二の章


 温泉の中で細波に揺られているような穏やかな温もりの中、初音は微睡みから目醒めた。
 まだ醒め切らぬ目を小さな拳で擦り、ぼんやりと浮かぶ間近な横顔に目を凝らした初音は、パッと瞳を見開くと湯気が出そうなほど顔を赤く染めた。
 耕一の胸に抱き抱えられていた初音は、握った拳までを赤く染め、恥ずかしさに声も出せずに身体を強ばらせた。
 腕の中の変化に気付いた耕一は、少し首を傾げ初音を覗き込む。
「ごめん、初音ちゃん。起こしちゃったかな?」
 初音は硬直したまま首を微かに横に振った。
「初音。完熟トマトみたいだよ」
「およしなさい、梓。からかうんじゃないの」
 初音の赤い顔を横目で覗き込んだ梓がからかうと、千鶴は軽く梓を睨み、初音に笑みを向け手を伸ばした。
「もうお部屋だから。もう少し我慢してね」
 そっと額に掛かった前髪を直す千鶴のしなやかな指が、初音の火照った肌にひんやりとした心地好さを伝えた。
「ごっ、ごめんね、お兄ちゃん。わたし大丈夫だよ」
 千鶴の指の感触に我に返った初音は、どうして耕一に抱き抱えられているのか分らないまま焦って言うと、口元を指で押え恥ずかしそうに瞼を臥せる。
「なにが大丈夫だって? まだ寝ぼけてるな」
「初音ちゃんは軽いからね。遠慮しなくてもいいよ。それに、もう着いたしね」
「えっ?」
 初音がそっと目を上げると、耕一は少し身を傾げ視線を初音から上げた。
 耕一の視線を追った初音の瞳に、すぐ上の姉が苦笑気味に小首を傾げ、扉を開けて立っているのが映った。
 見知らぬ場所に、初音はゆっくり周りを見回してみる。
 両側の壁一面に等間隔にいくつかの扉が並び、鶴来屋の廊下のように綺麗なカーペットが引かれた廊下。
「あ、あれ。ここ? わ、わたし?」
 キョロキョロ瞳を動かす初音の様子で、初音が寝ぼけているのより。眠っている間に、耕一に抱き抱えられていた恥ずかしさで混乱しているのに気づいた千鶴は、小さな笑いを洩らした。
「車の中で寝ちゃったのよ。良く眠っていたから」
 笑ったのを詫びるような、少し悪そうでいて可笑しそうな千鶴の声で、初音はやっと自分達が旅行に来たのを思い出した。
「そっか。…もう着いちゃたんだ」
 眠っている間に着いたのが少し残念な気がして、初音はそっと呟いた。
「いつもなら、とっくに休んでる時間ですものね。さっ、お部屋に入って、ゆっくりお休みなさい」
 千鶴に目で促された耕一が静かに初音を降ろすと、初音は俯いたままもじもじと指を弄った。
「あ、あの。耕一お兄ちゃん」
「うん?」
「ごめんね。その…重くなかった?」
 上目遣いに初音が覗くと、耕一は頬に静かな微笑を浮べた。
「ううん、軽かったよ」
 耕一は初音の頭にそっと手を乗せると、部屋に入るように片手で促す。
「初音、大丈夫だって。耕一の奴、もっと重いもん、抱き上げてんだからさ」
 一足先に部屋に入った梓が首を突き出し、そうだろうと言わんばかりに薄く笑う。
 耕一の表情は苦笑いに変わる
「梓、ちょといらっしゃい」
 頬を赤く染めた千鶴に耳を引っ張られ、梓が千鶴と室内に消えると。楓と耕一は、旅先まで来ても変わらない梓と千鶴のノリに小さな溜息を吐いた。
 その隣で、耕一に降ろされたまま困ったようなぎこちない笑いを浮べた初音は、連れ込まれた梓のフォローの仕方を考えていた。

「梓お姉ちゃん、大丈夫かな?」
 ソファの上で身を捻った初音が呟くと、耕一は一つ溜息を吐いた。
「大丈夫だよ、初音ちゃん。お小言だけみたいだからね」
 千鶴の鬼を感じていない耕一は、苦笑しながら初音の隣で缶ビールを飲んでいた。
「でも耕一お兄ちゃん。梓お姉ちゃん、ちょと浮かれてるだけで、悪気はないんだよ。それに、もう夜も遅いし」
 梓の連れ込まれたベッドルームから耕一に目を移すと、初音は心配そうに小さな両の拳を握り耕一に力説した。
 ジッと見つめる初音の瞳は、耕一に梓の助けを求めている。
「そうだね。うん、分った。ちょと見て来るよ」
 耕一は立ち上がると、頭を掻きながらベットルームに向う。
 梓が千鶴に連れ込まれてから、初音が心配し続けていた。いつもの事だとソファに座った耕一も、初音の澄んだ瞳に心配そうに見上げられると、梓より初音が可哀想で、落ち着かなくなっていた。
「千鶴お姉ちゃん、あんなに怒らなくてもいいのに」
「いいの」
 静かに緑茶の缶を傾けていた楓の一言で、初音は驚いたように姉を振り返った。
「でも、楓お姉ちゃん。せっかくの旅行なんだよ」
「梓姉さん、懲りない」
 チラリと初音を見て、楓は一言ですました。
「楓お姉ちゃん。もしかして、怒ってるの?」
「別に」
 こくりと喉に緑の液体を流し来んだ楓は、初音から視線を逸らす。
 普段もの静かで口数の少ない楓が、まだ怒っているのに気が付いた初音は、深く息を吐いた。

 楓は昼に梓から、お小言をもらったのを根に持っていた。
 梓も昼食をお握りだけですました楓に、料理の練習の為にもおかず位は作れと言う意味で言ったのだが。その場に耕一がいたのが、梓に取って致命的だった。
 耕一に料理も作れないと思われなかったかと思うと、楓は恥ずかしさで身が縮む思いがした。
 滅多な事では怒らないが、根に持つと楓の怒りはなかなか収まらない。

 楓の白く滑らかな横顔を見ながら、初音は首を傾げた。
(なんだか最近、お姉ちゃん達も耕一お兄ちゃんも、梓お姉ちゃんに厳しいみたい)

 初音にも耕一の前で叱られた楓が怒るのは、分る気がする。しかし、それだけでいつまでも怒っている楓ではなかった。
 耕一と千鶴もそうなのだ。
 梓にだけ、みんなが最近厳しい気がして、どうしてなのか分らず、初音は気をもんでいた。
 いままでなら、初音もこれほど心配はしなかった。
 楓は兎も角、千鶴と梓の喧嘩は、リクリエーションのようなものだ。
 以前は怒って見せていても、千鶴は冷静だった。本気で怒るような事は滅多に無かった。
 だが最近の千鶴は、耕一が絡むと本気で怒り出す。
 家長たる千鶴の本気の怒りを静められる者は、柏木家には存在しない。
 耕一を除けばだが。

 初音は楓の横顔からそっと目を逸らし、耕一の入っていったベッドルームの扉を見つめ溜息を洩らした。


 ベッドルームの扉を後ろ手に閉めた耕一は、困ったようにぼりぼりと頭を掻いた。
 耕一の目に映ったのは、ベットに腰を下ろし両腕を組んだ千鶴と、床に正座させられ小さくなった梓の姿だった。
 扉の閉まる微かな音にチラリと目を上げた千鶴の瞳が、僅かに躊躇いがちに揺れる。
 耕一も同じだが、梓にどう言い聞かせればいいのか、千鶴が迷っているのが見て取れた。

 耕一や千鶴、楓が刺激したくないのは初音だった。
 なにがきっかけになって、初音の中のリネットが目を覚ますか分らなかった。
 いずれ目覚めるにしても、初音の心が成長してからと、今のまだ幼さを残した心では、受け止め方も受けるショクの大きさも変わってくる。
 耕一達は、せめて成人するまでは、初音の不安を煽ったり、変に刺激して目覚めさせる危険は避けたかった。
 その為にも、極力初音の前では以前道理振舞っている千鶴と耕一だが、なにかというと千鶴と耕一の仲の良さをからかいの種にしたがる梓には手を焼いていた。

 耕一は無言でベッドに歩み寄ると梓の頭をひと撫でし、臥せていた顔を上げ見上げる梓に首を傾げてみせた。
「梓、もういいぞ」
「耕一さん。まだ、……」
「今日は遅いから」
 むくれた上目遣いで睨む千鶴と梓の間に入った耕一は、千鶴に笑い掛け、梓に早く行けと背中で小さく手を振る。
 小さな安堵の息を洩らした梓は、耕一の背中に隠れこそこそ部屋から逃げ出した。
「もう。逃げ足だけは早いんだから」
 前に立った耕一越しに扉の閉まる音を聞いた千鶴は、ぷんと口を尖らすと横を向いてしまう。
「まあ、いいじゃない」
 耕一は軽く言いながら、千鶴の隣に腰を下ろした。
「梓がのんびり出来るの、この休みの間だけかも知れないしね」
 のんびりした耕一の言葉に、千鶴はハッと耕一に顔を向けた。
「足立さんだろ?」
「梓を?」
 重なった互いの問いに顔を見合わせ、千鶴と耕一は見つめ合うと笑みを浮かべた。
「ええ、それもあります」
 先に口を開いたのは千鶴だった。
「うん。…梓の方がいいと思ってる」
「考えなかったわけじゃないんです。でも……」
 途切れた言葉の代わりに耕一の肩に軽い重みが掛かり、髪から仄かな甘い香りが鼻をくすぐった。
「いまから縛るつもりはないんだ。四年ある、ゆっくり考えて決めればいい。それに言い聞かせるより、その方が梓には、いい経験になる」
 耕一は肩に回した腕で、千鶴を元気付けるようにぎゅっと抱き寄せる。
「梓なら、上手くやりますね」
「でも、企業人にはなれない」
 コクリと頷いた頭の動きに連れ、長い髪がさらさらと耕一の肩を流れる。
「もう遅いから、明日にしよう」
「はい」
 流れた髪を掻き上げた耕一に小さく頷き、千鶴はそっと瞼を閉じた。
 静かに唇を触れ合わせ、二人はみんなの元に戻った。

 ベッドルームから出た耕一と千鶴は、顔を見合わせ揃って小さな溜息を洩らした。
 ソファに座り込んだ梓は、いままで叱られていたのが嘘のように、缶ビール片手にいい御機嫌だ。
 タフと言うか物事にこだわらないというのか。
 少しは反省して欲しいとも思うが。耕一と千鶴には、くよくよしない性格は頼もしくもある。
 耕一に促された千鶴は、呆れた目を梓に向けながらソファに腰を下ろした。
「初音と楓は、ベットルームをお使いなさい」
「お姉ちゃん達は?」
 別に部屋を取ってあるのかと思った初音は、千鶴と梓を等分に窺った。
「そっちの部屋にベットを入れてもらってあるから、大丈夫よ。梓、なに?」
 心配そうに聞く初音に答えながらも、梓が一瞬眉を潜めたのを千鶴は見逃さなかった。
「い、いや。別に。耕一は?」
「俺か? シングルを取ってあるから、三階ほど下かな」
 話を逸らそうと聞いた梓に、耕一はカードキーの番号を確かめながら答えた。
「なあ。耕一も、いっそここに泊まったら?」
「そうも行かないだろ?」
 苦笑を浮べ、耕一は新しい缶ビールを取り上げた。
 梓は耕一が部屋に帰って二人になったら、千鶴のお小言が繰り返されないかを心配していた。
「なんで? ここって、ロイヤルスイートって奴だろ? 十分すぎるほど広いじゃん」
 ざっと部屋の中を見回した梓は、今いる応接室に繋がるベットルームの他、続き部屋になった二部屋に視線を走らせた。

 部屋に着くまで寝ていた初音は知らなかったが、千鶴が予約して置いたのは、最上階のロイヤルスイートだった。
 大きく開いた窓から望む眺望もだが、広い主室にゆったりしたバスルーム、ベッドルーム、応接室の他に、予備に設けられた部屋など。調度品の豪華さもホテルの一部屋というより、どこか趣味の良い豪邸の一室を思わす簡素だが贅を尽くした部屋だ。
 蛇足だが、耕一の借りたシングルは、ワンルームマンションの一室といったものだ。宿泊費自体、数倍の差があり比較にもならない。
 最初部屋に入った耕一は、居心地悪そうにしていたが。千鶴は兎も角、初音までもが別段気にした様子もない辺り、耕一と姉妹の生活環境の違いというものだろう。
 しかし千鶴も贅沢でロイヤルにしたのではない、急な旅行に耕一の宿泊先に合わせた為もあるが。たまの旅行ぐらい贅沢でも姉妹一緒の方がいいだろう。と、多少の無理がきくロイヤルスイートに予備のベッドを入れてもらっていた。

「なんでって。そりゃ……ああ、そうだ」
 言い掛けた言葉を切ると、耕一は缶ビールのプルを開け、一口飲んでから顔を上げた。
「明日駅まで迎えに行くんだけど。みんなは、どうする?」
「耕一、駅って?」
「うん。新幹線だから、京都駅。観光するなら駅まで一緒に行こうか?」
「あの、そのお友達の方も観光なんでしょうか?」
 何処か釈然としない千鶴の様子に、耕一は首を傾げた。
「いえ。観光なら、京都にも旅館やホテルは多いですし」
 ぎこちない笑いを浮べ肩を潜める千鶴の仕草で、耕一は、ああ。と、千鶴の疑問に気づき笑い掛けた。

 このホテルは京都の手前、大津の琵琶湖湖畔にある。
 京都観光には、市内の旅館やホテルの方が便利なのだ。

「いいや、保養だな。特に当てはないらしい」
「そうだったんですか?」
 耕一が頷き返すと、千鶴は妹達に目を向けた。
「いいじゃん。京都まで出て、それから決めたらさ」
 梓が言うと、楓はこくんと頷く。
「初音は?」
「うん、わたしもそれで良いよ」
 にっこり微笑んで答えた口から小さな欠伸が洩れ、初音は慌てて両手で口を覆った。
 耕一と千鶴が戻ってから初音は静かだったのだが、眠気を押えていたらしい。
「帰りは別になって悪いけど、夕食の時に友達にも紹介するから」
 欠伸を押えた手の間から赤い頬を覗かせ、上目遣いに窺う初音の頭に手を乗せ、耕一は静かな笑みを浮べた。
「初音ちゃん、疲れただろう。もう休んだ方がいいよ」
「そうね。少しお風呂で暖まって眠れば、疲れも取れるわよ」
 恥ずかしそうに頷いた初音は、千鶴に促されそっとソファから立ち上がった。
「あの、私も」
 楓が仄かに頬を染め耕一を窺いながら立ち上がると、初音と一緒にバスルームに向う。
「と、言うことだ。梓」
 初音と楓の姿を扉が隠すと、耕一は首を捻り梓を覗き込む。
「へっ?」
「楓ちゃん、恥ずかしがってただろ? 俺がここにいると着替えとか風呂とか、みんなが気を使うだろ?」
 首を傾げる梓の鈍さに息を吐くと、耕一はソファに持たれ込んだ。
「あっ、なるほどね。家じゃないからな」
 家族同様の耕一だから気にしなかったが、バスルームの扉一枚向こうに男性がいると、言われてみると落ち着かない気がして、梓はこくんと頷いた。
「梓って、デリカシーに欠けるのよね」
 わざとらしい溜息混じりに千鶴が相づちを打つと、梓は、ははっと乾いた笑いを洩らし缶ビールを開ける。
「それにな、予約するのに鶴来屋の名前使っただろ?」
「うん?」
 今回の旅行は急な話だったので、全国の旅館組合に顔の広い足立に口利きを頼んだのは梓も知っていた。
「そうでなきゃ、午後に頼んで予備のベットまで運び込んでもらえないかな?」
「ええ。事前に頼んでおかないと、ちょと無理かも知れません」
 耕一に聞かれ、千鶴は顎に指を当て少し考えて答えた。
「と、言う事はだ。このホテルにすれば、全国でも有名な、高級旅館「鶴来屋」会長様ご一行な訳だ」
「…耕一さん」
 千鶴は耕一の大袈裟な言い方に困った声を出した。
 耕一は千鶴の膝に置いた手に手を軽く乗せ、ごめんと呟いた。
「同業者の評判は気になるからな、それなりに従業員も注意を受けてるだろう。千鶴さんの顔と名前は、週刊誌でも知られている。同じ業種なら覚えてる人も多い。一緒の部屋に俺が泊まったら、不味いだろ?」
「でもさ、従兄弟なんだし」
「俺の顔なんて、誰も知らないぞ。従兄弟ですって、教えて回るのか?」
 耕一がふっと息を吐くと、梓も溜め息を洩らす。
「耕一、神経質過ぎるよ。考えすぎだって」
「ひとつの考え方だな。そうだな、この部屋、広いからな。支配人に無理言ったお詫びと、お礼を言ってからならいいかな?」
 考えるように傾げた首を千鶴に向け、耕一は片目を瞑った。
「ええ、そうですね。明日にでもご挨拶して、ベットを入れてもらいましょうか」
 あまり様になっていないウィンクに小さな笑いを洩らし、千鶴はこくんと頷いた。
「最初っから、素直にそう言えばいいのにさ。一緒にいたいくせに」
 ぶつぶつぼやきながら、梓は頭を掻くと缶ビールをごくごく飲み干しぷはっと満足そうな息を吐く。
「それじゃ、そろそろ部屋に戻るか」
 ソファから耕一が立ち上がると、梓を気にしながら千鶴も一緒に立ち上がる。
「ん。耕一、お休み」
 梓も耕一を見送る千鶴にわざわざ声を掛けるほど無粋ではない。
「ああ、お休み」
 知らん顔で手を上げる梓に手を上げ返し、耕一と千鶴は扉に向かった。

「なあ、千鶴姉。そんなに不味いの?」
 仄かに赤みを帯びた頬で戻って来た千鶴が腰を下ろすと、梓は待ちかねたように缶ビールを両手で転がしながら尋ねた。
「さっきの話?」
「うん。だってさ、名字だっておんなじ柏木なんだし、あたし達だって一緒なんだからさ」
 首を傾げながら缶をテーブルに置き、梓は上目遣いに千鶴を見上げた。
「ちょと大げさだけれどね。旅館とかホテルって、結構狭い世界だから。特に名実共、高級で通る所はあまりないわ」
「それって、マズイ事があるとすぐに知れ渡っるってこと?」
 髪を掻き上げこくんと頷いた千鶴の表情が、梓には少し寂しそうに見えた。
「ええ。梓も理解が早くなったわね」
 顔を上げた千鶴はにっこり微笑み、テーブルの上にあった緑茶の缶を取り上げる。
「そりゃね。耕一の奴、なんかあると偉そうに説明するからさ」
「そうね。耕一さん、梓に期待しているから」
 てっきり、そんな事を言うもんじゃない。と、怒られると思っていた梓は、意外な返事に訝しげに細めた目で、手にした缶を見つめる千鶴を窺った。
「…まさか、あの馬鹿。またおかしな事考えてるんじゃ」
「いいえ。心配しなくてもいいのよ。そう、初音や楓にもちゃんと話すわね」
 クスッと笑いを洩らした千鶴の表情に陰りがないのを見て取った梓は、背をソファにもたらし天井を見上げた。
 高級そうなシャンデリアが放つ柔らかい光を見詰め、梓は胸中に湧いた不安を吐く息と共に外に出した。
(耕一と千鶴姉が話し合って決めているのなら、心配することはないな。)
 梓はそう考えて、頭を掻きながら身体を起こした。
「まっ、それならいいか」
「私も、梓には期待しているんだけれどね」
 小首を傾げた千鶴に見つめられ、飲みかけの缶ビールに伸ばした梓の手が止まった。
 梓に向けられた千鶴の瞳は真剣だった。
「姉としてだけじゃないのよ」
「千鶴姉……?」
 あまり見た事のない真剣さで見つめられ、眉を潜めた梓が戸惑った声を出すと。千鶴の瞳はいつもの温かい柔和さを取り戻し、静かにテーブルに視線を落した。
「ごめんね」
「…千鶴姉?」
 姉がなにを謝っているのか分らず、身を乗り出した梓は千鶴を覗き込み再び小さく呼んだ。
「うるさく言いすぎたかも知れないわね」
「な、なに言ってんだよ。おかしいよ。いつもの事じゃんか、あたし気にしてないよ」
 慌てて言う梓を一瞥した千鶴は、小さな息を吐くと一口緑茶を飲み梓に視線を戻した。
「少しは、気にしなさい」
「はっ? ははっ」
 落ち込んでた方がいいのかよ? どっちなんだ。と思いながら、梓は愛想笑いを洩らしビールを煽った。

 梓は、まだ気づいていなかった。
 姉の謝罪が、自らの力不足が妹に負わすかも知れない重責にある事を。

「あれ? 耕一お兄ちゃんは?」
 缶ビールを傾けながら、梓は声の方を横目で窺う。
 バスルームの扉を細く開け、淡いピンクの動物柄のパジャマを着た初音が、濡れた髪をバスタオルで拭きながら覗いていた。
「耕一なら、部屋に帰ったよ」
「そうなの?」
 バスルームの中に向い一言二言なにか話しかけ、初音はソファにとことこ歩み寄ると千鶴の隣に腰を下ろした。
 初音が髪を拭いていたバスタオルを手に取ると、千鶴はいつも赤いリボンで纏められている、栗色の柔らかい髪を拭き始めた。
 向いのソファから二人の様子を見ていた梓は、自分の頬が緩むのを感じた。
 なにげなく初音の髪を広げて拭く千鶴の仕草を見ていると、梓は今はいない母親を思い出す。
 子供の頃、男の子のように泥だらけで帰り、お風呂から上がった自分の髪を優しく拭いてくれた優しい手の、くすぐったいような、恥ずかしいような心地好さを。
 もう一口ビールを飲み、梓はそっと缶をテーブルに戻した。微かな音も、今の静かな空間を壊してしまいそうで、そっと音を立て無いように。

 初音と千鶴を見ながら、梓は耕一の気持ちが分る気がした。
 梓にも、千鶴には母親が似合う気がする。
 鶴来屋の会長をやっているより、家で子供の世話を焼いている方が、千鶴には幸せなんだろうと、梓も思う。
 しかし現実には、会長をやるしかない千鶴の負担を減らそうと、耕一が事ある毎に自分に考え方を教えようとしている事も知っていた。
 教えられないと分らない事を歯がゆく感じ、考えようと梓も努力はしている。だが、まだまだ教えられる事ばかりで、千鶴や耕一がなにを期待しているのか、期待に応えられるのか、梓にはまだ分らないでいた。

 僅かにソファが揺れ、梓は楓がいつの間にかバスルームから出て来たのに気が付いた。
 薄いブルーに白のストライプが入ったパジャマを着た楓は、髪もキチンと乾かし、色の白い肌を湯上がりのピンクに染めていた。
 さらさらの黒髪に白くきめ細かな肌、整った顔立ち。
 少しきつい感じの目元が見るものに冷たい印象を与えるが。それさえ姉の梓から見ても、妹の芸術品のような精密な美しさを引き立てている。

 目を千鶴と初音に戻し、梓は溜息を噛み殺した。

 初音の髪を拭く千鶴は、子供のような所はあるが以前からおっとりした美人だった。しかし、今年の初め耕一との一件があってからの千鶴は、子供ぽっい仕草の中にも、梓が見てもハッとする艶のようなものを感じるようになった。

 姉や妹に女性としての魅力でも、考えの深さでも自分は負けている。そう考えながら、梓は擽ったそうに髪を拭かれている初音に目を向けた。

 今は幼い感じのする初音は、どちらかと言えば千鶴に似ている。
 垂れ眼がちの目元、穏やかな笑みを絶やさない無垢な笑顔、栗色の柔らかく長い髪。
 初音は千鶴や楓と同じさらさらの黒髪でないのを残念がっていたが、ふわっと柔らかく波打つ栗色の髪は、初音の穏やかな笑みに良く似合っていた。
 初音に取っての理想象は、千鶴なのだろう。
 姉妹の中で一番年下だった初音は、両親が生きていた頃から千鶴が面倒を見ていた。
 両親を亡くしてからは、文字道理母親として初音を育てたのは千鶴だった。
 また初音自身が、千鶴に憧れてもいる。
 理想の母親で姉。
 自分が大人になった時、そうなりたいと願っている姿。
(初音なら、なれるよな)
 しっかりしないと初音にまで置いて行かれそうな気がして、新たに開けた缶から流し込んだ琥珀の液体で溜息を流し込み、梓は息を吐き出した。

「梓」
「うん?」
 ビールを飲み考えながらボッーと初音を見ていた梓は、千鶴の声に顔を向けた。
「飲みすぎじゃない?」
「あっ!」
 言われて自分の前を見ると、空になった缶ビールが既に三本。
「はは、そうだね」
「もう。すぐ調子に乗るんだから」
 叱られるかと思った梓だったが、千鶴の声は苦笑混じりで叱るつもりはないらしいと分り、へへっと頭を掻いて笑ってみせる。
「初音、眠いとは思うけれど。みんなに少しお話があるの、いいかしら?」
「うん? なに、千鶴お姉ちゃん」
 こくんと初音が頷くのを確認してから、千鶴は梓と楓に視線を流した。
 楓は無言で頷き、梓もそれに習った。
「実は、この旅行中に、足立さんから頼まれている事があるのよ」
「お仕事があるの?」
 少し迷ったふうに聞いた初音に、千鶴は首を横に振った。
「いいえ。でも、仕事でもあるの。耕一さんの事なのよ」
「耕一お兄ちゃん?」
 僅かに眉を潜め唇に指を置く楓の隣で、梓は千鶴を覗き込む初音の様子を窺った。
 千鶴が仕事の話を妹達に聞かせるのは、これまでなかった事だ。
 それも仕事に耕一が関わるというのが理解出来ないのだろう、初音は不安そうに千鶴を見上げていた。
「ええ。耕一さんを、鶴来屋の役員として迎えたいそうなの」
 妹達の反応を窺うようにそれぞれの顔を見ながら、千鶴はゆっくり口を開いた。
「役員?」
 最初に反応したのは、楓だった。
「ええ、そうよ」
「でも、耕一お兄ちゃん、まだ大学生なのに。学校はどうするの?」
 初音が心配そうに聞くと、千鶴は柔らかく微笑みかける。
「それは大丈夫よ。役員と言っても、実質的には名前を載せるだけなのよ」
「名前を載せるだけって? どういう意味だ?」
「役員名簿に名前は載せるけれど、すぐに仕事をしてもらうわけじゃないの。卒業までは、定例役員会に出席する位ね」
「じゃあ、耕一お兄ちゃん。大学を辞めなくてもいいんだよね?」
 梓の疑問に答えた千鶴は、安心したように聞く初音にこくんと頷いた。
「急な話ね」
「そうだな。大学卒業してからでもいいんじゃないの?」
 梓は同じ疑問を口にした楓に、相づちを打つ。
「それはね。私が会長になって、役員の椅子が一つ空席になったままだからよ。来月の新年度役員会までに、空席を埋めて置きたいそうなの。どうかしら?」
 妹三人の顔を見回し、千鶴は小首を傾げた。
「どうって? なんであたし達に聞くんだ?」
 初音と楓の戸惑った様子を見て、代表して梓は聞いた。
 役員になるもならないも、耕一が決める事で姉妹で決める事ではない。
 耕一のいない所で、千鶴が話しを切り出した事に三人は戸惑っていた。
「ええ。それは、先にあなた達の同意をもらいたいと思って。耕一さんには実績がないでしょ? だから、あなた達三人の名義を貸して欲しいのよ」
「名義?」
 初音と梓、楓は互いに顔を見合わせた。
「あのね。鶴来屋の株は、私が七割、あなた達が二割持っているの。あなた達の株の代理人には、今は私がなっているのよ」
「代理人を、耕一さんに移すの?」
「全株式の二割を所有する大株主の代理なら、役員になってもおかしくないわ」
 微かに眉を寄せた楓に、千鶴は頷いて返した。
「初音、どうかしら?」
「えっ? ええと。わたし、良く分らないけど。耕一お兄ちゃんの役に立つなら、それでいいよ」
 名指しで聞かれ、ぎこちなく微笑み答えた初音を見ながら、梓はジッと成り行きを見守っていた。
 その梓の腕は、肘を楓に掴まれている。

 耕一は役員の話を知らないのか聞こうとした梓は、楓に肘を掴まれ、ためらっている間に千鶴が初音に声を掛けたので口をつぐんでいた。
 梓は気付かなかったが、楓か千鶴は、初音に聞かせたくない話があるらしい。

「そう? それじゃ、耕一さんに今度話してみるわね」
 株の話は初音には良く理解出来なかった。だが、初音は耕一の役に立てるのが嬉しくて、はにかみながら勢い良くコクンと頷いた。
「うん、それだけ。ごめんね、初音。眠かったでしょ? 湯冷めしない内にお休みなさい」
「うん、お休みなさい」
 話の終わりを告げそっと千鶴が初音の頭を撫でると、初音はコクンと頷きソファから立ち上がる。
「楓お姉ちゃんは?」
「これ飲んでからね」
 楓が手にした缶ジュースを見せると、初音は梓におやすみを言いベットルームに向かった。

「耕一さん、断ったの?」
 ベットルームの扉が閉まるのと、楓が口を開いたのは同時だった。
「ええ。それで、耕一さんの説得を頼まれたの」
 短く答えた千鶴は、小さく息を吐いた。
 昼間、耕一が鶴来屋で足立に考えて置くと言っていたのが、役員の話なのが梓にもやっと分った。
「どうして? 耕一の奴、鶴来屋継ぐんじゃなかったの?」
 多少の混乱を覚えながら、気が付くと梓は聞いていた。
 耕一が鶴来屋を継げば、全て丸く収まると梓は考えていたし、耕一もそのつもりだと思い込んでいた。
「将来はね」
「なら、どうして断るんだ?」
「私と同じにならない為。かしらね?」
 勢い込んで聞く梓に、小首を傾げ千鶴は寂しそうに微笑んだ。
「えっ? 同じって?」
 返って来た考えもしなかった答えに、梓は千鶴を見つめた。
「私はね。重役や役員の方々に信用されていないのよ」
「なに言ってんだよ? 足立さんも、千鶴姉は良くやってるって。それに社員の人達にだって、人気があるって言ってたよ」
「梓、社員と役員では違うわ」
 背をソファにもたらし、千鶴は言葉を吐く息に乗せた。
「違うって?」
 疲れたもの憂げな千鶴の様子に、梓は勢いを無くし静かに聞き返した。
「鶴来屋ぐらいの規模だとね。普通は株を役員にも割り当てているわ。保有する株が、会社に置ける地位や発言力の保証でもあるのよ。でも鶴来屋で株を持った役員は、足立さんの他は数名なのよ。分るかしら?」
 株式や経済など高校で習ったぐらいの知識しかない梓は、首を横に振るしかなかった。
「簡単に言えばね。株を持っている役員や重役は、会社を大きくすると、持っている株に見合った配当や株券を売却すれば、大きくした分より利益が見込めるわ。会社への貢献が、将来自分自身の利益になって返ってくるのよ。そして、それは同時に会社の運営に携わる者には、責任と意欲にも繋がるわ。でも鶴来屋では、いくら頑張っても役員といえど将来の保証はないのよ。極端に言えば、私の一存で気に入らない役員を解雇する事も出来るわ。鶴来屋を支えている足立さんでさえ、雇われた社長に過ぎないの。裏を返せば、鶴来屋が得た利益は最終的には柏木。いいえ、株のほとんどを所有する、私だけに流れ込むわ」
「そんなの叔父さん時だって、同じだったんだろ?」
「ええ。叔父様は信用があったもの。頑張れば、ちゃんと報いて下さる、自分達を裏切ったりしないってね」
「でも、お爺さんの頃から……」
 なにか言わないといけない気がした梓の開いた口から出た言葉は、
「そう、お爺様の作られた会社よ。社会も、人の考えも変わったのよ」
 千鶴に遮られた。

 鶴来屋創業時は、それで良かった。
 まだ混迷した戦後の動乱期に鶴来屋を起こした柏木耕平は、隆山復興の立て役者であった。
 柏木の資産を受け継ぎ、独立心と機知に富んだ耕平は、優れた先見の明と信頼にたる人柄を持って多くの人々を引きつけ。また、地元を代表する旧家、柏木の名は絶大な信用にも繋がった。
 誰もが耕平に隆山の発展と将来の希望を掛け、耕平はその人々の期待に応え、隆山の名を温泉地として全国に広めた。
 耕平は、隆山復興の最大の功労者であると共に地元を代表する実業家として、現在では半ば伝説の存在である。
 その耕平だからこそ、実権を一人掌中に収めても、内部の不満をなんとか抑えられた。
 耕平と千鶴達の父亡き後、鶴来屋内外を襲い、千鶴達をも巻き込んだ暴風は、その反動でもあった。
 耕平と苦楽を共にし、鶴来屋を発展させた役員や重役の抑圧された不満が、耕平という歯止めを亡くし暴走した結果とも言える。
 彼らにしてみれば、耕平の死後、自分達に与えられるべき利益を柏木一族が独占したように思えても、仕方のない事だった。
 それでも、柏木賢児の会長兼社長への就任によって鶴来屋が平安を取り戻したのには、亡き耕平への鶴来屋内部の信頼の大きさと賢児の人柄に負う所が大きい。
 しかし、終身雇用の崩壊と個人主義の台頭により、現在では安定した生活が更なる安定を求め、信頼が目に見える保証へと変わりつつある。
 その中で、なんら保証を持たない役員や重役が千鶴に反感を持つのは、時代の流れかも知れなかった。
 そして………。

「なんの実績もない、大学出たてで仕事のいろはも知らない私が会長ですって利益を独占して、全ての権利を握って。今まで苦労して鶴来屋を大きくした役員の方や、社員の人達が納得出来るはずがないわ」
 話している間に興奮気味になったのに気づいた千鶴は、大きく息を吐くと額を片手で押えた。
「ごめんなさい。でも、それが現実なのよ。今だって私がしているのは、書類に目を通してハンコを押しているだけ。実際に鶴来屋グループを動かしているのは、足立さんなのよ」
 いったん言葉を切り、千鶴は緑茶の缶を取り上げこくこく飲み干した。
「私が足立さんを通さずに指示を出しても、誰も動いてはくれないでしょうね」
「…足立さんの人徳?」
 耕一と足立の会話を思い出した楓が、まさかという顔で呟いた。

 昼間社員に助けられていると言った足立に、耕一は足立の人徳だと返した。
 それに苦く笑った足立は、耕一に考えてくれと頼んでいたのだ。
 それがいましばらくは足立の人徳で鶴来屋を支えてくれと言う意味なら。裏を返せば、足立の人徳に頼るしかない千鶴の立場の危うさを、耕一が知っていた事にもなる。
 楓には、千鶴の立場の危うさを知りながら、耕一が役員就任を断った理由が分らなかった。

 楓の呟きに千鶴は小さく頷き、言葉を継いだ。
「足立さんが間に立ってくださるから、なんとかやって来られたけれど。私が頑張れば頑張るほど、役員の方やグループ各社の社長や重役には、目障りなのかも知れないわね」

 千鶴は知識や能力で、人に引けを取ってはいない。
 しかし企業を支え引っ張って行くには、一つだけ欠けているものがあった。
 足立が耕一の中に見いだし、耕一を鶴来屋に早急に向えようとする理由。
 そして耕一と千鶴が、梓に期待しているものが。

「そんなのないだろ。千鶴姉頑張ってきたじゃないさ」
 震える拳で両膝を押え、梓は低く唸った。

 どうしょうもなく悔しかった。
 梓も、もう子供ではない。
 頑張れば報われるとは思っていなかったが、頑張れば頑張るほど煙たがられる現実がある事が。
 その現実が他でもない直ぐ身近な所に在る事が。
 その現実に身を置いた姉が、弱々しく儚く見える事が。
 そして、なんの力にもなれない自分の無力さが、梓の胸を詰まらせ、悔しさが自分自身への情けなさへの怒りに変えていった。

「梓、いいのよ。卑下してるのでも自嘲してるのでもないのよ。組織が大きくなれば、何処かに軋轢が生じるものなの」
「でもさ。それなら、どうして耕一の奴……」
 それが分っていて断ったと言い掛け、梓は言葉を切った。

 意味もなく耕一が断る筈がない。
 耕一が千鶴の負担を減らす事を一番に考えてるのを、梓は誰よりも良く知っていた。

「耕一さん、なにか考えがあるのね?」
 楓は小首を傾げ尋ねた。

 耕一が役員の話を断ったのも意外だったが、千鶴が梓に弱気を見せたのが、楓にはもっと意外だった。
 梓に役員の話を聞かせる為に、千鶴が話をしたように楓には思えた。

「ええ。そうみたいね」
 微かに微笑み、千鶴は深く頷く。
「耕一さんと相談したら、ちゃんと話すから。だから、ね」
 念を押すように千鶴は妹達を見つめた。
 事後報告はするから、耕一を問い詰めたりするなと言う意味なのを察し、梓と楓は揃って頷いた。
「楓も、湯冷めしない内にお休みなさい」
「はい」
 楓は小さく頷くとソファから腰を上げ、ベッドルームに入って行く。
 その淀みない態度には、楓の千鶴と耕一に寄せる信頼を見るように、僅かな迷いすらもなかった。
「梓も、もうお休みなさい」
「うん。風呂入って寝るか」
 軽く言いながら、梓は両腕を伸ばし大きく伸び上がった。
 楓のなんの不安も感じさせない態度が、梓に自分への怒りを抑える冷静さを取り戻させていた。
 いまだ釈然としない気持ちのまま梓は立ち上がり、ゆっくり振り返った。
「千鶴姉は?」
「うん、梓の後でね」
 少し考え、梓はにやっと笑った。
「待たなくてもさ、耕一の部屋で風呂借りたら?」
「えっ?」
「ああ、あたしは先に寝るからさ。キー忘れたら入れないからね」
「あっ、梓。あなたね」
「耕一によろしく。寝坊するなって」
 慌てたような千鶴の声に後ろ手に手を振り、梓はバスルームの扉を閉めた。
 熱いシャワーで汗と胸のつかえを流し、程良く回ったアルコールと相俟って赤く染まった身体をバスローブに包んだ梓が戻ると、照度を落したカクテルライトの淡い光の中には、千鶴の姿はなかった。
 明日の朝になれば、普段以上に元気になってるだろうな。と、梓は姉の現金さに苦笑を洩らし、テーブルに出したままの缶ビールに手を伸ばした。
 ビールを手に取り、生温くなっているのに舌打ちした梓は、備え付けの冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出しソファに戻った。
 プルを開けビールを一口飲む。
 火照った身体に冷たい苦みが染み渡る。
 梓は千鶴から聞かされた話を反芻してみた。
 さっきの話だと、鶴来屋で千鶴の味方は足立位しかいないことになる。
 それなら耕一が役員になった方が、千鶴も心強いだろうし、耕一も鶴来屋内部の話しにも口出し出来る。
 梓には耕一が役員になるのを断る理由が、どう考えても理解出来なかった。
「千鶴姉と同じ。か?」
 ソファに身を預けカクテルライトの柔らかい光を見上げた梓は、口に出して呟いてみた。
(大学生の耕一が役員になると、反発喰らって耕一の立場が悪くなるってか?)
 そう考え、梓は軽く頭を振った。
 自分の立場を考えて耕一が断るとは思えない。耕一は自分の事より、千鶴の事ばかりを気遣っている。
「あの馬鹿、なに考えてんだ?」
 独りごちた梓はビールを喉に流し込み、考えるのを諦め眠ろうとベットのある部屋に向かった。

一章

三章

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