夢幻の章 四
湧き水だろう。
切る様に冷たい水が眼に染みた。
あれからどれ位墓碑の前で蹲(うずくま)っていたのか、気が付くと日が西に傾いていた。
俺は墓地の入り口に在った東屋で、先程から顔を洗っていた。
墓参用の手桶と柄杓が整然と並べられた東屋の水場で、勢い良く流れる水の澄んだ冷たさが、暗く沈み込んだ心まで洗い流してくれる気がした。
「…耕一…さん?」
躊躇いがちに掛けられた声で、俺は涙の跡を流していた顔を上げた。
上げた視線の先で不安な顔をしていた女性の表情が、穏やかな温かい笑みに変わった。
「やっぱり耕一さん。人違いだったら、どうしようかと思いました」
俺は早まった動悸を抑え、ポケットからハンカチを取り出し顔を乱暴に拭った。
とっくに帰ったと思っていた……
「あの、どうかしましたか?」
何も応えない俺を不信に思ったのか、彼女の声が少し不安そうに弱くなった。
「…いや。ちょっと、友達に聞いてさ」
俺は何とか平静な声を出し、もう一頻り顔を拭い。必要以上にゆっくり水道を止め顔を上げた。
ちゃんと笑えるか不安だった俺の心配は、杞憂に終わった。
温かい彼女の眼差しを眼にして、俺の頬が自然に笑みを作った。
傾いた日に照らされ、赤みを帯びた彼女の艶やかな髪が微風に吹かれ疏よぎ、長い髪が波打ち光を跳ね返していた。
少し不安そうだった彼女の表情が、俺が笑みを浮かべると、応える様に穏やかな温かな微笑みに変わった。
「千鶴さんこそどうしたの、御墓参り?」
俺が手にした手桶に視線を走らせると、千鶴さんはこっくり頷いた。
「はい、ここに家の御墓が在るんですけど。叔父様の納骨の打ち合わせで来たんですが。ついでと言ってはなんですけど」
「あっ、ああ、そうか。…一緒に来れば良かったな」
寂しそうに目を伏せた千鶴さんの表情を眼にして、俺は知らない間に視線を逸らしていた。
「ごめん。俺がやらなきゃいけないのに」
俺より千鶴さんの方が、遥かに辛いだろうに。
親父の葬儀や納骨。
本当なら喪主を含め全部息子の俺がやる事を、千鶴さんに任せている。
墓の在る場所すら聞こうともしなかった。
何が幸せにするだ。
情け無い、よく言えた。
「いいえ。一緒にとも思ったんですけど。良く眠っていらしたから、私が起こさない様に梓にも言ったんですから。それに叔父様には、お世話になりました。会社の方もいろいろと教えて下さいますし。耕一さんが気になさる事はありませんよ」
千鶴さんの温かい声音と穏やかな眼差しが、いつもの心地好さとは逆に、今の俺には辛かった。
「…耕一さん?」
気遣わしく掛けられた声に顔を上げ、俺は覗き込んでいた千鶴さんの瞳を真正面から見詰める事になった。
いきなり飛び込んで来た澄んだ瞳に、眼を逸らすのも忘れ見詰めていると、千鶴さんの頬が赤く染まり視線が不意に下を向いた。
「あっ、あの、あ………」
千鶴さんは何か言おうとはするのだが、声が詰まり言葉になっていない。
かくいう俺も、突然の場合の対処は経験不足で、多分俺の顔も真っ赤になっているんだろう。
異常に顔が熱い。
「…その、そろそろ、帰ろうと思ってたんだ。千鶴さんは、もう良いのかな?」
何とかこの場を離れたい俺は、上擦りそうな声を抑えそう聞いた。
ここに居るのが辛い。
あの墓と、伯父夫婦が眠る墓がここにあると思うと、俺は居た堪れなかった。
「あっ、ええ。帰る所ですから。…あっ! ちょと待ってて下さいね」
赤い顔を上げホッとした様に早口で言うと、千鶴さんは手桶を上げて見せ、東屋に歩み寄った。
俺も額に浮いた汗を拭い、ほっと息を吐きかけ。
小さな悲鳴と物がぶつかる乾いた音に振り返り。慌てて足を動かした。
「千鶴さん、大丈夫だった!?」
積み重ねられた手桶の山が見事に崩れた前で、照れ笑いを浮べ自分の頭をこつんと叩いた千鶴さんは、ちろりと悪戯っ子の様に舌を出して見せる。
敵わないな。
シリアスに悩んでいた筈が、俺の喉の奥からは笑いが込み上げてくる。
失敗の半分は、わざとかと思ってたんだが。この様子だと、一度に二つの事を出来ない不器用さの所為かも知れない。
笑う俺を、ぷっと頬を膨らまし睨む千鶴さんを横目に、俺は手桶を集め出した。
手伝おうとした千鶴さんには、丁寧に辞退させて頂いた。
千鶴さんは肩をすぼめ小さくなっていたが。手伝って貰うと、いつまで掛かっても終らない気がする。
明日来た時に伯父夫婦の墓に参ろう。
謝っても、とても許されない。
でも、今の俺に出来るのは、残された従姉妹達を守って行く事だけだ。
千鶴さん、梓、楓ちゃん、初音ちゃんが幸せに暮らせるよう、出来る限りの事をする。
それしか、俺に出来る謝罪はない。
そして、今の俺自身に取って何より大切な者だから。
桶と柄杓を片付けながら、俺は心を決めた。
§ § §
「そう言えば、お友達からって。雨月寺に何かありましたか?」
とっぷり日も暮れた墓地からの帰り道。
暗くなった道を歩きながら肩を並べた千鶴さんに聞かれたのは、家の近くまで来た時だった。
俺は、マズイ事を言ったのに気が付いた。
「いや、それは」
参った。
住職と面識が出来たから、どう答えたら良いか。
あんな観光客も来ない所、言い訳も考えつかない。
明日、住職とも話して置かないと。
「そうですね。雨月寺に在るのは古くからの地元の方々の御墓位ですから。著名な方の御墓でも?」
下手に隠さない方が辻褄が合わせ安い。
家に着く前の方が良い。
俺は顎に指を当て考え始めた千鶴さんを見てそう決め。近くに公園の入り口が見えた所で口を開いた。
「最近旅行で来たらしくて、観光用のパンフからね」
「パンフレット、ですか?」
「次郎衛門の名前が出たから」
「…そう、……でしたね。お話したんでしたね」
足を止め俺に視線を向けた千鶴さんは、言いながら視線を下げ俯いてしまう。
まだ一週間程しか経っていない。
出来れば千鶴さんに思い出させる話は避けたかった。
俺は何も言わず細い肩に手を回し力を込めた。
腕の中で細い肩が、微かに震えていた。
その場で少し千鶴さんが落ち着くのを待ち、俺は力の抜けた軽い身体を半ば抱き抱え歩き出した。
公園までの僅かな距離が、俺には長い道のりに感じられた。
俺は千鶴さんを公園のベンチに座らせ、隣に腰を下ろし肩を抱く腕の力を強めた。
俺が帰るのを遅らせた理由は、千鶴さんと夢に変わっていた。
俺と楓ちゃんの心配とは逆に秋の行楽シーズンが近付き、千鶴さんも多忙なのだろう帰りが遅くなっていた。
自然、俺と顔を合わす時間そのものが減っていた。
殆どが楓ちゃんの登校後、千鶴さんの出社までの僅かな時間だが。
二人っ切りになると、千鶴さんは幾度か思い出した様に不安そうな目を俺に向けた。
その度、俺は気にしていないと繰り返しているが。
未だにあの時の事を思い出し頬に涙を伝わしていた。
どうやら俺の話を聞こうとしなかったのと、覚醒しなかったら死んでいたのが未だに心に引っかかっているらしい。
俺には千鶴さんをこのままにして帰るのは、心配で到底出来なかった。
俺は肩の震えが少し収まったのを腕に感じ、身体を離し千鶴さんの頤(おとがい)に指を添え顔を上げさせた。
頬を伝っていた雫を指で拭い、そっと唇を重ねる。
流石に覚悟していたのと、何度も繰り返して照れは感じなくなった。
そのつど感じる新鮮な愛しさが、俺の心を満たしてくれる。
柔らかい唇の感触と、髪と肌から匂う心地好い甘い香りが、俺の中に湧いた愛しさを更に募らせる。
「…ん…っ…」
小さな甘い吐息が千鶴さんの口から洩れ。
俺は頭が痺れる様な幸福感に包まれながら唇をそっと離し、瞳を見詰め頤に添えた指を頬に移した。
「もう、気にしないで」
「……」
小さな頷きで応えた千鶴さんの朱に染まった頬に添えた手を、俺は耳の後ろに回し胸に千鶴さんを引き寄せた。
何の抵抗もなく胸に顔を埋めた千鶴さんの髪に手を移し撫でながら、俺は肩を抱く腕に力を込めた。
俺は殺されても何も言えない。
俺は千鶴さんに。
いや、従姉妹達に怨まれて当然だ。
千鶴さんが知ったら、俺を許してくれるだろうか?
俺は離れがたい想いで、腕の中の温もりを感じていた。
街頭の照らす薄暗いベンチで温もりを抱き締め、かなり時間が経った様な。
束の間だった気もする。
胸の温もりと髪の仄かな香りに落ち着きを取り戻し、俺は自分の迂濶さを呪っていた。
墓の所在を聞きながら、俺は伯父達に手を合わせ様ともしなかった。
「千鶴さん、明日は仕事?」
「…いいえ、休みですけど」
潤んだ響きを帯びた声音が胸の中から答えた。
「雨月寺に明日も行くんだけど」
その場で手だけでも合せに赴くべきだった。
何も言わないにしろ、千鶴さんが気にしない筈がなかった。
「…明日も…ですか?」
当然だが、千鶴さんの声が訝しげに問い返した。
「うん。二日も続けてで悪いけど。伯父さん達の御墓に全然参ってないし。皆も都合が良かったら、一緒にどうかな?」
「悪いなんて。父も母も喜んでくれます。あの、妹達には、耕一さんから話して頂けますか?」
やはり気にはしていたのか、胸に嬉そうな響きが伝わり。
千鶴さんの瞳が俺を見上げた。
「いいけど?」
「きっとその方が、皆喜びますから」
「うん。そうするよ」
伯父達の墓に一緒に参るだけで、少しでも千鶴さんの不安が和らぐなら、俺はあえて危険を犯しても一緒に行く方を選んだ。
俺は細い肩を抱き寄せ、髪に頬を擦り寄せた。
少しでも、この時間が長く続く事を祈って。