陰の章 十五


 息を詰まらせた痛みに身を起こし、頭の中に響き渡る轟音のような鼓動に、私は手で口を押さえ悲鳴を堪えた。
 雪が止んだのか障子越しに月の明りが薄く照らす中、全身を流れ落ちる汗が寒気に凍り身を震わせた。
 髪を伝う玉の汗が、震えの止まらない身体に滴り落ち、更なる寒気を誘う。
 口を覆った小刻みに震える手を離し、固く瞑った目を押えるように両手で顔を覆う。
 身体より冷え込んだ心の苦痛に息を吐き、私は両手で自分の肩を抱いた。

 昨日浴びた冷水でさえ、心までは痛まなかった。
 凍った心は、痛みなんか感じない筈なのに。

 凍えた魂さえを食い破り痛みを覚えさせる様な、刃の様な冷たい焼ける痛みに、私は額を押え身体の震えを抑えようと深く息を吸い込んだ。

 不意に学生の頃、和尚様から御聞きした地獄の話が思い出された。
 地獄の中でも、もっとも罪深い者が落されるという地獄。
 極寒の氷の山に裸で追い上げられ、皮膚が厚い氷に張り付き、罪人の破れた肌から肉までをはぎ取り、獄卒に休むことさえ許されず永遠に昇らされるという。
 身体中から吹き出す血が、氷の山を赤く染め上げ、炎の様に見えるという地獄。

 和尚様にお叱りを受け、地獄の夢でも見たのかしら?
 心を凍らせて痛みや辛さから逃げても、苦しみは軽くはならないという戒めなのかしら?

 夢判断をしていた私は、頭の中に響く激しい鼓動が少し収まり、静寂を破る微かな呻きにやっと気が付いた。

「…耕一…さん?」

 隣で眠る耕一さんに目を向け、まだ震えの収まらない唇で声を掛けた私は、苦悶に表情を歪ませる耕一さんの肩を揺すり起こそうとした。

 額から流れる玉の汗。
 息も絶え絶えに噛み締めた唇から笛の様な息を洩らし、汗を滴らせる耕一さんの姿は、私に鬼に苦しみ抜かれた御父様を思い出させた。
「耕一さん」
 胸に広がる暗い不安が私に肩を激しく揺さぶらせ、耕一さんを呼ばせた。
 ビクッと身を震わし目を大きく見開いた耕一さんは、布団の端を握り締め、胸を上下させる鼓動に激しく喘いだ。
 怯えとも恐怖ともとつかない光りが瞳に浮かび、蒼白な面に深い苦悩を刻んだ顔が、月明りに照らされ老人のように歳老いて見えた。
 身体させ起こせないように荒い息を吐き、天上を見上げる耕一さんの精根尽き果てた姿に、零れ落ちそうな涙を堪え、私はそっと頬に震える指を這わした。
 指が頬に触れた瞬間、僅かに身を震わした耕一さんは、私を映した瞳に、痛みとも後悔とも取れる複雑な色を宿した。
 頬に添わした手を握り身を起こそうとした耕一さんの頭を、私は腕を伸ばし両腕で胸の中に掻き抱いた。
 流れ落ちる涙を見られないように。
 震える腕が静かに背中に回され、強く私を抱き締め。ぎゅっと抱き締めた私の胸の中に静かな嗚咽が響いたのは、そのすぐ後だった。
 心に悲しく切なく響くむせび泣きを抱き締め、私は胸の中の震えに頬を寄せ涙を堪えようとしていた。


「ごめん」
 震えの収まった耕一さんが、大きく息を吐き謝るのに首を横に振り、そっと抱き締めていた腕を緩めると、耕一さんは顔を上げた。
 顔を上げた耕一さんは、もう普段の穏やかな表情を取り戻していた。
 私は布団の傍らに置かれていたバッグからタオルを取り出し、乾き冷え始めた耕一さんの汗を拭った。
 どんな悪夢を見ていたのか、聞きたいのに聞けない私は、無言で汗を拭い続けた。
 聞いてはいけない気と、聞かなければいけない気がして。
 でも、どう聞けばいいのか迷いながら身体を拭う私を、耕一さんは何も言わず拭う手を握り、片手で私の髪を掻き上げ項に這わすと、そっと引き寄せた。
 私は引き寄せられるまま、耕一さんの肩口に頬を押し当て、髪を撫でる優しい手を感じていた。
 私を抱いたまま横になった耕一さんは、冷えた身体を温めるように身体を寄せ、ゆっくり口を開いた。
「鬼じゃないから。心配しないで」
「…じゃあ、どんな夢なんですか?」
 耕一さんの落ち着いた声音に励まされ、私は躊躇いつつも尋ねた。
「次郎衛門は、野武士だった」
 微かに侮蔑を感じさせる声が、エディフェルやリズエルの夢ではない事を告げた。
「野武士?」
 でも、私にはその意味が良く判らなかった。
「人を切った。…女子供も」
 私は聞き返したのを後悔して、ぎゅと耕一さんにしがみ付いた。

 侍なら人を切るのは当り前でも、現代の教育を受けた耕一さんには、雇われて人を殺した記憶がどんなに辛いものか、私はその時まで考えもしていなかった。

 しがみ付いた私の背と髪を撫でる手が、ゆっくり子供をあやすように動き、耕一さんは話し始めた。
「最初はエディフェル達の夢だけだった。それから徐々に戦での夢も見るようになって。でも、最近はあまり見なかったんだけど。お寺にいるからかな? だから、そんなに心配しなくても大丈夫だから」
 私を安心させようと優しい声音が、ただの夢だからと続けた。
 そっと見上げると耕一さんのいたわる優しい眼差しが、私が耕一さんの夢の影響を受けたのを知っているのを教えてくれた。

 あの氷の刃に心を裂かれるような、凍える焼け付く痛みは、耕一さんの受けている痛みだった。
 そして私の前で眠らないようにしたのも、睡眠薬を使っていたのも、鬼の力を抑えていたのも、私に心の痛みを悟られない用心だったのを私は理解していた。

 顔を上げた私を引き寄せ、瞼に唇を寄せた耕一さんは、一言だけ、我慢しないで。と耳元で囁いた。
 負担を掛けたくなくて泣くのを我慢する事さえ、耕一さんは許してくれなかった。
 そして涙を堪える私を映した瞳が、無理に作った笑顔を見る方が辛いというように陰っていた。
 私はそれまで我慢していた熱いものが込み上げ、耕一さんの胸に雫を滴らせた。
 胸に泣き臥した私の髪を、耕一さんの手が、ずっと撫で続けたくれた。


  § § §


 柔らかい日差しが照らす廊下に腰を下ろし、身体を捻った私は小さな溜息を洩らした。

 退屈。

 吹く風がやむと温かく感じる本堂の前の日溜まりに腰を下ろし、お行儀悪く足をぶらつかせ。
 身体を捻って覗き見た陽の届かない暗い本堂の中で、和尚様と耕一さんは座ったまま微動だにしない。
 和尚様に御用意頂いた朝食を取った後、家に電話を入れ戻った離れには、一枚の事告げが残されていた。

 本堂にて禅。

 それだけ。
 耕一さんと禅と言うのが繋がらなくて、冗談かと思って本堂を覗くと、耕一さんは本当に御本尊に向い座禅を組んでいた。
 耕一さんの背後に座った和尚様が、廊下から覗く私に気付かれ、小さく首を横に振られた。
 腕時計をして来なかったから、正確な時間は判らないけれど、とっくに一時時間以上は経っている。
 邪魔をしてはいけないと思い、廊下に腰を下ろした私も、もう退屈で死にそう。

 退屈で、死にそう?

 座禅を組む背中を眺め少し首を傾げた私から、ふふっと小さく声が洩れた。

 前にそう感じたのはいつだったのかしら?
 いつも忙しくて、いつも何かを心配して考えて、退屈だなんて感覚、すっかり忘れていた。
 境内に目を戻し、お日様に当たってのんびり足をぶらつかせ、息を大きく吸うと冷えた大気が胸をひんやり満たした。
 お日様の匂いがする不快じゃない優しい冷たさに満たされ、私はもう一度身を捻って本堂を振り返り、耕一さんの背中を瞳に映し目を細めた。

 今も耕一さんは、迷いを絶とうと一心に座り続けている。
 傷付いた耕一さんの心を思えば退屈だなんて、不謹慎なのは判っているけれど。
 瞳に背筋をスッと伸ばし、静かに座った後ろ姿が大きく頼もしく映る。

 弟だった耕ちゃんは、私よりずっと大人になって、頼もしい男性になっていた。
 置き去りにされた一抹の寂しさと、心ごと包んで貰える大きな安心感に、私はジッと背中を見詰めた。

 大きな苦しみを抱えた耕一さん。
 涙を見せて重荷にならないようにしようと思ったけれど。
 今朝、耕一さんが涙を堪え笑顔を作っていたら、きっともっと辛かった。
 涙を堪えていたら、今、これ程穏やかな気持ちではいられなかった。
 私も耕一さんがしてくれたように、枯れることない涙なら、ずっと抱き締めて拭き続けたい。
 きっと涙を堪えるより、ずっと心が楽になるから。
 私が流した涙は、耕一さんに温められ、悲しい涙から穏やかな温かい涙に変わったから。
 耕一さんの涙も、私の胸の中で、いつかきっと耕一さんの痕を癒してくれる。
 そう信じましょう。


 日溜まりの向こうから風に乗って聞こえて来た声に、私は腰を上げ廊下を歩き出した。
 本堂の脇に在る玄関口を抜け参道に出ると、梓達が山門を潜るところだった。

 あら?

 山門で足を止め話し込んでいる人影を目に留め、私は眉を潜めた。

 四人?
 背中を向けた梓と楓の影から、ぴょこんと立った癖毛が初音なのは判るけれど。
 あと一人は誰かしら?

 山門に近づきながら目を凝らすと、きらりと陽光を跳ね返した丸いレンズに、崩れかけた笑顔を作り直す。

 初音もだけど、どうしてあの女までここに?

 私に気付いた小出さんが、人懐っこい笑顔で頭を下げるのに会釈で返すと、梓が口の端を引きつらせた笑顔で私に振り向いた。
 梓に続いて振り向いた楓も、顔色が悪い。
「おはようございます」
 明るい小出さんの挨拶と対照的な、隣の初音の視線に私の足は止まった。

 初音とは思えないきつい視線。

 でも私が初音に向けた視線に気付いた小出さんが、初音に視線を移した途端。
 一瞬で、初音は普段の穏やかで温和な笑みを浮かべた。
 背筋をそっと撫で上げられた様な悪寒に、私は踵を返したくなった。
「おはようございます」
 崩れそうな笑顔を何とか維持しつつ、私は小出さんに挨拶を返した。
「…千鶴姉、初音には泊りで仕事って言ってあるからな」
 初音から逃げるように小走りに駆け寄った梓の言葉に首を傾げた私に、楓が梓を追う様に近づくと小さな囁きを洩らした。
「……初音、千鶴姉さんそっくり」
「お姉ちゃん達、鶴来屋じゃなかったの?」
「えっ? あの、それは」
 楓に問い返す間もなく、初音の声で私は一歩後ろに下がった。
 あくまでにこやかな初音の笑顔が、なぜかとても恐い。
「耕一お兄ちゃんも、一緒だよね?」
 梓と楓はいつの間にか背中に回り、私を盾にして知らん顔を決め込んでいる。
「えっと。そ、そうなの。耕一さんが和尚様に御用があって」
「そう、やっぱり。耕一お兄ちゃんも一緒だったんだね」
 にこっと笑った初音の笑顔が、私にはひどく強ばって見えた。
「それで、千鶴お姉ちゃん。耕一お兄ちゃんは?」
「本堂で座禅を……」
「座禅!? 耕一が!?」
 引きつりそうな顔を笑顔に保ち、なんとか答えた私を遮ったのは梓だった。
「耕一お兄ちゃんが、座禅組んでるの?」
 キョトンと聞き返す初音の隣で、小出さんが額を押え溜め息を吐いたのが、私の注意を引いた。
「小出さんは、こちらには御観光ですか?」
 初音の注意がそれた隙に、私は小出さんに声を掛けた。
「ええ、和尚さんにちょっと」
「和尚様に? それでしたら、和尚様も本堂で御一緒なさっていますから、私が御案内しますわ」
「じゃあ、あたしも」
「初音は梓達と待っていてね。お邪魔になるといけないから」
 ぷっと膨れた初音に微笑み掛け、私は言葉を継いだ。
「でも和尚様に御客様だから、座禅も終わりね。耕一さんと一緒に戻って来るから、少し待っていてね」
「お兄ちゃんの邪魔になるなら、待ってるけど」
 いつもなら、うんと頷く初音がむくれた声で答える。

 初音の機嫌がこんなに悪いのなんて初めて、耕一さんが一緒なら御機嫌もなおると思うのだけれど。

「…逃げる気だろ千鶴姉」
「…姉さん狡い」
 背中から聞こえたぶつぶつ言う声を聞き流し、私は小出さんを促し本堂へ歩き出した。
「あっ! 初音、お茶室見たがっていたわよね?」
「…うん、…見たかったけど……」
 思い出して振り返ると、初音はコックリ頷く。
「和尚様にお断りして来るから、戻ったら見に行きましょうね」
 再びコックリ頷いた初音の後ろから恨めしそうに見る梓と楓を無視して、私と小出さんは本堂に向った。


「初音ちゃん、置いてきぼりにされて拗ねちゃったみたいですね」
 本堂に玄関から上がると、そう言って小出さんはクスッと笑いを洩らし。私は額に汗が浮かぶのを感じながら、愛想笑いを浮べた。
「ええと、そうでしょうか?」

 そう言えば初音にも心配ばかり掛けて、耕一さんともろくにお話しも出来ないで。
 楽しみにしてた初詣もお預けだし、怒っても仕方ないわよね。

「ええ、昨日今日と街を案内して貰ってたんですけど。初音ちゃん、柏木君の話だと何でも嬉そうに聞いてくれるから、話しがいがあって」
 そう言うと、小出さんはふっと息を吐き廊下から庭を見回し足を止めた。
「あの、会長さん」
「千鶴でいいんですよ」
 少し迷った上目遣いで小出さんに呼ばれ、私が返すと小出さんはふふっと笑いを洩らした。
「じゃあ。千鶴さん、私も由美子でいいです」
「でも、お客様ですから」
「チェクアウトしましたから、もうお客じゃないですよ」
 クスッと笑うと由美子さんは、堅いの苦手ですからと呟いた。
「そうですか? それじゃ、由美子さん。なんでしょうか?」
 嫌味のない気さくな笑顔に、私も笑みを洩らし少し首を傾げて聞き返すと、由美子さんは真剣な顔で私を見返した。
「私が聞くの、おかしいんですけど。柏木君、何か悩みでもあるんですか?」
「どうしてでしょう?」
「また座禅組んでるって言うし。夏からこっち、柏木君おかしいから」
 心配そうに眉を潜め、由美子さんは廊下に視線を落とした。
「また? 耕一さん、前にも座禅を組んでいたんですか?」
 私の知らない耕一さんの空白を埋めてくれるかも知れない言葉に、私は問い返した。
「ええ。古文書探しに行ったお寺で、食事もしないでずっと座禅組んで。お寺の人が止めてくれたから良かったけど。そうでなかったら、いつまでやってたか」
 ふぅーと長く息を吐くと、由美子さんはチラリと上目遣いに私を見上げた。
「あの。柏木君って。その、ただの従弟じゃないですよね?」
「えっ?」
 かっと赤くなった顔を下に向けると、由美子さんは小さく溜息を吐いた。
「あ、あの」
「いいです、充分判りました。話していいのかと思って」
「他にも何か?」
 顔の熱さも忘れ由美子さんを見ると、こくんと首を傾げた由美子さんは話し出した。
「色々ですけど。他所の大学の図書館まで行って医学書から古文書まであさったり。座禅の他にも心理学からオカルトまで。留学生捕まえて気功まで習ってたし。その上深夜にバイトでしょ。最近は落ち着いたみたいですけど。ちょと前まで、何かに取りつかれた見たいで恐かったから」
「…そんなに、色々な物を一度に?」

 たった三ヶ月で?
 心理学だけじゃなく、鬼を制御出来そうな可能性を探してオカルトまで。

「あの、怒らないで下さいね」
「えっ? 怒るって?」
 恐る恐る聞かれ、私は訳が判らずキョトンと聞き返した。
「千鶴さん、柏木君トコ訪ねて来たでしょ?」
「えっ? ええ」
「そのちょと前なんですけど。寝ぼけて柏木君、私に抱き付いたんですけど」

 抱き付いたですって!

「寝ぼけてですってば!」
「あっ!」
 慌ててきつくなった視線を笑顔に戻すと、一歩後退った由美子さんは乾いた笑いを洩らし。
「酷くうなされて泣いてたし、誰かに謝って」
 慌てて言った後から、あわあわ口を両手で押さえ、由美子さんは気不味そうに視線を下げた。
「謝ってた」

 やはり昨夜だけじゃなかった。

「あの、誰に謝っていたか判りませんでした?」
「ええと、でも」
「お願いします。教えて下さい」
 私は由美子さんに深く頭を下げた。
「そ、そんな、頭をあげて下さいよ。リネットって言ってましたけど」
 慌てた声で返って来た名前は、予想出来る範囲だった。

 昨夜耕一さんは違うと言っていたけれど、リネットの名を呼んでいたなら。
 やはり、エディフェルやリズエルの夢も。

「それでちょと心配してたんですけど。でもこっち来て、前の柏木君に戻ったみたいだったから。つい調子に乗って、からかちゃって。ごめんなさい」
「からかうって?」
 ペコンと頭を下げたまま、由美子さんは首を捻るようにして私を上目遣いに覗き込んだ。
「ロビーで、ですけど」
「あっ。いいえ、気にしていませんから」
 一瞬上がったまなじりを元に戻し、出て来た言葉はただの強がり。

 からかったって、ずいぶん悪趣味なからかい方。

 私の胸の内など知らぬげに、由美子さんは胸を押え大きく安堵の息を吐いた。
「でも耕一さん、そんなに色々やって。寝る暇もないんじゃないでしょうか?」
「ううん。どうかな。本人は大丈夫って言ってますけど。付き合い悪くなったから、まわりからは浮いちゃって」
「じゃあ、御友達と上手く行ってないんでしょうか?」
 眉を潜め心配そうに聞くと、由美子さんは少し首を捻った。
「うぅ〜ん。私と柏木君て、ゼミ以外に共通の友達って少ないから良く判らないですけど。なんか自分にも友達にも厳しくなったし」
「そうなんですか」
「あっ。でも厳しいって言っても、間違った事言ってないし。張り詰めてて余裕がないだけって感じですから、それほど心配はいらないですよ」
 にっこり微笑んだ由美子さんは、少し寂しそうだった。
 由美子さんも、耕一さんが好きだったのかも知れない。
「嫌がってる子もいますけど。逆に自分の悪いトコ指摘されて、直そうとしてる子もいますし。親身に相談にも乗ってくれるから。前から優しかったけど、厳しい分、前より優しくなったトコもありますしね」
「そうですね。耕一さんはそういう人ですね」
「お父さん亡くされたそうですよね? そのせいかも知れないけど。荒れてるのとは、ちょと違うみたいだし」

 何となく、耕一さんの優しさが判ったような気がした。
 叔母様を亡くし、叔父様を亡くし、過去の記憶に苦しめられながら。
 自分が傷だらけになりながら、耕一さんはどんどん優しくなっていく。
 でも、優しいだけじゃなく厳しくもなっている。
 人に厳しくするのに、自分の傷さえ増やしているのに、傷付くほど人に優しくなる。
 耕一さんの優しさは、哀しい。
 耕一さんの心の痕の深さが、人への優しさ。

 楓の方が、私より耕一さんを理解している。
 強いんじゃなかった。
 孤独を知り、寂しさと悲しみに震え、人の温もりを求めている。
 孤独の寂しさと辛さを知っているから、人に優しくしないでは、いられないんだろう。

「あの?」
「あっ、ごめんなさい」
 考え込んでしまった私は、由美子さんの声で我に返った。
「いえ。余計な事だとは思ったんですけど。私が変にからかったから。柏木君、また座禅始めたのかと思って」
「いいえ、違いますよ。由美子さんのせいじゃありません」
 由美子さんは胸に手を置くと、ほっと息を吐いた。
「そうですか? それならいいんですけど。柏木君、あの日も酔いつぶれるまで呑んでたから」
「あの日って? あの、ロビーでお会いした日ですか?」 自分が原因でないと聞いて安心したのか、由美子さんは軽くなった口調で話し出した。
「ええ。フロントに電話したら、泊まってるって教えてくれたから」
「耕一さんから、お聞きになったんじゃないんですか?」
「いいえ。昼食の約束途中でしたから、千鶴さん家の電話番号聞こうと思ったんですけど、泊まってるって親切に教えて下さって」

 お客様のお部屋の番号を、簡単に教えるなんて。
 誰だか知らないけれど、鶴来屋に戻ったら無期限減俸よ。

 口の端が引きつるのを感じながら、私は堅く決心した。
「部屋に行ったら、もうボトルごとラッパ呑みしてて。止めても聞かないし。酔いつぶれたから、ほっといて帰ったんですけど」
 私が頬が熱くなるのを感じて、ぷっと口を尖らした由美子さんから視線を逸らした。

 じゃあ部屋から出て来た時、由美子さんの頬が赤かったのは、酔っ払った耕一さんの相手をして怒ってたの?

「翌日も二日酔いで昼から寝込んで、初音ちゃんが心配して、大変でしたし」
「初音が心配? あの、梓だけじゃなく初音も一緒にいたんですか?」
 まさか初音が、梓と一緒に話を聞いていた筈は、ないとは思うけれど。
 私は慌てて聞き返した。
「梓さん? 彼女とは、今日会うのが初めてですけど。来たんなら、私が夕方部屋に帰った後かな?」

 梓の行ったのは夜。
 耕一さんは初音の事は何も言わなかったから、上手く先に返してくれたんだろう。
 夕方なら入れ違いで、梓の力も見られなくて済んだ筈。
 由美子さんが部屋にいたら、大変だった。

 小さく安堵の息を吐き、私は由美子さんに頭を下げた。
「申し訳ありません。耕一さんだけじゃなく、初音までお世話をお掛けしてしまって」
「あっ、い、いえ。ごめんなさい、そんなつもりじゃ。迷惑じゃありませんから。本当、初音ちゃんに街を案内してもらって、とっても楽しかったですし。私がお礼を言いたいぐらいですから」
 慌てて両手を振った由美子さんは、私が顔を上げると小さくクスッと笑いを洩らした。
「でも、千鶴さん」
「はい?」
 からかう様にメガネの奥で細めた目が光ったのに、首を傾げて聞き返すと、同じ様に由美子さんも首をこくんと傾げた。
「今のって、旦那さんと子供の事で謝る奥さんみたい」
「おっ、奥さん…ですか?」
 吃りながら俯いた私が熱くなった頬を両手で押えると、楽しそうな由美子さんの笑い声が聞こえた。
「でも、まだ奥さんじゃないし。…チャンスありかな?」
「えっ!」
 小さな呟きに顔を上げると、由美子さんはふふっと悪戯っぽく笑い、先に立って歩き出した。

 楓と梓、由美子さんまで。
 これで初音の記憶が戻ったら……?

 私は小さく溜息を吐くと、肩を落とし由美子さんの背中を追った。


  § § §


 潜り戸を抜けると冷たい新鮮な空気が、温かい淀んだ空気でボォーとなった頭をスッ〜と晴れさせてくれた。

 耕一さんと姉さん達、初音もあんなに淀んだ空気で気持ち悪くないのかしら?

 出て来たお茶室を一瞥して、胸一杯に吸い込んだ新鮮な空気をふぅーと吐き出す。
 火照っていた頬が急に冷やされ、カッと熱く感じられた。

 耕一さんと戻って来た千鶴姉さんに案内され、お茶室まで来たけど。
 今回も、千鶴姉さんの思惑は外れ。
 初音の御機嫌は、耕一さんが一緒でもなおるどころか。
 由美子さんが居なくなって、むくれた顔を隠そうともしなくなった。

 あそこまで初音が、千鶴姉さんに似てるとは思わなかった。
 怒ると恐いところまで一緒。
 初音は千鶴姉さんに育てられたようなものだから、当然なのかしら?
 …初音の将来って、少し恐い。
 でも今回は、私が初音に怒られるような事はないし。
 耕一さんと千鶴姉さんが原因だもの、初音に嘘を付いたのは、梓姉さんだし。
 私が抜け出して…も…
 ……千鶴姉さんの考え方に、似て来たみたい。

 自己逃避しそうな頭を小さく振って、私は本堂を抜け墓地への道を歩き出した。

 昨日駆け抜けた道を、今日はゆっくりとたどる。
 歩くのには不自由しないけど、一歩ごとに昨夜降った雪の名残が、ぎゅっと足を押し返す。
 足が滑らない様に慎重に歩く内に息が上がり、コートの中は熱いぐらい。
 時折吹く風が、火照った頬を気持ち良く冷やしていく。
 段々と大きくなる墓碑を見ながら、もの悲しい気持ちが胸を締めつける。

 もう、ここに来るのはよそう。
 ここには、誰も居ないから。

 耕一さんから聞いたエディフェルの御墓の前にポケットから出した小箱を置き、私はそう決心した。

 ここにあるのは、みんな過去の墓標。
 私も耕一さんも、今を生きている。
 ずっと過去の想いに縛られている間に、私は一番大切な事を見失っていた。
 いつの間にか、エディフェルとの想いがあるから。
 耕一さんが思い出してくれれば、私を愛してくれると思い込んでいた。
 私が耕一さんを好きで、耕一さんが好きになってくれなければ意味がないのに。
 約束を思い出した耕一さんが、私を愛してくれても。
 それは私と耕一さんではなく、エディフェルと次郎衛門の想い。
 エディフェルの想いなのか、私自身の想いなのか。
 私が私自身の想いに迷っていなければ、耕一さんに打ち明けられたかも知れない。
 私の迷いが、耕一さんの鬼を目覚めさせない為だと自分に言い聞かせていただけかも。
 自分からは何もせず、耕一さんの記憶が戻るのを待っていただけ。
 自分は何もしないで、千鶴姉さん一人に重荷を背負わせたのも、私の弱さと狡さ。
 昨日、耕一さんに千鶴姉さんの話をしながら、私は私自身を語っていたのかも知れない。
 過去の想いにしがみ付き、すがっていたのは私。
 エディフェルの想いを支えに、愛された過去の想いを凍らせて、熔かしてもらえる日を待っていた。

 エディフェルだから好きだと言われたら、私はどうするつもりだったんだろう?
 私は楓で、エディフェルじゃないのに。
 私が好きなのも、耕一さんで、次郎衛門じゃないのに。

 スッと目を上げると、穢れのない雪が眩しいほど煌めいていた。

 耕一さんに言われた通りよね。

 自分の中に閉じ篭もって、人と交わろうとしなかった私は、ずっと目を閉じて息を殺して来た。
 過去の記憶の中で、今を生きていた。
 私の世界は、自分の想いの中だけ。
 今はまだ判らないけど。
 いつか私の想いも、過去の想い出になるの?
 色々な人と会って話せば、いつか判るようになるのかしら?
 耕一さんは答えを知っているみたいだけど、教えてはくれないでしょう。
 私が見つけないと、意味のない答えだもの。
 私も柏木楓として、答えを探してみよう。

 小さく息を吐き、私は小箱を取り上げ蓋を開けた。

 でもね、エディフェル。
 貴方なら。
 死んでいたのが自分でなく、次郎衛門だったら。
 リズエルを許せた?

 陽の光を跳ね返す緑の角に、過去を封じるつもりでそっと表面を撫で、私は蓋を戻した。

 そう、耕一さんは生きている。
 だからこれは、私の我が侭。
 私は、私自身の過去を振り切るのに、姉さんを傷付けようとようとしている。
 でも、そうしないと。
 私は、姉さんを祝福出来ない。

 そっと小箱を握った手をポケットに入れ、顔を上げ。
 私は踵を返し墓標に背を向け、ゆっくり歩み始めた。

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陽の章 十五章

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