四の章


 曲線を描く滑らかな肩、無駄な贅肉のない張りのあるまろやかな腹部。
 白のハーフカップブラが包む胸、同じシルクの白の輝きに包まれたヒップ。
 滑らかな曲線で構成された、下着と同じ艶やかな白磁の肢体。
(千鶴お姉ちゃん、胸が小さいって気にしてるけど。やっぱり綺麗だよね。)
 姉と並んだ自分を映し出した姿見を見つめ、初音は小さく息を吐いた。
 成長途上の申し訳程度に膨らんだ胸、細すぎる腕と足。
 同級生と並んでいても、よくて中学生と間違えられる童顔。
(わたしも、千鶴お姉ちゃんみたいになれるのかな?)
 と、初音はそっと胸元を両手で押え。
 梓お姉ちゃんほど、大きくはなりそうもない。と、ほっと寂しげな小さな溜息を吐いた。
「初音、どう?」
「あっ!? うん、とっても似合うよ」
 つつましやかな胸に手を当て息を吐いていた初音は、千鶴の声に慌てて顔を上げた。
「えっ?」
 鏡の中の千鶴は、小さく小首を傾げる。
「えっ? あ、あの?」
 千鶴の反応におかしな返事を返したのに気づいた初音は、おろおろと鏡から視線を隣に移した。
「どうしたの? ワンピース、合わせてみないの?」
 クスッと笑うと、千鶴は薄い青のワンピースを取り上げ、初音に合わせてみる。

 二人の周りには、買込んで来た下着や服が色とりどりの花を咲かせ。二人の背後、ホテルの部屋の真ん中では、梓と楓が同じように服を並べ着比べていた。

「うん。やっぱり梓より、初音の方が似合うわね」
 衿回りとスカート部分にふんだんに白いレースでフリルをあしらったワンピースは、確かに初音をより可愛らしく愛らしく見せる。
「だから、最初からそう言ってるだろ?」
 背中から聞こえたむすっとした声に二人が振り返ると、こちらも下着姿の梓が、軽く首を傾げ強い視線を向けていた。
「あたしには、そういうのは似合わないの」
「そんなことないよ。梓お姉ちゃんにも、似合うよ」
「そうよね。大人しくしていれば、似合うはずなのよね」
 わざとらしい流し目を送り、千鶴はほぉ〜と溜息を吐く。
「大人しく、大人しくって。あたしが、乱暴みたいじゃない」
「まさか。可愛い妹を捕まえて、凶暴だ。なんてね」
 うふふと笑いを洩らすと、わざとらしく聞き違え凶暴を強調した千鶴はこくんと小首を傾げる。
「千鶴お姉ちゃん。凶暴だなんて、言ってないよ」
「あら。そうだったかしら?」
 千鶴は初音にてへっと舌を覗かせ、軽く握った拳で頭を叩く。
「わざとだろ? いいや、わざとだ。どっちが凶暴だよ。人前じゃ、猫被ってるくせに」
「誰が、なにを被っているんですって?」
「千鶴お姉ちゃん。梓お姉ちゃんも、早くお洋服決めないと。いつまでも裸じゃ風引いちゃうよ」
 赤く染まった頬で睨む梓と、ちょっとムッとした顔をした千鶴の間で、初音は素早く話題を逸らす。
「それに耕一お兄ちゃん、もうお迎えに来ちゃうよ」
「そうね。お待たせしちゃ、悪いわよね」
「そうだな。下着ばっかり買込んだ誰かさんと違って、あたしは服もちゃんと買ったからな」
 視線を千鶴に据えたまま、梓はへへっと鼻で笑う。
「ふっ、服だってちゃんと買ったわよ」
「その十倍は、下着選びにかかってたけどな」
 決まり悪そうに逸らした千鶴の赤くなった顔を、梓は覗き込む。
「で、でも。梓お姉ちゃん、下着選びって楽しいんだよ」
「そうなのよ。初音には分るわよね。可愛いショーツとか、選ぶのって楽しいわよね」
 コクンと頷く初音の顔を、ホッとした顔で覗き込んだ千鶴を一瞥して、梓は胸を張る。
「見せる相手がいりゃ、気合いも入るよな。貧相な胸を、せめてブラで胡麻化そうってんだろ?」
「梓! あなた……」
「…貧相?」
「「「えっ!?」」」
 梓を怒鳴り付けようとした千鶴の声に静かな声が割り込み、三人はいっせいにそちらに視線を向けた。

 純白のブラウス(首回りからボタンホール前面にフリルつき)に焦げ茶のロングスカート、襟元に巻いた臙脂のシックな柄のスカーフを、胸の前でゴールドのリングに通した楓が立っていた。

「…貧相…よね」
 スカーフの端を指で弄りながら、俯いて自分の胸を見た楓はぽつんと洩らした。
「かっ、楓。あんたの事言ったんじゃないって」
 千鶴や初音と一緒に楓も下着を選んでいたのを思い出し、梓は慌てて言い募った。
「でも……」
 チラッと千鶴の胸に視線を向け、楓は小さく溜息を吐いた。
「私の方…小さい」
「だぁぁぁぁ〜、だっ、だからさ。千鶴姉は先がないけど、あんたと初音はまだこれからなんだって」
「どうして、私だけ先がないのよ!!」
「楓お姉ちゃん、牛乳飲むといいって聞いたよ」
 胸の前で両拳を握った千鶴の叫びは、無情にも初音にまで無視された。
「初音、毎日飲んでるよね?」
「う、うん」
「俗説ね」
 初音はピキッと固まった。
(ひ、ひどいよ。そりゃ牛乳飲んでても、小さいけど)
「あっ、そうだ。マッサージするといいってさ」
 なんとかこの場を取り繕おうと、梓はかおりに聞いた豊乳マッサージの話を持ち出した。
「マッサージ?」
「そうそう。確か、こう持ち上げる見たいにさ。刺激を与えてやるといいんだって」
 言いつつ自分の胸を持ち上げてみせる梓に、楓だけでなく初音も真剣な瞳を向ける。
「…梓。試した?」
「いや。あたしはやってないけど?」
 梓は不安げな千鶴の問いに首を横に振る。
「そう…よね。そうでしょうね」
 安心したようにふっと息を洩らした千鶴と入れ換わりに、初音が梓を上目遣いに覗き込む。
「ねっ、梓お姉ちゃん。本当に大きくなる?」
 上目遣いに窺う楓と、初音にまで真剣に見られ。
「多分な」
(千鶴姉をからかうたび、胸が小さいの楓と初音も気にしてたのかな?)
 半信半疑で答えながら、梓は胸の話題に触れるのは、妹達の前では止めようと心の中で誓った。
「なっ、だから気にしなくても大丈夫だって。でかけりゃいいってもんでもないんだからさ」
「うん」
 楓がコクンと頷いてくれ、梓はやっと一息吐けた。
「梓。だれから聞いたの?」
「えっ? かおりにだけど」
 小声で囁いた千鶴は、かおりの名を聞いた途端、情けなさそうに肩と首を落した。
「だめよ。かおりさんは、女の子なのよ」
「あのな。そんなの分ってるよ」
「じゃあ」
「千鶴姉、なにか誤解してないか? かおりに触らせるわけないだろ」
 梓が睨み付けると、へっという顔をした千鶴は口に握り拳を当てぎこちない愛想笑いを浮べる。
「大体、これ以上大きくしてどうしようってんだよ?」
「間違ってるのよ」
「へっ?」
 千鶴はフッーと長く息を吐き、視線を逸らす。
「マッサージで胸の形を整えるの。大きくなんてならないわよ。でも、やり方が悪いと逆に形が崩れるし」
「あっ、それじゃあ………」
 千鶴姉、試してそれか? と、言い掛けた梓だが、危うく口に出すのは止めた。
「あの子達には、しばらく黙っていましょうね」
 曖昧に消えた梓の言葉を勝手に解釈した千鶴は、楓と初音に視線を送った。
「…うん」
 少し嬉そうに頬を染め胸元を押える妹二人を見て、梓も今度ばかりは素直に頷く。
 今更効果がない。とは、妹思いの梓にはとても言えなかった。


 その頃、耕一は姉妹の部屋の前で頭を抱えていた。
 駅で出迎えた相手は、予定通り二人連れだった。
 しかし、随行者が予定と違っていた。
 本来の随行者は後から来るらしい。
 しかし、耕一に取って、今日来た随行者が最大の難問だった。
 出来るなら耕一が、千鶴達とは一生会わせたくない相手だった。
「…みんな、楽しみにしてるよな」
 諦めたように呟くと、耕一は小さく二度扉を叩いた。
 部屋の中からは返事の替わりにばたばたとけたたましい音が聞こえ、扉が僅かに開き楓が顔を覗かせた。
「やっ、楓ちゃん。そろそろ夕食どうかな?」
 何をばたばたしているのか気になったが、耕一は明るく話しかけた。
「あの。もう少し……」
 開いた扉の隙間から部屋の中に視線を送り、楓は誰かに小さく頷いた。
「ごめんなさい。少し中で待ってて頂けますか?」
「うん。じゃあ」
 言いながら大きく扉を開いた楓の横を通り、耕一は部屋の中を一瞥して足を止めた。
 大量のデパートの袋や包装紙が、部屋の中には乱雑に散らばっている。
「…あの?」
「あっ、その。服とかあまり…それで……」
 振り返って首を捻った耕一に見られた楓は、恥ずかしそうに身体の前で両手を組み、顔を臥せてもじもじする。
 へっと楓を見つめた耕一は、楓の服が真新しいのに気づき、散らばった包装紙が服を包んでいたのを理解した。
「あ、ああ。そうか、急だったもんね」
 着替え中だったのに気付いた途端、なんとなく気不味くなった耕一は、楓から視線を逸らすと頭を掻きながらソファに腰を下ろした。
 俯いたまま耕一の正面に腰を下ろすと、楓は慣れた手付きで急須にお湯を注いだ。
「これも今日買ったんです。茶葉も色々種類が揃っていて」
 意外そうに急須を見る耕一に、湯飲みを取り出しながら楓は説明した。
「そうか。一人だとこういうホテルも便利だけど。みんな一緒だとお茶とか食事には不便だよね」
 こくんと頷きお茶を注ぐと、楓はスッと湯飲みを差し出す。
「この急須と湯飲み、清水焼きだそうです」
「へぇ、綺麗だね」
 差し出された透けるように薄い白磁器を一眺めした耕一は、コクンと頷く楓を見ながら静かにお茶を口の運ぶ。
「うん、美味しい。いつもと少し味が違うかな?」
「家で煎れているお茶は静岡のです。でも、これは宇治の方のだそうです」
 耕一が微妙な味の違いに気付いたのが嬉しいのか、楓は目を細めると静かな微笑みを浮べた。
「同じお茶でも、違うんだな」
「はい」
「楓ちゃん、その服も今日買ったの?」
「あっ…はい」
「うん、良く似合うよ。楓ちゃんは味覚も鋭いけど、服のセンスもいいよね」
 耕一が誉めると、楓は頬を染め唇を指で弄りながら俯いてしまう。
「こりゃ、みんなと一緒だと俺だけ浮いちゃうかな?」
 楓の反応に露骨に誉めすぎたかなと、話題を探して耕一は腕を組んで困ったと大袈裟に考え込んでみる。
「そんな。耕一さん、素敵です」
 楓は慌て気味に顔を上げ、そう言うとハッとしたように真っ赤に染まった顔を臥せた。

 耕一の着ているのは、明かるく薄いグリーンのシャツとスラックス。地味でもなく派手でもない、取り立てて目立たない服装だ。

「ありがとう」
 頭を掻き掻きお礼を言い、耕一は話題を探しお茶を口に運ぶ。
「じゃあさ。今日は、みんなで買い物してたの?」
「ええ、…はい」
 甘い物を食べ歩いていたとは言えず、赤みを残した頬で楓はコクンと頷いた。
「そうか、そりゃ楽しみだな」
 どんな服を買ったのかな? 等と呑気に耕一が呟いていると、楓は迷った表情で視線を落とした。
「楓ちゃん、どうかした?」
「…あの……」
 視線を上げなにか言い掛けた楓は、唇を指で弄りながら再び視線を落としてしまう。
「楓ちゃん」
 耕一は静かに声を掛けた。
「なにか心配な事があるなら相談してよ。俺じゃ頼りないかな?」
「頼りないなんて。そうじゃないんです」
 伏目がちに顔を上げた楓に耕一が言うと、楓は髪を揺らし横に首を振る。
「あの」
 楓は一度ベットルームに視線を走らすと、耕一に目を戻した。
「うん」
「耕一さん。千鶴姉さんの記憶が戻ってないって、どうして思ったんですか?」
 視線を手元の急須に据え、思い切ったように楓は口を開いた。
「…ごめんなさい」
 暫く耕一からの返事はなく、楓は視線を急須に据えたまま後悔しつつ謝った。
「いや、いいんだ」
 小さく息を吐く息遣いに楓が顔を上げると、耕一は頬に微かな笑みを浮べ口を開いた。
「そう。確信したのは暮れに命の炎が散るのを、千鶴さんは見た事がないって、確認してからかな」
「命の炎を?」
「うん。俺は水門で倒した鬼の炎が散るのを見た。記憶が戻ってるなら、千鶴さんも見た事があるはずだ。見てないって事は、人を殺した事がないって事だろ?」
 楓は小さく頷く。
「じゃあ、それまでは?」
「ええと。あの…ごめん」
 少し言い澱んだ耕一は、ぺこんと楓に頭を下げた。
「えっ? あの、耕一さん?」
 耕一がどうして謝るのか分らず、楓は首を傾げた。
「実は俺、夏に梓の部屋で倒れた後、千鶴さんの部屋に行ったんだけど」
「はい?」
「楓ちゃんと千鶴さんが話してるの、楓ちゃんの部屋の前で聞いちゃって」
「……あっ」
 少し考え小さく声を洩らした楓は、思い出していた。
 耕一の鬼が覚醒しないよう、楓は露骨に耕一を避けていた。楓に耕一と自然に接してくれよう、千鶴が頼みに来た時だ。
「ごめん」
「いいえ。でも、それだけで?」
 どう思い出してみても、楓には、あの時の話から記憶の有無を判断するのは無理な気がした。
「あれって、楓ちゃんが親父と俺の鬼を知っているから、千鶴さんは楓ちゃんが避けてると思ってたんだろ? 千鶴さんに記憶があるなら、俺が嫌いかなんて聞かない。それに…俺を恨んでた方が、自然かな」
 自嘲気味になった語尾に哀しげに曇った楓の顔から視線を逸らし、耕一はまた小さくごめんと呟く。
 楓は小さく首を横に振った。

 耕一は口にしなかったが、あの時、千鶴は叔父が亡くなってからの自分の置かれた状況も話した。
 話の内容から鬼の血の秘密を耕一に洩らさないよう、楓への口止めも兼ねていたのは、耕一にも分っている筈だった。
 千鶴の置かれた鬼の血の監視者の立場としては当然だが、当事者の耕一に取ってはやり切れないものがあるだろう。
 しかし、それを知っていて耕一は千鶴を信じたのだから、楓にはなにも言う事はなかった。

「でも。今頃どうしたの?」
 耕一の問い掛けに楓は顔を上げ、迷った末、口を開いた。
「今日デパートで、アイヌの民族衣装を初音が見てて。それで……」
「…エルクゥの服装に似てるのか」
 耕一の呟きに、楓は小さく頷く。
「ごめんなさい。判断の役に立たないかと思って」
「いや。謝る事はないよ。でも初音ちゃんからは、俺は鬼を感じないけどな」
 珍しかっただけじゃないのかな。と、耕一は明るい調子を心がけて続けた。
「初音。いえ、リネットの鬼は、完全に覚醒しないと感じられないと思います」
 唇を指で押えながら楓は確信した強い調子で言い、耕一に顔を上げた。
「それは……」
 理由を問い質そうとした耕一は、楓がハッと巡らした首の動きを追い言葉を切った。
 楓の首の動きに少し遅れ、耕一が視線を向けた先。
 ベットルームの扉が開き、梓が姿を現した。
「お待たせ」
「おぉぉ〜〜、見違えたな」
 耕一が大袈裟に驚いてみせると、梓は顔を横に向け赤くなった鼻の頭を指でぽりぽり掻く。

 ゆったりした黒のスラックス、白い光沢の有るシャツの上に茶色のベストを着た梓は、楓と並べば似合いのカップルに映る事請け合いの颯爽たる姿だ。
 ベストが革なら、レストランよりカジノの方が似合いそうだが。

「へへっ、そうか。似合う?」
「おお、もっちろん。きっと女の子にもてるぞ」
 後ろ頭を照れ臭そうに掻いた梓は、ハッと表情を強ばらせる。
「二人して美女三人に囲まれるか? 大学なら、みんな羨ましがるだろうな」
「三人だ!? おい。ちょと待てよ!」
「なんだよ? 良く似合ってるよね?」
 睨み付ける梓から楓にスッと視線を流し、耕一は楓に尋ねた。
「えっ! あっ、あの。似合います…けど……」
「そうだよね。立派な、男だ」
 言い難そうに梓を上目遣いに覗く楓にうんうん頷きながら、耕一は楽しそうに男を強調する。
「あたしは、女だ!」
「冗談だろ。熱くなるなよ」
 唸りながら睨み付ける梓に軽く手を振り、耕一は湯飲みを取り上げる。
「耕一さん」
 楓に上目遣いに睨まれ、耕一は咳払いすると目を湯飲みから梓に向ける。
「悪かった。梓、似合うってのは冗談じゃないぞ」
「もう遅いよ」
 ぷんと口を尖らした梓は、楓の隣に座ると横を向いてしまう。
「そうカッカするなって、昨日のお返しだ。俺や千鶴さんからかうのはいいさ。だけど初音ちゃんの前では、言葉に気をつけろよ」
「そりゃ、昨夜千鶴姉に散々言われたけどさ。初音だって、もう高校生なんだよ」
 チラッと耕一に視線を向け、梓はぶつぶつ不満そうに洩らした。
「お前、すぐ調子に乗るだろ? それに千鶴さん、神経質だからな。あんまり刺激するなって」
「うん。でもさ」
「昨夜だってな。お前が怒られてる間、ずっと初音ちゃんは心配してたんだぞ」
 段々勢いが無くなって来た梓は、気不味そうに身体を揺すると、肩を落としふっと息を吐いた。
「ごめん、分ったよ。初音にまで心配掛けちゃいけないよな」
「お前。最近物分かりが良くなったな」
 耕一がニヤッと笑うと、梓はへんと横を向く。
「それじゃ、お小言はこれで終わりだ」
 耕一の言葉が終るのを待っていたように、楓はお茶を入れた湯飲みを梓の前に差し出した。
 急須を手にしたまま耕一を見た楓の視線で、耕一は持っていた湯飲みをスッと差し出し、楓は急須を傾ける。
「ありがとう、楓ちゃん。ところでさ、梓」
「なに?」
「お前、スカートはかないの?」
 考えてみると制服しかスカートをはいた梓を見た事がないのに気づき、耕一は首を傾げて尋ねた。
「あんまり。家じゃ、ジーンズだしな」
「持ってないのか?」
「そりゃ、持ってるけどさ。パンツの方が楽だし」
「勿体ないな。似合うと思うんだけどな」
 少し驚いた顔をした梓は、お茶を口に運び小首を傾げ考え込む。
「私も似合うと思う」
「そう…かな」
 楓にも控え目に言われ、照れ臭そうに指で掻いた梓の頬は少し緩んでいた。
「ミニなんかいいよな。健康的な足がスラッと伸びてると、眩しくってさ」
「耕一」
「タイトもラインが綺麗に出て、捨てがたいかな?」
「おい」
「そう言えばさ。楓ちゃん、ミニは持ってないの? ロングが多いよね?」
「…耕一さん」
 頬を赤くした楓にジトッと上目遣いに見上げられ、耕一は楓の視線に篭もった非難と、今にも振り降ろされそうな梓の震える拳に気付いた。
「な、なんだ? 梓、一般論だろ」
 調子に乗って本音を吐いた耕一は、愛想笑いで胡麻化しに掛かった。
「脚線美って奴だろが。世間一般のだな」
「なんのラインが綺麗だっ? 楓のミニが見たいだと。あんたは、そんなのばっかか? 初音はミニが多っかったよな? タイトは千鶴姉か? ずっとそんな目で、見てたのか? あんたは、スケベなとこだけが治んないんだな」
 顔の横で握った拳と同じに震える声で疑問符を並べ立てると、梓は妖しい笑みを浮かべた顔を、ずいっと耕一に突き出す。
「あんたがそれだから、千鶴姉が嫉妬焼くんだ。根性叩き直してやる!」
「馬鹿、止めろって。今日は人を待たせてんだ」
 苦笑いを浮べる耕一を睨み付け、梓は夕食の時友達に紹介すると言われていたのを思い出し、ちっと舌打ちするとソファに座り直した。
「千鶴さんと初音ちゃん、遅くないか?」
「初音はとっくに着替えてるよ。千鶴姉が遅いんだ」
 愛想笑いを浮べ話を胡麻化そうとする耕一を睨み、梓はベッドルームに顔を向けた。
「千鶴さんが?」
「なんでもそうだけどさ。一旦決めるとテコでも動かないくせして、決めるまでやたらと悩むんだよな」
 溜息混じりにぼやく梓の言う事が、耕一にも分る気はした。
「生真面目な上、頑固だからな」
「そうそ。ぐちゃぐちゃ余計なことまで考えるから」
「初音ちゃんは着替え終ってんだろ。何してんだ?」
 梓は鼻の頭を掻きながら、はっ〜とかったるい息を吐く。
「耕一は、まだ分ってないな」
「なにが?」
 首を傾げて耕一が聞き返すと、梓はずいっと身を乗り出す。
「いいか? 良く似合うとか、こっちの服がいいとか言うのも。あたし達が言うより、初音の方が、千鶴姉は素直に信じんだよ」
 成る程。流石姉妹、梓もよく知ってるな。と、耕一がうんうん頷くと、楓は眉を寄せる。
「でもそれ。梓姉さんが、からかうから」
「もしかして。梓が似合うって言うと、千鶴さん、疑心暗鬼になるわけ?」
 楓はコクンと頷く。
 感心したのが馬鹿らしくなった耕一は、ジトッとした目を梓に向ける。
「えっ? そりゃ、親愛の情って言うかさ……」
「からかい易いって言うか。か?」
「いや、まあ、な」
 頬をぽりぽり掻く梓の様子に、耕一は嫌な予感がした。
「梓、お前。まさかとは思うがな」
「な、なんだよ、耕一。なに凄んでんだよ?」
 目を細めた耕一に睨まれ、梓は腰を引いた。
 最近耕一が真剣になると、梓は教師に呼び出された出来の悪い生徒のような気持ちになる。
 千鶴が一方的に叱るのに対し、耕一は理を諭し説明しながら叱る。怒り出した千鶴と耕一の恐さは同じだが、梓としては聞いていればいいだけの千鶴より、耕一に叱られる方が考える事が増えて精神的に疲れる。
「また俺を、ダシに使ったんじゃないだろうな?」
「ハハッ、まっさか」
 頬を引きつらせた梓から、耕一はチラッと楓に視線を送った。
「派手だと、耕一さんがお友達に恥ずかしいって」
「かっ、楓ぇ」
「地味過ぎると、老けて見えるとか。他にも…色々と…」
「それで、着る服で悩み出したの?」
 泣きの入った梓の声を無視して、楓はコクンと頷く。
「楓! 余計な事を言うな!」
「事実」
 素っ気なく梓に返した楓の頬は薄い赤みを帯び、伏し目がちに覗く瞳が、私は耕一さんの味方。と言っていた。
「楓ちゃん、悪いけど。ちょと様子見て来てもらえるかな?」
「はい」
 縋る瞳を向ける梓を気にした風もなく、楓は耕一に頼まれた通りスッと腰を上げる。
「あっ、今日来たの二人とも女の子だから。服とか、そんなに気にしなくていいからって」
 相手が同性の方なら、よけい服に気を使うのが女性心理と言うものだが、耕一は結構こういう部分が鈍い。
 少し眉を寄せかけた楓は、胸元を指で弄りながらコクンと頷き、その場を離れた。
「梓。お前な、いい加減にしろよ」
「…だってさ」
 両手の指を付き合わせながら、梓は俯き加減に上目で耕一を見上げる。
 本気で耕一が叱る気なのに気づいた梓の声は、弱々しい。

 姉妹の前で、耕一が梓を叱る事はない。
 妹達の前で叱られては、姉としての面子もある梓が、素直に話を聞く筈もないし。梓に恥をかかせるのが、耕一の目的ではないのだ。
 この辺りが保護者の立場で叱る千鶴と、あくまで対等の関係で叱る耕一の気配りの差なのだが。逆に言えば楓に席を外させた耕一は、怒っているぞ。と、梓に宣言したようなものだ。

「からかうなって言ってないし、旅行で浮かれてるのも分るさ。だからな、昨夜だってうるさく言わなかっただろ?」
 昨夜千鶴のお説教から解放してもらった梓としては、そう言われると返す言葉がない。
「うん」
 しょんぼり梓が頷くと耕一は息を吐き出し、楓の姿がベッドルームに消えるのを一瞥し、深くソファに座り直した。
「あんまり話したくなかったんだけど。千鶴さん、結構気にしてんだよ」
「気にしてるって?」
「歳。俺が年下なの気にしてるみたいだ」
「そんなのさ。たかが三つじゃない」
 ハハッと笑った梓の笑いは、耕一に見つめられ尻すぼみに小さくなる。
「…ホントに?」
 耕一は額を押え深く息を吐く。
「お前、気付いてないみたいだな。俺と千鶴さん、親戚だから、随分助かってんだ」
「それって?」
「例えばだ。休みの度に俺が姉妹だけの家に泊まってんだ。親戚でなかったら、おかしな噂なんてすぐ流れ出すぞ」
「昨日も言ってたっけ?」
 確認するように窺う梓に、耕一は再び頷いた。
「俺が柏木じゃなかったら、千鶴さんと結婚となったら一騒動だろうな」
「どうして? 千鶴姉と耕一が良ければいいじゃんか」
 不満そうに梓が聞くと、耕一はまた息を吐く。
「身寄りもない貧乏学生がいきなり将来の会長ですって紹介されて、鶴来屋の誰が納得する? 財産目当てに近づいたか、実力もないのに逆玉に乗ったって言われるのが落ちだろ?」
「そんなの考えすぎだって」
「そんなもんだよ、世間てのは。まあ俺も柏木だし、爺さんと親父の実績もあるから反対は出ないだろうけどさ」
 耕一の話を聞きながら、梓は昨夜千鶴から聞いた話を思い出し、満更考えすぎでもないかも、と思った。
「少し話を戻すけどな。そうだな。ちょと極端だけど、梓」
「うん」
「お前。中学生の男に好きだって言われたら、どうする?」
「ハッ!? なっ、なんだ?」
 虚を突かれ泡を食った梓は口篭もった。
「例えだって。どうだ?」
「やだよ。子供じゃんか」
「そうだよな。恥ずかしくて、友達に紹介出来ないよな?」
 自分が中学生と付き合ったとして、友達に紹介して中学生が恋人だって紹介出来るか。そう尋ねられた梓は、友達に笑われそうで恐い気がした。
 逆なら、自分が中学生で、相手が高校生ならそれ程気にならない筈なのに。
「……耕一? 気になるのか?」
 耕一がなにを言いたいか気付いた梓は、恐る恐る聞いた。
 耕一はゆっくり頭を振る。
「俺じゃないって。社会に出ちまうと大した問題じゃないけど。社会人と学生だと、結構周囲の目が煩わしいって事だ。だからさ、今度みたいに改まって友達に紹介するとか言うと。千鶴さん、俺に気を使うんだろう」
 まだベットルームから誰も出て来る気配がないのを確認して、耕一は冷蔵庫に向い缶ビールを取って戻って来る。
「情けない話だけどさ。俺な、二人で出掛けると食事とかほとんどの支払い、千鶴さんに任せてんだ」
「…うん」
 プルを開けビールを傾ける耕一から目を逸らし、梓は小さく頷いた。
 教えられた訳ではないが、梓もそれは知っていた。
 バイトで大学に通っている耕一に金銭的な余裕がないのは仕方がないが。梓にも千鶴に支払いを任せているのを、耕一が情けないと感じる気持ちは分る。
「周りから見たら、情けないよな」
「耕一、そんな事無いって」
 控え目に、だが強い調子で梓が言うと、耕一は軽く笑った。
「俺は気にしてないって。でもな、千鶴さんは、俺のプライドが傷つかないか心配してんだよ」
「千鶴姉が?」
「千鶴さん、古風だからさ。俺を立てようとしてくれるけどな。隆山だと知ってる人が多いだろ? 千鶴さんには、どうしたって鶴来屋の会長って肩書きが付いてくる。柏木も鶴来屋も有名だからな」
「でもさ。耕一が気にしてないって言えば、いいだけだろ?」
 ビール缶をテーブルに置き、耕一は梓に向い首を傾げる。
「だからな。言葉は悪いけど、休みのたんびに泊りに来て、千鶴さんに支払い任せてる俺は、周りから見りゃ、千鶴さんに養われているように見えるんだって。ほとんどヒモだな」
「……ごめん…」
 梓は自分の勘違いで、耕一にそこまで話させたのが申し訳なくて、赤くなった顔を俯かせた。
 梓は単純に千鶴と耕一の年齢差の話として聞いていたが、耕一の話しているのは、周囲から見た千鶴と耕一の社会的な立場の違いに他ならなかった。
「いいけどさ。お前だって無関係じゃないんだぜ」
「そりょ、当然だよ」
 少しムッとした顔をした梓を、耕一はおかしそうに笑った。
「また勘違いしてるだろ?」
「なんだよ。千鶴姉の事なら、あたしだって無関係じゃないさ」
 むすっと梓が睨み付けると、耕一はテーブルに置いた缶を取り上げビールを飲み干した。
「そりゃな。だけど後二年もすりゃ、梓だって嫌でも自分の事だって考えなきゃいけないの、分ってるのか?」
「二年って? 大学は四年だよ」
「成人したら。お前、正式に鶴来屋の大株主だぞ」
 ニヤッと笑われ、梓は言葉を失った。
「千鶴さんの次に株持ってるの、お前だろ? そろそろ見合いの話も来るかな? 覚悟しとけよ」
「ちょ、ちょと待てよ」
「なんだ?」
 焦って声を掛けたものの、クツクツ笑う耕一に首を傾げて見つめられ、梓はなにを言って良いのか分らなくなった。
「まあ、気持ちは分る。考えてなかったんだろ?」
「…うん」
 ふっーと息を吐く梓の表情には疲れが見えた。

 以前なら兎も角、この数カ月色々と耕一から教えられ、周囲の思惑が入り乱れる煩わしさを、梓も少しは理解していた。
 しかし、それは姉の千鶴の立場や地位の煩わしさで。今まで梓は、自分がその立場に置かれるとは考えた事もなかった。

「お前だけじゃない。楓ちゃんも初音ちゃんも、成人すりゃ、名実共、株主だ。他に遺産があるのかまでは聞いてない。でも、贅沢しなけりゃ、一生楽に暮らせるな」
「そうか、そうなるのか」
 姉妹全員、両親から相続した財産があるのは知っていたが、梓は今まであまり考えた事もなかった。
 姉妹の財産は、昨年までは叔父が、叔父が亡くなってからは千鶴が管理していた。
 周りはどう見ているか知らないが、初音や楓、梓は自分の相続している財産を意識した事がなかった。叔父や千鶴が意識しなくて済むように気を配っていた為だ。
 梓や楓、初音達には、柏木や鶴来屋にまつわる責任や義務に縛られず生きて欲しいという、千鶴や亡き叔父、両親の願いの表れでもあった。
「あんまり気にするなよ。やりたい事があったら、鶴来屋なんてほっぽっといて良いからな」
「だってさ。千鶴姉一人に任せて、自分だけ好きになんて出来ないよ」
 簡単に放り出せと言われ、梓は頬を膨らませた。
 耕一と話して理解が進む程、今まで自分達が千鶴や叔父にぬくぬくと守られ来たのが分る。梓には、とても千鶴にだけ責任を押し付けて、自分が好きな事をやる気には成れなかった。
「だから俺がいるんだろう?」
「うん。でもな」
 自分がいるから心配せず好きな事をやれ。と、耕一が言ってくれているのも分るが、耕一と千鶴にだけ任せていいのか?
 釈然としないものが胸にわだかまって、梓は考え込んだ。
「急いで結論出すなよ。時間は充分ある」
 耕一に軽く頭に手を乗せられ梓は、手を振り払う気も起きず、そのままコクンと頷いた。
 それならどうして役員の話を断ったのか、耕一に聞きたかった。しかし千鶴に口止めされたのを思い出し、梓は口に出すのを思いとどまった。
 肩で大きく溜息を吐いた梓を見ながら、耕一もそれ以上はなにも言わない。
 初音と千鶴、楓の三人が出て来るまで、静かな沈黙が部屋を支配した。

三章

五章

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