夢幻の章 五


 戸の開くカラカラという音が以外に大きく響き、俺と千鶴さんは顔を見合わせた。

 僅かに感じた二人の時間は、実際には容赦なく過ぎ去っていた。
 もう十一時近い。

 連絡も無しに遅くなった俺達は、梓の怒りが眼に浮かび慌てて帰って来たが。
 何かいやな予感がする。
 鬼の本能か?
 盛んに警告を発している。

 朝帰りの高校生よろしく、静かに戸を閉め振り返ると。
 廊下の奥から初音ちゃんが、ソロリソロリと手にスリッパを持ち、足音を忍ばせ歩いて来る。
「…初音、どうかしたの?」
 初音ちゃんのただならぬ様子に、不安そうに千鶴さんが聞くと。初音ちゃんは指を唇に当てシッと小さく呟いた。
「…梓お姉ちゃん、お酒飲んでるの」
「…酒? 梓飲めたの?」
 俺は初音ちゃんに合わせ小声で囁いた。
 千鶴さんと初音ちゃんは、揃って首を小さく横に振る。
「…飲めないの?」
「未成年ですよ。家では飲ませてません」
 軽い気持ちで聞くと、当り前です。と千鶴さんに睨まれた。

 親父の教育か?
 硬いな、酒位良いだろうに。

「…お兄ちゃんも…お姉ちゃんも…帰ってこないんだもん」
 小さな拳を胸の前で握り締めた初音ちゃんに潤んだ瞳で言われ。
 俺は梓の酔いの酷さを想像して血の気が引いた。
「ごめん、初音ちゃん」
 小さく手を合わせて初音ちゃんに謝った俺は、ふと気が付いた。

 初音ちゃんが、ここにいるって事は………

「初音ちゃん、楓ちゃんは? まさか…梓と二人っ?」
 俺が言い終るより早く、千鶴さんは廊下を小走りに歩き出した。
 俺も一呼吸遅れ後を追い掛ける。

 居間に着いた俺達が見たのは、楓ちゃんを隣に座らせ、一升ビンからコップになみなみと酒を注がせている、赤鬼の如き梓だった。

 とろんと潤んだ瞳、真っ赤な顔と座りのなくなった首が、完全に酔っているのを示している。
 初音ちゃんと楓ちゃんが片付けたのか、テーブルまで部屋の隅に寄せてある。

「梓、どう言うつもり。貴方、まだ高校生でしょ」
 止める間もなく千鶴さんの冷気を感じさせる声が低く響いた。
 俺は舌打ちしつつ額を押えた。

 だめだって、酔っぱらい相手に正論言っても、逆に刺激するだけなんだから。

「ケッ、二人揃って御帰宅かぁ〜? あたしの飯が食えねえならそう言いやがれ! いつだって止めてやらぁ〜〜くそぉ!」
 酔った梓には、千鶴さんの冷たい声も通じない。
 半眼に閉じた眼でチラリと俺達を見て言い、梓はコップを一気に空け楓ちゃんに差し出す。

 うぅ〜ん。梓の奴、料理にプライド賭けてるな。

 俺は酔っても料理を持ち出す梓に、思わず感心した。
 感心しながらも酒を注ぎながら俺に向けられた楓ちゃんの、助けを求める怯えた眼に気付き、そっと楓ちゃんと入れ替わろうと動き出した。

 楓ちゃんを梓の側から離さないと。
 酔っぱらいには関わらないか、適当に機嫌を取った方がマシだ。

「梓! いい加減にしなさい!」
 楓ちゃんまでもう少しの所で、腰に手を当て梓を睨む千鶴さんの声に足が止まった。

 声ではなく、その気配に。
 髪も、瞳にも変化はなかった。
 だが俺の足を止めたのは、鬼の気配だった。
 抑えているが、俺の中の鬼が確かに反応した。

「ケッ! 夜中に帰って、な〜に言ってんだぁ〜〜。どおぅっせ、あたしは男みたいですよぉ〜だ。でぇ〜もぉ〜さ、胸もないぃ〜〜料理もぉ〜、出来ない。誰かさんよぉ〜り、マシじゃない。ねぇ〜〜耕一ぃ〜〜」
 酒で箍(たが)が外れたのか、千鶴さんに見せつける様に豊満な胸を突き出し、俺を卑し目で見詰める梓からも鬼を感じた。

 俺は信じられない気配に、力が抜け棒立ちになった。

「こら! 聞いてんのか! 馬鹿学生!」

 嘘だろ。
 二人から、何でこの鬼を感じるんだ。

「梓! 誰かさんって、誰のことよ」

 どうして今まで気付かなかった。
 いや、奴は気付いていたのか。
 ……俺が…知りたくなかったからか。
 だが。まさか、そんな。
 千鶴さんが?
 梓が?

「聞きたいんだってさぁ〜〜。耕一ぃ〜〜教えてやったらぁ〜〜」
「梓お姉ちゃん。もう止めてよ」
 初音ちゃんの涙声が、俺を混乱から立ち直らせた。

 今は、梓を何とかしないと。

 ともすれば混乱しそうな頭を軽く振り。
 俺は楓ちゃんの背後に回り一升ビンを受け取ると、楓ちゃんに初音ちゃん達の居る廊下に行く様に眼で促した。
 小さく安堵の息を吐いた楓ちゃんが腰を上げ、俺は代わりに座ろうとした。
 だが迂濶にも混乱した思考が、ずっと梓を無視させていた。
「言えってんだ! 耕一!!」
 ジトッと俺と楓ちゃんを見ていた梓の声と一緒に飛んで来た拳を避け。
 俺は拳の先に、まだ腰を浮かせた楓ちゃんが居るのに気付き、拳が当たる寸前、楓ちゃんを抱き左腕で梓の拳を受けた。
 無造作に払われた梓の拳は俺の腕の骨を軋ませ、普段とは比べ物にならない重く鈍い痺れる痛みが電気の様に走った。
「クッ!」
 思わず噛み締めた唇から息が洩れる。
「!? 耕一さん!」
 抱き抱えた楓ちゃんの小さく息を飲む音に眼を開き、涙の滲む澄んだ瞳と俺の瞳が正面からぶつかり。

 俺の中で二人の少女が重なった。

 彼女が、そうだったのか?
 三人とも?

「お兄ちゃん!」
「えっ?」
「梓!!」
 鋭い怒りの声と急激に膨れがった凍える様な鬼気が、俺に腕の痺れる痛みも忘れさせ。
 千鶴さんに振り向かせた。

 間違いない。
 あの鬼の気配。

「止めろっ!!」
 俺は千鶴さんに叫んでいた。
 どうして叫んだか解らなかった。
 叫んだ後で理解した。

 同じだ。
 朱に染まった少女を抱いた。
 朱に染まった少女の瞳を、泣きながら見詰めた。
 あれが、彼女を………

 俺の鬼が騒ぎ、俺の意識を周りから閉ざした。
 腕の痛みも、心配そうに見る初音ちゃんも、自分の拳を見詰める梓も、腕に掛かる楓ちゃんの手の温もりも感じなかった。

 激しく打つ鼓動。
 千鶴さんの鬼に反応し狂った様に叫ぶ奴を抑え、記憶の底に沈みそうになる意識を引き戻しながら。
 俺が感じていたのは、もう一人の鬼だけだった。

 俺の叫びに鬼は徐々に失せ。
 千鶴さんは、どうして怒鳴られたのか判らずに立ち竦んでいた。

 鬼気が消え、騒いでいた奴も静まる。
 俺は奴の叫びが消えるのと一緒に自分の心までが消え去り。
 虚無に落ち込みそうな自分を支えていた。

「姉さん。折れてはいません。だけどヒビが入ってるかも」
「あっ! 耕一さん。すぐ病院に」
「あたし、電話してくる」
「耕一。ごめん。ごめんよ」
 俺は彼女達の声を遠くに聞きながら。
 違う世界の中に置き去りにされた様な、空虚な寒さの中で茫然としていた。


  § § §


 俺が気を取り直したのは、近くの病院で腕にシップを巻かれ。ロビーで待っていた心配そうな四人の顔を見てからだった。
「…ごめん、耕一」
 千鶴さんに背中を押され、梓が一歩前へ出ると頭を下げる。
 俺は右手で拳を作り、ごつんと梓の下げた頭を軽く叩いた。
「夕飯すっぽかしたしな。これで帳消しにしてやる。しかし、酒ぐけ悪いな」
「…ごめん」
 下げたまま上げようとしない梓の頭をぐりぐり撫で、俺は不安顔の三人に顔を向けた。
「大丈夫だよ。ホンの小さいヒビだから、直ぐに治るって。シップだけで良いって」
 ほっと息を吐いた三人に笑って見せ、俺は千鶴さんに眼を向けた。
「心配掛けたね。帰ろう」
「はい」
 微笑んだ千鶴さんの笑みが、俺にはどこかぎこちなく感じられ。
 怒鳴り付けたのを心底後悔した。


「そうだ。明日は、皆暇かな?」
 帰り道を歩きながら、俺は重い空気を払う様に明るい声を出した。
「耕一お兄ちゃん、何か考えてくれたの?」
 朝の約束と俺の意図を察し、初音ちゃんが明るい笑顔で応えてくれる。
「私は、何も予定は……」
 楓ちゃんも控え目に応え、梓に心配そうな瞳を向ける。
「梓はどうだ?」
「えっ? その、…暇…だけどさ」
 梓は下を向いたまま元気なく小さな声を出す。
「じゃあ、明日付き合え。墓参りに行きたい。残りで良いから弁当作ってくれよ」
 俺は梓の頭を、もう一度手を伸ばしぐりぐり撫でてやる。
「耕一。お墓でピクニックする気か?」
「どっかにベンチ位在るだろ」
 上目遣いに呆れた眼を向ける梓に笑って返すと、梓の表情に僅かに笑みが戻った。
「分ったよ。美味いもん作ってやるよ」
 まだ酒が残っているのだろう。偉そうに胸を張った梓は、赤い顔で普段の調子を取り戻しつつあった。
「初音ちゃんと楓ちゃんは、どう?」
「うん。皆で出掛けるの久しぶりだし。お寺の和尚さん、優しいんだよ。あっ、でも千鶴お姉ちゃんは?」
「明日はお休みだから、私も一緒に行くわ」
「…私……」
 千鶴さんの返事に嬉そうに笑う初音ちゃんと対照的に、楓ちゃんは俯いて言葉を濁した。
「楓お姉ちゃん、都合悪いの?」
 楓ちゃんは俯いたまま髪を揺らし、フルフル首を横に振る。
「楓ちゃん。もしかして、腕を気にしてるの?」
 自分を庇った所為でケガをしたと思っているのかと思い聞くと。楓ちゃんは頬を染め、体の前で組んだ手にも力が入った。

 この反応は、どう受け止めたらいいんだ。
 次郎衛門の眠る寺だから、行きたくないのか?

「…気にしないでよ。梓の馬鹿力じゃ、楓ちゃんだったら、骨が折れちゃうよ」
「…どうせ…馬鹿だよ」
 ブスッと呟いた梓は、千鶴さんに横目で睨まれ小さく首を竦め。ごめん、と楓ちゃんに謝った。
「ねぇ、楓お姉ちゃん。皆で行こう」
 初音ちゃんが梓を気にしてか積極的に勧め。
 楓ちゃんは、ゆっくり顔を上げ初音ちゃんに微笑んでコクリと頷いて返した。


 話がまとまる頃には家に着き。
 皆には先に休む様に言い。
 俺と千鶴さんは遅い夕食を静かな居間で取り始めた。
 食事を温めてくれた梓も、食器を洗わない様に厳命し部屋に引き上げていった。
 あまり食は進まなかったが、味も判らないまま、俺は何とか自分の分を片付けた。

「さっきは、ごめん」
 俺が口を開いたのは、千鶴さんが食後のお茶を差し出してくれたのと同時だった。
「耕一さん?」
 千鶴さんは、きょとんとした顔で小首を傾げる。
「その。怒鳴ったりして、ごめん。千鶴さんは、悪くないのに」
 千鶴さんの反応に、今更蒸し返さない方が良かった。と、俺はしどろもどろにもう一度謝った。
「そんな。私の方こそ、ついカッとなっと。ごめんなさい」
 怒鳴り付けられたのを思い出した様に、千鶴さんは視線を落とし小さく肩を竦める。
「いや。千鶴さんが謝る事はないよ」
 俺は千鶴さんの隣に座り直し、迷った末口を開いた。
「でも、だめだよ。酔っぱらい相手に、まともに相手しちゃ」

 鬼には、今は触れずに置こう。
 梓の鬼にしても、千鶴さんか梓が、自分から話してくれるまで待とう。

「…でも」
 上目遣いに覗き、千鶴さんはまた視線を落とす。
「でも?」
「梓は、まだ高校生ですから……」
 実に真面目に答えられ、俺は頭を掻いた。

 俺、高校でもう飲んでたな。

「…あのさ」
「はい?」
「千鶴さん、もしかして合コンとかコンパなんか、行った事ないんじゃない?」
「…その、あまり在りません」
 俯いたまま膝に置いた両手の指を恥ずかしそうにいじる千鶴さんは、実に可愛いかった。

 そうか、親父の事も在った。
 中学や小学生の妹達家に置いといて、コンパなんて行けないよな。
 新入社員見たいって言っても、会長の前で醜態さらす奴はいないだろう。
 親父も酒に強かった筈だ。
 酔っぱらいの扱いを知らなくても無理はない。

「梓より酷いよ」
「はい?」
「酔い方」
「えっ?」
 訝しむ様に顔を上げた千鶴さんに、苦笑しながら俺は経験を二、三披露した。
「酔ってからむは、泣き出すは。ヒステリー起こして、道で喚き散らしたのも居るし。潰れて道路で寝込んだのも居たな」
「でも、梓は女の子なんですよ」
「今の全部、女の子」
 心配そうに言う千鶴さんにすかさず返す。
「……寝込んだなんて…耕一さんが…どうして知ってるんです?」
 千鶴さんは、むっとした様に頬を膨らませる。
「へ?」
 頬を膨らませた千鶴さんに上目遣いに睨まれ、俺は耳を疑った。

 健全な大学生なら、一度位そんな経験あるだろう。

「合コンとか、よく行くんですか?」
「いや、あんまり」
 千鶴さんの問い詰める口調に戸惑いながら、俺は正直に答えた。
「行くんですね?」
「まあ、誘われればね」
「…あの、ええと」
「千鶴さん? 一体どうしたの?」
 急に歯切れ悪く言い淀むと、千鶴さんは上目遣いに俺を見上げ。
 頬を真っ赤に染めた。
「…あまり…行かないで欲しい。な、何て…」
 ぎこちなく笑い小首を傾げる千鶴さん。
「………?」
「…ごめんなさい」
 俺が眉を潜めると叱られた子供の様に肩を竦め、千鶴さんは視線をまた落とす。
「いや、その、謝られても。でも、どうして?」
「……あの、一度だけ大学入り立ての頃。…誘われたんですけど」
 言い難そうにチラチラ俺を覗き込む視線で、千鶴さんが余程いやな思いをしたのが判った。
「うん」
「飲め飲めって。その、しつこくって」
「…成る…程…ね」

 他の女の子には気の毒だけど。
 千鶴さんが合コンとか参加したら、男がみんな集まるよな。
 いや、無視出来る男がどっかおかしい。
 酔い潰そうとした奴が居たのか。
 あの梓の酔った様子じゃ、心配になるのも判るな。

「いえ、あの、耕一さんがそうだって言ってるんじゃないんですからね」
「いいよ。俺も男だしね」
 酔い潰そうとは思わないが。そういう奴がいるのは知ってるからと、俺は苦笑混じりで返した。
「違うんです!」
 顔を上げた千鶴さんの声が以外に大きく、
「違うって?」
 俺は驚いて聞き返した。
「だって…その…向こうには……綺麗な女(ひと)や可愛い女……多いって言うし。……あの……」
 千鶴さんは耳まで真っ赤に染めると俯いて顔を隠し、もごもごと口ごもる。

 もしかして……俺が浮気しないかって?

「千鶴さんが、一番綺麗だよ」
 本心から出た言葉のまま手を千鶴さんの頬に添わせ、肌理細かな肌の温かさを確かめる様に耳の後ろに滑らせ。
 俺は千鶴さんの唇に自分の唇を重ね、指で柔らかな耳朶を擽(くすぐ)った。
「…あっ……」
 千鶴さんは小さく息を吐き、耳朶に感じた擽ったさに首を竦め可愛い声を洩らした。
「それに、そんな暇もないかな」
 悪戯を責める様に潤みを帯びた瞳で睨む千鶴さんに、俺は苦笑混じりで、いつ切り出すか迷っていた話を始めた。
「今月の仕送り、千鶴さんだろ?」
「えっ? いいえ。叔父様からお預かりして」
 急に変わった話に千鶴さんは僅かに眼を見張り、髪を揺らし小さく頭を振った。

 今月も俺は仕送りを受けていた。
 親父か千鶴さんだとは思っていた。
 俺が困らない様、預けて逝ってくれたのか。

 改めて俺は、拗ねていた自分が恥ずかしくなった。

「俺さ」
「はい?」
「学費は親父の残したくれた遺産で何とかなるから。生活費は、自分で稼ごうと思うんだ」
「でも、耕一さん。叔父様のお気持ちですから……」

 千鶴さんの哀しそうな顔を見るのは辛かった。
 途中で途切れた言葉が、親父を他人扱いした俺の言葉にあるのも、よく判っていた。

「親父の気持ちは、よく判ってる。でも、遊びじゃなく、生活する為に働いてみたいんだ」
「耕一さん、出来れば学業の方に専念して……」
 陰りを浮べた表情のまま俺を見詰め、千鶴さんは俺の真剣な表情から考えを変える気がないのを悟ったのか、声を詰まらせた。
「両立させる。学費まで全部と言えないのが情けないんだけど。自分の力で何処まで出来るか、遣ってみたいんだ」
「…もう、決めたんですか?」
 小さく息を吐き見上げた千鶴さんの寂しそうな表情に、俺の胸が痛んだ。
「ごめん」
「いいえ。でも、無理はしないで下さいね」
 そう言って微笑んでくれた千鶴さんの笑みは、寂しさだけでなく、俺の決心を喜んでくれている様に見えた。
「うん、ありがとう」
 俺は肩を抱き寄せ、もう一度唇を重ねた。
 唇を離すと、千鶴さんの伏目がちに落とした視線が、俺の左腕で止まった。
「痛みます?」
「大丈夫。湿布臭いから」
 左腕を動かさないのを痛みからだと思ったのだろう。躊躇いがちにそっと腕に手を添え、千鶴さんの目が心配そうに細くなった。
「もう痛みも無いんだけど。梓や初音ちゃんが、変に思うからね」
「初音も梓も、ケガの治りが早いのは知っていますから。気にしなくてもいいんですよ」
「明日一日の事だしね。このままにして置くよ」
 軽く腕を動かしながら言うと、千鶴さんは小さく安堵の息を吐き、何事か考える様に視線を下げた。
「……どうして…力を使わなかったんです?」
 千鶴さんは視線を上げ、躊躇いがちに口を開いた。
「うん? 忘れてた」
「耕一さん、嘘は止めて下さい」
 眉を潜め言い切られ、俺は苦笑を浮べた。
「使い掛けて、止めましたね?」

 ばれてたのか。
 あの状態で気付くとは、感情的になっているようでも千鶴さんは冷静だ。
 確かに俺は、反射的に力を使い掛け止めた。
 その一瞬の躊躇いが、梓の拳をまともに腕で受ける原因になった。
 梓の拳は強烈だった。以前の俺なら骨が折れていただろう。
 だが使っていれば、楓ちゃんを抱き抱え避けるのも、梓の拳を受けるのも容易かった。

「使いたくなかった。じゃ、だめ?」
「耕一さん、お願いですから真面目に答えて下さい」
 千鶴さんは俺がごまかしていると思ったのか、俺の顔を覗き込み縋る様な瞳を向ける。
「真面目だよ。力の差が在り過ぎる。力加減を間違えると、梓の拳の方がどうにかなる」
「……」
 千鶴さんは小さく息を飲むと俯いてしまう。
「大丈夫だから心配しないで。完全に制御出来てる」
「…はい」
 俺は俯いた千鶴さんの髪を撫で、安心してと繰り返した。

 使わなかったのを制御仕切れないからだと思っていたのは、真剣な千鶴さんの態度と不安な目ですぐに判った。
 ここ一週間、何度も向けられた不安を宿した瞳だった。

「…少しは…眠った方がいいな」
 俺はこのままずっと抱いていたい気持ちを振り切り、髪を撫でる手を止め肩に回した手を離した。

 このままだと朝まで離せなくなる。

「…ええ、…もう遅い時間ですね」
 小さく答えた千鶴さんを促し、俺達は居間からそれぞれの部屋に向かった。


 布団に横たわり闇に仄かに浮かぶ天井を見上げ、俺は大きく息を吐き出した。

 力を使わなかった理由か。

 千鶴さんに話したのも嘘ではない。
 だがそれより、皆が俺の鬼に反応して目覚めないかの方が心配だった。
 俺のように記憶を取り戻さないかが、俺に力を使うのを躊躇わせた。

 三人の鬼。
 千鶴さんも梓も、まだ記憶は戻っていない。

 楓ちゃんの記憶は?

 初音ちゃんは?
 その鬼は彼女なのか?
 記憶が戻るのは俺だけなのか?
 記憶が戻っても、皆は俺を………

 不安が俺の中で渦巻き、いつしか胸が詰まり溢れる涙が布団を濡らしていた。

夢幻の章 四章

夢幻の章 六章

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