凍った時 終章


 叔父様。

 雪を払い除けた御墓の前にしゃがみ、私を愛し慈しんで下さった御爺様、御父様、御母様。
 そして叔父様が眠る御墓に向い手を合わせ、私は心で語り掛けた。

 叔父様。
 私は、告げなければなりません。
 私の犯した真の罪を。
 黙っているのは、裏切りだと思います。
 あの人と私自身を欺き続ける事は、手酷い裏切りですよね。
 打ち明けるのが、彼を苦しめるのは判っています。
 でも私には、このまま黙っている事は出来ません。
 それで彼を失う事になったとしても、これ程までに愛されながら欺き続ける事は、私には出来ないんです。
 以前の私なら彼を苦しめたくないと、自分を欺き通していたでしょうね。
 でも、私は彼と、これからの時を生きて行きたい。
 彼の想いに応え、私が彼と共に生きるには、私は過去を越えなければならないと思えるのです。
 私が、彼の帰る場所なら。
 私は彼に何も隠しては置けません。
 彼の痕を癒す資格は、今の私には無いと思います。
 自分を欺かず全てを打ち明けた上で、私は彼に許しを乞うでしょう。
 馬鹿だと言われるでしょうね。
 でも叔父様の息子さんは、もっと馬鹿なんですよ。
 私なんかの為に、人生を捨て様とするんですから。
 ですから、私も彼に相応しい馬鹿になりたい。
 今まで偽り続けた心を、ここに置いて行こうと思います。
 もう二度と、心を凍らせ、辛さから逃げ出さない様に。
 彼の様に、辛さ苦しさに正面から立ち向かえる様に。

 叔父様。
 最後の御願いです。
 私が逃げ出さないよう、見ていて下さいね。

 静かに瞼を開き、私は腰を上げ踵を返した。
 優しく温かい瞳が、私を見詰めていた。
 身体の前で震える両手を組み、私は、ゆっくり笑みを浮かべた。
「耕一さん」
 静かに呼び掛けると、彼は問う様に小首を傾げた。
「お話しして置きたい事が在ります」
「千鶴さん、どうしたの改まって?」
 微かに訝しげに眉を潜め、彼は笑みを静かな微笑みに変えた。
 震え出しそうな身体を励まし、私は唇を動かした。
「私は、耕一さんの鬼が目覚めるのが判っていて、御呼びしたんです」
「うん、それが?」
 彼はどうして謝るのか判らないと言う様に、眉を潜め首を傾げ直した。
「叔父様の遺志を裏切り。耕一さんを、叔父様の代わりに仕様としたんです」
 予想外の反応に、私は慌てて言葉を継いだ。
 彼の瞳が小さく開き、表情が強ばった。

 怒ったのだろう。
 どう非難されても、私は当然なのだ。

「ごめん」
 非難に耐えようと身構えた私の頬を、大きな掌がいたわるように触れ、短い謝罪が聞こえた。
「……耕一…さん?」
 身を強ばらせていた私は顔を上げ、見上げた彼の瞳に怒りではなく、いたわる光りを目にした。
「親父から聞いてると思って。悩んでるのに気付かなかった」
「…叔父様…からって?」
 怒ると思っていた彼に謝られ、私は訳が判らず狼狽えて聞き返した。
「親父が、どうして俺に一緒に住む様に誘ったと思ってたの?」
「それは叔父様、耕一さんが心配で」
「親父は覚悟を決めたんだろう。俺の鬼を確認して、制御出来れば後を託し。出来なければ、一緒にってね」
 私は、ぼんやり耕一さんを見詰めた。

 叔父様が、叔母様の亡くなった時から、死の決意を固めていた?

「ごめん。俺が親父を良く思って無かったから、話さなかっただけだと思ってた」
 頭に手を置き柔らかく胸に引き寄せられ、私は手で胸を押え身体を離した。
「千鶴さん?」
「耕一さん、まだなんです」

 まだ私の告白は、終わってはいなかった。
 私が真に許しを請うべきは、もう一つの罪なのだから。

「まだ? まだ何か在ったの?」
 訝しげに見る彼を見上げ、私は震える唇を動かした。
「…私は、…叔父様を………」
 震える声は厚い胸に乱暴に塞がれ、強い腕が私の手の制止をものともせず、痛いほどに肩と頭を胸に押し付けた。
「言わなくていい」
「…御願い。…最後まで……」

 話さなくてはならない。
 叔父様は、せめて耕一さんの卒業まではと耐えていらした。
 その決意を無為にしたのは、私なのだから。

 そう、あの日も月が蒼い光を放つ蒸し暑い夜だった。
 深夜、私は叔父様の書斎を訪ねた。
 深夜訪れる事に躊躇いはあったけれども。翌朝の会議に使う書類に不備を見付け、どうしても御相談したかった。
 叔父様は初め困った様に眉を潜められたけれど、すぐ優しく微笑み部屋に招き入れて下さった。
 書斎で書類の問題点を話し合う内、叔父様は額から汗を滴らせ、私に部屋から出るように仰った。
 書類に集中するあまり、私はそれまで鬼の気配に気付かなかった。
 そして私は、言われた通りにしなかった。
 叔父様の汗を拭おうと、私が手にしたハンカチを伸ばした手を、叔父様は乱暴に払い。
 机から。
 私から逃げる様に、よろめきながら立ち上がった。
 私は叔父様の苦しげな様子に、叔父様を支えようと手を伸ばした。
 次の瞬間、伸ばした手を捕らえられ脇に在ったベッドに放り出された私の身体は、叔父様の身体の下で唇を叔父様の唇に塞がれていた。
 叔父様の腕が私の腰を捕らえ、荒い息が唇から流れ込み、叔父様の舌が口腔をなぶり私の舌を追った。
 強い腕に乱暴に抱かれ、組み敷かれながら、抵抗出来なかった。

 いいえ、私は抵抗しなかった。

 鬼の力を使えば、部屋から逃れるのは容易かった。
 本当は、鬼となり叔父様を殺さねばならなかった。
 でも私は、叔父様に抱かれる事を望んでいる。
 私自身に気が付いたから。

 鬼に半ば意識を奪われ、叔父様自身の意思ではないのを知りながら、私は叔父様の腕の中で幸せだった。
 肌をなぞる大きな手も、唇から伝わる熱い息も、滴り落ちる汗さえ愛しかった。
 身体にかかる重みが、薄いブラウスを通して伝わる熱い温もりが愛しかった。
 その時、ずっと抱いていた叔父様への想いを、父への思慕だと胡麻化していた自分に、私は気付いてしまった。

 私は叔父様を、一人の男性として愛していた。

 乱暴にブラウスを引きちぎられ、はだけた胸をまさぐられ、私は熱く乱れた息で唇から離れ瞳に映った叔父様を呼んだ。
 気付いた想いは、止められなかった。
 でも、叔父様が愛しそうに呼んだのは、私ではなかった。

 叔母様だった。

 私の身体は強ばり、叔父様は口にした名と私の身体の震えに、はっと表情を強ばらせ瞳に光を取り戻された。
 叔父様は瞳に苦悩と痛みを浮べ、深い後悔を刻んだ額を押えながら私の腕を掴み。
 私は部屋から廊下へと押し出された。
 私は破れた服のまま両手で顔を覆い、固く締められる鍵の音を耳に廊下に止まらない雫を滴らせた。

 私の想いを、鬼の力は叔父様に伝えてしまった。
 報われる事のない想いと、叔父様を更に苦しめる後悔に、私は固く閉じられた扉の前で泣き崩れた。

 叔父様が亡くなられたのは、その数日後だった。
 その数日は、自らの死後のため以前から準備なされていたのだろう。株の譲渡などの手続きを済ませる為に必要な時間だった。

 私が言われた通り部屋を出ていれば。
 いいえ。
 叔父様を振り切り部屋から逃げ出していれば、叔父様は、今もまだ生きておらしたかも知れない。
 その私が、叔父様が亡くなられ一月ほどで耕一さんを愛した。
 叔父様に対する父への思慕が混ざった想いと、耕一さんに対する想いとは別だけれど。
 叔父様の身代わりだと思われても、移り気で軽薄な女だと蔑まれても、私には何も言えない。
 ただ耕一さんを耕一さんとして、愛していると信じて欲しいと願い、謝る事しか出来ない。
 でも、そうしなければ、私はまた心を凍らせるかも知れない。

 だから、
「…御願い……」
 話をさせて下さい。

「もう聞いた。千鶴さんの口からは、聞きたくない」
 低い沈痛な彼の声に身体から力が抜け、強い腕が私を抱き締め微かな震えを伝えた。

 私が話した?

「でも…」
「俺を俺として愛したと言っただろ! それでいい!」
「…でも…私が居なければ、叔父様はもっと」

 そう、叔父様はもっと生きられた筈だった。
 私が叔父様を愛さなければ、叔父様が鬼の欲求に飲まれるのは、もっと先だった。
 叔父様が望んで下されば、私は身を任せていた。
 叔父様も、それを知ってしまったから、鬼の欲求に呑まれる前に命を絶たれた。
 叔父様にとって、私は娘も同然だった。
 私の想いを知り、私が望みながら、鬼を抑え続ける自信を、叔父様はなくされた。
 そして、私を一刻でも早く苦しみから救うために。

 私が叔父様の限界を早め、死に追いやってしまった!

 そして私は、耕一さんを愛していると認めると殺すのが辛くなるから、殺せるか判らないから。
 耕一さんを愛していると認めてしまう前に終わらせようとして、自分の辛さから間違いを犯してしまった。

「鬼の所為だ。千鶴さんの所為じゃない!!」

 …全部。
 それも、全部知った上で?

 彼は全てを見通していた。
 何があったのかまでは、知る由もないだろう。
 でも、最初の夜の私の言葉を信じて。
 あの時から、ずっと信じて。
 私の犯した罪の全てを知りながら。
 罪のひとつでも疑えば、私を憎む事も、蔑む事も出来たのに。
 罪の意識に苛まれる中で、そうすればどんなに楽だっだだろうに。

「愛しているから」

 私が耕一さんに尋ねた、私の教えなかった、私を知っている理由。
 あれが耕一さんの真実だった。
 耕一さんは私の全てを受け入れ、愛してくれた。

 私は胸に顔を押し付け、彼にすがり熱く零れる涙を零していた。

 涙を流せる幸せに、私の心と身体は震えた。
 泣けるのがこんなに嬉しい。
 涙を止めようとは思わなかった。
 ずっと彼の腕に抱かれ、胸の中で泣いていたい。
 涙が枯れなくてよかった。


  § § §


 俺はゆっくり息を吐き、腕の力を緩めた。
 濡れた様な黒髪を撫で梳き、彼女の泣き止むのを待った。

 まだ俺は、考えが足りない。
 彼女の不安の正体を、一部見誤っていた。

 長く洩れていた嗚咽が収まり、俺は腕を離した。
「ごめん。痛くなかった?」
 俺は長い髪を横に揺らす彼女の頬を指で拭い。
 隣に並び肩を抱き寄せた。
「千鶴さん、帰ろう」
 こくんと頷いた彼女と俺は歩み出した。
 チラチラと俺を覗きながら歩く彼女の足元は、実に危なっかしい。
 ふっと息を吐き、俺は足を止め彼女を見詰めた。
「…耕一さん?」
 上目遣いに訝しげに覗く彼女に微笑みを向け、俺は腰を折り、彼女を胸に抱き上げた。
 彼女は抵抗無く俺の首に腕を回し、そっと顔を肩に埋めた。

「そんなに気になるなら、話すけど?」
 顔を肩に埋めながら覗く視線に、雪の半ば融け泥濘るんだ道を下り、俺は小さく息を吐いた。
「えっ、でも、その……」
 気不味そうに口ごもった彼女は、頬を強く肩に押し付けて来る。
「千鶴さん。親父の事、彼とかあの人って呼ぶんだもんな。普通、叔父をそうは呼ばないだろ?」
「…私、そんな…呼び方なんかしていません」
 むくれた声音が耳朶をくすぐり、俺はまた溜息が出た。

 やっぱり意識してなかったのか。

「彼が帰って来たような錯覚。だったかな」
「えっ?」
 首を傾げて覗くと、キョトンと見上げる彼女の丸く開いた瞳が見上げていた。
「千鶴さんが、そう言ったんだけど?」
 意地悪く笑い掛けると、彼女は赤くなった顔を慌てて肩に埋め直した。
「…そう、でした?」
「あの人は、唯一の心のよりどころになって行った。てっのも在ったよね?」
「うっ……」
 俺は短い呻き声につい苦笑が洩れそうになり、頬に当たる髪に頬を寄せ、囁く様に小さく話し掛けた。
「言ったね? 千鶴さんが全部話してくれたって、何も気にする事はないんだから」

 親父を男性として愛していたのは、彼女の言葉の端々に滲む想いから、いやでも気が付く事だが。
 それにしても、死んだ親父と張り合う事になるとは、また親父を恨みたくなって来る。

 熱く肩を温める温もりに頬を寄せ、俺は歩みを進めていた。

 他に頼る人もなく、一人苦しみを背負って来た千鶴さんが、頼りにする叔父を男性として愛しても自然だろう。
 親父の母さんへの想いが弱く千鶴さんが姪で無かったら、下手をすると千鶴さんが母さんになってたかもな。

 親父も母さんが死んで、理性を繋ぎ止める絆が、一つ絶たれたのだろう。
 母さんの死が切っ掛けで、俺を呼び後を託そうとしたなら、親父の死は唐突すぎた。
 伯父さんは千鶴さんの話からも、爺さんの死後、鬼の発現が一気に進んだと考えられる。
 親父も伯父さんの死後に、発現し始めている。
 そして俺も、子供の頃は死に直面し、三ヶ月前も同じ様な条件だった。
 これらから俺は、激しい精神的ストレスが、鬼を目覚めさせるのは間違いないと確信していた。
 親父が七年間も耐え、母さんの死後一年も耐えながら、俺に何も告げず。
 千鶴さんの鶴来屋内部での地位の確保もせず自殺したのには、鬼を抑える限界を感じる何か切っ掛けがあった筈だ。
 そして鬼の凄まじい衝動を考えれば、同族の姉妹の誰か。
 姉妹の内、親父に一番近かった千鶴さんの高潔な美しさに、鬼が親父に囁きかけるのも想像が付いた。
 殺戮衝動か、性衝動かまでは判らないが、それを一番恐れ、親父が自殺したのは確かだろう。
 それにしても、まさか千鶴さんが、親父の自殺に責任を感じているとは思わなかった。
 思い込みで自分を責めすぎるのは、千鶴さんの悪いクセだ。
 それに俺の前に好きだったのが、親父だっただけで、俺だって恋愛の一つぐらいは……

 ふと肩を濡らす冷たさに、俺は足を止めた。
「千鶴さん?」
 呼び掛けても彼女は、顔を上げ様としなかった。
「ごめん、苛めたんじゃないんだよ」
 そっと彼女の足を地に着け、俺は顔を隠す長い髪に両手を潜らせ、頬を静かに挟み顔を上げさせた。
 頬を伝わる雫が陽光を煌めかせ、潤む瞳が伏し目がちに視線を落した。
 白磁の頬に浮かぶ仄かな朱に掌を添え、指で雫を拭っても、後から後から湧き出す様に、雫は煌めき続けた。
「千鶴さん。俺、泣かすつもりじゃ……」
「…狡い…です…」
「へっ?」
 ぷっと頬を膨らし、上目遣いのまま雫を煌めかせる濡れた瞳に睨まれ、俺は間の抜けた返事を返した。
「…耕一さん、…私…知ってて、…私…耕一さん…知らないなんて…狡いです…」
 ぐずぐず鼻をすすりながら言われ、俺はかくんと首が落ちた。

 どうしていきなり子供になるんだ?
 完全に拗ねてるよ。

「いや、でも狡いって言われてもさ」
「狡いです!」
 胸の前で握った両の拳を震わせキッと睨まれ、一瞬腰が引けた俺は、自分を励まし息を大きく吸った。

 睨まれて逃げ腰になっていると、とてもじゃないが千鶴さんと生きて行けない。

「俺、もう隠してる事ないけど?」
 濡れた輝きを放つ瞳を見詰め返し、俺は静かに返した。

 うっと一瞬たじろいだ隙を突き。
 俺は雫が濡らした朱の唇に唇を重ね、頬に置いた手を項に回し強く引き寄せる。
 もう片手を細く折れそうな腰に回し引き寄せ、甘い息を吐く唇に、俺の想いの全てを伝えた。
 俺の背に細い腕が回され、後ろ頭を柔らかい掌が細い指を這わせ引き寄せる。
 俺の想いに応え、柔らかく温かい唇が想いを返す。
 熱く返された想いに想いを重ね、また返す。

 頭が痺れるような愛しさが、甘美な熱い息が、二人の魂さえを繋ぐ。

 返す想いと返される想い。
 二つが混ざり、一つに溶け合い。
 想いが身体を熱く満たし、穏やかな温もりが心を溶け合わせる。

 多くの言葉より。
 俺達が判り合うには、長く熱い口付けが相応しい。


エピローグ

陽の章 十六章

陰の章 十六章

目次