陰の章 十三


 あたしは、ふむと手元の点心を睨み付けた。

 皮かな?
 具の隠し味か?

「あの〜」
「なんだよ?」
 真剣に点心の味付けを考えてたあたしは、邪魔をした声にぶっきらぼうに答え、再び点心に目を戻した。
「いや。一個ずつ点心睨み付けて、なにしてるのかと思って」
 食後の点心を食べ終えた賢児さんは、お茶を口に運ぶと、首を捻ってあたしの手元を覗き込んだ。
「どうやったらこの味が出るのか、考えてんの」
「はぁ。それなら、お土産用を持って帰ったらどうです。冷たくなると美味しくなくなりますよ」
 ふむ、とあたしは首を傾げた。

 それもそうか。
 食べ物は、美味しく食べないと作った人に悪いよな。

「そうしよ。あんがとね」
 にっこり笑って、あたしは点心の最後の一つをほうばった。
「ありがとって?」
「家、四人。あっ! 耕一も居るから五人だ。妹達も喜ぶよ。まずいとこ、耕一には黙っといて上げるからさ」
 いやな顔をした賢児さんに、あたしはニヤッと笑って見せた。
「別に内緒にして貰わなくても。お土産までは経費では……」
「冷たい美人だっけ? 見合いまでしといて、千鶴姉をどうでもいい扱いしたの知ったら。あいつ怒り狂うだろうな」
 目を細めて見詰めると、賢児さんの腰が少し引けた。
「ははっ、まさかそれ位で」
「あいつ、千鶴姉に人生かけてるからね」
「いくらなんでも」
「千鶴姉が止めてくれて運が良かったね。身内から殺人犯出すとこだよ」
「おおげさな」
「物扱いだもんな」
「…まさか…ですよね?」
「骨の二、三本で、済むかな?」
 暗い顔になった賢児さんは、顔を突き出し冗談ですよね。と不安そうに念を押す。
「逃げ出したって、言わなかった?」
 あたしは眉を潜め、溜息を吐きながら上目遣いに覗いた。
 耕一の殺気を思い出したのか、蒼くなった顔を引きつらせ座り直した賢児さんは、こくんと頷いた。
「試してみる?」
「…五人ですね?」
 久しぶりの勝利に満足して、あたしは腕を組んで大きく頷いた。

「でも、まだ話して貰ってないんですか?」
 お土産の点心を注文しながら聞かれ、あたしは目を逸らした。
「忘れてたんじゃ、ないんでしょうね?」
「いや。年末からこっち、ごたごたしててさ。それどこじゃなくてね」
 眉を潜めて見詰められ、鼻の頭を掻きながら言うと賢児さんは小さく息を吐いた。
「まあ、まだ御正月ですしね。こっちも正月明けまでは、半分休暇だからいいんですけど。でも、挨拶に行く方が早くなると困るんですけどね」
 横目でチラリとあたしを見ると、賢児さんは困ったなと言う様に頭を掻いた。
「まあ。今日、明日にでも、言っとくからさ」
 ははっと笑いながら後頭を掻いて、あたしは何かおかしく感じた。

 千鶴姉に話してたら、あたしに今から口止めしても無駄じゃないの?
 賢吾さんと会うのは、あたしじゃなくて千鶴姉なのにさ。

「なあ、あんたさ」
「はい」
 くすっと笑い首を傾げた賢児さんから目を逸らし、あたしは天上を見上げ、頭をぼりぼり掻いた。
「…いや。いいや」

 考えるって、こういう事か?
 あたしに気を使わせない様に、口止めって言ったのかな。
 調子に乗って点心までおごらせて、悪い事したな。
 あの笑い方だと、あたしが今頃気付いたのも判ってるのかな?

「気いつかわせて、ごめん」
 ボソッと謝ると、賢児さんの押さえた笑い声が洩れ聞こえた。
「いいえ。楽しい食事でしたしね」

 やっぱり。
 あたしは天上に向かってふっと息を吐き出し、照れた笑いを賢児さんに向けた。
 穏やかな笑みを向けた賢児さんは、微かに首を傾げただけだった。
 そして、お土産を店員さんから受け取り、あたし達は店を後にした。


 フロントに用事が在るという賢児さんとエレベーターの前で別れ、あたしは会長室に向かった。

 もうお昼過ぎだから、千鶴姉も起きてるかも知れない。
 お腹も空いてるだろうし、寝てたら点心を置いて来りゃいい。
 でも、会長室には鍵が掛かっていた。
 あたしは社長室に足立さんを訪ね、鍵を貸して貰ってから会長室に再び足を向けた。
 足立さんの話だと、三十分程前、千鶴姉が起きて来るまで起こさない様に、耕一が頼んで帰ったらしい。
 寝てる千鶴姉を一人にするのが心配なのは判るけど、私室にだって鍵は掛かるのに、会長室にまで鍵を掛けてくなんてね。
 耕一の過保護ぶりに、あたしは苦笑が洩れた。

 会長室に入り、手にしたジャンバーとお土産を応接セットに置き私室に向うと、やっぱり私室にも鍵が掛かっていた。
 私室の鍵も借りた鍵で開け、あたしはそっと扉を開けた。

 千鶴姉は良く寝てるみたいで、扉を開けても正面に見えるベッドには動きはなかった。
 厚いカーテン越しの日差しが仄かに照らす私室に、開けた扉から、あたしの影を会長室の明かりが長くベッドまで伸ばし、千鶴姉の様子はあたしからは良く見えなかった。
 あたしはそっとベッドに近付き、千鶴姉を覗き込んだ。
 顔を覗きこんだ拍子にあたしが遮っていた光りが千鶴姉の顔を照らしだし、眉を潜めた千鶴姉は小さな呻き声を上げ、あたしは慌てて戻ると扉を閉めた。
 閉めた扉が慌てていたせいか大きな音を立て、あたしはぎょっとして千鶴姉の方を窺った。
 千鶴姉は片肘を突いて半身を起こし、片手で額を押さえ盛んに頭を振っていた。

「ごめん、起こしちゃて」
 あたしは謝りながらベッドに近付き、千鶴姉の蒼白い顔と頬に残る涙の痕に気付き、慌ててベッドの横に回り込んで千鶴姉の起こした身体を支えた。
「…あず…さ?」
 身体を支えたあたしに、眉を寄せたぼんやりした瞳を向けた千鶴姉の身体には、全然力が入っていなかった。
「…耕一…さん…は?」
「家にいっぺん帰るって言ってたけど。それより寝てなよ。具合悪いんじゃないのか?」
 弱々しい声で聞いた千鶴姉に返しながら、あたしは千鶴姉を寝かせ様とした。
 でも千鶴姉は髪を乱し頭を振ると、ベッドから起き上がろうとする。
「無理だって、寝てなきゃだめだよ」
「…探さ…なきゃ」
「探すって? 夢でも見たんだよ。耕一なら、ちょっと初音達の様子見に行っただけだからさ」
 あたしの声に耳を貸さず、千鶴姉は立ち上がろうとして、膝が崩れ床に倒れる様に座り込んだ。
「だから無理だって。それに、そんな格好でどこ行くんだよ」
 あたしは言いながら、ベッドに置いて在ったローブを千鶴姉に掛けると肩を抱えた。
 自分が裸なのにも気付いていない千鶴姉の様子に、あたしは不安になった。
 千鶴姉の半分寝てる様な姿は、夢遊病者みたいだった。
「…どこか、…行くつもりで」
「だからさ。家、帰っただけだって」
「…いいえ…耕一さん…睡眠薬を」
「睡眠薬?」
 眉を潜めて聞き返し、耕一が居なくなる夢でも見たのかと思っていたあたしはハッとなった。
 頭をハッキリさせるためか、あたしの言葉を否定するためか、頭を振り続ける千鶴姉の掠れた声で、あたしにもようやく判った。

 薬で眠り込みそうなの我慢してるのか?
 千鶴姉を睡眠薬まで使って眠らせたのが耕一なら、本当に居なくなるつもりだ。
 でも、なんで今更?
 …あたしに…支えてくれって?
 まさか、居なくなるからって…事なのか?

 あたしは嫌がる千鶴姉をベッドに座らせ、ベッドサイドに在った電話で家に連絡した。
 耕一は、まだ家に帰ってなかった。
 電話に出た楓に客間を見に行かせたが、耕一の荷物は無くなっていた。
 あたしは楓に、耕一が居なくなった事を説明した。
 どの位前に耕一が出て行ったか聞かれて答えると、暫く黙り込んだ楓は、あたしに駅に行く様に言い自分は雨月寺に行くと言った。

 そうか、今なら、まだ長距離列車の時間待ちしてるか、叔父さんにお別れを言いに行ってるかも知れない。
 あたしは、いい妹もった。
 楓に感謝しつつ、あたしは受話器を置いた。

 耕一の奴。
 昨日千鶴姉と家出る時は、バックなんて持ってなかった。
 先に一度来て、準備してたな。
 今度は、何が原因なんだ?

「千鶴姉は寝てなよ。あたしと楓で探すから」
 肩を押さえ横にならせ様としたあたしに、千鶴姉は額を押さえながら頭を振る。
「大丈夫だって。必ず連れて帰るから、待ってなよ」
「いやよ」
 短く答えた声がまともになって来て多少は安心したものの、聞き分けのない千鶴姉に、あたしはいらいらして来た。
 置いてきゃ、一人で探しに行くだろうし。
 このまま押し問答してる間にも、耕一は遠くなって行く。
「御願い、服を取って来て」
「あたしが信用出来ないのかよっ!」
 カッとなって怒鳴り付けると、千鶴姉は驚いた顔をパッとあたしに向け。
 じわっと瞳を潤ますと、ぼろぼろ涙を零し始めた。
「ご、ごめん。あ、あたしそんなつもりじゃ」
 いきなり泣き出され、あたしはうろたえて謝った。

 千鶴姉が泣くのなんてほとんど見た事なくて、どうしたらいいのか、あたしには判んない。

「…ごめんなさい、梓。そうじゃないの。でも、私……」
 声を詰まらせ、顔を両手で覆ってぼろぼろ雫を滴らせる千鶴姉を前にして、あたしは驚くより茫然として身体から力が抜けた。

 いつも明るくて。
 あたし達が一番辛い時、励ましてくれて。
 冗談半分に鈍いってからかってた千鶴姉のぼろぼろ泣いてる姿は、親に置き去りにされた子供みたいに弱々しくて。
 あたしの方が胸が痛くなる程、切なくて儚かった。

 千鶴姉の本当の顔って………

 あたしには止められない。
 耕一は間違ってる。
 あたしでも楓でも、千鶴姉は支えられやしない。

「判ったよ。でも先に、顔洗って服着ないとね」
 あたしは千鶴姉の腕を肩に回し立ち上がり、支えた身体の軽さに唇を噛み締めた。
「ごめん。梓、ごめんね」
 盛んに謝る千鶴姉に、あたしは涙を堪えて首を横に振る事しか出来なかった。

 謝るのはあたしの方だ。
 こんなに小さくて軽いのに、重い荷物一人で背負って、あたし達支えてくれて。
 何も気付かなかった、あたしに千鶴姉が謝る事なんかない。

 あたしは千鶴姉を洗面所まで抱えて行き、そこにあった椅子に座らせた。
 顔を濡れたタオルで丁寧に拭き、少し待っててくれるように言って電話の前に戻った。

 時間がない。

 足立さんに誰か駅に行かせて貰おうとして、あたしの指は止まった。
 鶴来屋で、耕一の顔を知ってるのは足立さんだけだ。
 千鶴姉が休みなのに、足立さんに頼む訳には……
 少し迷ってから、あたしは内線を佐久間さんの部屋に繋いで貰い、上手いこと部屋に戻っていた賢児さんに駅に行って貰えるように頼んだ。
 不承不精ながらも、賢児さんはあたしの頼みを聞いてくれ、すぐ駅に向うと言ってくれた。
 初音がいれば一番良かったけど、朝出たままで家にいなかった。
 賢児さんに耕一を止められるとは思ってないけど、見付けたら警察に宿泊費踏み倒したって言えって言っといたから、警察が足止めして鶴来屋に連絡が入る。

 洗面所に急いで戻ったあたしは、椅子に座らせた千鶴姉の姿がないのと、激しい水音に気付いた。

「なに、やってんだよ!!」
 水音をたどり千鶴姉がシャワーから激しく降りそそぐ冷水の下で震えているのを見付け、あたしは怒鳴り付け身を切るように冷たい水を止めた。
 シャワールームは冷蔵庫の中のように冷たかった。
 シャワールームから引きづり出した千鶴姉の身体も、氷のように冷え切っていた。
 濡れた髪から滴る雫が、あたしの服を濡らし身体を震えさせた。
「大丈夫よ。少しは頭がはっきりしたわ」
 バスタオルを掴み震える身体を拭うあたしに、落ち着きを取り戻した声が答える。
 でもあたしは、タオルを受け取り滴る水滴を拭う千鶴姉を見ながら、安心するより怖くなった。

 真冬に頭から水被るような無茶するなんて。
 もし耕一が、このまま居なくなったら。
 あたしには、千鶴姉がどうなるのか判らない。

 凍え震えている千鶴姉をベッドまで支え座らせたあたしは、クローゼットから服と下着を取り出し、もう一枚バスタオルを掴むと千鶴姉の元に戻った。
 少しは頭がはっきりしたと言っても、千鶴姉の身体には、まだ力が満足に入ってなかった。
 あたしは身体についた水滴を拭い、長い髪から滴る雫を新しいバスタオルで拭い取った。
 生乾きのままの髪で服を着出した千鶴姉に、あたしは慌ててドライヤーを取りに行き、服を着ている間に高温の熱風で髪を乾かした。
 髪が痛むとか言ってる暇はなかった。
 着替え終わった千鶴姉に肩を貸し、あたし達は耕一を連れ戻しに向った。

 耕一、千鶴姉泣かせるのあんただけなんだから。
 あたしじゃ、涙拭けないよ。
 あたしには千鶴姉の身体しか支えられないんだよ。
 あんたじゃなきゃ、だめだよ。

 あたしは時々崩れそうになる千鶴姉の身体を支えながら、間に合ってくれるよう祈っていた。


  § § §


 時折襲い来る睡魔に抗い、私は頭を働かせていた。
 耕一さんがお酒を呑まなかったのも、睡眠が短かったのも、睡眠薬の所為なのが今頃判った。
 この所、使っていた睡眠薬のお蔭で身体が抵抗力を持ったのか、効き目が薄かったようだが、それでも酷く眠くなる波が襲う。
 梓には心配を掛けたが、身を切る水の冷たさも、凍り付かせた心に比べれば大した事はない。
 少しは波が遠のいたようだ。

「お寺へ行って」
 鶴来屋の前で乗ったハイヤーの運転手さんに、駅に行くように言った梓を遮り、私はお寺へ行くように頼んだ。
「寺って? 雨月寺なら楓が行ってるよ」
「耕一さんは、お寺に居るわ」

 そう、何故かそう感じる。
 どうしてだかは、判らない。
 でも、耕一さんが雨月寺に居るのを感じる。

「わ、判った。雨月寺だって」
 不徳要領な顔で頷くと、梓は運転手さんに告げ心配そうな顔で、私を覗き込んだ。
 なんとか微笑みを作り肩に回された梓の腕を握ると、梓も少しほっとした顔になった。

 どうしても判らない。
 耕一さんは、どうして居なくなろうとするの?
 リズエルの記憶、エディフェルの記憶。
 そして、アズエルとリネットの記憶。
 でも私は知っているのだし、楓も乗り越えてくれそう。
 梓には不安が残るけれど、今までのようには感情的にはならない筈。
 後、問題なのはリネット。
 初音には辛い記憶だけれど、耕一さんが居なくなれば戻らないと決まった訳ではないのに。

 記憶ではないの?

 楓が言っていた、戻らず居なくなっても良かった。
 確かにそうだわ。
 一度は戻って来ていながら、梓に話す前に居なくなろうとしていた。
 足立さんにも私との事を話してくれた。
 少なくとも、あの時点では居なくなるつもりはなかった?
 では、私がマンションを訪ねてから部屋に篭っている間までに何かが在ったはず。
 でも、なにが?

 車の中を温めるヒーターの所為で、身体が暖まって来たのか、徐々に間隔を狭める睡魔に私の考えは、一向にまとまらなかった。


  § § §


 息を切らせ駆け上がった石段の上に、和尚さんの驚いた顔が見えた。
「どうか、なされましたかな?」
「…耕一さん、こちらに?」
「先程、御墓の方に……」
 私は和尚さんの言葉を最後まで聞かずに頭を下げ、駆け出した。
 日頃の運動不足がたたり、足が重く胸が苦しいのを我慢して、私は雪が残る泥濘るんだ道を駆けた。

 どうして?
 千鶴姉さんの辛さも苦しみも知り抜いて。
 自分自身も辛いのに、耕一さんはどうして?
 誰より今の耕一さんを助けられるのは、千鶴姉さんだけだから、私は耐えられると思ったのに。

 途中の脇道で、御墓か、墓碑か迷って足を止めた私は、脇道に点々と続く足跡を見付け、脇道を駆け上がった。

 誰より苦しんで、それなのに誰より優しい耕一さんと千鶴姉さんなら、二人共救われると思ったのに。
 凍ってしまった心を温め合えるのは、辛さも苦しみも味わいつくした二人しかいないはずなのに。
 耕一さんは、どうして背を向けられるの?
 千鶴姉さんに新しい痕を残すのを知っていて。
 自分自身にも、痕を増やすだけなのを知っていて。
 どうして独りになろうとするの?
 どうして独りになれるの?
 耕一さん!?

 次郎衛門の墓碑の影でしゃがんでいる背中は、見慣れた叔父さんのコートを着た耕一さんに間違いなかった。
 私は足を緩め滴る汗を袖で拭い、激しく胸を打つ鼓動の息苦しさに胸を押さえ、ゆっくりと耕一さんの方へ歩み寄った。

「……こう…い…ち…さん」


  § § §


 雨月寺の石段の前で、あたしは舌打ちした。

 雪が残って滑りやすそうだ。
 途中から落ちでもしたら、無事じゃすまない。
 チラッと車の方を見ると、車に手を突いて身体を支えている千鶴姉は、車内が温かかったせいかかなり眠そうだ。
 赤く染まった頬と乱れた息から、今にも寝入りそうなのを我慢してるのは、はた目にも見て取れた。
 でも、車で待ってろって言っても聞きそうにもない。

「手を貸しましょうか?」
 運転手の声に顔を向け、
「いいよ」
 あたしは素っ気なく答えて、千鶴姉の腕を肩に回し腰を抱き歩き出した。
「危ないですよ」
「触るな!」
 千鶴姉に、あたしの反対側から手を出した運転手を睨み付け、腰を引かした隙にあたしは石段を登り始めた。

 親切そうに言ってるけど、にやけた顔でスケベそうな目で、千鶴姉を見てたのは知ってんだ。
 汚い手で、べたべた触られてたまるか!
 あたしの姉貴だ。
 あたしが支えて昇る。

「ごめんね、梓」
 眠気を我慢した吐息のような声に、あたしは腰に回した腕の力を込めた。
「いいって、謝るなよ」
 あたしは一歩ずつ石段を踏み締め、千鶴姉を支えて昇り始めた。

 あたしにはこんな事しか出来なけど。
 今は、身体支えて石段昇るしか出来ないけど。
 もっといろんなもん支えられるように、頑張るから。
 今は、勘弁してよね。

 踏み締める一歩事に肩にかかる千鶴姉の軽さに涙が出そうになって、あたしは必死に涙を堪えた。


  § § §


 車の中から携帯電話で和尚様にお尋ねして、耕一さんが雨月寺に居るのは確認出来た。
 楓も慌てていたのだろう、和尚様に電話するのを思い付かなかったらしい。
 梓に支えられ昇り切った石段の上では、和尚様が出迎えて下さった。
 和尚様と梓に支えられ、私は本堂に向った。
 和尚様にも止められ、梓も滑りやすい石段を昇るのに神経を擦り減らしていた。
 これ以上梓に無理も言えない。
 私は和尚様のお言葉に従うことにした。


 私を支えていた梓が眉を潜めたのは、離れに向う廊下の途中だった。
「これって。耕一か?」
「耕一さんじゃないわ。でも楓が?」

 私も鬼の力が開放されたのを感じていた。
 今まで力を使おうとしなかった楓が、力を使っている。
 耕一さんを説得出来ずに、力で止めようとしているとしかおもえなかった。

「梓、御願い。私は大丈夫だから」
「うん。必ず連れて来るから」
「力はだめよ。耕一さんが気付くから」
「うん」
 頷いた梓は、廊下を駆け出した。
 私は和尚様の御手をお借りして、離れの廊下に座り戸口に背を預けた。

 部屋で暖まれば眠ってしまいそうだった。
 身体が怠く力が入らない。
 耕一さんの使った睡眠薬は、長時間効果の持続する物のようだ。

「和尚様にまでご迷惑をお掛けして。申し訳ありません」
 傍らに腰を下ろされた和尚様に頭を下げると、和尚様は小さく嘆息され、こめかみを揉むと頭を下げられた。
「申し訳ございません。愚僧の配慮が至らぬばかりに、このような事態になろうとは」
「和尚様?」
 今にも閉じそうな瞼をしばたたかせ、私は深い皺を刻んだ和尚様の顔を窺った。
「それ程の御覚悟とは、気が付きませなんだ」
「和尚様、御教え願えませんでしょうか? それは、どういう事でしょうか」
 私は身を乗り出し、倒れそうになった身体を片手で支え尋ねた。

 和尚様は、御爺様の代から柏木に精通なさったお方。
 柏木の宿命も、義務もご存じだった。
 和尚様が家訓を耕一さんに教えたなら、和尚様のご様子も判るけれど。それだけで、和尚様がこれ程後悔しているはずがない。

「初めて御見えの際、家訓を。後日ご一緒にいらした際に、柏木に伝わる次郎衛門よりの遺書を御渡しいたしました」
「次郎衛門の遺書? 私は御聞きした覚えがありませんが」

 御爺様からも聞いた事のない話だった。
 いいえ、そもそも柏木が次郎衛門の子孫だとは教えられなかった。

「柏木当主となられた方のみが知る、秘事に御座いますれば」
「ですが。私が当主になりました折にも、御教え下さいませんでした」

 当主にしか伝えられない重大な秘密が、まだあったの?
 その遺書が、耕一さんが去ろうとしている原因なの?

「叔父様より、御子息の亡くなられた場合のみお伝えするようにと、申し使って折ました」
「どのような内容なのでしょうか?」
 私の問いに、和尚様は首を横に振られた。
「御当主のみが御目を通されます。内容は私にも。しかし、御目を通された御爺様、お父様や叔父様も、御悩みのご様子でした」

 御爺様達を悩ませた、柏木の秘事?

「それを御見せ頂けませんでしょうか?」
「申し訳、御座いません」
 和尚様は再び深く頭を下げられた。
「どうしてですか? 当主は私です」
「当寺にはすでに。一読され、後には残さぬと仰せになり。持ち帰られました」
「耕一さんは、当主ではありませんのに」
 私は気が抜けた途端、再び襲って来た睡魔に額を押え息を吐いた。

 いったい、何が書かれていたの?
 五百年の長きに渡り伝えられた遺書、余程重要な内容に違いなかった。
 次郎衛門の遺書なら、耕一さんは見る前から内容を知っていたのかしら。

「もう辛酸はなめ尽くしたと仰せになり。知らせぬよう厳に言いつかりまして。誠に申し訳ない」

 私に知らせないように。

「和尚様、お願いいたします。どのようなお話をなさったのか、御教え下さい」
 私は礼儀も忘れ、和尚様に詰め寄った。
 耕一さんの考えを知る、ヒントぐらいは得られるかも知れない。
「しかし……」
 和尚様は目を逸らし黙り込まれた。
 幼い時から親しくお付き合いして来た和尚様が初めて見せた苦悩に歪む表情が、私に眠気を一時忘れさせた。
「お願いいたします」
 私は座り直し、両手を突き頭を深く下げた。
「…御手を、お上げ下さい」
 深い嘆息と供に諦めを含んだ声音が聞こえ、私は顔を上げた。
「お帰りの後。家系図と過去帳と供に、貴方の近況をお送りいたしておりました」
「私の?」

 家系図と過去帳?
 では、耕一さんは発現について調べていた?
 でも耕一さんは、私に発現について質問していたのに。
 それにどうして和尚様に、私の近況を?

「自らを両刃と申されましてな」
「両刃? 耕一さんが?」
「貴方には、叔父様御一人を支えとなした時が長過ぎたと仰せになり。しばし別れ、時を置くが良いと仰せでした」

 叔父様の支えが長過ぎた?
 別れて時を置く?

「柏木が責務、果さんとなさった貴方。あの御方を支えとするに、いらぬ責めを負うていては、支えにはならぬ。とのお考えのご様子」

 あっ。

「…ご存じ、なのですね?」
 小さく頷いた和尚様は、固く目を閉じられていた。

 私が耕一さんに手を掛けてたのを知っていらしたから、和尚様は、耕一さんに全てを託された。
 耕一さんは帰る前から、私が手を掛けたのを気にしないように考えて。
 では連絡が途切れがちだったのも、こちらに顔を出さなかったのも、記憶だけではなかったの。
 私が気持ちの整理を付ける時間を考えて、連絡しなかった。
 でも、叔父様の支えが大き過ぎたと言うのは?

「和尚様、支えが大き過ぎるとは?」
「愚考いたしまするに。貴方の行く末を案じておられたと。大き過ぎる支えをなくさば崩れましょう。強き心求めんが為、疎遠になされたと御見受けいたしました」
 私の問いに答えられた和尚様は、小さく嘆息して私に向き直られた。
「一人を支えとするに、迷いあらば崩れ去らんを御案じと承(うけたまわ)りました」
 私は唇を噛み締め、項垂れた。

 やっと判った。
 楓の言っていた、何かが、何なのか。
 耕一さんは、あの時。
 会長室で私が許せない筈だと言った時、部屋を出て行った。
 あれは、最後の賭けだった。
 私が耕一さんを信じ部屋に行くか、信じ切れずに部屋に来ないか。
 私は、行かなかった。
 私が手に掛けた罪の意識を感じ続けているようでは、リズエルの記憶を取り戻せば崩れると考えて。
 私が耕一さんを信じていなかったから、記憶を取り戻せば耐えられないと。
「私のせいで」
 それで、梓と楓に頼んで。
 信じられていないと知りながら、耕一さんはどうして。

 睡魔より深い後悔に、私は片手で口を押え滴る涙を見詰めた。

「ご自分を御責めになるのは、御止めになられる事です。過ぎた時を悔やんでも、戻らぬのですから」
「…ですが…耕一さんは、今も。…私が信じられなかったばかりに」
「いいえ。貴方のみの為とは思えません」
 深く息を吐き自分を責める私を見据えた和尚様の瞳は、私を叱るように厳しかった。
「では、他に何が?」
「柏木の悲劇、終らせると仰せでした」
「…悲劇…を?」

 五百年も続いた悲劇を終らせる?
 でも、耕一さんが居なくなっても私達がいる。
 私達の子供に鬼の血が残れば、耕一さんが居なくなる意味などないのに。

「柏木の過去、現在。未来、一身に背負うていかれるおつもりでしょうな」
「ですが……」
「貴方は現在であり、未来でも御座いましょう?」

 私が柏木の悲劇の現在と未来?

「どうして、一人で背負おうなんて」

 耕一さんが一人で背負うものじゃない。
 私が必要としている程、耕一さんには、私が必要じゃないの?

「あの御方、支えられるとお考えか?」
「…和尚様?」
「誰より御判りと思いますに。今より更なら重荷背負うには、重過ぎましょう」

 私には、耐えられないと?
 私が妹達に背負わせたくなかったように、耕一さんは私に背負わせたくなかったの?

「私では、耕一さんを支えられないと仰るのですか?」
「あの御方、深き懊悩を御抱えと御見受けいたしましたが?」
「…はい」
「過ぎし日、叔父様より心凍らせる。とお聞きいたしております」
「……はい」

 叔父様が、和尚様にそんな事を。

「凍った心は、砕けましょうな」

 私が、砕ける?
 壊れないよう、心を凍らせたのが間違いだと言うの?

「御判りになられぬか?」
 私は頷くことしか出来なかった。
「水は砕けぬが。氷は砕けましょう」
「ですが和尚様。耕一さんは、父とも叔父様とも違います」

 そう耕一さんは、力を制御した。
 もう心を凍らせる必要はないのに。

 ふっと息を吐くと和尚様は、小さく頷かれた。
「故(ゆえ)に心は溶けたと仰せか? されど、偽りに心を凍らせられた身。新たなる責め在らば、いかがなされる?」

 私には、凍らせるしかない。
 そうやって、今まで生きて来たのだから。

 答えられない私に、和尚様は眉をしかめられた。
「叔父様は、一時なりと温めることを望まれた。されど、あの御方、自らが為に凍らせぬようになさるおつもりかと」

 凍らせないようにする?

「…心を凍らせては、いけなかったのでしょうか?」
「いいえ。そうせねばならぬ要あっての事。されど。あの御方、凍らせておいででしょうかな?」
「…いいえ」

 耕一さんの心は凍ってはいない。
 あの人の心は温かいまま。

「では、今の貴方は凍っておいでか?」
「…いいえ」

 耕一さんが温めてくれたもの。
 でも。

「あの方が凍られれば、誰が温められましょうな?」
 私は和尚様に顔を向けていられなかった。

 私は、温められているだけ。

「支え合うとは、かようなるかと存じまする」
「…はい」

 和尚様の仰る通りだ。
 支えられているだけだった。
 私は支えられているだけで、耕一さんを支えてはいない。
 今の私では、耕一さんの重荷になるだけ。

「話し合われることですな。背負うも一人より二人の方が、荷は軽くなりましょう」
「…はい」
 私は柔和な笑みを浮かべた和尚様に頭を下げ、背を戸口のもたらした。

 私は、また耕一さんを見謝っていた。
 これから生まれ来る柏木の者から悲劇を無くすことまで、耕一さんは考えていた。
 現在の苦しみを支えるより、耕一さんは未来に続く苦しみを絶つ道を選んだ。
 制御出来ない鬼が居なくなった今、自分一人が背負えば、苦しみを絶つ事が出来ると信じて。
 梓に自分が居る間に話をさせたのも、私が心を偽らないように、偽れないようにしようとしたの?
 私は何もしていない。
 柏木に縛られて、何も変えようとはしなかった。
 耕一さんが鬼を制御したのに安心して、私は自分の不安だけしか見ていなかった。
 愛しているといいながら、愛して欲しいと子供のようにせがんでいただけ。
 私の心の弱さが、耕一さんを追い詰めた。

 あの瞳。
 闇を固めたような暗い瞳。
 見ている私まで、胸が苦しくなる悲しく冷たい瞳。
 二つに割れた心。
 いいえ。
 二つの魂の狭間で、耕一さんの魂は凍っているのかも知れない。
 私は凍らせたけれど、耕一さんは凍らされた。
 次郎衛門という、もう一人の自分に。
 魂まで凍らせながら、温かい心を持ち続けるのに、どれ程の苦しみを乗り越えて来たの?
 あの人の痕は、どれ程深いの?
 独りで、どれほど深い痕を抱え続けるつもりなの?

 でも、耕一さんの瞳は澄んでいた。
 暗く悲しかったけれど、耕一さんの瞳には後悔はなかった。
 どうして耕一さんが確信しているのかは、判らない。
 でも自分の行動が、私達の将来に落す影を払うと信じているのは確かだ。

 話しが終り緊張の糸が切れた怠い身体と、薄く靄のかかった頭で、私は大きな力が現れ近付いて来るのを感じていた。

陰の章 十二章

陰の章 十四章

陽の章 十三章

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