夢幻の章 七


 バスケットを預け身軽になった梓と一緒に、初音ちゃんの姿が曲がり角に消える瞬間、梓が俺に向かって小さく手を合わせた。

 初音ちゃんと先に行くから、千鶴さんの機嫌を取れって事だ。

 未舗装のなだらかな小道をゆっくり歩く。
 柔らかい陽射しが格子を作り、小鳥の囀りが実にすがすがしい。

 どう話し掛けた物か、隣を歩く千鶴さんを横目で覗く。
 穏やかな笑みを湛え陽射しに目を細める千鶴さんは、胸に抱いた花と相まって一幅の絵の様に美しかった。
 梓の頼みなどどうでも良くなって、目を細め千鶴さんの横顔を眺めていた俺は、すぐ後ろを歩いていた楓ちゃんの姿が、いつの間にか消えているのに気付き立ち止まった。
「あれ? 楓ちゃんは?」
「少し寄りたい所があるから、先に行って欲しいそうです」
 千鶴さんは後ろを振り返りながら俺に応え、足を止め小さく息を吐いた。
「千鶴さん、どうかしたの?」
「その、時々ですけど。楓が何を考えているのか判らなくなって。昔から口数の少ない大人しい子でしたけど。叔父様が亡くなってからは、休みにもあまり家にいませんし。何処に行っているのか聞いても、答えてくれなくて」
 千鶴さんには珍しい愚痴っぽい口調に、俺も後ろを振り返って見た。
 なだらかな傾斜を作る小道には、小鳥の囀りが静かに大気を震わせ、樹々から洩れる木漏れ日が葉擦れに揺れる他、誰かの来る様子もなかった。
 少し前の脇道を入れば、次郎衛門の墓碑への近道の筈だ。
「高校生なら、そんなもんだよ。彼でも出来たんじゃない」
 軽い調子で言うと、千鶴さんは少し眉を寄せた。
「楓にですか? 楓は、隠れて付き合うなんてしません」
「そう? じゃあ心配しなくても大丈夫だよ。さっきも梓の方を心配してたから」
 きっぱり言い切られ、俺は苦笑しつつ返した。

 しっかり信用してて、千鶴さんは苦労性だな。

「楓が梓の? でも、梓が悪いんです」
 千鶴さんにも、梓にきつく当たっていたのが楓ちゃんの心配だとすぐに見当が付いた。
 少しむくれた顔で上目使いに俺を見る。
「うん。でも昨日ご馳走作るのに、一昨日から準備してたらしい。脅かそうと思ってたんだな。初音ちゃんと楓ちゃんは知ってたみたいだった」
 俺が言うと、千鶴さんは決まり悪そうに視線を地面に落とした。
「一昨日から? 梓ったら、私には何も教えてくれないで」
「千鶴さん、忙しそうだったから。梓も気を使ったんだよ」
 仲間外れにされ拗ね始めた千鶴さんに、この所帰りが遅かったからだ、と俺は取り成した。
 梓の事だ。話したら千鶴さんが手伝うって言い出すからだろうけど。
「でも、少し位教えてくれてもいいのに。楓や初音までのけ者にして」
 ぷっと頬を膨らませ、千鶴さんは姿の見えない梓と初音ちゃんを睨む様に道の先に顔を上げた。

 ありゃ、逆効果だったか?

「この間。涼しくなって来たから、熱燗も良いなって言ったから。酒を用意してくれたのかな」

 梓の飲んでいた酒は、いつも料理に使ってる物とは違ったし。親父はビール党だったからな。

「それなら。梓も昨夜、そう言えば良かったんです」
「わざわざ言う奴じゃないだろ?」
「…そうでしたね。そういう子でした」
 小さくふっと息を吐くと、千鶴さんは俺を見て優しく微笑んだ。
 木漏れ日を跳ね返す肌理細かな肌の白さも手伝い、表情を日差しの陰影が浮きたたせ、うっとりするほど幻想的な笑みだった。
「判りました。もう怒っていません」
「怒ってたの?」
 千鶴さんの笑みに目を細め、からかい半分に尋ねると。千鶴さんは、ばつが悪そうに目をうろうろさせる。
「どうして、怒ってたのかな? 俺の腕は大丈夫だし。他に何か、あったっけ?」
 と俺はワザと首を捻って見せる。
「えっと。それは、その、楓を殴りかけたし」
 思い付いたとばかりに、千鶴さんは仄かに赤い頬でぱっと顔を上げる。
「梓も充分反省してたけど?」
「でも、躾はしっかりしないと」
「やり過ぎは、逆効果だと思うけどな?」
 拗ねた上目遣いになった千鶴さんに返すと。少し機嫌を損ね頬を膨らませ、俺を見ながら遠くを見る瞳をした。
「耕一さん、叔父様とおなじ事を言うんですね」
「親父? そう言えば、親父も殴った後はしつこく無かったな」
 親父と俺を重ね合わせた時見せる千鶴さんの瞳だが、親父の話で頬を膨らませるとは珍しい。
「しつこいって! だって、梓が悪いんです! 初音や楓は礼儀正しいのに、梓だけ落ち着きがないんですから」
 拳を握り締め頬を紅葉させた千鶴さんは、上目遣いのままぎろりと睨み付ける。

 しつこいと言うのは禁句だったか。

「いや、千鶴さんがしつこいって言ったんじゃないよ。それに、初音ちゃんは特別だと思うけど。楓ちゃんにしたって、あの歳では落ち着きすぎだよ」
 梓の半分とは言わないが、二人を足して割ると丁度良いかな?
「耕一さんには、判ってないんです!」
「興奮しないで。千鶴さん、何か変だよ?」
 珍しく興奮して顔を赤くした千鶴さんに慌てて言うと、又もジトッと睨み付けられた。
「だって、私が梓を叱ると叔父様もでしたけど。耕一さんまで梓の味方をするんですもの」
「でも、もう反省してるんだしさ」
「あの子は、何度も同じ事をするんです。何度言い聞かせても、そのつど頭から消えちゃんですから」

 そう言われると、そうだな。
 感情が先走って、抑えの効かない奴だからな。

「だから怒る時は徹底的にやらないと。あの子は堪えないんです」

 それはちょと、あれじゃ苛めに近い気がする。
 やはり楓ちゃんが口にしなかった理由が在るのは確かみたいだが。

「…もし外で、あんな………」
「え?」

 外で?

 急に視線を落とした千鶴さんの呟きを聞き返すと、ハッと千鶴さんは顔を上げ曖昧に笑った。
「いえ。やっぱり両親が居ないと、とかくいろいろ言われますから」
「あ、うん。それは判るけど。やり過ぎると言う事効かなくなるよ。梓には梓の良い所があるんだし」

 親父と別居で母さんもいろいろ言われたからな。だが、外で?
 何かをごまかす、千鶴さんの態度が俺には妙に引っかかった。
 前に何処かで、同じ事が在った気がする。

「それは、判ってはいるんですけど」
 小さく息を吐くと、千鶴さんは、梓にどうしたら良いのか分らない様に髪を揺らし頭を軽く振った。
「千鶴さん、心配のし過ぎは美容に悪いそうだよ」
「…耕一さん」
 笑いながら茶化すと、千鶴さんは困った様に眉を潜める。
「まあ、今回は俺に免じて許してやってよ」
「だから、もう怒っていません」
 小さく拳を握ると、千鶴さんは俺をきっと睨む。
「あれ? そうだったっけ?」

 そう言えば、俺がからかい半分に話を振ったんだった。

「耕一さん、からかってるんですか?」
 ムッとした顔で千鶴さんは、ツンと口を尖らし睨んだ目を上目遣いに変える。
「ごめん。むきになった千鶴さんが可愛くって」

 最近照れずにこう言う台詞が言える様になったな。

「えっ! そんなぁ〜。…もう耕一さんったら、酷いです。だんだん意地悪になってますよ。直ぐ子供みたいになるんですから」
 涙目になった千鶴さんは、プイっと横を向く。
「う〜ん。好きな娘からかって喜んでるんじゃ、小学生だな。こんなんじゃ、嫌われるよな」
 腕を組んで困ったと首を捻ってみる。
「……嫌ったり…しませんけど」
「こんな事しても?」
 言いつつ俺は、横目で覗いていた千鶴さんの真っ赤な頬に手を伸ばし、そっと顔を寄せ唇に唇を重ねた。
「…んっ…もう」
「嫌い?」
「本当に、意地悪なんですから」
 上目遣いに睨みながら、胸に抱いた花で顔を隠した千鶴さんの「好きです」と言う囁きが聞こえてきた。

 千鶴さんこそ、本当に子供みたいだ。

「さ、そろそろ行かないと。腕はもう平気だし。梓も二日酔いにもなってないからいける口だろうな、今夜当たり……」
 俺は可愛い千鶴さんの反応に笑いを押し殺し、急ごうかと背中に手を回した。
「耕一さん、梓を晩酌に付き合わせちゃだめですよ」
 目を一瞬光らせた千鶴さんに釘を刺され、俺は乾いた笑いを洩らした。
「初音ちゃんをあんまり待たすと悪いよ。今日は、すごくご機嫌良いしね」
「ええ。そうですね」
 話をごまかそうと俺が少し声を大きくすると、千鶴さんはクスッと笑いを洩らす。
 俺は来た道を気にしながら、千鶴さんを促し歩き出した。



 梓と初音ちゃんは、俺達を東屋で待っていた。だが、一緒に楓ちゃんがいたのには、千鶴さんも少し驚いた顔をした。
 俺達を追い越さずに墓地に来るには途中の脇道を入り、次郎衛門の墓碑の前を通って来るしかない。

「遅いぞ、何やってたんだよ?」
 東屋の床で座り込んでいた梓が言いながら立ち上がり。ジーンズの尻を叩きながら伸び上がる様に首を突き出し、千鶴さんの胸に抱いた花束を覗き込む。
「なに? 梓」
「なにね。花が潰れてるんじゃないかと思ってさ」
 いきなり頭を突き出され上体をのけ反らせながら聞く千鶴さんに、梓の言いたい事は、千鶴さん以外の全員がイヤという程よく判った。

 転んで遅くなったって言いたいんだろう。
 自分で頼んどいて人の苦労をなんだと思ってるんだ、学習能力がないのかこいつ。

「梓お姉ちゃん。早く行こう」
 初音ちゃんが、梓の腕を掴むと引っ張って止めさせ様とする。

 険悪になり過ぎる前に止めてくれる初音ちゃんが居るから、梓も千鶴さんに好きに言っていられるんだろう。

「楓ちゃん、先に来てたんだ。少し途中で待ってたんだけど」
 初音ちゃんが梓を止めてくれている間に、俺は楓ちゃんに話し掛けた。
 梓を横目で睨み付けるのも忘れない。
「ごめんなさい。脇道から」
 楓ちゃんは小さな声で謝り頭を下げる。
「気にしなくていいけど。近道が在ったのか」

 次郎衛門の墓に寄って来たのか?

 言いながら梓の様子を窺うと、初音ちゃんに止められた上、俺に睨まれ流石にマズイと思ったのだろう、知らん顔で口笛を吹いていた。
 何を言われたか判らなかったのか、千鶴さんはキョトンと梓を見ている。
「ね、早く御墓に行こう。耕一お兄ちゃんは、どこか知ってる?」
 初音ちゃんは重ねて梓に言い。俺の方を向くと、首を傾げ考える様に頬に指を当てた。
「うん。来たかも知れないけど。覚えてないんだ。あっ! 千鶴さん、水は俺が持つよ」
 初音ちゃんに答えながら、手桶を取ろうと手を伸ばした千鶴さんに気付き、俺は声を上げた。

 昨日の二の前は、勘弁して欲しい。

「…そう…ですか? でも…あっ! 梓に持たせればいいんですよ。ねぇ、梓」
 何故止められたのか気付き一瞬頬を膨らませた千鶴さんは、梓に向いにっこり笑い掛ける。
「あっ、ああ、水ね。はい、はい」
 慌てて手桶を掴み、梓は水場の向う。

 しっかり何を言われたか判ってたのか?
 これは、梓は今日一日は荷物持ちだな。

「…姉さん」
 千鶴さんが楓ちゃんに呼ばれ顔を向けると、楓ちゃんは何か言いたげに、俺と初音ちゃんに視線を走らせ、千鶴さんに目を戻した。
「初音、先に耕一さんと御墓に行っててくれる」
 千鶴さんは初音ちゃんに頼むと、楓ちゃんを促し東屋に足を向けた。
「うん。耕一お兄ちゃん、こっちだよ」
 俺は楓ちゃんの様子が気になったが、初音ちゃんに右腕を引かれ、振り返りながら墓地の中に足を運んだ。


 古い寺だけに墓石もかなり痛んだ物が多い。
 後から区切ったのだろう。墓の古さに関わらず、腰位の高さの石囲いで綺麗に区画分けされた墓地の中を進んで行くと、眼下に雨月寺を手前に、街を睥睨する様に柏木家の墓が在った。
 辺りの区画より数倍大きい中に、真ん中に鎮座した御影石で出来た累代の墓は周りの物に比べ大きく新しい。
 おそらく爺さんの代に作ったのだろう。鶴来屋グループ創始者の名に恥じぬ立派な物だった。
 墓に添えられた花は、昨日千鶴さんが供えた物だろう。まだ萎れてはいなかった。
 刻まれた碑銘に、爺さんと並んで伯父夫婦の名が在った。

 親父の名も、もう直ぐここに並ぶ。
 母さんの墓も移そうと、俺は決めていた。
 せめて寂しくない様に、長く離れていた両親を一緒にして遣りたかった。

「耕一お兄ちゃん。ここから街が一番良く見えるんだよ」
 物思いに耽けっていた俺は、初音ちゃんの声で墓から街を見下ろした。
「うん、凄いな。なんか街を見下ろして偉くなった気がするな」
「家も良く見えるでしょ。あの山の前辺り」
 一段高くなった墓の前に立つと、初音ちゃんは、そう言って指で屋敷の辺りを示して見せた。

 ここから見ると、柏木の屋敷は丁度山を背に、街に向って建っていた。
 山から街を守る様な位置だ。
 山から下りて来る者から、街を守る場所に建っている。

「叔父ちゃんも、御墓に入ったら、ここから…見ててくれるよね…」
「初音ちゃん?」
 震えた声の響きに振り返ると、胸の前で手を組んだ初音ちゃんが、寂しそうにゆっくり微笑んだ。
「…だから、あたし平気だから。…お父さんやお母さん。…叔父ちゃんもあたし達、…ここから見ててくれるから。…耕一お兄ちゃん、帰っても、また来てくれるよね?……叔父ちゃん達が…見ててくれるから……寂しくないから………」
 俺は瞳を潤ませながら言う初音ちゃんをそっと抱き寄せ、背中を優しくなでた。
「うん。必ず、来るから」
 俺は帰る予定日を延ばす前に、初音ちゃんがずって居て欲しいと言ったのを思い出し、初音ちゃんの頭をゆっくりと撫でた。
 俺が帰らなかったのを初音ちゃんは、自分が寂しがったから、心配で帰れなかったと思っていたのだろう。

 優しい子だ。
 みんな優しくて強い。
 哀しい優しさと強さだ。
 自分達の方が辛いだろうに、皆俺を気遣ってくれる。
 俺は何の力にもなってないのに。

 自分の事より相手を気遣う彼女達の優しさと思いやりが、俺には痛ましく思えた。
「親父達が見守ってくれてるから、俺も安心して帰れるよ。御正月には必ずまた来るから。ね、初音ちゃん」
 俺に出来るのは、彼女の気持ちに応え。安心したと笑って次の訪れを約束する事だけだった。
「さ、千鶴さん達が心配するよ。梓に見られたら。初音を泣かしたって、今度は、腕折られちゃうな」
「…お兄ちゃん」
 俺が体を離し指で涙を拭うと、初音ちゃんは困った様に赤い頬で上目遣いで覗き、俺が悪戯っぽく笑って見せると。
 応える様に微笑んでくれた。
「初音ちゃん、先に古いお墓に参っておかない?」
 小道を歩いて来る千鶴さん達を見て言うと。初音ちゃんは目元を拭い、うんと勢い良く頷いた。
 俺と初音ちゃんは、新しい墓の裏に回り柏木家に当てられた一角に並ぶ古い墓を見て回った。
「お兄ちゃん?」
 何げなく墓碑名を眺めていた俺の脚は、凍り付いた。
「耕一お兄ちゃん、どうしたの?」

 そんな…はず……

 俺は心に湧いた畏怖を解消しようと、一つ一つ墓碑名を丹念に調べた。

 そ…んな……

 刻まれた墓碑名を丹念に調べる内、俺は足が震え立っているのも辛くなった。
 半分近くは風化が進み読み取れなかった。
 それでも、そこには信じたくない歴史が刻まれていた。

 背筋から頭に痺れる様な悪寒が駆け抜けた。
 全身から汗が吹き出し気持ち悪い粘つく汗が、顎を伝い滴り落ちる。

 千鶴さんの言った通り、呪われている。
 いくら昔でも若すぎる。
 刻まれた男名の享年が異常に若い。
 長くても三十。大抵が十代後半から二十代前半。
 五、六十まで生きた者は数人。
 事故や病死もいるだろう。
 戦死者もいるかも知れない。
 それでも、まれどころではなかった。
 これでは、鬼を制御出来た者は五百年を通じ殆ど居ない筈だ。
 柏木の血が残っている方が不思議な数だ。
 俺が鬼を制御出来たのは、奇跡に等しい。

 俺は身体の震えを止められなかった。

 その人数分だけ、殺した者が居る。
 自分の子や孫を誰かが葬った。
 多くは千鶴さんと同じく鬼を制御出来る女性が、同じ様に苦しみながら。
 心を凍らせながら血を分けた子供を殺した。
 柏木の歴史は、柏木に生まれた男ではなく。
 柏木の女達の血と涙で呪われている。

 凍らせた心から血を流し続ける柏木の女達の怨念が俺を包み。俺を冷たく暗い地から、血まみれで呪い続けている気がした。
 目が眩み頭の中に怨嗟の声が響くのを、俺は聞いた。
 呪われた血が脈打つ音が。
 震える体を流れる血が俺を呪い、俺の罪を責め苛む声が聞こえた。

 親父や伯父夫婦に詫びる言葉など俺にはなかった。
 この地に立ち、生き長らえた俺に詫びる術はなかった。
 せめて、知らずに死んでいれば。
 知らずに死んだ方がマシだった。

「……お兄…ちゃん!」 
 遠くから掠れた涙声が聞こえ、肩を揺する振動が俺に正気を取り戻させた。
「耕一お兄ちゃん大丈夫!? 真っ青だよ!」
 瞳に涙を浮べ気遣わしく覗き込む初音ちゃんがしゃがんでいる事で、俺は膝を突いている自分に気付いた。
「初音、どうしたの?」
「耕一がどうかしたか?」
 累代の墓にいた梓と千鶴さんが、初音ちゃんの声に驚き回り込んで来る気配に、俺は何とか震える膝で立ち上がった。

 彼女達に心配を掛ける訳には行かない。
 俺には、彼女達に優しくして貰う資格などない。

「大丈夫だよ、初音ちゃん。ちょと立ち眩みがしただけだから」
「でも、お兄ちゃん。真っ青だよ」
 心配そうに見上げる初音ちゃんに、何とか笑って見せている所へ、千鶴さんは姿を現した。
「…耕一…さん?」
 余程俺は酷い顔をしていたのか、千鶴さんは俺を見ると顔色を変え足を止めた。
「お姉ちゃん! 御墓見てたら、お兄ちゃん急に蹲(うずくま)って」
 止める間もなく、初音ちゃんが助けを求め勢い来んで言う。
「…御墓を?」
 千鶴さんは墓と俺を見比べ、表情を苦しそうに歪めた。
「どうしたの耕一。具合でも悪いの?」
 立ち止まった千鶴さんを避け、梓が心配そうに駆け寄る後ろで、楓ちゃんの哀しみに満ちた瞳が俺に注がれていた。

 記憶が在るのか?
 …いいや、違う。
 …彼女は、思い出しても知らない。

「ああ、大丈夫だ。梓の言う通りだな。家でごろごろしてるから。年寄りみたいで情けないな」
 軽く頭を振り笑って見せると、梓の顔が引き攣った。
「その顔のドコが大丈夫だ! 真っ青どころじゃないだろ!」
 手にした手桶を取り落とし、梓が真っ赤な顔で怒鳴り付ける。
「初音、梓と一緒にお水を。いえ、お酒の方が良いわ。和尚さんに貰ってきて」
 俺の体を支え様と手を伸ばした梓は、千鶴さんの声に顔を向け。千鶴さんが身に纏う有無を言わさぬ気配に何か言い掛け、何も言えずに振り返りながら初音ちゃんと駆け出した。
「ごめんなさい。お話しして置けば良かった」
 梓達と入れ替わりに歩み寄った千鶴さんを避け、俺は後ろに在った石囲いに身を預けた。
「…五分じゃないんだ」
 俺は視線を下げ額を押さえながら、必死に千鶴さんに縋り付き、許しを乞いたい気持ちを押さえ付けた。

 普段道理に振舞うしかない。

「…過去帳を見る限りは、みな短命で……」
 額に伸びた千鶴さんの手が触れた一瞬、俺の体が強ばったのに手が止まり。躊躇う様に下ろされ、顔を伏せると小さくごめんなさい。と千鶴さんの呟きが聞こえた。
 俺は千鶴さんが誤解してるのに、それでやっと気が付いた。

 俺の態度を、話さなかったのを怒ってだと取っている。

 俺は視線を上げ、楓ちゃんの姿が見あたらないのにホッと息を吐いた。
「ごめん、違うんだ」
 言いながら俺は手を伸ばし、千鶴さんの項垂れた頭を胸に引き寄せた。
「…耕一さん?」
「ごめん。千鶴さんが誰より辛かったんじゃないか。謝らないで。千鶴さんが謝る事なんか何もない」
 俺の謝る意味など判る筈もなく、訝しげに問い掛ける千鶴さんの髪に顔を埋め、俺はそれだけを言うと細い肩を強く抱き寄せた。

 謝るのは俺だ。
 いくら詫びても、許される筈もない。
 知らなかったでは済まない。
 死んで行った一族全てに、俺には詫びる術がない。

 熱い目頭を押さえ全てを打ち明けたい衝動と戦いながら、俺は腕の中を温もりを抱き締め、俺がその温もりに縋っていた。

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