陰の章 十四
お寺の庭に舞い降りた耕一さんの腕の中で、睡魔に勝てず眠り込んだ私が目を覚ますと。
耕一さんの人懐っこい笑顔が、目の前に在った。
どうして何も話してくれなかったのか、問い詰めようとした声は途中で胸が詰まり止まり。
私は耕一さんの胸に顔を埋め泣き臥した。
それは私自身の迷いと、私が耕一さんを理解しようとしなかったからに他ならない。
自分自身の情けなさと耕一さんへの申し訳なさで、私は、耕一さんの胸の中で泣くことしか出来なかった。
「柏木の女性は、一代雑種だと思う」
しばらくして泣き止み座り直した私を、耕一さんは真っ直ぐ見て口を開いた。
私と、私の後で並んで腰を下ろした梓と楓を正面に見て、耕一さんは自分の居なくなる理由を説明した。
耕一さんは、鬼の血を引くのは男性の子供だけだと考えていた。
確かに女性が他家に嫁いだ場合、柏木の血筋でも覚醒した記録はなかった。
でも、私も以前家系図を見たが、別れた血筋も数代で柏木に再び戻っていて、確実に鬼の血を引かないのかは判っていなかった。
柏木は血を残す努力は払って来た。
だが、絶やす努力はした事がなかった。
御父様や叔父様もそうだが、特に昔は早婚が当然で、鬼の覚醒前に子供がいる場合が多かった。
注意を払うのは血の拡散と、確実に濃い血を受け継ぐ子孫を残す為、近親婚が多くなりすぎないように注意を払う事だった。
私と耕一さんの子供なら、確実に鬼の血は残る。
でも妹達の子供が鬼の血を引くかどうかは、私にも判らなかった。
仮に子供が覚醒しなくても、潜在化した血が何代か後で表面に出ないとは限らない。
なんとか説き伏せようとした私に、耕一さんは、女性の身体が鬼化出来ないこと。
殺戮本能に悩まされないのを理由に、聞き入れようとはしなかった。
でも、耕一さんの説を認める訳にはいかなかった。
認めれば、私が付いて行くと言っても耕一さんは、一人で居なくなる。
いま曖昧に済ます訳には行かない。
曖昧にすれば、今は残っても、いつか耕一さんは居なくなる。
興奮して言い争い始めた私と耕一さんは、楓に止められ、共に息を吐いた。
黙って耕一さんの話を考えている梓と、興奮気味の私と耕一さんを他所に、楓は冷静に話を進めようとしていた。
耕一さんとの話を聞かせようとした時と同じ澄んだ瞳が、冷静に私達を見詰めていた。
だが考え込んでいた梓の一言で、話は終わりになった。
梓は耕一さんから、女性の子供が鬼の血を引かないのを教えられていた。
さりげない言い回しで、すぐ判らなくても、良く考えれば判るように。
そして、耕一さんが子供を作らないことも。
それが私に柏木の義務から耕一さんを探す必要も、子供の発現を確かめる必要もないのを、梓を通じ伝えさせようとしたのは確実だった。
そして耕一さんに、余計な話しをして睨まれた梓の次の言葉で。
私は後悔に顔を臥せ流れそうな涙を堪え、梓と楓を先に家に帰らせた。
私以外と子供を作る気ないと、梓は耕一さんに聞いてもいた。
耕一さんは帰って来るまでは、私と生きて行くつもりでいた。
でも、私が部屋にこもるような真似をして、その決意を砕いてしまった。
もう耕一さんをどう説得しても、言葉で説き伏せることは出来ない。
私には、私の想いを伝え、耕一さんに信じて貰うしかなかった。
梓達の足音が途絶え、耳に痛いほどの静寂が微かな耳鳴りを呼び起こした。
こらえた涙がこめかみを痛いほどに締めつけ、胸が詰まる息苦しさに、私は膝に置いた拳を握り締めた。
「…最初…から……?」
胸苦しい息を振り絞り、私は声を絞り出した。
「いいや。考えの一つだった」
耕一さんの答えは、私の想像を裏づけていた。
やはり耕一さんは、あの時まで居なくなるつもりはなかった。
「…平気……なん…ですか……?」
こらえ切れず流れ落ちた涙が、畳みに零れ落ちた。
耕一さんが、子供を理由に去るなら。
幸せになれと言うのは、
「……他の人……と………」
他の誰かと結婚して、子供を作り幸せになれということ。
「…耕一さん」
何も答えない耕一さんを、私は流れる涙と詰まる息で、何とか呼んだ。
「…俺は……」
呻き声のような耕一さんの声は、一言で途切れた。
「…いや……」
私は、胸を押え声を絞り出した。
耕一さんが居るのに、私を温めてくれたのは耕一さんなのに、どうして他の人と。
「…判って…よ。…伯父さんの手紙にも…在っただろ? …人並みの幸せって。…子供…殺すかもしれないで……人並み…なんて…言えないだろ」
切れ切れに響いてきた苦しげな声音に、私は顔を上げた。
「……しあわせ…ひとり…で……?」
どうして、幸せになれるの?
耕一さんが、独り苦しんでいるのを知っていて。
今なら叔父様と御母様の気持ちが判る。
御母様は、御父様が一人では可哀想だから、一緒に行かれたんじゃない。
御母様は、一人で生きていけなかった。
私達を置いて行っても、御父様と一緒に居たかった。
叔父様も、耕一さんのためだけじゃない。
叔母様が、お母様のように一緒に死んだりしないように、別居を選ばれた。
「…しあわせなわけ…ありません……」
膝に置いた手を握り締め、押えられない身体の震えをこらえ言葉を振り絞り、私は顔を両手で覆った。
叔母様の御気持ちが、いまなら判る。
叔父様と離れ、一人叔父様の苦しみを想い。
命まですり減らして、どんなに苦しかったのか。
御父様の苦しみを見ていても、一緒に居られた御母様の方が、まだ幸せだった。
「…わかって……あのとき…から……」
詰まる胸で振り絞った言葉は、最後まで言葉にはならなかった。
強い力に引かれ温かい胸と腕に包まれ、私は胸にすがり泣き臥した。
温かい胸の中で泣きながら髪を温かい雫が濡らし、すり寄せられた頬が、私を抱き締めた腕が、二度と離れない証しの様に、心ごと私を包み込んだ。
温かな胸と温かな心に包まれ、私も彼を温めたいと願っていた。
§ § §
そっと見上げたお寺は山陰にその姿を溶け込ませ、私の目に黒いシミのように映った。
吐いた息が白く濁り、頬に当たった雪が雫となって流れ落ちる。
「楓、いつまでもそうしてると、風邪引くよ」
梓姉さんの元気のない声が、ボソッと私を呼んだ。
振り返ると街頭の少ない暗く沈んだ道に、梓姉さんのジャンパーと傘の赤が、私を呼ぶように濁った色を浮かばせていた。
こくんと頷いてピンクに白いチェクの入った傘を持ち直し、私は足を梓姉さんの方に向けた。
私が隣に並ぶまで待ってくれていた梓姉さんは、私に歩調を合わせゆっくり歩き出した。
「どう思う。さっきのマズかったのかな?」
「判らない。千鶴姉さんの心の問題だから」
耕一さんは、梓姉さんに自分の考えを話していた。
それも最初に話した時に。
でも耕一さんの子供だけが鬼の血を引くなら、梓姉さんに話す必要はなかった。
やっぱり耕一さんは……
「心の問題ね。耕一も問題だと思うんだけどな」
ふぅ〜と息を吐き出し、梓姉さんは指で鼻をポリポリ掻き出した。
「そうね」
そう、耕一さんも問題。
でも、それは千鶴姉さん次第。
「楓。耕一、どうやって止めたの?」
こくんと頷くと、梓姉さんは首を傾げ私を覗き込んだ。
「……どうって」
私はポケットの中の小箱を握り締めた。
脅かしたなんて言えない。
それに、耕一さんにも嘘を吐いたし。
鬼の角、ヨークの一部。
エディフェルやリネット、限られた者だけが持つ事を許されたヨークとの絆。
「まあ、いいけど」
梓姉さんはそう言うと、正面を向き舞い落ちる雪を見上げた。
私は息を一つ吐き、あっさり梓姉さんが引き下がってくれて、胸を撫で下ろした。
ポケットの中で握り締めた箱に納められた角を使っても、感じられたのは、耕一さんの表層に浮かんだ強いイメージだけ。
考えを全て読み取った訳じゃなかった。
それに梓姉さんや初音の記憶が戻るのかどうかも、私には判らない。
私に在るエディフェルの記憶は、ほとんどが次郎衛門との想い出。
思い出したくない記憶は、思い出せないようだった。
エルクゥとして人を狩った記憶も、女性が身体を鬼化出来たのかも、私には判らなかった。
耕一さんが話したように、エルクゥとしては人の部分が大き過ぎるからなら説明は付くけど。
耕一さんを少しでも楽にしたくて、記憶は戻らないって言ったけど。
逆に耕一さんは、自分の仮説に自信を持ったみたいだった。
小箱を握る手に自然に力がこもった。
知りたくなかった。
知らなければよかった。
耕一さんは変わってしまった。
以前の耕一さんなら、梓姉さん、初音や私、そして千鶴姉さん。
耕一さんを失うみんなの苦しみと辛さを知りながら、姿を消そうとはしなかった。
確かに鬼の血を絶やすなら今しかない。
耕一さんの考え通りなら、叔父さんとは違い力の制御が出来き、子供も居ない耕一さんが血を絶やせば、それが出来るのだから。
千鶴姉さんが居なかったら、耕一さんは私達の元には帰って来なかった。
いいえ。
私達の元じゃない。
千鶴姉さんの元。
今の耕一さんを繋ぎ止めているのは、千鶴姉さんへの想いだけ。
もう耕一さんは、昔の明るく優しい私達の従兄じゃない。
千鶴姉さんだけの人。
自分が支え続けられない。
それだけの理由で、梓姉さんが悩み苦しむのを知っていながら、耕一さんは梓姉さんに後を託した。
耕一さんが去った後。
千鶴姉さんが、梓姉さんに柏木の宿命を告げなくていい様に。
自分に代わり支えとなる者を与えるために。
耕一さんが梓姉さんを苦しめるのを承知で求めたのは、千鶴姉さんの支え。
耕一さんがマンションから直接姿を消していれば、千鶴姉さんの仮面ははがれなかった。
梓姉さんが千鶴姉さんの仮面に隠された素顔に気付き、支える機会を与えるため。
耕一さんは、千鶴姉さんにも自分にも、一番辛い別れ方を選びさえした。
でも耕一さんは、それがどんなの梓姉さんを苦しめるかも知っていた。
耕一さんの身を案じながら千鶴姉さんの幸せを考えるなら、千鶴姉さんの背負って来た苦しみと辛さを知った梓姉さんにはどちらも選べないだろう。
耕一さんを探しだせば、千鶴姉さんは生涯柏木の血の呪縛から逃れられない。
でも耕一さんに孤独な生涯を送らすことも、梓姉さんには耐えられない苦痛だろう。
千鶴姉さんも梓姉さんの苦しみを知ってまで、耕一さんを探し続ける事は出来ないだろう。
梓姉さんにも千鶴姉さんにも、残酷な選択。
耕一さんは千鶴姉さんを呪縛から解き放とうと、鬼になった。
自分の代わりが誰かに出来ると思ったから。
叔父さんを亡くした痛みより、自分を無くす痛みの方が軽いと考えたから。
でも、それは耕一さんの最大の間違い。
耕一さんは、私が千鶴姉さんから聞いていると思っていた。
耕一さんを殺し掛けたことを。
私は、千鶴姉さんがそうするだろうとは思っていたけど、梓姉さんに聞くまでは知らなかった。
だから千鶴姉さんが本当の意味で心を開いているのは、耕一さんだけ。
兄弟の居ない耕一さんには判らないのかも知れない。
私達は千鶴姉さんに取って、守るべき妹。
両親や叔父様に代わって、守らなければならない者達。
耕一さんの代わりにはなれない。
頼りにしている足立さんですら、叔父さんやお父さんの信頼した人だから、千鶴姉さんは信じているだけ。
耕一さん以外に、千鶴姉さんの傷ついた心を救える人はいない。
耕一さんの心を救えるのも千鶴姉さんだけ。
そう思って千鶴姉さんに、耕一さんとの話を聞いてもらった。
千鶴姉さんも、耕一さんを苦しみから救おうと鬼になった。
本当は誰よりも深く傷つき、崩れそうだった千鶴姉さん。
誰よりも支えを必要としていた千鶴姉さんが、愛した耕一さんを手に掛けるほど追い詰められ。
耕一さんを救うのに、殺せるほど愛したからだと思っていた。
だから耕一さんが千鶴姉さんを受け入れたなら、千鶴姉さんは、自分を偽る必要も、偽ることも出来ないと思っていた。
でも。
いまだに私には、どうして耕一さんを殺すのを、そんなに千鶴姉さんが焦ったのかが判らない。
人が殺されていたのは確かだけど、耕一さんには話を聞いて、自分の鬼と戦う時間さえなかった。
それにあの時、私が感じていた鬼は、耕一さんを自由に出来るほど強くもなかった。
姉さんは、どうして耕一さんの意思を無視してまで?
自分の中に鬼が居るのを知っていれば、耕一さんが叔父さんのように、しばらくでも意識で抑えられたかも知れないのに。
千鶴姉さんは、耕一さんに話して試そうともしなかった。
叔父さんのように、勝てる見込みのない苦しい戦いをさせたくなかったから?
でも耕一さんが苦しむと判っていても、私は一分でも一秒でも長く一緒にいたかった。
最後まで諦めたり出来ない。
叔父さんには、姉さん自身辛く苦しくても、少しでも長く生きていて貰いたかった筈なのに。
千鶴姉さんが、耕一さんの思っている通りなら?
耕一さんの考えが正しいなら……
私が間違っていたなら……
耕一さんは、救われない。
千鶴姉さんも、自分を偽り続けるだけ。
もしそうなら、私は……
§ § §
使い慣れない頭をぼりぼり掻き、あたしは楓と耕一の言葉を突き合わせていた。
前なら何げなく聞き流していた、楓の心の問題という言葉が引っかかっていた。
心ね?
気持ちじゃない訳か?
やっぱり楓も、千鶴姉自身が意識してない所で、耕一を信じてないって思ってるのか?
千鶴姉には幸せになって貰いたいけど。
耕一は、いいのかな?
あいつ平気な顔してたけど、やっぱり平気じゃないんじゃないかな?
あいつ言ってたもんな。
叔父さんが帰って来たような、俺って。
どっかで引っかかってんじゃないのかな?
あたしなら我慢出来ないけど、耕一は我慢出来るのか?
いくら不器用ったってな。
叔父さんは叔父さんだし、耕一は耕一なのにな。
どうして千鶴姉、耕一信用出来ないのかな?
居なくなるとなった途端、慌てふためいて泣き出すぐらいなら、もっと信用してやりゃ良いのにさ。
まあ、簡単に出来ないから困るんだろうけどな。
信用してたら、部屋こもったりしないだろうし。
耕一だって、出て行こうなんてしないだろうしな。
やっぱり、叔父さんが大き過ぎるのかな?
まさかとは思うけど。
千鶴姉の奴。もう耕一と叔父さん、ちゃんと別に見てんだろうな?
まったく、困った姉貴だよ。
耕一も千鶴姉も、頭で考えすぎるんじゃないのか?
さっきは突然、鬼が耕一の子供だけだって聞いてびっくりしたけど。
子供が鬼なの、千鶴姉は最初から判ってただろうし。
覚悟はしてたみたいだしな。
千鶴姉が知ってるのは、耕一だって判ってただろうしな。
余計なことばっか考えて、先の事なんかやって見なきゃ判ん無いのに。
こんなんじゃ、諦めるにも諦め切れないよ。
あたしは、今度は地面に向って大きく息を吐き、隣で小さく息を吐いた楓と顔を見合わせ、ぎこちなく笑いあった。
「楓、寒いだろ?」
あたしは首に巻いていたマフラーを外すと、楓の首に掛けた。
「でも、姉さんが」
楓は首に巻かれた白いマフラーの端を手にして、申し訳なさそうに上目遣いに覗く。
「衿立てるから平気。通学用のじゃ、夜は寒いよ」
あたしは言いながら、ダウンの襟を立てた。
隆山の夜は、海からの風と山から吹き下ろす風でかなり冷え込む、その上粉雪まで舞い落ち寒さは半端じゃない。
耕一探すのに楓も慌ててたんだろう。
マフラーも手袋もしていなかった。
ダウンを着ているあたしでも寒いのに、通学用のコートじゃ、楓はもっと寒いはずだ。
「ありがとう、梓姉さん」
りちぎにペコンと頭を下げられ、あたしは鼻の頭を掻いて目を逸らした。
「明日は朝からお寺行くけど。楓はどうする?」
和尚さんが耕一と千鶴姉には話し合う時間が必要だから、お寺に泊めると言っていたので、あたしは楓にも聞いてみた。
「一緒に行く」
短いが、珍しく強い口調で楓は答えた。
「初音に言い訳考えなきゃ」
千鶴姉と耕一は泊まり込んだって事にして。
あたしは、鶴来屋の部屋の片付けが残ったってぐらいか。
「姉さんに、まかせる」
これまた珍しくあたしの独り言に楓が応え、あたしは楓の横顔を見詰めた。
白い頬を薄く赤く染めて俯いている楓は、爪を噛んで盛んに何かを考えていた。
楓は、この数日で少し変わって来た見たいだ。
いい失恋は人を強くするって聞いたけど。
楓も耕一に失恋して強くなったのかな。
ここん所、積極性が出て来たよな。
あたしも、妹に負けてらんないな。
あたしは背を伸ばして、大きく伸び上がった。
§ § §
耕一さんから寝物語に話を聞かされ、私は息を吐いた。
話さないのが苦しめない事じゃなかった。
好きな人が苦しんで来たのを知った時の後悔と、頼りにされなかった情けなさを、私は初めて身を持って知った。
「梓の気持ちが、良く判りました」
枕にした腕の中から耕一さんを見上げると、申し訳なさそうに陰った瞳が私を見詰めた。
「話して貰えないって、情けないですね」
耕一さんから聞いた話は、確かにショックだった。
エディフェルを手に掛けた苦しみに、次郎衛門に仇を討たれ様としたリズエルを生かす事でより苦しめ。
生まれ変わった後まで苦しみ抜くよう、次郎衛門は呪っていた。
恨み等と言う言葉で、現せない大きな憎しみだった。
「ごめん」
私は短い謝罪に首を横に振り、身を擦り寄せた。
それ程深い憎しみを持ちながら、耕一さんは私を憎もうともしなかった。
不安を抱えていた私が次郎衛門の憎しみを知れば、耕一さんを信じられなくなると思われても仕方なかった。
「私が、何も話さなかったから」
謝る言葉も思いつかず半身を起こし頬に手を添え、私は耕一さんの胸に額を付けた。
私が最初から耕一さんに全てを話していれば、耕一さんが私に隠す事もなかったかもしれない。
「俺も話さなかった。お互い様って事で、いいかな?」
私を責めようとはしない耕一さんに、私は小さく首を縦に振って応えた。
「御父様の手紙に在った、何者にもって。次郎衛門の事だったんですか?」
御父様の手紙が遺書と一緒に残されていたのなら。
比喩だと思っていた、何者にも捕らわれず幸せにというのは、次郎衛門の遺書の事だろうと思えて、私は耕一さんに尋ねた。
「伯父さん、知ってたんだろうな」
「知って?」
私は顔を上げ、耕一さんを見詰めた。
「歴代の柏木が守って来た意志を、どんなに無意味に思えても。千鶴さんには無為に扱えないって」
「…じゃあ」
御父様は、私に遺書に従うなと伝えたかった?
「うん。責任や義務に縛られず、自分の幸せだけを考えてくれって、伝えたかったんだと思う」
堪え切れず流れ落ちた涙の先、広い胸に顔を埋めると大きな腕が私を包み込んだ。
「……御父様、…苦しんで……らした…のに……」
見ているだけで地獄の様だった日々の中で、どんな思いで手紙を残されたのか。
そう、私には無為にしたり出来ない。
次郎衛門の遺書に在った様に、鬼が星を渡る種族で救援を呼んだなら。
いずれこの地にやって来る鬼の力に蹂躙される人と、柏木の子孫の為にも、血を残そうとしただろう。
でも多くの人の命は、私には重すぎる。
御自分が悩んだ末残したものを、御父様は私の負担にならないよう捨ててもいいと書き残された。
生前から亡くなった後の、私の幸せを考えていて下さった。
「ごめん、隠したりして」
髪を撫でる手の温もりに滴る涙が止まる頃、優しい声が聞こえて来た。
「いいえ。私が内に篭もっていたから。妹達を支えてるつもりで。いつのまにか、自分だけが辛いつもりになっていました」
私はこんなに妹達にも、御父様達にも、耕一さんにも愛されて、幸せでないはずがない。
「耕一さんは、何も話さないのに判ってくれた。私は何も気付けなかったのに。耕一さんの方が、辛かったでしょう?」
私は耕一さんを見詰め、その頬を両掌に収めた。
私が自分の悩みに捕われ何も見えなかった間、どんなに一人で苦しかったのか。
「僅かだよ。何でもない」
「ごめんなさい」
静かに微笑んだ耕一さんに、私には謝る事しか出来なかった。
「前にも言ったよね? 千鶴さんが謝る事は、何もないんだよ」
「でも……」
耕一さんは頬に当てた私の手を握り、頬を擦り寄せ私の言葉を唇で塞いだ。
「これからだろ? もう何処にも行かない。判り合う時間は十分在るよ」
小さく頷いた私は、髪を撫でる手に引き寄せられ胸に顔を埋めた。
「耕一さん」
「うん?」
「一つだけ、いいですか?」
私には一つ疑問が合った。
子供が出来れば、耕一さんの鬼の血の悲劇をなくすと言う考えは達成出来ない。
でも、最初からいなくなるつもりもなかった。
そして、子供を作らず二人だけで暮らす考えも。
「うん」
「考えの一つって、言われましたよね?」
それが、耕一さんがここに残り、柏木の悲劇も防げる方法かも知れない。
「もう一つは…戻った途端……だめになった」
「戻った途端、だめに?」
僅かに陰りを帯びた耕一さんの声と、意外な答えに私は顔を上げた。
「うん。爺さんだよ」
「御爺様?」
御爺様が、考えの一つ?
「次郎衛門は、殺戮本能に悩んだりしなかった。そして俺と爺さんは制御してる」
「次郎衛門は、鬼の本能を知らなかったんですか?」
男性はみんな本能に悩まされると思っていた私は、驚いて聞き返した。
「知らなかった。それと、俺は子供の頃、記憶ごと鬼を封じた。で、それらの共通点を探した」
「それは、鬼の力が弱かったからじゃ?」
御爺様達も、鬼が成長する前だからだと考えられていたのに?
「俺は、楓ちゃんが居たからだと考えた」
「楓が居たから?」
私は眉を寄せ、聞き返した。
一緒に梓と初音も居たのに、どうして楓だけが鬼を封じられるの?
「鬼と一緒に蘇った次郎衛門が、封じたんじゃないかと思って」
「あの時、次郎衛門の記憶も蘇ったと?」
「仮定だけど。楓ちゃんの中のエディフェルを感じた次郎衛門の想いが、殺すのを拒否して封じた。そう考えたんだけど」
「…鬼の本能より強い…想い…ですか?」
記憶の底にあっても、楓を護ろうとする強い想い。
五百年も残る想いなら、鬼より強いのかも知れない。
「俺もね」
「えっ?」
耕一さんの言葉に、私は胸が詰まる切なさを感じて耕一さんを見詰めた。
やはり耕一さんにも、次郎衛門の想いは残っているの?
「俺が制御した時は、千鶴さんを助ける事しか考えてなかった」
首を横に振った耕一さんの言葉は、わざと思わせ振りに言葉を切った様に感じられ、怒って見せようとしたけれど。
私は赤くなる頬と自然に湧いて来る笑みを、怒った顔に変えられなかった。
「次郎衛門にはエディフェル。俺には千鶴さん。だから爺さんにもって思ったんだけど」
「でも耕一さん。それって、想いが本能を押さえるって事ですよね?」
「そうだけど?」
耕一さんの考えは判るけれど、耕一さんの答えに私はムッとした。
「御父様には、御母様が居ました!」
強い想いで抑えられるなら、御父様も鬼が抑えられたはず。
「親父には、母さんが居たしね」
「ごめんなさい」
苦笑気味に答えられ私は小さくなった。
私ったら、叔父様にも叔母様がいらしたから、御父様と同じだったのに。
「いいよ。判ってる。お婆さんも柏木の血を引いてるんだ。爺さんの従妹で、一人っ子だったから家は絶えたけど」
「柏木同士だから?」
胸に引き寄せられ髪を撫でながら説明され、私にも耕一さんの考えが判った。
「そう思ったんだけど」
耕一さんの溜息混じりの声には、落胆がありありと現れていた。
御爺様は複数の女性と御付き合いなさっていた。
これでは、耕一さんの仮説は成り立たない。
「だから本能を抑えるには、自分一人の意識だけじゃ不完全でも。同族の女性の想いに支えられ、抑えられる。梓達に子供が居ればいいし。もしくは、訓練次第で抑えられると考えていた」
「鬼同士の、意識を伝え合う力ですね?」
「うん」
「じゃあ御爺様の話を聞くまでは、居なくなるつもりは無かったんですね?」
私は首を傾げ耕一さんを見上げた。
それじゃ、会長室で話をした最初で居なくなる決心をしていた?
「まず爺さんを調べ、制御方がどうしても見付からなかったらだったんだけど」
「どうして諦めたんですか?」
私が部屋に閉じ篭もったせいもあるだろうけど、そんなに簡単に諦めなくても。
「あの後、楓ちゃんの記憶が戻ってたの判ったしね」
睨む私から目を逸らし、耕一さんは小さく溜息を吐いた。
「会長室から出て行った時は、居なくなるつもりは無かったって事ですか?」
私が部屋に閉じ篭もったからじゃなかったの?
「半分諦めた。梓が殴り込まなかったら、そのままかな」
想像が外れていて膨らんだ頬に手を添え、私は苦笑混じりに見詰められ目を落とした。
「あの子の無茶が心配になった?」
半分は、やっぱり私の所為。
「梓に感謝しないと」
いつも叱っている梓の無茶に助けられた皮肉に、私は苦笑を浮べ半身を起こし耕一さんを見詰めた。
「耕一さんの子供なら大丈夫です。もし同じ苦しみを味わうにしても、一人じゃありませんから。一人で泣かせたり、しませんよね?」
今の私の精一杯の想いを込め見詰めた私に、耕一さんは私の頬に手を添え、唇に熱い応えを返してくれた。