夢幻の章 八


「まったく、馬鹿が心配ばっかり掛ける」
 梓の押えた声が鹿脅しの音に重なる。
「梓、和尚様の前ですよ。もう、おやめなさい」
「そうだよ、梓お姉ちゃん。ちょとしつこいよ」
 千鶴さんに続いた初音ちゃんの言葉とは思えない非難の声に、俺は首を横に向けた。

 さっきまで心配して泣きそうな顔だったから、まだ興奮しているのだろう。
 いつもの初音ちゃんなら、梓の照れ隠しにあんな事を言わない。

「楓ぇ〜。初音まで、あんな事………」
 俺が横になった縁側から部屋の中を覗くと、梓が千鶴さんだけでなく、初音ちゃんにもたしなめられ。
 泣き付こうとした楓ちゃんにジッと非難の眼で見詰められ、俯き頭をぼりぼり掻いていた。

 墓地で楓ちゃんが水に浸して来てくれたハンカチで、流れる汗を拭っていた俺は、心配して梓達と一緒に来てくれた住職の勧めもあり、寺へ引き返して来た。
 俺は寺で待っていると言ったのだが、元が俺の提案なのと、皆は家から近いのもあって一緒に引き返し、離れで昼食を取っていた。

「初音ちゃん、心配しないで。俺は大丈夫だから」
「…う…ん」
 笑顔を作り初音ちゃんに言うと、初音ちゃんは心配そうな顔で頷いた。
「悪いな梓、せっかく作ってくれたのに」

 せっかく用意してくれた梓には申し訳なかったが、俺は胸が詰まり、胃がむかつき何も食べる気になれなかった。
 皆にはすまないが、縁側で風に当たり横にならせて貰った。

「具合が悪いんだから仕方ないけど。一体どうしたの? さっきまで何とも無かったのに」
 楓ちゃんにまで非難の視線を浴び、小さくなっていた梓は、俺の声にほっと息を吐くと眉を潜めた。
「悪い、急に気持ちが悪くなってな」
 俺は横になっている間にだいぶ楽になり、半身を起こし縁側に座り直した。
「耕一さん。もしかして昨日、注射されませんでしたか?」
「注射?」
 千鶴さんに心配そうに聞かれ、俺は首を傾げた。
「ええ。痛み止めの強い物は、後で気持ちが悪くなったりしますから。それに、その後すぐ食事でしたから。睡眠も充分でなかった筈です。それらが重なったんじゃないかと思いますけど」
「ああ、それでかな? もう平気なんだけど」

 もちろん嘘だ。
 注射などしていないし、原因も良く判っている。
 肉体的には鬼が目覚め強くなっても、精神が強靭になった訳じゃない。
 俺を苛んでいるのは罪悪感だ。
 しかし、千鶴さんの機転には驚かされる。

 みんな納得して頷いている。
 梓だけが、自分が原因だと言われた様に悪そうに視線を落とした。
「すいません。ご住職にまで、ご迷惑をお掛けして」
 従姉妹達の遣り取りを眼を細め見ていた住職に、俺は頭を下げた。
「いや、いや。大した事は出来ませんが。お気になさらず、ゆるりとお休み下さい。ご参拝に見えられ、体調を崩される方もまれにおられますでな。そういう方々のお世話をするのも、私どもの勤めというものです」
 軽く頭を下げた住職の眼が心配そうに細くなった。
「それより、お加減の方はもう宜しいのですか? 横になっておられた方が、楽かと思いますが」
「いえ、もう大丈夫です。座っていた方が風が気持ち好いですから」

 今度は嘘ではない。
 小高くなっている所為か、一足早い秋の風が頬をなぶる。
 心地好く優しい風が疏よいでいた。

 住職の心配そうな顔にも穏やかな表情が戻り。皆もやっと安心してくれたのか、それぞれの頬に笑みを浮べていた。
「それは、良ろしかった。しかし、これ程のご馳走を前に食せぬとは、ちと残念ですな」
 住職は言いつつ、テーブルに視線を向けた。

 テーブルの上には、梓がバスケット二つに詰め込んだローストビーフを挟んだサンドイッチやお握り、唐揚げ等、和洋折衷の料理が並んでいた。
 食事が終わり、住職が用意してくれたお茶を飲んでいる今も、食べきれない料理がまだまだ残っていた。
 とても外で広げられる量ではない。初めから離れを借り、住職も誘うつもりだったのが判る量だった。
 多分、昨夜の夕食を作り直したのだろう。
 住職も、並んだ料理の数々に最初眼を丸くした程だ。

「御店でもこれ程美味しい物は、仲々頂けませんな。お嬢さん方は御料理もお上手で、旦那様になる方が羨ましいですな。これなら、いつでも御嫁入り出来ますよ」
 俺は苦笑が洩れた。
 住職に嫁入りと言われ、梓は赤くなって俯き、千鶴さんは視線を逸らし庭に目をやる。
 初音ちゃんは苦笑いを浮かべ、梓と千鶴さんを見比べている。
 楓ちゃんは、どう反応したらいいのか判らないのか、曖昧な笑みを浮かべていた。
「どうか、なさいましたかな?」
 妙な雰囲気に、住職が何か悪い事を言いましたかと、ゆっくり見回し俺で眼を止めた。

 俺に聞かれても。

「和尚さん。あのね、これ全部、梓お姉ちゃんが作ったんだよ」
 初音ちゃんが機転を利かし、横から助けてくれる。
 俺は胸をなで下ろした。
 家ならいいが。こういう時は、初音ちゃんが話してくれるのが一番弊害がない。
「御一人で作られたのですか? それは凄い。いや、正直感服いたしました」
「い、いや〜。初音や楓も手伝ってくれたから。いつもしてますから」
 心底感心したと住職に見られ。梓は慌てて赤い顔で手を振り、初音ちゃんと楓ちゃんに視線を走らす。
 千鶴さんは、庭を向いたまま知らん顔を決め込んでいた。
「いいえ。食させて頂き、気配りというものが見えます。美味しく食べて貰いたいという気持ちが良く伝わってきます。昨今、料理も暖めるだけとかで、作らぬ方も多いと聞きますに、感心いたしました。やはり料理は、愛情がこもってないといけませんな」
「あ、愛情!」
 手放しで褒める住職の言葉で、梓はとんきょうな声を上げ。顔を更に赤く染めると、肩を竦め下を向いてしまう。
「妹さん方も、面倒がらず良くお手伝いされておられる様で感心いたしました。御料理もされないでは、御嫁入りした先で少々困りますからな」
 住職には悪気はなく、本心から初音ちゃんと楓ちゃんを褒めたが、楓ちゃんは心配そうに千鶴さんの様子を伺い。
 初音ちゃんは引き攣った笑いを浮かべ。梓は照れまくって小さくなったままだ。
 千鶴さんは庭を向いたまま肩を竦め、居心地悪そうに身をよじった。

 見ている俺の方が、また胃が痛くなりそうだ。

「あの、ご住職」

 俺は事態の打破を目指し声を掛けた。
 今の俺には体に悪い。

「はい? なんでしょうかな」
「昨日お願いした、友人の資料なんですが」
 ハテと首を捻った住職は、すぐ何の事か理解し難しい顔になった。
「そうでしたな。ここでは何ですな。茶室の方にご案内したいと思いますが。如何でしょうかな?」
 住職は俺ではなく、千鶴さんに向い尋ねた。
「茶室に?」
 庭に顔を向けていた千鶴さんは、驚いた様に住職を振り返った。
「耕一さんを、茶室にですか?」
 千鶴さんは重ねて住職に尋ね、ジッと見詰めた。

 その真剣さに俺は、茶室に入るのに何か特別な意味があるのを感じた。

「はい。明日にも帰られるのでしたら、御招きしておくのも良いかと思いましてな。上を、お使い頂こうかと愚考いたしておりますが。お嫌でしたら別の御部屋に。如何なものでしょうか?」
 住職は柔和な眼差しで千鶴さんを真っ直ぐ見て、再び問い掛けた。
「…あの。私は、構いません」
 何故か頬を赤らめ、視線を落とすと千鶴さんは小さな声で頷いた。
「では、茶室は渡り廊下の突き当たりにございます。私は、御友人がご所望の資料を用意いたして参りますので。そう、十五分ばかり後に、そちらでお会いするという事で、如何でしょうか?」
「はい。お手数をお掛けしますが。よろしくお願いします」
「では、後程」
 俺が頭を下げると住職も会釈で返し、立ち上がり離れを後にした。

「ねえ、耕一お兄ちゃん」
「うん? 初音ちゃん、なにかな?」
 初音ちゃんに呼ばれ離れに目を戻すと、膝でいざり寄って来た初音ちゃんが、興味つつの顔を向けていた。
「朝も言ってたけど昨日って。お兄ちゃん、昨日も御墓に来たの?」
「お寺には来たんだけど。でも御墓が在るの、昨日千鶴さんに聞くまで知らなくてね」
「そうだ! 忘れてた!」
 梓が急に顔を俺に向け睨み付けた。
「耕一、昨日なんで遅かったんだ。千鶴姉と一緒だったよな」
「あ、そう言えば」
 昨夜の騒ぎで曖昧になっていた疑問を口にした梓の言葉で、初音ちゃんまでジッと俺を見詰める。
「私は叔父様の納骨の事で、和尚様とお話してて遅くなったのよ」
 千鶴さんは赤みの浮いた頬でそれだけよ。と言うと知らん顔で湯飲みに手を伸ばし口に運ぶ。

 千鶴さぁん、それはないだろ。
 俺に後を任せられても。

「じゃあさ、耕一は?」
 朝から千鶴さんに当られていたうっぷんを晴らす様に、梓は俺を睨み付ける。
「だからな。寺に寄ってから用を済ませてたら遅くなって、帰りに千鶴さんと一緒になったんだよ」
「用って何だよ?」
「梓お姉ちゃん、もう良いじゃない」
 しつこく食らいつく梓に、初音ちゃんが取り成してくれる。
 梓もさっき初音ちゃんに珍しく睨まれたのが効いたらしく、ぶつぶつ言いながら舌打ちすると湯飲みを掴んで飲み始めた。
「でもお兄ちゃん。御墓参りでもないのに。このお寺に、何かあるの?」
 他の用件まで考えていなかった俺は、初音ちゃんに助けられホッと息を吐き、初音ちゃんに笑い掛けた。
「ちょと友達に頼まれてさ。このお寺、古いだろ?」
 今度は和尚との打ち合わせ用に用意した言い訳が、俺の口からすらすらと流れた。
「うん。和尚さんには悪いけど」
 初音ちゃんは、疑う様子もなく素直に頷いた。
「こういう古い建物の資料が欲しいんだって。こっち来る次いでに頼んで欲しいって、頼まれててね」
 資料は次いでだと言うと。昨日は次郎衛門の墓碑に来たと言ったのに。と少しむくれた顔をしていた千鶴さんは表情を和ませた。
「ふ〜ん。そうなの? ね、耕一お兄ちゃん。お茶室ってどんなかな?」
 どうやら初音ちゃんは、俺が昨日来た理由より、最初から茶室に興味があったらしい。
 あっさり話を移した。
「俺も茶室なんて入った事ないから、どんなだろ?」
「一緒に行っちゃだめかな? あたし見てみたいんだけど」
「どう…かな?」
 初音ちゃんに恐る恐る覗き込まれ、俺は内心の動揺を抑え首を捻った。

 普段、万事控え目な初音ちゃんの頼みだ。叶えたいのは山々だが。

「あ、それ良いな。楓もどうだ?」
 横から聞こえた声で俺は、頭を抱えたくなった。
 梓はもう行くと決まった様に楓ちゃんを誘い。楓ちゃんもコクンと頷いた。
「だけど退屈しないか。少し聞いてきてくれって、頼まれた事もあるから」

 ちょと待て、それじゃ住職が座を移してくれた意味がない。

「何言ってんだよ。また気分悪くなったら、和尚さん一人で大変じゃない」
 軽く潜めた眉で梓から睨まれ。初音ちゃんに心配そうに下から覗き込まれた俺は、進退が窮まった。

 狭いからだめだ。なんて言えない…よな。

「梓、初音、楓もだめよ」
 千鶴さんの一言で、俺は窮地を救われた。
「何でさ?」
「無理なのよ。小さなお茶室だから、五人も入ったら息が詰まるわよ」
 穏やかに微笑み首を傾げた千鶴さんは、まだ頬に赤みを残していた。
「千鶴お姉ちゃん、入った事あるの?」
「そう言えば。和尚さんなんで千鶴姉に聞いてたんだ?」
 俺の疑問を梓が代弁してくれて、俺も聞き耳を立てた。
「御爺様が作られたお茶室だからよ。普段は鶴来屋でも、特に重要なお客様をお招きするの。初音にも今度見せて上げるから。だから今日は、遠慮しておきなさい」
「うん。じゃあ今度ね」
 初音ちゃんは、千鶴さんに素直に頷いて返す。
「お爺さんが作ったのに、そんなに狭いの?」
「昔の物を復元したらしいわ。大切な方と、差向かいで話せる様にって」
 爺さんの業績ならもっと大きくても良いのにと聞く梓に説明し、千鶴さんはゆっくり俺に目を向けた。
「和尚様も、耕一さんが御気に召した様ですね。お茶室に誘われるなんて」
「そうなの?」
 千鶴さんの助け船で一息吐いていた俺は、眉を潜めかけた。

 昨日は、あっさり通してくれたけどな。

「ええ。とっても気に入っておられますよ」
 確信めいて言うと、千鶴さんは、また頬を赤くして少し視線を下げた。
「和尚様は、御爺様の古くからの御友達で。父や叔父様も大変お世話になった方ですし。私達を本当の孫の様に可愛がって下さって。優しいとても良い方です」
「うん。好々爺って感じの人だね」
「はい。でも、お子様もおられませんし。数年前奥様を亡くされてから、この広いお寺で独り暮らしですから、寂しい思いをされていると思いますけど」

 小さく息を吐いた千鶴さんの気持ちは痛いほど判った。
 俺も母さんを亡くしてから、味わった事がある寂しさだ。千鶴さんも両親を亡くし妹達の親代わりを務め、寂しい思いをして来たのだろう。
 住職も由美子さんが訪ねて来た時、つい口を滑らすほど人恋しかったのだろう。

「じゃあ、今日は梓の料理で喜んで貰えて良かったな。梓を褒めちぎってたもんな」
 梓に目を移すと、梓は褒められたのを思い出し、照れくさそうに赤くなり視線を泳がす。
「ま、料理ならお手のもんだけどさ」
「でも、本当に美味しそうに和尚さん食べてたし。喜んで貰えて良かったね、梓お姉ちゃん」
 初音ちゃんは照れる梓を覗き込むと、住職に喜んで貰えたのを我が事の様に嬉そうに微笑みを浮かべた。
「耕一さん、そろそろ行かれた方が。お待たせしても何ですから」
「うん。じゃ、ちょと行ってくる」
 千鶴さんに促され立ち上がり。俺は楓ちゃんが、千鶴さんを寂しげな瞳で見詰めているのに気が付いた。
 俺の視線に気付くと、楓ちゃんは下を向き何事か考える様に唇に指を当てた。
 楓ちゃんの態度を訝しく思いながら、俺は茶室に足を向けた。

夢幻の章 七章

夢幻の章 九章

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