陰の章 十
布団の傍らに腰を下ろした楓と入れ替わり、耕一さんは障子戸から姿を消した。
「姉さん、気にしないで下さい。彼女も恨んでなかった」
先に口を開いたのは、楓だった。
「楓、ごめんなさい」
私には他に言うべき言葉が、思い付かなかった。
前世では命を奪い、恋人との仲を裂き。
今生で巡り合った恋人を、私は奪ってしまった。
でも、私はもう耕一さんと離れられない。
「いいえ、彼女は過去だから。耕一さんは、今を生き様としている」
横になったまま目を臥せ謝った私の謝罪を、楓は正確に捕らえていた。
「ええ。耕一さんは強い人だわ」
「姉さんは、本当にそう思う?」
楓の声に否定を感じて、私は楓に顔を向けた。
「楓は、そうは思わないの?」
楓は髪を揺らし首を横に振った。
「判らない。でも記憶の所為だけなら、マンションから直接居なくなっても良かった」
そう言った楓は、眠れなかったのか顔色は青白く、目は赤く充血していた。
「確かにそうね。初めから居なくなる考えはなかった?」
「ええ。こちらに来てから、何か在ったとしか。初音とも約束していたし」
でも考えられるのは、私が部屋に篭もった位?
「そうだわ。梓や初音には、耕一さんなんて?」
「意見の食い違いで、喧嘩したって」
まあ本当だけど、癇癪起こしたって言われなかっただけ良かったのかしら。
「そうね。それなら、仲直りしたって言えばいいわね」
「もう食事を取って、休んで下さい。まだ顔色が悪いです」
楓はそう言うと傍に置いた重箱を開いた。
「ごめんなさい、楓。食事は、今はあまり欲しくないのよ」
この所の睡眠薬の使い過ぎの所為か、他の原因からか、食事を取る気がまったく起こらなかった。
「でも姉さん。二日も食べてないのよ」
「ごめんなさい、心配を掛けて。食事は後でちゃんと取るから」
仕方なさそうに小さく息を吐くと、楓は視線を落とし唇を押さえた。
「楓も顔色が悪いわ。私は大丈夫だから、ゆっくりお休みなさい」
こくりと頷き、楓はゆっくり目を上げた。
「姉さん。耕一さん、大丈夫でしょうか?」
「出て行かないかって?」
迷う様に目を臥せ髪を横に揺らすと、楓は再び口を開いた。
「次郎衛門を、否定しようとしているから」
「ええ。耕一さんは、割り切ったって言っていたけど」
私は目を閉じ、静かに耕一さんの言葉を反芻してみた。
「否定する事で、今の自分を保とうとしているのかも知れないわね」
耕一さんは、次郎衛門を断罪し非難していた。
過去の自分を否定し現在の自分と切り離す事で、自分自身を確保しているのかも知れない。
「ええ。でも、それだけでも無い様だし」
楓は不安を隠し切れない声で言い、静かに唇を弄り始めた。
いつもながら楓は勘が鋭い。
考えるより先に不安を感じ、不安の正体を考える。
「ごめんなさい。私と耕一さんでは、状況が違うから」
ふるふる首を横に振り、楓は小さく息を吐いた。
「状況って? あっ……」
聞いてから、私は楓が前世で先に死んだのを思い出した。
「いいえ、違います。耕一さんは二十歳で記憶を取り戻しました。でも、私が夢を見初めたのは子供の頃だから」
私が気にしない様、否定した楓の言いたい事は判った。
人格は、生まれてからの経験と情報。
つまり記憶に影響され、形作られる。
個としての人格を形成してから記憶を取り戻した耕一さんと、人格形成期の初期から記憶を持っていた楓では、確かに比較対象とするには無理がある。
でも、それは同時に楓の人格形成に、エディフェルの記憶が多大な影響を及ぼしている事を意味していた。
「ごめんなさい、楓」
私は楓に謝る事しか出来ない。
楓の変化は、両親の死が切っ掛けでは無かった。
哀しく寂しい瞳の理由も、耕一さんを初め避けていた理由も、それで判った気がした。
楓は子供の頃から、ずっと昔愛した人を想い待ち焦がれ、出会いながら記憶が共鳴し鬼の覚醒を促さない様に避けていたのだろう。
どんなに辛かっただろうに。
「耕一さんが姉さんを選んだの。姉さんが謝る事はないんです。耕一さんも言ってました。想いは強制出来ないって」
小さく息を吐き、楓は顔を臥せた。
「それに。エディフェルだから、私を好きだと耕一さんに言われたら。悲しいだけだと思うから」
楓はそう言うと顔を上げ、無理をした微笑みを私に向けた。
「楓、ごめんね」
私は謝りながら腕を伸ばし、楓の頬を流れた一筋の雫を拭った。
小さく首を横に振った楓は静かに立ち上がり、
「姉さん、少しでも食べて下さいね」
そう言い残し、重箱を置いて部屋を後にした。
§ § §
あたしはベッドの上で、壁にもたれ膝を抱えていた。
頭の中でいくら考えても、耕一の話は判らない事だらけだった。
年が明け二日になった今日も、耕一は家に居る。
そして千鶴姉は客間で寝ている。
だから、完全に誤解は解けた筈だ。
初音にも、耕一は仲直りしたって言ってたし。
もう耕一が出て行くって事はない筈で。
なのに何で、千鶴姉は寝込んだりしたんだろう?
二日も部屋に閉じ篭もって、体調崩したとしてもおかしくないけど。
でも昨日の耕一の様子は、異常だった。
あたしは大晦日の夜遅く、楓から耕一は出て行かないと聞き、二日振りにゆっくり眠った。
自分の情けなさに自己嫌悪にゆっくり浸った疲れと、ここ二日間の寝不足もあって、ぐっすり眠って朝起きると結構スッキリした気分だった。
あたしはあたしだし、今更焦っても仕方ないって気持ちも在った。
急に頭が良くなる訳でもないし、耕一が出て行かないで、千鶴姉が元気になれば普段の日常に戻るから、ゆっくり考えればいいやって気だった。
丁度年も明けたし、心機一転するつもりでベッドから起き出した。
でも、新年早々昼になっても起きて来ない耕一を起こしに行くと、またあたしの知らない所で、何かが変わっていた。
いつもの様に呼び掛けながら障子を開けると、耕一は疲れた顔に苦渋を滲ませ、心配そうに布団に寝かされた千鶴姉を見詰めていた。
寝ている千鶴姉の表情も苦しそうで、あたしは二人の様子に一瞬息が詰まった。
部屋の中は、まるで臨終前の病人を看取る様な、重く暗い雰囲気だった。
茫然としたあたしが気を取り直す前に、耕一は有無を言わさずあたしを廊下に引きづり出し、暫く誰も客間に近付けるなと命令した。
初音さえ近付けず食事だけ楓に運ばせろと、耕一はあたしに言った。
追い詰められた疲労の濃い表情で、苛々と話した耕一の言葉は、確かに命令だった。
あんまり高圧的な言い草にむかっときて言い返したあたしは、耕一に睨まれスゴスゴと居間に引き返す羽目になった。
今は聞くなと睨み付けた耕一の力は、本気だった。
あれ以上何か言っていたら、本当に鬼を使ってでも耕一は、あたしを放り出していた。
でも暫くして楓と入れ代わりに居間に来た耕一は、もう普段の穏やかさを取り戻していた。
あたしは気が焦り、初音と一緒に耕一に事情を説明しろと迫った。耕一に睨まれるまで、初音が一緒だと話せない事にも気が回らなかった。
初音を千鶴姉の元に行かせてから、あたしは改めて耕一に事情を説明してくれる様に頼んだ。
でも耕一の説明は、初音にしたのと同じ、千鶴姉は体調を崩しただけ、だった。
あたしは話して貰えない悔しさと、何も判らない情けなさで、膝で握った拳が震え涙が零れた。
そんなあたしに、耕一は優しい声と労る瞳を向け、この数日、耕一から聞いた話の中に答えは全部在ると言った。
あたしは自分で考えるしか無かった。
説明するにはもう少し時間をくれと、あたしの頭を撫でながら言った耕一の声も表情も苦しそうで。
あたしには、それ以上聞けなかった。
それからのあたしは、初音には受験勉強と偽り家事を代わって貰い。この二日、食事以外は部屋でベッドの上で膝を抱え、壁にもたれ考え続けていた。
今朝は看病していた初音が、千鶴姉が元気になったと教えてくれ安堵の息を吐いた。
初音が友達と遊びに出掛ける位だから、身体の方はもう何の心配もいらないんだろう。
あたしは、昨日客間で寝っている姿を見てから千鶴姉と会っていない。
今のまま何も判らず、あたしには会えなかった。
話せない耕一にも何か理由がある筈で、あたしは千鶴姉に会うときっと聞いてしまうから。
いや、聞かなくても千鶴姉は、きっとあたしの態度がおかしいのに気付く。
普段はボケボケで抜けてるのに、変なトコ鋭いからな。
昔っからあたしとは、出来が違ったから。
千鶴姉は良く出来た姉で、あたしは元気が取り柄の妹。
千鶴姉は旧家のお嬢さんらしかったけど、あたしはらしくなくて。
姉妹の中でも毛色の代わっているあたしは、何かと千鶴姉と比較されて、五つも違うからまだマシだったけど。
お爺さんも千鶴姉に期待してたし、母さんも千鶴姉頼りにしてた。
別に昔は千鶴姉が嫌いだったって訳じゃないけど、やっぱりどっか、あたしとは違っていた。
優しくてどっか抜けてて、いざと言う時は頼りになって、気取った所もないし、あたしには出来過ぎた姉貴だと思うし大好きだけど、どっかに一枚壁が在るんだ。
耕一が言ってた役って、その事かな?
昔っからみんなに期待されてて、千鶴姉一生懸命だったけど、どこかで自分を抑えて無理してて。
自分の悩みとか、あたし達の前で口にした事ないし。
妹に言えないってのは判るけど、あたし達には耕一の他は姉妹しかいないんだから、何か寂しい気がする。
あたしから見ると、もっと自分のやりたい事やって、好きにすればいいと思うんだけど。
父さん達が死んでからは、あたし達庇ってくれて母親代りだったから、好きな事だって出来なかったんだろうけど。
でも、だからって耕一が、あたしが苦しめてる様な事言う訳無いし。
佐久間さんから聞いた話じゃ、会社でも大変らしいけど。
これはあたしには、せめて大学を出てからじゃないと何の力にもなれそうもない。
後は父さんの鬼、叔父さんの鬼、耕一の鬼。
どう考えても、千鶴姉が悩みそうなのって、耕一だよ。
そんなに見てるのが辛い物なのかな?
あたしには良く判らないけど、叔父さんが自殺する位だから、酷いものだとは思うけど。
でも耕一殺せるのかって言われたら、あたしには出来ない。
恐ろしく怖くなる時は在るけど、まさか千鶴姉に耕一殺すなんて出来るとは思わなかった。
いくら考えてもみんな昔の事で、今の千鶴姉が悩むのって、耕一に恨まれてないか位だ。
耕一が千鶴姉好きなのは確かだけど、千鶴姉は、本当に耕一好きなのかな?
まさか耕一が憧れてたの知って最後の情けのつもりだったのが、間違いだったから言い出せなくなったって事は、ないとは思うけど?
何とも思ってなかったら、殺せるかも知れないけど。
あたしは頭を振って頭を拳で叩き、考えを叩き出した。
いけない。
もしそうならあたしにもチャンスが残ってるから、こんな事考えるんだ。
それなら、千鶴姉が部屋に篭もるほど取り乱したりしないって。
「だっ、誰? 楓か?」
情けない考えを見透かした様なタイミングで扉をノックされ、あたしはドキッと跳ねた心臓の鼓動を押え、ゆっくりベッドから下り扉に向いながら返事を返した。
「俺だけど、ちょっといいか?」
意外にも帰って来た声は耕一だった。
耕一は初音が出掛けてから、千鶴姉に付きっきりだった筈だ。
「うん」
スッと扉を開け、あたしは緊張した。
扉の前にいた耕一の表情は穏やかだが、目が真剣だった。
「梓、あの話だけど。今晩でどうかな?」
「あのって? あたしが聞いた奴か?」
廊下に立ったままの耕一に、あたしは勢い込んで聞いた。
これで悩みも解消される。
そんな安堵感がスッと広がり、頬が自然に緩んだ。
「うん。夕食の後、鶴来屋の部屋でどうだ?」
あたしはちょと腰が引け、頬が熱くなった。
夕食の後って。
夜、耕一と二人っきりであの部屋?
「家じゃ、だめなの?」
「まあな、千鶴さんと待ってるからさ」
なんだ?
千鶴姉も一緒か。
安堵とも落胆ともつかぬ、自分でも良く判らない気持ちで、あたしは小さく息を吐いた。
「でもさ、あの部屋あれだし。千鶴姉に見付かるとさ」
まだ身体の痕が残ってるだろ。と恨めしそうに耕一を見ると、耕一は視線を逸らした。
「あれなら、もう千鶴さんに話した」
「耕一、あんたわぁ」
あたしは怒るより先に、項垂れるしかなかった。
どんな罰が待ってるんだ?
あたしの今年の運勢は、二日目で大凶で滅殺と決まった。
「話すしかないだろ? いつまでも借りとけるかよ。どっちみち、出社したら千鶴さんには判っちまうんだし」
「そりゃまあ、そうだけどさ」
早いとこ足立さんに頼み込めば良かった。
「それと親父から聞いた話と、千鶴さんのあれは。お前は知らない」
「耕一、何だよそれ?」
千鶴姉の方は判るけど、叔父さんから聞いた話も?
あたしは眉を潜め、首を捻って耕一を見上げた。
「親父も頼んだんだろ。千鶴さんから話す気になったからさ」
微かに首を傾げ、耕一は腕を組んで続けた。
「俺がお前に話したのは、もう一人の鬼を俺が倒した話と、夢の話。それと子供だ。いいよな?」
「何か面倒だけど。いいよ、話してくれるなら」
このままうだうだ悩むぐらいなら、多少の条件は呑むさ。
あたしは、からかう様に首を捻って顔を覗き込んだ耕一に頷き返した。
「よし。じゃあ、俺達晩飯喰ったら出るから、梓は後片付けが終わったら来いよ。車使えばいいからさ」
「なんで一緒に行かないの?」
「三人揃って出掛けたら、初音ちゃんが変に思うだろ? 千鶴さんと俺だけなら、急な仕事と千鶴さんが心配だから付き添って行くって事で済むけど」
ちゃんと初音への言い訳まで、考えてるのか?
「まぁ。そうか」
「ここの所、部屋に篭もってるから。抜け出すのも簡単だろ?」
「うん」
あたしに、初音に知られない様に抜け出せって事か。
佐久間さんには偶然って言ったけど、耕一って結構考えてるのかな?
千鶴姉の考えかも知れないけど。
あたしはちょと見直し、改めて耕一を見ていると、ふっと息を吐き耕一は真剣な表情になった。
「梓」
「なに?」
あたしは真剣に見詰められ緊張してツバを呑んで答え、
「お前、酒強くなったか?」
耕一の質問に、ガックリ肩を落とし脱力した。
「まあね。台所でちょくちょく呑んでるから、随分強くなったよ。千鶴姉には言うなよな」
なんだよ。
真剣な顔するから、もっと重要な話しかと思ったのにさ。
「今夜は、千鶴さん止めない筈だから。呑んでもいいぞ」
あたしは耕一が聞いたのが、単なる世間話でないのが判って、また緊張した。
いつもお酒を呑むとうるさい千鶴姉が止めない?
それだけ、あたしがショックを受ける話なのか?
「じゃあ、後でな。今夜は泊になるから、少し眠っとけよ」
軽く手を挙げ、耕一はあたしに背を向けると、そのまま廊下の角を曲がった。
あたしは耕一の消えた廊下の角を見詰め、唇を噛み締め拳を握り締めた。
一晩かかる重要な話し、それもあたしがショックを受ける。
あたしは言われた通りベッドに戻り、夕食まで眠ろうとした。
でも寝返りを打つばかりで、一向に眠りに入っては行けなかった。
§ § §
楓の髪がゆるゆると振れ、弱く否定を伝えた。
「ええ。時期が悪いのは判っているのよ」
「姉さん。梓姉さんも、色々大変な時期ですから」
いつになく反対を繰り返す楓を訝しく思いながら、私は息を吐いた。
「アズエルと言うのは、どんな人だったの?」
話したくはなかったが、今まで姉妹の中で同じ苦しみを分かち、影から助けてくれた楓に反対されたまま、梓に話したくはなかった。
「それは、私達には優しい人でした」
「でも激情家で、好戦的だった」
布団の上で起こした半身を捻り楓を見詰めると、楓はこくリと頷いた。
「楓も、かおりさんの事を憶えているでしょ?」
再び頷いた楓の表情が、微かに険しさを増した。
「犯人が目の前にいたら、殺し兼ねない怒り様だったわ。今の梓が、アズエルの記憶を取り戻したら。私にも梓が抑えられるのか、予想が付かないわ」
公表こそされなかったが、かおりさんが凌辱を受けた噂が広まるのは早かった。
梓は烈火の如く怒り、噂していた高校生を殴り付けた。
幸い、かおりさんが止めてくれたから事なきを得たが、誰もいなければ、梓が鬼を使わなかったとは断言出来ない。
いや、勢い余って殺していたかも。
噂だけでもそうだ。
犯人を前にした梓が感情を抑えられるのか、私にも想像が付かない。
梓は感情が直接力に結び付いてしまう。
激情が力を引き出し、力が更に感情をあおり立て、自分でも抑え切れなくなってしまう。
梓の奔放で情が深く面倒見のいい真っ直ぐな性格は、感情を抑える事が常だった私には羨ましく、とても好ましくはある。
でも、大き過ぎる力を持った私達には危険でもあった。
もし感情に任せ力を振るったら、一撃で人を殺してしまう。
万ヶ一にも、そんな事にでもなったら。
「話したとして、梓姉さんの性格が変わるとは思えません」
「ええ。でも力の恐ろしさを自覚して、自制してくれる様になれば。梓も精神的に成長してくれると思うのよ」
原因が私に在るとは言え、誤解で耕一さんに力を奮う様では、冷静に考えてみれば、耕一さんの言われる通り他に有効な方法は思い浮かばない。
「もう、決めたんですね?」
「耕一さん。万ヶ一の時は、殺されるつもりなのよ」
楓の表情が強ばり、驚きに軽く開いた瞳が私を見詰め、静かに瞼を閉じると深く息を吐いた。
「でも、耕一さんの力なら」
「大き過ぎるそうよ。力を開放すれば手加減しても殺し兼ねない。でも、手加減せずに気絶させるのは、アズエルの狩猟技術が戻れば無理だろうって」
顔を臥せ膝で握った拳を固く握った楓の姿が、アズエルの技の高度さを現していた。
幾多の人を狩り続けた鬼の技だ。
人を殺す術には長けている筈。
多くの命を狩った記憶が在れば、私を怯えさせた力に対しても、怯えたりはしないだろう。
耕一さんを見れば判る。
私が御爺様と同じと感じた殺気は、侍だった次郎衛門の物だろう。
殺す気で襲う者と傷付けず捕らえ様とする者では、どう考えても傷付けられない者に勝機はない。
そして耕一さんには、それ以前にあらがう意志がない。
「判りました」
楓の諦めを含んだ小さな声が告げた。
「ありがとう、楓」
「初音には、朝から出掛けた事にすればいいんですね?」
「ええ。初音が寝た後で、書き置きを居間に置いてくれればいいわ」
キョトンと首を傾げた楓の仕草に、笑みが浮かんだ。
「楓、初音より早く起きられるのかしら?」
微笑みながら言うと、楓は真っ赤になって俯いた。
「姉さんだって」
俯いたまま上目遣いに見られ、私は目を逸らしぎこちなく微笑んだ。
楓が小さく笑いを洩らし、顔を見合わせ二人で微笑みを交した。
家では梓が一番早くに起き出し朝食の用意を初める。
次に起きる初音が梓を手伝い、かなり遅れて楓の順に大抵は目覚める。
私は最後だけど、遅くまで仕事を片付ける事もあるから、遅いのは当然よね。
「千鶴姉さん。梓姉さん、この頃元気がありませんから、気を付けてあげて下さい」
「そう言えば、梓を見ていないわね?」
大晦日に食卓で顔を合わせてから、私は梓が姿を現さないのを、その時になって気が付いた。
いつもなら具合を悪くすると手間が掛かるとか文句を言いながらも、様子を見に来ては食事をしないと太るけど栄養が付くから食べろ、っとか怒るのに。
「あの、梓姉さんは………」
楓は何か言い掛け、唇を押さえ眉間に微かな皺を寄せた。
「梓姉さんも、耕一さんを」
「ごめんなさい、楓。そうなの、あの子も」
言い難そうに声を途絶えさせた楓は、こくんと頷いた。
梓も耕一さんを好きなのは、判っていた筈だった。
だから耕一さんが、妹達に話そうとしてくれないのを寂しく思いながらも、心のどこかで安心もしていた。
楓も梓も好きで。
初音ももう少し大きければ、兄を慕う好きとは変わっていたのかも知れない。
私達姉妹四人共が、同じ人を好きになった。
耕一さんの人柄か、それともやはり血が呼び合うのかしら。
「叔父様の影響かしら?」
叔父様は、私達姉妹には恩人であり、父以上に近い存在だった。
娘は父親に似た人を好きになるって、どこかで聞いた気がする。
いずれにしろ、私が妹達を泣かす事になったのは確かだった。
初音も記憶が戻れば、泣く事になるのだろうか。
「姉さん。叔父さんの話ですけど。耕一さんには、あまりしない方が良いと思います」
「どうして? 誤解はもう解けたんだし。耕一さんも、御父様の事を、もっと知りたいと思うのだけれど」
少し口調を強めた楓の瞳に浮かんだ痛みを感じ、私は首を傾げた。
叔父様の想いを知り、子供の様に泣いていた耕一さんが、叔父様の話を嫌がるとは、私には思えない。
「四日前になるけど。私、耕一さんが知らない人に思えて、驚いて見詰めたの」
「楓もなの?」
楓は姉さんも、と言う様に私を見てこくんと頷き、目を臥せた。
「耕一さんに、姉さんに叔父さんとお爺さんに似てるって言われたけど、今度は次郎衛門って聞かれて」
「ええ。言ったけど?」
「記憶を確かめたのだと思うの。でも、耕一さん何だか辛そうだった」
楓の言葉で、私は両手を置いていた掛け布団を握り締め、自分の犯していた過ちを噛み締める様に、唇を噛み締めた。
「千鶴…姉さん?」
「あっ! ええ、気を付けるわ。じゃあ、楓。家の方は御願いね」
「はい」
訝しげな視線を向ける楓に微笑みを作り話の終わりを告げ、スッと腰を上げた楓が出て行くのを見送り。
私は片手で口を押さえ震える身体で、熱く零れそうな涙を堪えた。
思い当たる事は、多く在った。
ホテルで御爺様に似ていると言った時。
その後、耕一さんが力を割り切ったのを寂びしく感じ、責める響きが声に混ざった時。
どちらも寂しそうな瞳で、辛そうにしていた。
鶴来屋で御爺様に似ていると洩らした時も、どうして壁を殴り付けるほど激しく怒ったのか判らなかった。
恐らく今、耕一さんは自分の中の次郎衛門を否定して。
いいえ、憎んでいるのかも知れない。
昨日は、私を落ち着かせる為、殺せと言ったのだと思っていた。
でも梓に記憶が戻り、復讐心を抑えられなければ殺されるつもりだった。
恐らくあの言葉は、耕一さんの本心。
私達姉妹の誰かが、柏木の血の宿命を憎み、耕一さんを殺そうとすれば、耕一さんには抵抗する意思はない。
憎まれ殺されるのを当然の様に受け入れている耕一さんは、深く次郎衛門を憎んでいるのだろう。
自分の中にいるもう一人の自分を憎み、柏木耕一と切り離して考え自分を保とうとしている。
でも、同時に自分の中に次郎衛門がいる事も認めている。
自己を肯定しながら、半身とも言うべき次郎衛門を否定するのは、矛盾した思考だろう。
次郎衛門を憎むのは、自身を憎むのと同義なのだから。
罪の意識が、私達の幸せを考える方向に向わせているのかも知れないけれど。
記憶が戻る前から私達に優しかった耕一さんが、次郎衛門の贖罪の為に、私達の事を考えているとは、とても思えない。
逆に自分の行いが贖罪の為か、自分の意思なのかを耕一さん自身でも理解出来ず、悩んでいるのだろう。
それならば自分の意思で選ぶと、事在るごとに固執していた態度も理解出来る。
やはり耕一さんは、割り切ってなどいなかった。
次郎衛門の贖罪ではなく、自分の意思だと言い聞かせ、自己を確保しようとしている。
他の誰でもない柏木耕一の意思だと、自分に言い聞かせ過去と決別しようともがいている。
二つに裂けた心の狭間で苦しみながら、片方を否定し捨て去ろうと足掻いている。
佐久間の言動に怒った私に、耕一さんが言った言葉。
千鶴さんは、千鶴さんだから。他の誰でもない。
あれには、二つの意味があったの?
私という個を認めている自分が居るという意味と、リズエルの記憶が蘇っても、私とは別人だという意味。
私の硬く噛み締めた唇から、口の中に血の味が微かに広がって行った。
佐久間の私自身を無視した言葉に、耕一さんが怒る筈がなかったっ!
家や財産が必要で、私自身を無視した言葉に怒った私。
でも私を無視していても、佐久間は私を否定した訳じゃなかった。
どうでもいい人に蔑(ないがし)ろにされ、プライドを傷付けられ怒った私は、耕一さんにしてみれば子供に映った事だろう。
耕一さんには取るに足らない些細な事に思え、私が口にした。
私自身はどうでも良い。と言う言葉で初めて気が付くほど、耕一さんには細事でしか無かったのだろう。
でも私が無視ではなく否定していたのは、耕一さん自身だった。
叔父様と重ね、御爺様と重ね、私が似ていると言う度、耕一さんには自分の存在を否定され、自分が御爺様や叔父様の影の様に感じられたに違いない。
それも、次郎衛門の殺気を使った後では、外から見た自分は、次郎衛門の様に見えていると受け止めたのかも知れない。
柏木耕一で在る事にこだわり、自分を保とうとしている耕一さんには、他の誰と比べられても自分の存在意義を否定された様に感じられるだろう。
あまつさえ割り切ろうともがいている耕一さんに、私はそれを責める様な言葉を投げつけた。
意味は違っていても、御爺様の話の後では、きっと二つに裂けた自分の有り様を責められている気がした筈だ。
ホテルの部屋に向う間、声を掛けられなかった厳しい顔と哀しく寂しい瞳。
壁を殴り付けた時、叔父様でも御爺様でも次郎衛門でもない、自分は自分だと耕一さんは言っていたのに。
あの時にも、気付けなかった。
楓も、エディフェルだから好きだと言われても辛いだけだと言っていたのに。
そう、私はいつも心のどこかで、叔父様と耕一さんを重ねていた。
耕一さんには、そんな私の心が見えているのかも知れない。
私は好きな人の苦しみにも気付けず、ずっと傷付け続けていただけ。
私は、一人前の大人のつもりだった。
でも違う。
耕一さんの方がずっと大人だ。
耕一さんが話してくれた、次郎衛門の罪と後悔。
柏木に生まれた者が受けた苦しみ。
御父様、御母様や叔父様の受けた苦しみ。
その全てを自らの罪に感じ、二人の自分の間で苦しみながら、耕一さんは心を凍らせず正面から向き合っている。
私は心を凍らせ、感情を殺す事で逃げたというのに。
耕一さんは、正面から向き合っている。
裂けた心で苦しみながら、私達の事まで考えてくれている。
罪滅ぼしの筈がない。
記憶が戻る前から耕一さんは優しかった。
叔父様を引き離した私達を、恨んだりしていなかった。
私が妹達が居ながら心を凍らせないと耐えられない痛みより、遥かに大きな苦しみを抱え。
あの人は独りで耐えながら、心は温かいままでいる。
私の心を温めてくれるのは、きっと、その大きな心なのだろう。
私は知識は在っても、心は子供のままなのかも知れない。
心を凍らせている間に表面だけ大人になって、心は凍ったまま子供で止まっている。
私は、耕一さんを傷付ける事しかしていない。
私には、耕一さんの痕を癒す事は出来ないの?
私は頬を流れる熱い雫を感じながら、握り締めた布団に顔を埋めた。