五の章 梓二


 座り込んだままどれぐらい経ったのか、風に乗って聞こえていた声も随分前に消えた。

 きっと先生だな。

 ジャジャと靴が砂を噛む聞き慣れた音が、地面から幹に伝わり頭に響く。

 帰る…か。

 見回りの先生が、樹の下で座り込んでいるのを不信に思い見に来たのかと小さく溜息を吐いたあたしの前で、足音は止んだ。
 閉じたままの瞼の裏を赤く染めていた陽が遮られ、黒く色を変える。
「たそがれてるな」
 ビクッと震えた瞼を開けると、良く知った顔が、あたしを覗き込んでいた。
「…こう…いち?」
「よっ」
 幻かと思った耕一が片手を上げ、ストンとあたしの隣に腰を下ろす。
「あんた、来られないって……」
「かも、知れないだろ?」
「来るなら、来るって言えよな」
 熱くなった目元を隠すのに俯くと、つっと頬に雫が走った。
「絶対来るなって言った奴の、セリフか?」
「今頃来たってさ。帰ってたらどうすんだよ」
「ったく。みんな泣いてるのに、欠伸してる奴が」
 グッと肩に回された腕が、、あたしを引き寄せる。
 あたしは耕一に寄りかかり、嬉しさに不覚にも流した涙の恥ずかしさに、俯いて隠した頬を静かな涙が流れた。

「…ずっと待っててくれたの?」
「結構、校門に彼氏待たせてる娘っているんだな。俺が最後」
「ごめん」
 横目で覗いた耕一は、あたしの方を見ないようにグランドの正面を見て、小さな笑みを浮かべた。
「広いな」
「なに?」
 いつもなら、抱き寄せられた肩の熱さが照れ臭くて、慌てて振り払ってた。
 でも今は、肩の熱さも頬の火照りも心地好くて、あたしは静かに聞き返した。
「グランド。都会じゃ、この広さはないからな。大学行っても、陸上やるのか?」
 あたしもグランドを見回し、小さく息を吐いた。
「やらない。高校で終わり」
 全力を出せなかった、後味の悪い未練が残るだけだから。
「そうか。子供ん時、一緒に走り回ったよな」
「うん」

 ああ、そうだ。
 あの頃は耕一に追い着けなくて、背中を見てた。
 今度会う時には、耕一に追い付いて追い越してやろうって、あたし陸上始めたんだっけ。
 なんで忘れてたんだろ?
 子供の時、急に前を走ってる耕一が立ち止まって、途中で手を抜くなって、あたし怒ったな。
 でも耕一は、あたしなんか見てなくて、後ろから一生懸命追っかけてくる楓と初音を心配そうに待ってたっけ。

 あたし耕一に追い着いて、追い越す事しか考えてなかったんだ。
 今でもあたし、耕一に負けてるな。
 昔から勝ち負けなんかより、ずっと大切なもの、耕一は知ってる。

「久しぶりに走るか?」
「えっ?」
 肩から手を離し、耕一はスッと立ち上がった。
「競争しようぜ、ここからあそこまで」
 耕一が指差したグランドの反対側に、栗色の髪を赤いリボンでまとめた小柄な姿が、きょろきょろしているのが見えた。
「…初音…か?」
「手加減なし、全力でな」
「でもさ、耕一……」
「いいさ、最後だ。力使わなくたって、全力は全力だろ?」
 誰かに見られたらまずいと言い掛けたあたしに向かい、耕一は片目を瞑って首を傾げた。

 力使わなくっても、普通じゃないけどな。

 ふっと息を吐きあたしが立ち上がる間に、耕一は初音に向い大きく手を振った。
 少しの間立ち止まった初音は、耕一に気が付いたんだろう。
 嬉そうに、トコトコこっちに向って駆け出した。
 耕一が止まれの合図に、両手を突き出して見せる。
 初音は戸惑った様に歩みを止め、首を傾げる。
「初音のトコまでで、二百はあるな」
「梓、百だっけ?」
「うん」
「じゃあ、いいトコまで歩くか」
 歩き出した耕一の後を追い、目測で百メートルを測る。
「この辺かな」
「よし」
 ざっと足でラインを引き、腰を折りクランチングスタイルを取る。
「誰かに見つかったら、耕一の責任だからね」
「ああ。っと、そうだ。千鶴さんには、内緒な」
「耕一が、勝てたらな」
 あたしがクスッと笑いを洩らすと、耕一は渋い顔をする。
「お前現役だろ? 運動不足の大学生をいたわれよ」
「スポーツの世界は厳しいんだよ。用意」
「あっ、馬鹿」
 腰を上げたあたしは、耕一のごたくを無視し。
「どん」
 全力でスタートを切った。

 風を切る音が耳元を過ぎ去る。
 心臓が新しい空気を求めて、激しく胸を打つ。
 後五十。
 いつもはここで力を抜いてた。
 でも今は。
 余力を余さず大地を蹴る。
 グンと身体が前に押し出される。
 スッと隣に影が差した。

 何が運動不足だ!

 段々、視界が狭く白く染まっていく。
 耕一とあたしだけが共有してる、時間。

 ああ、そっか。
 あたし耕一と、もう一回あの頃みたいに走りたかったんだ。
 何も考えないで。

 初音の笑顔の前に、在る筈のないゴールのテープが見えた。

 胸を張ってテープを切ったあたしの頭は、真っ白に染まっていった。

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