八の章 千鶴二


 最後の書類から目を上げ、ふっと息を吐き首を捻ると嫌な音が耳の奥に響いた。

 ううっ、肩凝りなんて嫌いよ。
 おばさんみたいじゃない。

 肩を叩きながら背筋を伸ばし、長時間のデスクワークで強ばった首筋の緊張を解く。
「…梓に見られたら、思いっきり歳より扱いされるわね」
 ふぅ〜と息を吐き出すと両腕を精一杯伸ばし、くるりと椅子を回す。
「あの子ったら、いつもかけ声を掛けて腰を上げるクセに。おばさん臭いのはどっちよ」
 広く開けたガラス越しに、海と陸の交わりが美しい曲線を描いているのが目に優しく映る。

 もうすぐ海辺は、等間隔で植えられた淡い桜の色に染まる。
 昼間は海の蒼と桜の対比が、波の白さの中で美しく溶け合い。
 幻想的な桃源郷が現れる。
 夜の闇に浮かぶライトアップされた桜も、また儚い夢を見せてくれる。
 鶴来屋が誇る夢幻の時を、一番美しく眺められるのが、この最上階の会長室。

 会長の特権ね。

 会長になって良かったと思える数少ない特権を楽しみに思い、私は少し首を傾げた。

 でも、どうして?

 いつもは心が和むのに、何か物足りない。
 でも、落ち込んでいるのとも違う。
 何かじれったいような。
 何かが欠けているような、妙な喪失感。
 でもその一方で、高揚している妙に落ち着かない気持ち。
 久しぶりの妹達との外食で、浮かれているのかしら?

 かちゃっと急に扉の開く音が響き、少しどきっとして首を巡らせた。

 ノックもしないなんて、誰?

「あなたは。いくら言ってもノックもしないで」
 眉を潜め振り向いた先で、扉から梓が首を突き出し小さく手を振っていた。
「まあ、いいじゃんか。仕事終わった?」
「ええ。少し早いけど、終わったわ」
「ごめんね、千鶴お姉ちゃん。止めたんだけど」
 他に誰もいないのを確かめ扉を開けて入って来た梓の後ろで、初音が申し訳なさそうに小さくなっていた。
「初音が謝らなくて良いのよ。梓はいくら言っても、ちゃんと出来ないんだから」
 初音に微笑み掛け、梓を軽く睨み付ける。
「あら? 梓、初音も制服のままなの?」
「うん。着替え持って来たから」
「記念写真撮ろうってさ。あたしだけ制服ってヤダしね」

 梓も制服は、今日が最後ね。
 制服が懐かしく感じるのって、なんだか悲しいわ。

「あたしは、どっちだっていいんだけどね」
 情緒も何もなく頭を掻く梓を見ていると、私は感傷的になっている自分が情けなくなってきた。
「梓、もう大学生なんだから。ちゃんとした礼儀を覚えないとだめよ」
「はっ、そんなの自然に覚えるって」
「そうね。毎日教えれば、自然に覚えるかしらね」
 元気一杯。
 強がった様子も無く、少しも寂しがっていない梓の態度に安心して、ちょと意地悪。
「毎日だ? ちょと待てよ!」
 慌てる梓に、にっこり微笑み掛ける。
「あずさちゃんは、身体で覚えないとダメみたいよね。大学生になったら、毎日、ゆっくり、念入りに。教えて、あ、げ、る」
 くるりと椅子を回し首を傾げ、ふふっと笑いを浮べる。
「か、身体だっ? あたしは動物か!!」
 梓は引きつらせた顔を、真っ赤に染める。
「あら? 自覚してるのね?」
「何だと!! うっ!」
 目を細め視線に力を込めると、梓の顔が赤から青に色を変える。 

 相変わらず、からかいがいのある子。

「千鶴姉さん」
 少し躊躇いがちの声に顔を向ける。
「あっ、楓も制服なの?」
 扉を後ろ手に閉めた制服姿の楓が、初音の両肩に手を置き苦笑を洩らしていた。
「初音が怯えてる」

 楓ったら、随分きついじゃない。

「でもね楓。社会に出てから困るのは、梓なのよ」
 拗ねた上目遣いに見上げると、初音は考える様に頬に指を置き首を傾げ、梓は助けを求め楓を振り返り。
 楓はふっと息を吐いた。
「千鶴姉さん、楽しそう」
 ひくっと唇が震えるのを感じて、私は頭を抱えたくなった。
 
 楓、最近私にひどく厳しいのね。
 姉さん、とっても悲しい。

「楽しいだ!? あっ! 千鶴姉、あたしを欲求不満の解消に使ったな!」
 いきなり元気を取り戻した梓が、ぎろりと睨み付ける。

 いいじゃない。
 梓なんか、いつだってストレス貯めてないんだから。
 私だって、ちょとぐらい楽しんだって。

「だれが、欲求不満よ!?」
 でも欲求不満って言う言い方には、私もかちんと来た。
「決まってんだろ! 歳喰うと若さ溢れる十代に嫉妬焼いて、当たる様になるんだからさ」
 厭し目を送りながら胸を突き出す梓のふてぶてしさに、私は本当に切れそうになった。
「なぁんですって」
「ああ、ヤダヤダ。礼儀を教えるだってさ。八つ当たりに、恩着せがましく理屈付けて。だから偽善者ってんだよ」
 どこかでぷつっと何かが切れる音が、私の頭に響いた。
「あ・ず・さ。いいわ、ここは防音も完璧。救急室もあるしね」
「ひっ! ち、千鶴姉。おっ、落ち着け!」
 ゆらりと薄く微笑みながら立ち上がった私を見詰め、梓は壁際まで後退った。
「逆鱗に触れた」
 冷静な判断を下す楓に一瞥をくれ、私は梓に笑いかけた。
 私の魅力的な笑みに、梓はいやいやと首を弱々しく横に振り、壁に張り付きずり下がる。
「千鶴お姉ちゃん。今日は梓お姉ちゃんの、卒業のお祝なんだよ。止めようよ」
「いい子だから、初音は部屋から出ていなさい。目上への礼儀が。私からの、お祝い」
 
 そうよ。
 これは、柏木家の家長の勤め。
 今まで、甘やかしすぎたのよ。

「早まるな。冷静になれよ」
「楓お姉ちゃん。千鶴お姉ちゃん、止めてよ」
「初音、行こ」
 顔を見上げて懇願する初音を、肩に置いた両手で回れ右させ。
 開けた扉に押し戻すと、楓は素っ気なく言った。
「えっ? でも楓お姉ちゃん。梓お姉ちゃんが」
「かっ、楓。まさか、あたしを見捨てる気か?」
「梓姉さん」
 今にも泣き出しそうな梓に呼ばれ、楓は首を巡らしジッと梓を見詰めた。
「なっ、頼むよ。何とか言ってくれよ」
「死なないでね」
 ほっとした顔で頼む梓に、楓は哀しそうにポツリと呟いた。
「かえでぇ! 冗談になってないぞっ!」
「でも、お握りの件もあるし」
 叫ぶ梓と対照的に、楓は唇を指でそっと押え、冷たく意味不明の言葉を呟いた。
「そんなぁ。楓お姉ちゃん、もう良いじゃない」
 おろおろする初音の背中を押し、扉の外に誘(いざな)う楓。
「うふふ、楓いい子ね。さっ、梓。覚悟を決めなさい」

 楓も、梓の教育の必要性を認めてるのよ。
 
「初音、事情を説明しよ」
「でも楓お姉ちゃんまで、酷いよ」
「少し位なら時間もあるだろうし。一緒にパフェでも食べてよ」
「だって、せっかくお兄ちゃん……」
「えっ?」
 ぱたんと閉まった扉から一瞬聞こえた初音の言葉に、私は扉を見詰め梓に振り返った。
「ちょと、梓!」
「はっ、はい!」
「お兄ちゃんって、耕一さん!?」
「こ、ここ」
「ここって何よ!」
 ペタンと床に座り込んだ梓を両拳を握り睨むと、梓はぐびりと息を呑み込む。
「耕一がさ。記念写真撮ろうって」
「どうして早く言わないの!?」
「だ、だってさ、時間ないからすぐ帰るって言うし。千鶴姉、驚かそうと思って」

 梓に構ってる場合じゃない。
 耕一さんが帰っちゃったら、どうするのよ。

「それで、耕一さんは?」
「ロビー……」
 居場所だけ判れば充分。
 私は会長室を飛び出した。

「ねっ、初音」
 エレベータの前で待っていた楓が、隣の初音にこくんと首を傾げる。
「うん」
「初音、どうかしたの?」
 クスクス笑う初音に尋ねると、初音はちょと困った顔をした。
「うん、あのね。千鶴お姉ちゃんは、すぐ来るから、心配しなくても大丈夫だって」

 楓ったら、行動を読んでたわね

「二人とも酷いわ。あなた達まで耕一さんが来てるのに隠すなんて。姉さん、そんな子に育てた覚えはないわよ」
 二人を上目遣いに睨んで、拗ねて見せる。
「ごめんね、千鶴お姉ちゃん」
 クスクス笑いながら謝る初音の隣で、楓も小さく笑う。
「楓、よくも見捨てたな」
 背中から恨みがましい梓の声が、低く聞こえてきた。
「梓、続きがやりたいなら。明日にでも、ゆっくり教えてあげるわよ」
「私も」
 チラッと視線を走らせると一歩退いた梓に、驚いた事に楓が低く呟く。
「くそっ。楓、なんの恨みが在るんだよ」
「お握り」
「えっ?」
 小さな楓の呟きに、首を捻る私と梓。
「恥ずかしかった」
「だってさ」
「梓お姉ちゃん。耕一お兄ちゃんも一緒だったから」
 初音に肘を引っ張られ、梓は小さな溜息を吐き頭を掻き始めた。
「判ったよ。あたしが悪かったよ」
 梓が不承不承謝ると、楓はこくんと頷いた。
 
 お握り?
 何か良く判らないけど。

 首を捻りながら開いたエレベータに初音と乗り込み。
 素知らぬ顔の楓と、膨れっ面の梓が乗るとエレベーターは一階に向かった。
「初音、後で何があったか聞かせてね」
「うん」
 初音に耳打ちすると、可笑しそうに微笑み初音はコクンと頷く。
「あら? 付けてきたのね。初音、とっても良く似合うわ。可愛いわよ」
 頷いた初音の耳を飾ったイヤリングの薄いピンクの花を目に留め、私は頬が緩んだ。
 はにかんだ笑みを浮べた初音の頬が、イヤリングと同じ薄い朱に染まる。
 両耳の小さな桜の花が、初音の可憐さに良く似合って、とても可愛い。
 梓と楓も、初音のもじもじ恥ずかしがる様子に、頬に笑みが戻っていた。

 エレベータから降りると、初音と梓は先に立ってサロンに向う。
「千鶴姉さん」
 楓に呼ばれ、私は歩調を緩めた。
「どうしたの楓? 今日は少し変よ」
 もじもじ言い澱んでいる楓の様子に、私は眉を潜めた。
「やっぱり私、言葉がきついのかしら?」
 ピクッと唇の端が引きつるのを感じて、私は口元を片手で隠した
「正直に言って良い?」
 コックリ頷く楓。
「梓よりきつい」
「そうなの?」
 しょんぼり項垂れた楓の様子に、私はそっと肩を引き寄せた。
「どうしたの、姉さんに話してみなさい」
「あの、耕一さんが」
 困った様に楓は指で唇を押えると、仄かに頬を赤らめた。
「耕一さん?」
 聞き返すと楓はコックリ頷いた。
「あの、どうしたら自然に話せる様になるかと思って、相談したの」
「それで?」
「話すのに慣れてないだけだから、梓姉さんみたいに思い付いたまま話して見たらって。そうしたら、直した方が良い所がよく判るって」
 私は頭を抱えたくなった。

 確かに楓は、経験不足よね。
 素直にも本当の事を言葉少なに言い切るから、ずきっと胸を切り裂く上、悪気がない分梓より質が悪い。

「あっ、でも御友達は止めて置きなさいって。耕一さんか、姉さん達にして置いた方が良いって」
「賢明ね」

 耕一さんも、楓の歯に衣を着せない言葉の威力は理解しているの。

「でも、梓姉さんだと何も言ってくれないから」
「で、私?」
 楓は上目遣いにコックリ頷く。
「千鶴姉さんなら話し安いし、冷静に直した方が良い所を教えてくれるだろうし」

 それは良いけどね、楓。
 あれじゃ言葉の暴力なの。

「…姉さん…怒ったの?」
 おずおず尋ねられ、私は何とか微笑みを作った。
「いいえ。そうね、楓はもっと語集を増やして、柔らかい言葉使いや、遠回しな言い方を覚えないとね。同じ言葉でも、相手に与える印象が随分違うから」

 そんな風に言われたら怒れないじゃない。

「はい」
 素直にコックリ頷くと、楓は首を傾けた。
「姉さん、また教えてね」

 ゆっくり頷いたものの。
 楓が柔らかい言い回しを覚えるまで、私は忍耐力が持つ自信が……。
 でも梓の教育より、楓の教育の方が難問かも知れないと考えながらも、私は耕一さんに相談しようと心を決め、少し気が楽になった。

「どうかしたの?」
 先を歩いていた梓が私達が立ち止まっているのに気付き、足を止め初音と顔を見合わせ不思議そうに首を傾げた。
「いいえ、何でも無いのよ」
 楓を促し歩き出すと、梓と初音も首を捻りながら歩き出した

 梓と初音の続いて入った一階ロビーのサロンを見回し、私は首を傾げた。
 前を歩いていた楓も、私を振り返り眉を潜める。
 奥のボックス席に掛けた耕一さんは、深刻そうに考え込んでいる。

 誰かと一緒みたいだけど。

 私からは、相手が誰なのか観葉植物の影になり、見えなかった。
 梓と初音は、私達の様子に気付かず進んで行く。
「楓?」
「さっきロビーで会ったから、足立さんだと思うんだけど」
 訝しげに唇を弄る楓を促し、初音達の後を追う。
 私達に気付いた耕一さんの表情が、ゆっくり微笑みを浮べ。
 耕一さんの視線を追い、観葉植物の影から身を捻り覗いたのは、楓の言った通り足立さんだった。
 でも足立さんの浮べた表情も穏やかで、耕一さんがなにを考え込んでいたのか、私に教えてはくれなかった。
 私達に気付いた足立さんは、席をすっと立つ。
「足立さん、申し訳ありません。少し早いですけど」
 私が頭を下げると、足立さんは首を横に振る。
「普段から忙しいんですから。たまには、気がねなく息を抜いて下さい」
「でも、そう言う訳にも」
「会長が頑張りすぎると、下の者が気を抜けないですからね」

 そういうものかしら?
 判る気もするけれど。

「そうそう、気楽にね。たまにはサボるぐらいのつもりで」
 耕一さんが、うんうん頷きながら足立さんに同意する。
「もう、耕一さんったら」
 少しむくれて睨むと、耕一さんは意外そうな顔をする。
 サボるは、言いすぎだと思うけど。
「でもバイトでもさ、主任とかが張り切りすぎてると、働き難いもんだよ」
「そうですね。どこで手を抜くかが、問題ですけどね」
「さすが敏腕社長。話が判る」
「敏腕なんて飛んでもない。社員のみなさんに助けられてる毎日ですよ」
「足立さんの人徳でしょ?」
「そうですか?」
「ええ。多分ね」
 くいっと首を捻る耕一さんに、足立さんは意味有りげな笑いを洩らした。
「多分ですか? まあ考て置いて下さい」
「判りました」
 少し困った顔で頷いた耕一さんから、足立さんはクルッと私に振り返った。
「じゃあ、私は戻りますから。ゆっくりして下さい」
「はい」
 片手を挙げ歩み去る足立さんに会釈して、私達は腰を下ろした。
 初音と梓に耕一さんの隣は取られたから、私と楓は前に座る。
 私と楓が紅茶、梓は珈琲、初音がパフェをそれぞれ注文して、改めて私は耕一さんに向き直った。
「耕一さん、お帰りなさい」
「ただいま、千鶴さん。ごめん、あんまりゆっくり出来ないもんだから。押しかけちゃって」
「もう。そんな事、気にしないで下さい」
 申し訳なさそうに眉を潜める耕一さんに、私はゆっくり首を横に振る。
 
 もう耕一さんが来てるなら、ほんとに仕事をサボっても良かったのに。

「なあ耕一、考えとくって? 足立さんと何の話だ」
 気のきかない梓は、横から割り込んでくる。
「ああ。大した事じゃない」
 曖昧な耕一さんの返事に、梓は少しムッとした顔をする。
「ねえ耕一お兄ちゃん。千鶴お姉ちゃんもそろったし、ね」
 珍しい事に、隣から初音が梓を遮り覗き込む様に耕一さんに話しかける。
「うん、でもさ」
 少し迷った様に私達を見回す耕一さんに、梓の目がスッと細くなった。
「なんだよ? あたし達がいると邪魔かよ?」
「梓お姉ちゃん」
 初音に目くばせされ歩み寄ってくるウェイターに愛想笑いを向け、梓は小さく肩を竦めた。
 注文した飲み物が、それぞれの前に置かれ、ウェイターが一礼して背中を向ける。
「邪魔じゃないけど。期待するなよ」
「へっ? ちょっと耕一」
 ゆっくり珈琲を口に運んだ耕一さんを引っ張り、梓は何やらボソボソ話し出した。
「…で……指輪…」
「…いや…だから、……なくて」
「…でも…不味い……そりゃ」
「だけど………」
 訳が判らず初音と楓を見ると、楓は静かにカップを口に運び、初音は梓と耕一さんを見ながら、パフェと格闘してる。
「はぁ〜、判ったよ。あたしゃ、しぃ〜らない」
「そうか? そんなにマズイかな?」
 頭を抱えた梓と、首を捻る耕一さんの話はやっと終わったみたい。
「耕一さん、梓が何かしたんですか?」
 つい何かやるなら梓かな、と思って尋ねる。
「何で、あたしなんだよ?!」
 違ったようで、梓は上目遣いにぎろっと睨んでくる。
「梓姉さん、注目されてる」
 楓が恥ずかしそうに頬を染め、横目で周りを見て小さく呟く。
 梓の大声で、サロンの視線が私達に集まっていた。
「ごめん」
 梓にも羞恥心はあったようだ。
 周りの視線に愛想笑いを浮べ、鼻を掻き掻きぼそっと謝る。
「千鶴さん」
「はい?」
 梓の様子に苦笑を浮べた耕一さんに大きめの本の様な物を差し出され、私は首を傾げ両手で受け取った。
「プレゼント、とはちょと違うんだけど。受け取って欲しいんだ」

 包装も何もない、白いアルバム。

「「えっ?」」
 初音と楓が少し困った様な声を上げ、私と耕一さんを見比べる。
「耕一お兄ちゃん?」
「耕一さん?」
 見上げる初音の頭をそっと撫で、耕一さんは微笑みを浮べた。
「どうしたの? みんな、なにか変よ」
「そりゃさ。これ」
 梓は横を向きながら、カメラを取り出しテーブルの上に置いた。
「これって? カメラがどうかしたの?」
 家では見た事がないけれど、何の変哲もないカメラを出され、私は首を傾げた。
「耕一からの卒業祝。大学入学とホワイトデーこみでね」
「すいません、耕一さん。梓、ちゃんとお礼は言ったの?」
 お祝いを貰ったのに、険を含んだ梓の言い方に、私は申し訳なくて苦く笑った耕一さんに謝った。
 梓の教育を徹底的に遣り直す事を、心に硬く誓い。
「千鶴さん、他人行儀はなしにしようよ」
「でも、それとこれとは別です」
「ちゃんと言ったよ。そんで、初音。楓も」
「…うん」
 梓に促され、初音は躊躇いながら制服の上着から小さな箱を取り出した。
「あのね、ホワイトデーだからって。あたしも、お兄ちゃんに貰ったの」
 言い難そうに箱を開けると、イヤリングと同じ桜の花をあしらったブローチ。
「お揃いなのね? 初音、良かったわね」
 コクンと頷く初音のぎこちなさで、私にも何となく判ってきた。
「あの、私も」
 楓も俯きながら、胸元から銀色のペンダントを取り出した。
 精巧なレリーフが、楓を形作っている。
「素敵よ、楓」

 そうね。
 楓は、暖色系の色合いの服装が好みだし。
 鈍い銀の光沢が、色の白い楓を引き立ててくれるわ。

「誕生日のお祝も兼ねてって」
「初音も楓も。素直に喜びなさい」
 クスッと笑いを洩らすと、初音と楓はホッとした様に小さく微笑んだ。

 二人とも、私に気を使っていたのね。

「早いとは思ったんだけど。いいのが在ったから」
 楓を見ながら静かに言った耕一さんを見ると、耕一さんは小さく頷いた。
「楓ちゃんのは、ロケットになってるんだ」
 楓にも判ったのだろう。
 胸元を見ると、ゆっくりロケットを開いた。
 静かな曲が流れる。
 
 大学に入ったら家を離れる楓に、みんなの写真をいつも身に着けていられる様に、ロケット。
 もう、優しいんだから。
 少し焼けるわね。

 ロケットから流れる、静かなメロディに耳を傾け。
 私はアルバムをめくった。
 新品かと思っていたアルバムには、最初の頁にだけ、数葉の写真。
 優雅な女文字で、書き添えられた年月日と。

 耕一、大学入学の文字。

「耕一さん?」
 そっと目を上げると、耕一さんは照れ臭そうに頭を掻いた。
「母さん。小、中、高と、それぞれ別けて整理してたみたいでさ」

 叔母様が残されたアルバム。
 いつか叔父様と一緒に、耕一さんの成長を追える日を、夢見ていらしたのかも知れない。

「…でも、いいんですか?」

 叔母様の想いがこもった。
 耕一さんと叔母様の、どんな物にも変えがたい大切なアルバムなのに。

「千鶴さんに、後の頁を埋めて貰いたんだ」
 耕一さんは、微笑んでそう言ってくれた。
「はい」
 私は詰まる胸を手で押さえ、熱く潤む瞳を向け何度も頷いていた。

 桜の花びらが舞う中、叔母様と並んで写った耕一さん。
 途中で途切れた白い頁を、私と耕一さんの写真が埋める。

「耕一、先に行ってるよ」
「ああ、すぐ行く」
 アルバムを覗き込んでいた梓は、初音と楓に腕を引っ張られ、頭を掻きながら珈琲を飲み干し席を立った。
 すっと隣に座り直した耕一さんの肩に頭を預け、肩に置かれ引き寄せる大きな手の温もりに、そっと手を重ねた。
 静かな時の流れ。
 優しく頬に触れた手の指が、ひと雫頬を濡らした涙を拭う。
「また、泣かしちゃったな」
 少し困った様な呟きが耳朶を擽る。
 
 ええ、耕一さんのせいですよ。
 私、泣き虫になった。
 でも、涙が温かい。

 髪を撫でる手を感じながら静かに目を閉じ、私は心地好い安らぎに身を預けた。


「おっ、やっと来たな」
 鶴来屋の中庭に三脚を据え、ファインダーを覗いていた梓が、ニヤニヤ笑いながら顔を上げる。
 蕾を付けた桜の樹の下で、楓と初音も微笑んでいる。
「準備は出来てるからさ。さっさと並べよ」
「俺がシャッター押すよ。お前が主役だからな。真ん中に入れよ」
 耕一さんに言われ、梓は少し赤くなった頬を指で掻きながら、へへっと笑いを洩らした。
「んっ。じゃ、上手く写してくれよ」
「任せとけって」
 梓と二人、樹の下に向かう。
「ふふっ。なあ千鶴姉」
「なによ、梓?」
 いやらしい笑いを洩らした梓に、警戒しつつ横目で覗く。
「五月にゃ、また一つ歳食うんだよな」
「その言い方、止めて」
 聞きたくないと耳を手で塞ぐ。
「梓も、二十歳過ぎたら判るわよ」
 意味有りげに見上げる梓を軽く睨むと、可笑しそうに梓は笑う。
「そうか? 楽しみだろうと思ってさ」
「どうして?」
「初音がブローチで、楓がロケットだろ?」
「ええ。それが?」
「千鶴姉には、指輪だと思ったんだけどな」
 梓は言いつつ顔を覗き込む。
「いいの。大切な物を貰ったんだから」
 赤くなりそうな顔をアルバムで隠す。
「そうだよな。でもさ、誕生日には指輪かな?」
 梓は、今度はちょと首を傾げ綺麗に微笑んだ。
「そうかしら?」
 そんな風に言われたら、期待しちゃうじゃない。
「ああ、そろそろ婚約指輪ってのもいいんじゃないの」
 言うだけ言うと、梓は小走りに初音と楓の間に入り込む。

 婚約指輪?
 そうだと嬉しい。
 
 火照った顔をアルバムで隠し、三人並んだ後ろに立つ。
 梓の声が聞こえていたのか、初音も楓も首を捻って私を覗いている。
「もう、なによ。みんなして、姉さんをからかうんじゃありません」
 三人してクスクス笑い正面を向く。
 みんなが何を笑っているのか判らない耕一さんは、カメラの後ろで首を傾げている。
「おーい。良いのか?」
「ああ、いいよ」
 梓が答えると、耕一さんはシャッターを押し駆け寄ってくる。

 うららかな早春の陽射し。
 海から吹く心地好い微風が髪を揺らす。

 隣に並んだ耕一さんをそっと覗くと、静かな温かい瞳が見返してした。
 触れた手を握り返し、手の温かさに微笑みを向け、私達はカメラに視線を移した。
 
 前に並んだ妹達の笑顔が、目に浮かぶ。
 見なくても判る。
 満開の桜。
 いいえ。
 どんな花より、綺麗な笑顔が並んでいる。
 私も自然に浮かぶ笑顔を、カメラに向ける。
 無理に笑うことは、もうないから。
 
 重ねた手をぎゅと握り。
 心に響くシャッターの音が、静かに幸せな時を刻んだ。
 

桜 七の章

桜 あとがき

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