遙けき過去 一幕
樹
木々を茜に染めた落葉の葉もすっかり落ちた低い山の中腹に一つの小さな集落があった。
山と言うよりも、高い丘と言った方が似合う低い山だった。
食事の用意でもしているのだろう、集落の一軒から屋根に葺かれた木々の間から細い煙が立ち昇っている。
陽も西に傾き山肌もじき茜に染まるだろう。
夕餉の支度を始めても良い刻限だが、他の家からは煙どころか人の気配すらも感じられなかった。
当然でもある。
最近遠く風の噂に聞いていた「雨月山の鬼」に近在の集落の幾つかが襲われ。所詮人事と高を括っていたこの集落の人々も、冬を前に集落を捨て人里へと下った筈だったのだ。
上がる筈のない煙を棚引かせていた家の戸代わりの筵(むしろ)を捲り出て来たのは、年の頃、十六、七の少女と思しき人影だった。
近在では見られない珍妙な服を纏った少女は、手で口元を押さえ、小さく咳込み目には涙を浮かべている。
火を起こすのに慣れていないのだろう。筵の隙間からは白煙が立ち昇っていた。
小さく咳き込んでいた少女は暫く息を整え目元を拭うと。気品に満ちた端正な面に困惑した表情を浮かべて家を振り返り、小さな嘆息の息を洩らした。
教えられた通り火種から細い枝に火を移した筈なのだが。囲炉裏からはもうもうと白煙が上がるばかりで、何度やっても上手く火を熾せないのだ。
想い人は少女が火を熾すのに失敗する度、屋根が燻されて良い。と笑って慰めてくれるのだが。少女としては火の一つも熾せず、食事の用意すら満足に出来ないのがどうにも情けない。
今日は想い人が冬に備え、獣の皮と食料を交換しに人里まで降りた間に、食事の用意をととのえ出迎えて驚ろかそうとしたのだ。
結局のところ、失敗したのだが。
家に恐る恐る近付いた少女は筵を捲り上げ、溢れるように湧き出た白煙に形の良い眉を顰めながらも捲り上げた筵を紐で止め、パタパタと手で煙を追い出すような仕草を繰り返した。
煙が少し収まると、少女は家の中に入り桶を胸に抱いて獣道に分け入った。
近くの川から水でも汲んで来ようと言うのだろう。
しかしつい先頃まで鮮やかな紅葉を見せていた木々からは葉がすっかり落ち、季節の変わり目を告げる冷たい風が吹く時節である。
冬ごもりに備え腹を空かした獣の彷徨する山中を、獣達の集まる水場に夕暮れ間近に少女一人で向かうなど無謀と言える行動だった。
案の定、獣道を抜けた見通しの利く川の岸辺では、子連れの獣が水を求めて徘徊していた。
「…熊?」
少女は小首を傾げ、想い人に教えられた獣の名を小さく呟く。
「…小熊」
視線を川中で遊んでいる小ぶりな獣に移し呟いた澄んだ声音からは、恐れや驚愕の響きは全く窺えない。
この地とは出自を異にする少女は言葉に慣れる為にも目にした物の名を、なるべく口に出すように心がけていたのだ。
獣の名と共に子供を連れた獣の危険性を教えられていた少女だが。獣の名を満足げに何度も舌の上で転がし、そのまま淀みない足取りで真っ直ぐ川に向かう。
熊の方は小熊を庇い、無防備に近付く少女をコフコフと息も荒く威嚇している。だが、少女は獣には興味を無くしたようで見向きもしない。
やがて近付く少女に向かい、熊は大きくその巨体を持ち上げ咆哮を上げた。
二メートルあまりの巨体を持ち上げた熊の咆哮に対し、少女は顔色も変えず軽い一瞥を向けただけだった。
しかし少女の視線を受けた熊は怯えたように身を翻し、前足が地に着くのももどかしげに一目散に川を上流へと遡っていく。
子供を庇い必死に逃げる獣を赤く染まった瞳に映していた少女は、獣の慌てぶりを気にした風もなく川辺に歩み寄り両手で水をすくう。
両の掌にすくい上げられた水に映った少女の瞳は、黒く澄んでいた。
掌から刺すように冷たい水をこくこくと飲み干し、少女は小さく嘆息の息を洩らした。
「……次郎衛門」
口にした水の冷たさに震えたように少女は小さく唇を震わせ、想い人の名を呟いた唇を愛しそうに指先でなぞった。
想い人が里に降り、わずか数時間しか経っていないというのに酷く寂しい。
共に暮らすようになってから、これ程の間、少女が想い人と離れたのは初めてだった。
秋の間は獣を狩り木の実や草木を集めて食事にしていた。だが、これから冬に入ればそうも行かなくなる。
集めて置いた獣の皮と食料を交換する為、想い人は里へ降りることが多くなるのだろう。
一緒に里に降りられれば……
そう考えた少女は、頭を振って打ち消した。
想い人は口にこそ出さなかったが、少女が人里では目立ち過ぎてやっかいな事態になる。と考えていた。
捨てられた筈の集落から余所者が降りてくれば、只でさえ閉鎖的な人々の過剰な警戒心を刺激する。
まして少女の気品に溢れた物腰と怜悧な相貌を人目に曝せば、すぐに近在の耳目を集めるだろう事は疑いようもなかった。
良くて山に棲む魔性と噂され食料を分け与えられなくなるか。役人の耳にでも入れば、近在の集落を襲った鬼の先触れと疑われるか……
疑われるだけならば良い。
少女が本当に鬼だと知れればどうなるか。
ほっ〜と息を吐いた少女は、持参した桶を川に浸すようにゆっくりと水を汲み始めた。
川底の砂を巻き上げないよう慎重に水を汲み、少女は桶の中を覗き込み、澄んだ水だけが入っているのを確認して満足げな笑みを浮かべた。
初めの頃、このような道具で水を汲むのに慣れていない少女は川底の細かな砂を巻き上げてしまい、貴重な麦飯を川砂混じりにしてしまっていた。
想い人が山中で苦労して手に入れ楽しみにしていた麦だっただけに、それからは水を汲むのに酷く神経質になっているのだ。
少女には麦と呼ばれる穀物の価値は判らなかった。
しかし想い人の落胆の気持ちを感じ取った少女は、この地で麦という穀物が非常に貴重な食物なのだと認識していた。
川で水を汲み、獣の皮と交換に食べ物を手に入れる。
以前は望みさえすれば澄んだ水も食事も思いのままだった少女だった。だが少女は、以前は考えもしなかった今の生活に満ち足りた気持ちを覚えるようになっていた。
何よりも想い人が与えてくれる心の温もりと穏やかさは、狩りの興奮と陶酔以上の至福を与えてくれた。
火を熾し水を汲む。
そんな些細な行為すらも、想い人と共にすれば愛おしく大切に感じた。
桶に水を満たした少女はゆっくりと踵を返し、凍ったようにその動きを止めた。
河原へと続く獣道の前に、木々の間を抜けた沈み行く陽の光を背に女が立っていた。
少女と同じ服装に包まれたほっそりとした身体の線を背にした陽の光が浮かび上がらせている。
影になった女の顔は、少女からは判然としない。
しかし少女は、顔など見えなくとも女を良く知っていた。
「帰りなさい」
影が静かに少女に命じた。
静かな感情の抜けた声音。
だが聞く者を従わせずにおかない、威厳に満ちた態度。
熊の威嚇にさえ動じなかった少女の面に僅かに動揺が走った。
命じる者と命じられる者の習性が少女の意思とは無関係に従う事を是とし。固く唇を噛み締め本能とも言える習性を振り切った少女は、己の意思を示すため頭を振った。
「奴は帰って来ない」
冷徹に告げられた少女は桶を取り落とし、水が足下を濡らす。
嘘や威しを掛けるような女ではなかった。
一瞬の後、少女は何の前触れもなく宙に飛び、背後の川を越え山中へと身を躍らせていた。
「…無駄よ」
それまでとは違う苦渋の色を滲ませた呟きと同時に、女の姿は瞬時に消え失せた。
人を越えた少女の動きを凌駕し、女は少女を追った。
少女の行き先は判っていた。
背後に逃げたと見せ回り込みながら山を下った少女の先を読み、女は川沿いを直線的に下る。
僅か数瞬の後、下流の葦の繁茂する川辺で行く手を阻まれた少女は、再び女と対峙していた。
「帰りましょう。貴方は、なにも心配しなくていいの」
「リズエル。誰もあの人には勝てない」
それまでとは明らかに違う暖かい優しさの籠もった女の言葉を、少女は厳しい眼差しで拒絶した。
雨月山の鬼と呼ばれ恐れられる異形、エルクゥ。
エルクゥの掟を破った少女は、いずれ処分する追っ手が掛るのを覚悟していた。
今更命乞いや逃げ隠れをするつもりはなかった。
だが……。
「アズエルが獲物風情に負けるとでも?」
リズエルと呼ばれた女は、対峙する少女が後数年経ればそうなるだろうと思われる相貌に不快感を浮かべ。
少女は紡がれた名に強く唇を噛んだ。
予想した名だった。
少女を大切にしてくれた姉の名だ。
少女が説得に応じない場合を考え、アズエルには次郎衛門を襲わせ少女から引き離したのだろう。
「エルクゥでは勝てない」
少女は確信を持って断言した。
同じ力と力で鬩ぎ合う刹那の戦いの中で生き抜いてきた想い人は、今や少女に与えられエルクゥと同じ力を持っていた。
稲穂を刈り取るように、遙かに力で劣る獲物を狩るだけのエルクゥでは勝てない。
生死を分かつ最後の瞬間、その差は明らかとなるだろう。
だが、自らが率いるエルクゥの力を信じて疑わないリズエルは、エディフェルの不安を想い人の生命を奪われる恐れだと誤解していた。
エルクゥ達を統べる皇族と呼ばれる貴種であるリズエルとアズエルの力は、スピードと柔軟性に置いて体力的に勝る同族の男達をも凌駕していた。
この地に降り立った者の中で、二人に勝てるのは男達の長、ダリエリしかいない。
そのアズエルがエルクゥの力をにわかに手に入れたとしても、獲物に負ける筈がない。
そう確信していた。
「エディフェル、心配しなくて良いの。彼は戻らないだけ」
リズエルは視線を少女の背後に送り、子供に言い聞かせるように再び先程と同じ台詞を口にした。
「……」
同じ言葉を二度繰り返すリズエルではなかった。
リズエルの懇願するような視線を感じ取った少女は、瞬時にその意味を理解していた。
『戻らないだけ』
それはアズエルが命じられたのは次郎衛門の抹殺ではなく、足止めである事を意味していた。
そしてリズエルの言葉が終わるか終わらない内に、背後に現れた同族の気配を感じ取った少女は確信もした。
裏切らないよう、リズエルにも監視が着けられているのだ。
「最後です。戻りなさい」
何も応えず微動だにしない少女に静かな声音が響き。
少女は静かに瞼を伏せた。
リズエルの声と態度は、同族の気配が現れた瞬間から、再び暖かみの抜けた凛とした冷たい物に変わっていた。
狩猟者の集団であるエルクゥを統治し一つにまとめるには、卓越した力と統率力が要求される
この地に降り立ち、もう二度と故郷に帰れないエルクゥ達。
彼らが一度歯止めを無くせば、抑えられる者はいない。
リズエルが彼らを統率し続けるには、皇族の権威を誇示し自らも掟を厳守する厳しい態度が必要なのだ。
リズエルが同じ皇族の少女の裏切りを許せば、皇族の権威は失墜し掟は拘束力を失う。
リズエルが支配力を維持するには少女を自らの手で処断し公平性を示し、皇族でさえ逃れられぬ掟の絶対性を示す必要があった。
しかしリズエルは、一時の気の迷いとして少女が恭順を示し戻れば不問に臥すと言っているのだ。
リズエルが少女に示せる、これは最大限の譲歩なのだろう。
しかし少女は静かに首を横に振った。
人として暮らし人の温もりと、穏やかに流れる時の流れの中に幸せを見い出したエディフェルには、既に人を獲物として狩る生活も命の炎の煌めきが与える陶酔さえもが忌まわしい物に思えていた。
想い人と別れ、そんな生活に戻るつもりはなかった。
川面を渡る冷たい風が二人の濡れたような長く黒い髪を靡かせ、夕日が風に乗る絹糸の如く靡く髪を茜に染めた。
静かなせせらぎと風に煽られた葦の立てるかさかさという音だけが二人の間を静かに流れる。
歳を隔て鏡が映した己の顔(かんばせ)の如き相貌を向かい合わせ、二人は自らの姿を映し出す瞳をただ見つめ合っていた。
時が凍り付いたように身じろぎもせず見つめ合い。姉と妹は互いの迷いのない瞳の中に異なる道を歩む哀しい未来を感じ取っていた。
遙けき過去 二幕へ