謝罪と、これからの幸せを願う気持ちを込めて、耕一はロケットを送った。
しかし、この話を楓が知れば、曲を聴く度、辛い想いを想い出させるだけになる気がしていた。
耕一が楓の想いに応えられたなら、耕一の選んだプレゼントは別の物になっていただろう。
銀は古来西洋では魔を払い災厄を退けるとされる。また楓には、秋に紅葉し風雪に耐え春に花を咲かせる所から、生命の象徴とする考えもある。
楓の名に合わせ、レリーフを楓にしただけではない。
想いを通い合わせる誰かと出合うまで、一人になり歩む道を選んだ楓にだから耕一は贈ったのだ。
ロケットを見つめる楓に穏やかな眼差しを向け、ふと千鶴は考えを巡らした。
耕一が意味を持たせて楓にプレゼントを贈ったなら、自分達に贈られたプレゼントにも意味がある筈だった。
千鶴が受け取ったのはアルバムだった。
耕一の亡き母が残したアルバム。
他の人には只のアルバムでも、耕一から贈られた千鶴には充分すぎる意味があった。
耕一が大学に入りすぐ亡くなった母が、耕一の成長の記録を残したアルバムは、父と離れて暮らすしかなった母の想いが詰まった掛け替えのない遺品。
亡き母の想いを充分理解した上で、耕一から千鶴は途切れたアルバムを受け継いで欲しいと手渡されたのだ。千鶴には、これ以上の贈り物はなかった。
初音へは、桜のブローチだった。
桜にも春に咲き、わずかな期間で散る儚さとは逆に、また次の年美しく咲きほこるさまから、連綿と繋がる生命の柔軟な強さを見る考えがあった。
初音がリネットの記憶に翻弄されないか不安を抱いている耕一なら、桜のような笑顔をなくす事なく、強く柔軟に生きて欲しいと願っても不思議はなかった。
しかし、梓への贈り物がカメラだったのだけが不可解だった。
耕一が何の意味もなく、梓にだけカメラを贈ったとは千鶴には思えなかった。
「妹思いなのね」
苦笑気味の美冬の声で、千鶴は思索を中断し顔を上げた。
「いくら妹でも、私なら許せないな」
美冬には、世界に一つの高価なプレゼントを他の女性に送る耕一の気持ちも、自分の恋人から妹が最高の贈り物を受けて平然と。いや、むしろ嬉そうに見える千鶴の気が知れなかった。
千鶴にも、美冬が何を言いたいのかは、百も承知していた。
梓や初音、楓も、耕一がアルバムを千鶴に差し出した時には慌てていた。
自分達、特に楓に意味ありげなロケットを贈った後に、耕一は恋人の千鶴に何の変哲もないアルバムを贈ったのだ。
アルバムが叔母の遺品だと判るまで、妹達は自分達が贈られたプレゼントとの差に、おろおろと耕一と千鶴を見比べていたものだ。
「このロケットは、楓が持って初めて意味があります」
目蓋を上げ見つめ返す美冬に、千鶴は笑みを浮かべた。
同性の美冬が見入られるような穏やかで温かな、幸せに満ちた笑みだった。
「耕一さんは、みんなの事を考えて下さっています」
小さくふふっと笑うと、千鶴はグラスから一口ワインを飲んだ。
普段は飲まない千鶴も、今は飲みたい気分だった。
赤く染まりそうな顔を胡麻化し、浮かれそうな気分を落ち着かせる為には、軽い酔いを与えてくれる舌に甘く、喉に熱いワインが最適に思えた。
もう千鶴には、美冬の知っている耕一もどうでも良かった。
いま耕一は、千鶴達の元にいる。
そして千鶴と妹達の事を一番に考え、千鶴の隣で共に歩んでくれる。
それが全てであり、それは千鶴が望んだ以上の幸福以外のなにものでもなかった。
「それ以上の贈り物があるって言うの?」
呆れ気味に尋ねた後で、美冬は唇を噛んだ。
千鶴の笑顔を見れば聞くまでもない事だった。
作らせた美冬が最高の贈り物になると確信していたロケットは、少なくとも、千鶴には大して価値がないのだ。
楓に贈られたロケットの意味も、千鶴が贈られたアルバムの事も知らない美冬がそう思い込むほど、美冬には千鶴の笑顔は幸せに輝いて見えた。
「それこそ、価値観の問題。ですね」
グラスから唇を離すと千鶴は小首を傾げる。
千鶴の隣でロケットを見つめていた楓も小首を傾げ、頬に笑みを浮かべていた。
このロケットに込められた耕一の想いと願いは、例えようもなく大きい。
その大きさと重さ、そして温かさは他の誰にも判らないだろう。そう、千鶴以外には。
そして千鶴が受け取ったアルバムの意味を知るのも、楓と梓しかいない。
幸せそうな千鶴と楓の様子を一頻り見回した美冬は、ふっと息を吐き額に掛かった豊かな髪を、片手でうるさそうに跳ね上げた。
「それだけ耕一を信用してるなら、いいか」
ウエーブの掛かった髪のひと房が跳ね返り額に掛かったのを指で直しながら、美冬は遠い昔を思い出すように眉をしかめた。
「耕一はね。気功を教えてくれって来たのよ」