夢幻の章 二
一週間前、俺は街をぶらついている所を、背中から声を掛けられ振り返った。
俺の後ろで、見知った顔のメガネを掛けた女の子が微笑んでいた。
大学で同期の、小出由美子さんだった。
温泉旅行に一人で来て、帰る所だという。
時間を持て余していた俺は、由美子さんの帰りの電車の待ち時間に付き合い、喫茶店で一時の談笑を楽しんだ。
だが由美子さんが、何げなく訪れたと言う雨月寺の話を始め、俺は真剣に聞きいった。
千鶴さんから聞いた雨月山の鬼の話を、由美子さんが詳細に語り出したからだ。
最初は千鶴さんの話と大差なかった話も、主人公の恋物語に移り、俺は知らず話しに引き込まれていった。
主人公の次郎衛門と、鬼の娘の非恋物語。
次郎衛門は二度目の鬼討伐に加わり瀕死の重傷を負い、鬼の娘の助けで、自身が鬼になる事で危うく命を取り止める。
次郎衛門は自分を助けた鬼の娘と恋に落ちるが、鬼の娘は次郎衛門を鬼にした事で、仲間から裏切者とされ粛正される。
次郎衛門は、恋人を殺され鬼への復讐を誓う。
三度目の討伐隊を率いた次郎衛門は、恋人の妹の手引きで鬼への復讐を果す。
そして次郎衛門と妹の鬼とは、その後夫婦になる。
何処にでもある昔話に聞こえるが、事実俺はその鬼の血を引いている。
その所為もあり興味津々の俺に、由美子さんは自分の寸評も交え熱心に語ってくれた。
だが俺は、話以上に由美子さんに話を聞かせた住職が、次郎衛門から続く鬼の血を引く一族の現存を知っていると聞き、驚きを隠せなかった。
それが本当で他に鬼の一族が現存しないなら、柏木の鬼の血は、次郎衛門から引き継いだ事になる。
だが千鶴さんは、鬼は滅んだ訳ではなかったと言っていた。
次郎衛門に付いては、一言も触れなかった。
あの時の状態で、千鶴さんが隠す必要も無い。
柏木の先祖を当主である千鶴さんが知らず、寺の住職が知っている。
これは明らかにおかしかった。
単に千鶴さんが口にしなかっただけかも知れない。だが俺は、次郎衛門の話が妙に心に引っかかった。
俺は由美子さんと別れた後、急ぎ屋敷に取って返した。
親父の残した遺品の中に何か手掛りが無いかと思い調べたが、鬼に関する物は何も発見出来なかった。
考えてみれば当然だった。
鬼に関する物があったとしても、千鶴さんが俺の目に触れない様、処分したか管理しているだろう。
調べるとすれば、後は千鶴さんの部屋、鶴来屋の会長室と屋敷内の蔵。
それとも雨月寺の住職に直接聞くか。
流石に千鶴さんの部屋と会長室は調べられない。
親父の遺品を見せて欲しいと頼む事は出来る。
だが次郎衛門の話同様、鬼に関する物を見たいとは言えなかった。
今は鬼に関する話は、避けたかった。
いくら俺が殺そうとしたのを気にしていないと言っても、千鶴さんが昨日の今日では、はいそうですかと割り切ってくれるとも思えなかった。
住職に直接聞くのは、今の段階では論外だった。
住職がどの程度事実を知っているのか判らない以上、鬼が柏木かとは聞けない。
どの一族か聞いた所で、話を面白くする為と言われればそれまでだ。
結局、その日はそれ以上調べるのを諦め、翌日蔵を調べる事にした。
夕食後、暇潰しに蔵を見たいと鍵を借り受け、俺は早々に床に就いた。
その夜、俺は夢を見た。
次郎衛門と言う侍に、俺自身がなった夢を。
月が蒼く輝く美しい夜。
幻想的な美しい異国の少女との出会い。
燃え盛る炎の中、血と肉が炎に炙られ、死が充満する中での少女との再会。
命の灯火が吹き消される直前、幾多の戦場を駆け巡った次郎衛門が、鬼で在り自分を獲物とする美しい少女に魅入られ、死を受け入れた瞬間。
むしろ次郎衛門は、少女から与えられる死に喜びさえ感じた。
次郎衛門は孤独だった。
身寄りもなく、ただ独り生きる為に戦場を駆け巡り、糧を得る生活に疲れ果てていた。
美しく気高くさえ在る少女から与えられる死を、次郎衛門は最後の誇りとした。
だが次郎衛門は、死ねなかった。
あまつさえ誇りある死の代わりに、敵に情けを掛けられ、忌み嫌う鬼にされるという耐え難い屈辱を受けた。
潔い死を望んだ次郎衛門の怒りは、計り知れなかった。
侍に取って負けは死であり、潔い死こそ誇り。
他に何も持たない次郎衛門の誇りは、微塵に打ち砕かれた。
死と破壊に明け暮れる異形の化け物、忌み嫌った鬼にされた怒りと屈辱のままに次郎衛門は少女を襲い。
少女の真意を知った。
次郎衛門が少女に出会った瞬間、心引かれた様に、少女もまた次郎衛門に引かれていた。
次郎衛門の心に少女の想いが流れ込み。次郎衛門は少女に出会った瞬間から、既に少女に捕われていた己を悟った。
凌辱はいつしか優しい愛撫へと変わり、二人の絆は固く結ばれた。
次郎衛門は人を捨て、少女も鬼を捨てた。
人里を避け二人寄り添い暮らす生活は、今まで次郎衛門が感じた事のない安らぎと、幸福に満ち溢れていた。
次郎衛門に取って少女が全てになり、少女も次郎衛門の想いに応えた。
しかし、幸せは長く続かなかった。
獲物を同族とし、自らと同じ存在だと訴えた少女は、鬼の裏切者として、同族により次郎衛門の腕に中で命の炎を消した。
次郎衛門は哀しみと怒りに狂った。
侍が仇を討つのは当然だった。
次郎衛門の培った侍としての魂と鬼としての本能が、己の半身を奪った者の血と死を求め、心の内を憎悪が吹き荒れた。
だが次郎衛門には、仇さえ討てなかった。
死の寸前、仇を怨むなと願った少女と約した言葉が次郎衛門を止めた。
怨みは消えなかった。
だが、殺す事は出来なかった。
仇は少女の姉であり、少女の面影を宿していた。
死した少女の面影に手を掛ける事が、次郎衛門にはどうしても出来なかった。
仇討ちさえ果せない次郎衛門の心は、哀しみに狂って行った。
鬼を滅ぼそう。
直接仇を討てないなら、他の鬼ども全てを根絶やしに。
少女との約束が、次郎衛門の狂気に拍車を掛ける。
次の世で、だめならまたその次で。
必ず探し出し、また出会い腕に抱く。
今度こそ守り幸せにする。
次郎衛門は鬼は鬼の血に生まれ変わると知り、最後の寄り処とした。
残るのは、彼女と俺の血だけで良い。
奴等如き鬼共に、生まれ変わらせたりはしない。
俺達の血の流れの中で、俺達は再び巡り合う。
自身の血脈に少女が蘇る。
次郎衛門は、自身の考えに陶酔した。
折り良く少女の妹が、次郎衛門に人と鬼の共存を願い助力を請うた。
元より共存など考えにない次郎衛門は一計を案じ、妹から共存に必要な力と称し鬼の武器を手に入れ鬼を罠に掛ける。
獲物であった人が、自らの武器を手に襲い掛り混乱する鬼達を狩る狂喜の内に、鬼の首領さえ次郎衛門は討ち取った。
人の剣技と鬼の力を併せ持った次郎衛門の前に、五分の戦いを見せた首領を討ち取った時。
次郎衛門が見た者は、鬼となった自身の姿だった。
ただ独り生き残った鬼。
焼き尽くされる鬼達の屍を前に、放心し立ちつくす妹を見た時。
次郎衛門は、自分こそが忌み嫌った鬼以上の鬼になったと悟った。
復讐を遂げた満足感は無かった。
後悔と虚しさ。
立ちつくす妹を裏切った罪悪感が、次郎衛門を襲った。
次郎衛門は、妹の前でただ泣き伏した。
だが妹は、次郎衛門を責めなかった。
泣き伏す次郎衛門を、同じく頬を涙で濡らしながら優しく抱き締めた。
次郎衛門は、独り生き残った妹を守り生きる決心を堅め、妹もまた他に頼る者もなく次郎衛門を受け入れた。
まだ薄暗い夜明け前、俺は夢から覚めた。
涙が溢れ、止めどなく流れ落ちる。
全身から汗が吹き出し体の震えを押さえ切れず、体を丸め心に穴の開いた様な虚しい寒さに震えていた。
鬼の衝動同様、リアル過ぎる夢だった。
それでも俺は、由美子さんから話を聞いたから夢に見ただけだ、と自分に言い聞かせ。少し落ち着いてから涙を拭い顔を洗い、着替えをすませ部屋を後にした。
何かしていないと、またあの虚しい寒さに襲われそうな気がして、俺は足早に蔵に向った。
蔵は敷地の端に在り、建て売りの一軒家程の大きさがあった。
早速借りた鍵を使い中に入る。
あまり使っていないのか二階構造になった蔵の内は、埃とカビくさい臭いに覆われ、とても長くは居られない。
俺は蔵の扉を全開にし、一つ一つ鎧戸を開ける事から始めた。
鎧戸の数が少ない為か、空気の入れ換えだけで時間が掛かり。朝食の頃合いを見計らい母屋に戻ると、ちょとした騒ぎが起こっていた。
部屋まで起こしに来た初音ちゃんが、俺の姿を求め屋敷の中を探し回っている所を千鶴さんが見かけ。一緒に探しているのを梓が見かけと言う具合に、楓ちゃんまで一緒になって探している所だった。
蔵までは、誰も思い付かなかったらしい。
どうも俺は、叩き起こされるまで寝ているのが、普通だと思われているようだ。
いまだ、親父の突然の死が尾を引いていた。
屋敷中を探し歩いた初音ちゃんは、朝起き永遠に帰らないと知らされた親父を思い出し、俺を見るなり泣き出し。
初音ちゃんを宥める俺に、梓は朝から世話を掛けるな。と怒声を浴びせ掛けた。
千鶴さんと楓ちゃんは、梓と初音ちゃんを宥めながらも、瞳は不安に揺れていた。
寝汗に湿った布団を片付けなかった俺の失敗だった。
また鬼の夢を見たのではないかと不安を持ったのが、二人の暗い表情からも読み取れた。
登校時間も迫り、取り合えずその場は治まった。
梓と初音ちゃんが登校してから、楓ちゃんに鬼の夢は見ていないと確約し、少し安心してくれた楓ちゃんの出掛けた後が大変だった。
何と言っても極め付けは、千鶴さんだった。
帰ってから困るから早起きしたと言えば、急におかしいと言う。
蔵に居たと言うと、何を探しているのか盛んに聞かれ。
俺自身確固たる目当てが在るでなし口ごもると、最後には子供の様にぼろぼろ泣き出され、ほとほと弱った。
大学の資料になる物でもないか探していると言い、何とか千鶴さんにも納得して貰った。
だが俺は、この一件で千鶴さんの態度に不安を憶えた。
妹達の前では以前と代わらない千鶴さんの態度が、二人になった時、徐々に変化が現れ始めていた。
幼い少女の様に時に感情の現し方が激しくなり、特に不安な表情をよく見せる様になった。
最初俺は、鬼の重圧から解かれた反動から来る一時的な情緒不安定だろうと思っていた。
だが、すぐに違う事が判った。
後で梓から、千鶴さんが俺が帰ったかも知れないと洩らしたのが、初音ちゃんを不安がらせたと聞き、俺は千鶴さんの泣き出した理由をやっと理解した。
千鶴さんの不安は解消されていなかった。
俺が鬼を制御仕切れているのかも含め、俺に手を掛けた事を未だに気に病んでいる。
そう考え思い返してみると、千鶴さんが不安な瞳を向けるのは、鬼か水門の話を思い出す時が多いのに気が付いた。
千鶴さんから次郎衛門の話を聞き出すのは、諦めるしかなかった。
蔵の調査の方は初日から難行した。
俺の乏しい知識では、古い文献はまるで暗号だった。
読める物から片端から当り、一日掛りでやっと蔵の文献の一部を調べ、何の手掛りも無いまま夕食に駆けつけると言う有り様だった。
一週間を掛け探したが、蔵からは鬼に関する物は一切発見出来なかった。
余程気を使い残さなかったのか。あるいは、鬼に関する物は別に管理しているのかのどちらかだろう。
その間も夢の方は見続け、夢の体験はより多くの事を俺に教えた。
日を追う事に夢は鮮明になり、俺は夢の中の次郎衛門が見る少女の夢に涙し、妹の鬼さえ居ない孤独に新たな涙を流した。
次郎衛門は妹と暮らし始めても、少女を忘れられなかった。
少女の居ない生活に悲嘆にくれ、涙を流し妹の鬼にすがっていた。
しかし俺を打ちのめしたのは、これが俺の過去かも知れないと感じた事だ。
信じたくない事実だった。
夢の内容も、信じるには伝奇と言うよりSFだった。
鬼は異星人、星の海を渡る船で流れ着いた。
自らをエルクゥと呼び、星星の間を命を狩り歩く種族。
俺では原理を理解出来ない鬼の武器を使い、鬼を滅ぼす次郎衛門。
鬼の血がなければ、ただの夢として俺も一笑に付していた。
それでも俺は、どこかで次郎衛門が自分の過去だと確信してもいた。
帰る数日前、俺は雨月寺を訪れる決心をした。
そこに在る物を確かめれば、事実か単なる夢か判る筈だった。