陰の章 九
受話器を置き、あたしは大きく息を吐き出した。
狙い道理、耕一は泡食って電話して来た。
思いっ切り怒鳴り付けてやったから、これで、どうしたって一度は家に帰って来るしかない筈だ。
あたしは朝から張り付いていた電話から離れ、自分の部屋に歩き出した。
朝から由美子さんて人に電話して、耕一が帰り難い見たいだからって、本を理由に帰り易いよう理由付けに協力して貰った。
良い人だったな。
見ず知らずのあたしの頼みに快く協力してくれて。
でも、自分にも責任が在るような事言ってたけど、何の事だろう?
自分の部屋の前で両脇の固く閉じられた扉に暫く目を向け、あたしは部屋に入った。
今日も千鶴姉は出て来ないし、楓も閉じ篭もったままだった。
あたしの部屋の中では、枕から舞い散った羽根が、扉が起こした空気の動きでふわふわと揺れていた。
羽根の掃除を始めながら小さく溜息が出た。
昨夜は羽根を片付けるのが面倒で、あたしは客間で布団に潜り込んだ。
布団からは、耕一のシャツと同じ匂いがした。
布団にくるまりながら、あたしは伝えられなかった想いの寂しさと哀しさに胸が詰まり。
いつしか涙が流れていた。
耕一に聞いた話。
佐久間さんに聞いた話。
泣きながらいろいろ考えたけど、耕一が何を考えろって言ったのか、答えは出なかった。
ただ耕一は千鶴姉が好きで、千鶴姉も耕一が好きで。
千鶴姉には耕一が必要で、耕一にも千鶴姉が必要なんだろうって事しか、あたしには判らなかった。
でも、それなら耕一が帰って来て千鶴姉と顔を会わせれば上手く行く筈だ。
嫌いでも恨んでもないなら、話し合って誤解を解けばいい。
それがあたしの結論だった。
千鶴姉と耕一が、一緒に居るのを見るのは辛いし哀しいと思う。
でも、耕一が居なくなるよりずっと良い。
千鶴姉も耕一が好きで、苦しませたくなくて殺そうとする程、好きで。
あたしには耕一が苦しむからって、殺せないと思うけど、千鶴姉が自分の為に苦しんでるって、耕一は思い込んでて、千鶴姉の為に自分の将来を放り出そうとまでしてる。
なんで耕一が、自分が居なくなれば上手く行くなんて考えたのか、あたしにはさっぱり判らないけど。
耕一に自分自身より大切にされてて、何で恨まれてるなんて、千鶴姉が思い込んでるのかも判らないけど。
二人とも大馬鹿だと思うけど。
千鶴姉も耕一が居なくなったからって、元の千鶴姉に戻るとは思えないし、耕一にだっていい筈がない。
本当は昨日の話を、千鶴姉に全部打ち明けるのが一番いいんだろう。
でも、あたしは多分千鶴姉の心配より、耕一の信用を失いたくないんだと思う。
出て行く話だけをしようかと思ったけど、他に出て行く適当な理由も考え付かなかった。
だからあたしに話してくれた、耕一の信用を裏切ったと思われたくないから、こんな姑息な手段しか思い付かなかった。
でも、あたしに考えられたのは、こんな方法位だから。
ばれたら耕一は怒るかも知れないけど、千鶴姉と耕一を一緒に失うよりはずっといい。
楓だって耕一が居なくなるより、その方がいいって言うと思う。
楓なら、もっといい考えを思い付いただろう。
だけど今の楓には、二人の仲を見せ付けられる見たいで辛いだろうし。
楓も叔父さんや父さんの事で苦しんで来た筈だ。
今まで姉らしい事出来なかったんだから、今は、あたしがしっかりしないと。
あたしは、耕一が帰って来て千鶴姉が元に戻ってから、ゆっくり失恋の哀しみに浸ろうと決めた。
あたしは部屋の掃除を終えると居間に向かった。
初音には、朝から御節料理の下ごしらえを頼んであった。
いつもなら、あたしと初音で作るけど、初音も場合が場合だから、あまり不信も抱かず時々聞きに来るだけで、忙しく動いていた。
居間に入ると御節の下ごしらえも終ったらしい初音が、そわそわと落ち着きなく時計を見てはテーブルに目を戻し、溜息を吐いていた。
「梓お姉ちゃん。耕一兄ちゃん、何時頃帰って来るか言ってなかったの?」
居間に入った途端尋ねられ、あたしも時計を見て首を捻った。
電話の後に鶴来屋を出たなら、とっくに帰って来ていい時間だ。
「うん。ちょと待ってな」
あたしは受話器を取り、鶴来屋に電話した。
フロントに聞くと部屋は借りたままだが、耕一はとっくに鶴来屋を出ていた。
「鶴来屋は出たって。初音、ちょとそこら見といでよ。帰り難くてうろろしてるかも知れないし」
「あっ、そうだよね。あたし見て来る」
嬉そうに答えると、初音は居間を飛び出して行く。
ふっと息を吐くと、あたしは胡座を掻いて座り込んだ。
あの様子だと初音の奴。
御節の用意がなかったら、ずっと表で待ってたかもな。
少しして聞こえて来た足音に、あたしの頬は緩んだ。
初音の軽くなった足音に、もう一つ足音が混ざっていた。
「よう耕一。帰って来たな」
初音と一緒に現れた姿に、あたしは会心の笑みを向けた。
§ § §
冷たい。
冷えた台所の床から冷気が背中を這い上がり、身を細かに震わした。
遠ざかる背中に掛け様とした声は凍り付き。
あたしは、耕一が台所から出て行く背中を見ているだけだった。
聞きたい事は一杯あるのに、耕一の声と瞳が頭の中でぐるぐる回って、胸が抉られる様に痛くて息が詰まった。
あの瞳をもう一度向けられたら、苦しさと哀しみで耐えられそうもなかった。
帰って来た耕一は、居間に初音と一緒に入って来た。
あたしは初音に、耕一が帰って来たのを千鶴姉と楓に知らせに行かせ。
初音の姿が見えなくなるのを待って、耕一があたしを睨み始めた話は、昨日と同じ様なショックをあたしに与えた。
あたしは耕一を見詰め、抱き抱えられ運ばれた台所の隅で、混乱した頭で声も出せず座り込んでいた。
…なんで?
あたしには、判らないよ。
混乱したあたしの中で渦巻いているのは、耕一の声と瞳だけだった。
千鶴姉が、死ねなかっただけ?
叔父さんの後、追えなかっただけだって?
あたし達が居るから、生きてるだけだって?
死ぬより辛い目に合って来たって?
耕一殺しても、死ねないって?
耕一ぃ、あたしには判んないよぉ。
叔父さん死んで、千鶴姉辛そうだったよ。
だけどさ。
あたし、千鶴姉が叔父さん好きだって思ってたの、勘違いだったのかなって思う位、立ち直り早くって。
ほとんど涙も見せなくってさ。
役って、その事なの?
…楽に…したいって?
千鶴姉、今も苦しんでるの?
…千鶴姉に…心配…掛けるなって?
…あたし…なの?
あたし、そんなに千鶴姉苦しめてるの?
…嘘だよ。
あたし、そんなに心配掛けてないっ!
あたしは流しに寄り掛り身体を腕で引き上げると、蛇口に口を付け、冷たい水を喉に流し込んだ。
喉からお腹に流れ込む水の冷たさが、耕一の瞳の暗さを思い出させ、あたしは床にずるずるとへたり込んだ。
でも、耕一は嘘なんか吐いてない。
真剣な顔で、ぼろぼろ涙流してた。
笑って馬鹿ばっかり言ってた耕一が、ぼろぼろ泣きながら、あたしに頼んでた。
あたしまで哀しく苦しくなる底無しの暗闇見たいな瞳で、泣きながら哀願してた。
見てるあたしの方が息が詰まって、胸が苦しくなって、身体の震えて止まらなくて。
涙が勝手に流れ出す程、哀しくて苦しい声と瞳で、哀願してた。
…ごめん。
あたし、あんた好きだけど。
好きな人の頼みも判んないんだよ。
…こういち、ごめんよ。
…あたし…判んないよぉ。
あたしは台所の隅で膝を抱え、震える身体でうずくまり耕一に心の中で謝っていた。
あたしは台所に初音が入って来るまで、膝を抱えうずくまっていた。
心配する初音に気分が悪いからと言って夕飯の準備を頼み、楓の部屋に重い足を運んだ。
乾いた音が二度、小さな響きを伝えた。
「楓ぇ」
声を掛けても固く閉ざされた扉はあたしを拒否し、声さえ伝えていない様に、中からの反応はなかった。
「…楓。お願いだからぁ、開けてよぉ」
扉に額を押し付けたあたしの目に、顔から滴る自分の雫の光が煌めきとなって映っていた。
「…姉…さん?」
訝しそうな小さな声とカチャっと言う鍵の音がして、額から扉が離れて行く。
「楓、助けてよ。あたし馬鹿だからさぁ、耕一の言ってる事、判んないんだよぉ」
あたしは顔も上げられず、楓の足元を見て話していた。
「あたしじゃ止められないんだよ。ごめんよぉ。あたし姉貴なのにさ。もうどうして良いか判んないんだよ。情けない姉でさ。ごめんねぇ」
「…梓姉さん? どうしたの?」
楓は心配そうにあたしの肩に手を添えると、ゆっくりベットに導き腰掛けさせてくれた。
「…ごめんよ、あたし何にも知らなくてさ。自分で何とかしなきゃって思ったんだけど。もう、どうして良いか判んなくてさ。ごめんよ」
「姉さん、落ち着いて。何の事だか、判らない」
隣に腰を下ろした楓が差し出してくれたハンカチで涙を拭きながら、あたしは昨夜、耕一から聞いた話を楓に話し始めた。
叔父さんの自殺の話から始め、楓は千鶴姉が間違って耕一を殺しかけた話の時に、静かに哀しそうに目を臥せた他は、何も言わず話を聞いていた。
「ごめんね、楓。千鶴姉やあんたが苦しんでるの、あたし全然気付かなくてさ。こんな時でも、役に立たないんだ。ごめんよ」
「…姉さん」
話し終っても楓の顔をまともに見られなくて、項垂れたまま謝ったあたしの肩を、楓は優しく抱き締めてくれた。
「そんな事ない。姉さんや初音が居てくれたから、あたしも千鶴姉さんも助けられて来たんです。姉さんが謝る事は無いの」
「ごめんね、楓。でも、もうどうしようも無いんだよ。耕一、大学まで辞めて見付からない様にする気なんだよ。初音との約束持ち出しても、だめなんだよ」
楓はうっすら涙の滲んだ目で、小さく、そうと呟いた。
「千鶴姉さんには?」
「言えないよ」
「そうね。逆に恨んで居なくなると思うかも知れない」
あたしは楓の顔を見上げた。
泣きはらした目で、唇を押えた楓の言葉はあたしの考えにはなかった。
あたしが耕一が出て行くと言えば、本当の事を話さないと、千鶴姉は耕一が恨んで出て行くと思い込む?
他のどんな理由も、あたし達への言い訳にしか千鶴姉には思えないのか?
耕一が話せるのかと言った意味が、今になって判った。
あたしは自分の馬鹿さ加減に、小さく息を吐いた。
「姉さん、心配しないで。私から千鶴姉さんに話しますから」
「ごめんね、楓。あたし何にも出来なくてさ」
「…梓姉さん」
あたしは意を決した様に固く目を瞑った楓に頭を下げ、心配そうな楓の声を背に部屋を後にした。
あたしは何も考えてない。
耕一に言われた通りだ。
何も判ってない。
今のままじゃ千鶴姉にも、妹達にも何の力にもなれない。
考えてみよう。
耕一の言った事。
一から思い出して、考え直してみよう。
あたしは、今のあたしに出来る事が在る場所に、とぼとぼと足を向けた。
夕飯の支度をする為に。
§ § §
夕食の後片付けを手伝いに立ち上がった初音の姿が台所に消え、私は腰を上げた。
居間を出る背中に楓と耕一さんの視線を感じながら、私は振り返らず逃げる様に自室に向かった。
居間を出た廊下で壁に寄り掛り、私は額を押さえた。
疲れた。
何も考えたくなくて、使いすぎた睡眠薬の所為か、食事を取っていない所為なのか、酷く身体が怠い。
致死量まで睡眠薬を使わないのは、義務感? 責任感?
理性かしら?
それとも、生き汚いだけかも知れないわね。
重い息を吐き、身体を起こし廊下をゆっくり歩き出す。
耕一さんが何を考えているのか、私には判らない。
気が付けば二日も経っていたと言うのに、何故帰って来たの?
初音が頼んだの?
あの女が、帰ったから?
そんな事を考えながら、耕一さんが帰って来ただけで、だらしない格好を見られたくなくて、シャワーを使い御化粧を直してる馬鹿な女。
どうでもいいと思いながら、体裁を気にするのは習慣かしら?
それとも、ただの見栄?
私も、ただの女だからかしらね。
吐いた溜め息が、身体の重さをいやが上にも感じさせる。
梓も初音も、様子がおかしかった。
ごめんなさい、私が原因なのは判っているのよ。
でも、もう少し。
あと少しだけ。
じきにいつもの私に戻るから、腑甲斐ない姉さんを許して。
「千鶴姉さん」
自室に辿り着いた所で背中から声を掛けられ、私はまた小さく嘆息した。
「ごめんなさい、楓。用事なら後にして」
「私、家を出ます」
振り返らず扉を開け、部屋に入ろうとした私の足は止まった。
「楓、進路の話なら……」
「今夜、家を出ます」
言葉途中で遮った楓の声は、私にノブを握ったまま振り向かせた。
「…今夜? …楓、あなた何を言い出すの?」
「初音達には、聞かれたくないの」
楓は私に答えず、耕一さんと同じ深い哀しみをたたえた瞳を真っ直ぐ私に向け、引き結んだ唇を開いた。
「判ったわ。お入りなさい」
私は広く扉を開け、部屋に楓を招き入れた。
自分の事で放っては置けない。
楓の瞳と表情は、一緒に暮らして来た私でもあまり見た事がない、今までになく真剣な硬い決意を感じさせた。
幾度となく叔父様の鬼について話し合った楓でも、ここまでの決意は感じなかった。
私が現実逃避している間に、楓にも何か在ったとしか考えられない。
部屋に入った楓は、腰掛けるよう促した私に首を横に振り、扉を背に私と向かい合った。
「私、昔から夢を見ます」
「それより。どうして家を出るなんて考えたの?」
「大きな綺麗な月の夜に、男の人と出会う夢」
「楓、答えなさい」
「その人と愛し合い。私が、死ぬ夢」
楓は睨み付ける私の声を無視し、私に瞳を向けたまま話し続けた。
「彼の腕の中で命の散る間際、彼は私に約束するの。次の生、だめならその次で、必ず見付ける。再び腕に抱き護ってくれる。そして、私は必ず待っていますって」
「楓、御願いよ。夢の話は後にして」
「次郎衛門と言う名の侍の夢。姉さんも知っていますね?」
次郎衛門?
この隆山に伝わる、鬼を退治した半人半鬼の英雄。
私達柏木の血は、彼が退治出来なかった鬼か、彼自身から受け継いだ筈だった。
当然知っていた。
「知っているわ。でも、今は夢の話しより……」
突然の問いに返した私は、話を戻そうと楓に話しかけ、声を途絶えさせた。
楓の視線には、私を黙らせるだけの威圧感が在った。
楓は、私に何か重大な話を伝え様としている。
「私の中には、次郎衛門を鬼にした娘の記憶が在ります。そして次郎衛門の記憶を持った人も。今、生きています」
「記憶? ただの夢じゃないの?」
「記憶です。私自身が好きなのか、彼女が好きなのか。私にも判らないほど鮮明な記憶」
転生という文字が、私の脳裏に蘇った。
仏教で言う輪廻転生、生まれ変わり。
信じられない様な話だが、楓が嘘や冗談でこんな話をしないのは、私が一番良く知っている。
こくりと頷いた楓の言葉を、信じない訳にはいかなかった。
「昔恋人だった次郎衛門の記憶を持った人と、一緒に行きたいと言うのね?」
他に楓がこんな話を聞かせる理由は、無い筈だ。
「ええ。あの人が許してくれるなら」
「楓。あなたは、まだ高校生なのよ。お付き合いをするなら反対はしません。でも家を出てどうするつもり? 一緒に暮らそうとでも言われたの?」
耕一さんに言われた時は、まさかと思っていたけれど。
叔父様が亡くなってから楓の様子がおかしかったのは、その人の所為ね。
過去の記憶かは知らなけれど、まだ高校生の楓を家から連れ出そうなんて、なんて男。
「いいえ。連れて行って貰える様、お願いするつもりです」
頼んで連れて行って貰う?
駆け落ちでもしようって言うの?
別人の様な言動に、私は楓を見詰め唖然とした。
楓が、こんな積極的な行動を起こす娘だとは、考えた事もなかった。
「楓。自分で何を言っているのか、判っているの?」
「判っています」
何とか平静を保ち尋ねた私に小さく頷いた楓には、僅かな躊躇いもなかった。
「判っていないわ。姉さんにも紹介して、ちゃんとお付き合いをすればいいでしょ。それとも、彼の御家族が反対しているの? 大体、その人はどういう人で。歳は幾つなの?」
迂濶だったわ。
記憶が在るだけで、楓と同じ歳とは限らないのに。
年下や妻帯者、三十や四十も年上って事だって在りえる。
これだから、梓に抜けてるって言われるんだわ。
「二十歳の学生です。学校も居る所も、全て捨てて行くの。あの人が私を望んでいなくても、私は、せめてそばに居たい」
望んでいない?
「楓、判る様に話してくれないかしら。じゃあ、その人と、お付き合いをしているんじゃないのね?」
いつもの事だけれど、楓の話しは抽象的で判り辛い。
疲れも手伝って、私は額を押さえ苛々と声を荒立てた。
「あの人には、大切な女が居るから。その女の為に、人生さえ捨て様としているから」
妻帯者なの?
「大切な女が居るって? 楓、あなた……」
目を戻した楓の瞳に声が詰まった。
楓は表情も変えず瞳から涙を溢れさせていた。
「あの人の苦しみも、涙の意味も、想いの深ささえ。姉さんには、判らない?」
私が判っていない?
二十歳の学生で、私の知って…いる人?
…まさ…か、そんな……
「あの人は、今夜出て行きます。もう二度と戻っては来ない」
楓は後ろ手に扉を開けると、ジッと私を見詰め踵を返した。
「姉さんは、知らなくてはいけない」
「待って、楓。耕一さんなの?」
「今夜十二時、客間の外まで来て下さい」
伸ばした手の先で、楓の姿を隠した扉が小さな音を立て、私に応えた。
楓が出て行ってから、私はベッドに腰掛け項垂れているだけだった。
過去の記憶?
次郎衛門は恋人の復讐の為、鬼を滅ぼした。
それ程激しく愛しながら、楓を望んでいない?
一緒に出て行くならまだ話は判るけれども。
来世での再会を誓い、出会いながら楓を置いて何処かに行く?
耕一さんが、人生を捨て様としていると言うの?
ここから居なくだけじゃないの?
それが、どうして私の為になるの?
私は楓の話があまりにも断片的過ぎて、額を押さえ顳かみを揉んだ。
疲労からか、頭がどうもはっきりしない。
耕一さんが苦しんでいる?
涙の意味って?
想いの深さって?
楓の言う通り、私は何も判っていない。
ただ耕一さんが楓と同じ瞳で見ている物が、楓には見えているのだろう事しか判らなかった。
時計に視線を走らせ、私は部屋を後にした。
耕一さんも楓も、出て行く必要は無い。
私が居なくなれば、全て上手く行く。
耕一さんの事だもの、私と楓の板挟みで、どちらも傷付けたくなくて、居なくなるつもりなのでしょう。
こちらに来なかったのも、あの厳しい表情も寂しく哀しい瞳も。
私と楓のどちらも傷付けたくなくて、悩んでいたのなら説明が付くもの。
優しい人だから、言い出せなかったんでしょうね。
耕一さんが私を気遣う必要なんて、どこにもない。
全部打ち明け、耕一さんと楓に後を任そう。
耕一さんと楓なら、柏木も鶴来屋も、私より上手くやって行ってくれる。
客間の前から見上げた月は、冷たい白い光を透明な大気に放ち、暗く沈んだ客間の障子を照らしていた。
寒々と孤独に中天に浮かぶ月は、私の心の様に冷え冷えとした姿を浮べていた。
身体が冷え心が冷めていくのを、どこか達観した頭で私は自覚した。
悲しみも辛さも、何も感じなかった。
冷たく冷え行く身体と心だけを感じた。
全ては自分で蒔いた種だった。
お世話になった叔父様の遺志を裏切り。
耕一さんを目覚めさせ。
あまつさえ、思い込みで命を奪おうとした。
私が幸せになりたい何て、考える方が間違っていた。
独りで生きて行くのが、私の罪の償いになるのかしら。
遠くに鐘の音が長く余韻を響かせ、闇に沈んだ客間の中から微かな声が聞こえ始めた。
相変わらず几帳面な子だわ。
丁度十二時に話し出すなんてね。
楓の几帳面さに微かに頬を動かし、私は長く続いた自らの役割が終わる時を待った。
§ § §
言い争う声が頭に響き、ぼんやりとした思考が徐々に形を取り始めた。
ここは?
見慣れた自室とは違う板張りの天井が、開いた瞳に映る。
首を動かし部屋を中を見回してみる。
全身がひどく怠く、うまく力が入らない。
動かす首さえ思う様に動かせない。
障子越しに差し込む光が、柔らかく室内を照らし出していた。
私は、和室に引かれた布団に寝かされていた。
まだ夢を見ているのかも知れない。
ふと、そう思った。
いつか。そう、耕一さんが帰る日の朝、泣き疲れ寝込んだ私を、悪戯な指が頬を突いて起こした時の夢。
でも、覗き込む微笑みも悪戯な指もここにはない。
ぼんやり考えている間も、言い争う声は続いている。
あれは、梓と耕一さんの声?
耕一さんは、帰って来ていたの?
どうして私、客間に………
ふっと日差しの眩しさに細めた目に、白い月が浮かび上がった。
…そう…だった。
楓に呼ばれて、十二時に廊下から月を見上げていた。
そして客間から、楓の声が聞こえて来たんだった。
楓の几帳面さに微かに頬を緩め聞いた、廊下に洩れ聞こえて来た話は楓が一緒に連れて行って欲しいという内容ではなかった。
楓は話の初めに自分が居なくなる代わりに、耕一さんを引き留め様としていた。
でも、耕一さんの答はもっと意外だった。
普段聞き慣れた耕一さんの声とは思えない話し方で、客間から聞こえて来たのは、過去の復讐と記憶の話だった。
耕一さんは自分が居ては、私や初音、梓の記憶が蘇り、私と初音には辛過ぎると出て行く理由を説明し、過去の自分達と今の自分達とは別人であり、楓に過去の約束を果たせない事を謝罪していた。
私には良く理解出来ない話の中で、耕一さんが過去の約束より、私が大事だと。
私の幸せの為には居られないと言った言葉が、鮮明に頭に焼きついた。
理由は、私の憶えていない記憶に在るらしい。
でも、私が救い様もなく愚かなのだけは確かだった。
耕一さんは、私との約束を果たそうとしてくれていた。
幸せにすると言った言葉を。
それが自分が居なくなる事で叶うと信じているのは、確かだった。
そして続いた楓の言葉で、私は楓の真意を理解した。
私が耕一さんを必要としているから、楓は私に話を聞かせようとしていた。
あの子の瞳にも、涙にも嘘はなかった。
楓も耕一さんを好きなのに、私に耕一さんの口から真意を聞かせる為だけに、私を呼び出していた。
私はこんなに愛されながら、自分の事しか考えられ無かったのに。
耕一さんも楓も、私の事を考えてくれている。
私が冷え切ったと思った心は、熱く満たされ、頬を流れる涙が止まらなかった。
その時不意に、聞こえて来る耕一さんの声と話し方が変わった。
楓の不思議そうな声に応える耕一さんの明るい声が、私の心を震わし新たに雫を滴らせた。
耕一さんは、次郎衛門は復讐の際の罪悪感に苛まれ続け。同じ様に耕一さんを殺そうとした罪悪感を持ち続けたままでは、私が幸せにはなれないと話していた。
そして話し方を変えた理由も、楓に自分と次郎衛門が別人だと印象付ける為だと判った。
あの人は、自分の事を考えてはいなかった。
私や楓、初音や梓の幸せしか考えていない。
私達が持っていると言う記憶。
それが、どんな記憶かは知らない。
でも、あの人が考えているのは、私達姉妹の今の幸せより、将来に渡り続く幸せなのは確かだった。
あの人が選んで生きると言った意味は、私が考えていた物とはまったく違っていた。
叔父様が耕一さんの幸せを考え、別居という手段を選んだ様に、耕一さんは私達の幸せを考え、孤独に生きる道を選ぼうとしている。
楓の言葉道理、私達姉妹の為に人生を捨て様としている。
自分の幸せを選ぶのではなく、私達の幸せを選んでくれていた。
どうしても独りで出て行くのかと楓に聞かれた耕一さんは、最後まで楓に私の力になってくれと頼んでいた。
それがどんなに楓に取って辛い言葉か、判らない耕一さんじゃないのに、あえて口にしてした。
口にした耕一さん自身、辛い筈だった。
私は何を恐れていたんだろう。
叔父様の仰る通りでした。
耕一さんは私など比べ物にならない、大きな温かな心の方です。
不意に障子が開いた時、俯き顔を隠す事しか、私には出来なかった。
出て来た楓は薬箱を取って来ると言い置き、廊下を歩み去った。
私は立ち聞きしていた恥ずかしさと、いまだ滴る涙に顔を上げられず立ちすくんでいた。
私は、どう謝ったらいいのか判らなかった。
私が罪悪感を持っていては幸せになれないと思う程、耕一さんは辛い過去の記憶と戦っていてさえ、私達を思いやる温かな心で、将来に続く幸せを考えてくれていたと言うのに、私は自分の事しか考えていなかった。
今の幸せにしがみ付き、私は自分の罪さえ打ち明けられなかった。
耕一さんの優しさに甘え縋りながら、私は耕一さんを疑い試し続けていた。
私は自分の愚かさと卑小さが恥ずかしく申し訳なくて、顔を上げ謝る事すら出来なかった。
やがて楓の足音が再び聞こえ、私の足元に薬箱を置こうとして瞬時躊躇い、そっと横に薬箱を置き、私の手にハンカチを握らせ去って行った。
その時になって、私はふと心配になった。
楓が薬箱を持って来たって事は、耕一さんは怪我をしているの?
どうして怪我をしているのは判らなかったけれど、立ったままでいる訳にはいかなくなった。
耕一さんも気不味いのか、立ち聞きしていたのを怒っているのか、楓が障子を開けてから動こうという気配はなかった。
私は腰を落とし薬箱を取り上げ、楓の握らせてくれたハンカチで頬の涙を拭った。
薬箱を取り上げる時、楓が躊躇った理由が判った。
私の足元は拭う事を忘れていた涙で、濡れそぼっていた。
私は顔を隠したまま部屋に入り、障子を閉めてから電灯を点けた。
耕一さんの隣に腰を下ろしながらも、私は顔を上げられなかった。
俯いたまま髪の間から覗くと、耕一さんの正座した太股からは、ズボンに血が染みを広げていた。
でも顔を上げると、そのまま耕一さんにしがみ付き泣き出しそうで、私は薬箱を開け小さく息を吐き心を落ち着かせ、俯いた目の端に移るズボンの端を引っ張った。
耕一さんはそれで手当てをしたい意思を汲み取ってくれ、ズボンを脱ぐと足を投げ出し両手で身体を支え顔を天上に向けた。
太股の傷はそれ程深くはなかった。
でも太股に両指の痕がくっきり残る程握り締められ、爪が食い込み血を染み出させていた。
余程の力で握り締めていた様だった。
消毒して包帯を巻く内、私の瞳はまた潤み始め、それでなくても手先が不器用なのに、ますます包帯は不格好に巻かれていった。
包帯一つ満足に巻けない。
私の瞳から我慢していた涙が包帯をどんどん濡らし、訝しげに耕一さんに呼ばれた私は、ごめんなさいとしか言えず、両手で顔を覆い泣き出してしまった。
泣き出した私の頭に、耕一さんは子供をあやす様に手を置き、肩を抱き寄せると何も言わず背中を摩ってくれた。
背を摩る手の温かさと、肩を抱く腕の力強さに、私の中に温かさが徐々広がり涙を途切れさせた。
泣き止んだ私は、座り直した耕一さんに尋ねられ、楓との話を最初から聞いていた事。
楓に言われて来た事を、ありのまま話した。
耕一さんは、楓を耕一さんが連れて行かないか、私が保護者として見に来たと取った様で、急にプイと横を向くと、楓は連れて行かないから探すなと言い出した。
慌てて否定した物の、半分以上それは事実だった。
どう言って良いか判らず、私はまた涙が溢れ出した。
耕一さんは慌てた様で、私を抱き締めると盛んに出て行かないから、泣き止む様に頼み出した。
でも、頼まれても溢れ出る涙は止まらず、私が泣き止んだのは暫く経ってからだった。
それから私は、耕一さんに私の記憶の話を聞かせてくれる様に迫った。
私は、どうしても聞かなくてはならなかった。
その記憶がどんな物であれ、耕一さんが人生を掛けるほどの意味があるなら、私は知らなければ成らなかった。
……でも…聞かなければ良かった。
あれ程必死に隠そうとしたしてくれたのに、私は聞いてしまった。
実の妹を殺した。
私が、楓を殺した。
廊下を踏み抜く様な足音が遠くなって行く。
障子に映る影が濃くなり、スッと障子が開いた。
「…こう…いち…さん…?」
気遣わしそうな耕一さんの姿に向い、私は詰まる喉で呼び、思う様にならない身体を起こそうとした。
「起きたの? ゆっくり寝てればいいのに」
耕一さんは傍らに膝を折り、力の入らない身体を支えてくれた。
「食事を運んでくれる様に頼んだから。今日は、食事抜きはだめだよ」
「……欲しく…ないんです」
本当に食欲がない。
もう食べる気も起こらない。
でも私が言うと、耕一さんは軽く睨む。
「だめ。骨と皮じゃ、抱き心地が悪い」
そうですね、本当に骨と皮になってるかも知れません。
抱き心地も悪いかも。
「…どうして…耕一さん、………優しいんです?」
私には判らないんです。
どうして恋人を殺した私に、優しく出来るんですか?
どうして、そんなに優しく微笑んでくれるんですか?
「千鶴さんを好きだからじゃ、答えにならない」
でも、楓の前世だって好きだったんでしょ?
「…最愛の人……殺して………」
そう、鬼を滅ぼし尽くすほど憎んでいたのに。
手を下した私が憎くない筈はないでしょ?
「千鶴さんじゃ無いだろ? もう五百年も昔の話だ」
「…耕一さん…楓も、覚えてるんでしょ。私が…殺したんですね。楓…殺されて、…どうして……恨めば…いいのに」
楓が話してくれた。
自分か彼女か判らないほど、鮮明な記憶だって。
殺された記憶が在るのに、楓もどうして私を許せるの?
耕一さん、どうしてそんな悲しい瞳で私を見るんですか?
「エディフェルは恨んで無かった。最後に、次郎衛門にリズエルを恨むなと言い残した。一族の掟に縛られ苦しんだのは、彼女だからと」
掟?
楓を殺したのも、義務。
耕一さんに手を掛けたのと同じ、義務?
「…掟……? …うっ…ふっ…ふっ…昔から…同じ…繰り返して。…何度生まれ変わっても…同じ。…それなら…もっと早く…死ねば良かった。…生まれて…こなければ…いい……」
私の手は血にまみれてる。
楓の血。
耕一さんの血。
生まれる前から、私は血にまみれている。
これは、罰?
私が苦しんで来たのも辛かったのも、妹を殺した罰なの?
これから、どれだけの血にまみれればいいの?
いつかは救われるの?
「千鶴さん、約束しただろ? 誰も恨んだりして無い」
耕一さん、見えないんですか?
私は血だらけなんです。
洗っても落ちやしないんです。
心の中では、何人だって殺してるんです。
あの弁護士。
私達を苦しめた連中。
御爺様や御父様の信頼を裏切った、恩知らずな奴等。
殺していないのは、叔父様が来て下さったから。
なのに、私は叔父様さえ裏切って。
「…いや。…何度生まれ…ても…辛いだけ……もう…終りに…させて」
そう、もう終わりにしよう。
もう嫌。
生まれてこなければ苦しまなくて良い。
せめて、最後は、
「耕一さん…殺して」
せめて殺して貰えれば。
耕一さんに殺されるなら、私の罪も少しは償えるかも知れない。
「どうして殺すか殺されるかしか考えない!」
耕一さん、どうして怖い顔で揺するんです?
ひと思いに楽にして下さい。
「…もう…らくに…して…私…殺したいでしょ? …父や母…叔父様の所…行かせて」
御願いですから楽にさせて、叔父様にお会いしてお詫びしないと。
…でも、だめかしら?
私はきっと御父様や御母様、叔父様とは行く所が違うから。
「千鶴さん殺して、俺が生きてられる訳無いだろ!」
そんな事、在りません。
楓がいるじゃないですか?
あの子も耕一さんが好きで。
私とより何十倍も耕一さんだって、幸せになれるに決まってる。
「……楓が。…楓と幸せになって下さい。…妹達……」
強い力に引き寄せられ、私は耕一さんの胸に最後の願いを塞がれた。
「…こう…いち…さん?」
どうして?
抱き締めてなんて言ってない。
私を抱いたら、血で汚れるのに。
「憎め」
「…にく……?」
誰を?
どうして、憎まれるのは私。
「俺を、殺せ」
「えっ」
言葉が頭の中で形を取る前に、私の身体は小さく跳ねた。
殺されるのは私。
もう嫌。
誰も殺したくない。
誰が死ぬのも見たくない。
「次郎衛門が最初の鬼だ。俺が鬼の血を残した。俺が居なければ、伯父さん、叔母さん、親父も死ななかった。千鶴さんが苦しむ事だって無かった。俺を憎み。俺を恨み。俺を殺せ」
私が離そうともがいた身体も、振ろうとした頭も強い力で胸の中に押さえ込まれ、身動きすら出来なかった。
苦しげな声が、動かせない耳元に囁き続ける。
「俺が伯父さんと親父を苦しめた。いや、柏木に生まれた者全てを苦しめた。叔母さんや千鶴さんが苦しんだのも。辛い思いをしたのも俺の所為だ。どんなに恨んでも足りないだろ? どうして千鶴さんは、俺を恨まない? 今度は逃げたりしない。このまま殺せばいい」
…耕一さんは、…何を…言っているの?
耕一さんの所為で、御父様、御母様も叔父様も苦しんで死んだ?
…私の苦しみも…耕一さんの所為?
「死にたいなら、俺を殺してからだ」
私は身体から力が抜け胸がつまり、嗚咽混じりに雫を滴らせた。
自分を責めて。
誰より傷付いていたのは、耕一さんだった。
柏木に生まれた者の不幸を、苦しみを全て自分の責任だと。
この人は、自分を責め苛んでいる。
「すぐとは言わない、俺も過去だと割り切るのに三ヶ月掛かった。千鶴さんにも出来る筈だ」
私は目を上げ、悲しい瞳で優しく微笑み髪を撫でる耕一さんを見上げた。
「…さん………?」
「帰る前に記憶は戻った。制御してからもうなされていたのは、記憶の所為だ」
鬼を制御してからずっと?
「でも昔の事だ。俺は柏木耕一で次郎衛門じゃない。楓ちゃんも、エディフェルとは別人だ。もうみんな、遠い昔に死んだんだ」
あの寒い部屋で。
ずっと独りで、苦しんで?
「墓では、死んでた方がマシだと思った。でも俺は、生きてる。生きているから出来る事は沢山在る。千鶴さんが苦しむ必要は無い。もう自分の幸せだけ考えればいい」
楓の言った、涙の意味。
食事も取れないほど苦しんでいたのは?
あの時、震えながら謝っていたのは。
あれからずっと自分を責めて、誰もいない部屋で独りで。
「……恨んで……ないん…ですか?」
私を恨めば、どんなに楽だろう。
恋人を殺した報いだと。
当然の罰だと思えば、少しでも救われるのに。
「千鶴さんは、俺を恨まないの?」
微笑んだ耕一さんが、心配しているのは私だった。
私は胸と喉がつまり声にならず、首だけを横に揺らした。
「昨夜の約束、覚えてる?」
もう二度と忘れない。
誰も私を恨んでいない。
耕一さんは、私を愛してくれている。
耕一さんがそう言ってくれるなら、誰が否定しても私は信じられる。
「…は…い……はい」
詰まる喉から振り絞った声は、はいとしか言えず。
私は腕に入るだけの力を込め、耕一さんを抱き締めていた。