陰の章 十一


 暖房を切った部屋が冷たく凍っていく。
 椅子に腰掛けた私の前には、机の上に一通の封筒が置かれている。
 チラリと視線を走らせた机の上で、時計の針がカチリと動き、十一時を示した。
 ふっと吐いた息が、薄く白く染まり消えていく。

 そろそろ、話が始まる。

 千鶴姉さんに話さなくて、本当に良かったの?
 耕一さんが梓姉さんに話した内容を、伝える訳にも行かなかったけど。
 落ち着いた様に見えても、思い込みの激しい千鶴姉さんの事だから、変な風に取って梓姉さんが耕一さんの事で怒って顔を出さないとも取り兼ねないし。
 梓姉さんも簡単にしか聞いていない様だし、最後まで冷静に聞いてくれればいいけど。
 耕一さんの考えが、私にはよく判らない。
 梓姉さんは、お父さんや叔父さんの話を知っているのに、どうして改めて千鶴姉さんに話をさせるの?
 梓姉さんの性格を良く知っている千鶴姉さんが、辛いのは知っている筈なのに。
 千鶴姉さん、思い出すだけでも辛いのに。
 話さなかった自分を梓姉さんが責めると思って、今頃千鶴姉さんは、辛さと不安に耐えているだろう。
 一体、耕一さんは……?

 小さく息を吐き、私は椅子から立ち上がり封筒を手に部屋を出た。

 久しぶりに耕一さんと千鶴姉さんも揃った夕食で、初音は嬉そうにはしゃいでいたし、明日は朝から出掛けると言っていたから、もう寝ている筈。
 可愛い妹を演じるのが、初音の本質にも合っているんだろうけど、そろそろ初音も、自分を主張する様にならないと。

 そう考え、私の頬は少し緩んだ。

 自分を主張しなさい、か。
 私の方が姉さん達に言われそうな、言葉。

 初音、リネット。
 エルクゥとしては優しすぎ、思い遣りに溢れた一番人に近かった妹。
 次郎衛門と暮らしていても、あの娘なら次郎衛門を恨んだりしなかった筈。
 鬼に目覚めれば、あの娘が一番思い出す可能性が高い。
 私以上に感覚の鋭い娘だったから。
 もっと大人になってから目覚めれば、私の様な想いはしなくて済むと思うけど。

 アズエル、梓姉さん。
 自由奔放で情に厚く、私達に優しかった。
 だけど、狩りと戦いが何より好きな、エルクゥでも指折りの戦士。
 耕一さんの危惧も、判らないでもない。
 今の梓姉さんと同じに、私達姉妹への愛情が人一倍強かった。
 私が死んだ後、アズエルが次郎衛門を憎まなかったとは、私にも思えない。
 まして耕一さんの話の様に、リネットをだまして一族を滅ぼしたのなら、梓姉さんにアズエルの激情が抑え切れるとは、とても……

 小さく息を吐き廊下から空を見上げると、白い月が、その孤独な美しい姿を天上に浮かべていた。
 美しく冷たい孤高の哀しい輝きは、千鶴姉さんの心の様に感じられる。

 リズエル、千鶴姉さん。
 今も昔も責任と義務に縛られ、自分を殺して生きている。
 冷え切った心を隠し、温かい笑顔を作って来た。
 その姉さんに、やっと心を隠さず済む人が現れた。
 そして、耕一さんも姉さんを愛している。
 辛くないと言えば嘘になる。
 耕一さんを幸せに出来るのが、私ではないのは哀しいけど。
 千鶴姉さんにも耕一さんにも、幸せになって貰いたい。
 耕一さんに取って、エディフェルは過去の想い出の中にしか存在しない。
 耕一さんは、柏木楓としての私を、妹ととしてしか見てはくれなかった。
 私を私として愛してくれる人が現れば。
 私も愛せれば、耕一さんの様に、過去の自分を振り切れるのかしら?

 居間のテーブルに封筒を置き、闇の中にスッと腰を下ろす。

 静かだ。
 時計が時を刻む音だけが、闇の中に広がる。
 心細く冷え冷えとした静寂を破る微かな音が、更なる寂しさを心に湧き起こす。

 身の震えは、気温の所為?
 それとも、心の寒さ?

 空虚な静けさが、心の中の凍えをいやが上にも自覚させる。

 千鶴姉さんが話してくれた。
 寒々とした耕一さんの部屋。
 幾夜も空虚な静けさの中に身を置き、孤独な寒さに耐えた耕一さんだから見えるの?
 千鶴姉さんの孤独が。
 私達が居てさえ、千鶴姉さんは孤独だった。
 独り重責に耐えながら、私達を支え、鶴来屋を支え。
 孤独な寒さに震えていた。
 耕一さんも、孤独に凍えている。
 深い苦悩に包まれ、独りで震えている。
 次郎衛門と同じに震えながら、耕一さんは次郎衛門とは違っている。
 あの人は、全てを捨てエディフェルと温め合おうとした。
 耕一さんは、全てを捨て孤独に生き様とした。
 千鶴姉さんは、耕一さんが強いと言っていた。
 私には、それが強さなのかは判らない。
 でも、耕一さんは寂しく哀しい人だと思う。
 独り孤独に耐える寂しさ辛さを知りながら、あえて独りで生きようとしていた。
 私には、耕一さんが今まで孤独だったから。
 叔母さんを亡くしてからの生活に戻るだけだから。
 耕一さんは、独りになる事を考えたと思えてしまう。
 エディフェルと出会うまで、次郎衛門が生きるのに疲れ、孤独に生きていた様に。
 次郎衛門と同じ孤独を耕一さんも抱えている。
 でも、耕一さんは孤独を知りながら、千鶴姉さんの苦しみを和らげる為、孤独に戻れるほど愛している。
 私が入り込む余地は、残されていない。
 千鶴姉さんへの想いが、耕一さんが耕一でいる為の、最後に残された絆なのだろう。
 だから耕一さんの孤独を和らげられるのは、千鶴姉さんだけ。
 私では、耕一さんを温める事は出来ない……

 静かに零れ落ちた雫は、膝に置いた冷たく冷えた手に、微かに温かかった。


  § § §


 思わず腕を掴み見詰めた耕一さんが、梓に向けた瞳は真剣だった。
 本気で梓を殺す気?
 梓にも、耕一さんの真剣さが伝わったのだろう。
 蒼褪めた顔を引きつらせ、目を耕一さんから離せないでいる。


 梓を交えた話の最初。
 梓が耕一さんに力を使った事を私がたしなめた結果、話は予期せぬ方向に向っていた。
 鶴来屋の部屋に残った痕は、その重量を受けたカーペットの見事な痕から、梓の力が完全に開放されていた事を物語っていた。
 毛足の短い繊維が押し潰され、本来臙脂に見える床がその部分だけ黒く色を変えている。
 良く床が抜けなかった物だと感心させられた。
 梓が来る前に受けた足立さんの報告では、梓が乱入したと思われる時刻、階下の部屋から地震もしくは爆発事故ではなかったかと、問い合わせが合ったそうだ。
 伝わった衝撃が大き過ぎて、上階で人が引き起こした結果だとは、誰も思わなかったらしい。
 耕一さんの危惧も、充分納得出来た。
 梓の力なら、通常なら身体を拳に貫かれていただろう。
 私は、梓に一応釘を刺すつもりで叱ったが。
 その私を止めた耕一さんの何げない質問に答えた梓の返事で、私と耕一さんは頭を抱えた。
 梓はオートロックされた扉を、いきなり破ろうと力を使っていた。
 ノックする分別さえ失っていたとは、思いも因(よ)らなかった。
 すぐ本題に入ろうとしていた耕一さんも、梓のあまりの無分別さに呆れ果て、梓の起こした行動の問題点と注意点を先に説明した。
 しかし梓には、私と耕一さんの二人掛かりで叱られていると思えたのだろう。
 反抗的に不貞腐れ始め、耕一さんの思いがけぬ言葉を引き出してしまった。

「梓、俺にお前を殺させる気か?」

 この一言で、梓は一気に腰を引かせ顔色を変えた。
 驚きに腕を掴んだ私の手に手を重ね、耕一さんは梓に瞳を据えたまま更に言葉が継いだ。

「お前が万ヶ一にも、力で人に重傷を負わせたり、死なせれば。警察に捕まる前に、俺が殺す」

 それは事実だった。
 でも、耕一さんの知らない事実の筈だった。
 柏木の血に潜む鬼を人々から隠す為、代々の柏木当主が負って来た責務だった。
 鬼を制御出来ない男子だけではない。
 力を振るい人を死にいたらしめた者。
 柏木以外で在っても、力を使い鬼の存在を世間に知られる様な行動を取った者を粛正し、闇に葬るのが柏木当主に課せられた責務だった。
 梓や楓、初音であっても例外ではない。
 一人の無分別な行動で、全ての柏木の血を引く者を社会から孤立させ、排斥させる様な事が在ってはならない。
 梓が人を殺めれば、楓や初音が人として生きて行く為にも、警察が介入し世間に知られる前に、梓を殺し闇に葬らねば成らなくなる。

 耕一さんの真剣な言葉に混乱し、泣きそうな顔で理由を尋ねた梓に答えた耕一さんは、柏木当主の責務を正確に捕らえていた。

「だからそうならないよう。貴方が警察に捕まる前に、誰かが闇に葬るしかなくなるわ」
 これ以上耕一さんの口から梓を殺すなどとは聞きたくなくて、私は口を開いた。
 私が耕一さんに殺すと告げた時の辛さを思えば、言葉だけでも、耕一さんにも梓にも辛い言葉の筈だった。
 そして、それは私の義務であって、耕一さんの義務ではないのだ。
 でも耕一さんは、あえて自分が行うと強調している。
 耕一さんは、本気だった。
 身を守る為には殺せなくても、私や楓、初音を護る為なら、耕一さんは梓であっても殺す気だと、私はその時感じた。
 私が負うべき責務を、耕一さんはその身で全て背負う気でいた。

 梓は自分の起こした行動が、妹達の人生まで狂わす結果を生む事を教えられ、唇を噛み締め項垂れた。
 私は席を立ち梓の隣に座り直し、固く梓を抱き締めた。

 好きな耕一さんに殺すと告げられ、妹達の人生さえ狂わす所だったのを知った梓の身体は、微かに震えていた。
 好んで手に入れた力ではないのに、私達が人として生きて行くには、背負うものが重すぎる力だった。
「鬼の血は、それ程重いのよ」
「ごめん、千鶴姉」
 弱い声で謝る梓を抱きながら、私は不憫で仕方がなかった。
 鬼の力さえなければ、梓も元気な普通の女の子で。
 いくら気が強くても、人を簡単に殴り殺す心配など無縁な筈なのに。

 耕一さんが何も言わずビールを渡すと、梓は受け取り飲み始めた。
「まあ、多少の事なら鶴来屋の力で何とかなる。そんなに深刻になるなよ」
「耕一さん?」
 これからの話の内容では、お酒の力も必要になるだろうと梓を止めなかった私は、耕一さんの言葉に驚き顔を上げた。
「その為の鶴来屋だろ? 政治家や弁護士。この街なら、いくらも揉み消す手はある。気を付けるのは、警察かな?」
 穏やかに微笑み首を傾げた耕一さんの言葉も、また事実だった。
 鶴来屋と相互利益のある議員や、警察関係者を使って柏木の秘密は護られている。
 両親の死が心中ではなく事故になっているのも、叔父様の死が疑惑を持たれながら、捜査本部も置かれず事故で処理されたのも鶴来屋の力だった。
「…ええ」
 多少なら大事にはならないと聞き、少し安心した様に頷く梓を見ながら答えた私は、耕一さんの知識に疑問を抱いた。

 梓に柏木当主の責務を語った耕一さんを、柏木に伝わる家訓を知っているのかと思っていた。
 でも鶴来屋は、今の時代、柏木の秘密を護り抜くには社会的な力が必要だと考え、御爺様が作られた物だった。
 次郎衛門の知識でも家訓を知っていても、耕一さんが知る由(よし)のない知識だった。
 私が御爺様から教え込まれた知識を、耕一さんは僅か三ヶ月の間に、自力で当主の義務だけはなく柏木を護る為に必要な手段さえを熟知している。
 信じられない程、耕一さんは私達を理解してくれていた。

 生活の為に働き、過去の記憶と戦いながら、どれ程の時間考え抜いてくれたのか。
 それを考えると、私はこの三ヶ月の間、不信感を抱き続けていた自分の浅はかさが恥ずかしい。
 恥ずかしさと申し訳なさで顔を上げられず、私は視線を床に落としていた。

 顔を臥せている内、梓はビールのお蔭で落ち着いて来たのか、唐突に自分を殺したら、耕一さんも警察に掴まるのではないかと言い出した。
 一般の人を傷付けるのと、身内を内々で処理するのでは、警察に知られる危険性には雲底の差が在るのだが。
 梓は、それにも思い至らないらしい。
 困った子だ。
 でも耕一さんは、その理由を男性が鬼化出来、自分だと誰にも判らない為だと説明した。
 あくまでも、自分が行う事の正当性を強調する為なのは明白だった。
 身内で処理する容易さを話せば、落ち着いて考えれば、私がしなければならない責務なのは、梓にもすぐに判っただろう。
 でも鬼化による判別不能を理由にすれば、私が行うべき責務なのに、梓が気付く可能性は低くなる。
 耕一さんは、私の負担を減らす事を第一に考えてくれていた。
 だが梓は、そんな耕一さんの配慮も知らず、調子に乗って鬼の姿を見たいなどと言い出す。
 耕一さんから鬼化すると力が梓を抑えた時の倍以上になると説明され、梓も流石に絶句した。

「梓、いい加減にしなさい。見せ物じゃありません」
 私も耕一さんへの申し訳なさに顔を臥せてばかりもいられず、顔を上げ梓を叱り付けた。

 立ち直りが早いのは梓の良い所だけど、すぐ調子に乗るのは困ったものだ。

「梓、少し待ってろよ」
「耕一さん?」
 少し考えスッと腰を上げた耕一さんを見上げ、私は後を追い腰を上げた。
「一張羅なんでな」
 耕一さんは梓にジャケットを指で摘まんで見せると、私に応えず足をベッドルームに向けた。

「まさか、梓に見せる気なんですか?」
 耕一さんを追い後ろ手に扉を閉めた私は、服を脱ぐ背中に問い掛けた。
「見せる」
「そんな。力の干渉が記憶を呼び起こすと言ったのは、耕一さんなんですよ」
 短い確固たる決意に満ちた返事に、私は言い募った。

 危険が大き過ぎる。
 もし力に共鳴し、梓の記憶が戻ったら。
 いいえ。
 記憶以前に、梓の鬼が大き過ぎる力に怯え暴走でもしたら、その力の向う先は、耕一さんに他ならない。

「流石に高級旅館は伊達じゃないよね。この部屋、防音は完璧みたいだ」
 呑気に返す耕一さんは、服を脱ぐ手を止め様とはしなかった。
「耕一さん!」
「話だけで、鬼の本性を理解出来るとは思えない」
 私の声に振り返った耕一さんは、真剣そのものだった。

 本質を理解するのは、確かに梓には無理だろう。
 私達が制御している力と、御父様や叔父様を襲った魂までを喰い散らす様な執拗で残虐な殺戮衝動では、次元が違う。
 でも、そこまでする必要が在るんだろうか?

「でも、危険です。もし記憶が戻ったら……」

 それに私は、耕一さんにそんな危険を侵して欲しくはなかった。
 万ヶ一の事態を考えれば、冷水を浴びせられた様に身体が冷え、胸で握り締めた手が震え膝から力が抜ける。

「すぐに完全に覚醒する訳じゃない。今なら何とか抑えられる。万一の時でも、怪我をさせない様に気を付けるから」
「…梓が心配なんじゃないんです。梓を傷付けられないのに、抑えられなかったらどうするんですか」
 シャツを脱ぎ捨てた耕一さんが頬に伸ばした手に、胸元で握り締めていた手を伸ばし、手の温もりに止めて貰えるよう懇願し、私は頬を擦り寄せた。
 頬を擦り寄せた手が強く握られ、後ろ髪に絡めるように伸ばされた手が、私を強く胸に引き寄せる。
「心配してても始まらない。遣って見るさ」
 私を安心させようとするように後ろ髪をなぶり、首筋を撫でる手が動き、私は胸から顔を上げた。
「耕一さん。私の言う事、全然聞いてくれないんですね」

 私には判らない。
 耕一さんが命まで掛けて、梓に何を伝え様としているのか。

「ごめん」
 手を離し背を向けた耕一さんの背中には、私が付けた痕
が残っていた。
「千鶴さんも梓も血が騒ぐ筈だ。梓にも、抑える様に注意しておいて貰えるかな」

 大晦日、耕一さんに縋り付けた爪痕。
 昨日、耕一さんの決意を知り、失いたくなくて縋った爪痕。

「……判りました。耕一さんに全て御任せします。…でも、殺されるなんて考えないで下さい」
 背の癒えかけた痕にそっと指を這わせ、私も決意を固めた。
「うん。ありがとう」
 私は頬を背中に付け、耕一さんの温もりを確かめ踵を返した。

 もしもの時は、私が梓を止めます。
 貴方が何を伝え様としているのかは判らない。
 でも、私達に取ってそれは重要な事なんでしょう?
 それだけは、判るから。

 扉を閉める前に振り返り、私は耕一さんの背中を見ながら扉を静かに閉じた。


 力が吹き荒れ、圧力となって押し寄せる。
 荒れ狂う暴風にも似た力が、部屋の中を駆け巡り圧力に押し潰された空気が悲鳴を上げる。
 梓は私の腕を掴み、表情に怯えを走らせていた。

 腰にタオルを巻き現れた耕一さんに、梓は赤い顔で文句を言った。
 そして、その直後、
「梓、良く見ておけ。柏木の血の、真の姿をな」
 この一言と供に解放された鬼に、梓は私の腕を掴み目を見張った。
 まだ身体を鬼化していないと言うのに、耕一さんの力は夏に制御出来る事を確かめた時より、更に凄まじさを増していた。

 これが、力を制御すると言う事かも知れない。
 ふと、そんな考えが私の中に芽生えた。

 私達女性が殺戮の本能に侵されず済むのは、本能が弱い為だと考えていた。
 別の言い方をすれば、自己の中に鬼の力を取り込まず使っているだけなのだ。
 でも、耕一さんは違う。
 強烈な鬼の本能を取り込み、自らの物とする事で鬼と一体となって力を振るっている。

 私は梓の手を握り、震える肩を抱いた腕に力を込めた。
 まだ鬼化前だというのに、梓は顔を引きつらせ私の手を握り締め、私の肩に回した手にも力が篭っていた。

 不思議だった。
 これ程の力に、私は怯える事なく興奮している。
 心地好い高揚感さえ感じる。

 一瞬私達に視線を走らせた耕一さんの鬼気が、一気に膨れ上がった。
 梓は息を飲み、私にしがみ付いた。
 徐々に耕一さんが異形へと姿を変える。
 膨れ上がる筋肉、骨格が立てる軋みさえ聞こえた気がした。
 鈎爪が伸び、その凶悪な凶器を私達の前にさらし、伝説の鬼以上の凶暴な姿を、私達の前に現した。
 膨れ上がった鬼気の圧迫に息が詰まり、握った手と肩を掴んだ手に梓の力が震えとなって私に伝わる。
 梓の鬼が、恐怖に怯え竦んでいるのが手の取る様に判る。

 でも私は、逆に自分の高揚が信じられず、鬼を必死に抑えていた。
 恐怖はない。
 どんなに姿が変わろうと、耕一さんが私を傷付ける事はない。
 死に等しい恐怖を生む力が、私の身体と心を、熱い興奮と陶酔で包み込む。

 私は誇っているのかも知れない。
 私が愛した人の力を、私を愛してくれた人の力の偉大さを。
 あの強大な力は、私を守ってくれる力。

 膨れ上がった鬼気が潮を引く様に収まり、弱まった圧力に私は息を吐いた。
 力が消えた落胆なのか、梓の鬼が暴走しなかった安堵なのか。
 自分でも判らない奇妙な心で吐いた、気の抜けた息だった。

 人の姿を取り戻した耕一さんから梓に目を向け、その時になって、私は梓が半失神状態なのに気が付いた。
 瞳が虚ろな怯えを浮べ焦点を定めず、身体は震えを止められず雷に怯えた幼子の様に私にしがみ付いていた。
 肩を揺すり頬を軽く叩くと、梓はやっと瞳の焦点を私に合わせた。
 私はテーブルから転がり落ちていた缶ビールを取り上げ、プルを開け梓の手に握らせ口に運ばせた。
 ビールを一口飲み下しほっと息を吐いた梓には、記憶を取り戻した様子は見受けられず、私も小さく安堵の息を吐いた。

 昔から威勢の良い割りには、小心なんだから。
 夏に私が受けた衝撃を思えば、梓の反応も当然かも知れないけれど。


  § § §  


 冷たい琥珀が喉に流れ込み、苦みが口の中に広がる。
 まだ収まらない震えを、あたしは軽く頭を振って大きく息を吐いて抑え様とした。

 信じられない力の暴力だった。
 醜悪に変わっていく耕一の姿に驚くより、力の生む底知れない恐怖に、あたしは意識を最後には手放した。
 数日前、耕一の鬼に感じた恐怖が本当の恐怖だと思っていた。
 でも、それは間違いだった。
 あの時は、まだ頷く事が出来た。
 こないだの鬼の力はいきなりだったから、今度は大丈夫だと思っていた。
 でも今目にした鬼は、覚悟していてさえ首を動かす事も許してくれなかった。
 まだ身体が変わる前は耐えられた。
 でも身体がひしゃげる様に蠢き、巨大な筋肉の塊が膨れ上がった途端。
 一気に爆発的な恐怖があたしを襲った。
 まともに息が吸えなくて、胸が詰まって苦しくて、目を逸らしたいのに目がどんどん変わる姿から離せなくて。
 自分の身体が何処にあるのかも、判らなくなった。
 気が付くとあたしは、千鶴姉に肩を揺すられ頬を軽く叩かれていた。
 聞いた事はあった。
 後輩達が、肝試しか何かで話してた。
 耐えられない恐怖やショックを受けると、人間は考える事を止めて正気を保つって。
 でもあたしが、そんな事になる筈がないって笑い飛ばしてた。
 でも、あれはあたし達と同じ鬼とはとても思えない力だった。
 耕一があたし達を傷付ける筈がないって判っているのに、暴力的で猛々しくて、泣く事も目を逸らす事も出来なかった。
 どっかの宗教家が宣伝してる、恐怖と暴力で世の中を壊す破壊神とか、悪魔とかってのは、ああいうのかも知れない。
 完全に気を失うところまでは行かなかったし、目を逸らせなかったのに記憶が一部途切れてる。

 あたし達とは、力の次元が違う。
 あんな力が、あたし達の中にもあるのか?

 自分の考えに、ぞっと背筋に氷を押し付けられた様な震えが走った。

 あんなのが暴れ出したら、あたしには止める自信なんかない。
 耕一って、どんな神経してんだ?

「梓、大丈夫なの?」
「う、うん。何とか」
 心配そうに千鶴姉に聞かれ、あたしは頷いて返した。
 安心させるのに、笑おうという気も起きなかった。
「…千鶴姉、平気なのか?」
 その時になって、千鶴姉はあたしの心配はしてるけど、自分は平然としているのに気が付いた。
「ええ。私なら大丈夫よ」
 にこやかに返って来たこの返事で、あたしは飲んでいたビールでむせ返るとこだった。

 あんな力見せられて、平気だっ!!??

 驚いて見詰めた千鶴姉の表情は穏やかで、強がってる様には見えなかった。

 あたしは自分では神経が図太い方だと思ってたけど、千鶴姉は神経の出来が、あたしとは根本的に違うとしか思えない。

 見慣れてるだけか?

 呆れて息を吐き、あたしはビールを口に運んだ。

 でも、耕一が制御出来て良かった。
 耕一、千鶴姉の方が死んだかもって言ってたけど、あの力じゃ確実に死んだのは千鶴姉の方だ。
 ありんこが、ライオンに向ってく様なもんだよ。
 初めっから勝負にならないよ。

 千鶴姉の無謀さと言うか、怖い物知らずに頭を軽く振り、あたしは溜息が出た。

 そうしてる内、耕一が服を着てベッドルームから姿を現し、やっとあたしは本題を聞けそうだった。


  § § §  


 梓は唇を噛み締め握り締めた拳を震わせ、耕一さんの話に聞き入っていた。
 本当は、私が伝えなくてはいけない話だった。
 今まで隠していた私が伝え、梓の非難を受けるのが当然だった。
 でも耕一さんは、自分の遣るべき事だと言って聞き入れてはくれなかった。
 結局、押し切られる形で、耕一さんに全てを任す事にした。
 それで耕一さんの気持ちが、少しでも晴れるならと思っての事だった。

 耕一さんの話は叔父様の別居から始まり、途中梓が叔父様が耕一さん達と別居しながら、私達と暮らした理由について激しく動揺した。
 梓が叔父様に取って、私達が耕一さん達ほど大切ではなかったと取ったのが原因だった。
 これには私も頭に血が上り、梓を叱り付けた。
 梓の気持ちは良く判る。
 叔父様を好きだからこその混乱だった。
 でも叔父様を疑ってはいけない。
 叔父様が来て下さらなければ、私達は生きてはいなかった。
 そして理性の続く限り、私達の為に戦い続けて下さった。
 でも梓を叱る私を止めたのは、耕一さんだった。
 僅かに手を挙げただけで叱る私を止め、耕一さんは私に頭を下げた。
 叔父様が私達と一緒に住んだ理由さえ、耕一さんは見抜いていた。
 鬼を制御出来なくなれば、私が叔父様を殺すしかなかった。
 そして叔父様は、私達と暮らした方が親代わりとして、充分役割を果せると考えての事だった。
 柏木本家には、その為に広大な敷地の中に分散して部屋が設けてあった。
 御父様や叔父様は、私達姉妹にはどんな物音を立てても気付かれない部屋で、夜毎の苦しみに耐え続けていらした。
 耕一さんは、私が鬼の力を使い叔父様を取り押さえるという言い方で、梓に叔父様が私達と一緒に暮らせた理由として説明した。
 項垂れ謝る梓に気にしないよう微笑み掛け、耕一さんは私に目を向け頭を下げた。
 私の存在が、叔父様の救いになっていたと言う耕一さんの言葉は、何より嬉しかった。
 私は御父様にも叔父様にも、何の力にもなれなかった。
 でも、私がいただけで叔父様の苦悩が少しでも和らいでいたのなら、こんなに嬉しい事はなかった。
 熱く潤む瞳から零れそうな涙を堪え、頭を下げる耕一さんに、私は首を横に振る事しか出来なかった。

 でも私はその時、不安も抱いた。
 私が叔父様を殺さなければならなかった事に、耕一さんが気付いていないとは、思えなかった。
 でも耕一さんは、取り押さえると言う言葉を使った。
 本当にそう考えているのか、梓がいた為なのかが判らなかった。
 いつか私が殺す事になるのを知りながら、叔父様が私達と暮らし続けていたのを、耕一さんがどう思うかが心配だった。
 真実、取り押さえるだけだと思ってくれているのならいいのだけれど。
 万ヶ一にも耕一さんが、叔父様を軽蔑するような事にでもなったら、私は叔父様にも耕一さんにも申し訳がない。

 耕一さんは私に頭を下げた時以外、叔父様の話を始めてから、感情を殺した抑揚のない声で話し続けていた。
 その表情からも声からも、私の疑問の答えは窺えなかった。
 そして耕一さんの話は、叔父様と御父様の鬼の殺戮本能との戦いに入って行った。
 叔父様の話を聞いた梓はショックのあまり唇を噛み締め顔色を無くし、耕一さんはウイスキィーの入ったグラスを梓に差し出した。
 一気にグラスを煽った梓がむせ返り、話は一時中断した。

 耕一さんの鬼から受けた恐怖が、強烈過ぎたのだろう。
 その力に夜毎悩まされていた叔父様の苦悩が、梓にも、我が身に置き換えて理解出来た様だった。
 蒼い顔でむせる梓の身体は、小刻みに震えていた。
 父の様にしたっていた叔父様が、夜毎受けた苦しみに気付けなかった自分を責めているのかも知れない。
 むせる梓の背中を摩りながら、私は後悔を覚えた。

 梓に鬼の本質を理解させる為とは言え、これ程までショックを与える必要があったのだろうか?
 そして、これからの話は、実の両親の苦しみに他ならないのだ。
 梓の受けるショックはどんなに酷く辛いものか、想像出来なかった。

 耕一さんは梓の咳が治まるのを待って、再び口を開いた。

「もう一人が重要だ。梓、よく聞いてくれ、これで最後だ。その人は、親父より更に酷い。急激に鬼の殺戮衝動に蝕まれ。日夜、理性のギリギリまで戦った。理性が侵され人と鬼の姿に幾度も変化を繰り返し。家の中の物を手当たり次第破壊し。苦しみに自分の身体にさえ無数の痕を刻みつけた。自分の幼い娘達を、いつか手にかける恐怖と苦悩に苛まれ。自分の中の鬼が、血と殺戮を求め叫び続ける中。麻薬中毒末期症状の様な状態で、苦しみ抜いた」

 耕一さんの声が御父様の苦しみを語り。
 思い出したくない地獄の様だった日々に、私は顔を臥せ固く目を瞑った。

 後は御母様が御父様と心中なさった事を伝えれば、話は終わる。

「だか、もっと辛く苦しかったのは、その人の苦しみを、成す術なく見守る事しか出来なかった妻と、まだ少女だった長女だ」

 でも、耕一さんの声は話し続けていた。
 私は顔を上げ、耕一さんを見詰めた。
 耕一さんは固く目を瞑り、淀みなく話していた。
 考え抜き選んだ言葉を、幾度も練習した様に。

「妻は、怯え、もがき苦しむ夫の姿を見続ける事に、遂に耐え切れなくなり。只一人、父の苦しみを供に見ていた長女に、長い詫びる手紙を書き残し、幼い娘達を残したまま、薬で眠らせた夫と心中した」

 私は流れ落ちる涙を止められなかった。
 一旦言葉を切り梓を見据えると、涙で歪んだ耕一さんの唇が言葉を刻んだ。

「梓…お前の、御両親だ」

 一瞬硬直した梓の身体がピクリと跳ね。
 機械仕掛けの人形の様に、ぎこちない動きで顔を私に向けた。
 問い掛ける濡れた瞳に頷き、私は手にした封筒を梓に差し出した。
 震えを押さえ切れない手にした封筒は、御母様が私に残して逝かれた物だった。
 唇を戦慄かせ声もない梓が封筒に目を落とし、瞳から大粒の涙をぼろぼろと零し、私は胸に梓を固く抱き締めた。
 胸に顔を埋めた梓の涙が、胸に染み入り痛みを引き起こした。

 やっと耕一さんが自分で話すと主張した理由が、私にも判った。
 耕一さんが命まで掛け、梓に伝え様としてたのは御父様や叔父様の苦しみではなかった。
 苦しみを見続けていた、私の悲しみ、辛さだった。
 流れ落ちる涙をそのまま、私は梓の身体を胸に両腕で包み込み、耕一さんの温かな眼差しを感じていた。


陰の章 十章

陰の章 十二章

陽の章 十一章

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