陰の章 十六
本堂の玄関口に腰掛け、山門で話している三人を何となく眺めるあたしの視線は、由美子さんを追っていた。
あたしにも何となく判った。
耕一が本当のお兄ちゃんになるって、初音が嬉そうに由美子さんに話した時の、ちょとショクを受けた寂しそうな表情。
すぐ笑顔を取り戻して、耕一冷やかしてたけど。
由美子さんも、耕一好きだったんだな。
イヤだな。
知らない方が楽なことって、多いんだ。
でも知らずにいるのは、もっとイヤだし。
大人になるって、そういうイヤなの判る様になるって事なのかな?
辛さを乗り越えて、傷付いた人に優しく出来るのが、良い大人なのかな?
そうかもな。
千鶴姉が傷だらけなの知るのは辛かったけど、ずっと知らなかったら、あたしはもっと辛かったよ。
初音と由美子さんを見送った耕一が、参道を歩いて来るのをぼんやり頬杖を突きながら眺め、あたしは胸の中のもやもやを吐き出した。
だから、耕一。
あたし感謝してる。
昨日さ、一生懸命考えたんだ。
耕一がいなくなってたら、あたしどうしてただろうって。
耕一探し出して連れ戻したか。
それとも千鶴姉に、探すの止めさせたかってさ。
きっと悩んだろうな。
あたしが悩むのなんて、あんた知ってたんだろ?
あたし、耕一も千鶴姉も大事で、どっちかなんて選べないよ。
でもさ、昨日の千鶴姉見てて判ったんだ。
あたしでも楓でも、千鶴姉は支えられないんだって。
耕一、あんた間違ってるよ。
あんた一人っ子だからね、判んないんだよ。
親と子供と一緒なんだ。
千鶴姉はあたし達の母親で、あたし達は子供なんだよ。
いつまで経っても、この関係って変わらないんだ。
あたし達がいくら頑張っても、千鶴姉は、あたし達を頼ったりしないよ。
あんたが言ったんだ。
千鶴姉の心、壊れかけても壊れなかったけどさ。
それは、あたし達を護ろうとしてなんだろ?
自分が壊れたら、あたしや楓、初音がどうなるか心配で、壊れることも出来なかったんだろ?
だめだよ、それじゃあ。
いつまで経っても千鶴姉、楽になんてなれないよ。
だから、早く来いよ。
千鶴姉支えられんの、あんただけだって。
あたしが保証してやるからさ。
あんたを大好きで、千鶴姉が一番信用してるって、あんたが言ってくれたあたしが。
他の誰にも、千鶴姉は支えられないって。
耕一しか、千鶴姉にはいないんだってさ。
ゆっくり歩いて来た耕一が隣りに腰を下ろすのを感じながら、あたしはゆっくり息を吐き出した。
§ § §
潜り戸に掛けた手が躊躇いに止まり、私は目を閉じた。
微かに茶室の中から聞こえて来る、姉さん達の声。
梓姉さんと千鶴姉さんの、震えている声。
柏木の宿命を今まで告げなかった事を謝る千鶴姉さんに、千鶴姉さんの苦しみに気付けなかった自分が情けないと謝る梓姉さん。
姉さん達の声は涙に濡れ、掠れ震えていた。
たとえ姉妹でも、私が入って行ってはいけない空間。
私はそっと戸口から離れ、庭園に目を向けた。
雪の白さと吹き抜ける風が、熱い目元をひんやりと爽やかになぶっていく。
この数日で、梓姉さんも少し変わってきた。
よく考え、感情を抑えようと努力している。
大人っぽい落ち着きが出て来たみたい。
しっかり者の梓姉さんだから、きっと今まで以上に家を守ってくれる。
初音の優しさと思いやりが、千鶴姉さんと梓姉さんを助けてくれる。
でも、私には何が出来るの?
今の私に出来るのは、自分を見詰め直すことだけ。
人と触れ合い自分自身を見つけなければ、姉さん達にも初音にも、何もしてあげられない。
目元を拭い、私は空を見上げた。
空は澄み渡り、冬の海を映したように薄い蒼が広がっていた。
耕一さんは、約束を守ってくれたのに気付いているのかしら?
エディフェルと次郎衛門がした約束は、その腕の中に抱き護ると言う事。
意味は違うけれど、耕一さんは私達姉妹を護ってくれる。
だから、エディフェル。
良いでしょ?
貴方の想いは、いつの日にか叶うかも知れない。
でも私の想いは形を変えるの、今はまだ無理だけれど。
いつか、きっと。
顔を臥せ両手で自分の肩を抱き、そっと私は瞼を閉じた。
まだ肩にも背中にも、髪の毛の先まで。
耕一さんの感触が残っている。
妹として、胸の中で抱き締めてくれた耕一さんの大きな心の温もり。
残酷なほど、優しくて温かい人。
誰よりも大切な人。
きっと耕一さんは怒るでしょうね。
自分自身を納得させる為に、姉さんの痕を抉る私を。
でも、私はどうしても姉さんの口から聞きたい。
私は、もしも耕一さんが………
静かに胸に息を満たし、私は顔を上げた。
踵を返し一度離れた潜り戸に向う。
潜り戸に手を掛け、静かに開いた。
一瞬驚いた顔を向け、涙の痕が残る顔をそむけた梓姉さんが、両手で顔を擦る姿から視線を上座に移す。
急に開かれた戸に驚いた顔を向ける千鶴姉さんを見ながら、私は潜り戸を抜けた。
上座に着いた千鶴姉さんに視線を据えたまま、下座に座る梓姉さんの隣に、私は静かに腰を下ろした。
「聞いて置きたいの」
「…楓……?」
唐突に口を開いた私に、千鶴姉さんは訝しげに眉を潜めた。
「夏。耕一さんを、どうして呼んだの?」
耕一さんに会える。
その思いが尋ねようとして尋ねさせなかった、ずっと私の中でくすぶっていた疑問。
「なに言ってんだよ。そりゃ耕一元気付けようって……」
「満月」
「…満月?」
固く目を閉じた千鶴姉さんを見詰めた私に途中で遮られ、梓姉さんは訳が判らない様に繰り返した。
「鬼の力は月齢に影響される。満月の夜、殺戮衝動はもっとも強くなる」
「…楓、…あんた、なにが言いたいんだ?」
「満月の夜。初音ですら私達の力の影響を受けるのよ。一度目覚めた耕一さんの鬼は目覚めやすい」
「…そんなの、偶然だろ? 偶然だよな?」
梓姉さんの声は、微かに震え否定を求め揺れていた。
「…いいえ。私が弱かったからよ」
静かに開いた目を畳みに落し、千鶴姉さんの膝で握った両手は小刻みに震えていた。
「鬼が目覚めないか、耕一さんを試したのね?」
「…ええ」
息を飲む梓姉さんの気配を感じながら、私は小さく息を吐いた。
「最初から目覚めたら。制御出来なかったら、殺すつもり……」
「楓!」
私を遮った梓姉さんの切迫した声に、千鶴姉さんははっと顔を上げ梓姉さんを見詰めた。
「…あずさ、…あなた」
「耕一さんから梓姉さんは聞いています。私は梓姉さんから」
「…楓、知らなかったのか?」
梓姉さんにこくんと頷き返し、私は膝で組んだ手に視線を落した。
「耕一さんは、私が知っていると思っていたのね」
「…そう、梓も聞いていたの」
「梓姉さん、話して下さい。耕一さんから何を聞いたのか」
首を巡らし視線を移した梓姉さんは、強ばった顔で私を睨むと、視線を畳みに落し膝で握った拳を握り締めた。
「………」
「梓姉さん」
再度呼び掛けた私に答えず、梓姉さんは細かに肩を震わせ、握り締めた拳は白く色を変えた。
「…梓」
静かな千鶴姉さんの声にゆっくり上目遣いに目を上げた梓姉さんは、パッと顔を上げ大きく目を見開いた。
「お願い、教えて」
そう言った千鶴姉さんは、両手を突き深々と頭を下げていた。
千鶴姉さんにも判っているのだろう。
耕一さんが話さない考えを知るには、梓姉さんが聞いた話が鍵になる。
「…判ったよ。だからさ、止めてよ」
決まり悪そうに千鶴姉さんから目を逸らし、梓姉さんは重い口を開いた。
時折静かに目を閉じ聞いている千鶴姉さんの様子を窺いながら、梓姉さんはぽつりぽつりと話してくれた。
梓姉さんが叔父さんから聞いていた、柏木に眠る鬼の血が男性を破滅させる事。
夏の殺戮事件の犯人と誤解した千鶴姉さんに、耕一さんが殺され掛けた事。
梓姉さんの子供が男の子で、万が一鬼を制御出来ない時は、千鶴姉さんがした様に、耕一さんが殺す事。
でも、梓姉さんの子供が鬼の血を引かない事も。
一度言葉を切り小さく息を吐いた梓姉さんは、耕一さんが鶴来屋から姿を消す直前、部屋でした話を語り始め。
私は唇を噛み、固く瞼を閉じた。
叔父さんが鬼を抑えられなくなれば、千鶴姉さんが殺さなければならなかった事。
梓姉さんであっても、鬼の力で人を傷付ければ、同じ様に殺さなければならない事。
千鶴姉さんが話した筈はなかった。
千鶴姉さんが話したなら、わざわざ梓姉さんと二人の時を選んで耕一さんが話す必要がない。
微かに震える千鶴姉さんの閉じられた瞼と、膝で組んだ両手が、私の考えが正しいのを教えてくれた。
目を逸らしたまま梓姉さんの声が途絶え、茶室の中は重苦しい静寂に包まれた。
「…足立さんに会った後でね」
静寂を破ったのは、千鶴姉さんの静かな声だった。
「聞かれたわ。柏木が父親でも母親でも、生まれて来る子供は鬼なのかって」
「…そう」
私は小さく頷いた。
ヒントは、千鶴姉さんに伝えてあったの。
「順序が、入れ替わったのね」
「ええ。予定が変わったって、耕一さん」
「えっ? あ、あのさ。…予定って?」
恐る恐る尋ねる梓姉さんに顔を向け、私は頬が緩んだ。
重苦しい空気を、少し慌てた様に首を捻る梓姉さんの仕草が和らげてくれた。
「耕一さん。梓姉さんに、千鶴姉さんから先に話して貰うつもりだったんでしょう」
「父さん達の話か?」
こくんと頷いた私を、梓姉さんは覗き込む。
「逆だと不味いのか?」
「梓姉さんが話したら、耕一さんが自分の子供だけが鬼だって、考えてるのが判るでしょ?」
本当は、梓姉さんが千鶴姉さんを支えられるかを先に確かめてから、耕一さんは姿を消す前に、自分の子供だけが鬼なのを梓姉さんに伝えるつもりだったのね。
だからだったの。
千鶴姉さんを客間に引き留め、耕一さんが付き添っていたのは、梓姉さんに会わせないように。
「ごめんね、梓」
「へっ?」
「耕一さん、入試が終るまで待つつもりだったの。でも、私が部屋に閉じ篭もったりしたものだから」
「そんなのいいけどさ。じゃあ、本当なのか? 耕一の子供だけが鬼だって」
心配そうに聞いた梓姉さんに、千鶴姉さんは小さく首を横に振った。
「判らないのよ。確かに他家に嫁いだ女性の子供が鬼だった記録はないわ。でも、都合の悪い記録を処分したのかも知れないし」
「そうか」
視線を落とし哀しげに答えた千鶴姉さんから目を逸らした梓姉さんの落胆が、自分の子供なのか、耕一さんと千鶴姉さんの子供なのかまでは、私には判らなかった。
「でも、耕一さんの考えが正しかったら?」
「…どうしたんだ。なんか、さっきから変だよ、楓」
眉を潜め覗き込む梓姉さんを一瞥して、私は千鶴姉さんに目を向けた。
「千鶴姉さん、どうするの?」
見詰め返す千鶴姉さんに私は続けた。
「二人だけで暮らす? だめね。耕一さんは去る方を選ぶもの」
「…かえで?」
「でも制御出来なかったら。姉さんに子供が殺せる? 耕一さんのように」
「楓!!」
怒声と供に鷲掴みにされた肩の痛みに、私は歯を食いしばった。
「梓。いいのよ」
「でも、千鶴姉……」
梓姉さんはゆっくり首を横に振った千鶴姉さんに見詰められ、小さく舌打ちすると私の肩から手を放し座り直した。
「…許してくれた訳じゃ、なかったのね?」
「耕一さんが死んでいたら、だけど」
弱々しく呟いた千鶴姉さんに答え、私は顔を臥せた。
「…何でだよ、楓? 人だって死んでただろ? もう良いじゃないか」
「関係ない」
「…かえで、あんた」
「耕一さんさえいてくれたら。誰が死んだって、いい!!」
信じられない様に見詰める梓姉さんの視線が突き刺さるのを感じながら、私は言い放った。
そう、他の人なんかどうでもいい。
千鶴姉さんが殺そうとしたのを知っていたら、私はエディフェルのように止めていた。
耕一さんを失うより、私が死んだ方がいい。
例え姉さん達でも、初音でも、耕一さんを奪うなら、私は許さない。
でも、耕一さんの助けになるのは私じゃない。
だから私は………。
「…そうね…生きていても、仕方ないのにね」
膝に置いた手の二の腕を片手で握り、寂しく笑った千鶴姉さんに顔を上げ、私は冷めた目を向けた。
「でも、一緒に死ぬつもりはなかった筈」
「楓、もう止めろよ。止めてくれよ」
千鶴姉さんを糾弾する私の胸に、梓姉さんの懇願が痛みを走らせた。
「ええ」
「私達の為だなんて言わないで。姉さんが自分で選んだの」
「そう…ね。言い訳ね」
息を吸い込み、私は胸の痛みを抑え込んだ。
「なぜ諦めたの? 満月の夜に、姉さんの鬼にも反応しなかったんでしょ?」
「楓! 止めろって!」
「そうでしょ? 姉さんの鬼の影響を受けても目覚めなかった耕一さんを、どうして?」
「…そう…よね。耕一さんの鬼が目覚めていたら、身を守らない筈…なかったのよね」
ぼんやり項垂れ考え込んだ千鶴姉さんの声で、私にも耕一さんの心配が飲み込めた。
そんなことにも気付いてなかったの?
普段の千鶴姉さんには、考えられないミス。
そう。
耕一さんの言葉は比喩じゃなかったの。
心が壊れかけていたの。
だから耕一さん、今度は壊れるって。
「もう苦しまなくていい。全て終る」
「楓?…それは……?」
「姉さんの望みが叶うのよ。苦しみを終らせたかったんでしょ? 耕一さんを殺しても、辛さから早く逃げたかったんでしょ?」
微かに震え蒼白な顔を上げた千鶴姉さんに向い、私は冷たく問い掛けた。
「…まさか……耕一さんを、…行かせろと言うの?」
「いいえ。姉さんが耕一さんを諦めればいい。耕一さんだけを、孤独にはしない」
「…本気…なの?」
「私達姉妹は、誰も耕一さんを失わずに済む」
震える唇で尋ねる千鶴姉さんを見詰め、私は微かに頷いて返した。
「どうしたんだ、楓? あんたが、そんな事言うなんて……」
私の言葉を信じられないという梓姉さんの力の抜けた声を聞き流し、私は言葉を継いだ。
「まだ姉さんには、梓姉さんと初音がいる。千鶴姉さんが、耕一さんを殺しても手にしたかった普通の生活が訪れる」
「…楓、…意味…判って言っている?」
「ええ。千鶴姉さんが、誰かと結婚しなければ無理よ」
「…それが…判っていて、どうして?」
「どうして? 耕一さんを見捨てたのは、千鶴姉さんよ」
「…見捨てた? 私………」
腕を握った千鶴姉さんの手の関節が白く色を変え。
自分の辛さを理解していると思っていた私の裏切りへの怒りからか、情けなさでか肩を震わせていた。
「違うと言える? 叔父さんは殺せなかった。でも耕一さんは殺せるのよ」
だから、耕一さんは姉さんを救えると考えた。
千鶴姉さんには、自分より叔父さんや私達の方が重いと思ったから、出て行く道を選べた。
もし耕一さんの考えが正しいなら、私は姉さんを認めない。
「…かえで、それは……」
「耕一さんの生死を、姉さんは自分だけで決めた。その時、耕一さんは死んだの」
「………」
固く唇を噛み締め項垂れた千鶴姉さんを見ながら、私は息を吸った。
「一度殺したのに、生きているから必要? そんなの身勝手よ! 耕一さんがどう言おうと、私は認めない!」
「…ごめんなさい。でも、だめなのよ。楓、判って!」
肩を震わし悲痛な声を上げる千鶴姉さんを瞳に映しながら、私は膝に置いた拳を握り締めた。
「楓、どうしたんだよ。昨日だって、その前だって。耕一止めたのあんたじゃないか!」
横合いから両肩を掴まれた私は、強い力に引かれ苦しそうに表情を歪ませる梓姉さんの瞳に貫かれた。
「昨日までは、耕一さんにも千鶴姉さんにも、それが一番いいと思ってた」
「昨日まで?」
訝しげに眉を潜める梓姉さんに小さく頷く。
「千鶴姉さんが本当に必要としているなら、耕一さんは出て行こうとしなかった。耕一さんを独りにはさせない」
「もう止めろ! 耕一は…そんな事……」
「判ってる。千鶴姉さんを責めても、耕一さんは喜ばない。でも……」
「楓!!」
一言強く否定し、梓姉さんは肩を震わした。
「違うんだよ。そんなの全部知ってんだよあいつは。自分が死んでも、あたしや初音が千鶴姉責めないのも。あたし達残して千鶴姉が死ねないのも」
「ええ、私も知ってる」
「じゃ。…なんで?」
千鶴姉さんに聞こえないように声を落とした梓姉さんに合わせて微かに呟いた私を睨み、梓姉さんの手の力は抜けていった。
「高校を卒業したら。家を出ます」
両肩を掴まれたまま千鶴姉さんに顔を向け、私は静かに告げた。
「…楓、どうしてだ?」
「……許して、…くれないのね?」
当惑し見詰める梓姉さんと、蒼白な顔を上げ哀しそうに見る千鶴姉さんに、私は言葉を継いだ。
「許さない。と言ったら?」
「あなたが出て行くことはないわ。私が出て行く」
「ちょ! なに言ってんだ千鶴姉。楓もいい加減にしろよ!!」
「ごめんね、梓。我が侭だけど許して」
慌てて身を乗り出し、私と千鶴姉さんを見比べる梓姉さんを一瞥し、千鶴姉さんは私に目を戻した。
「耕一さんと?」
「ええ」
私を見詰め躊躇い無く千鶴姉さんは返した。
「梓姉さんと初音を見捨てる気? 鶴来屋はどうするの?」
「無責任よね。でも、貴方と梓に任せるわ」
「梓姉さんや初音より。耕一さんが大事?」
「ごめんなさい」
ふっと息を吐き緊張した身体の力を抜き、私は頬を緩めた。
「いいえ。それで良いの」
「…かえ…で…?」
「ごめんなさい。家は出るけど、志望校を変えただけ」
眉を寄せる千鶴姉さんに微笑みかけ、私は無視され話に付いて来られずおろおろしている梓姉さんに目を移した。
「な、なんでだよ? 地元の国立で十分だろ。他にだっていくらでも大学あるだろ」
「先生も、もっと上の大学を目指せるって」
「でも楓、あなたに独り暮らしなんて。他所には知り合いもいないのよ」
梓姉さんの慌てた声に答えると、混乱していた筈の千鶴姉さんの心配そうな声が聞こえて来る。
「器用すぎる」
固く目を閉じ、私は溜息と共に呟いた。
どうしてこうも素早く、保護者に戻ってしまうの?
だから心配になるのに。
「えっ?」
「不器用で良いの」
「あっ! でも、楓………」
「梓姉さんには、私が話します」
もう私達の心配より、千鶴姉さんには大事な事が在る。
そして耕一さんにも私達姉妹にも、それは一番大切なの。
目を上げ見詰めると、千鶴姉さんはそっと目を臥せ、ゆっくり瞼を上げた。
「そういう事なの?」
やっと判ったと、千鶴姉さんは少し首を傾げた。
「耕一さんは、馬鹿よ」
馬鹿で優しい、愛しい人。
「ずいぶん厳しい妹を持ったのね」
厳しくなった瞳を上目遣いに睨み返し、私はこくんと頷いた。
「姉さんは?」
千鶴姉さんはゆっくり静かに息を吐くと、真っ直ぐ私に瞳を向け、微笑みを浮べた。
迷いを絶った澄んだ瞳。
私が初めて見る、静かで深い心からの微笑み。
静かに瞼を閉じ深く息を吐き、私は微かに頷いた。
私が瞼を開けると千鶴姉さんはスッと腰を上げ、確かな足取りで潜り戸に向い茶室を後にした。
「千鶴姉? 楓? 一体、どうなってんだ?」
「なんでもない」
千鶴姉さんの消えた潜り戸と私を交互に見て、困惑して尋ねる梓姉さんに首を傾げて見せる。
梓姉さんは口を尖らせ、ムッとした顔をすると、にやっと笑い。
「楓、そういうこと言う口は。これか?」
「いや、姉さん止めて」
私の下唇を指で摘むとクイッと引っ張る。
あまり痛くはないけど、下唇が伸びて恥ずかしい。
「おお、よく伸びるな。ほれ、話せ」
パッと指を放すと、梓姉さんはニヤニヤ笑う。
「ひどい」
前言撤回、梓姉さん全然変わってない。
「今度は横に伸ばすか?」
「ううっ。いや」
「いやなら、話せ」
「耕一さんに、考えなさいって言われたんでしょ?」
「耕一は耕一、楓じゃないもんな」
上目遣いに睨む私を無視して、梓姉さんは素知らぬ顔で口笛を吹く。
「千鶴姉さんは、頭が良すぎるの」
へっと目を見張り、梓姉さんは眉をしかめ首を傾げた。
「耕一も、そんな事言ってたな。そんで、器用だけど不器用だって」
「そう器用すぎる。でも不器用すぎる。耕一さんは知ってるのね」
怖い人。
千鶴姉さんの器用さも、不器用さも見抜いている。
その上で、本質まで見極めて。
叔父さんを恨みながら、叔母さんを支えて来た耕一さんが、優しいだけの人である筈がなかった。
叔父さんを恨みながら、歪まず育った耕一さんだもの。
耕一さんの、うわべの優しさに目を奪われていたかも。
「器用すぎて、不器用すぎる? 頭が良すぎる? ああ! 判んなくなってきた」
頭を掻きむしる梓姉さんの様子に、私は小さな笑い声を洩らした。
「梓姉さんも、自分で考えて」
頭で考えて、自分を器用に欺いて支えられるほど、耕一さんの苦しみは軽くない。
千鶴姉さんが苦しみ抜いて守って来た柏木が、次郎衛門とエディフェルを宿す為の、ただの器に過ぎなかった。
耕一さんは、千鶴姉さんには絶対話さない。
他の誰にも知らせてはいけない。
本当はエディフェルを宿す私が、耕一さんと負うべき罪。
でも、耕一さんは一人で背負うつもり。
リネットは、次郎衛門の意思を知っていたのかしら?
初音が記憶を取り戻したら?
……大丈夫。
初音には、私達と耕一さんが付いている。
千鶴姉さんは、私達より耕一さんを選んだもの。
みんな幸せになれる。
でも、もし千鶴姉さんが梓姉さんや初音、耕一さんのどちらも選べなければ………
ごめんなさい、千鶴姉さん。
でも、偽りのない本心。
「くそっ。それは後だ。楓、料理も出来ないあんたに、独り暮らしなんて出来るか。大人しく地元の大学を受けろ!」
うっ。早まったかも。
梓姉さんに理屈は通用しないし。
どうやって説得しよう。
「だいたい人付き合いも出来ない。いつもボォーとしてるあんたが、一人で住もうなんてのが間違ってる。悪い奴にだまされるのが、おちだ」
ううっ、本当の事だけに反論出来ない。
もしかして、千鶴姉さんより難門かも。
まだ赤くなったままの顔を俯かせ、私は肩で大きく息を吐いた。
§ § §
潜り戸を抜け、私は大きく深呼吸した。
参ったわ。
楓が、あんなに激しい子だったなんて。
あれは本心ね。
耕一さんが死んでいたら、楓は私を許さなかった。
耕一さんが許してくれたから、楓も許してくれる。
耕一さんの望みだから、私と耕一さんを祝福してくれる。
私には、梓と初音がいるから?
耕一さんを孤独にはさせない?
楓、もし私が少しでも返事に迷ったら、無理にでも耕一さんと一緒に居るつもりだったのね。
本当に愛しているのね。
厳しい子。
でも、とても優しい子。
私に迷いがあれば、耕一さんの重荷になるだけだもの。
ごめんね、楓。もう二度と諦めたりしない。
茶室を離れ渡り廊下を離れに向い歩き出した私の頬を、緩やかな風がなぶっていく。
楓、梓、初音、由美子さん。
夏に取材に来た響子さんて方とも、親しいみたいな話だったし。
耕一さんの周りには、優しい女性が集まるのかしら?
耕一さんを信じているけど、ちょと不安。
「おや、お話は終りましたかな?」
離れから歩いてこられた和尚様に頭を下げ、私は和尚様の穏やかな笑みに頬を緩めた。
「和尚様。昨日に続き、今日も朝から御騒がせして。大変申し訳ありません」
「いいえ。寂れた寺が華やかな活気に満ちて、久々に若返りますな」
愉快そうに笑う和尚様につられ、私も笑みが零れた。
「たまには家の方にも、足をお運びになって下さい。妹達も喜びますわ」
「ふむ。言われてみれば、とんと出不精になっておりますな」
「昔は、鶴来屋にもよくおいで下さったと。足立さんから伺っておりますのに」
「そうでしたな。耕平翁と温泉に漬かり飲むのが一興でしたが。新しい鶴来屋は、どうも」
「あら? 今の鶴来屋は、お気に召しませんでしょうか?」
眉を潜められた和尚様に首を傾げると、和尚様は苦い笑いを浮べられた。
「私には豪華すぎましてな。寂れた岩風呂でゆっくりというのが、風情が在りましたのですが」
「風情が在りませんか?」
「いや、今の鶴来屋に風情がないと言っておるのでは在りませんよ。時代の流れでしょうな」
懐かしむ瞳で寂しく話す和尚様は、昔を思い出されているようだった。
「そうですな。湯に漬かり一献酌み交わすも、良いでしょうな」
ふっと視線を歩いて来た離れに戻し、和尚様は呟かれた。
「何と言っても、隆山は温泉ですからな」
「その時は、美味しいお酒を御用意いたしますわ」
「これこれ、お酒はいけませんな。これでも、僧ですからな」
「はい、般若湯ですね?」
生真面目に唸って見せる和尚様に、笑いを抑えて返すと、うむと頷かれる。
「楽しみにいたしましょう。おっと、そろそろ行かれた方が良ろしいでしょう」
「耕一さんは、離れでしょうか?」
「廊下で庭を眺めておられます。風邪でも召されなければ、良ろしいのですが」
「廊下で、ですか?」
「なにやらお考えのご様子。いや、御心配は無用と御見受けいたしました」
少し心配になったのが顔に出たのか、和尚様は微笑みを浮べ付け足された。
「そうでしょうか?」
「ええ、穏やかになられた様ですな。ふむ…風邪など無用の心配でしたな」
「えっ?」
「ご一緒ならば、温泉より温かいのでは?」
「和尚様!」
きっと睨むと、和尚様は楽しそうに笑われる。
「さあて。では、愚僧ごとき邪魔者は退散いたしますか」
「もう、和尚様まで」
会釈で笑い声を洩らしながら歩み去る和尚様を睨み、私は熱い頬を両手で押えた。
和尚様といい、耕一さんといい。
私をからかっては笑うんだから。
頬を風で冷やしながら離れに進むと、耕一さんは廊下に胡座をかき庭を眺めていた。
穏やかな表情で。
楓は正しい。
私は一度、この人を殺してしまった。
辛さから逃げる為。
苦しみから逃げて、独り善がりな想いを押し付けて。
自分の心と一緒に殺してしまった。
耕一さんが生きているから、今の私は生きていられる。
私はそっと足を進め、膝を折り隣に腰を下ろすと静かに呼びかけた。
「耕一さん?」