凍った時 夢幻の章 1
胸が張り裂けそうに痛み、息が詰まる。
内から這い出す暗い想いが、俺の中を這いずり魂を喰らおうとしている。
あまりの寒さに、凍て付く痛みが身体を震えさせる。
胸を、喉を熱く焼きながら、はらわたが凍える。
内から蠢き食い破ろうと、どす黒い炎が俺の内をのたうつ。
心を暗く冷たい怒りと、胸に開いた虚(うつろ)が魂を凍て付かせる。
開いた口から洩れる音が、微かな笛の音を思わせる。
俺ではない俺の、寒さに震える魂が憎悪を掻き立てる。
幾星霜の時を。
凍える痛みを。
凍っていた魂を揺さぶり、あれが俺を。
奴を呼び覚ます。
憎悪を。後悔を。哀しみを。
愛しさを。切なさを。
狂おしい想いが、暗い炎となって俺の魂を凍えさせる。
掻き毟った胸の傷の痛みさえ、何の助けにもなりはしない。
失った者の大きさが。
失わせた者の哀しみが。
俺の心を、魂を、暗い闇の中で溶かし。
俺の罪を、蘇らせる。
開いた口から声にならない悲鳴を上げ、俺は起こした半身を折り口を両の手で塞ぐ。
そうしないと、闇より濃い狂った炎が口から吹き出すかの様に、口を押え身体を丸める。
母の胎内にいた時の様に。
寒さに震える赤子の様に。
温めてくれる者は、今は居ない。
かって、供に涙した娘の温もりも無いまま、俺は涙を流し続ける。
奴が、微睡みの中に落ちるまで。
「……い…ち…さ……」
「…こう…いち……」
小さな声が、俺の微睡みの邪魔をする。
「…こう…いちさん……」
…こう…いち?
…誰…だ?
「…耕一…さん」
………耕一?
…俺…か。
「…耕一さん」
静かな声音に瞼を開けると、視界一面を光が覆い尽くし、俺は硬く瞼を閉じた。
瞼に感じる光が影を落とし、俺は慎重に瞼を上げた。
「…耕一さん」
ぼんやり像を結んだ瞳に、心配そうに覗き込む澄んだ瞳が映った。
胸を締め付ける瞳を見詰め返すと、細い睫毛を震わし瞼が瞳を覆い隠す。
俺は真っ赤に頬を染め俯いた少女が、やっと楓ちゃんだと気が付いた。
「…かえで…ちゃん?」
確かめる様に彼女の名を呟き、夢の残照を擦り落とす様に、俺は顔を擦り擦り身体を起こした。
顔を擦った手に、気持ち悪い汗が粘り付く。
………夢?
…また…夢?
……夢…であってくれ。
「もう、お昼ですよ」
昼?
秋を感じさせる風が、汗に濡れた身体に身震いを起こさせ。廊下に目を向けると開け放たれた障子戸から、柔らかな光が部屋の中を照らしていた。
俺は枕元に置いたタオルで汗を拭い、傍らに座る楓ちゃんに笑みを作り顔を向けた。
あれ?
「おはようには、遅いかな。でも楓ちゃん、学校は?」
「…土曜ですから」
楓ちゃんは少し首を傾げ、さらさらの髪を揺らし静かな微笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。週休二日?」
楓ちゃんは、コックリ頷く。
肩の辺りで切り揃えられた髪が首の動きに連れ揺れ動き、柔らかな日差しを跳ね返す。
艶やかな髪が、きらきらと輝いて見える。
完全に曜日感覚が麻痺してる。
そうか、初音ちゃんが昨日言ってたか、休みも長いとやばいな。
「あの、梓姉さんが……」
「耕一! いつまで寝てんだ!」
楓ちゃんの静かな声を怒声が遮った。
俺は怒鳴り声に廊下を振り向き、額に青筋を浮かべた梓を見つけた。
「さっさと! てっ? あれ、楓?」
廊下から俺を睨み付けた梓の表情が、ちょこんと俺の傍らに座った楓ちゃんを見つけ、不思議そうに変わる。
梓に物珍しそうに見詰められ、楓ちゃんは、また頬を染め俯いてしまう。
梓の驚きも理解は出来る。
楓ちゃんが俺を起こしてくれるなんて、今までなかった。
「よう、梓。休みだって? 今の高校生は良いな」
楓ちゃんから梓に目を移し、俺は苦笑いを浮かべ梓に声を掛けた。
鬼を制御してから、楓ちゃんは俺を避ける事もなくなり。食後もすぐに席を立つ事なく、楽しそうに微笑みながら、俺達の話に耳を傾ける様になっていた。
元が大人しい子だ、俺と頻繁に言葉を交す事はないが。静かに微笑む彼女と居ると、俺は千鶴さんの温かさとは別の懐かしい静かな穏やかさを感じていた。
「何言ってんだ! 一日中ごろごろしてる三流大生が。もう、昼飯だぞ」
「ああ、悪い。朝飯無駄にしたか?」
「まあ、昼は温めるだけだから良いけどさ。千鶴姉の奴、耕一には、甘いんだからな」
朝飯が無駄になった。と、怒鳴られる位は覚悟していた俺は、舌打ち一つで済ました梓のあっさりした返事に拍子抜けした。
「千鶴さんが、どうかしたのか?」
「ああ。千鶴姉の奴が起こすなってさ。たっくぅ、早くても遅くても、手間ばっか掛かんだから」
ふんとそっぽを向くと、梓は早く来いよと言い残し、足音を響かせ姿を消した。
梓の不機嫌の理由は判っているが、俺は溜息が出そうになる。
かおりちゃんが助け出され喜んで見舞いに行ったものの、厳重な警察の保護下で殆ど話しも出来ず。
未だに学校にも来ないのが心配で梓が苛々するのは判るが、梓の不機嫌の理由はそれだけでもない。
伯父の鬼化が、中学生だった千鶴さんの心に深い痕を残しているのだろう。
丸一日寝込んだのが不安を掻き立てたのか、千鶴さんは一週間たった今も、俺に必要以上の気遣いを見せていた。
理由を知らない梓は、それも面白く無いのだろう、更に苛立ちを募らせている。
俺に当るだけなら良いのだが、千鶴さんにまで突っかかるのは困った者だ。
「…耕一さん」
「うん? 何かな、楓ちゃん?」
小さく呼ばれ振り向くと、楓ちゃんの瞳が不安そうに揺れていた。
深く澄んだ寂びしい瞳。
俺の胸を切なくさせる瞳。
「…寝苦しそう…でしたけど」
ほんの少し眉を寄せ、楓ちゃんの澄んだ声が不安に掠れた。
「大丈夫、あの夢は見ていないから。身体の方も前より調子が良い位だよ」
俺は出来る限りの笑顔を作り笑って見せたが、楓ちゃんは不安そうに俺を見詰め、ゆっくり口を開いた。
「…でも、あれからも耕一さん、寝苦しそうです」
「ごめん、心配を掛けて。でも、あれじゃないんだ」
楓ちゃんの不安を湛えた瞳を見ていられず、俺は溜息混じりに視線を布団に落し呟いた。
いま俺を苛む夢は、鬼の殺戮の欲求ではない。
だが、彼女達に話せる夢でもなかった。
「…姉さんも心配しています。今朝も…」
「千鶴さんが起こしに?」
いつもなら楓ちゃんの言葉が終るのを待つ俺が途中で遮ったのに、楓ちゃんは慌てて小さく二度頷いた。
「朝は、落ち着いていたらしいですけど。寝汗が酷くて、布団も乱れていたらしくて。それで姉さん、起こさないようにって」
少し慌てた様に早口になった楓ちゃんの声を耳に、俺は顔を擦って、考えをまとめていた。
話さなくても、心配を掛け。
話しても心配させる。
予定道理帰らなかったのは、今となっては最大の失敗だ。
「……耕一さん?」
楓ちゃんの不安そうな声で、俺は考えを打ち切った。
「…実は、その」
「………」
何も言わず注がれる瞳に、俺は後ろめたさを感じながら重い口を開いた。
「奴も俺と同じだと思うとね。人なんだよ。俺が殺したの」
注がれる視線の圧迫が薄れ、俺は楓ちゃんが俯いたのを微かな髪の音で知った。
「後悔はしてない。もう一度同じ事になったら同じ事をする。だけど、やっぱり後味が悪くてね」
苦笑いを作り顔を上げると、一つ息を吐き楓ちゃんは俯いていた顔を上げ、哀しそうな微笑みを作った。
「…姉さんを助ける為でした。それに、誰も鬼のままで生きていたいとは思わない筈です」
「うん、ありがとう。大丈夫、頭では判ってるから」
楓ちゃんの精一杯の慰めに、俺は笑顔で応えた。
寝苦しさの言い訳に使った話だが。
考えてみると本当にそうなのか、疑問は残った。
不思議と俺には奴を殺した罪悪感はない。
奴の夜明けを待ち焦がれる、苦しみを知っていたからかも知れない。
だが俺は。
俺自身が犯人だったら、千鶴さんから逃げなかったのか?
犯人では無いと知っていたから逃げたのか、犯人だとしても逃げたのか。
今はもう判らない。
人が生きるのも、また本能だろう。
鬼が人を狩るのと同じ、本能。
鬼に呑まれた人間は、人と鬼の本能、両方を否定して死ぬしか無いのか?
「耕一さん?」
気が付くと笑顔を作ったまま黙り込んだ俺を、楓ちゃんが心配そうに覗き込んでいた。
「楓ちゃん。千鶴さん気にするから、内緒だよ」
俺が笑って片目を瞑ると、楓ちゃんは胸に手を置き小さく息を吐いた。
「やはり姉さんには、話さない方がいいんでしょうか?」
「今はね。もう少し落ち着いてからの方が良いと思う」
「耕一さんも?」
問い掛ける瞳で名を呼ばれ、同じ不安を楓ちゃんが感じているのが判った。
「今までの無理が、一息吐いて出て来たってところかな」
心配そうに表情を曇らせ、楓ちゃんはコクンと頷く。
「千鶴姉さん、酷く神経が過敏になってるみたいです」
「俺の所為だね。ごめん」
フルフル頭を振る楓ちゃん。
「梓姉さんも少しおかしいですから、それも在ると思います」
俺は額を押え溜息を吐いた。
千鶴さんも梓も、かなり精神的に参っている。
二人の些細な言い合いが、以前の様なからかい半分の物から、俺と初音ちゃんが止めなければ、掴み合いに成りかねない険悪な物になる事さえ在る。
たいてい最後は、千鶴さんの寒気を覚える一睨見でその場は治まるが。梓のちょっかいで、すぐ再燃すると言った具合だ。
楓ちゃんに話を聞く限り、千鶴さんが本気で梓を睨み付けるのは、今までは年に一度在るか無いかだったらしい。
「かおりちゃんが事件に巻き込まれたの、梓の奴自分の責任みたいに感じてるからな。まあ、二人とも、苛々をぶつけられる程気安いって事だけど。今はな………」
俺はもう一度、深く息を吐いた。
いま一番休養が必要なのは、誰よりも千鶴さんだ。
「…はい。千鶴姉さん、疲れてるんだと思います」
楓ちゃんも千鶴さんが心配なのだろう、俯いたまま小さく息を吐く。
「夜にでも、千鶴さんと話してみるよ」
俺にも判ってはいる。
精神的にも肉体的にも、千鶴さんは疲れ切っている。
いくら治りが早いと言っても、鬼に負わされた傷が肉体的な疲れを募らせている。
あの日、水門で意識を失った俺を家まで運び、仕事を休んでいた千鶴さんは、俺の目覚めを待って直ぐ仕事に戻って行った。
俺と楓ちゃんは休みを取るように勧めたが、持ち前の義務感から名だけの会長でも休めないと、千鶴さんは大丈夫と笑って見せ、休もうとはしなかった。
しかし、それ以上に精神的な疲れが出ている。
俺が鬼を制御し、張り詰めた気が緩んだのだろう。
それなのに、俺が、またうなされているのでは…不安も…大きい……
千鶴さんの情緒不安定の原因が、俺の鬼と俺自身に在るのは、よく判っているのだが。
「楓ちゃん、心配掛けてごめんね。それと、ありがとう」
「……?」
「梓が来る前に、起こしてくれたんだろ?」
話を変え様と小首を傾げた楓ちゃんに尋ねると、楓ちゃんは頬を仄かに染め、視線を落とし小さくコックリ頷いた。
梓の起こし方は、殴る蹴ると、めちゃくちゃだから、身体の方がどうにかなる。
「ありがとう、助かったよ。ええと、顔洗ったら居間の方に行くから」
楓ちゃんも話は終わったと感じたのか、もう一度小さく頷き、静かに立ち上がり開け放した障子戸の向こうへと姿を消した。
楓ちゃんの姿が完全に見えなくなるのを待って、俺は大きく息を吐き洗面所に向かった。
予定では、一週間前に帰る筈だった。
だが大学が始まっても、しばらくはたいした講義もない。
鬼の生死が気に掛かり、俺は出来る限り滞在を延ばす事にした。
俺が寝込んだ所為もあって、独り暮らしに帰すのが心配だと、皆はむしろ積極的に延ばす様に勧めてくれた。
梓だけは相変わらず、嬉しそうな顔を隠して、手間が増える等と言っていたが。
しかし、この一週間新たな惨殺事件もなく俺の不安は他の事に移っていた。
夢が告げる通りなら、鬼の心配はない。
奴は死んでいる。
洗面所で顔を洗った俺は、鏡に映った自分の顔を見詰めた。
見慣れた顔。
見慣れた俺の顔の向こうに、もう一つの顔が浮かんでは消えた。
今までなら信じなかった。
ここに来てから信じられない事ばかりだ。
だが俺自身、鬼になり鬼を殺した。
夢で見た通り、俺と奴とは意識が通じていた。
夢が事実なら……
…確かめてからで…良い。
それから考えれば良い。
俺は頭の一振りで考えを振り払い、一度着替えに部屋に戻り、居間に向かった。
居間に入ると梓の不機嫌な顔と、初音ちゃんの天使の微笑みが俺を迎えてくれた。
「耕一お兄ちゃん。おはようって。もう、お昼じゃ遅いよね」
初音ちゃんが言いながら、肩を竦(すく)めクスッと笑う。
「おはよう、初音ちゃん。勘弁してよ」
初音ちゃんの頭を撫でながら、俺は腰を下ろし苦笑を浮べた。
「すぐ温めるから待ってな」
梓が立ち上がるのと入れ違いに、楓ちゃんが湯飲みと急須を乗せたお盆を手に台所から姿を現し、腰を下ろすとお茶を入れスッと差し出してくれる。
「ありがとう、楓ちゃん」
言いつつ湯飲みを口に運ぶ。
熱すぎず、ぬるすぎず、濃すぎも薄すぎもしない。
う〜ん。絶妙のバランス。
楓ちゃんが入れてくれるお茶は、何と言っても美味いの一言に尽きる。
「美味いなぁ」
楓ちゃんは俺が一言洩らすと、はにかんだ笑みを浮かべ視線を横に逸らし。初音ちゃんはそうでしょ、と俺の顔を覗き込んだ。
「こっちも、美味いからね」
言いながら梓が運んで来たのは……
「珍しいな。和食じゃないのか?」
グラタンかな?
ドリアってことも。
「へへ、洋食だって中華だって。あたしに掛かればお手のもんよ」
自慢そうに胸を張る梓から、テーブルに視線を移すと、
「梓お姉ちゃん、昨日から本読んで頑張ってたんだよ」
俺の耳に初音ちゃんが口を寄せ、小声で囁いた。
「へぇ〜。うん、美味そうだ」
「美味そうじゃなく。美味い!」
梓は自信満々言い切り、俺が食べるのを今や遅しとジッと見詰める。
こう真剣に見られると食べ辛い。
「いただきます」
フォークを使い程好く焼けた表面を破る。
香ばしいクリームチーズとホワイトソースの香りが広がる。
海の幸をふんだんに使ったグラタンは、そこらのレストラン顔負けの美味さだ。
ふむ、シーフードグラタンか。
「うん、いける。美味い、美味いよ」
俺が美味いと言うたび、梓の顔が赤くなる。
「そう? ちょと焼き加減が心配だったんだけど」
照れて鼻の頭を掻きながら、さっきまでの不機嫌さが嘘の様に、梓は嬉そうに謙遜する。
「いや、良い具合に焼き上がってる。そこらの店なんか目じゃないよ」
言いつつ隣のサラダに手を伸ばし、俺はハタと気が付いた。
「なあ、梓。サラダも美味いんだけどさ」
「えっ! どうかした? どっかおかしい?」
慌てて不安そうに聞く梓に、俺の予感はいやが上にも高まった。
「お前達は、どうしたんだ。昼喰ったのかよ?」
「あ、ああ。これから暖め様かなってさ」
やっぱり。
「お前、俺を実験台にしただろ」
梓は、悪びれる様子も無くはははっと鼻の頭を掻く。
「耕一お兄ちゃん、いつもと反対だね」
「えっ? ……あっ、そうか。いつもは初音ちゃん達が、朝御飯食べた後だもんな」
クスクス笑いながら初音ちゃんに寝起きの悪さを指摘され。俺も梓同様、鼻の頭を掻きながら苦笑いで返した。
「まあ良いじゃんか。美味いんだろ?」
「ああ、美味い。まあ良いか」
楓ちゃんが鼻を掻く梓と俺を見て、クスッと笑いを洩らしたのに気付き。俺は何とはなし照れくささを感じ、ごまかす様に勢い良くフォークを動かし始めた。
「うん、食欲も戻ったな」
「あん?」
ジッと見ていた梓が、不意に優しい眼になると少し首を傾げ、立ち上がり台所に向かった。
「梓お姉ちゃんも、心配してたんだよ」
「心配?」
初音ちゃんに言われ、俺は首を捻った。
鬼の事は、梓と初音ちゃんは知らない筈だ。
「うん。耕一お兄ちゃん、寝込んでから、ご飯残したりしてたでしょ? だから体の具合、まだ良くないんじゃないかなって」
「ああ、ごめんね、初音ちゃんにも心配掛けて。運動不足かな。あの時は食欲が無くって」
心配そうに表情を曇らせた初音ちゃんの頭を軽く撫で、俺は再びフォークを動かした。
勢い良い食べっぷりに、初音ちゃんは安心した様に頬杖を突いて俺を見ていた。
鬼の力が目覚め、俺の五感は一時的に混乱した。
僅かの間だったが、味覚までが鋭敏になり過ぎ、食事を残す始末だった。
それもしばらくの事で、今は意識しなければ以前と同じレベルに収まっている。
その時の食欲の無さを、梓と初音ちゃんは体調が戻っていないと思っていたのか。
梓が珍しく洋食に変えたのも、目先を変えれば、俺の食欲が出ると考えてだろう。
梓には余計な気を使わせ、感謝しつつ俺は有難くグラタンを平らげた。
「耕一お兄ちゃん、午後はどうするの?」
食後のお茶をすする俺に、初音ちゃんの期待のこもった瞳が向けられた。
時間があるからゆっくり遊べるねっと、初音ちゃんの満面の笑みが俺に言っていた。
このつぶらな瞳の期待を裏切るのは………
しかし、俺には時間が………
「初音ちゃん、ごめん。これから用があって、出掛けないと」
迷った末、俺は心を鬼にして答えた。
ここの所敷地内に在る蔵に入り浸り、俺は初音ちゃんとも夕食後に皆と一緒に過ごす位になっていた。
初音ちゃんは、休みの今日明日を楽しみにしていたんだろう。
「ううん。耕一お兄ちゃん。明日まで居るんでしょ?」
初音ちゃんは寂しそうに陰った瞳で、にっこり微笑み小さく首を横に振る。
「うん。明日、一緒に何するか考えとくよ」
「うん。約束だよ」
「おい、耕一。出掛けるのは良いけど。早く帰って来いよ」
嬉そうに頷く初音ちゃんに頷き返していると、梓が台所から顔を覗かせ。
初音ちゃんはそれを合図に台所へ向い、梓と一緒に食事を運び始める。
「そう遅くはならないと思うけど。何かあるのか?」
「別に。せっかくの日曜に昼まで寝てられちゃ、迷惑だからな」
いつもの席に着いた梓に聞き返すと、俺から目を逸らし、さっさと食べ始めた。
いつもなら何処に行くとも聞かないで、大人しくしてる奴じゃない。
何か企んでるな。
相変わらず嘘の下手な梓の反応に、苦笑を押さえ初音ちゃんに目を向けると、苦笑いだけで答えてくれない。
楓ちゃんも目を逸らし俯いてしまう。
梓に口止めされてるのか?
仕方ないな。
遅くなるし出掛けるとするか。
「じゃ、ちょと行って来るよ」
「耕一お兄ちゃん、気をつけてね」
「行ってらっしゃい」
「早く帰って来いよ」
三者三様の見送りに、軽く手を上げて返し。
屋敷を後に、秋の気配を感じさせる穏やかな日差しの中、俺は自分を探しに出掛けた。