陰の章 十二
耕一の大きな背中を、扉がゆっくりと隠した。
あたしは耕一の背中が見えなくなって寂しく感じている自分を励まし、大きく息を吐き出しながらソファに倒れ込んだ。
耕一が話してくれた千鶴姉が背負って来た重荷は、あたしには想像も付かない重過ぎるものだった。
自分の馬鹿さ加減と、千鶴姉の足元にも及ばない自分の小ささに、あたしは自信を失いかけた。
でも、そんなあたしに耕一は、自分がいない間、千鶴姉を支えられるのはあたしだって言ってくれた。
自分自身より大切にしてる千鶴姉を、耕一はあたしになら支えられると信じて自分の知ってる事を、全部話してくれた。
あたしを好きにはなってくれなかったけど、耕一は大きな信頼をあたしにくれた。
耕一のお蔭で、千鶴姉がどんな思いをして生きて来たかは、良く判った。
母さん。
あたし達置いてっても、父さんと死んだ方がマシな程、苦しんで。
でも千鶴姉は、同じ苦しみを味わいながら、温かい笑顔を作って、あたし達を護ってくれてた。
あたし達父さん達が死んで、叔父さんのお蔭で、人並みに暮らせる様になったと思ってたのに。
なのに、その叔父さんまで、千鶴姉が殺さなきゃならなかったなんて。
千鶴姉、どんな気持ちで叔父さんと毎日顔を会わせてたのかな?
朝起きる度に、昨日は大丈夫だったって安心して、今夜は大丈夫かって心配してたのかな?
千鶴姉だけ、安心して暮らせる人並みな生活から、遠いとこにいたなんて、全然気付かなかった。
耕一が叔父さんとおんなじで、あたしが千鶴姉なら、そんなの耐えられない。
せめて楽に死んで欲しいって思っても、当然だよ。
耕一が千鶴姉を好きになって、楽にしたいって思っても、当然だよ。
耕一が恨む筈ないじゃんか。
千鶴姉の苦しさ知ってた楓も辛かったと思うけど。
千鶴姉、一人で抱え込んで、楓には弱気見せなかっただろうしな。
みんな揃って家で食事するのなんか、普通の生活じゃないか。
それが、叔父さん殺したって噂されてても、幸せだなんて悲し過ぎるよ。
「…ばか」
小さく呟き自嘲の笑みに歪んだ顔を両手で覆い、あたしは擦り過ぎてひりひりする熱い目を、また擦った。
耕一に恨まれてるなんて思う千鶴姉も、千鶴姉置いて出て行こうとした耕一も、二人共大馬鹿だよ。
でも、もっと馬鹿なの、あたしだよっ!
あたしは、耕一にも楓にも負けてる。
耕一は、たったの二週間、家に居ただけで千鶴姉の辛さや苦しさ、家の事情を知り尽くしてるって言うのに。
あたしと来たら、十八年も一緒に暮らして来たって言うのに、家の事どころか、毎日作ってる食事が喉を通らなくなるほど千鶴姉が苦しんでたのも気付かなかった何て、情けなくて涙も出やしない。
楓は楓で、普段はボォーとしてるのに、あたしの話聞いただけで、千鶴姉と耕一、ちゃんと上手く行く様にしたっていうのにさ。
耕一だって二コしか歳違わないし、楓は妹なのに、あたしは泣き付いて。
それでいて、家で一番しっかりしてるつもりだったんだから、我ながら呆れたもんだよ。
あたしだったんだ。今の千鶴姉の一番の心配って。
心配掛けるなって、耕一が泣いて頼むわけだよな。
言えないよな。
力使って人に怪我させたら、殺すなんてさ。
ふぅ〜と息を長く吐き出し、あたしはゴロンと身体を横向け膝を抱えた。
佐久間さん、言ってたの本当だったな。
耕一の奴、ぐ〜たら寝てるだけかと思ったら、まるで別人みたいに立派になってんだ。
抱えた膝に顔を埋め、あたしは頬を流れる涙を擦り付けた。
あたしが好きになった男の子は、立派に成長して大人の男になって、あたしを追いてっちゃた。
耕一は、千鶴姉しか見てない。
千鶴姉の背負って来た苦しみや辛さ知ったら、誰だって助けたくなるよ。
好きなら余計そうだ。
きっと耕一は、千鶴姉助けたくて大人になったんだ。
千鶴姉支え様として、千鶴姉をどうやったら幸せに出来るか考えに考え抜いて、苦しんで大人になったんだ。
そうでなきゃ、たったの三ヶ月で、あんなに深く千鶴姉のこと判るはずがない。
耕一は千鶴姉に相応しい男になるのに、立派な男になったんだよな。
耕一は好きだから、千鶴姉と同じ所まで昇って行ったんだ。
誰かを好きになるには、その人とおんなじ位あたしも立派な女にならないと、だめなのかな?
あたしにも、あたしだけを見てくれる人って出て来るのかな?
そんな人に出会えるなら、あたしも立派な女にならないとな。
耕一の奴が、あたしを好きにならなかったの、悔しがるぐらい、いい女にならないと。
よっとかけ声を掛けてソファから横向きに転がる様に立ち上がり、あたしはうぅ〜んと背伸びをした。
これからだよ。
まだ千鶴姉より五コも若いんだ。
耕一ぐらいノシ付けて、千鶴姉に譲ってやるよ。
威勢良く笑ったつもりが、あたしの口からは、乾いた力の抜けた声が洩れただけだった。
腰に手を当て、あたしは床に向かいふっと息を吐き出し、ソファに座り直し腕を組んだ。
どっちにしろ、もう昔の事だし、千鶴姉だって耕一が付いてるんだから、これから今までの分まで幸せになれるよ。
耕一の卒業まで、あたしは、あたしに出来る事やるだけだ。
でもな、今のあたしに出来る事って、やっぱり家事だよな。
千鶴姉に負担かけない様に、家をしっかり守って、頭に血が昇る性格直さないと。
勉強も頑張って、大学落ちない様にしないとな。
千鶴姉の事だから、父さんや叔父さんの話し聞いたショックで落ちたって思い込まれたら困るからな。
そう考えてると、お腹が妙な音を立てた。
あたしって奴は、落ち込んでたのが少し浮上したら、もうお腹が減って来た。
まあ、健康な証拠か。
自分の正直すぎるお腹に情けない気持ちで頭を掻き、あたしはテーブルからルームキーを取り上げ、ジャンバーを手に立ち上がった。
腹が減っては戦は出来ぬってね。
お腹が空いてたら、いい考えも浮かばないよな。
自分に言い訳しつつ、あたしは部屋を後にエレベーターに向った。
エレベーターでレストランが軒を並べるフロアで下り、あたしの足は店の前ではたと止まった。
耕一の奴、確か部屋を借りたままにしとけるかって、言ってなかったか?
手にしたキーをジッと見詰め、あたしは身体から力が抜けた。
キーはお客さんが使うメインじゃなく、職員が使うサブだった。
これじゃ、キー見せて清算出来ない。
当然だが高級で売ってる鶴来屋に入っている店は、それなりに高級店が多い。
これも当然だが、そういった店は美味しいけど値段も美味しい。
ジャンバーに財布は入ってるけど、高校生のこずかいじゃ、ちょと苦しい。
耕一の奴、何が飯でも喰ってゆっくりしろだ!
あいつは、なんであたしには気が回らないんだよ!
金ぐらい置いてけよな!!
キーを握り締め怒鳴りそうになったあたしは、口を拳で押さえた。
いけない、いけない。
カッとなる性格直すって、決めたばっかなのに。
「なんだよ!」
いきなり後ろから肩を突かれ、あたしは振り返った。
驚いた様な顔で立っていたのは、佐久間、弟の方だった。
周囲を見回すと、通路の真ん中で拳を握り締めて百面相をしていたあたしは、注目の的だった。
行き交う人が、あたしの怒鳴り声で好奇の視線を送りながら歩いて行く。
「えっ、と。ごめん」
好奇の視線にさらされ、恥ずかしさにカッと真っ赤になったあたしは、俯き小さく謝った。
どう考えても、通路の真ん中で突っ立てたあたしが、いきなり怒鳴り付けたのが悪い。
「いいですけど、どうかしましたか?」
「いや、そのちょとね」
ノホホ〜ンと返した賢児さんに気を悪くした様子はなく、あたしは照れ隠しに後頭を掻いて、ははっと笑って見せた。
「まあ、見てる分には面白かったですから」
周囲の視線も気にせず、賢児さんはあたしをムッとさせる一言を、首を傾げながら口にした。
「あたしは、面白くないよ」
「いやぁ〜、新手のパホォーマンスかと思って。違いました?」
「あんたね」
あたしは握った拳を震わせ、賢児さんの顔の前に突き出した。
「ただの冗談ですよ。海外じゃ結構在るけど、日本じゃ見ませんし。それに」
「それに何だよ」
カッカするなと自分に言い聞かせ、あたしは意味有りげに言葉を切った賢児さんを睨み付けた。
「海外の一流ホテルの中でそんな事やったら、ホテルから追い出されますからね。鶴来屋は一流ですから、ね?」
「うっ」
小首を傾げニヤッと笑われ、あたしは言葉に詰まった。
最近スランプだ、口で勝てない。
「まっ。このフロアに居るって事は、食事ですよね。一緒にどうです?」
「えっと、それが……」
言えるか!
この間は服が泥んこで、今日は金がないなんて。
どんな生活してるのかと思われちゃう。
「ああ、食事は済まされましたか?」
「あっ、うん。まあ」
あっ、それでいいか。
なんとかこの場を切り抜けられそうで、あたしは後頭に手を置き、ははっと愛想笑いを洩らした。
「いやぁ〜。レストランの前で苦悩されてるもので、財布でも落されたのかと思って」
楽しそうに笑われ、あたしはグッと拳を握り締めた。
どう考えてもからかわれてる。
「さてと、冗談は置いといて。中華なんかどうです?」
「へっ?」
笑いを引っ込め急に優しく尋ねられ、あたしは間の抜けた声を出した。
「何か手違いがあった様ですね。ルームキー見詰めてたでしょ?」
最初から見てたのか、こいつは?
はなっから、あたしをからかって楽しんでたのか!?
「遠慮はいりませんからね。口止めって事で」
「口止めだ?」
「こないだの話、兄貴には内緒にして貰えますか?」
あたしは急に下手に出た態度を不信に思い、眉を潜め斜に構え賢児さんを睨んでやった。
「話しすぎたのバレるとマズいんですよ。頼みます」
「ほぉ〜。そりゃいい事聞いた。お兄さん、どこかな?」
あたしは、わざとらしく辺りを見回した。
「いませんよ。今だと、旅館組合かな」
「ちっ!」
あたしは舌打ちしつつ、賢児さんに向き直った。
「じゃあ、仕方ないから。おごらせて上げる」
「じゃあ、そう言う事で」
冗談半分に偉そうに胸を張って見せると、賢児さんは中国料理の店に足を向けた。
予約が入れてあった様で、店に入るとすぐ赤を基調にした派手な個室に案内された。
あたしはテーブルに着いて店の人が部屋から出て行き、賢児さんと二人だけになってから少し後悔した。
個室に男の人と二人だけなんて、叔父さんとぐらいしか経験がないから、なんか気恥ずかしい
「いいの。お兄さんの席じゃなかったの?」
「いいんですよ。兄貴から戻れないって、連絡がありましたから」
あたしは何となく落ち着かなくて、照れ隠しに部屋の中を見回していた。
「あっ。これって経費って奴かな?」
照れてる自分を胡麻化そうと、あたしは勤めて明るく声を上げた。
「ええ」
小首を傾げた賢児さんは、軽く首を縦に振った。
「じゃあ、あんたのおごりじゃないんだ」
「まあ、そう言わず。出て来る料理は、一緒ですから」
「まあね。それもそうだし、勘弁してやるか」
ははっと笑い、あたしはすがめた目を向ける。
「よろしく、お願いします」
佐久間さんは深々と頭を下げる。
冗談半分なのはわかってる。
けど、あたしは照れも忘れ、ちょとムッと来た。
こないだもお兄さんに頭下げてたけど、卑屈じゃないのか?
「あんたね。男が軽々しく頭下げるんじゃっないって」
「軽くはないですよ。お願いしてるんですから」
「こないだだって、お兄さんに頭下げてたじゃない。見舞いの一や二つでガタガタ言われて、頭に来ないの?」
どうも叔父さんと同じ名前のせいで、こいつが卑屈だと腹が立つんだよな。
でも、そんなあたしの言葉に、賢児さんは苦笑を浮かべた。
「あれは、兄貴が貴方と事務員さんに見せたんですよ」
「見せた? 弟、叱るとこを?」
「ええ。佐久間は鶴来屋に、これだけ礼を尽くしてますってね。上手くすれば会長には貴方から、事務員さんから社長の耳に入るでしょうからね」
眉を潜めて聞き返したあたしは、言葉が出なかった。
そんな事まで、計算してやってるのか?
「あっと。これも兄貴には、秘密ですよ」
「あんた、腹立たないの?」
あたしなら腹が立つよ。
弟人前で叱り付けて、取り引き相手に好印象与えようなんて、あたしは道具じゃないって。
「立ちませんよ。兄貴のやる事には、必ずちゃんとした理由がありますから。考えれば判ることです」
平然とそう言った賢児さんの微笑みには、お兄さんへの信頼が溢れていた。
「お兄さん、信じてるから?」
「ええ。貴方も御姉さん信じてるでしょ?」
あたしは力が抜け、こくんと頷いた。
この人、お兄さんが間違った事してないの信じて、怒る前に言葉の裏とか行動考えてるんだ。
あたしも千鶴姉信じて行動とか言葉考えたら、千鶴姉の事もっと判るのかな?
耕一に出来たんだ、妹のあたしに出来ないはずないよな。
「こういうやり方って、俺も好きじゃないけど。兄貴の事、悪く思わないでやって下さい。貴方にも判ると思いますけど、兄貴には失敗は許されないんです」
「あたしに判るって?」
「御姉さんと一緒ですよ。社員の生活がかかってますから。副社長の兄貴の失敗は、何人か何十人かの社員と家族が、路頭に迷う事になりかねませんから」
あたしは、一瞬目の前がスッと暗くなった気がした。
千鶴姉と一緒?
千鶴姉が失敗すると、何人かの鶴来屋の人と家族が路頭に迷う?
あたしは、そんなの考えた事もなかった。
潰れなくても人員整理とかになったら、そうなるのか?
漠然と大変だろうとは思ってたけど。
千鶴姉、あたし達だけじゃなく五百人からの生活支えて。
千鶴姉、一体どれだけのもの一人で支えてんだよ?
千鶴姉は、どれだけの重さ支えれば、いいんだよ!?
あたしはスッと差し出されたハンカチを見て、落していた視線を上げた。
賢児さんは困った顔で、立ち上がるとハンカチをあたしの頬に当てた。
あたしはその時になって、自分が泣いているのに気が付いた。
§ § §
何年振りかしら?
深い眠りから目覚めた私は、ぼんやり開いた瞳に優しい笑みを映し、何年もの間感じた事のない静かな安らぎに戸惑いを覚えた。
ずっと忘れていた安らぎ、不安も、辛さも、眠りから覚めてもなにも心を痛めない、目覚め。
現実から逃げ、眠りの中でだけ許された束の間の安らぎより、遥かに温かく穏やかな目覚め。
子供の頃、まだ鬼も何も知らなくて、両親に甘えていた頃に感じた、再び眠るのが勿体ないほど穏やかで満ち足りた爽快な目覚め。
私を見詰める優しく温かい眼差しが、力強い腕に抱かれ泣いた夜明け前、魂さえ熔かした熱く甘やかな抱擁を蘇らせる。
耕一さんは知っていた。
柏木の家訓も、叔父様の事も。
それなのに、私を疑ってもいなかった。
あの蒼い月の夜。
私は胸の痕を確かめる為、耕一さんの部屋を訪れた。
痕を確認するだけなら、他に方法も在った。
でも私は、あえて耕一さんに裸身を曝し、誘惑する方法を取った。
柏木の鬼の血を確実に残すには、耕一さんと私達姉妹の間の子供が必要だったから。
裸身を曝すのにも躊躇いはなかった。
心を凍らせた私には、羞恥心など無縁だった。
でも私が凍らせた心を、耕一さんは熔かした。
そして、私は鬼の血を残すという考えが、言い訳なのに気付いた。
愛してしまえば辛いから。
叔父様と耕一さんを、重ねているだけだと自分に言い聞かせていたのに。
耕一さんを耕一さんとして愛したら、辛くなるから。
でも、私は愛していた。
耕一さんに愛されたかった。
死に行くかも知れない耕一さんに、最後に温めて貰いたかった。
一度だけでも、愛した人の胸に抱かれたかった。
その想いが、私に義務を言い訳に耕一さんを誘惑させた。
私は自分の想いさえ、言い訳を利用しないと叶えられなかった。
そして私の願いを受け入れ、その腕の中で温めてくれた耕一さんの胸には、痕があった。
私は、耕一さんの命を絶たなければならなかった。
死に行く愛した人の全てを欲した私に、耕一さんは躊躇いながらも、願いを受け入れてくれた。
まだ学生の耕一さんが妊娠の心配をし、躊躇ったのは当然だった。
耕一さんには、私との結婚など考える以前の突然の出来事だったのだから。
でも、私は子供が出来なくても、耕一さんの全てを受け入れたかった。
子供が出来、同じ苦しみを味わうにしても、耕一さんとの子供ならいいと思えた。
義務ではなかった。
でも、それは私の勝手な想い。
柏木の家訓を知り、血を残す義務を知った耕一さんに、信じて貰えるとは、思えなかった。
羞恥の欠片も見せず裸身を曝し子供を欲しがった私を、果たすべき責任の為に誘惑しただけだと蔑まれても、私のした事には当然の報いだった。
それなのに血を残す義務を知りながら。
全てを話し許しさえ請わなかった私を、耕一さんは信じてくれていた。
叔父様を殺さねばないと知りつつ暮らした、八年間の苦しみさえ理解し詫びてくれさえしていた。
耕一さんが謝る事ではないのに。
私はいくら謝り許しを請おうとも許されないほど、愚かな行為を繰り返したと言うに。
その私を信じ、自らの痛みの様にさえ感じてくれている。
耕一さんと出会う為に八年間の苦しみがあったのなら、私は、もう十分報われている。
眠りから覚めた安らぎに、ちくりと微かな痛みが刺を刺した。
でも、私はまだ告げていない。
私が犯した最大の罪を。
いま耕一さんに告げれば、耕一さんをも苦しめてしまう。
スッと影を落した安らぎが、微かな肌寒さを感じさせた。
その時になって、私は寝顔とシィーツから覗く胸元までを、明るい部屋の中で耕一さんが眺めていたのに気が付いた。
耕一さんは今更という顔をするけれど、やはり明るい所では肌を曝す恥ずかしさが先に立って、私の頬は熱くなった。
「耕一さん。ずっと見ていたんですか?」
シィーツを引き上げ熱くなった頬を隠し、私は静かな笑みに非難を込めて問い掛けた。
耕一さんは困った様な微かな笑みを頬に浮かべ、座っていた椅子から立ち上がると、私に手にしたグラスを差し出した。
「梓の様子を見て来た。元気そうだったよ」
グラスの影になった耕一さんの言葉に安堵の息を吐き、私は穏やかな笑みを浮かべる耕一さんからグラスを受け取り、乾きを訴える喉を潤した。
梓が自分を責めすぎていないかが心配だった。
現実的なあの子の事だから、元気になるのは早いとは思うのだけれど。落ち込む時は、とことんまで落ち込む子だから。
「私も、ちゃんと梓と話さないといけませんね」
梓にも、今まで黙っていた事をちゃんと謝らないと。
「もう少し休んでからね。梓も疲れてるだろう」
梓に会いに行こうと身体を起こしかけた私は、手で止められふたたび身を横たえ、耕一さんに促されるままグラスの水を口にした。
起き上がり乱れたシィーツを、耕一さんは掛け直してくれる。
子供の頃、病気で寝ていた私に、御母様や御父様が心配そうに掛け直してくれ様に。
耕一さんにかかると、私は小さな子供の様だ。
くすぐったい様な心地好さに身体から力を抜き、私は耕一さんに言われた通り時間を置く事にした。
昨夜梓の受けたショックは、計り知れない。
時間を置き、落ち着くのを待った方がいいのかも知れない。
今私が顔を出せば、梓が私を責めるにしろ、自分を責めるにしろ、梓を精神的に不安定にさせるだけかも知れない。
「もう少し眠った方がいいな。まだ顔色が悪い」
言いつつ添えられた手の温かさが頬に伝わり、自然に頬に笑みが浮かんだ。
「耕一さん。そんなに私の寝顔って、面白いんですか?」
サイドテーブルにグラスを置きながら、私は耕一さんを睨んで見せた。
私が恥ずかしがるのを承知で、いつも目が覚めると耕一さんは私の寝顔を眺めている。
「面白くはないよ。見飽きないけどね」
ベッドを軽く揺らし腰を下ろした耕一さんは、身を捻る様にして私の顔を覗き込む。
「必ず、先に起きてますよね?」
恥ずかしがらせて喜んでるとしか思えないんだけれど。
「今は綺麗に澄んだ瞳が無くなってたら、どうしたらいいかなって。考えてた」
「瞳?」
瞳がなくなるって?
「ずっと泣かしてるから、溶けて流れてないかなって」
「もう、そんなに泣いていません」
楽しそうに言われ、私はシィーツで顔を隠し、むくれて言い返した。
赤ちゃんじゃなし。
「そうかな。シャツが何枚あっても足りない気がするけど」
でも耕一さんはシャツを摘まんで見せ、困った様に眉を潜めた。
言われてみると、耕一さんのマンションに行ってから、会うたびに泣いてる気が……
「そんなに泣きます?」
耕一さんを見上げながら、泣き虫な子供みたいじゃなかったか不安になって尋ねた私の額を、耕一さんの指がなぞり頬に当てられた手が慈しむ様に頬をなぞった。
「涙が枯れるなんて、ないから。泣く時は涙を流して。涙を流さず泣かなくてもいい。今まで流さず泣いた分。これから流せばいいんだから」
私を見詰める瞳に浮かんだ優しい光が、私の瞳をまた潤ませる。
ええ、いつも私は泣いていました。
両親を亡くした時、妹達を励まし、私は泣いてはいけなかった。
叔父様を亡くした時も、私は泣く訳には行かなかった。
笑顔を作りながら、本当は泣きたかった。
仏壇の前で、自分の部屋で、妹達に気付かれないよう、声を殺して泣くしかなかった。
声を上げて泣きたいだけ泣いたら、私は崩れてしまうから。
泣いてしまうと、私は妹達を支えられなくなるから。
泣けば泣くほど悲しく辛くなるのを知りながら、独りの部屋で、心の中で泣き続けるしかなった。
耕一さんが、その胸で泣かしてくれるまで。
でも私は、耕一さんにそんな話しはしていない。
「耕一さん。どうして私が、涙を流さないで泣く。なんて、思うんです?」
心を裸にされた恥ずかしさより、悲しみを理解して貰える嬉しさに、私は耕一さんに頬に浮かんだ笑みを向け尋ねた。
でも、耕一さんは微笑むだけで答えてくれない。
「どうしてですか? 意地悪しないで、教えて下さい」
私は耕一さんの瞳を見詰め、腕を掴んで答を急かした。
私は知りたい。
耕一さんがどうして、私の教えていない私までを知っているのか。
それが判れば、私も耕一さんをもっと深く理解出来るかも知れない。
「愛してる。からかな」
私は耕一さんが何を言ったのか、一瞬判らなかった。
そして言われた言葉を理解して、かっと頬が熱くなった。
「もう耕一さんったら。顔色一つ変えずに、そんな事を言える様になったんですね」
優しく髪を撫でる手の感触で我に返った私は、耕一さんから身を離し、むくれてそっぽを向いた。
酷いわ。
私は真剣なのにからからうなんて。
「……変わった?」
「ええ。変わりました」
「そうだな……前とは…違う…」
「耕一さん?」
耕一さんの辛そうな声で、私は言っては行けない言葉を口にしたのに気付き、耕一さんの顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか? 私、何か悪い事でも?」
私は謝る事も出来ず、尋ねながら頬に手を添えた。
謝ってしまえば、割り切れず悩んでいる耕一さんを知っているのを教えてしまう。
知った上での慰めは、耕一さんの助けにはならない。
今の私に出来るのは、知らない顔で、以前の耕一さんと同じに接することしかない。
「…千鶴さんは、悪くないよ。本当の事だから」
苦しげな表情で口を開いた耕一さんは、声を絞り出すように低く呟いた。
頬に添えた手を握った耕一さんの手は、小刻みに震えてさえいた。
「…耕一さん?」
私は不安に駆られ、耕一さんを呼んだ。
今までと違う。
「二月程前からかな、知り合いと話してると聞く。柏木だよなって。全然知らない人を見る目で見て。俺だって確認するのに名前呼んで。鋭い奴もいたな。見た目は俺だけど、中身が違うって」
「どうして、そんな」
握った私の手を頬に当てた耕一さんの話に、一瞬私の目の前は闇に覆われ身体から力が抜けた。
そんな、私達の前では、耕一さんは前と変わらなかった。
親しい人達には判るほど、影響を受けていたなんて。
自分自身を取り戻すまで、どれ程の苦しみに耐えて来たのか。
電話しなかったんじゃなかった。
家に来なかったんじゃなかった。
自分を取り戻すまで、電話も避けて。
家にも来られなかった。
そんなに苦しんでいたなんて、知らなかった。
「千鶴さん、そんな顔しないで。暫くすれば、また友達位出来るから。仕方ないんだ。あいつらの言う通りなんだから」
無理に作った笑顔を見ていられず、私は耕一さんの頭を胸に抱き寄せ両腕で抱き締めた。
「それじゃ。どうして泣きそうな顔をして、震えているんです?」
胸の中で震える耕一さんに、私は震えそうな声を押さえ、優しく問い掛けた。
もういい。
柏木も鶴来屋も、耕一さんが居てくれれば、どうでもいい。
初音や楓、梓の記憶が心配なら、二人でどこかで静かに暮らそう。
妹達ももう大人ですもの。
耕一さんが楽になれるなら、みんなに後を任せてどこかで静かに暮らそう。
「元は耕一のままでも、鬼と次郎衛門が居る。同じでは、いられない。梓や楓ちゃんが辛いのが判かってて、冷たく出来る。梓に言ったのも脅しじゃない。いざとなったら殺る。千鶴さんの知ってる、鬼の目覚める前の耕一は、もう居ない。だから……」
胸に響く慟哭を感じさせる声に、私は腕から力が抜けて行った。
「……耕一…さん?」
…い…ない?
…なに?
耕一さんは、ここにいるじゃないですか。
「梓と楓ちゃんが、助けてくれる。もう一人じゃないだろ? 千鶴さんは、幸せになれる」
胸から顔を上げた耕一さんの頬は涙で濡れ、震える唇が刻んだ言葉は、深い悲哀に凍て付いていた。
耕一さんの手を頬に当て、見詰めた耕一さんの瞳は暗く光りを無くし、闇を固めた氷の様に底知れぬ虚無を思わせた。
「…なに…を…いって…るんです…?」
私は、幸せに?
どうして私だけが幸せ?
二人で、幸せになるんでしょ?
「俺と居ても幸せになれない。千鶴さんが愛した耕一は、もういない。千鶴さんの愛した耕一は、俺じゃないんだよ」
耕一さんの静かな声が悲鳴の様に聞こえ、私は心を締めつける痛みに固く目を瞑り。震える腕を伸ばし、耕一さんを胸の中にしっかり抱き締めた。
「耕一さんは、耕一さんです。また一人で泣かせるんですか? また涙も流さず泣かせるんですか? 私を泣かせてくれる耕一さんは、貴方だけです」
私のために。
梓と楓に私の事を頼むために。
耕一さんはそれだけのために、帰って来ていた。
小刻みに震える身体を全身で包み込み、胸に抱きしめ頬を寄せた。
抱き締めた胸に温かな流れが伝う。
抱き寄せる身体より温かな心が痛みを伝え、私の心を軋ませる。
伝わる心を身体と一緒に包む様に、私は力の限り震え続ける身体を抱き寄せた。
抱き寄せ胸に擦り寄せられた頬が、温かい流れを胸に広げた。
不意に睡魔が、私の意識を闇へ誘い。
薄れる感覚が、胸に抱いた温もりを遠ざける。
胸に伝わる温かな心だけが、私と彼を薄れる意識で最後まで繋いでいた。
私だけの人………