二の章 千鶴
桜の蕾。
ロビーにディスプレイされた桜の枝を見上げ、ふふっと洩れた笑いに足立さんが怪訝な顔を上げた。
「会長、どうかなさいましたか?」
少し迷った顔で、装飾の専門家が私と桜を見比べたのに応え。足立さんはそっと私の視線を追い問い掛ける。
「あっ、いいえ。とても綺麗ですね」
笑みを浮かべ応えると。鶴来屋の顔、ロビー正面のエントランスフロアのコーディネイトを任された業者の方は、満面に笑みを浮かべた。
自分の仕事を認めれた、誇らしそうな笑み。
「有難うございます。桜は虫が付き易く、花弁が散り易いのですが。害虫処理も万全ですし、特殊なコーテングを施し散らないよう配慮してあります。開花時期に合わせ。花弁の開いていく過程の物と取り替えるつもりでおりますが。花粉アレルギー等を起されるお客様にも、安心して楽しんで頂けると………」
造花でなく生花にこだわる理由を、鶴来屋のロビーとの調和と自らの美意識だと熱心に語る業者の方の話に耳を傾け、私はもう一度桜を見上げた。
隆山の桜は、まだ蕾。
梓の卒業式は、もう終わったのかしら?
大学の入学式の頃には、満開でしょうね。
私は卒業式に行きたいと言ったけれど、子供じゃないって、梓に軽く断られた。
見てくれる人のいない卒業式。
寂しくないはずがない。
友達、後輩。
みんなとの別れ。
会えなくなる訳じゃない。
でも、今までとは変わって行く、ひとつの区切り。
もの悲しい季節。
梓には、親友と呼べる友達がいればいいけれど。
そうすれば、少しでも寂しさが紛れるかも知れない。
寂しい想い出より、友達との別れの悲しみの想い出の方が、辛くない。
いつも桜を見ると、寂しくなる。
ぽつんとひとりで写った記念写真。
中学の卒業式。
高校の入学、卒業。
大学も一緒。
ひとりで写した記念写真。
でも中学の入学式には、御父様も御母様も私の隣で笑みを浮かべていらした。
妹達には、いくら望んでも写せない写真。
だから、私が寂しいなんて…ね。
「……です」
「よろしくお願いします。宴会場などの細部につきましては、係りの者に任せてありますので」
足立さんの声で、私は目を戻し黙礼して腰を上げた。
ぼんやり桜を見上げ物思いに耽っている間に、足立さんと業者の方は打ち合わせを終え、ソファから立ち上がり握手を交していた。
「申し訳ありません。つい、その……」
「いいえ。私どもの仕事は、見て楽しんで頂く。これにつきます。見とれて頂けたなら、これほど喜ばしい事はありません。何よりの賞賛ですよ」
しどろもどろに謝る私に、本当に嬉そうにロビーを見回し、業者の方は会釈すると。
それでは、と席を外された。
去り行く後ろ姿にもう一度頭を下げ、私は腰を下ろした。
「気になるんでしょ?」
「えっ?」
「卒業式」
腰を下ろした足立さんは、小さく息を吐くと寂しそうに呟く。
「泥だらけで走り回ってた梓ちゃんも、来月には大学生ですか。早いものですよね」
「足立さんの方が、父兄みたいですよ」
「私で良ければ、入学式でも卒業式でも、出席しますけどね」
クスッと笑うと、足立さんは目を細くして遠くを見詰めた。
「お父さんや賢治さんとの約束もありますけど。それだけでは、ないですから」
「ええ……」
御父様や叔父様との約束。
はっきりと聞いた事は無かった。
でも、それが叔父様亡き後、私達姉妹の保護者代りなのは知っていた。
「まあ。私が出る幕は、ないんでしょうね」
「どうしてですか?」
「聞くんですか?」
苦笑いを押さえた声で聞き返され、私は首を傾げた。
「就職さえ決まれば、後は卒論だけでしょ?」
「あっ、足立さん」
思わず上擦った声を出した私に、足立さんは器用に片目を瞑って見せる。
「耕一君の方が、みんな喜ぶでしょう。会長も含めて、ね」
「も、もう。からかわないで下さい」
熱くなった頬を膨らまし睨むと、足立さんは楽しそうに微笑む。
「彼が出席しているんでしょう?」
「いいえ、忙しいらしくて。でも、もう二、三日したら来られそうだって」
ちょと首を傾げ直し、自然に頬が緩んだ。
「そうなんですか?」
足立さんは少し訝しそうに眉を上げ、首を捻り私を覗き込む。
「ええ。どうかなさいました?」
「いえ。朝から楽しそうでしたから、てっきり、彼が来ているのかと思っていたもので」
「もう、足立さんったら。御願いですから、からかわないで下さい」
「これは、すいません」
上目遣いに睨むと、足立さんは少し表情を引き締め、芝居がかった仕草で頭を下げる。
でも言われてみると、今日は朝からとても気持ちが軽い。
桜の蕾を見て寂しかった想い出を思い返しても、つい頬が緩んで自然に笑みが浮かんでしまう。
どうしてかしら?
「でも梓ちゃん、残念がってたでしょう」
「強がっていましたけどね」
「梓ちゃんらしいですね」
「…あの子、始めてですから」
式が終っても、今までのように叔父様は待っていては下さらない。
照れくさそうに、親御さんと笑い合う友人達を一人で眺める寂しさ。
後で怒られても、やはり行けばよかった。
つい洩らしてから、足立さんの笑顔が寂しそうに曇ったのに気付いて、私は言葉を継いだ。
「私が出席するって言ってるのに。あの子ったら、子供じゃないんだから嫌だ。なんて言うんですよ」
ぷんと怒って見せると、足立さんはふふっと笑い優しく目を細める。
「なるほど。それで今日ぐらいは、家事から解放して。そろって御食事ですか?」
「えっ? ええ。でも足立さん、どうしてそれを?」
「これでも社長ですよ。鶴来屋内で私が知らない事は、ありません」
胸を張って茶目っ気たっぷりにそう言うと、足立さんはこくんと首を傾げた。
「なんてね。実はシェフに、梓ちゃんの好物を聞かれましてね」
「シェフが、梓の好物をですか?」
シェフは梓を知らない筈だけど。と私は訝しく首を傾げた。
「以前賢治さんが、酒の席でうっかり洩らしたんですよ。梓の料理の方がってね。慌てて謝ってましたけど、まだ根に持ってるみたいですね」
「叔父様ったら」
いくら料理上手でも、高校生の手料理と一流のシェフの料理を比べるなんて。
眉を潜めようとした私は、失敗して小さな笑いを洩らした。
「気合い入ってましたよ。今夜の料理は、シェフのプライドを掛けて、みんなを唸らせる気ですね」
「もう。どうして男の人って、すぐ子供みたいになるんです」
叔父様も悪いけれど、シェフも意地にならなくてもよさそうなものなのに。
「まあ、美味しければいいじゃないですか。さて、じゃあ今日は早めに仕事を終らせてしまいましょうか?」
「はい。申し訳ありませんけど」
腰を上げ首を横に振る足立さんに促され、私も残った書類の処理に会長室に向った。