夢幻の章 六


 赤いリボンで結んだ柔らかい髪を跳ねさせ、軽快な足取りで石段を駆け登った初音ちゃんが、足を止めスカートの裾を翻し振り返った。
 赤いスカートからスラリと伸びた脚の眩しさに、石段の途中から見上げていた俺は、視線を逸らし二段程下にいた梓に眼をやった。
「梓。やっぱり、一つ寄越せよ」
「この位、平気だって」
「でもな……」
 頭を振る梓の両手には、大きな籐のバスケットが一つずつしっかり握られていた。

 男の俺が手ぶらで、一応女の梓一人に荷物を持たせるのは気が引けた。
 だが俺が何度大丈夫だと言っても、昨夜痛めた左腕を気にして、梓はバスケットを渡そうとしない。

「耕一さん、梓なら平気ですよ。いつも大きな荷物を、二つも付けているんですから」

 そして、今朝からこの調子だ。
 昨日言われたの、まだ怒ってるのか?

 俺は隣から聞こえた冷ややかな声に目を向けた。
 僅かにクリーム色がかった白いワンピースの裾を時折吹き上げる風から片手で押え、胸に花束を抱いた千鶴さんが、微笑みながら髪を揺らしチラリと梓に目を走らす。
 引き攣った笑いを浮べた梓の反応で、俺はそれ程珍しい事でもないの? と、梓の隣で片手に水筒を下げた楓ちゃんに目で問い掛けた。
 白いブラウスに濃い茶のスカートと同色のカーデガンと言う出で立ちの楓ちゃんは、俺の考えを読み取ったごとく、小さく息を吐き、はにかんだ笑みでコックリ頷く。

 結構、根に持つタイプなのか?
 浮気なんかしたら命が危ないな。

「耕一お兄ちゃん、早くぅ!」
 俺は初音ちゃんの元気一杯の声に呼ばれ、頭を切り替え石段を一気に駆け上がった。
 なんせ初音ちゃんは、石段の上で前屈みになってジッと待っている。
 下から見上げるとスカートの中まで見えそうな体勢だ。
「初音ちゃん元気だね。俺が運動不足かな?」
 そう疲れてもいないが、ワザと石段の一番上に座り息を吐いて言って見る。
「お兄ちゃん疲れたの?」
「全然」
 後ろ手を組んで覗き込む初音ちゃんに笑って返し、勢い良く立ち上がる。
「ここから見ると綺麗でしょ?」
 初音ちゃんはクスッと小さく笑うと、眼下に広がる街を見下ろしそう言った。

 小高い丘になった寺からの見晴らしを遮る高い建物もなく、石段の上からは街が一望の元に広がっていた。
 新しい家のカラフルな屋根と、旧家屋の屋根がコントラストを作り。ふんだんに残る樹木が住宅地を囲み、緑に覆われた箱庭の様に綺麗に並んでいる。
 箱庭の向こうに海の碧と空の蒼が混ざり合い、手前の緑をより引き立て、頬をなぶる風が心地好く触れていく。

「うん、とっても綺麗だ。でもさ、初音ちゃん」
「なに? お兄ちゃん」
「階段の上とかは、スカートは気を付けないといけないよね」
 悪戯っぽく目を細めて覗くと。初音ちゃんはぱッと目を見開き、真っ赤になって数歩後退りスカートの前を両手で押えた。
「…み、見えた?」
「駆け上がったから、見えなかった」
 本当にと下から覗き込まれ頷いて返す。
 初音ちゃんは、ほっと胸に手を置き赤い頬でエヘヘと照れ笑いを浮べた。
「どうしたの? 一気に駆け上がったから疲れちゃたの?」
「だらしないな。初音も、クラブでも入って鍛えた方がいいんじゃないのか?」
 ゆっくり登って来た千鶴さんと梓の声に、初音ちゃんはブンブン首を横に振る。
 二人は初音ちゃんの赤い顔を石段を駆け上がり、息を切らしたと思ったのだろう。
「そんな事ないよ。あたし本堂の方、見てくるね」
 まだ照れているのか、初音ちゃんは言いながら小走りに本堂の方へ駆け出した。
「初音ちゃん、元気だな」
「初音、あんまり急ぐと転ぶわよ」
「…転ぶの千鶴姉だろ」
 初音ちゃんに掛けた千鶴さんの注意に応えたのは、梓の呟きだった。
「あ、ず、さ、なにか?」
 艶やかな髪を柔らかい光に輝かせながら、くるりと振り返った千鶴さんに、一語一区、区切って呼ばれ。
 梓は小さく息を飲み、無言で首を横に振る。

 俺も鬼が目覚めていなければ、冷たい気迫に数歩は後退っただろう。

 嘘…だろ?
 …こんな些細な事で、力を使うのか?
 無意識に洩れただけだよな?
 無意識に…違いない。
 …そうだ!
 梓も日が悪いと思ったら、言わなきゃ良いんだ。

「そう、なら良いわ」
 にっこり微笑み、千鶴さんは踵を返し初音ちゃんの後を追って歩き出す。
 千鶴さんが背を向け、梓は大きく安堵の息を吐いた。
「梓。お前、今日は大人しくした方が良いんじゃないのか?」
 梓の性格では無理だと思うが、一応俺は小声で忠告する。
「どうしてぇ〜? 何でいつもより迫力があるんだ。耕一ぃ〜、あたし、昨日そんなに酷い事言ったぁ〜?」
 梓に半泣きの顔で聞かれ、俺も首を捻った。
「覚えてないのか? 胸と料理は、いつも言ってるよな。やっぱり、酒か?」

 他には思い浮かばないな。

「…あの」
 控え目な静かな声に、俺と梓はそろって振り向いた。
 俺達の後ろで楓ちゃんが唇に指を当て、俯き加減でジッと俺達を見ていた。
「楓ちゃん、判る?」
 俺は楓ちゃんに声を掛け、ゆっくり待った。

 楓ちゃんが頭の中で言葉をまとめてから口にするのは、ここ一週間で判っていた。
 楓ちゃんが話し出すまで待った方がいい。

「多分、耕一さんの怪我と。それに……」
 言い難そうに俺を見て、楓ちゃんは視線を落とした。
「そりゃ悪かったけど。でもさ、耕一は許してくれたよ。楓ぇぇ〜〜他にもまだあるのぉ〜?」
 梓の情けない声に、楓ちゃんはチラリと俺を見て口を開いた。
「…言えって」
「言え?」
 俺と梓の重なった声に、楓ちゃんはサラサラの髪を日差しに煌めかせコックリ頷いた。
「…耕一さんに、…料理が下手で胸がないって」
 言い終わると楓ちゃんは、ほぉ〜と小さく息を吐いた。
「梓姉さん、耕一さんまで巻き込むから。耕一さんも否定しなかったし」

 ちょと待ってよ。
 それって俺の責任?

「何で否定しないんだ!」
「馬鹿か! お前が言ったんだろ。嵐が過ぎるの勝手に待ってろ」
 膨れっ面でバスケットを下ろし、腕に縋り付く梓に俺は言い放った。

 だからって、今更どうしろってんだ。
 今から言ったら逆効果だろうが。

「頼むよぉ〜、本気で怒らすと恐ろしいだから。ねちねちいびるんだもん。助けてよぉ〜」

 ねちねち…いびる?
 千鶴さんが???

「嘘…だよ、な?」
「あんたは、千鶴姉の本性知らないんだよ!」
「…本性ってな、お前。……そんなに…怖いの?」
 そろって頷く梓と楓ちゃんの真剣な顔に、俺は額を押えた。

 梓は兎も角、楓ちゃんがこんな事で嘘を吐くとは思えない。思い込みが激しいとは思っていたが、恨み深くもあるのか。
 ま、まあ、一緒に暮らして来た訳じゃ無し、色々と俺が知らない事も多い…よな。

「梓が心配なんだろ」
「でもさ、あたしだって反省してんだよ! 次の日まで持ち越さなくてもいいだろ。いつもは亀なのに、こんな時だけ恐ろしく怖いんだから」
 膨れっ面で睨む梓から千鶴さんの背に眼を向けると、丁度本堂から出て来た住職が千鶴さん達に会釈している所だった。
「梓、成仏してくれ。今更手遅れだ」

 梓の言い分も判るが、千鶴さんが無意味に怒ってるとは思えない。

「和尚さん見て言うな! シャレになってないだろ! 頼むからさぁ〜〜 耕一、何とかしてよ」
 言いつつ梓はジーンズとトレーナーと言う軽装で、俺の右腕に胸をぐりぐり押し付けてくる。

 これが九センチの差か?
 なかなか柔からかくって気持ちが。と、見付かったら、とばっちりが俺まで来る。

「だけど梓、俺に泣きついてるの見付かったら、もっと機嫌悪くならないか?」
 緩み掛けた頬を引き締め俺が言うと、弾かれた様に梓は俺から離れ境内を見回す。
 本堂に向う住職と千鶴さんの背中を見て、梓はホッと息を吐き額の汗を拭った。
「御願い、耕一。耕一には千鶴姉、とことん甘いんだから」
 今にも泣き出しそうな顔の梓に拝まれ、俺は小さく息を吐いた。

 梓がこんな顔で、俺に頼むのは余程の事だ。

「まあ、何とか機嫌取ってみるけど。うまく行かなくても、怨むなよ」

 仕方ない。
 こうでも言わないと、梓は離してくれない。

「恩に着るよ。そうだ! 早く行かないとまた機嫌が……」
 拾われた捨て犬の様な嬉しそうな顔で頭を下げ。バスケットを掴むと梓は本堂に駆け出した。

 あの梓が、怯えてる…のか?
 千鶴さんて……
 俺、本当に千鶴さんを理解出来てるのか?

「…耕一さん」
 梓の後ろ姿を複雑な心境で見送っていた俺は、楓ちゃんの声で振り返った。
「あの、姉さんは……」
 楓ちゃんは躊躇う様に言葉を切り、眉を寄せ視線を落とすと唇に指を当てた。

 楓ちゃんが言葉をまとめている時に見せる仕草だった。

「…梓姉さん、昨日は、お昼からご馳走作ってて。ですから……」
 俯き声を途絶えさせた楓ちゃんの言いたい事は良く判った。だが俺には、何か不自然に話を変えた様にも思えた。
「そうだったの。俺、梓に悪い事したな」

 明後日には帰る俺の為に、昼から用意してくれてたのか。
 早く帰れって言ってたもんな。
 考えてみれば、料理上手な梓がグラタン一つで前の日から本読んで準備ってのも、おかしかった。
 驚かそうと思って、初音ちゃんや楓ちゃんに口止めしてたのか。

「うん、楓ちゃん。連絡もしないで遅くなった俺が悪いんだから、心配しなくていいよ」
「…はい」
 静かに微笑んだ楓ちゃんの姿が、一瞬夢の少女と重なり。俺は抱き締めたい衝動を振り切り、無理やり顔を本堂に向けた。
「さてと、早く行かないと。待たせちゃったかな」
 何とか不自然にならない様に言い。俺は楓ちゃんの歩調に合わせ、ゆっくり歩き出した。
「楓ちゃん」
「はい?」
「さっき言い掛けたの、梓の事だけ?」
 歩きながら気になっていた先程曖昧に途切れた姉さんは、の続きを聞いてみる。
「……ええ」
 後ろから聞こえていた玉砂利を踏む音が途絶えた後に、小さな声が応えた。
「そうか、変な事聞いてごめんね」
 振り返らず俺はそのまま歩き続け、一呼吸遅れ楓ちゃんの足音が俺を追う様に聞こえて来た。

 楓ちゃんが一度話さないと決めたら、話してくれるのを待つしか無い。
 楓ちゃんと千鶴さんには、同じ頑固さが在る。
 主に話さないのが相手の為だと思っての事の様だが、自分だけで抱え込む悪い癖だ。
 梓や初音ちゃんなら聞き出すのは難しくないが、楓ちゃんが相手だと、どうにも勝手が分からなくて困る。
 直に千鶴さんに当たった方がいいだろう。

 参道の半ばまで来ると、本堂の影で住職を囲み楽しそうに談笑している千鶴さんと初音ちゃんの姿が見えて来た。

 先に行った梓が見えないが。
 住職は親父達だけでなく姉妹とも余程親しいのだろう。
 千鶴さんと初音ちゃんも楽しそうだが、白い着物を着た住職の表情からも、孫に囲まれた好々爺と言った穏やかな楽しさが伺えた。

 歩み寄る俺に気付いた住職の表情が、秘密にしてくれと頼みながら一緒に来たのを訝しむ様に、束の間戸惑いを浮かべた。
 訝しむ住職の視線を追い、千鶴さんが視線を俺に向ける。
 住職に千鶴さんから紹介される前に、俺は頭を下げ口を開いた。
「昨日は、父がこちらでお世話になるとも知らず。失礼しました」
 俺が顔を上げると、住職は得心がいったと軽く頷き笑みを作った。
「では、貴方が賢治さんの息子さんでしたか?」
 すかさず顔は知っていたが柏木の者だと初めて聞いたと、住職は話を合わせてくれる。

 年の功か、重要な秘密の管理を任されているだけ在る。

「はい、柏木耕一です」
 かしこまった挨拶を交す俺が珍しいのだろう。初音ちゃんは、住職の隣で面白そうにニコニコしていた。

 初音ちゃんの視線に照れを感じたが。それ以上に俺と住職のやり取りを静かに聞いている千鶴さんが気になった。
 朝からの様子もだが、楓ちゃんの言い掛けた姉さんは。と言うのが、梓でなく千鶴さんの事の様に俺には思えた。

「御父様の納骨までこちらに?」
「いえ、休みも終りましたので。残念ですが、明日には帰らなくてはなりません。勝手ですが父の事は、よろしくお願いします」
 もう一度俺は深く腰を折った。
「いいえ。当寺だけでなく、私は、個人的にも柏木家には、お爺様の代から一方ならぬお世話になっております。ご安心してお任せ下さい」
 住職はゆっくり頭を振る。
 一連の挨拶を終える頃、ひょっこり本堂の中から梓が顔を覗かせた。
「へぇ〜。耕一でも、まともな挨拶が出来るんだ」

 こいつは………

「あずさ」
 梓からは柱の影になっていた千鶴さんの、怒りを押し殺した硬い声音に梓は本堂の柱にしがみ付く。
 梓をフォロー仕切れないと言った感じの初音ちゃんのぎこちない笑顔に笑い返し、俺は梓を睨み付けた。

 あの馬鹿。
 注意したばかりだろ、逆撫でしてどうするんだ。

「ほほ。相変わらず、楽しいお嬢さんですな」
 緊張した空気は、住職ののんびりした声で霧消した。
「申し訳在りません。いつまでも礼儀知らずで、お恥ずかしい限りです」
 柱の影から恥ずかしそうに肩をすぼめ頭を下げる千鶴さんを覗き見。梓も悪いと思ったのだろう、慌てて一緒に頭を下げる。
「いや、いや。堅苦しくなさらず。元気なのが一番ですからな」
 住職は初音ちゃんの頭を撫でると、穏やかに眼を細め、千鶴さん達を慈しむ様に一人ずつ見ると、俺の後ろに居た楓ちゃんで視線を止めた。
 俺は住職の視線を追い、住職に深く静かな笑みで頷いた楓ちゃんを眼に留めた。
「ほんに、明るいお嬢さん方と居ると。この歳よりまで、若返りそうですな」
 楓ちゃんを良く知っているのだろう。住職は楓ちゃんの様子に満足げに頷き、言いながら首を傾げる様に俺に顔を向ける。
 住職の眼の柔和さと、穏やかな深い笑みが。親父の死後、従姉妹達の憔悴を案じていたのを教えてくれる。
「あの和尚さん。沢山ありますから、お昼一緒にどうですか?」
「そうだね。和尚さんも、一緒にお昼食べよう」
 顔を上げた梓が言い、初音ちゃんもパッと目を輝かせ住職を覗き込む。
「いや。しかし、それではご迷惑に……」
「迷惑だなんて。宜しければ、ぜひ」
 初音ちゃんに覗き込まれ困った様に千鶴さんに顔を向けた住職は、千鶴さんの言葉で楓ちゃんに眼を移し、楓ちゃんが微笑んでコックリ頷くと視線を俺に移した。
「あのね。和尚さんが離れを貸してくれるって。お兄ちゃんも良いよね」
「うん、もちろんだよ」
 俺が来る前に昼食の話が出たのだろう。住職の視線に気付いた初音ちゃんに説明され。
 俺は初音ちゃんに微笑みながら頷き、住職に眼を向けた。
「ご住職。ご迷惑でなければ、ご一緒して頂けませんか?」
「左様ですか? 実に申し訳ない事ですが。では、有難くご相伴に預からせて頂きましょうかな」
 軽く頭を下げた住職との昼食の約束を済ませ、たわいない世間話の後。
 俺達は裏山の墓地に向かった。

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