四の章 楓


 ふっと息を吐き、重い足を引きずる。
 もうすぐ家。

 積極的に生きるのって、疲れるのね。

 入試に有利になるからって、どうして生徒会長でもない私に、送辞を読まそうと思ったのかしら?
 いくら鶴来屋と柏木の名前が有名だからって、私に出来る訳無い。
 何とか断って裏方に回して貰ったけど。
 来年は気を付けないと、卒業生代表なんて事になったら。

 私は自分が演台の上で、講堂中の視線を受けている姿を想像して、眩暈がして頭から足の先に力が抜け落ちるのを感じた。

 ……姉さん達に、知られないようにしなくちゃ。
 きっと、やりなさいって言うに決まってる。
 おもしろがって、みんなで見学に来る。
 固く目を瞑り額を押え、私はよろける身体を支えた門を潜り抜けた。

 あら?
 戸に掛かった手が、そのまま止まった。
 鍵?
 初音、梓姉さんもまだ帰ってないのかしら? 
 訝しく思いながら、鍵を取り出し玄関を開ける。
 シーンと静まり返った家。
 玄関に初音の通学靴はあるから、一度は帰って来たはず。
 少し安心して居間へ向う。
 居間のテーブルの上には、広げたままのアルバム。
 初音にしては、片付けていないアルバムを不信に思い、ちょっと首を傾げ台所に向い。
 一気に疲れが押し寄せた。
 梓姉さんはインスタントが嫌いだから、毎日新鮮な材料を買って来て調理する。
 台所には昼食の用意も、私が調理出来そうな材料も残されてない。
 ご飯はあるけど。

 ううっ、初音。
 お願い早く帰って来て、お腹空いた。

 お昼には遅いけど、初音は昼食の材料を買いに行った筈。
 洗面所に向い、私は顔を洗い口をすすぐと居間に戻った。
 疲れたから、着替えるのは少し休んでから。
 初音が帰って来るまで、アルバムでも眺めていよう。

 開かれた最後のページには、初音の入学式の写真。
 一年前の写真。
 四月からの一年。
 いいえ、叔父さんが亡くなってからの半年程。
 一年には、まだ五ヶ月もあるのに。
 随分と色々な事があった。

 叔父さんと耕一さん。
 私達に取って一生忘れられない、転換の年。
 私や千鶴姉さん、梓姉さんにも。
 初音にとっても、叔父さんを亡くした想い出と呼ぶには辛い年。
 でも耕一さんが、悲しみ以上に喜びをくれたから。
 楽しい想い出ではないかも知れない。
 みんなが苦しんだ想い出だもの。
 でも私や梓姉さん。
 そして何より、千鶴姉さんには、忘れられない想い出。
 きっと残りの五ヶ月、夏までには楽しい想い出が増える。

 ページをめくると、私と叔父さんが桜の蕾の下で、微笑んでいる。
 中学の制服を着て、はにかんだぎこちない笑い方の私。
 少し遠い目をした叔父さんの笑顔。
 叔父さんの笑顔は、どこか寂びしそう。
 気が付くと、叔父さんは少し寂しそうに、黒の詰め襟姿を目で追っていた。
 前の年、高校卒業だった耕一さんの姿を、叔父さんの瞳は映していたんだと思う。
 小学生で別れた耕一さんの姿を、叔父さんはきっと写真ではなく、その目で見たかったんだろう。
 そして叔父さんは、この時は姉さんも気にしていたから。
 千鶴姉さん。
 私たちの誰かと卒業、入学といつも重なっていたから。
 家でみんなと写した写真は、あるけれど。
 学校で写す写真は、千鶴姉さんひとり。

 中学の卒業式の時。
 叔父さんに私はひとりで大丈夫だから。
 せめて大学の卒業式は、千鶴姉さんの方に出席して欲しいと頼んだけれど。
 千鶴姉さんは、受け付けなかった。
 叔父さんも千鶴姉さんの卒業式に出席しても、千鶴姉さんが後々まで気にする事を知っていらしたから。

 ぱらりとめくったページの間から、数枚の写真がこぼれ落ちた。
 一枚の写真を取り上げ、私は笑みが零れた。

 笑ってる千鶴姉さん。
 苦い顔でそっぽを向いてる梓姉さん。
 苦笑してる私に、困った様に眉を寄せている初音。
 みんな着物を着て、楽しそうな写真。
 そして見えないけれど写しているのは、耕一さん。
 散らばった写真をまとめて、一枚一枚めくっていく。
 耕一さんと千鶴姉さん。
 初音と耕一さん。
 私と耕一さん。
 梓姉さんと耕一さんの写真だけが、睨み合っているのが妙におかしい。
 そして、みんな揃って写っている一枚。
 まだまだ多くの写真。
 梓姉さんと初音が、競って写した御正月の風景。
 幸せな時間を閉じ込めた写真。
 アルバムに貼られた写真と一番違うのは、千鶴姉さん。
 見比べなくても判る。
 叔父さんと並んだ入社式の記念写真より、幸せそう。

 …そうね。
 初音は気付いているのかも。
 あの娘は敏感な子だから。
 千鶴姉さんの作った笑顔に気付いていないとは、思えないもの。
 知っていても黙って受け入れるのが、あの子の優しさだから。
 初めて一人で卒業の日を迎える梓姉さんが気になって、アルバムを出して来たのかも知れない。
 梓姉さん、寂しい思いをしていないといいけ…ど……
 まさか…初音。
 梓姉さんの様子を見に行ったんじゃ……
 …お握りでも作ろう。

 クゥ〜と恥ずかしい音を立てたお腹を押え、私はアルバムを閉じた。

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