凍った時 道(タオ)の章
樹
一の章
新月の闇夜、星の瞬きを薄墨のように覆う雲の下、暗い川を光が轟音を響かせ流れて行く。
光の一つ――耕一の運転する車が高速道路の本線を外れ、サービスエリアに続く支線に向う。
まだ深夜には早い時間だけに、サービスエリアの駐車場には多くの車がひしめいている。
駐車出来る場所を求め、車はゆっくり奥へ奥へと進んで行く。
大型車両の駐車エリア近くに、やっと駐車スペースの空きを見つけ、耕一は静かに車を止め光を消した。
街頭もまばらな薄闇に停車した車から五つの影が降り立ち、不意に大型トラックの強いライトが、五つの影を眩い光芒の中に浮かび上がらせた。
運転していた耕一を囲み集まっていた従姉妹達が、強いライトの光に驚いた顔を向けた。
その傍らを彼女達を浮かび上がらせた大型トラックが、ゆっくりと過ぎ去った。
「きゃ!」
過ぎ去る直前鳴らされた野太いホーンの音に驚き、初音は小さく悲鳴を上げ両耳を押えた。
「初音ちゃん、大丈夫だったかい?」
「う、うん。耕一お兄ちゃん。大丈夫、驚いただけだから」
そっと肩に手を置いた耕一を見上げた初音は、こくんと頷くと、どきどきしている胸を両手で押えた。
「初音は、臆病だからな」
ふふっと笑った梓にからかわれ、初音は俯いて上目遣いに梓を見上げる。
しかし、からかう梓の優しい眼差しに気付いた初音の表情は、すぐにはにかんだ笑みに変わった。
「仕方ないわよ。車で出掛ける事って、今までになかったんですものね。初音も急に大きな音がして、驚いただけよね」
穏やかな千鶴の声と供に、優しく頭を撫でる手が初音を安心させてくれた。
初音がそっと振り返ると、後ろに立った耕一の傍らで、千鶴と楓も優しい眼差しを初音に向けていた。
初音を、いつも安心させてくれる姉達の優しい眼差し。
「えっ? ドライブとかした事ないの?」
驚いたように尋ねた耕一は、街頭が照らし出している歩道を従姉妹達に目で示した。
「うん。学校の遠足とか修学旅行で、バスなんかはあるけど。みんなでお出掛けする時も、電車かバスだったから」
歩道に向いながら耕一を見上げた初音は、初めての深夜ドライブに少し興奮気味に答えた。
初音も車で出掛けた事がないわけでなかった。しかし、それは楽しい思い出とは言えなかった。
両親や叔父の葬儀の行き帰り、暗く重い雰囲気に包まれた、哀しみの中で揺られていた記憶でしかない。
耕一の父――亡くなった叔父と初音達が暮らし始めた当初は、何度か叔父にドライブに誘われたが、初音はバスや電車を好んだ。
両親の事故死が、当時、まだ幼かった初音の心に交通事故への不安を植えつけ、微かな痕となって残っていた。
叔父や姉達も、それに気づいていたのだろう。
いつしか揃って外出する時は、バスや電車で出掛けるのが暗黙の了解になっていた。
しかし、今は耕一の運転で姉達と一緒に音楽を聴きながらお喋りを楽しみ、車の外を流れる影絵のような山や移り変わる景色を眺める間に、初音は浮き浮きした気持ちで初めての夜のドライブを楽しんでいた。
一段高くなった歩道にぴょんと飛び上がり、初音は周囲に光を放つレストハウスを目指し、先に立って歩き出した。
サービスエリアの端になる薄暗いこの辺りと違い、レストハウスの光芒の中には多くの人影が浮かび上がっている。
「へぇ。まあ、車がなくても困らないか」
「ええ、それに免許も持ってないですし。…そう言えば、夜の高速道路って、梓や楓も初めてじゃなかった?」
初音の後ろで耕一の隣に並んだ千鶴の声音にも、ドライブを楽しんでいる明るさがあった。
「あたしゃ、クラブの合宿で経験あるけど」
「初めて」
大して自慢にもならない事を威張って言う梓の隣で、楓は物珍しそうにひっきりなしに出入りする車と、雑多な人々の集まりをキョロキョロと見回していた。
「千鶴姉だって、そんなにないだろ?」
「そうね。近くだと車を使うけれど、遠くだと電車の方が時間には正確ですものね」
少し小首を傾げた千鶴は、梓に小さく頷いた。
「じゃあ、みんな慣れてないから疲れただろ? レストランの方にしようか?」
ジュースとお菓子を仕入れるだけの軽い休息のつもりだったが、少し休んで行こうと耕一は提案した。
「そうですね。ずっと運転して来たんですもの、耕一さんも、お疲れでしょうし。少し休んで行きましょう」
首を傾げて頬を掻く耕一に頷き返し、千鶴は気遣わしそうに言う。
千鶴にしてみれば、座っていればいい自分達より、運転している耕一の方が疲れていないか気になっていた。
「そうだよな、座りっぱなしだと腰が痛くなるからな。歳食うと、特に」
「梓、なにが言いたいの?」
微笑みながら梓に向けた千鶴の瞳が、一瞬、危険な光を宿した。
「いいや、別にぃ〜」
とととっと数歩進んだ梓が、クルッと振り返る。
「誰も千鶴姉の事だ。なんて言ってないだろ?」
「梓!」
ククっと笑い逃げ出した梓の背中に、千鶴の声が響いた。
「もう。梓ったら憎まれ口ばっかり」
むくれてそう言いながらも、千鶴は楽しそうにクスッと笑いを洩らした。
夕食には遅い時間のレストラン内は、エリア内の人混みとは無縁に空席が目立った。
多くの人は、売店や自動販売機を供えた無料休憩所を使い、食事時を外れたレストランの利用者は、あまりいない。
窓際の席に陣取ると、無愛想なウェイターが事務的に注文を取り、各々が頼んだジュースと珈琲をなぐり書きした伝票をテーブルにおざなりに置くと背中を向ける。
ムッとした顔でウェイターの後ろ姿を睨んだ梓は初音に宥められ、ぶつぶつと文句を並べ始めた。
ひとしきりウェイターの態度に文句を付け、少しはスッとしたのか、梓は正面に座った耕一に感心したような目を向けた。
「だけどさ、耕一が免許持ってたとは驚きだね。結構、運転上手いしさ」
「免許があると、色々役に立つんでな」
「でも、耕一お兄ちゃん。車は持ってないんでしょ?」
耕一の隣で窓の外を眺めていた初音が振り返ると、クリっとした瞳で心配そうに耕一を見つめる。
両親と叔父を交通事故で亡くしたと思っている初音は、耕一まで事故に遭わないか不安だった。
「うん、バイトでね。御中元とか御歳暮の宅配。それにピザの配達とかね。だからバイクだって上手いもんだよ」
なにを心配しているのかは分らなかったが、耕一は初音を安心させようと明るく答えた。
「鶴来屋でも、免許の有無はアルバイトに有利ですものね」
少し考えるように千鶴が言うと、初音はそうなの?、というように耕一を見る。
耕一は、静かに頷いた。
「あたしも免許取ろうかな」
何事か考えていた梓の呟きで、耕一は少し顔を引きつらせた。
従姉妹達を乗せている耕一は、隆山からずっと安全運転を心がけてきた。
飛ばしている車に抜かれるたび、助手席でぶちぶち言っていた梓の負けず嫌いな性格を考えると……かなり、恐い。
「私も免許取ろうかしら。そうすれば、みんなでドライブにも行けるしね」
初音を挟んで耕一の隣に座った千鶴の恐るべき発言に、今度は耕一だけでなく梓や初音。梓の隣でぼぉ〜っと外を眺めていた楓までが顔色を変えた。
「千鶴姉さん。忙しいんだから、無理しないで」
普段から冷静で口数が少ない分、一早くショックから立ち直った楓が心配そうに言う。
「そうだよ、千鶴お姉ちゃん。お仕事で疲れてるんだから、時間があるんならゆっくり休んだ方が良いよ」
「免許取ったら、あたしが何処だってみんなを乗せて行くって。千鶴姉は無理しないで、ゆっくりしてくれよ」
(ドライブに付き合わされる、あたし達の身にもなってくれ!)
「あなたたち……」
口々に自分を気遣う妹達の必死とも取れる真剣な瞳に、梓の心の叫びも知らず、千鶴は感動に身を震わせ胸の前で両手を握り締めた。
「千鶴さん、俺が免許持ってるからいいだろ? その、千鶴さんには、俺の隣でゆっくり座ってて欲しいっていうかさ」
最後の決め手。耕一のだめ押しで、千鶴はうるうると瞳を潤ませた。
「分りました。耕一さんがそう仰って下さるのなら、必要ないですものね」
千鶴は伏目がちにそう言うと、恥ずかしそうに頬を染め、にっこり微笑み小首を傾げた。
千鶴は誤解している。
みんなが気遣っているのは千鶴の健康ではなく、普段のドジと天然惚けがどこまで演技なのか、耕一でさえ読み切れない不安感にある。
もし半分でも本物なら、千鶴の運転する車は行く先々で阿鼻叫喚を巻き起こす。
免許を取れればだが。
梓と楓、耕一も、多くの尊い命を救い自分達も救われた深い安堵に胸を撫で下ろし。初音だけが、千鶴を両親達のように事故で亡くさないか、不安で締めつけられた胸を撫で下ろした。
「なあ、耕一」
「うん?」
長時間の運転より緊張した一瞬を無難に切り抜け、運ばれて来た珈琲で喉を潤した耕一は、梓に呼ばれ視線を上げた。
「聞き忘れてたけどさ、用事ってどれ位かかるんだ?」
ジュースのグラスを両手で持ち、窓から絶え間ない人と車の流れを珍しそうに眺めていた初音も、興味を引かれ耕一を振り返った。
「悪いな。俺にも分らん」
初音と同じように外を眺めていた楓と、妹達の様子を楽しそうに見ていた千鶴も、少し寂しそうな顔を耕一に向ける。
「三日ってだけで、詳しくは聞いてないんでな。その間は、相手次第ってとこだな」
「相手って、あの車の持ち主だろ?」
「ああ。車運んで、後は旅行の付き添いみたいなもんだ。付き合えなくて悪いけど。みんなは観光でもして、楽しんでてもらえるかな」
「気になさらないで下さい。無理を言って着いて来たのは、私達なんですから」
申し訳なさそうな耕一に、千鶴は小さく首を横に振る。
「まっ、交通費は浮いたしな。一人でも五人でも、同じ料金だからいいじゃん」
所帯じみた梓の台詞に、四人は小さく苦笑を洩らした。
「耕一だって、一人じゃ退屈だろ?」
「そうだな、梓のお蔭だな」
珈琲を口に運ぶ耕一の口元が綻ぶ。
今日は、梓の高校の卒業式だった。
気にすると思い従姉妹達には話していないが、耕一は車の陸送を自分から引き受けていた。
付き添いを頼んだ相手の事情で日程がずれ込んだのを利用し、梓の卒業式に出席して、ホワイトディのプレゼントを従姉妹達に渡す為だった。
卒業式に出しプレゼントを渡した耕一は、そのまま旅行先に向い。翌日、相手と合流することになっていた。
しかし、従姉妹達にせめて夕食ぐらいは一緒にと言われ、耕一は到着が深夜になるのを覚悟で予定を変え、鶴来屋自慢の夕食を楽しんだ。
その夕食の席で、問われるまま車の陸送のバイトの途中だと話すと、梓は急遽卒業旅行と称し、半ば無理やり耕一に便乗した。
楓と初音も口では梓を止めたものの、春休みに入った学生の気楽さ。仕事のある千鶴に気を使いつつも、期待のこもった瞳を耕一に向けた。
最初は仲間外れにされ、むくれていた千鶴までが、妹達だけでは心配だから仕事を休むと言い出すに至って、耕一が期待を裏切れる筈もなかった。
結局。取り合えず家を後にし、耕一の用事が済んだ後、どこかでゆっくり過ごし一緒に帰ると言う、梓の行き当たりばったりな旅行計画に耕一も乗った。
耕一にしても、一人で車を走らす数時間と従姉妹達とドライブを楽しむのでは、天国と地獄ほどの差があった。
「それにさ。三日だけで、後は付き合えるんだろ?」
「もちろん」
耕一がしっかり頷くと、姉妹は一様に笑顔を綻ばせる。
耕一が一緒なら、姉妹には行き先などは関係ないらしい。
「でも、耕一さん。関西にご旅行だと、やはり古文書か、お寺関係ですか?」
千鶴は、考えるようにそっと呟いた。
千鶴は耕一から目的地と宿泊先しか聞かされていなかった。
付き添いと聞き、古書か寺社の案内。つまりガイドのようなものか。と、少し訝しんでいた。
ガイドが勤まるほど耕一が関西に詳しいとは、千鶴は聞いた事がなかった。
「そうじゃないんだけど」
なにげなくカップに視線を落して、耕一は千鶴から目を逸らす。
「じゃあ、御友達でも?」
にっこり微笑み可愛らしく小首を傾げた千鶴から、三人の妹達は押し黙ったまま視線を逸らした。
この微笑みがくせ者なのを嫌と言うほど身に刻み込まれている梓などは、あからさまに顔を背け、一心にジュースを飲んでいる。
中身はとっくに空だが。
「まあ、、その……」
「随分高級な車ですもの。大学の御友達にしては、ね」
曖昧に言葉を濁す耕一に、千鶴の瞳が細くなる。
危険な兆候に楓と初音は窓にへばり付き、とばっちりを恐れて落ち着かない視線を外に向け、梓は少しでも千鶴から離れようと背もたれに身体を押し付けた。
耕一が陸送していた車は外見は普通の黒のセダンだが、千鶴が通勤に使う車より、装備を始め、乗り心地、静寂性ともに優れていた。
車に詳しくない千鶴にも、スペシャルオーダーの特別車なのが分るほどだ。並の学生。いや、社会人にも手が出るものではなかった。
その上、仕事を休んでまで千鶴が旅行に参加した主な原因だが。なぜか耕一は、待ち合わせの相手や目的になると曖昧に言葉を濁して目まで逸らす。
千鶴でなくとも、なにか危ない事をしているんじゃないか、後ろ暗い事があるから話せないのか?、と、疑惑は徐々に膨らんで行く。
「大学のじゃ、ないん…だ…」
チラッと千鶴に視線を走らせ、耕一は小さく息を飲んだ。
浮べた微笑みはそのまま、千鶴の目元と膝で握った拳が微かに震えていた。
「…まさか、私達には話せない相手なんですか?」
静かな青白い炎を身にまとった千鶴に最後通告を突き付けられ、耕一は覚悟を決めカップをテーブルに戻した。
このままなにも言わないと、良くて運転中射殺すような視線に貫かれ続ける。
「そうじゃないよ。ちょと変わった子だから、実際に会ってからの方が良いと思っただけだよ」
ピクピク引きつる頬に笑みを浮かべた耕一は、僅かに乾いた声で答え、膝に置かれた千鶴の拳を柔らかく右手で包み込んだ。
「変わった子。ですか?」
拳を包んだ手に視線を落とした千鶴は、手を両手でそっと握り返し、甘えを含んだ声音で拗ねた上目遣いで耕一を見上げる。
「うん。とにかく人に懐かない子でね。他に友達もいないからって、旅行中の付き添いを頼まれてさ」
潮が引くように消えた炎の揺らめきに気を強くして、耕一は千鶴に顔を寄せ囁くように呟く。
「早くに母親を亡くしているせいか、俺には懐いてくれててね」
母親を亡くしていると聞き、千鶴の面に肉親を亡くした心の痛みを知る者の、寂しげないたわりが浮かんだ。
「そうだったんですか」
危機が去ったのを感じ、大きく息を吐いた梓達を気にせず、いたわしそうに千鶴は呟いた。
「ねえ、耕一お兄ちゃん。その子って、いくつなの? 私、お友達になれるかな?」
話を聞いていた初音は、うるうる瞳を潤ませ耕一に尋ねた。
しかし、初音の問いに一瞬凍り付いた耕一は、初音を振り返るとぎこちなく笑う。
「と、歳?」
「うん。女の子なの、それとも男の子?」
真摯な瞳でこくんと頷かれ、耕一の額に一筋の汗が滴った。
「初音ちゃん、会ってからのお楽しみって事でさ」
「なんだよ、耕一。もったいぶるなよ。旅行の付き添い頼む位だから、家庭教師でもしてたんだろ? 耕一に教えられんだから、せいぜい小学生だろうけどさ」
眉を潜めた梓の表情も、唇を指で押さえ耕一の返事を待つ楓の瞳にも、同情の色が強かった。
「……じゅう…なな」
死刑執行を言い渡された罪人のような悲惨な顔色になった耕一から、掠れた呟きが洩れた。
「十七? おい耕一、それって男…だよな?」
千鶴の様子を伺いながら、梓は半ば耕一の様子から分りきった答えを、それでも一縷の望みを掛け尋ねた。
「…女の子……!?」
突然右手を襲った痛みに言葉は途絶え、耕一は痛みを歯を食いしばって耐えた。
その右手は、にこやかな笑みを凍り付かせた千鶴に握り締められていた。
街頭の光もまばらな人混みから外れた薄暗いベンチに、耕一は腰を下ろしいていた。
近くの水場から小走りに駆け寄った初音は、耕一の前で立ち止まると、耕一の顔と右手を心配そうに窺う。
「ごめんね、耕一お兄ちゃん」
耕一の右手に水に浸したハンカチをそっと掛けた初音は、申し訳なさそうに顔を臥せてしまう。
耕一の右手には、白魚の様な千鶴の指が秘めた凶悪な力の名残が、夜目にもくっきり残されている。
「初音ちゃんが謝らなくていいんだよ」
「でも。私が余計なこと聞いたから」
「もう痛くないし、気にしなくていいからね」
しょんぼり謝る初音を隣に座らせ、耕一はピンと立った癖毛を押えるように頭を撫でた。
初音の無垢な優しさと素直さが、耕一や姉達に、初音を子供扱いさせてしまう。
両親を亡くしてから、姉達の迷惑にならないよう精一杯良い妹を演じ、またそれが初音の本質ともあっていた。
一歩引いて周りを気遣う初音の優しさに、千鶴や梓、楓も大いに元気付けられていた。
周りを気遣い我慢する事を覚えた初音を、耕一は可哀想だと思うし、このまま変わらずいて欲しいとも思う。
しかし、初音の頭を撫でながら、耕一は不安でもあった。
初音の中に眠るリネットが、もし目を覚ましたら。そう考えると、初音に自分自身を主張出来る強さを持ってもらいたい、とも考えていた。
リネットの持つ記憶も、悲劇と哀しみに彩られている。
その記憶の中で、初音が翻弄されないか、初音の小さな胸が、過去に押し潰されたりしないだろうか?
耕一は不安を抱き続けていた。
「全部自分のせいだ。なんて、思っちゃだめだよ」
「えっ? …耕一お兄ちゃん?」
つい不安から洩らした耕一を、初音は戸惑いがちにそっと見上げた。
「さっきだって、俺が最初からちゃんと話せば良かったんだしね」
「でもね。耕一お兄ちゃんにも、なにか理由があるんでしょ?」
上目遣いに顔を覗き込む初音に、耕一は苦笑を浮かべた。
「どうして、そう思うの?」
「だって。あたし達に話していいなら、耕一お兄ちゃん、隠したりしないよね?」
澄みきった瞳に見上げられ、耕一は静かに微笑んだ。
(信用されてんだな)
「実は、千鶴さんに隠れて、デートするつもりだったんだ」
悪戯っぽく耕一は言う。
「え? えぇっ! …嘘…だよね?」
焦って両の拳を胸の前で揃えた初音は、クリっとした瞳で心配そうに耕一をジッと見つめる。
「うん、嘘」
耕一はあっさり認めた。
キョトンとした顔になった初音は、からかわれたのに気づいて、ぷっと頬を膨らました。
「もう、耕一お兄ちゃんたら」
上目遣いに耕一を睨んで見せた初音は、クスクス笑いながら、こくんと首を傾げる。
「きっとね。先に話しても、会わないと分らないと思うんだ」
耕一の声に混ざった僅かな憂いに、初音は耕一を見上げた。
ジッと見る初音の髪を撫で、耕一は言葉を継いだ。
「だからさ。初音ちゃんが会って、好きになれたら友達になってくれる?」
「良く分らないけど。お兄ちゃんのお友達だもん。私も、良いお友達になれるよ」
不思議そうに頷く初音に頷き返し、耕一は空を見上げた。
いつの間にか先程まで空を覆っていた雲も晴れ、まだ春には早い冷たい大気を通し、空には煌めく星が月のない黒い絨毯に光を散らしていた。
「綺麗だな。山間だと、星が綺麗だよね」
「うん。…でもね、耕一お兄ちゃん」
「うん?」
「家の裏山で見上げるとね。お星様、もっと綺麗なんだよ」
耕一から目を星空に向け、初音は少し自慢そうに言う。
少し哀しそうな顔を耕一がしたのに、初音は気が付かなかった。
「そうだね。月が大きかったな」
蒼い月を思い出し、耕一の胸が疼いていた。
なにも知らず平凡だと思い込み、無為に過ごしていた日常がどれほど重要か。
自分の無知が生み出した幻想でしかなかったか、思い知らされた蒼月の夜。
蒼く大きな月を見るつど浮かぶ、記憶から消える事はないだろう、濡れた赤い瞳。
「うん。でも、今日みたいな月のない夜にね。お星様を見上げてると、吸い込まれるみたいに身体が軽くなって。気が付くと、お星様の中に浮かんでるの」
耕一は夢見る様に星空を見上げて呟く初音の横顔を眺め、へぇ、気持ち良さそうだね。と呟いた。
「うん。そうしてると、ふわふふわしてとっても気持ちが良くて、懐かしい気持ちになるの。昔から仲の良いお友達に呼ばれてるみたいな、懐かしくて優しい声が聞こえてくるの。なんて言ってるのか分らないんだけど、私を呼んでる気がするの」
ゆっくり微笑みを浮べた初音の横顔を見ながら、耕一は顔が強ばるのを感じた。
「…初音ちゃん。その声って、今でも聞こえる?」
「ううん、この頃は聞こえなくなったんだけど。千鶴お姉ちゃんはね。お母さんのお腹の中にいた時、聞こえた声じゃないかって」
ほっと息を吐いた耕一は、過敏すぎる自分の反応に苦く笑い、身体を起こしベンチに座り直した。
「お父さんか、お母さんの声だったのかな?」
寂しそうに目を臥せる初音の肩を抱き寄せ、耕一は優しく力を込めた。
「…お兄ちゃん?」
抱き寄せられた初音は、耕一を小さな恥ずかしそうな声で呼んだ。
初音を抱いた腕から、耕一はそっと力を抜き上目遣いに見上げる瞳を見返した。
「お父さんにはなれないけど。初音ちゃんには、俺や千鶴さん。梓や楓ちゃんもいるんだからね。一人で考え込んじゃ、だめだよ」
初音は少し首を傾げた。
(考え込んだり、してないけど)
そう思いながらも初音は、耕一が自分の事を心配してくれているのが嬉しくて、はにかみながらコックリ頷く。「うん…耕一お兄ちゃん」
耕一は初音に微笑み返し首を傾げると、視線を初音から少しずらした。
「言ってる側から、元気なのが来たな」
初音が耕一の視線を追うと、レストハウスの光芒の中に、両腕にビニール袋を下げた梓のシルエットが浮かび上がっていた。
少し遅れて楓が後ろを振り返りながら、そして千鶴はかなり遅れ、一番後ろから俯き加減でとぼとぼと歩いて来る。
「耕一、ビールなかったよ」
「ああ。降りてからで良い」
そっと振り返ると、梓は耕一に顔を寄せた。
「かなり落ち込んでるぞ」
「お前な。お前が、調子に乗って叱ったからだろうが」
握った手の中に俺の手があっただけなのに。と耕一が梓を睨みながら呟くと、梓は呆れたような溜息を吐く。
「たっくう、良い薬だよ。耕一はさ、千鶴姉に甘過ぎるんだよ。加減ってもんを知らないんだからな。耕一でなきゃ、骨が砕けてるだろうが」
両手を腰に当てて眉を潜めた梓は、ふっと息を吐き出す。
「でもな、わざとじゃないし」
「まあね。嫉妬焼くと見境がなくなるんだから、困った姉貴だよ。とにかくさ、調子狂うから早いトコなんとかしてくれよな」
口は悪いが、梓も千鶴を心配していた。
梓も誤解していたが、千鶴に手を握り潰されそうになった耕一から、相手の女の子には、もう一人付き添いが着いて来ると聞き一応の平安は取り戻した。
だが千鶴は、耕一の手に残った指の痕を見た妹達の非難の視線に押され、調子に乗った梓の嫌味を得々と聞かされ小さくなっていた。
その間に、初音に手を冷やした方がいいと耕一を連れ出されてしまい、千鶴は気が付くと耕一に謝る切っ掛けまでを失っていた。
仕方なく梓達に付き合い、車中での飲み物やお菓子を選んでいた千鶴だが。しょんぼり後ろを着いて来られる梓達の方が、いつもと勝手が違ってやりにくい。
ありていに言って、梓としては千鶴が落ち込んでいると、からかっても曖昧な返事しか返って来なくて張り合いがない。
「耕一さん、痛みませんか?」
梓より遅れて来た楓は、心配そうに耕一の右手と顔を交互に窺う。
「楓ちゃん、心配しないで。ほらこの通り」
そう言って耕一が手を握ったり開いたりして見せると、楓は小さく安堵の息を吐いた。
「ね、耕一お兄ちゃん」
「初音ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。悪いけど、車で少し待っててくれるかな」
心配そうに顔を覗く初音に、耕一がスラックスのポケットからキーを取り出し差し出すと、横から梓がキーを掴み、初音と楓を促し先に立って歩き出した。
振り返り振り返り梓の後を追う初音に軽く手を振り、耕一は千鶴を待った。
一人ベンチに残った耕一の前まで来ると、俯いたまま上目遣いに耕一を窺い、千鶴は足を止めた。
耕一は素知らぬ顔で、今まで初音の座っていた場所を手で示す。
唇を指で押えしばし躊躇ってから、千鶴はちょこんと腰を下ろした。
「あ、あの耕一さん」
不意に俯いたまま横目で上目遣いにチラチラと耕一の顔を覗いていた千鶴が、意を決したように口を開いた
「うん」
にやけそうな顔を平静に保ち、耕一は静かに頷いた。
「…ごめんなさい」
おずおずと臥し目がちに下から見上げる千鶴の白いかんばせには、気弱な少女の表情が浮かび、それが耕一の愛しさを募らせる。
「うん」
クスッと笑いを洩らし、耕一は胸に沸き上がる愛しさのまま、千鶴の肩に右腕を回し柔らかく艶やかな髪に頬を寄せた。
「痛みませんか?」
「平気」
ホッと肩の力を抜き、千鶴は恥ずかしそうな微笑を浮べる。
肩に回された手を取り優しく撫でる手を耕一は握り返し、上目遣いに見上げる瞳を見つめ返す。
精巧で、なおかつ壊れ易い繊細な芸術品のような頤(おとがい)に指を添え、耕一がそっと顔を上げさせると、千鶴は静かに瞼を臥せた。
二人の影が重なるのを遠目に見ていた梓達三人は、顔を真っ赤に染めクルリと回れ右すると車へと歩き出した。
三人の前で、耕一と千鶴があからさまに恋人の親密さを見せる事はない。
例外は、千鶴が落ち込んだ時ぐらいだ。
千鶴が落ち込む原因は、主に耕一だが。
耕一本人に自覚はないが、特に美男子というわけでもないのに、なぜか耕一は女性にもてる。
その上、自分も妹達も好きな耕一を、好きにならない女性はいないと思い込んでいる千鶴の嫉妬は、生半可ではない。
嫉妬を焼いては耕一に詰め寄り、冷静になってから落ち込むを繰り返している。
そういった時の耕一は、周囲の目をまったく気にしない。
今も人混みから外れ薄暗いとは言え、人気の多いパーキングエリアで、二人の重なった影を横目で見て行く人の目を、まったく気にしていない。
思春期真っ盛り、耕一に恋心を抱いていた梓と楓に取っては、苦労という言葉で表しきれぬ苦しみを背負って来た姉の幸せそうな姿を見るのは嬉しい。だが、同時に寂びしさも募る。
もちろん耕一も心得たもので、従姉妹達の前でべたべたするような真似はしない。
それでも、一気に千鶴の御機嫌が幸せ一杯春爛漫状態に変われば、何があったかは想像が付く。
肌寒い夜風に火照った顔を冷やされる心地好さに目を細めた梓は、カチャカチャいじっていた手の中のキーに目を向け、初音が着いて来ていないのに気づいた。
梓は来た道を振り返り、初音がなにか考え事をしながら、ふらふら歩いているのに首を捻った。
「初音、どうかしたのか? ちゃんと前見てないと危ないぞ」
楓ならいつもの事だが、初音がぼんやり考え事をしながら歩いているのは珍しい。
そう思った梓が隣を歩いていた楓を見ると、楓も足を止め初音を見て首を傾げていた。
「うん」
梓に頷きながらも、初音は俯いて考え続けていた。
(なんだったんだろう?)
初音は耕一と千鶴の重なったシルエットが、レストハウスの光芒の中に浮かび上がった瞬間、二人の後ろに草原に浮かぶ白く大きな月を見た気がして、小さな胸を押さえながら首を傾げていた。
不思議と胸を締めつける、懐かしく切ない痛みを抱いて。