七の章 楓二


 湯飲みを食卓に戻し、やっと人心地付いた。
 食卓の上には、海苔を巻いたお握り。

 少し作り過ぎたね。
 ラップを掛けて置いておけばいいわ。

 台所に行こうと腰を上げかけ、私は玄関から車の止まる音がしたのに気付いた。

 千鶴姉さん?

 時計を見上げ私は首を捻った。
 まだ姉さんが帰ってくるには早すぎる。
 それに今日は、みんなで鶴来屋に行くことになってるから。

 考えている間に玄関の開く音がして、足音が響いてくる。
 どたどた慌て気味のは梓姉さん、パタパタ軽いのは初音。

 でも、もう一つは?

 耳を澄まし、私は頬が緩んだ。
 初音の足音に混ざって聞こえて来る、少し重い足音。

 耕一さん?

「あっ!」
 腰を上げ居間を出ようとした私は、丁度入って来た梓姉さんとぶつかりそうになって、びっくりして足を止めた。
「なんだ楓か? 脅かすなよ」
「お、お帰りなさい」
「ただいま。……ん?」
 驚いてはね上がった胸の動悸を両手で押さえた私の肩ごしに、居間を覗いた梓姉さんの眉が僅かに上がった。
「楓お姉ちゃん、ただいま」
「お帰りなさい、初音」
「楓ちゃん、元気だった?」
「…は、はい」
 耕一さんの隣にくっつく様に歩いて来た初音に返事を返し、私は明るい耕一さんの声に、こくんと頷き俯いてしまった。
「楓、あんたは」
「えっ?」
 耕一さんの足音を聞いただけで、慌ててしまったのが恥ずかしくて俯いていた私は、梓姉さんの溜息混じりの声で顔を居間に向けた。
「お握りはいいけどさ。なにか一つぐらいおかず作ろうって気は、ないの?」
「…姉さん……」
 首まで熱くなった私は、上目遣いに姉さんを睨んだ。

 耕一さんの前で、そんなの言わなくても。
 御料理も出来ないって思われなかったか、凄く心配。

「…材料が……」
「卵とか、キャベツなんかもあっただろ? あり合わせで何とかするの。まったく、大学入ったら独りで暮らすんだろ? 楓には、勉強より料理を教え込まないとな」
「梓お姉ちゃん、急いでるんじゃなかったの?」
 材料が無かったからと言い掛けた私に、梓姉さんは畳みかけ、初音が苦笑いを浮かべながら横から助けてくれる。
 そっと覗くと、耕一さんも苦笑してる。

 ううっ、梓姉さんの馬鹿。
 恨むから。

「おっとそうだった。楓、まだご飯残ってた?」
「…全部、お握り」
「じゃあ、貰ってくよ」
 デリカシーの欠片もない梓姉さんは、私の恨みの篭もった視線にも気付かず。
 お握りを両手に一つずつ掴むと、さっさと居間から出て行く。
「楓ちゃん、俺も貰っていいかな?」
「えっ? あっ、…はい」
 初音と居間に入りながら耕一さんに尋ねられ、私は少し後悔しながら頷いた。

 耕一さんに食べて貰えるなら、ちゃんと御料理すればよかった。

 食卓に座る耕一さんを見ながら、私は台所に向った。
 台所では、初音がタクワンを切っていた。

 相変わらず、初音は良く気が付く。

 耕一さんの湯飲みを用意していると、初音がくるっと振り返った。
「楓お姉ちゃん、あたし着替えてくるね」
「…着替え?」
「うん、制服」
 今頃どうして。っと首を捻ると初音はクフッと笑った。
「みんなで、梓お姉ちゃんの卒業写真撮ろって。梓お姉ちゃん、自分だけ制服はイヤなんだって。千鶴お姉ちゃんも、一緒の方が良いよね?」
「うん」
「制服は後で着替えればいいし。楓お姉ちゃんのお洋服、あたし一緒に用意して来るね」
 少し慌て気味の初音の様子に、私は首を傾げた。
「でも千鶴姉さん、お仕事だし」
「うん。でも耕一お兄ちゃん、あまりゆっくり出来ないんだって」
 寂しそうに俯いた初音は、顔を上げるとにっこり微笑んだ。
「でもね。後三日ぐらいしたら、休みの間はずっといられるって」
「そう」

 梓姉さんの卒業式の為に、耕一さん来てくれたの。

「じゃあ、急がないとね」
 うんと頷いた初音に、用意してもらう服を教えると、初音はとととっと台所から出て行く。
 私はお盆にタクワンと湯飲みを乗せ、居間に戻った。
「ありがとう、楓ちゃん」
 静かに腰を下ろし湯飲みを差し出すと、耕一さんはゆっくり湯飲みの口に運び、少し目を細めた。
 口元が綻ぶのを感じて、私は目を臥せる。
 静かな居間に、時折タクアンを噛む音が微かな音を立てる。

 もう耕一さんが、家にいるのが自然になった。
 食卓に座り、美味しそうにお握りを頬張る耕一さんを見ているだけで、落ち着いた幸せな時間を持てる。
 まだ千鶴姉さんと耕一さんを見ていると、少し胸が痛むけど。

「ごちそうさま。あっと」
 満足そうにお握りを平らげた耕一さんが、湯飲みを口に運んだ手を止め、急にパッと顔を上げた。
 私はどきっとして、そっと耕一さんを覗いた。
「ごめん、楓ちゃん」
「えっ?」
 悪そうに頭を掻く耕一さんが、何を謝っているのか判らず、私は唇を押さえ首を傾げた。
「楓ちゃんのお昼だったのに。ごめん、全部食べちゃった」
「あっ。い、いえ。もう済ましましたから」
「ああ、そうなの? 良かった」
 ふるふる首を横に振ると、耕一さんは安心した様に湯飲みを口に運び直した。
「うん。やっぱり、楓ちゃんが入れてくれたお茶は美味しいな。お握りも美味しかったよ」
「でも、お握りだし」
「そんな事ないよ。お握りは基本だからさ」
「基本?」
 目を細めて微笑み掛ける耕一さんを、上目遣いに見て首を傾げた。
「こう微妙な塩加減が、ご飯の味を引き立てるんだな。楓ちゃんのお握りは、とっても美味しいよ」

 褒められるのは嬉しいけど。
 やっぱり今度は、ちゃんとした御料理作ろう。
 耕一さんが来ると張り切るから、梓姉さん作らせてくれないかしら?

「なに評論家みたいな事、言ってんだよ」
 ひょこっと廊下から首を突き出し、戻って来た梓姉さんは薄笑いを浮かべ腰を下ろす。
「俺はな、お握りにはうるさいんだぞ」
「どうせ料理するのが面倒で、握り飯ばっかり作ってんだろ?」
 図星だった見たい。
 耕一さんの唇の端が、ヒクッと震えた。
「ふふ。あまいな、梓」
「なんだよ。図星さされたからって、開き直ったのか?」
「定食屋のお握り定食、居酒屋の焼お握り。お握りは、ちゃんとした日本食として認められてんだぞ」
「耕一。あんた、そんなのばっか喰ってるのか?」
 呆れた目を向け、梓姉さんは小さく溜息を吐いた。
「いや、そういう訳じゃ」
「ちゃんとした食事しろって、何度言ってもあんたは判ん無いんだな?」
 梓姉さんに睨まれちょと腰を引いた耕一さんに、私もコクッと頷いて見せた。
「身体、壊します」
 そんな食事で身体を壊さないか心配で言うと、耕一さんは梓姉さんと私を見比べ、弱い笑いを浮かべた。
「いつもって訳じゃないからさ。そう、シチューとかカレー、ハンバーグなんかも………」
「レトルトか」
 ぼそりと低い声が梓姉さんから洩れ、耕一さんは固まった。
「な、なんで判る?」
 ぎこちなく笑った耕一さんは、身を乗り出した梓姉さんから逃げる様に、座ったまま後ろの下がって行く。
「決まってんだろ。カレーやシチュー。ハンバーグなんて、手間かかる物。あんたが作るかよ」
「俺だって、たまには作るぞ。作り置きが効くからな」
「ほぉ〜、そうか。何日もおんなじ物食ってんだな?」
「いや、それはさ」
「それとも」
 ニヤッと笑うと、梓姉さんはおもむろに両腕を組んだ。
「毎日作ってくれる、誰かさんでも居るのかな?」
「ば、馬鹿言うな! 梓、冗談でもそんな事言うなよ!」

 耕一さんの様子、おかしい。
 慌てすぎ。

「…居る……?」
「へっ? 楓ちゃん」
「楓?」
 顔を上げると、耕一さんと梓姉さんは表情を強ばらせた。
「そういう方、居るんですか?」
「か、楓、あんた。それじゃ千鶴姉だよ。じょ、冗談じゃないさ」
「姉さん」
「は、ひっ」
 優しく微笑み掛けると、姉さんはコクコク頷いてくれる。
「黙ってて」
 素直にブンブン首を縦に振る梓姉さんから、視線を耕一さんに戻す。
「耕一さん、どうなんです?」
「い、いません。絶対いない」
「本当。ですね?」
 うんと頷いた耕一さんの真剣な様子に、私は胸をなで下ろしにっこり微笑んだ。
「それなら、いいんです」

 千鶴姉さん以外なら、私は認めないんだから。

「あれ? 耕一お兄ちゃんどうしたの? そんな隅に座って。…なにか、顔色も悪いみたいだよ」
「ああ、初音ちゃん。大丈夫だよ。何でもないから」
 紙袋を下げ入って来た初音の心配そうな声にチラッと視線を走らせ、私はお茶を口に運んだ。

 我が侭だと思うけど。
 耕一さん、誰にでも優しすぎる。
 千鶴姉さんも、しっかり耕一さんを捕まえててくれないと、安心出来ないじゃない。

「…耕一…千鶴姉より、怖くないか?」
「ああ、いい勝負だな」
 妙な会話に目を上げると、耕一さんと梓姉さんが、慌てた様にぎこちない笑いを浮かべた。

「…初音、それ?」
 キョトンと私達を見比べながら座った初音の両耳と胸に、淡い色の桜の花が咲いていた。
「うん。耕一お兄ちゃんのプレゼント」
 頬を桜の花と同じ色に染め、初音は嬉そうに笑った。
「ブローチと、お揃いだったの?」
 確か誕生日の時は、イヤリングだけだったと思ったけど?
「ううん。お兄ちゃん?」
 首をぷるぷる横に振ると、戸惑った様に初音は耕一さんを見上げた。
「うん。これは、楓ちゃんに」
「えっ?」
 初音に頷いて返した耕一さんから臙脂のリボンを掛けた小箱を差し出され、私はちょと戸惑った。

 誕生日じゃないし、卒業は梓姉さんだし?

「楓お姉ちゃん、ホワイトデーだよ」
 初音がこくんと首を傾げて笑い掛ける。
「あたしはブローチで。梓お姉ちゃんは、カメラなんだよ」
「あたしのは、卒業と入学祝いも兼ねてるけどな」
「梓お姉ちゃんたら」
 ラッピングされたプレゼントを見詰め、私は少しぼんやりしてしまった。

 ホワイトデー?

「楓ちゃん?」
「楓お姉ちゃん?」
 ちょと心配そうな耕一さんと初音の声で、私ははっとした。
「あ、ありがとう………」
 そっとプレゼントを両手で受け取り、私は最後までお礼を言えず、喉が詰まって俯いてしまった。

 嬉しい。
 初音の誕生日、本当はちょと羨ましかった。
 お祝いの為に来てくれた耕一さんと、一緒に選んだイヤリングを嬉そうに見せる初音が、羨ましかった。
 だって私の誕生日は十一月。
 耕一さんは来てくれなかった。
 理由は知っているけど、電話でおめでとうって言って貰ったけど。
 寂しかった。

「お姉ちゃん、開けてみないの?」
「そうだな。あたしも見たいな」
 梓姉さんと初音の声にコクンと頷き、私はゆっくりリボンを解いた。
「気に入ってくれるといいんだけど」
 少し心配そうな耕一さんの声に、頬が熱くなった。

 耕一さんからの初めてのプレゼント。
 どんな物だって。
 例え道端の小石だって、私には大切な宝物なの。

「…これ…楓?」
「へぇ〜」
「うわっ、素敵」
 開けた箱を覗き込んだ初音と梓姉さんが、感嘆の声を挙げる。
 でも、私は箱の中に指を這わせ戸惑って耕一さんに顔を上げた。
「気に入ってくれた?」
「はい。…でも耕一さん、こんな高価な物……」
 箱の中に収まっていたのは、長方形の四隅をカットした、楓をレリーフにあしらった銀のペンダント。
 精巧な浮き彫りと、指先に感じる銀の柔らかな冷たさが、私にも高価な物だと教えてくれた。
「随分遅くなったけど誕生祝も兼ねてね。だから気にしないで」
「耕一さん、ありがとうございます。大切にします」
 耕一さん、気にしててくれたんだ。
「楓お姉ちゃん、掛けて見せて」
 自分の事のように嬉しそうな初音にコクンと頷くと。梓姉さんが意味有りげに耕一さんを見上げた。
「耕一。こういうのはさ、プレゼントした奴が掛けてやるもんだぜ」
 梓姉さんの言葉に硬直した私は、真っ赤になった顔を俯いて隠した。
「そうだな」
 耕一さんの声が聞こえたかと思うと、目の端でペンダントが持ち上げられ。
 後ろ髪がそっと持ち上げられた。
 私は声も出せず、破裂しそうにどきどきしている胸をそっと押さえた。

 ペンダントと同じ、柔らかな銀の冷たい感触が、熱くなった首筋に触れる。
 項に感じる温かな指に、私の心臓は早鐘のように胸を打った。

 頭がくらくらする。

 だって項に触れているのは、耕一さんの指だもの。

 微かに感じる耕一さんの息が、後れ毛をなぶる。
 触れた指の先から全身に電気が走った見たいに、むず痒いような心地好い痺れが走る。

「チェーンの長さは、丁度良いみたいだけど。どうかな?」
 持ち上げられた髪が、そっと元に戻され。
 私は胸を押え小さく息を吐いた。

 心臓が破裂して、死んでしまうかと思った。
 でも、もっと耕一さんを感じていたい気も。
 少し残念。

「お姉ちゃん、とっても素敵だよ」
「うん。楓、良く似合うよ。耕一、あんた結構センス良いじゃん」
 初音と梓姉さんに口々に褒められ、私は胸のペンダントを指で弄った。

 耕一さんに、お礼を言わなきゃと思うのだけど。
 首筋に残る指の感触に熱くなった全身が、顔を上げることも許してくれない。
 私は俯いたままだった。

「楓ちゃん、ロケットになってるからね」
「…はい」
 耕一さんの声に、どきどきしてる胸を押さえ小さく頷くのがやっと。
 ロケットを弄り胸を押さえた手にそっと指を添え。
 私は顔を上げない、いい訳のようにロケットを開いた。
「あっ」
 静かな音色がロケットから流れ、私は小さく息を飲んだ。

 聞いた事がない曲。
 静かで少し物悲しいけど、落ち着いた温かさを感じる。

「静かで綺麗な曲」
「へェ〜。耕一、随分ふんぱんしたんだな。オルゴールになってるのか?」
 うっとりした初音と、少し驚いた様な梓姉さんの声で、オルゴールの音色に聞き入っていた私は顔を上げた。

 銀のレリーフにオルゴールまで付いた精巧な物だなんて、耕一さん随分無理したんじゃ。

「実はね。知り合いに安くして貰ったんだ。実験作で悪いんだけどさ」

 頭を掻きながら耕一さんはそう言ったけど。私に気を使わせ無い様に、言ってくれたのは判るもの。
 そんなに都合良く、楓のレリーフをあしらったロケットが、ある筈がない。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
 私は震えそうな声で、そう言うのがやっとだった。
「お姉ちゃん良かったね」
「でもさ、何て曲なんだ? あたし聞いたことないな」
「あたしも、聞いたことないよ」
「楓」
 急に名前を呼ばれ、私は驚いて耕一さんを伺った。
「耕一。プレゼントしたからって、いきなり呼び捨てか? 千鶴姉が焼くぞ」
「梓、お前と初音ちゃんが聞いたんだろ?」
 梓姉さんのいやらしい視線を受けた耕一さんは、笑いを浮かべかくんと首を横に倒した。
「えっ?」
 梓姉さんと初音、私は一緒に首を捻った。「オリジナルで、まだ曲名が無かったんだ」
「えっ? ええっ!」
 梓姉さんと初音が驚くような声を上げ、私の胸と耕一さんをきょろきょろと見回した。
 でも私は、耕一さんを見ながら、ぼんやりしていた。

 それって、まさか?

「だからさ。ロケットのレリーフに因んで、曲名も、楓」

 楓?
 私の名前の曲。

「はぁ〜楓。あんた、もう一生分のプレゼント貰っちゃったな」
「楓お姉ちゃん、凄いよ。自分の名前の付いた曲が流れるロケットなんて、誰も持ってないよね。……楓…お姉ちゃん?」
 呆れた様な梓姉さんと、興奮した初音の声を聞きながら。
 私はオルゴールの音色に耳を澄まし、何度も何度も頷いていた。
 両手で顔を覆い、零れた銀の雫を隠して。

桜 六の章

桜 八の章

目次