五の章


 ジッと注がれた三対の瞳に、耕一の背筋を一筋の汗が伝い落ちた。
 適温に保たれた展望レストランのウィンドウ越しに、暗い湖面の上を遊覧船の灯火が移動して行く。
 眼を上げれば薄墨を流したような空には、遠い山並みが黒く墨絵のように浮かび上がっていた。

 そんななごやかな夜景をバックにした女性が、レストランに姿を現した耕一に向って微笑みを浮べた途端、初音を除く三人の姉妹は、一様に冷たい視線を耕一に向けていた。
 引きつった笑顔で片手を軽く上げる耕一の隣で、青いワンピースに身を包んだ初音は、ウィンドウの手前。窓際の席から立ち上がり耕一に手を上げ返した女性と、席に着いたままジッと初音を見つめ返している少女を瞳に映していた。
 立ち上がり手を上げた女性は、黒く波打つウエーブの掛かった髪を、大きく波打たせ首を傾げた。
 耕一達が入り口で立ち止まったままなのを、訝しんでいるのだろう。

「十七?」
 梓の低い声に初音は梓に眼を移した。
「そう」
「二十歳は過ぎています」
 低く答えた耕一の声に、楓の冷たい声が被さる。
「綺麗な方ですね」
 初音の耳に、楓に負けず冷たい千鶴の声が恨めしそうに響いた。

 手を上げ返した女性は、初音にも綺麗に見えた。
 しなやかな身体の線を強調した黒のイブニングドレスの各所に、白いバラが品格を落さないバランスで配置され。豊かな胸を強調し大きく開かれた胸元、サイドスリットも大胆に開き、長く健康的な脚が伸びている。
 着る者によっては下品とも派手とも見えそうなドレスが、まとった女性の整った顔立ちと相俟って華やかな気品さえ感じさせる。

 でも。と、初音は千鶴に眼を向けた。

 白を基調に肩からスカートにかけ、斜めに薄い青から緑のグラデーションが掛かったワンピースを身に着け、ふわりとシルクのスカーフで襟元を飾った千鶴も、負けず劣らず綺麗だ。と、初音は姉を誇らしく思った。
 手を上げた女性が華やかな気品なら、妹の初音から見ても千鶴には清楚な気品があった。

「お姉ちゃん。どうかしたの?」
 硬い表情の姉達の会話が理解出来ず、初音は少し首を傾げ姉達を窺った。
「どうってさ。初音、耕一の話と違うだろ?」
「何処が?」
 初音に答えた梓に、耕一は憮然と返す。
「派手な女一人じゃんか。どうして付き添いがいるんだよ?」
「梓お姉ちゃん、一人って?」
 ぷんと口を尖らした梓の言葉に首を捻り、初音は梓に向けていた顔をテーブルに戻した。
「耕一お兄ちゃんに聞いた通りだけど?」

 女性の隣では、確かに初音より一つ二つ上の女の子が微笑んでいた。
 三人の姉達の態度は、まるで少女が見えていないようだ。

「初音ちゃんには、見えるんだね?」
 耕一の尋ね方も、少女が見える初音の方を不思議がっているようだ。
「う、うん」
 首を捻った耕一に顔を覗き込まれ、初音は躊躇いながら頷いた。
「椅子に座ってる子でしょ?」
 そっと頭を撫でられた初音が見上げると、耕一は苦笑を浮べていた。
「少し変わった感じがするけど。可愛い子…だよね」
 梓は元より千鶴と楓にも眉を潜めて見られ、肩を竦め小さくなった初音の語尾は尻すぼみになった。
「「初音?」」
「ど、どうしたの?」
 千鶴と楓に顔を見合わせて呼ばれ、初音は吃りながら聞き返した。
「何処にいるんだって?」
「あの女(ひと)の隣の席だよ。窓の方、白に薄い紫の縁取りのブラウスを着てる子…だけど」
 みんなでからかっているのかと思った初音は、梓は兎も角、楓と千鶴はそんな事はしないと思い直し、梓に真剣に答えた。
「…白に紫?」
「千鶴姉さん!?」
 初音が嘘を吐く筈がないと眼を凝らした梓の呟きは、楓の驚いたような鋭く小さな声に遮られた。
 上目遣いに初音が覗くと、千鶴が真剣な顔で頷いていた。
「私にも見えたわ」
 スッと千鶴は視線を耕一に向ける。
「耕一さん? あの子は?」
「変わった子だって、話したよね?」
 ぽりぽり頬を掻くと、耕一は仕方ないなぁ〜という顔をする。
「耕一、どうしたの?」
 急に掛かった声に耕一に向いていた四人姉妹が視線を向けると、いつの間に席を離れたのか、イブニングの女性がすぐ側まで歩み寄って来ていた。
「待たせて悪い。美冬、巫結花だよ」
 一瞬、ああ。という顔をした女性は、千鶴達四人を見回しスッと腰を折る。
「初めまして。私、美冬(みふゆ)と申します」
 耕一の紹介を待たず優雅に一礼した美冬は、顔を上げにっこり大輪の花のような笑顔を見せた。
「初めまして、柏木千鶴です」
 唐突な美冬の挨拶に慌てる事なく、千鶴は笑みを浮かべ会釈で挨拶を返した。
「でっ。こっちが梓、楓ちゃんと初音ちゃん」
 千鶴とは対照的に返事に詰まった梓を耕一は紹介し、折り目正しく紹介されるのを待っていた楓と初音を紹介した。
 それぞれが挨拶を返すと、美冬は嬉そうに眼を細め肩をすくめた。
「耕一から聞いていたけど。本当、みなさん綺麗」
「美冬さんの方が、お綺麗ですわ」
 どうも、っと千鶴に軽く答えると、美冬は初音と楓の顔をジッと見つめる。
「う〜ん、いいわ。二人ともお人形さんみたい。私、妹がいないから、羨ましいな」
 落ち着いた美人の挨拶までの優雅なイメージから、いきなり砕けた口調のギャプに対応しきれず、初音と楓、千鶴までがぎこちない笑いを浮べた。
「あなたが、楓?」
「はっ、はい」
 ふふっと笑うと、美冬は確認するように楓の顔を覗き込む。
「うん。可愛いより、綺麗ね」
「えっ? ど、どうも」
 真っ赤になって俯く楓から視線を上げ、美冬は梓に眼を向ける。
「こちら、梓だっけ?」
「えっ?」
 いきなり呼び捨てにされ、梓はポカンと口を開けた。
「ああ、ごめんね。気に触った? 耕一がそう呼んでるから、うつっちゃった」
「い、いや。いい…ですけど」
 悪気の欠片もなく妖艶な笑みを近づけられた梓は、毒気を抜けれこくこく頷いていた。
「そう? 梓もボーイッシュでいいわ。ここがダンスフロアでないのが残念」
「ど、どうも」
 苦笑いを浮べた梓は、完全に美冬の勢いに押されていた。
「美冬、巫結花一人だろ? 席に行こうぜ」
 従姉妹達が美冬に押され気味なのを見て取った耕一は、あからさまに顔をしかめ顎をしゃくった。
「ああ、うん。じゃあ早くね」
 一つ頷くと長いウエーブの掛かった髪を靡かせ、耕一の態度をまったく気にかけず、美冬は踵を返す。
 音も立てず淀みなく流れるように足を運ぶ後ろ姿を眺め、耕一と姉妹は揃って小さく息を吐いた。
「さあって、行こうか?」
 耕一に促され初音と楓が歩き出す。
 梓が少し遅れ、耕一は最後に歩き出した千鶴の隣にそっと並んだ。
「千鶴さん」
「なんですか?」
 表面上は穏やかに、少しむくれた声が帰って来る。
「彼女、日本人じゃないから」
 眉を潜めた千鶴は少し首を傾げ、横眼を耕一に向けた。
 どう見ても、千鶴には美冬は日本人に見えた。しかし、そう言われると、身振りも大きいし、少し発音がおかしかった気もした。
「親しくなると、敬称を省きたがるんだ」
「わ、私。別に……」
 吃りながら頬を赤く染め俯く千鶴の様子が、耕一には可愛く見える。
 美冬が耕一を呼び捨てにする度、千鶴が微かに眉を潜めたのに耕一は気が付いていた。
「それより耕一さん。あの女の子は、一体?」
「うん。食事の後で、ゆっくり話すよ」
 照れ隠しに尋ねた千鶴の問いは、テーブルに着いた所で打ち切りになった。


 紹介された女の子、巫結花(ふゆか)は不思議な少女だった。
 穏やかな面にアルカイックスマイルと呼ばれる曖昧な笑みを浮べたピンクの薄い唇。ストレートの黒髪は、肩を僅かに覆うほどの長さ。
 整った顔立ちに切れ長の眼は温かな慈愛を浮べ、若さを強調するような瑞々しい頬に、一切の緊張とは無縁な年齢に不似合いな達観した穏やかさを現している。
 しいて柏木姉妹と比べるなら、千鶴の温かな眼差しに楓の怜悧な眼元、初音の愛らしさに共通点が見いだせた。
 そして楓を日本人形のような。と形容するなら、巫結花は仏像のような一種独特な清涼な気配を醸し出していた。

 だが、なにより特徴的だったのは、耕一に紹介されている間も口を聞かず終始笑みを浮かべ頷いて返すだけで、食事中も美冬が千鶴達に話し掛け、巫結花は聞いているだけだった。
 たんに口数が少ないと言うには、あまりに寡黙だった。
 そして、人混みにいても眼立つだろう容姿を持ちながら、その存在感事態が稀薄で、千鶴達が気付かなかったのも当然に思えた。
 まるで空間に溶け込むように馴染み、巫結花は空気のように捕らえ処がなかった。
 しかし、美冬が巫結花を妹のように大切にしているのは、その言葉の端々からも、注ぐ視線からも千鶴達には判った。
 彼女達に、姉妹が互いに想い合う気持ちと通じるものを感じたからだ。
 食事が終る頃には美冬の陽気さも手伝い、千鶴達も巫結花が口を開かないのを当然のように受け入れていた。
 なにより自分達を嫌って口も聞かない少女なら、耕一が紹介する筈がないという気持ちが強かった。

 食事が終る頃には、静かなテーブルを囲む七人の内、二人の明かるい声が盛んに場を盛り上げていた。
「耕一って馬鹿だから、苦労するでしょ?」
「そうなんだよ。本気で馬鹿やるから、救いようがなくってさ」
「お前らな」
 食後の席で怒りを噛み殺した耕一に構わず、梓と美冬はワインを酌み交わし意気投合している。
 主に耕一をけなす事に重点を置いて。
「耕一さん。酔っぱらいには、構わないんじゃなかったんですか?」
 ワインに仄かに頬を染めた千鶴が、チラリと視線を隣の耕一に向ける。
 美冬が耕一に構うより、梓と適当に遊んでいた方が良いという考えのようだ。
「誰が酔っぱらいだって? ワインで酔うかよ」
 斜め前に座る千鶴に向いテーブル越しに身を乗りだした梓を、正面に座った初音は心配そうに窺っていた。
「そう。ワインなんて水みたいな物」
 どう見ても二人とも酔っぱらっている。
「梓お姉ちゃん、もうやめた方がいいよ。飲みすぎだよ」
 心配そうにテーブルの上に乗った梓の袖を引っ張った初音をジッと見た美冬は、なにを思ったのか、いきなり初音を抱き締め頬に頬を擦り寄せる。
「うぅ〜ん、プリティ。柔らかいほっぺ」
「えっ! ええ!?」
「あ、あなた。美冬さん、妹になにをするんですか!」
 眼を白黒させる初音を見て上擦った声を出した千鶴は立ち上がり、つかつかと美冬に歩み寄ると二人を引き離しに掛かる。
「だって、可愛いんですもの。欲しいわ」
「えっ? あ、あの。そ、そんな。欲しいって」
「初音は、ものじゃありません」
「美冬、酔ったフリも大概にしろ! 初音ちゃん困ってるだろ!」
 とうとう切れた耕一の怒鳴り声で、相変わらず笑顔を浮べた巫結花を除く全員が、耕一に眼を向けた。

 耕一の声に展望フロアの視線は集中し、何事かとマネージャーが近寄って来る。
 耕一が軽くマネージャーに手を振り追い払うと、美冬もなんでもないと軽く手を振る。
 少し迷ったマネージャーは、すぐ折り目正しく一礼すると、他の客を安心させるように周囲に腰を折りつつ営業スマイルを向けた。
 食事の静かな一時を取り戻したレストランで、唖然と耕一を最後まで見ていたのは、四人の姉妹だった。

「千鶴さん?」
 軽い溜息を吐いた耕一は、立ったまま自分を見ている千鶴に声を掛けた。
「あっ…酔ったフリ? フリですって!」
 唖然としていた千鶴は、耕一に呼ばれてハッと我に返ると険しい表情で振り返り美冬をキッと睨む。
「なにもバラさなくても。耕一って、遊び心が足りない」
 美冬はチェッと舌打ちした。
「え、えっ?」
 しらふに戻った美冬から解放された初音は、千鶴の声で我に返って、おろおろと美冬と耕一を交互に見回した。

 美冬の急な変化より、耕一が怒鳴った事実に初音は困惑していた。

 椅子に座り直した耕一が手で椅子を引くと、千鶴は不承不承椅子に腰を下ろし直す。
「みんな、ごめん」
 千鶴が座り直すと耕一は深く頭を下げ、テーブル越しに頬杖を突いている美冬を軽く睨む。
「美冬。みんなは、遊び慣れてる大学生じゃないんだ」
「でも、日本じゃ気心を知り合うには、酔いつぶれるまで飲んで騒ぐ、無礼講が一番だって」
 むすっとした美冬の答えに、耕一は長い溜息を吐いた。
(だから、こいつと会わせるのは厭だったんだ。)
「誰に聞いた、無礼講なんて?」
「うん。こっち来てすぐに友達になった子が教えてくれた」
「で、そいつは?」
「酔ったフリしたらベッドに引きづり込もうとしたな。だから、お仕置きしてやった。それからは、私と会うと逃げたわね」
 顔を真っ赤に染めた楓と梓は二人並んで揃って俯き、初音の両耳は聞くんじゃありません。と、隣から千鶴の両手が押えていた。
「そういう奴は、それが目的なの。男同士で、飲み明かすのが普通だ」
「なんだ、身体目当て? ハッキリ言えばいいのにね。結構気に入ってたから、上手なら考えたのにな」
「お前な。純な子達がいるんだから、過激な発言は控えろよ」
 テーブルに置いた拳を震わせる耕一を見て、美冬は首をコクンと傾げる。
「でも、ハイスクールでしょ? ハイなら、それぐらい当然じゃない?」
「ここは日本だ。カナダでも、アメリカでもない」
 美冬の妖艶な笑みも、傾げた首の動きに連れ緩やかに波打つ黒髪も、耕一の怒りを和らげる助けにはならなかった。
「そうなの?」
 今度は梓と千鶴を見回し、美冬は尋ねた。
 初音の耳を押えたまま千鶴はしっかりと。
 梓は考え考え首を縦に振る。
「ふぅ〜ん。カレッジは結構くだけてたのに、ハイは保守的なんだね」
「保守的で結構です」
 キッパリ千鶴に言い切られ、美冬はふふっと気にした風もなく笑った。
「ごめん。個人の主義主張は尊重する」
 真剣な顔になった美冬はそう言うと、隣の巫結花に視線を向けた。
「うん、巫結花。私が悪いんだから、ちゃんと謝るよ」
 千鶴達には微かに気配が揺らいだようにしか思えなかった巫結花にそう言うと、美冬は椅子から立ち上がり深く腰を折った。
「不快な思いをさせて申し訳ありません。この通りです」
「そんな。なにも、そこまでしなくても」
 長い髪をテーブルに広げるように額が着くほど腰を折った美冬に、千鶴の方が困った顔で耕一を窺う。
「美冬、もういいって。俺も先に注意しとくべきだったな」
「そう? 良かった」
「あの、千鶴お姉ちゃん。もういい?」
 パッと美冬が顔を上げるのと、初音がぎこちなく笑いながら千鶴を見上げたのは同時だった。
「あっ! ごめんなさい、初音。もういいわよ」
 照れ臭そうに初音の両耳から手を離すと、千鶴はチロッと舌を覗かせ肩を竦める。
「じゃあ改めて。みなさんは、耕一の期日が過ぎるまでこちらに?」
 打って変わって真面目な口調になった美冬は、ワイングラスを集めるとロゼワインを注ぎ始めた。
 薄い赤の液体が七つのグラスを、一つ一つゆっくりと満たしてゆく。
「期日?」
 頷く妹達を横眼に見ながら、千鶴は美冬の言葉の選び方に眉を潜めた。
「ええ。耕一、あと二日だった?」
「ああ。遅れたのはそっちだからな」
 耕一の言葉に反応した巫結花が、僅かな動きで顔を上げて耕一の方を見る。
「ごめん、巫結花。約束は約束だから」
 揺らぎのような気配が、耕一の謝罪を受け入れ巫結花が頷いたのを知らせる。
「その後は?」
 微かに頷いた美冬は、巫結花を代弁するかのように千鶴に向かい尋ねた。
「ええ。このまま観光を続けるか、他に移るかは、まだ決めていませんけれど」
「ご旅行は、どれぐらいの期間です?」
「一週間、長くとも二週間の予定です」
 千鶴は違和感を感じながら応えた。

 真面目な時とくだけた時で、美冬の雰囲気ががらりと変わった。
 穏やかだが必要な情報だけを聞き出すような美冬の話し方に、千鶴はまるで会社で接客しているような気分になっていた。

「ああ、ごめんなさい。つい立ち入った事まで聞いてしまって」
 微かに動いた千鶴の気持ちを見抜いたように、美冬は相好を崩した。
「いいえ。構いません」
(表情に出したつもりはなかったのに)
 心中美冬の敏感さに舌を巻き、千鶴は微笑んで答えた。
「どうぞ」
 薄い赤を満たした七つのグラスを、美冬はそれぞれの前に置いた。
 楓と初音はグラスを見つめ、躊躇いがちに千鶴を窺う。
「楓ちゃん。初音ちゃんも、一口だけ付けてみたら? 後は残していいからね」
 耕一にそう言われた初音と楓は、少し迷いながらグラスを手にした。
 勧められた以上、形だけでも口を付けるのは礼儀だろうと考えた千鶴は、まだ迷っている初音と楓にコクンと頷いて見せる。
「あら、ワインもダメなの?」
「日本じゃ、飲酒は二十歳から」
「えっ?」
 美冬は赤い顔の梓をジッと見つめる。
「建て前だって。美冬のトコじゃどうなんだ?」
「誰も守ってない」
「だろ?」
 スッとワイングラスを持ち上げ、耕一は差し出した。
 美冬がグラスを合わせてみせると、次に千鶴が、続いて見よう見まねで梓と楓が、まだグラス片手に迷っていた初音に耕一がグラスを合わせ。
 最後に巫結花のグラスに耕一が合せ、今度は静かな食後の歓談が始まった。


「それじゃあ。美冬さんは、耕一さんの大学じゃなかったんですか?」
「うん、そう。耕一と知り合ったのは、留学先のキャンバスだけどね」
「耕一、他所の大学まで行ってナンパしたのか?」
 ほろ酔い気分の梓がきゃきゃ囃す中で、耕一は静かにグラスを傾けていた。

 既に場所は、巫結花達の泊まる部屋に移っている。
 巫結花達の部屋も、千鶴達の部屋のすぐ近く。つまり同じロイヤルスイートである。

 部屋の中では、梓と千鶴、美冬が応接室のソファに陣取り、三人から少し離れたソファで耕一がグラスを傾け。初音と楓は主室のカーペットに敷かれた革の敷物の上で、巫結花と過ごしていた。
 楓は初音の話に相づちを打ち、微笑みを浮べ頷く巫結花と静かな空間を作り出している。
 言葉こそ発しないものの、巫結花の持つ独特の雰囲気は、初音と楓を静かな気持ちにしてくれ。巫結花も初音と楓が気に入ったのか、微かとはいえ表情に変化を表していた。
 気配に敏感な初音と楓には、普通の人は気付かないような、巫結花の微妙な気配の変化が読み取れた。

「ナンパ? ああ、声を掛けて来るアレだっけ?」
「そうそう? 馬鹿が付きまとって来るやつ」
「耕一、あれもナンパ?」
「美冬」
 渋い顔で睨む耕一に手を振り、美冬は僅かに頷く。
「今日会った時は、別人かと思ったわ」
「別人?」
 美冬を見つめていた視線を千鶴に移した耕一は、千鶴が見つめ返すと視線をゆっくりと逸らした。
「うん。と言っても、私は去年の十一月に帰ったから、一月程しか知らないか」
「十一月って? 十月じゃん。おい耕一、あんた帰ってすぐナンパしてたのか?」
 程良い酔いに気分を良くした梓は、千鶴と耕一の様子にも気付かず盛んに耕一に声を掛ける。
「ナンパじゃないって」
 横を向いたままグラスを傾け、耕一はボトルを掴むとワインを継ぎ足す。
「図書館に調べ物だっけね? 由美子がそう言ってたな」
「由美子さんとも、お知り合いでしたの?」
 千鶴の問いにコクンと頷くと、美冬はふっと息を吐いた。
「由美子、良い子だったな。てっきり耕一の恋人だと思ってた」
「ばっ!」
 慌てて顔を向けた耕一は口を手で押え、千鶴の顔を見て知らん顔を決め込んだ。
 千鶴は平静に美冬の言葉を聞いていた。
「うんうん。由美子さんは、良い人だ。可愛そうにな」
 千鶴の横で梓は調子に乗って、ちくちく耕一をいびりに掛かる。
「仕方ないよ。心の問題は、方程式みたいには行かないから」
「そうだね」
「あんなに綺麗で、素敵な彼女がいるとね」
「うんうん。へっ、…あんな?」
 千鶴は眼を見開き美冬を凝視し、相づちを打った梓も慌てて美冬を振り返った。
「「素敵な彼女!?」」
「えっ? ちょ、ちょと、どうしたの?」
 姉妹二人のハモッた声に驚いた美冬は、危うく落しそうになったグラスを両手で支えた。
「誰だ!?」
「…えっ?」
「彼女って、誰の事だっての!」
 詰め寄る梓と睨み付ける千鶴の迫力に押され、美冬は助けを求めるように耕一を見る。
 耕一は頭を抱え、ジトッとした恨めしそうな瞳を美冬に向けていた。
「耕一、秘密だった?」
「百パーセント、美冬の誤解」
 耕一は呻くように呟くと、楓達の方に軽く何でも無いと手を振る。
 千鶴と梓の声に驚いた顔を向けていた楓と初音は、躊躇いがちに小さく頷くと静かな空間に戻っていった。
「楓ちゃんだろ?」
 耕一は尋ねながら静かに腰を上げる。
「う、うん。間違い?」
 千鶴と梓をチラチラ窺いながら美冬は頷く。
 美冬の返事を聞いた梓と千鶴は揃って表情を和らげ、耕一は千鶴の隣に座り直すと、そっとグラスを千鶴に渡した。
「俺の彼女」
 グラスを受け取り恥ずかしそうに頬を赤く染め、千鶴は目蓋を臥せた。
 千鶴は耕一の友達に改まって紹介された事がなかった。
 改めて彼女だと紹介されると、むず痒いような、こそばゆい熱さが身体の芯から沸き起こっていた。
「そうだったの? ごめんなさい。失礼な事を言いました」
 ぺこんと頭を下げると、美冬は首を傾げ楓の後ろ姿に視線を送る。
「楓と聞いたので、てっきり彼女だと」
「名前で?」
 梓が聞き返すと、美冬は楓から眼を梓に戻し頷き一つで応えた。
「ロケットだよ」
 問い掛けるように見上げた千鶴に耕一は呟いた。
「楓が頂いた銀のロケットですか?」
「そう、銀のロケット。楓のレリーフ、綺麗だったでしょ?」
「ええ。とても素敵でしたわ」
 眼を輝かせて尋ねた美冬は、千鶴の返事に心底嬉そうに微笑む。
「私のお店の作品です。銀は魔を退ける魔除けでもあり、最高のプレゼント。かなり無理な注文でしたので、てっきり恋人へ贈ると思いました。本当にごめんなさい」
「いいえ。でも、お店って? 美冬さんは大学生じゃなかったんですか?」
「大学は昨年スキップしました。今はビジネススクールに通い、父の宝飾店でアジア方面の経営担当が仕事です」
「因みに彼女は、二十歳だぞ。梓」
 嫌みったらしく耕一に横眼を流され、梓は眼を見開いて美冬を見つめた。
「耕一、年齢の話は失礼です」
 やんわり表面だけ怒ってみせる美冬は、どう見ても落ち着きといい物腰の優雅さといい、大学生だと聞いていなければ、梓には千鶴と同じ位かもっと上に見えた。
 二つ違いで、大学を卒業して宝飾店の経営に参加しているというのは、梓には少なからずショクだった。
「それに大した事ではありません。巫結花も大学を卒業しています」
「えっ! だって十七って? 彼女、高校生じゃないの?」
「巫結花も日本の学校ではありません。スキップは珍しくはありませんし。十三で大学を卒業した人もいますから」
「巫結花も、カナダ籍なんだ」
 耕一が説明すると、美冬は少し寂しそうな顔をした。
「えっと、ちょと待てよ。じゃあ耕一、あの子の家庭教師じゃなかったのか?」
「はい? 教師? それ逆です」
 ぽりぽり頬を掻く耕一に流し眼を送った美冬は、どこか楽しそうな苦笑を浮べ梓に応えた。
「巫結花が、耕一の教師です」



「耕一、なにも話してなかったの?」
「まあ」
 憮然と美冬に返すと、耕一はグラスを傾けた。

 ソファには千鶴と耕一、美冬の姿しかない。
 梓は巫結花も大学を出て父親の事業を手伝っていると聞き、難しい顔でシャワーを浴びると言って部屋を出て行ってしまった。

「でも、驚きました。巫結花さんまで、事業に参加されてるなんて」
 微笑みを浮べた千鶴の瞳は、初音や楓と環になって座っている少女を見ていた。
「正確には少し違いますが、影の支えではあります。精神的支柱と言うのですか?」
「精神的支柱?」
 眼を戻した千鶴が聞き返すと、美冬は深く頷いた。
「巫結花は幼い時から感覚が鋭った。周囲が、それを予言のように捕らえ信奉者が集まった。それだけ」
 何げなく美冬は話したが、千鶴には嫌悪するように吐き出したように思えた。
「美冬。ロケットの事、楓ちゃんには話すなよ。気にするから」
「O、K」
「そう言えば、かなり無理な注文って?」
 話を逸らすように変えた耕一に合わせ、千鶴は美冬に尋ねた。
「私の家は、代々巫結花の家と取り引きをしています。それで私も、昔は巫結花と姉妹のように育ちました」
 耕一を窺い、頷くのを待って美冬は話し出した。
「あのロケットは、巫結花の家から注文を請けました。レリーフは百合の花ですが、昔作ったオリジナルを巫結花は身に着けています。そのレプリカです」
「レプリカ? でも、オルゴールはオリジナルだと。レリーフも違いますし」
 控え目に聞いた千鶴に謎解きを楽しむように微笑み、美冬はコクンと頷いた。
「ええ。巫結花はレプリカの存在すら許したくない。そう内密に断って来ました。ロケットは、お母様の形見です」
「お母様の? そう、そうですか」
 千鶴には巫結花の気持ちが判る気がして、静かに頷いた。
 同じ物でも、同じ物は二つとない。
 むしろレプリカは、一つしかない想い出を汚されるような気がするのだ。
「はい。気持ちは判ります。でも、契約は完了していました。私個人としては巫結花の気持ちを尊重したい。しかし、注文が浮くのは困ります。巫結花の家へも納めない訳には行きません。契約した以上、信用問題です」
「ええ。それも判ります」
 個人の気持ちを仕事の上でいかに割り切るか、その難しさも千鶴には理解出来た。
「聡明な方で嬉しいです。それで耕一に相談しました」
「耕一さんに、相談?」
 少し驚いて、千鶴は耕一を見上げた。
「はい。巫結花の身近にいるのは、家の者ばかりです。あの通り巫結花は口を聞きません。ですから、相談して対処してくれる人間が、他にはいませんでした」
 千鶴は首を捻り、初音達と遊ぶ巫結花を見てから美冬に眼を戻した。

 巫結花は口を聞かないと美冬は言ったのだ。聞けないではなく。

「あの、失礼ですが…巫結花さんは…」
 千鶴は聞いていい物かどうか、迷いながら言葉を切った。
 巫結花が口を聞かない理由を聞いていいのかどうか、千鶴は迷っていた。
「それも。後で俺から話すよ」
 美冬に見上げられ、耕一が千鶴に応えた。
「はい」
 千鶴はなんの疑いもなく頷いた。
 耕一が後で話すと言うのだから、何か理由があるのだ。
「しかし、俺は電話代わりか?」
 千鶴から美冬に顔を向けると、耕一はむすっと顔をしかめる。
「いいえ。店の信用に関わる事ですから、信用しているから相談したのよ」
「判った判った」
 小さく溜息を吐くと、耕一は頷いた。

 耕一にも判ってはいる。
 店の信用だけを考えるなら、注文通りの品を作って納めれば済む。
 言ってみただけだったが。こうも素直に信用していると言われると、なにか背中がむず痒くなる。

「幸い受取人は指定されていませんでした。受領書にサインがあれば契約上問題はありません。そこで直接巫結花に受け渡す事にしました。あとは巫結花が処理します。ですが、レプリカを作るなという巫結花の注文がネックでした。注文品と商品が違えば、契約は成立しません。人目に触れては困ります」
 コクンと千鶴が頷くと、美冬は苦笑を浮べウエーブの掛かった髪を片手で掻き上げた。
「それで、俺が巫結花から買い上げるって話になった。入学祝いが、一年早くなった理由だよ」
「人手に渡れば、誰にも判らない。ですか?」
 千鶴は密かに息を吐いた。

 千鶴にも双方の利害を満たす方法としては理解出来るが、契約条件の隙間を狙った手法は、あまり褒められた物ではない。

「はい。そして最終的に受け取る耕一が出した注文が、楓のレリーフとオルゴールの変更です。レリーフも曲も違えば、もうレプリカではありません」
 そう言ってワイングラス越しに耕一を見上げた美冬は、眉を潜め険しい表情で耕一を睨んだ。
「ところが、安心したのも束の間。この馬鹿が選んだ曲は、誰も知らないオリジナル。レリーフの変更だけで時間が掛かるのに、オルゴールまで作る方の身にもなって欲しい。そうでなくても納期は迫っているのに、オルゴールが出来なければ作業にもならないでしょ」
「わ、悪かった。でも、いい出来だったぜ」
 ビジネスライクだった口調をいきなり語気荒くさせた美冬に睨み付けられ、耕一は飲んでいたワインにむせながら愛想笑いで返す。
「当然、誰が作らせたと思ってるの? レリーフに合わせ、曲まで楓って付けるから。恋人に送ると誤解もするわ」
 誇らしそうに軽く眼を臥せ、美冬は誤解を詫びるようにグラスを千鶴に上げる。
「でも、楓が気にするって? 入手方法の事なら、楓は気になんてしませんよ」
 正規の方法で手に入れたロケットでないのを気にしているのかと、千鶴は朗らかに耕一に微笑み掛けた。
「代金ね?」
 軽くワイングラスを上げ、美冬は片眼を瞑る。
「馬鹿!」
「銀のレリーフを施した手作り、オリジナルのオルゴールを付けた世界で只一つのスペシャルメイド。並の学生には、簡単には払えない」
 慌てる耕一を後目に、美冬は楽しそうに上げたグラスを見つめ、揺れる赤を照明に翳し手の中で回した。
「そんなに高価な物だったんですか?」
「千鶴さん、心配しなくても大丈夫だから。巫結花に格安にしてもらったんだから。美冬、大袈裟にするな!」
 顔色を変え心配そうに聞く千鶴の肩を抱き、耕一は美冬を睨み付ける。
「仲がいいのね。でも、安いの? なにより貴重だって考えもあるわ。まあ価値観の問題か」
 含みのある言い方をした美冬を横眼で覗き見て、千鶴は耕一に眼を戻した。
「お金じゃ、ないんですか?」
「いや、まあ」
 眼を逸らし曖昧な答え方をする耕一に、千鶴の瞳がキッと鋭くなる。
「ハッキリと答えてください」
「あの、千鶴さん。そんな大した事じゃないからさ」
「千鶴には、どうかしら?」
 千鶴の視線に押され弱腰になった耕一は、茶々を入れながら楽しそうにワインを飲む美冬を再び睨み付ける
 睨まれた美冬が低い笑いを洩らすと、耕一は肩を落としハァ〜と息を吐き出した。
「話せないんですか?」
「その、実は巫結花の旅行の付き添い。……一週間で」
 ぎこちない微笑みを作った耕一が諦めて言うと、千鶴は眼を丸く開いた。
「一週間? 三日じゃ?」
 慌てて耕一は両手を振る。
「あと二日だって、五日は過ぎたから。だからバイト、バイトと同じだからさ」
「……一週間も? …女の子…と一緒に旅行? どこがアルバイトよ」
 ぶつぶつ呟く千鶴の様子で、耕一は冷水を浴びたように全身が急激に冷え込んだ。
「どうして、そんな約束をするんです!?」
 顔を上げた千鶴はキッと耕一を睨み、顔を近づける。
「ご、ごめん。でもさ、二人でってわけじゃないし」
「当り前です!!」
「そう。女性心理を理解出来ない、耕一が悪い」
 言い訳する耕一に更に詰め寄る千鶴に同調し、美冬は横眼を向けた耕一に楽しそうにワイングラスを上げる。
「…たまのお休みなのに女の子と旅行なんて。すぐに帰って来てくれると思って、楽しみにしていたんですからね」
「耕一。経済だけじゃなく、女性の扱い方も教えた方が良かった?」
「てめえ、美冬。楽しんでるな!? 覚えてろよ!!」
「何処を見ているんです!? 耕一さん、ちゃんと聞いているんですか!?」
「あの、だからさ。千鶴さん、ごめん」
「ごめんじゃ、ありません!!」
 母親に叱られた子供のように小さくなる耕一を眺め、美冬は、ワインをグラスに注ぐ。
 仄かに開いた美冬の赤い唇が、今夜のワインは最高。と刻んだのには、耕一も千鶴も気づかなかった。

四章

六章

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