夢幻の章 九


 潜り戸を抜けると、住職は既に茶室で座していた。
 俺は座るのを躊躇い、住職に視線を向けた。
「どうぞ、お座り下さい」
「ですが……」
 座る様に促す住職に何と言っていいのか、俺は言葉を探した。

 住職が示したのは上座。
 主人である住職が既に下座に着いている。
 茶の知識のない俺でも、これが礼に反しているのは判る。

「どうぞ、理由はお座りになってから」
「はあ」
 促されるまま、俺は腹を決め上座に座った。
 俺が座ったのを確かめると、住職は面白そうに笑みを零した。
 笑みを消し、おもむろに息を吐くと住職は話し始めた。
「正直、迷っておりました。貴方を信じて良いのかどうか。現在の当主にお知らせせず、お渡して良い物か。なにせ、理由は聞かされておりましたが。今までお会い出来なかった」
 親父の葬儀や初七日にも顔を出さなかった俺だ、信用してくれという方が無理だろう。
「皆さん明るくなられましたな。葬儀の折には憔悴し切ったご様子でしたに。いや、初七日の折も、立ち直れるのかと案じておりましたが」
 住職が憔悴し切った従姉妹達を放っておいた俺を責めているのは判っていたが、俺には返す言葉もなかった。

 俺の中で親父を切り捨てた時、従姉妹達も他人だと考えていなかったとは言い切れない。
 両親を亡くし、親父まで亡くした彼女達を顧みず、旅行の予定を考えていた俺には何も言えなかった。
 どう責められ様が膝を握り締め、ただ住職の言葉を甘んじて受けるつもりだった。

「ですが、昨日お会いして安堵いたしました。穏やかになられた。御父様が亡くなる前も、消える事がなかった陰りがなくなりましたな。貴方のお蔭ですかな?」
 住職の穏やかな声に顔を上げると、住職は柔和な笑みを浮べた。
「妹さん方も、明るさを取り戻されましたな。しかし、あまり御心配をお掛けになっては、いけませんな。皆さん、どちらが病人か判らぬお顔でしたぞ」
「申し訳、在りません」
 俺は頭を深く下げ、幾つもの意味で、やっとそれだけを言葉にした。
 住職は、ゆっくり首を横に振ると再び口を開いた。
「昨日もお話いたしましたが、この茶室を作られたのは耕平氏。貴方の御爺様です。柏木当主が特に重要な方を、迎える為に作られたのです」
「はい」
 茶室で秘密会談とは、爺さんも前時代的な物を作る。
「柏木の当主がここの主であり。私は管理させて頂いているにすぎません」
 俺は住職が何を言いたいのか判らず首を捻った。
 住職は面白そうに笑うと、悪戯っぽく眼を細めた。
「判りませんか?」
「はあ。まったく」
 俺は頭を掻きながら正直に答えた。
「柏木の名を持ち、上座に座するは当主のみ。当主が上座を譲られた。次代当主という事ですな」
「えっと。それって」

 千鶴さん、赤くなって………

「当主を譲るだけかどうかまでは、私は存じませんよ」
 俺がよっぽど間の抜けた顔になったのか、住職は声を殺し笑いを洩らした。
「まあ私も、頬を染めて嫌だと言われておれば、どう取れば良いか弱りましたが」
「ご住職。からかわないで下さい」

 つまり千鶴さんが、俺を当主に迎える意志があるかどうか、遠回しに聞いたのか。
 タヌキ爺が。

「からかって等おりません。貴方の言葉を確かめさせて頂いたのみで」
 住職は笑みを消し真剣な顔になった。
「それでは?」
「お任せいたしましょう」
 深く頷き、住職は傍に置いた二つの桐箱を、俺の前に差し出した。
「どうぞ」
 住職に促され、俺は桐箱に手を伸ばし、住職に不信の目を向けた。

 一つは小箱で、遺書の入る様な大きさはない。
 問題はもう一つの箱だった。
 封を一度解いた形跡が見て取れた。

「御父様は、御当主ではございませんでした。一読された後、いま一度封を」
 俺の視線に気を悪くした様子も見せず、住職は説明してくれた。
 俺は頷いて返し小箱を手に取り、その重さにショクを受けた。

 軽い。

 五百年柏木を縛った物の重さが、この軽さの中に在ると思うと涙が滲んだ。

 こんな物の為に苦しんで来たのか。

 俺は括り付けられた朱房の付いた紐を解き、和紙で施された封を切ると桐箱を開けた。
 中には手漉きと思われる、二つ折りにされた和紙が納められていた。
 内容を確かめる為和紙を手に取ると、和紙の下から封筒が現れた。
 俺は和紙を傍らに置き、封筒を取り上げた。
 二通在った封筒には、それぞれ宛名が記されていた。
 一通は千鶴さん宛て。
 一回り小さいもう一通には、俺の名が記されていた。
 俺は親父が残した物かと思い、自分宛の封を切り中の便箋を広げた。
 便箋の書き出しに、俺に宛て伯父の名が最初に記されていた。
「他に御父様にも一通、宛てられてございました」
 住職の声に小さく頷き、俺は便箋に眼を戻した。

 短い文面には、俺の鬼の制御を祈る気持ちが込められ。最後に出来るならば、娘達の力に成って欲しいと記されていた。

 俺は目頭の熱さに滲む涙を拭った。

 伯父は鬼を制御出来ないと悟り、どんな気持ちでこれを書いたのか。
 残して行く娘達を案じながら、制御出来るか判らない俺の負担にならないよう、一言だけ控え目に付け足された願いが。
 余りにも痛ましかった。

 千鶴さんに宛てられた手紙が、遺書の事に触れていないか不安はあった。だが、俺が見て良い物でもない。まして千鶴さんから隠すのは論外だった。
 伯父が千鶴さんが当主になった時に読めるようにと、恐らく最後の願いを込めた文。伝えずに置くのは人として出来なかった。
 俺はあえて、彼女に手渡すと決めた。

 便箋を封筒に戻し、千鶴さん宛の封筒と共に傍らに置いた和紙の隣に置き、俺は改めて和紙を手にした。
 伯父が書き移した上質な和紙の手触りを確かめ、俺は和紙を一枚一枚捲りざっと内容を確かめた。
 達筆すぎる墨書は、俺には読み難かった。だが、内容を確認するだけなら十分読み取れた。
 言い回しや表現に差異は在ったが、確かに次郎衛門が伝えた内容が残っていた。
 俺は和紙を桐箱に戻さず封筒の横に置き、隣の小箱に一旦眼を移し、住職に眼で問い掛けた。
「鬼の角と伝えられている物です」
 怪訝な表情を浮かべ、住職は静かに応えた。
「どうか、なさいましたか?」
 俺は住職の様子が気になり、箱を手に取りつつ尋ねた。
「いえ。伯父様も御父様も一読された後、酷く考え込まれたもので」
 俺が手紙を読んだ時より、遺書を読んで平静でいるのに、住職は驚いていたらしい。
「古い墓の享年を見ました。あれで驚き過ぎました」
 住職にはそれで通じた。
 沈痛な表情で頷き、小さく息を吐いた。
 俺は先程と同じ、小箱の朱房の付いた紐を解き中を改めた。
 真綿を敷いた箱の中に、五センチ程の牙状の青い半透明の物質に、幾筋もの乳白色の筋が入っている物が納められていた。

 角か?
 今なら吸血鬼の牙だな。
 いずれにしろ、鬼か。

 かって次郎衛門を鬼にした角。

 俺はふと、千鶴さんの言った鬼の強い遺伝子と言う言葉を思い出していた。

 遺伝子か?
 エルクゥの細胞とは、遺伝子か
 奴は受肉とも言ったか?

 角にそっと指を伸ばし表面をなぞって見る。
 硬く見えた角は、指先に柔らかな滑らかさを伝わらせる。
 仄かに懐かしい温もりさえ感じた気がした。
「えっ!」
 俺は思わず声を洩らした。
 一瞬角が光を発し脳裏に様々な映像が駆け抜けた。
 夢で見た光景が、早送りされたフィルムの様に束の間現れ消えた。

 その刹那に、俺は自分の前世を見た。
 夢で見た光景が、より鮮明に記憶に浮かび上がった。
 俺は、自分で記憶を……?

「どうなされました?」
 気が付くと俺の声に身を乗り出した住職が、箱の中の角が光ったのには気付かなかったのか、俺の顔を訝しげに見詰めていた。
「いえ、もっと禍禍しい物を想像していましたので。あまり綺麗で、驚きました」
 住職に応えつつ俺は角を手に取り、そっと表面をなぞった。
 今度は変化は現れなかった。
 ただ角に落ちた雫で、頬を涙が伝っているのに気付き指で拭った。
 角を箱に戻し和紙と供に置き、俺は住職に向き直った。
「書き移し、残すと言われましたが?」
「はい、左様ですが」
 相変わらず柔和な笑みを絶やさない住職に、俺は自分の意思を伝えた。

「残さないつもりです」

 住職がどう反応するか。
 反対して千鶴さんに伝える危険もある。
 俺は言葉を切って住職の反応を待った。

「私どもは、御預かりしておるだけで」
 表情を崩さず住職は答えたが、肩の荷が下りたと言う様に眼じりが皺を刻んだ。
「角の方は、このままお預けして宜しいでしょうか?」
 住職は小さく頷いて返した。
「有難うございます」
 俺は深く頭を下げた。
 俺は封筒をジャケットの内ポケットに仕舞い、和紙を桐箱に戻しハタと気が付いた。

 参った。
 桐箱を持って行けば、梓や初音ちゃんが中身を見たがるだろう。その為に着て来たジャケットの内ポケットには、既に封筒が入っていて不自然に膨らみすぎる

 考えた末、中の和紙だけを左腕に巻いたシップと入れ換え、その上から包帯を巻き直した。

 分厚くなったが、何とか目立たないだろう。
 梓に感謝しないとな。



「少々お尋ねしても、宜しいかな?」
 住職が躊躇いがちに口を開いたのは、資料は送って貰う事になったと住職に口裏を会わせて貰える様、頼んだ後だった。
「お答え出来る事でしたら」
 俺の答えに、住職は深く息を吐いた。
「実の所、御爺様も伯父様も。御父様もですが、随分と残して良い物か御悩みでした。私も寄る年波、跡を継ぐ者もおりません。残されぬと聞き安心しておるのですが。よく決心なされたと驚いてもおるのです」
「理由ですか?」
 爺さん達が悩み抜いた末残した物を簡単に残さないと決めたのが、余程住職には奇異だったのだろう。
 俺が聞き返すと住職は深く頷いた。
「彼女を、どう思われますか?」
 俺は逆に住職に聞き返した。

 爺さん、伯父さん、親父も信用した住職なら、千鶴さんの力にもなってくれる。

「はて? 優しく聡明なお嬢さんですな。一言で言えば真面目ですかな。責任感がお強い、何を置いても責務を真っ当なさる。いま少し、肩の力を抜かれれば良いかと。御父様も御案じになっておられました」
 話を逸らしたと思ったのだろう。訝しげに眉を潜めながらも住職は答えてくれた。
 親父の相談相手でも在ったのか、千鶴さんの事も住職は良く知っていた。
「ええ、責任感が強すぎる。儚い強さです」
「儚いと? 確かに、そうやも知れませんな」
 考える様に顎に手をやり、住職は俺を見直した。
「崩れぬ様、どなたかの支えが必要でしょうな」
 住職は俺を見て穏やかな笑みを浮かべた。
 俺が支えれば良いという笑みだった。
「家訓を御教え下さいましたが。それが、支えを両刃としていまして」
 静かに返すと、住職の表情が訝しげに曇った。
「はて? しかし昨日、御爺様似と?」
「過日、街で多数の方が亡くなりました。ご存じでしょうか?」
「…まさか?…犯人は…捕まった…と?」
 何を言いたいか察した住職の顔色が悪くなり。俺を見る瞳に畏怖が過った。
「彼女は、父似だと思い込んでいました」
「なっ!?」
 住職はその際、柏木当主がどうするか知っている。
 顔から血の気が引き、深刻な顔で身を乗り出した。
「ぎりぎりで誤解は解けました。が、私の為にも責務を果そうと」
 息を飲んだ後。住職の恐怖が瞳から去り深い苦悩を浮べ。座り直し聞いた事を後悔する様に、口から重い溜息が洩れた。
 茶室の中に重い静寂が訪れ、俺も住職もどちらかが口を開くを待って見詰め合った。
「むごい事に。お辛かったでしょうな」
 静けさに耐えかねた様に、住職は小さく息を吐き沈黙を破った。
「祖父似だと判ったのは、その折でして。未だに気に病んでいます」
「間違いで宜しゅうございましたが。悔恨の情も深かろうものを」
 視線を下げた住職の瞳には涙さえ滲み、聞くのも耐え難いと首を振った。
「恐れも」
 苦しげに呟いた住職に短く返すと、住職は顔を上げ首を捻った。
「それは?」
 住職の瞳に不安がありありと現れていた。
 俺が鬼を克服して何を恐れているのか、俺が許さないのかと訝しむ顔つきだった。
「伯父夫婦を亡くしてより、父一人を支えとして来ました。父までも亡くし、家と妹達への責任感が支えて来ましたが」
 俺は軽く首を横に振り。
 住職の瞳は不安に変わって痛みを浮べ頷いて返した。
「それ故儚いと。確かに両刃かと」
「はい」
「支え、失うを恐れておいでか?」
「恐らく」
「この齢にして悟った辛さを、あの若さでとは」
 住職にとっては、亡くなった細君がそうだったのだろう。言葉が重く響いた。
 支え合う相手を亡くした者だけが持つ、悲痛さに溢れていた。
「気にするなと幾度も言っているのですが。私の力不足です」

 彼女の態度の変化は、従弟から恋愛対象になったのだから当然だが、それが不安を助長しているのも判る。
 妹達に付き合っている事を告げない俺の態度にも、問題がある。

「自ら乗り越えねば、心は晴れますまいな」
「その為にも、今は側に居すぎるのもどうかと思いまして」
「お帰りの後を、御案じですかな?」
 年寄りにはこれ以上は辛いという様に、住職は額を押え、小さく息を吐いた。
「はい。互いに離れ、時間を置くのも良いかと。ですが……」

 出来ればこちらに居たいが、大学を辞めてこちらに来ても、今の俺に出来る事はない。
 千鶴さんは、俺を見るたび不安を抱いている。
 俺が本当に許しているのか、本当に鬼が制御出来ているのかを常に心配している。
 そして俺にも、考える時間が必要だった。

「判りました。折に触れ、近況なりとお届けいたしましょう」
「宜しくお願いします」
 住職の方から言い出してくれ、いつ頼もうかと考えていた俺は、ホッと息を吐き深く頭を下げた。
「もう御判りかと思いますが、時代も変わっています。悲劇も終わりにしたい。無理を押してまで力を残すのは、私には理不尽としか。家訓も一部変えるつもりでいます」

 後は鬼の制御方さえ見つかれば、自然に血は薄れ、力も無くなる。

「いや、よく判りました。しかし………」
 深く頷いた住職の視線が、ジッと俺に注がれた。
「何か?」
 住職の躊躇った言葉の切り方に、俺は先を促した。
「いえ、失礼とは存じておりますが。お嬢様方とおられる時と、今の貴方とが別の方に感じられましてな。ご無理をなさっておられるのではないかと」

 別人?

 住職の言葉に、俺は頭を殴られた様なショクを受けた。

 まったく気が付かなかった。
 違和感さえなかった。
 俺は、こんな考え方をしたか?
 こんな淡々とした話し方をしたのか?
 鬼の目覚める前はどうだった?
 千鶴さんが手に掛けようとした事を、信用しているとは言え、他人の住職に話すなど考えなかったんじゃないのか?

「御気を、悪くされましたかな?」
 考え込んだ俺は、心配そうな住職の声で考えを打ち切った。
「いいえ。知らない間に深刻になっていたかも知れません。無理をしているつもりは無いのですが」
 何とか住職に笑って見せ、気にしていないと首を横に振った。

 次郎衛門の記憶の影響を受けているのか、鬼の目覚めた影響かも知れない。

「それならば良いのですが。貴方も、肩の力を抜かれた方が良いかも知れませんな。似た者同士という事もありますでな」
「はい」
 温和な笑みを取り戻した住職の、からかい半分の言葉に軽く笑って頷き。
 俺は近況と一緒に、柏木の家系図と過去帳を送って貰えるよう頼み、後で離れに顔を出すという住職と別れ茶室を後にした。

 かなり時間が経っている。
 皆、また具合が悪くなってないかと心配しているかも知れない。

 俺は渡り廊下を離れへと急いだ。

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