夢幻の章 三
石段の最後の一段を昇り終え、俺は思わず溜息を吐いた。
石段が長かったからではない。山門の向こうに見える寺の、あまりの古さにだ。
由美子さんから古いとは聞かされていたが、これ程とは。
とても郷土の英雄が眠る地とは思えない。
今にも崩れそうな破れ寺だ。
俺は山門を潜り、辺りを見回してみた。
境内の広さだけは十二分に在る、手入れも行き届いている。
本堂で俺の目は止まった。
酷く懐かしさを呼び起こす建物だった。
正面に見える本堂の裏山が墓地で、その外れに在った筈だが。
参道を掃除していた作務衣を着た老人の視線に気付き、俺は頭を軽く下げ足を老人に向けた。
おそらく住職だろう。
俺は焦る気持ちを押さえ老人にゆっくり歩み寄り。温和な笑みを浮べた老人の目に、戸惑いと懐かしい者を見る光が浮かんでいるのに気付いた。
「こんにちは。失礼ですが、こちらのご住職でしょうか?」
老人の前で足を止め会釈で尋ねる。
「はい、左様ですが。ご参拝の方ですかな?」
住職は温和な笑みのまま静かに会釈で応えた。
「いえ。実は、十日程前になりますが。友人が、こちらで次郎衛門のお話を伺ったと聞きまして。ご住職に、お話を伺いたく参りました」
使い慣れない丁寧な言葉を探すうち、俺の緊張は段々高まり。涼しい境内の中で、額を汗が伝い落ちた。
「と、仰ると。メガネのお嬢さんですかな? さて、取りたててお話しする様な、お話もございませんが」
無言で頷いた俺を見る住職の目から柔和さが消え。笑顔を崩さず少し潜めた眉が、住職の困惑を表していた。
俺は、話上手な由美子さんに乗せられ、うっかり口を滑らせ弱っているという感じを受けた。
「ぜひ、直接伺いたいのですが」
「弱りましたな。そうは申されましても、これから来客の予定がありまして」
申し訳なさそうな顔で頭を下げる住職の視線が、今にも相手が現れると言いたげに山門に向けられた。
「後程で結構です。先に墓碑の方を拝見させて頂いてからで」
俺とて物見遊山に来た訳ではない。
簡単には引き下がれない。
「墓碑は、裏山の墓地の外れにございますが。申し訳ありません。来客後、少し出掛けなければなりませんので」
「では、明日では?」
間髪入れず返すと、住職は僅かに渋面になりかけた表情を笑みに戻した。
「失礼ですが。お話だけでしたら、資料館等の方が宜しいかと。御見受けした所、地元の方とも思えませんが。郷土史か、何かの御研究でも?」
探る様に見る住職の視線で、俺は焦るあまり名乗っていないのを思い出した。
「父の故郷ですし。興味を引かれたものですから」
「どちらの方でしょうかな?」
半ば誰か知っているが確認したいという様に住職の瞳が真剣味を帯び、帚を握る指に力がこもっていた。
「失礼しました。父は柏木賢治と言います。鶴来屋の」
俺が親父の名を告げると住職はホッと息を吐き。
次に俺に向けた瞳には、懐かしい者を見る穏やかさが在った。
「お会いした気がしておりましたが。やはり賢治さんの息子さんでしたか。大きくなられましたな」
「はい、耕一ですが。俺をご存じですか?」
俺の方が今度は困惑する番だった。
俺にはここに来た覚えも、この住職に会った記憶もない。
「まだお母様の腕に抱かれた赤子でしたからな。お墓参りの折、お目に掛かっておりますよ」
覚えてる訳無いな。
しかし。
「柏木の墓が、ここに?」
住職には悪いが、この地を牛耳ると称される鶴来屋。
そのオーナー、柏木家の墓が在るにしては、この寺はあまりにも見窄(みすぼ)らしい。
県議会にも発言力のある鶴来屋の後押しが在れば、充分修復だって出来るだろう。
それだけ目立てない訳が在るのか。
この住職は、やはり柏木の秘密を知っているのか。
「はい、ございますよ。ご存じではなかった?」
「申し訳ありません。父とはずっと疎遠で。こちらに来たのも八年ぶりなものですから」
柏木の墓が在るなら、ここに親父も納骨されるのを思い出し。俺は急に恥ずかしさを感じ、面白そうに笑う住職に深く頭を下げた。
「いやいや。そうでしたな。それにしても良く似ておられる。御父様に似て立派になられました。御父様も、安心してお休みになれるというものです」
「いいえ。まだまだです」
「立ち話もなんですな。失礼いたしました。本堂の方に、御案内いたしましょう」
軽く会釈して本堂に歩き出した住職に続き、俺も本堂に足を向けた。
意外と言おうか、外から見ると見窄らしかった寺の中は、外観とは違い凛とした清涼さが漂う立派なものだった。
住職は本堂を抜け鹿脅しの鳴る庭を横目に、渡り廊下の先、茶室に俺を招いた。
「さて、先にお詫びしなければなりませんな」
住職は茶室の中で向かい合うと、俺をジッと見て頭を下げた。
「あのお嬢さんには、いらぬ話までしてしまい。お恥ずかしい限りです」
住職の言葉で、薄々俺が何を聞きに来たか理解しているのが判った。
「いいえ。俺は彼女に聞いて良かった。それに、恋物語は他の人も知っている話ですね」
「はて? では、貴方が御聞きになりたいのは、別の話だと?」
顔を上げた住職には、先程からの柔和さが微塵も感じられない真剣さが、眉間に深い皺を刻んでいた。
「次郎衛門の子孫は、誰ですか?」
俺は前置きを省き、一気に本題を突き付けた。
住職は茶室を見回し、ゆっくり口を開いた。
「この茶室は、耕平氏が作らせた物でしてな」
俺は静かに響く住職の声を、固唾を飲んで聞いていた。
「この寺も、柏木からの援助で維持しております。柏木の為に残されたと言っても良いでしょうな」
やおら言葉を切ると、住職は息を詰め俺を見据えた。
「貴方は、御爺様似ですかな? 御父様似ですかな?」
やはり住職は知っていた。
「祖父の方です」
住職は視線を落とすと、深い安堵の息を吐いた。
「では、御聞きになるまでもないのでは?」
「彼女は、千鶴さんは知っているんですか?」
俺は、この住職から聞き出せる事はすべて聞こうと決めていた。
千鶴さんは、次郎衛門の子孫だとは知らなかった。
あの水門までの話からそれは判った。
だが何故、当主の千鶴さんにまで隠す?
俺には隠す理由が重要だった。
蔵にもそれを示唆する文献はなかった。
親父が死んだ今、知っているとすればこの住職しかいない。
「御父様には、例外として御知らせいたしました。本来知るは当主のみ。貴方にも、お教えする事柄ではないのですよ」
「知っているんですか?」
諭す様に話す住職に、俺は再度問い。
住職は首を横に振った。
「気付いては、おいでとは思いますが。御父様は、お伝えになっておられません。御父様より、貴方が御亡くなりになった場合、お伝えする様に言い使っております」
俺の中の疑問は、確信に変わりつつあった。
あの夢が事実なら、親父が口止めした理由も判る。
「あの方が知っておられるのは、家訓だけでしょうな。御父上共々、耕平氏より次代当主として聞かされておられると、御父様より伺っております」
「…家訓?」
平静に言葉を紡ぐ住職の家訓と言うのは、俺の夢には出て来なかった。
「はい、当主の心得ですな。柏木家は、この地を影から守護して参られた家柄と聞いております。古来より異形の輩より、祖たる次郎衛門に習い守って来られたとか。時折現れる異形を退け。時には、自らを律せぬ同族を討つが役目と」
千鶴さんが俺を手に掛け様としたのは、家訓の所為もあったのか。
「その為、柏木の血と力は絶やせぬと。それが何より重要と聞き及んでおります」
「絶やすなと?」
それは夢で見た次郎衛門の残した意思だが、理由が違う。
「はい。柏木は、何故か御子に恵まれず。血を繋ぐ努力を怠れば、直ぐにも絶えると。その為、純血を保つ気配りが必要……」
俺の耳には、それ以上住職の声は届かなかった。
耳鳴りがして頭がじんじん痺れ、俺の身体から力が抜け、世界が揺れた様に感じた。
凍える様な寒さが身体と心を襲い、身体の震えを押さえ切れず唇を噛み、両手で膝を強く握り締めた。
…から?
…俺…何を…馬鹿な……
…そんな…ない。
「…どうなさいました」
住職の声と肩に掛かった重みで、俺は我に返った。
いつの間にか目の前に座った住職が肩に手を置き。幾度も呼んだのか、間近から住職の瞳が気遣わしそうに細められていた。
「顔色が御悪いですな。少し休まれては?」
「い、いえ。大丈夫です」
笑ったつもりだったが、うまく笑えなかったのか。住職の顔から心配そうな陰りは消えなかった。
「それより。家訓以上の話が在るんでしょうか?」
俺は、何とか震えそうになる唇を開いた。
「お嬢さんに御話した私の不徳ですな。仕方がありません」
小さく息を吐くと、由美子さんに次郎衛門の子孫の現存を話したのを恥じ入る様に住職は頭を下げた。
「次郎衛門の遺言だけは、御当主のみにお伝えする事になっておりましてな。次郎衛門の子孫である事を知らせぬのは、その為です。当寺に伝わっておりますのも、当主急逝の折、失われない為と伺っております」
半ば覚悟していた所為か、遺言の現存を知っても、俺は先程の様なショックは受けなかった。
夢が現実なら、俺は知っている。
遺言の内容も、血と力を残す本当の理由も。
「代々の当主が書き写し、封印した後。当寺が御預かりする事になっております。目にするのは当主のみと、固く語り継がれておりましてな」
気遣わしく覗き込む住職に、俺は姿勢を正し頭を下げた
「…俺に、渡して下さい」
千鶴さんに知らせたくない。
いや、誰にも知らせられない。
「…渡せ…と?」
驚いた顔で聞き返す住職に、俺は顔を向けた。
「直系男子は、俺だけです」
「当主では在りません!」
屹然と住職は言い放った。
「俺が死んだら。と、父が言ったのは、その為でしょう?」
住職は、俺の言葉に渋面で考え込んだ。
自らの役目と、親父と俺の願いの間で迷っている住職に、俺は深く息を吐き口を開いた。
「近く俺が当主になります。もう彼女は、辛酸を嘗め尽くした」
険しい表情で見詰める住職に向い、俺は手を突き再び頭を下げた。
「…そう言う事でしたか?」
俺が当主になると言う意味を察し半信半疑で首を傾げた住職に、俺は目を見詰め小さく頷いた。
「しかし。それでしたら、継がれてからで良いのでは?」
「いいえ。知った以上早い方が。お願いします」
聞き分けのない子供を見る様な柔和な笑みを浮かべた住職に、もう一度頭を下げると住職の顔が苦笑に変わった。
「若い方は性急で困りますな。ですが、そう言う事でしたら。後日になさった方が宜しいかと」
「どうしてです?」
「先ほども申しましたが。御父様の納骨の事で、そろそろ見える頃かと」
「…来客って?」
俺は頷く住職を見て腰を上げた。
「明日、伺います」
俺は言い置き潜り戸を抜け、足を本堂に向けた。
渡り廊下を足早に駆け抜け、俺は外に出ると少し迷ってから墓地に向った。
そろそろ来るでは、出た所で鉢合わせしかねない。
今は会いたくない。
今は会えない。
せめて、少しでも時間が欲しい。
俺は最初の予定通り、墓碑に向う事にした。
俺は裏手の小道を上り、広い墓地の中を迷う事なく足を進めた。
夢で見たのとは、まったく景観が代わっていた。
だが、所々似通った場所もあった。
遺書の存在を確認しながらも、俺はまだ信じ切れなかった。
住職の話を聞き、信じたくなかったのかも知れない。
進むに連れ樹木が深い影を落とす細い道の先に、少し開けた車二台分程の場所があった。
俺の願いとは逆に、人の背丈程の墓碑が確かに在った。
訪れる人とて無いだろう樹木に囲まれた奥まった場所に、人目を避ける様に苔むした墓碑が立っていた。
墓碑の前に、花が添えられていた。
半ば干からびた花。
俺は墓碑を見ながら固く眼を閉じた。
見たくなかった。
そこに在るだろうと確信しながら、見てしまえば僅かな希望も消える気がした。
鼓動が胸を、早く強く打ちつける音が頭に響く。
息を吐き、俺は静かに目を開いた。
墓碑から視線を横にずらし、ゆっくり一歩横に踏み出した。
ない事を願いながら。
俺の中の希望は、音を立てて崩れた。
いつしか膝を突き、俺は頭を抱え嗚咽を洩らしていた。
墓碑の後ろに並んだ、四つの岩にしか見えない墓。
刻まれた文字も消え去った墓。
俺だけが、誰のものか知っている。
俺が、俺自身が刻んだ名が、俺には見えた気がした。
俺が。
俺こそが全ての元凶だった。
千鶴さんを、伯父夫婦を、両親を苦しめ。いや、柏木に生まれた者を苦しめた元凶。
俺自身の過去の狂った想いでしか無かった。
俺は深い後悔に震える体を丸め、その場で頭を地に付け嗚咽を響かせ続けた。